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佐土原島津氏歴代藩主の菩提寺である高月院(こうげついん、宮崎県宮崎市佐土原町上田島)が佐土原城(松鶴館)の北西に建立されています。<br /><br />当寺の説明板によれば、慶長15年(1610)佐土原島津藩初代以久(もちひさ)が京都伏見にて逝去、それまで京都在住以来大雲院の開山貞安上人の導きにより剃髪、浄土宗の戒めを受けていた事から上人の引導によって大雲院に葬られます。<br /><br />二代目藩主忠興(ただおき)は亡父の供養の為同上人を開山和尚として佐土原の現在地に寺院を建立、亡父の法号「高月院殿前典厩照誉宗怒居士」に因み「高月院」と命名し御廟所と仏間を設けて佐土原島津家の菩提寺とします。<br /><br />文化9年(1812)高月院は火災により全焼、寺院の古記物や宝物等はことごとく焼失しますが、藩の手によっていち早く再建されます。<br /><br />藩主を始めとする藩の崇敬は殊の外厚く、参勤交代には初代藩主に縁がある大雲院には必ず参詣する習わしとなっていたそうです。<br /><br /><br />2022年11月8日追記<br /><br />境内の途中に「高月院の由来」と題する手書きの説明板があり、下記記述の<br />通りです。<br /><br /><br />『 高月院の由来<br /><br />宗派 浄土宗  j本尊 阿弥陀如来  名称 大池山青蓮寺高月院<br /><br />佐土原藩初代藩主以久公は、戦国騒乱の世を勇猛な武将として生き抜いてきた武人でした。晩年伏見に在住したとき、京都大雲院の開山、貞安上人の導きによって心の安定を得られた。のちに浄土宗円の成を受けて剃髪、「わが子孫永く大雲院の檀那となり、上人の遺法を護らしめん」と上人に約定されたといわれています。<br /><br />慶長15年(1610)公は伏見で逝去され、上人の引導によって大雲院に葬られ「高月院殿前典厩照誉宗怒居士」と授与されました。<br /><br />二代忠興公は亡父供養のため上人を開山和尚として佐土原の現在地に寺院を建立、父の号をとって高月院と命名、御廟所と仏間を設け、佐土原島津家の菩提寺とされました。(開山貞安上人伝 高月院蔵より)<br /><br />初代公の約定はそのまま生かされ、当院と大雲院に対する藩の尊崇は非常に厚く、参勤の行き帰りには必ず参詣する習わしになっていました。<br /><br />文化9年(1812)当院は火災によって全焼、古記録や宝物を焼失したが、藩の手によって直ちに再建され、その壮大な姿は当院の絵図に残されています。<br /><br />明治の初め、廃仏の嵐の中で当院は「一宗派一寺院を残す」の令によって浄土宗の中心寺院として昔の面影のまま、被害を受けずに残り現代に至っています。<br /><br />                佐 土 原 町<br />                佐土原町教育委員会 』

日向佐土原 佐土原藩後期島津氏二代目忠興が父以久公供養のために創建、歴代藩主と室が眠る菩提寺で参勤の行き帰りには必ず参詣する『高月院』散歩

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2013/10/14 - 2013/10/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

佐土原島津氏歴代藩主の菩提寺である高月院(こうげついん、宮崎県宮崎市佐土原町上田島)が佐土原城(松鶴館)の北西に建立されています。

当寺の説明板によれば、慶長15年(1610)佐土原島津藩初代以久(もちひさ)が京都伏見にて逝去、それまで京都在住以来大雲院の開山貞安上人の導きにより剃髪、浄土宗の戒めを受けていた事から上人の引導によって大雲院に葬られます。

二代目藩主忠興(ただおき)は亡父の供養の為同上人を開山和尚として佐土原の現在地に寺院を建立、亡父の法号「高月院殿前典厩照誉宗怒居士」に因み「高月院」と命名し御廟所と仏間を設けて佐土原島津家の菩提寺とします。

