2014/04/24 - 2014/04/24
492位(同エリア1010件中)
ムッシュさん
現在のJR氏家駅周辺が、氏家の宿場町です。
【氏家宿】
奥州街道(奥州道中)の19番目の宿駅(宿場町)。現さくら市氏家。
氏家宿は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国塩谷郡にあった宿場町で、白沢宿の次の宿駅。
天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、氏家宿は家数235軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口879人であった。 氏家宿本陣は平石家、脇本陣は伝馬屋が担っていた。
江戸時代、氏家宿南傍の鬼怒川東岸にあった阿久津河岸(あくつかし)は、主に東北地方で獲れた米ほか特産物を鬼怒川の水運を利用して江戸に送るための集積地となり、このため氏家宿の旅籠もたいへんな活況を呈したと云われている。氏家には会津西道、会津北道、原方道、水戸道が開通し、交通の要衝地となった。江戸の常盤津の歌人等も多く氏家に移住したといい、江戸末期には卯の花連(うのはなれん)と呼ばれる俳句会が生まれた。その歌集には、水戸道を通って10里ほどの太平洋沿岸村落から氏家宿に四季折々に海魚が大量に運び込まれ、鶏卵や川魚、塩辛等しか食せない山路にしては珍しく海魚を食すことが出来たことが書かれており、このような宿場は氏家宿以北、仙台や酒田に至るまで無かったと云われている。
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【鬼怒川】
鬼怒川は春から秋までは舟渡しで、冬の渇水期は「仮橋」を架けて渡ったようだ。往時の渡し場は今の阿久津大橋(約460m)よりやや下流。江戸防備上の幕府の方針で橋はなかった。しばしば川留めになり、南からは白沢宿で、北からは氏家宿に留まった。江戸時代の鬼怒川は川幅約30間で、増水時は約8町(800m)に及んだと記録にある。また、鬼怒川舟運の一大拠点であった阿久津河岸は、中世の氏家を治めていた勝山城が廃城になった慶長2年(1597)から間もなくのころに開設されたという。奥州街道だけでなく原方街道や会津街道もこの河岸にアクセスし、下野北部、会津地方を含む奥州と江戸を結ぶ水陸の交通の要衝として繁栄。巨大な富は氏家の地に華やかな江戸文化をもたらした。 -
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【船玉神社】が鎮座しています、
阿久津河岸の守護神で船魂を祀っています、船頭の信仰が篤く、豪奢な本殿に往時の繁栄がしのばれます、弘化二年(1845年)建立の常夜燈には「左江戸道 右奥州道 此方河岸道」と刻まれています。
阿久津河岸は勝山城の廃城により禄を失った宇都宮氏の旧臣若目田氏がそれまでの河岸を発展させ、仙台、米沢、二本松、大田原諸藩や天領の廻米を江戸に送る舟運の一大拠点となりました。
河岸は小江戸と呼ばれ、その繁盛振りは「入船千艘、出船千艘」といわれました。
鬼怒川水運の船頭たちの守り神。船の形を模した境内で、舳(へさき)の位置に神殿が建てられた。
*家康が江戸入城、幕府が敷かれると、東奥の糧穀や物産が陸路で阿久津まで送り、この氏家から川船で江戸に送られるようになった。慶長以来明治の中期まで水陸交通用地として300年間繁栄を続けた。
「船玉神社」は船の御霊を祀った社でその境内は舟形をしていて舳先の場所に社殿がある。社殿内にある本殿は極彩色の社で当時の阿久津河岸の繁盛ぶりがうかがえる。
*説明書には阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、最上流ということから非常に栄えた。ここの船頭達が水上安全の守護神として河岸場に祭ったのが、船のみたま、船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られており、舳の位置に神殿が建てられていると書かれていた。
【阿久津河岸・船玉神社】
徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国から建築用材や食料の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着場を「河岸」という。
阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点(とがてん)にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。
鬼怒川上流独特の川船を「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが、水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、舳(へさき)の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている。 -
この灯篭も道標である。左江戸道なり。
台座に「右 奥州道」・「左 江戸道」、嘉永2年(1849)に定飛脚たちが献納したものという。 -
【浮島地蔵尊】
暴れ川であった鬼怒川の氾濫水害から身を守るための地蔵さん。
