2013/12/01 - 2013/12/01
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ドクターキムルさん
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逗子市小坪5に鎮座する住吉神社は、南北朝時代に創建され、後に正覚寺の鎮守となったとされている。中世に建てられた山城である住吉城郭跡に祀られた神社で住吉明神社と呼ばれていた。祭神は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)である。祀られていた「木造住吉神倚像」は、南北朝の初期に造立されたものと考えられている。鶴岡八幡宮の白旗神社に移された後、現在は、鶴岡八幡宮の宝物殿に安置されている。住吉神社には神輿も保管されている。
また、境内には石祠と井戸脇には手掘りの隧道がある。
住吉神社社殿前には「住吉城址」の看板がある。この一帯は住吉城址であった。
「新編相模国風土記稿」(天保12年(1841年)成立)には、「住吉明神社 寺後山上に在り(慶安二年文書に小坪住吉神田一段並に畑一枚と見ゆ、)神体は故ありて曩に鶴岡の末社に移し、当社には今白幣を神体とし本地仏聖観音を安ず、小名飯島の鎮守なり、古は郡中の総鎮守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり」とある。
北条早雲が、西相模の要衝小田原城を手に入れた後、永正7年(1510年)、早雲の軍は、権現山城(横浜市神奈川区)において、山内・扇谷両上杉の連合軍によって大敗北を喫し、早雲は両上杉の壁の厚さを思い知らされた。
そこで、早雲は、両上杉を直接相手にしたのでは、勝目はないと判断し、扇谷上杉の重臣で、相模国中央部から東部にかけて勢力を持つ三浦氏の討滅に的を絞った。
永正9年(1512年)8月、早雲の軍勢は、三浦氏の本拠・岡崎城を急襲した。時の当主・三浦道寸(義同)は、ついに支えきれず、この住吉城に逃れた。奮戦むなし、ここ住吉城でも戦いに敗れ、新井城 (三浦市)に逃れた。この時、道寸の弟・道香は、逗子の延命寺境内で、家来たちと自害したと伝えられる。永正13年(1516年)、三浦の新井城も早雲によって攻められ、三浦一族は滅亡した。新井城址には三浦道寸の墓がある。このときに北条早雲が三浦道寸攻略のために築城したのが玉縄城である。
ここにおいて、北条早雲の勢力圏は相模の中央部まで伸びた。
住吉神社の名は住吉谷の地名から付いた名前で住吉三神を祀る神社とは違うのかと思ったが、住吉三神を祀る神社に相違ない。しかし、創建年代が正覚寺などよりも下ることから、境内にある石祠が住吉社であるとの説もあり、鎌倉時代以前からこの住吉社が既にあり、住吉谷の地名から付いた後に住吉城が築城され、落城後に社殿が建てられ、住吉明神社となったと考えることもできよう。また、本地仏聖観音とあり、正覚寺ではなく、この住吉明神社の聖観音が鎌倉郡三十三箇所観音霊場第5番札所の観音さまであった可能性も考えられはしないだろうか?
(表紙写真は住吉神社社殿)
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住吉神社参道には杉の倒木が。
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杉の倒木。
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住吉神社参道石段。
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住吉神社社殿。
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住吉神社社殿に貼られた海表示。
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住吉神社社殿に「住吉城址」看板。
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住吉神社社殿に掛かる「住吉大明神」の扁額。
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住吉神社社殿内部。
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住吉神社社殿前に置かれた香台か。
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裏手崖に横穴。
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住吉社。
和賀江島の守護神と考えられている石祠。住吉の神は、古代より航海守護の神ととして崇められてきた。住吉神社との関わりは定かではないが、住吉大明神に住吉社はおかしい。 -
住吉神社社殿。
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住吉神社境内にある井戸。
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井戸の横には手掘りの隧道がある。
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住吉神社社殿。
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住吉神社の谷(住吉谷)から見える鎌倉の海。
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住吉神社社殿。
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住吉神社参道。
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住吉神社参道脇の木立。
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住吉神社参道下から見える富士山。
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住吉神社参道下から見える富士山。
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住吉神社参道下から見える富士山。
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