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 逗子市新宿5にある高養寺は高野山真言宗の寺で白滝山高養寺という。寺伝によると、弘法大師が開山、岩窟内に2尺余の不動尊像を安置したのが寺(不動堂)の起こりであると説いている。本尊は不動明王である。<br /> あるいは、伝承によると、昔、この地の岩窟のわきに大きな滝があったことから、「瀧の澤」という地名が付けられたという。浪切不動という名は、この不動尊が小坪の漁舟を暴風雨から護ったことに由来している。700年程前、このあたりは東小坪の浜の一角で、夜な夜な、山腹の滝の付近から不思議な光が発せられ、不漁になり困惑した漁師を見ていた僧が、草に埋もれた不動明王を発見。小堂を建立してお祀りし漁場は活気を取り戻したことから、漁師の海上安全、豊漁祈願のお不動さまとして信仰を集めている。<br /> また、新編相模国風土記稿(天保12年(1841年)成立)には、「不動堂 小瀧不動と号す、佛乗院持」とあり、逗子町誌(昭和3年(1928年)刊)では、「小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動など称す、池子東昌寺の持なり」とある。不動堂はあるが、寺名は記載されてはない。寺名はなかったのだろう。また、江戸末期には小坪佛乗院の不動堂であったが、後に池子東昌寺の不動堂に変わっている。<br /> 新宿海岸に面した高台に建つ高養寺の本堂は、裳層(もこし)付きの瓦葺の建物である。現在のお堂は、葉山の真言宗に属していた慶増院という寺院の建物を昭和28年(1953年)ここに移築したものである。昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めた。同じ頃、新宿不動堂のお堂再建計画があり、慶増院の本堂を移築することになった。かくして、本堂を移築した際に寺名も移されたようだ。また、慶増院にあった「沙弥行心歸寂 乾元二年(1303年)七月八日」と刻まれた石造五輪塔(国指定重要文化財)もお堂の傍に遷されたが、昭和51年(1976年)に池子東昌寺本堂の前に再度遷されている。<br /> 徳冨蘆花(1868年-〜1927年)の小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台となり、主人公の片岡浪子(なみこ)にあやかり、いつしか「浪子不動」と呼ばれるようになった。「不如帰」は、明治31年(1898年)から明治32年((899年)にかけて国民新聞に連載された。なお、徳冨蘆花は今年のNHK大河ドラマにも出てきているが、今度の最終回ではこの話が出てくるかも知れない。<br /> 不動堂は古くからあるが、「浪子不動」の名も「高養寺」の寺名も古くからの名ではないことが分かる。<br /> 国道134号線沿いの逗子湾を眺める場所に浪子不動高養寺が建っている。タウンマップ「街の達人」には、海岸側に高養寺、山の中腹に浪子不動が記載されており、2寺あるのかと思ったが、海岸側に浪子不動高養寺が1寺だけあるようだ。無住のようで、連絡先が池子東昌寺ではなく、金蔵院(横浜市磯子区磯子)になっている。<br /> 明治以降は変遷があり、中々複雑なお不動さまである。<br />(表紙写真は浪子不動高養寺本堂)

浪子不動高養寺(逗子市新宿5)

