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豊臣秀吉の島津征伐に対し佐土原を中核として日向国総大将、薩摩島津藩主義久(よしひさ、1533~1611)の末弟家久(いえひさ、1547~1587)と嫡男豊久(とよひさ、1570~1600)とその一族を祀った今は廃寺となった天昌寺(てんしょうじ)跡を訪れました。<br /><br />元亀3年木崎原の戦いで敗れた日向の雄伊東義祐(いとうよしすけ、1512~1585)は所領維持困難となり外戚の大友宗麟(おおともそうりん、1530~1587)を頼り豊後に逃れ、佐土原城は無傷で薩摩島津氏の手に落ちます。<br /><br />翌年8月大友宗麟は自ら3万5千の大軍を率い日向に出兵し小丸川を挟んで島津義久率いる軍と対峙、ところが各地域からの寄せ集めの大友兵は連携に欠け一体性なく訓練を受けた島津兵に突撃を繰り返すも島津軍の巧みな戦術に陥り大敗を喫します。<br /><br />九州のほぼ全域を支配下に収めた島津氏に対し大友氏の懇願を受けた豊臣秀吉は島津氏討伐を決意、天正15年(1587)実弟秀長には日向口から自らは肥後口から攻め入り、家久は日向口から進出した20万の秀長軍に対抗する手立てなく降伏を申し出、秀吉もこれを承認し本来の所領は安堵されますが、やがて家久は不可解な突然の病死、その遺領は嫡男豊久に引き継がれることになります。<br /><br />佐土原を受け継いだ豊久はその後秀吉の朝鮮出兵では叔父の島津義弘(しまづよしひろ、1535~1619)と共に約2000名の将兵と共に現地に赴き連戦で活躍します。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは叔父の義弘に従い約1000名の兵士と共に石田三成(いしだみつなり、1560~1600)の西軍の立場で陣に臨み、自らは出陣せず静観を保ち勝敗を見届けたのちに東軍陣地を中央突破、井伊直政(いいなおまさ、1561~1602)らが率いる追跡軍に抗しその途中義弘の逃亡を助けるため豊久は自ら犠牲となります。<br /><br />日向国美々津に帰還した義弘に従事していた兵士はわずか80数名だったと言われ、また豊久に従った遺臣も数多くにのぼり、関ヶ原の戦い後藩主を失った臣下は天昌寺に豊久の霊を弔うため供養塔を建立します。<br /><br />尚関ヶ原の戦いで西軍として処された佐土原藩は徳川家康により所領を没収され、豊久家臣らは義弘を頼って鹿児島日置郡吹上町永吉に領地を授かり改めて永吉島津家を再興することとなります。<br /><br />佐土原を追放された豊久家臣らは永吉移転後は同名の天昌寺を建立、本家に貢献した豊久の墓を設け、併せて歴代永吉島津氏の当主と正室の菩提寺としますが、佐土原と同様廃仏希釈により廃寺となり墓だけが残されています。

日向佐土原 薩摩大隅を領する島津氏の庶流ながらも日向佐土原藩島津家久及び豊久親子の菩提寺とされる『天昌寺』跡散歩

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2013/10/14 - 2013/10/14

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22

滝山氏照

滝山氏照さん

豊臣秀吉の島津征伐に対し佐土原を中核として日向国総大将、薩摩島津藩主義久(よしひさ、1533~1611)の末弟家久(いえひさ、1547~1587)と嫡男豊久(とよひさ、1570~1600)とその一族を祀った今は廃寺となった天昌寺(てんしょうじ)跡を訪れました。

元亀3年木崎原の戦いで敗れた日向の雄伊東義祐(いとうよしすけ、1512~1585)は所領維持困難となり外戚の大友宗麟(おおともそうりん、1530~1587)を頼り豊後に逃れ、佐土原城は無傷で薩摩島津氏の手に落ちます。

翌年8月大友宗麟は自ら3万5千の大軍を率い日向に出兵し小丸川を挟んで島津義久率いる軍と対峙、ところが各地域からの寄せ集めの大友兵は連携に欠け一体性なく訓練を受けた島津兵に突撃を繰り返すも島津軍の巧みな戦術に陥り大敗を喫します。

九州のほぼ全域を支配下に収めた島津氏に対し大友氏の懇願を受けた豊臣秀吉は島津氏討伐を決意、天正15年(1587)実弟秀長には日向口から自らは肥後口から攻め入り、家久は日向口から進出した20万の秀長軍に対抗する手立てなく降伏を申し出、秀吉もこれを承認し本来の所領は安堵されますが、やがて家久は不可解な突然の病死、その遺領は嫡男豊久に引き継がれることになります。

佐土原を受け継いだ豊久はその後秀吉の朝鮮出兵では叔父の島津義弘(しまづよしひろ、1535~1619)と共に約2000名の将兵と共に現地に赴き連戦で活躍します。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは叔父の義弘に従い約1000名の兵士と共に石田三成(いしだみつなり、1560~1600)の西軍の立場で陣に臨み、自らは出陣せず静観を保ち勝敗を見届けたのちに東軍陣地を中央突破、井伊直政(いいなおまさ、1561~1602)らが率いる追跡軍に抗しその途中義弘の逃亡を助けるため豊久は自ら犠牲となります。

