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時代を遡れば伊東・島津両氏とも出自は鎌倉幕府御家人で下向後は日向国覇権をかけた壮烈な戦いに明け暮れた佐土原城(さどわらじょう、宮崎県宮崎市佐土原町)を訪問しました。<br /><br />鎌倉時代に源頼朝の寵臣で側近御家人工藤祐経(くどう・すけつね、生誕不詳~1193)が九州の平家追討の功があったとして九州日向国に所領を与えられ、祐経死後はその子祐時(すけとき、1185~1252)が頼朝を烏帽子親として元服、やがて伊東姓を名乗り伊東祐時と称します。<br /><br />祐時は建長4年(1252)に68歳で死亡、その子供たちはそれぞれの所領を贈与され、その内四男祐明(すけあきら、生没不詳)は日向国那珂郡の田島荘に地頭として下向します。<br /><br />祐明は日向国下向後は田嶋伊東氏を称し、同様に祐明の弟祐景(すけかげ、生没不詳)は門川に下向し門川伊東氏を称し、更に祐頼(すけより、生没不詳)が木脇、八代を領して木脇伊東氏を称し伊東氏庶流の日向国土着領主化が始まります。<br /><br />正慶2年(1333)足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は元弘の乱がおこると幕府軍として出兵するも途中で反幕府の旗を掲げ、幕府の京都・西日本を監視する在京都六波羅探題を攻め滅ぼします。他方同年に新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)も挙兵し鎌倉を攻め得宗家北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)ら一族を自害させここに頼朝以来の鎌倉幕府は滅亡します。<br /><br />建武の親政では後醍醐天皇の強権に同調できず尊氏を凌ぐ権力を握っている新田義貞を討つ名目で建武政権に背き上洛、新田義貞軍を敗走させますが南朝方北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)軍に敗れ九州に逃れます。<br /><br />九州の武士団を編成した尊氏は再び京都に向かい、神戸湊川にて新田義貞や楠正成(くすのき・まさしげ、1294?~1336)らを討ち京都に戻り、後醍醐天皇を廃し、光明法皇を擁立しここに南北朝時代が始まります。<br /><br />一方尊氏は京都に幕府を開き、暦応元年(1338)征夷大将軍となりますが、伊東氏本家として祐持(すけもち、生没不詳)は清見関(きよみがせき)の戦いで足利尊氏に降伏、それ以降は尊氏側について戦功を立てます。<br /><br />上記戦功により祐持は建武2年(1335)3月に日向国都於郡院(とのこおりいん)を賜りこの年祐持は日向に下向しますが、既述の通り、既に伊東氏庶流がそれぞれ在地に領主として支配権を確立、伊東氏本家とは疎遠となっており、加えて木脇伊東氏と肝付氏は南朝を支持しており微妙な状況になってきます。<br /><br />都於郡院に着任した祐持は先に下向していた田嶋氏など庶流の力を結集して日向国に於ける自軍の勢力を増大させる考えがありましたが庶流にとっては圧迫以外の何物でもありませんでした。<br /><br />特に都於郡に隣接している田嶋(伊東)氏は危機感を強め、自らの立場を強固にすべく康永4年(1345)に大光寺を上田島に建立したり、永享6年(1434)から文安元年(1444)に田嶋休祐(たじま・きゅうすけ、生没不詳)が鶴松山尾根の一部を城塞化してに更に強固な城(鶴松山田嶋之城?かくしょうざんたじまのしろ)とします。<br /><br />田嶋之城を築城した田嶋休祐には跡取り男子がおらず娘一人でしたので、伊東本家から当主祐堯(すけたか、1409~1485)の実弟祐賀(すけよし、生没不詳)を娘婿と決めますが婚姻を結ぶ前に急死します。<br /><br />その後は約束通りに祐賀は養子として田嶋家に入るものの、田嶋姓を名乗らずに兄の旧姓佐土原氏を名乗ることで田嶋氏を事実上滅ぼします。<br /><br />こうして文明12年(1480)伊東本家の伊東祐国(いとう・すけくに、1450~1485)が形式的に佐土原氏の当主の養子となり、名実ともに伊東本家の佐土原支配が成立、それまでに木脇伊東氏及び門川伊東氏も滅ぼしていることから日向国における伊東家庶流は本家統合に至ります。