文化9年(1812)高月院は火災により全焼、寺院の古記物や宝物等はことごとく焼失しますが、藩の手によっていち早く再建されます。

藩主を始めとする藩の崇敬は殊の外厚く、参勤交代には初代藩主に縁がある大雲院には必ず参詣する習わしとなっていたそうです。


2022年11月8日追記

境内の途中に「高月院の由来」と題する手書きの説明板があり、下記記述の
通りです。


『 高月院の由来

宗派 浄土宗  j本尊 阿弥陀如来  名称 大池山青蓮寺高月院

佐土原藩初代藩主以久公は、戦国騒乱の世を勇猛な武将として生き抜いてきた武人でした。晩年伏見に在住したとき、京都大雲院の開山、貞安上人の導きによって心の安定を得られた。のちに浄土宗円の成を受けて剃髪、「わが子孫永く大雲院の檀那となり、上人の遺法を護らしめん」と上人に約定されたといわれています。

慶長15年(1610)公は伏見で逝去され、上人の引導によって大雲院に葬られ「高月院殿前典厩照誉宗怒居士」と授与されました。

二代忠興公は亡父供養のため上人を開山和尚として佐土原の現在地に寺院を建立、父の号をとって高月院と命名、御廟所と仏間を設け、佐土原島津家の菩提寺とされました。(開山貞安上人伝 高月院蔵より)

初代公の約定はそのまま生かされ、当院と大雲院に対する藩の尊崇は非常に厚く、参勤の行き帰りには必ず参詣する習わしになっていました。

文化9年(1812)当院は火災によって全焼、古記録や宝物を焼失したが、藩の手によって直ちに再建され、その壮大な姿は当院の絵図に残されています。

明治の初め、廃仏の嵐の中で当院は「一宗派一寺院を残す」の令によって浄土宗の中心寺院として昔の面影のまま、被害を受けずに残り現代に至っています。

                佐 土 原 町
                佐土原町教育委員会 』

交通手段
高速・路線バス ANAグループ 徒歩

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  • 高月院・山門<br /><br />佐土原島津家の菩提寺にしては小規模で素朴な佇まいを感じさせます。

    高月院・山門

    佐土原島津家の菩提寺にしては小規模で素朴な佇まいを感じさせます。

  • 高月院・山門周辺<br /><br />大きな溝が蛇行しているのが見えます。手入れされていませんので見苦しい景色とも言えますが、往時は手入れの行き届いた堀となっていたと思われます。

    高月院・山門周辺

    大きな溝が蛇行しているのが見えます。手入れされていませんので見苦しい景色とも言えますが、往時は手入れの行き届いた堀となっていたと思われます。

  • 高月院・山門周辺

    高月院・山門周辺

  • 高月院・本堂<br /><br />浄土宗で正式には「大池山青連寺高月院」と称します。

    高月院・本堂

    浄土宗で正式には「大池山青連寺高月院」と称します。

  • 高月院本堂・扁額<br /><br />院号である「高月院」と揮毫された扁額が見えます。

    高月院本堂・扁額

    院号である「高月院」と揮毫された扁額が見えます。

  • 「高月院の由来」説明板

    「高月院の由来」説明板

  • 佐土原藩島津家御廟所<br /><br />初代島津以久(もちひさ)を始めとする墓所があり、当寺は佐土原島津氏の菩提寺となって歴代藩主(一部は他所)の墓が設置されています。<br /><br />