安置されている浮島地蔵尊は元文四年(1739年)の造立です、石像でありながらどのような洪水にも流されずに浮いて踏み止まり、人々を救済する霊力があります。 -
浮島地蔵尊へのお参り
どんな洪水にも流されず、浮いてその地にとどまり救済する霊力があるという。子授け、安産、子育てと女人の信仰も篤い地蔵尊 -
【高尾神社】
さくら市上阿久津歩道橋を越すと右手の段上に高尾神社が鎮座しています、上阿久津の産土神です。
水神玉井護神を祀り、河岸衆の崇敬が篤かったといいます、延宝六年(1678年)建立の総欅造りの社殿は明治三十九年(1906年)に残念ながら焼失してしまいました。
鬼怒川と関係の深い水神(龍神)の高尾神は、高龗(たかおかみ)のこと
人間の能力では自由にならないのが天候です。それを支配する神が高尾神で、天空や地の底、闇の中にいる神々たちの集団です。雷神・龍神・水神などとなって人々に信仰されてきました。上阿久津の高尾神は鬼怒川と関係が深い水神(龍神)信仰が原点と考えられます。
10月19日の大祭には古法による強く発酵させた甘酒と生の川魚を一緒に供え、それをいただく古式の神事が伝承されています。もとは延宝6年(1678)に建設された総欅造り、彫刻や色彩で仕上げら れた社殿でしたが、明治39年(1906)に焼失し、その後再建しましたが昔の面影はありません。
それでも、古来よりの農耕や河岸の水とかかわりがあった上阿久津の守護神だったことがしのばれます。 -
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高尾神社の狛犬。りっぱな坐像
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高尾神社の狛犬
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高尾神社説明
持統天皇時代創建の古刹。天空・地底・闇の中にいる神々たちで、雷神、龍神、水神として信仰され、鬼怒川と深い関係の水神信仰が基になっている。 -
【将軍地蔵】
源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇のため進めません。宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山に修業にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられ気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き討ちをしたので満願寺は焼けてしましました。
江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石燈籠などが残されています。 -
【勝山城址公園】
勝山城跡だけ見ておいた。空堀があり橋を渡って進むと本丸跡があった。勝山城は建久年間(1190?)に氏家氏により築城され、後に宇都宮氏の一族の芳賀氏が城主になり、慶長2年(1597)に宇都宮氏と命運をともにして廃城 -
【勝山城の空掘り】
空堀を跨ぐ大手口橋を渡って土塁で囲まれた本丸跡広場へ入って行く。更に奥の搦手跡から二ノ丸南廓跡へ進むと鬼怒川の眺めが素晴らしい高台に出て行く。
勝山城跡 氏家城とも言われる。「建久年中(1190-1199)氏家五郎兵尉公頼始めて築くところなり。其裔に内膳広行という者あり。豊太閤に仕えて伊勢桑名の城主となり、関ヶ原の役西軍にて敗れ、西国に隠れ剃髪して道喜と号す。元和5年(1615)大坂城に入り天王寺口に奮戦したが5月8日城中に帰り屠腹して死せり」とある。この氏家氏は6代で名が消え、以後宇都宮氏一族の芳賀氏が城主になり、慶長2年(1597)宇都宮氏と命運を共にし廃城となった。今は、本丸、二の丸、三の丸の土塁や空堀をとどめている。 -
【勝山城跡】
南北420m、東西370m鬼怒川の左岸宝積寺段丘最北端に位置する連郭式の丘城であった。宇都宮氏の北方防衛の拠点であった。那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。しかし、秀吉により改易され廃城となった。
勝山城は、鬼怒川を見下ろす崖端城(がいたんじょう)(断崖を利用して築かれた城)として鎌倉時代末頃に氏家氏によって築かれ、その後慶長2年(1597)の廃城までおよそ300年の歴史を持っています。現在の塩谷町から芳賀町まで広がる氏家郡24郷支配の拠点ですが、また宇都宮氏の配下として北辺を守る役割も果たす重要な場所でした。南北朝期から戦国期を通じては、芳賀駿河守が城主となっています。その間に改修が行われ、城の各所に堅固な設備が見られます。
現在確認されている城域は、南北450m、東西は北辺で325mあり、段丘先端部の本丸をL字型に二の丸、三の丸が囲む連廓式の縄張り(城の設計をいう)が想定されます。
本丸は、内径で東西80m、南北70mの方形で一周する土塁は本丸内の高さ3~5m、堀底からは7~8mあります。本丸東側の一段高い土塁部分が大手(正面入口)で、堀内に四脚の橋が架けられていました。大手北側の櫓台が張り出して横矢掛け(侵入する敵に横から矢を射る施設)の構造を備えています。南西部の搦手(裏側入口、通用口)は土塁の折を利用した横矢掛けの設備と橋があります。
さくら市・さくら市教育委員会 -
【勝山城跡公園説明図】