<br /><br />家督争いに勝利して当主となった伊東祐清(いとう・すけきよ、1512~1185)は本城の都於郡から田嶋之城(佐土原城)に入城するも、翌年火災の為城郭が焼失、暫く支城の宮崎に移転を余儀なくされ、天文12年田嶋之城が建っていた鶴松山の尾根の中央部に新たに南之城(みなみのしろ)を築城し伊東氏の本拠地とします。<br /><br />天文23年(1554)伊東義祐(足利義晴から偏諱を得て祐清から義祐となる)は本拠を佐土原城から都於郡城へ移し、日向国に47の城を支城とし都於郡と佐土原をその中心地としました。<br /><br />かねてより日向南部の飫肥については27年間に亘り薩摩島津と覇権争いをしてきた地域ながら義祐の代の永禄11年(1568)には飫肥を手中に収めることとなり日向国で残されている地域は諸県郡(現在の都城・小林・えびの辺り)だけとなります。<br /><br />飫肥を攻略し日向国の大半を支配すした義祐は諸県郡(もろかたぐん=日向国南西部)の支配を目指すことになります。当地域は南は薩摩島津・西は人吉相良に隣接しており、非情にデリケ-トな所と言えます。<br /><br />一度は隠居した立場であった義祐は嫡男祐益(すけます)の不慮の死により僅か3歳の孫を後見するすることとなります。老体に鞭を打って元亀3年(1572)に真幸を治める北原氏内紛に乗じて影響力を強めてきた島津氏攻撃のため軍を木崎原に派遣します。<br /><br />島津勢大将は島津義弘(しまづ・よしひろ、1535~1619)で戦いの駆け引きの巧みさでは追随するものなく、事前に配置していた伏兵から攻められ戦況は一変し、伊東軍は総崩れとなり決定的な負け戦となります。<br /><br />この戦いで伊東側の主たる武将はほとんど討死し、これを機に伊東義祐への求心力は急速に衰え、全盛期には忠勤に励んだ47支城の武将たちの離反・裏切の行為が広がります。<br /><br />領内は大混乱となるなか、義祐は一門を集め今後の対応について評議しますが、ひとまず城を出て二男義益正室の叔父に当たる豊後大友宗麟(おおとも・そうりん、1530~1587)を頼り再起を図ることとなり、都於郡城・鶴松山南之城を捨てて米良(めら)、椎葉(しいば)を経て豊後に入り大友氏の支援を仰ぐことになります。<br /><br />翌天正6年(1578)大友宗麟は5万の兵を従え日向に出兵、内4万は島津氏支城の高城を攻めるも20日間持ちこたえ、高城の危機をに対し島津義久は兵を引き連れ佐土原城に着陣、両軍ついに小丸側を挟んで対峙します。<br /><br />豊後大友軍は各国からの寄せ集めで武将間同士の意思疎通も欠けておりまとまりなく、一方島津軍はよく訓練されて得意の伏兵を配して大友軍は大混乱に陥るなどで指揮命令系統が寸断され、やがて大友軍は大敗ここに伊東氏の領土回復は実現なりません。<br /><br />天正7年(1579)本家である薩摩藩主島津義久(よしひさ、1533~1611)は末弟の家久(いえひさ、1547~1587)を佐土原に封じ日向における支配の責任者とします。<br /><br />上述の通り大友氏を敗走させた事を契機に武力を背景に九州一円に勢力を広げ、ついには大友氏本領を除き九州全域に覇を唱えることになります。<br /><br />天正15年(1587)3月宗麟の島津征伐要請をうけた秀吉は自ら大軍を率いて肥後口と日向口に分かれて島津軍を攻め込みます。<br />肥後口からは秀吉本隊、日向口からは秀吉弟秀長が約20万で侵攻、島津氏守備の財部城(高鍋町)、高城(木城町)が落とされます。<br /><br />ついに鶴松山南之城(佐土原城)も秀長軍に囲まれるようとする時、義久は降伏を決意し秀長にその旨申し出ます。同時に佐土原城の家久も周辺の城主と共に開城して降伏します。<br /><br />同年5月義久は剃髪して秀吉の本陣・泰平寺で秀吉に拝謁し罪を謝して秀吉から許されます。<br /><br />同時に家久は自ら秀長に随行して大坂に赴き秀吉に近侍したいと申し出、これを聞いた秀吉はたいそう喜び、家久の従来の本領を安堵する朱印状を発し、これまで通り佐土原城と佐土原・都於郡・三納・穂北・神田等を所領することとなります。<br /><br />然しながら同年6月家久は野尻在陣の秀長を訪ね、秀長から接待をを受けたが佐土原に帰城すると3日後毒にあたった症状を呈して死亡します。その遺領は息子の豊久に安堵されることになります。<br /><br />慶長5年(1600)会津若松の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ、1556~1623)を討つため徳川家康は会津に向けて出立、その留守をついて家康討伐の軍勢を揃えた石田三成は関ヶ原で引き返してきた家康軍と会戦を交えます。