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2013/12/01 - 2013/12/01

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 逗子市新宿5にある高養寺は高野山真言宗の寺で白滝山高養寺という。寺伝によると、弘法大師が開山、岩窟内に2尺余の不動尊像を安置したのが寺(不動堂)の起こりであると説いている。本尊は不動明王である。
 あるいは、伝承によると、昔、この地の岩窟のわきに大きな滝があったことから、「瀧の澤」という地名が付けられたという。浪切不動という名は、この不動尊が小坪の漁舟を暴風雨から護ったことに由来している。700年程前、このあたりは東小坪の浜の一角で、夜な夜な、山腹の滝の付近から不思議な光が発せられ、不漁になり困惑した漁師を見ていた僧が、草に埋もれた不動明王を発見。小堂を建立してお祀りし漁場は活気を取り戻したことから、漁師の海上安全、豊漁祈願のお不動さまとして信仰を集めている。
 また、新編相模国風土記稿(天保12年(1841年)成立)には、「不動堂 小瀧不動と号す、佛乗院持」とあり、逗子町誌(昭和3年(1928年)刊)では、「小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動など称す、池子東昌寺の持なり」とある。不動堂はあるが、寺名は記載されてはない。寺名はなかったのだろう。また、江戸末期には小坪佛乗院の不動堂であったが、後に池子東昌寺の不動堂に変わっている。
 新宿海岸に面した高台に建つ高養寺の本堂は、裳層(もこし)付きの瓦葺の建物である。現在のお堂は、葉山の真言宗に属していた慶増院という寺院の建物を昭和28年(1953年)ここに移築したものである。昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めた。同じ頃、新宿不動堂のお堂再建計画があり、慶増院の本堂を移築することになった。かくして、本堂を移築した際に寺名も移されたようだ。また、慶増院にあった「沙弥行心歸寂 乾元二年(1303年)七月八日」と刻まれた石造五輪塔(国指定重要文化財)もお堂の傍に遷されたが、昭和51年(1976年)に池子東昌寺本堂の前に再度遷されている。
 徳冨蘆花(1868年-〜1927年)の小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台となり、主人公の片岡浪子(なみこ)にあやかり、いつしか「浪子不動」と呼ばれるようになった。「不如帰」は、明治31年(1898年)から明治32年((899年)にかけて国民新聞に連載された。なお、徳冨蘆花は今年のNHK大河ドラマにも出てきているが、今度の最終回ではこの話が出てくるかも知れない。
 不動堂は古くからあるが、「浪子不動」の名も「高養寺」の寺名も古くからの名ではないことが分かる。
 国道134号線沿いの逗子湾を眺める場所に浪子不動高養寺が建っている。タウンマップ「街の達人」には、海岸側に高養寺、山の中腹に浪子不動が記載されており、2寺あるのかと思ったが、海岸側に浪子不動高養寺が1寺だけあるようだ。無住のようで、連絡先が池子東昌寺ではなく、金蔵院(横浜市磯子区磯子)になっている。
 明治以降は変遷があり、中々複雑なお不動さまである。
(表紙写真は浪子不動高養寺本堂)

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  • 逗子湾の前に浪子不動高養寺本堂の屋根が見える。

    逗子湾の前に浪子不動高養寺本堂の屋根が見える。

  • 浪子不動ハイキングコースから浪子不動高養寺に下る階段。

    浪子不動ハイキングコースから浪子不動高養寺に下る階段。

  • 浪子不動高養寺本堂。裳層(もこし)付きの瓦葺の本堂。昭和28年(1953年)に移築。

    浪子不動高養寺本堂。裳層(もこし)付きの瓦葺の本堂。昭和28年(1953年)に移築。

  • 浪子不動ハイキングコースから浪子不動高養寺に下る階段。

    浪子不動ハイキングコースから浪子不動高養寺に下る階段。

  • 浪子不動高養寺本堂。

    浪子不動高養寺本堂。

  • 逗子湾と顔を覗かせる「徳富健次郎之碑」(不如帰碑)。

    逗子湾と顔を覗かせる「徳富健次郎之碑」(不如帰碑)。

  • 道標。

    道標。

  • 「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」看板。

    「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」看板。

  • 「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」看板。

    「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」看板。

  • 本堂左奥の滝。

    本堂左奥の滝。

  • 本堂左裏手の滝。

    本堂左裏手の滝。

  • 連絡先。

    連絡先。

  • 「護摩祈祷会」の日時。

    「護摩祈祷会」の日時。

  • 「浪子不動 高養寺」の寺号標石。

    「浪子不動 高養寺」の寺号標石。

  • 「秋の七草 第七番 尾花の寺 浪子不動」。

    「秋の七草 第七番 尾花の寺 浪子不動」。

  • 高台にある浪子不動高養寺本堂。

    高台にある浪子不動高養寺本堂。

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