日向国美々津に帰還した義弘に従事していた兵士はわずか80数名だったと言われ、また豊久に従った遺臣も数多くにのぼり、関ヶ原の戦い後藩主を失った臣下は天昌寺に豊久の霊を弔うため供養塔を建立します。

尚関ヶ原の戦いで西軍として処された佐土原藩は徳川家康により所領を没収され、豊久家臣らは義弘を頼って鹿児島日置郡吹上町永吉に領地を授かり改めて永吉島津家を再興することとなります。

佐土原を追放された豊久家臣らは永吉移転後は同名の天昌寺を建立、本家に貢献した豊久の墓を設け、併せて歴代永吉島津氏の当主と正室の菩提寺としますが、佐土原と同様廃仏希釈により廃寺となり墓だけが残されています。

交通手段
高速・路線バス ANAグループ 徒歩

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  • 前佐土原島津氏説明板<br /><br />初代家久・二代目豊久の活躍ぶりが紹介されています。

    前佐土原島津氏説明板

    初代家久・二代目豊久の活躍ぶりが紹介されています。

  • 天昌寺跡遠景<br /><br />明治4年に廃仏令により廃寺となった天昌寺は前佐土原島津氏の菩提寺でした。<br /><br />

    天昌寺跡遠景

    明治4年に廃仏令により廃寺となった天昌寺は前佐土原島津氏の菩提寺でした。

  • 前島津氏墓案内板<br /><br />一般の墓地の手前を右折して奥に進みます。<br /><br />

    前島津氏墓案内板

    一般の墓地の手前を右折して奥に進みます。

  • 前島津氏墓案内板<br /><br />小路を更に登ります。<br /><br />

    前島津氏墓案内板

    小路を更に登ります。

  • 天昌寺跡地<br /><br />登り切った所に天昌寺跡地で右奥には古びた小振りの霊廟が見えます。

    天昌寺跡地

    登り切った所に天昌寺跡地で右奥には古びた小振りの霊廟が見えます。

  • 前佐土原氏説明文

    前佐土原氏説明文

  • 神木<br /><br />境内跡の入口に聳える樹木が神木と見受けられます。

    神木

    境内跡の入口に聳える樹木が神木と見受けられます。

  • 天昌寺跡標柱<br /><br />明治4年廃仏令により廃寺となっています。<br /><br />

    天昌寺跡標柱

    明治4年廃仏令により廃寺となっています。

  • 天昌寺跡標柱<br /><br />二代目豊久を関ヶ原で失い併せて領地を家康に没収された遺臣たちは鹿児島県日置郡吹上町永吉に引き上げます。

    天昌寺跡標柱

    二代目豊久を関ヶ原で失い併せて領地を家康に没収された遺臣たちは鹿児島県日置郡吹上町永吉に引き上げます。

  • 霊廟<br /><br />手入れされてないの霊廟の戸が開かれています。

    霊廟

    手入れされてないの霊廟の戸が開かれています。

  • 霊廟内部<br /><br />内部正面中央には仏壇らしきものが置かれています。

    霊廟内部

    内部正面中央には仏壇らしきものが置かれています。

  • 供養塔群<br /><br />跡地の北側と西側に墓石が配置されています。

    供養塔群

    跡地の北側と西側に墓石が配置されています。

  • 前島津氏藩主供養塔<br /><br />北側には素朴な供養塔が並び、左から初代島津家久、二代目島津豊久、家久の妻、家久の母堂の供養塔が並んでいます。

    イチオシ

    前島津氏藩主供養塔

    北側には素朴な供養塔が並び、左から初代島津家久、二代目島津豊久、家久の妻、家久の母堂の供養塔が並んでいます。

  • 供養塔説明板<br /><br />

    供養塔説明板

  • 墓石群<br /><br />前佐土原氏重臣と思われる墓が隣接しています。

    墓石群

    前佐土原氏重臣と思われる墓が隣接しています。

  • 墓石群<br /><br />西側の17基は前佐土原島津氏忠臣の墓と思われます。

    墓石群

    西側の17基は前佐土原島津氏忠臣の墓と思われます。

  • 墓石群<br /><br />17基の墓石の中に関ヶ原合戦で戦死した豊久と共に戦死した遺臣3名の墓石もあります。<br /><br />

    イチオシ

    墓石群

    17基の墓石の中に関ヶ原合戦で戦死した豊久と共に戦死した遺臣3名の墓石もあります。

  • 前佐土原島津氏供養塔

    前佐土原島津氏供養塔

  • 天昌寺跡<br /><br />

    天昌寺跡

  • 供養塔背後地<br /><br />不明な墓石もいくつか残されています。<br /><br /><br /><br />

    供養塔背後地

    不明な墓石もいくつか残されています。



  • 石碑<br /><br />

    石碑

  • 奉納文

    奉納文

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この旅行記へのコメント (1)

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  • ごまさん 2014/01/03 23:02:45
    こんばんは
    滝山氏照様

    あけましておめでとうございます。
    本年もどうぞよろしくお願いします。

    いつも私の旅行記へ訪問と投票を有難うございます。

    毎回とても歴史の勉強をさせて頂いています。
    こういう場所は私も好きなので、楽しみにしております。

    今年は新年から良い天気で、快適に過ごせますね。
    どうぞ宜しくお願いします。
    ごま

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