<br /><br />合戦当初は西軍優勢で推移していましたが西軍の小早川軍の家康軍に寝返ったことで形成が一変、西軍は敗走します。<br /><br />西軍に属していた島津義弘以下約千名の島津軍は、終始戦いには加わらず西軍敗戦後に家康軍陣地を突破して伊勢・堺をへて薩摩へと戻りますが帰り着いたのは僅か70名ほどであったと言われ、豊久は家康の追跡を受ける途中で義弘を逃がすため犠牲となります。<br /><br />関ヶ原で三成軍に属して敗走した島津氏は家康に対し井伊直政などを通じて謝罪に努め、結果家康は慶長6年(1601)家康は義弘の赦免と領国の安堵を告げるも佐土原領は没収されることになり、伝え聞いた島津氏は戦死した豊久は家康に背く意図はなかったと訴えます。<br /><br />家康はついに島津氏の訴えを認め、佐土原城の城番を島津氏に委ねる許可を与え、義久はこれまでの戦功と本家に近い垂水領主である島津以久(しまづ・もちひさ、1550~1610)を城番に指名、慶長8年(1603)10月以久は家康から召し出され島津豊久の遺領3万石を宛がわれ初代の佐土原藩主となり、後期佐土原島津氏の始祖となります。<br /><br />初代藩主以久は慶長15年(1610)4月京都伏見で死去、葬儀は京都大雲寺で行われ、その後佐土原に高月院を創建百石を寄進し佐土原島津氏の菩提寺とします。<br /><br />以久没後の跡目については藩内部で対立が起きますが、側室の子忠興(ただおき、1559~1637)が幕府の許可を得て二代目藩主となります。<br /><br />二代目忠興は南之城を改修し本丸の整備と天守を設け、鶴松山全体を山城として完成させその呼び名を鶴松城とします。<br /><br />それから13年経過の寛永2年(1625)、忠興はこの山城を破却し、山下の平地に移し呼称を松鶴城と改めます。しかしながら天守だけは残され三代久雄(ひさかた、1633~1663)の頃までは山城跡に天守が聳えていたとのことです。<br /><br />二代目忠興にどのような変化があったのか興味あるところですが、戦乱が収まると城の位置づけが微妙に変化しますが山城を置くよりも平地での政務がやり易い、山城の機能を維持する費用も多額を要するなどの考えが定着しやすい状況にあることも理由にあります。<br /><br />上記理由に加えて、佐土原藩の位置づけとしては関ヶ原以降に大名に取り立てられたこと、二代目忠興の家督相続では以久の嫡孫で垂水領主との対立を越えて幕府から佐土原を安堵された経緯があり、幕府の軍役(大坂冬の陣、夏の陣等)・課役(江戸城本丸石垣普請等)については積極的な対応を示す立場にあるが故、山城機能が失われる現状では無駄な出費と考えられるようになったための判断と思われます。<br /><br />明治2年(1869)第11代藩主忠寛(ただひろ、1828~1896)は城を広瀬に移すことを命じ、その旨朝廷に転城願いを提出します。<br /><br />朝廷では広瀬への転城を認めますがその後の廃城となった佐土原城は跡形もなく消え去り、旧佐土原町が城跡の公園化に手を付けるまで城の跡地は悉く民間の所有に帰していました。<br /><br />尚転城先の広瀬城は石崎川にせり出し、北へ伸びた丘陵地に築城されましたが、この城も翌年の廃藩置県によって破却され、現在は広瀬小学校となっています。<br /><br /><br /><br />2022年5月29日追記<br /><br />現地「佐土原歴史資料館」にて入手の「佐土原城下の史跡マップ」によれば佐土原城に関して下記の通り紹介されています。<br /><br />『 佐 土 原 城<br /><br />佐土原城の築城時期は明確ではありませんが、15世紀中頃、都於郡城主伊東祐立の二男讃岐守祐賀が田島伊東氏の名跡を継いで佐土原氏となのった頃と考えられます。城が本格的に整備されるようになったのは戦国期に入ってからで、天文5年(1536)には戦国大名として知られる伊東義祐が当城を居城としています。<br /><br />近世初頭には山頂本丸の北側に天守とみられる二重もしくは三重の櫓が建設されていたとみられ、付近からは金箔付の鯱瓦があ出土しています。佐土原藩2代藩主忠興の時、山上の城を廃して山下に居館・藩庁を移しました。それらの施設も明治3年(1870)広瀬転城にともない取り壊されました。<br /><br />平成16年(2004)9月に国の史跡に指定されています。 』<br /><br />