勝山城は、鬼怒川を見下ろす崖端城(がいたんじょう)(断崖を利用して築かれた城)として鎌倉時代末頃に氏家氏によって築かれ、その後慶長2年(1597)の廃城までおよそ300年の歴史を持っています。現在の塩谷町から芳賀町まで広がる氏家郡24郷支配の拠点ですが、また宇都宮氏の配下として北辺を守る役割も果たす重要な場所でした。南北朝期から戦国期を通じては、芳賀駿河守が城主となっています。その間に改修が行われ、城の各所に堅固な設備が見られます。
現在確認されている城域は、南北450m、東西は北辺で325mあり、段丘先端部の本丸をL字型に二の丸、三の丸が囲む連廓式の縄張り(城の設計をいう)が想定されます。
本丸は、内径で東西80m、南北70mの方形で一周する土塁は本丸内の高さ3~5m、堀底からは7~8mあります。本丸東側の一段高い土塁部分が大手(正面入口)で、堀内に四脚の橋が架けられていました。大手北側の櫓台が張り出して横矢掛け(侵入する敵に横から矢を射る施設)の構造を備えています。南西部の搦手(裏側入口、通用口)は土塁の折を利用した横矢掛けの設備と橋があります。
(さくら市・さくら市教育委員会) -
【お伊勢の森】
かっては広大な森だったらしい。伊勢神宮を勧請したもので「天照皇大神宮」の大きな石碑が建っている。
左手に伊勢神宮を勧請したというお伊勢の森を見ながら進み、JR東北本線を渡って181号線に合流したところを左折すると氏家宿に入る。 -
【お伊勢の森説明】
お伊勢の森神明宮は、遠く村の発生とともに祀られたのであろう。旧奥州街道を少し離れた所に四角四面に石を積んだ石塚があり、その中に伊勢神宮の内宮・外宮その他の末社を勧請したものがまつられていた。あたり一面が森をなしていたことから、俗に「お伊勢の森」といった。ここに詣でることにより、同じご利益があり、いくつかの霊験談が伝説化して残っている。
すぐ前の道が昔からあった古道で、東は古宿(現古町)に、東(南?)は堂原地蔵尊~阿久津へと通じている。徳川幕府が開かれるとともに街道が整備され、氏家村にも宿場や伝馬の制が敷かれるようになり、近世の新しい宿・氏家宿ができた。この街道を奥州道中と名付けたが、一般には、奥州街道と呼んでおり、氏家以北37大名の参勤や公用のため、本陣や問屋が設けられ、商人や旅人が足繁く往来した。 -
JR東北線踏切。これを渡り街道は続く。
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T字路に付きあたったら左折するが、この右角に奥州街道道標や馬頭観世音像が建っている。道標には「右 江戸海道」「左 水戸・かさま・下だて・下づま」と記されている。これは氏家から見た方向で、江戸には右に曲ることになる。
ここを左折すると氏家宿に入ることになる
追分道標には「右江戸海道 左水戸かさま 下だて 下づま」と刻まれています、並びの馬頭観世音は天保九年(1838年)の建立で幕府下野の名筆家で喜連川藩ゆかりの小山霞外(かがい)の書です、そして地蔵尊坐像があります。
ここは氏家宿の江戸口で南木戸があり番所がありました、T字路を左折(白色矢印)します、氏家宿に到着です!
勝山城が廃城になると禄を失った旧臣平石佐渡守等三十六人衆が氏家宿の形成に尽力しました、氏家宿は阿久津河岸の集積地で宿内には諸藩の蔵が並び、会津中街道、会津西街道、原方街道の要衝を控え大いに賑わいました。
天保14年(1843年)の頃、氏家宿の宿内家数は235軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠35軒で、宿内人口は879人でした。 -
氏家駅東入口交差点手前の左手に【浄土宗西導寺】(せいどうじ)があります。
建久二年(1191年)氏家氏の始祖氏家公頼の創建で氏家氏の菩提寺です、天明四年(1784年)に再建された本堂は市有形文化財指定です。
境内の西側に「蔦地蔵」と呼ばれる石造地蔵菩薩坐像があります、定家地蔵とも呼ばれています。
本堂は天明4年(1784年)に宮大工の永野万右衛門が手掛け建てられたもので桁行き8間、梁間7間、入母屋、銅瓦棒葺、唐破風の2間向拝が付いています。御本尊は阿弥陀如来
鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京、鎌倉に次ぐ地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の娘は長子為家に嫁いでいます。
氏家公頼が藤原定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を建立したと伝えられ、「定家地蔵」とも呼ばれている。 鎌倉時代には宇都宮氏を中心とした宇都宮歌壇が形成されていた。 氏家公頼は藤原北家筋の宇都宮朝綱の子で、定家も北家の流れ。裏の西導寺は公頼の開創。
【西導寺本堂】 建造物
本寺院は建久二年(1191)氏家氏の始祖氏家公頼が建立したと伝えられる古刹である。
現本堂は天明四年(1784)に完成したもので、建造は宮大工十五代目長野万右衛門(市貝町)があたり、造営費は本堂作料二十二両・白米十石・手金一両・造作十六両と記録されている。これら費用は、西導寺十三世境誉上人諦雅和尚が明和九年(1772)から十年間にわたって行った托鉢や寄進による浄財でまかなわれた。