    佐土原藩島津家御廟所

    初代島津以久(もちひさ)を始めとする墓所があり、当寺は佐土原島津氏の菩提寺となって歴代藩主(一部は他所)の墓が設置されています。

  • 佐土原島津氏初代以久公の墓所

    イチオシ

    佐土原島津氏初代以久公の墓所

  • 佐土原島津氏2代目忠興(ただおき)公墓所

    イチオシ

    佐土原島津氏2代目忠興(ただおき)公墓所

  • 初代以久公室梅光院殿墓所

    初代以久公室梅光院殿墓所

  • 佐土原島津氏3代目久雄(ひさたか)公墓所

    佐土原島津氏3代目久雄(ひさたか)公墓所

  • 佐土原島津氏4代目忠高(ただたか)公墓所

    佐土原島津氏4代目忠高(ただたか)公墓所

  • 2代目忠興公室龍泉院殿墓所

    2代目忠興公室龍泉院殿墓所

  • 4代目忠高(ただたか)公室松壽院殿墓所

    4代目忠高(ただたか)公室松壽院殿墓所

  • 佐土原島津氏8代目忠持(ただもち)公墓所

    佐土原島津氏8代目忠持(ただもち)公墓所

  • 8代目忠持公室真容院殿

    8代目忠持公室真容院殿

  • 佐土原島津氏歴代藩主・室墓所

    佐土原島津氏歴代藩主・室墓所

  • 佐土原島津氏歴代藩主・室墓所

    佐土原島津氏歴代藩主・室墓所

  • 更に歴代藩主・室墓所<br /><br />一段高台にも次なる歴代藩主・室墓所が並びます。

    更に歴代藩主・室墓所

    一段高台にも次なる歴代藩主・室墓所が並びます。

  • 佐土原島津氏9代目忠徹(ただゆき)公墓所

    佐土原島津氏9代目忠徹(ただゆき)公墓所

  • 9代目忠徹公室實真院殿墓所

    9代目忠徹公室實真院殿墓所

  • 佐土原島津氏10代目忠寛(ただひろ)公墓所

    佐土原島津氏10代目忠寛(ただひろ)公墓所

  • 佐土原島津氏11代目忠亮(ただあきら、1849~1909)公墓所<br /><br />明治時代に入り伯爵、貴族院議員となります。<br /><br /><br />

    佐土原島津氏11代目忠亮(ただあきら、1849~1909)公墓所

    明治時代に入り伯爵、貴族院議員となります。


  • 忠亮公室松齢院墓所

    忠亮公室松齢院墓所

  • 佐土原島津氏(12代目~14代目)墓所<br /><br />第12代目忠麿(1877~1926)公、第13代目久範(194~1994)公そして第14代目忠韶(1927~**)公を祀った墓所となっています。歴代藩主が正室と個別に設置されている墓所の敷地に限界がありその影響で三人が室と共に合祀されています。

    佐土原島津氏(12代目~14代目)墓所

    第12代目忠麿(1877~1926)公、第13代目久範(194~1994)公そして第14代目忠韶(1927~**)公を祀った墓所となっています。歴代藩主が正室と個別に設置されている墓所の敷地に限界がありその影響で三人が室と共に合祀されています。

  • 墓誌<br /><br />第12代目から14代目までの藩主が正室と共に合祀されています。

    墓誌

    第12代目から14代目までの藩主が正室と共に合祀されています。

  • 初代藩主らの墓所<br /><br />初代から8代目までの藩主・室の(5代目から7代目を除く)墓所を高台から捉えます。

    初代藩主らの墓所

    初代から8代目までの藩主・室の(5代目から7代目を除く)墓所を高台から捉えます。

  • 高台にある藩主墓所<br /><br />高台には12代目から14代目までの藩主が正室と共に祀られています。

    高台にある藩主墓所

    高台には12代目から14代目までの藩主が正室と共に祀られています。

  • 豊烈曜後之碑<br /><br />戊辰戦争で佐土原藩から参戦した時の戦没者招魂碑です。

    豊烈曜後之碑

    戊辰戦争で佐土原藩から参戦した時の戦没者招魂碑です。

  • 戊申戦役佐土原藩隊士の碑

    戊申戦役佐土原藩隊士の碑

  • 豊烈曜後之碑説明板

    豊烈曜後之碑説明板

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