日向佐土原 日向国覇権を求めて旧鎌倉幕府御家人から戦国大名となった伊東氏と薩摩大隅の国人を支配下に置いた島津氏が争った『佐土原城』訪問

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2013/10/14 - 2013/10/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

時代を遡れば伊東・島津両氏とも出自は鎌倉幕府御家人で下向後は日向国覇権をかけた壮烈な戦いに明け暮れた佐土原城(さどわらじょう、宮崎県宮崎市佐土原町)を訪問しました。

鎌倉時代に源頼朝の寵臣で側近御家人工藤祐経(くどう・すけつね、生誕不詳~1193)が九州の平家追討の功があったとして九州日向国に所領を与えられ、祐経死後はその子祐時(すけとき、1185~1252)が頼朝を烏帽子親として元服、やがて伊東姓を名乗り伊東祐時と称します。

祐時は建長4年(1252)に68歳で死亡、その子供たちはそれぞれの所領を贈与され、その内四男祐明(すけあきら、生没不詳)は日向国那珂郡の田島荘に地頭として下向します。

祐明は日向国下向後は田嶋伊東氏を称し、同様に祐明の弟祐景(すけかげ、生没不詳)は門川に下向し門川伊東氏を称し、更に祐頼(すけより、生没不詳)が木脇、八代を領して木脇伊東氏を称し伊東氏庶流の日向国土着領主化が始まります。

正慶2年(1333)足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は元弘の乱がおこると幕府軍として出兵するも途中で反幕府の旗を掲げ、幕府の京都・西日本を監視する在京都六波羅探題を攻め滅ぼします。他方同年に新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)も挙兵し鎌倉を攻め得宗家北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)ら一族を自害させここに頼朝以来の鎌倉幕府は滅亡します。

建武の親政では後醍醐天皇の強権に同調できず尊氏を凌ぐ権力を握っている新田義貞を討つ名目で建武政権に背き上洛、新田義貞軍を敗走させますが南朝方北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)軍に敗れ九州に逃れます。

九州の武士団を編成した尊氏は再び京都に向かい、神戸湊川にて新田義貞や楠正成(くすのき・まさしげ、1294?~1336)らを討ち京都に戻り、後醍醐天皇を廃し、光明法皇を擁立しここに南北朝時代が始まります。

一方尊氏は京都に幕府を開き、暦応元年(1338)征夷大将軍となりますが、伊東氏本家として祐持(すけもち、生没不詳)は清見関(きよみがせき)の戦いで足利尊氏に降伏、それ以降は尊氏側について戦功を立てます。

上記戦功により祐持は建武2年(1335)3月に日向国都於郡院(とのこおりいん)を賜りこの年祐持は日向に下向しますが、既述の通り、既に伊東氏庶流がそれぞれ在地に領主として支配権を確立、伊東氏本家とは疎遠となっており、加えて木脇伊東氏と肝付氏は南朝を支持しており微妙な状況になってきます。

都於郡院に着任した祐持は先に下向していた田嶋氏など庶流の力を結集して日向国に於ける自軍の勢力を増大させる考えがありましたが庶流にとっては圧迫以外の何物でもありませんでした。

特に都於郡に隣接している田嶋(伊東)氏は危機感を強め、自らの立場を強固にすべく康永4年(1345)に大光寺を上田島に建立したり、永享6年(1434)から文安元年(1444)に田嶋休祐(たじま・きゅうすけ、生没不詳)が鶴松山尾根の一部を城塞化してに更に強固な城(鶴松山田嶋之城?かくしょうざんたじまのしろ)とします。

田嶋之城を築城した田嶋休祐には跡取り男子がおらず娘一人でしたので、伊東本家から当主祐堯(すけたか、1409~1485)の実弟祐賀(すけよし、生没不詳)を娘婿と決めますが婚姻を結ぶ前に急死します。

その後は約束通りに祐賀は養子として田嶋家に入るものの、田嶋姓を名乗らずに兄の旧姓佐土原氏を名乗ることで田嶋氏を事実上滅ぼします。

こうして文明12年(1480)伊東本家の伊東祐国(いとう・すけくに、1450~1485)が形式的に佐土原氏の当主の養子となり、名実ともに伊東本家の佐土原支配が成立、それまでに木脇伊東氏及び門川伊東氏も滅ぼしていることから日向国における伊東家庶流は本家統合に至ります。