本堂は間口八間・奥行七間・木造平屋・唐破風・入母屋造り・銅板葺きの江戸後期の建造物である。内陣と外陣は丸柱で区画され、 その上部欄間は「天女奏楽」「二十四孝」の図を欅の厚板に透彫りにしたのもである。外側は三尺幅の板縁が三方に廻らされ、勾欄がある。氏家地方では江戸後期の代表的寺院建造物である。
昭和五十九年三月一日指定 氏家市教育委員会 -
西導寺の鐘楼
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西導寺山門
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氏家駅東入口交差点の先を右に入ると
【真言宗智山派光明寺】があります。
宝暦九年(1759年)鋳造、高さ3mの「青銅不動明王像」が護摩堂背後の岩上に鎮座しています。
さくら市ミュージアムに保管されている不動明王像を木型として鋳造されました -
さくら市【光明寺】の護摩堂
応永34年(1427)に芳賀氏の菩提寺として勝山城近くの美女木地内に荒木山普門院光明寺として創建された。
上の青銅不動明王座像は、宝暦9年(1759)10月に宇都宮の鋳造師・戸室卯兵衛により作られたもので、栃木県重要文化財に指定されています。 -
光明寺の本堂
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氏家宿の出口は橋を渡る。
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さくら市の【薬王寺】
八幡山一乗院薬王寺は、室町時代初期の応永31年(1424年)に開創された。真言宗智山派。
本尊は金剛界大日如来を.安置してる。本堂は文政8年(1825年)に改築され現在に至っているということだ。 -
【見事な瀧澤家住宅長屋門】氏家町上野原
県道48号線を進み、櫻野中交差点を越すと、見事な瀧澤家住宅長屋門があります。鐵竹堂、蔵屋敷、長屋門は栃木県有形文化財建造物指定です。
瀧澤家は明治になって紡績等の事業で財をなした旧家です。
氏家で陸軍大演習が行われた際、明治天皇の休息所になっています。
桁行8・5間、梁間2・5間。本来武家屋敷の長屋門は、明治になり大農家にもみられる。
栃木県指定有形文化財建造物(平成10年1月16日指定)
瀧澤家住宅(鐡竹堂・蔵屋敷・長屋門)
瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。
瀧澤家は、明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。指定の3棟は、明治25年(1892)10月23日に氏家町で陸軍大演習が行われた時、喜平治宅が明治天皇の休息所に充てられた際、新築あるいは増築されたものと考えられている。
○鐡竹堂(南北6.5間×東西7間)
鐡竹堂は明治天皇の休息所として使用された建物で喜平治の雅号「鐡竹」にちなんで名付けられた。平屋建ての入母屋造りで北側の庭園に対して4室をL字型に並べ、東側正面に車寄せを張り出している。北西の6畳間が主室で、床、違い棚、付書院を完備し、金地の、襖絵素木の格天井とするなど、天皇の御座所にふさわしい造りとなっている。休息のために揃えた調度品とともに当時のままの姿で残されている。
○蔵座敷(桁行4.5間×梁間4間)
蔵座敷は、総2階建、切妻瓦葺の伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴のある建物である。望楼は方形造銅板平葺、四面に装飾的な上部半円状の扉を開き、周囲には洋風唐草模様の鉄柵を巡らしている。洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物が幾つか存在していたといわれるが、現存するのはこの建物だけである。
この洋風望楼部分は明治20年の建造当初のものではないことが内部構造から判明しており、明治25年の行幸が増築のきっかけになった可能性が高い。
○長屋門(桁行8.5間×梁間2.5間)
長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式である。門は内寄りに門柱を立てて両開きの扉を吊り、東側に通用門(潜門)を開く。正面1階には出窓形式の武者窓を背面2階に格子戸を設けている。
地方に残る長屋門の中でも最大級のこの長屋門は建築年代を確定する資料は残されていないが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐡竹堂と同時期の建築と推定できる。
(栃木県教育委員会・さくら市教育委員会) -
【瀧澤家住宅】
洋風の望楼。立派です。今時有りえない。
財閥はここに登って、宿内を一望したようです。
瀧澤家は明治になって紡績等の事業で財をなした旧家です、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られています。
栃木県指定有形文化財建築物指定の鐡竹堂(てっちくどう)は明治20年築。明治天皇の休息所になり、これに合わせて明治25年、蔵屋敷には洋風の望楼を載せています、堂々たる長屋門はこの地では最大級のものです。 -
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桜野村の名主の家で、道に面した門は「分間延絵図」にも描かれた近世の門です。
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