家督争いに勝利して当主となった伊東祐清(いとう・すけきよ、1512~1185)は本城の都於郡から田嶋之城(佐土原城)に入城するも、翌年火災の為城郭が焼失、暫く支城の宮崎に移転を余儀なくされ、天文12年田嶋之城が建っていた鶴松山の尾根の中央部に新たに南之城(みなみのしろ)を築城し伊東氏の本拠地とします。

天文23年(1554)伊東義祐(足利義晴から偏諱を得て祐清から義祐となる)は本拠を佐土原城から都於郡城へ移し、日向国に47の城を支城とし都於郡と佐土原をその中心地としました。

かねてより日向南部の飫肥については27年間に亘り薩摩島津と覇権争いをしてきた地域ながら義祐の代の永禄11年(1568)には飫肥を手中に収めることとなり日向国で残されている地域は諸県郡(現在の都城・小林・えびの辺り)だけとなります。

飫肥を攻略し日向国の大半を支配すした義祐は諸県郡(もろかたぐん=日向国南西部)の支配を目指すことになります。当地域は南は薩摩島津・西は人吉相良に隣接しており、非情にデリケ-トな所と言えます。

一度は隠居した立場であった義祐は嫡男祐益(すけます)の不慮の死により僅か3歳の孫を後見するすることとなります。老体に鞭を打って元亀3年(1572)に真幸を治める北原氏内紛に乗じて影響力を強めてきた島津氏攻撃のため軍を木崎原に派遣します。

島津勢大将は島津義弘(しまづ・よしひろ、1535~1619)で戦いの駆け引きの巧みさでは追随するものなく、事前に配置していた伏兵から攻められ戦況は一変し、伊東軍は総崩れとなり決定的な負け戦となります。

この戦いで伊東側の主たる武将はほとんど討死し、これを機に伊東義祐への求心力は急速に衰え、全盛期には忠勤に励んだ47支城の武将たちの離反・裏切の行為が広がります。

領内は大混乱となるなか、義祐は一門を集め今後の対応について評議しますが、ひとまず城を出て二男義益正室の叔父に当たる豊後大友宗麟(おおとも・そうりん、1530~1587)を頼り再起を図ることとなり、都於郡城・鶴松山南之城を捨てて米良(めら)、椎葉(しいば)を経て豊後に入り大友氏の支援を仰ぐことになります。

翌天正6年(1578)大友宗麟は5万の兵を従え日向に出兵、内4万は島津氏支城の高城を攻めるも20日間持ちこたえ、高城の危機をに対し島津義久は兵を引き連れ佐土原城に着陣、両軍ついに小丸側を挟んで対峙します。

豊後大友軍は各国からの寄せ集めで武将間同士の意思疎通も欠けておりまとまりなく、一方島津軍はよく訓練されて得意の伏兵を配して大友軍は大混乱に陥るなどで指揮命令系統が寸断され、やがて大友軍は大敗ここに伊東氏の領土回復は実現なりません。

天正7年(1579)本家である薩摩藩主島津義久(よしひさ、1533~1611)は末弟の家久(いえひさ、1547~1587)を佐土原に封じ日向における支配の責任者とします。

上述の通り大友氏を敗走させた事を契機に武力を背景に九州一円に勢力を広げ、ついには大友氏本領を除き九州全域に覇を唱えることになります。

天正15年(1587)3月宗麟の島津征伐要請をうけた秀吉は自ら大軍を率いて肥後口と日向口に分かれて島津軍を攻め込みます。
肥後口からは秀吉本隊、日向口からは秀吉弟秀長が約20万で侵攻、島津氏守備の財部城(高鍋町)、高城(木城町)が落とされます。

ついに鶴松山南之城(佐土原城)も秀長軍に囲まれるようとする時、義久は降伏を決意し秀長にその旨申し出ます。同時に佐土原城の家久も周辺の城主と共に開城して降伏します。

同年5月義久は剃髪して秀吉の本陣・泰平寺で秀吉に拝謁し罪を謝して秀吉から許されます。

同時に家久は自ら秀長に随行して大坂に赴き秀吉に近侍したいと申し出、これを聞いた秀吉はたいそう喜び、家久の従来の本領を安堵する朱印状を発し、これまで通り佐土原城と佐土原・都於郡・三納・穂北・神田等を所領することとなります。

然しながら同年6月家久は野尻在陣の秀長を訪ね、秀長から接待をを受けたが佐土原に帰城すると3日後毒にあたった症状を呈して死亡します。その遺領は息子の豊久に安堵されることになります。

慶長5年(1600)会津若松の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ、1556~1623)を討つため徳川家康は会津に向けて出立、その留守をついて家康討伐の軍勢を揃えた石田三成は関ヶ原で引き返してきた家康軍と会戦を交えます。

合戦当初は西軍優勢で推移していましたが西軍の小早川軍の家康軍に寝返ったことで形成が一変、西軍は敗走します。

西軍に属していた島津義弘以下約千名の島津軍は、終始戦いには加わらず西軍敗戦後に家康軍陣地を突破して伊勢・堺をへて薩摩へと戻りますが帰り着いたのは僅か70名ほどであったと言われ、豊久は家康の追跡を受ける途中で義弘を逃がすため犠牲となります。

関ヶ原で三成軍に属して敗走した島津氏は家康に対し井伊直政などを通じて謝罪に努め、結果家康は慶長6年(1601)家康は義弘の赦免と領国の安堵を告げるも佐土原領は没収されることになり、伝え聞いた島津氏は戦死した豊久は家康に背く意図はなかったと訴えます。

家康はついに島津氏の訴えを認め、佐土原城の城番を島津氏に委ねる許可を与え、義久はこれまでの戦功と本家に近い垂水領主である島津以久(しまづ・もちひさ、1550~1610)を城番に指名、慶長8年(1603)10月以久は家康から召し出され島津豊久の遺領3万石を宛がわれ初代の佐土原藩主となり、後期佐土原島津氏の始祖となります。

初代藩主以久は慶長15年(1610)4月京都伏見で死去、葬儀は京都大雲寺で行われ、その後佐土原に高月院を創建百石を寄進し佐土原島津氏の菩提寺とします。

以久没後の跡目については藩内部で対立が起きますが、側室の子忠興(ただおき、1559~1637)が幕府の許可を得て二代目藩主となります。

二代目忠興は南之城を改修し本丸の整備と天守を設け、鶴松山全体を山城として完成させその呼び名を鶴松城とします。

それから13年経過の寛永2年(1625)、忠興はこの山城を破却し、山下の平地に移し呼称を松鶴城と改めます。しかしながら天守だけは残され三代久雄(ひさかた、1633~1663)の頃までは山城跡に天守が聳えていたとのことです。

二代目忠興にどのような変化があったのか興味あるところですが、戦乱が収まると城の位置づけが微妙に変化しますが山城を置くよりも平地での政務がやり易い、山城の機能を維持する費用も多額を要するなどの考えが定着しやすい状況にあることも理由にあります。

上記理由に加えて、佐土原藩の位置づけとしては関ヶ原以降に大名に取り立てられたこと、二代目忠興の家督相続では以久の嫡孫で垂水領主との対立を越えて幕府から佐土原を安堵された経緯があり、幕府の軍役(大坂冬の陣、夏の陣等)・課役(江戸城本丸石垣普請等)については積極的な対応を示す立場にあるが故、山城機能が失われる現状では無駄な出費と考えられるようになったための判断と思われます。

明治2年(1869)第11代藩主忠寛(ただひろ、1828~1896)は城を広瀬に移すことを命じ、その旨朝廷に転城願いを提出します。

朝廷では広瀬への転城を認めますがその後の廃城となった佐土原城は跡形もなく消え去り、旧佐土原町が城跡の公園化に手を付けるまで城の跡地は悉く民間の所有に帰していました。

尚転城先の広瀬城は石崎川にせり出し、北へ伸びた丘陵地に築城されましたが、この城も翌年の廃藩置県によって破却され、現在は広瀬小学校となっています。



2022年5月29日追記

現地「佐土原歴史資料館」にて入手の「佐土原城下の史跡マップ」によれば佐土原城に関して下記の通り紹介されています。

『 佐 土 原 城

佐土原城の築城時期は明確ではありませんが、15世紀中頃、都於郡城主伊東祐立の二男讃岐守祐賀が田島伊東氏の名跡を継いで佐土原氏となのった頃と考えられます。城が本格的に整備されるようになったのは戦国期に入ってからで、天文5年(1536)には戦国大名として知られる伊東義祐が当城を居城としています。

近世初頭には山頂本丸の北側に天守とみられる二重もしくは三重の櫓が建設されていたとみられ、付近からは金箔付の鯱瓦があ出土しています。佐土原藩2代藩主忠興の時、山上の城を廃して山下に居館・藩庁を移しました。それらの施設も明治3年(1870)広瀬転城にともない取り壊されました。

平成16年(2004)9月に国の史跡に指定されています。 』

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
2.5
交通手段
高速・路線バス ANAグループ 徒歩

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  • 「ひむか神話街道」地図<br /><br />一ツ瀬川を北端にした中央部に佐土原城跡が在ります。JR九州の日豊線佐土原駅のはるか西方にあり、当地には宮崎交通バス利用が最適です。(但し便数が少ないので事前にチェックが必要です)

    「ひむか神話街道」地図

    一ツ瀬川を北端にした中央部に佐土原城跡が在ります。JR九州の日豊線佐土原駅のはるか西方にあり、当地には宮崎交通バス利用が最適です。(但し便数が少ないので事前にチェックが必要です)

  • 佐土原城跡<br /><br />バス通りに面した入口には「佐土原城跡 歴史資料館」と銘打った看板がよく見えます。

    佐土原城跡

    バス通りに面した入口には「佐土原城跡 歴史資料館」と銘打った看板がよく見えます。

  • 「鶴松館(かくしょうかん)」案内板<br /><br />

    「鶴松館(かくしょうかん)」案内板

  • 鶴松館正面<br /><br />

    鶴松館正面

  • 佐土原城内堀跡<br /><br />内堀は発掘調査後埋められており当時の状況は不明です。

    佐土原城内堀跡

    内堀は発掘調査後埋められており当時の状況は不明です。

  • 鶴松館正門<br /><br />佐土原城跡二の丸跡に作られた鶴松館正門が立派に作られています。

    鶴松館正門

    佐土原城跡二の丸跡に作られた鶴松館正門が立派に作られています。

  • 鶴松館玄関<br /><br />大広間と直結する玄関がありここから入場します。<br /><br /><br />

    イチオシ

    鶴松館玄関

    大広間と直結する玄関がありここから入場します。


  • 鶴松館大広間<br /><br />大広間から縁側を見渡します。内部撮影は禁止されているのでやむなく外部だけを映します。<br />

    鶴松館大広間

    大広間から縁側を見渡します。内部撮影は禁止されているのでやむなく外部だけを映します。

  • 鶴松館書院<br /><br />書院から庭を捉えます。

    鶴松館書院

    書院から庭を捉えます。

  • 鶴松館庭園<br /><br />書院から庭園を眺めます。

    鶴松館庭園

    書院から庭園を眺めます。

  • 鶴松館.書院廊下

    鶴松館.書院廊下

  • 屋根瓦<br /><br />島津家の紋が入った屋根瓦が見えます。

    屋根瓦

    島津家の紋が入った屋根瓦が見えます。

  • 鶴間環庭園

    鶴間環庭園

  • 佐土原城跡登城<br /><br />裏側から大広間の建物を捉えます。鶴松館の裏側の登城路は「追手(おうて)口」に繋がる道となります。城跡へは追手口を含め「中の道」「番屋(ばんや)口」「水の手口」「野久尾(のくび)口」の五つの登り口があります。

    佐土原城跡登城

    裏側から大広間の建物を捉えます。鶴松館の裏側の登城路は「追手(おうて)口」に繋がる道となります。城跡へは追手口を含め「中の道」「番屋(ばんや)口」「水の手口」「野久尾(のくび)口」の五つの登り口があります。

  • 大手道<br /><br />道路をV字型に深く切り込ませて、敵が登ると上から攻撃を加えることができるようになっています。

    イチオシ

    大手道

    道路をV字型に深く切り込ませて、敵が登ると上から攻撃を加えることができるようになっています。

  • 大手道説明板<br /><br />所々に陶板製の説明板が設置されています。

    大手道説明板

    所々に陶板製の説明板が設置されています。

  • 大手道<br /><br />左右は竹林で囲まれています。

    大手道

    左右は竹林で囲まれています。

  • 大手道<br /><br />路の左は急崖となっており、足を踏み外すと上がって来られません。

    大手道

    路の左は急崖となっており、足を踏み外すと上がって来られません。

  • 大手道<br /><br />設置された柵は擬木が使われて周囲に溶け込んでいます。

    大手道

    設置された柵は擬木が使われて周囲に溶け込んでいます。

  • 本丸・南の城案内板<br /><br />直進すると本丸・南の城、左手に向かうと松尾丸に繋がります。

    本丸・南の城案内板

    直進すると本丸・南の城、左手に向かうと松尾丸に繋がります。

  • 堀切<br /><br />尾根の途中をV字に切って尾根づたいに進んでくる敵の進路を塞ぎます。<br /><br />

    堀切

    尾根の途中をV字に切って尾根づたいに進んでくる敵の進路を塞ぎます。

  • 堀切説明板

    堀切説明板

  • 本丸案内板

    本丸案内板

  • 三層櫓跡<br /><br />階段を登ると櫓跡が盛土となっています。

    三層櫓跡

    階段を登ると櫓跡が盛土となっています。

  • 本丸案内板<br /><br />三層櫓跡に上がる階段下に設置の案内板があります。

    本丸案内板

    三層櫓跡に上がる階段下に設置の案内板があります。

  • 三層櫓跡<br /><br />本丸への案内が見えます。

    三層櫓跡

    本丸への案内が見えます。

  • 本丸に向かう階段

    本丸に向かう階段

  • 本丸の枡形虎口跡

    本丸の枡形虎口跡

  • 枡形虎口説明板

    枡形虎口説明板

  • 佐土原城本丸跡

    佐土原城本丸跡

  • 佐土原城本丸跡

    佐土原城本丸跡

  • 佐土原城本丸跡

    佐土原城本丸跡

  • 佐土原城本丸跡

    佐土原城本丸跡

  • 佐土原城本丸標柱

    イチオシ

    佐土原城本丸標柱

  • 本丸説明板

    本丸説明板

  • 佐土原城天守台跡

    佐土原城天守台跡

  • 佐土原城天守台跡

    佐土原城天守台跡

  • 佐土原城天守台跡

    イチオシ

    佐土原城天守台跡

  • 佐土原城天守台跡標柱

    佐土原城天守台跡標柱

  • 天守台説明板<br /><br />平成8年(1996)から始まった発掘調査では古絵図の位置に天守台跡が確認されますが二層であったのか三層であったのかは今後の調査を待つことになります。

    天守台説明板

    平成8年(1996)から始まった発掘調査では古絵図の位置に天守台跡が確認されますが二層であったのか三層であったのかは今後の調査を待つことになります。

  • 佐土原城天守台跡<br /><br />盛土の一部に石垣が見えます。

    佐土原城天守台跡

    盛土の一部に石垣が見えます。

  • 佐土原城天守台跡<br /><br />

    佐土原城天守台跡

  • 佐土原城天守跡<br /><br />盛土の周辺に石垣により形状が崩れるのを防いでいるようです。

    佐土原城天守跡

    盛土の周辺に石垣により形状が崩れるのを防いでいるようです。

  • 佐土原城天守跡

    佐土原城天守跡

  • 番屋坂案内板<br /><br />鶴松館目指して本丸を離れます。

    番屋坂案内板

    鶴松館目指して本丸を離れます。

  • 番屋坂

    番屋坂

  • 番屋坂・あずま屋案内板

    番屋坂・あずま屋案内板

  • あずま屋<br /><br />休憩所が設置されているのでここで一息入れます。

    あずま屋

    休憩所が設置されているのでここで一息入れます。

  • あずま屋周辺風景

    あずま屋周辺風景

  • 中の道<br /><br />

    中の道

  • 井戸跡<br /><br />中の道途中に井戸水らしきものが認められます。山城での飲み水確保の工夫がなされています。

    井戸跡

    中の道途中に井戸水らしきものが認められます。山城での飲み水確保の工夫がなされています。

  • 中の道<br /><br />出土文化財管理センタ−の建物に近づきます。<br /><br />

    中の道

    出土文化財管理センタ−の建物に近づきます。

  • 出土文化財管理センター<br />

    出土文化財管理センター

  • 佐土原城御普請所跡柱標

    佐土原城御普請所跡柱標

  • 鶴松館遠望<br /><br />出土文化財官吏センタ−から鶴松館を望みます。

    鶴松館遠望

    出土文化財官吏センタ−から鶴松館を望みます。

  • 佐土原城跡関連石碑

    佐土原城跡関連石碑

  • 佐土原城反米役所跡(はんまいやくじょあと)

    佐土原城反米役所跡(はんまいやくじょあと)

  • 高月院に向かう道路<br /><br />この道路を直進し、堀切を通ると佐土原島津氏の菩提寺である高月院に着きます。<br /><br />

    高月院に向かう道路

    この道路を直進し、堀切を通ると佐土原島津氏の菩提寺である高月院に着きます。

  • 御馬繋場跡(おんうまつなぎあと)

    御馬繋場跡(おんうまつなぎあと)

  • 佐土原城搦手<br /><br />高月院に繋がる切通しが圧巻です。

    佐土原城搦手

    高月院に繋がる切通しが圧巻です。

  • 搦手説明板

    搦手説明板

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