2011/09/11 - 2011/09/21
46位(同エリア342件中)
明石DSさん
旅先では早起きとなる。熟睡は無理
318号室の部屋の窓から“布爾哈通河”方向を写す
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3日目:9月13日(火):晴
延吉〜琿春〜張鼓峰〜防川〜琿春
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2011/平成23年9月13日(火)
■延吉の朝
今日も午前5時頃に起きてボチボチ準備を始めた。この境浦旅店には朝食がないので、午前7時頃に退房(チェックアウト)をし朝雲りの中、琿春行きのバスに乗るために延吉駅前に向う。
駅まで(5元=65円)乗ったタクシーの運転手は、男と女の適齢期の子供二人がいるが男は結婚条件が厳しくて結婚できないと言っていた。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
大型丸型トイレットペーパー収納器は気に入ったけど
これはなんや?七不思議?
便座が便器より内側に収まっている
こっちは洋式トイレは男も坐って小便をするのか?
便座を上に上げにくいねんけど、あんたらはどうやってるの? -
パソコン完備でありがとう
YouTubeは見れず、完璧に遮断
共産党独裁政権ってのはこんなもの -
站前街を延吉站に向う
-
延吉から琿春へ
琿春一枚
26.5元(345円)
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■バスで琿春へ
バス乗り場は延吉駅前の広場で、大中小取り混ぜて沢山のバスが、行き先の看板を掲げて停まっている。その中に小型のマイクロバスのような琿春行きがあった。まず切符売り場(售票? Shòupiào chù)でチケットを買う。
26.5元(345円)、0.5元の保険代を含む。大体客の多い所へ行くバスは、何処でも満員になり次第発車する。朝も早いのですぐに満員になり出発(7時28分)した。
延吉→琿春は、1時間半くらいのバスの旅。満員御礼、助手席も使っての出発となる。2009年に開通の標高が高さそうな山の中を走る高速道路で、琿春のバス乗り場に9時過ぎに到着。 -
琿春行きのバスはマイクロバス
客が満員になり次第出発のよう -
バスの窓から出発風景
いつも、どこでも、こんな感じです -
きっと日本人は私一人
でも誰もそのことを気付きません -
車窓の景色は山の中が多かったです
川のある風景 -
標高もそこそこ高いような・・・。
-
やって来ました琿春へ
「こんしゅん」「フンチュン」 -
琿春賓館
部屋は広くて十分です、バスタブなし
一泊210元(2730円)
ロシア人、中国海軍ご用達?
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■琿春賓館
八年前は、琿春市内に車で一度立ち寄っただけで初めての琿春バス乗り場であり、町の様子はまったく右も左も分からず、とりあえず相乗りタクシーで今日の宿である琿春賓館に向った。
タクシー内には中年の夫婦連れのような二人の先客がいたが私が行き先を告げて、タクシーが動き出すと運ちゃんと客が「こいつは韓国人だ」と何度も会話しているので、私は「不是、我是日本人」と言うと、驚きながら運ちゃんが「防川、防川、防川去?(防川行ったのか?)」という。その時はこの「Fáng chuān ふぁんちゅあん」と言っているのが聞き取れず「听不懂 Tīng bù dǒng(聞いても分からん)」と言うと今度は「看日本海・日本海を見る」かという。
それでこの運ちゃんが私に「一眼望三国」への観光を勧めていることが分かった。私が「一眼望三国 Yīyǎn wàng sānguó」というと「OK!OK!」と行くなら電話をと名刺をくれた。琿春賓館は歩いてもバス乗り場から数分のところにありすぐに到着。初乗り5元(65円)だった。予約はしていないので飛び込みでの交渉は久しぶりだった。
「部屋は空いてる?有空房???」「空いてます。有」「一泊いくら?」「210元」
210元というのは聞いていたより10元安いので値切らずOK。二泊で420元+押金(保証金)80元=500元を払って部屋に入る。中国はチェックアウトの制限時間は正午と決まっているがチェックインは部屋が空いている限りいつでもOKなのでありがたい。ホテルは私の基準では外見も立派で部屋も満足、210元(2730円)値段もOK。 -
窓から北山が見えます
あの展望台は?? -
ハングル
漢語
ロシア語
新安路の東側にちょっと入った所
地図には市賓館と書いてました、へぇ〜そうなん -
甩湾子断橋
琿春から図們方向に向って
まずは琿春市英安鎮密江鎮にある
甩湾子断橋(しゅあいわんずどあんちゃお)へ
日本語ではどう読むの?
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■甩湾子断橋(甩湾子断? Shuǎi wān zi duàn qiáo)へ
部屋は五階、511号室。部屋で小休止をして、いよいよこの旅のメーンである張鼓峰事件の戦跡へ行くためのタクシーをホテルの姑娘(Gūniang グーニャン)に紹介してもらい電話で話をして午後1時ホテルのフロントで待ち合わせとなった。
満洲では若い女性を呼ぶ時に「姑娘」と呼んでいることが多いようだ。ホテルの女性客がフロントの女性に服務員(服?? Fúwùyuán)と声を掛けているのも聞いた。小姐(シャオジエ)と呼んでいるのはあまり聞かない。部屋は五階、511号室。部屋で小休止をする。
午後に待ち合わせとなったので、このあたりを散歩しようとホテルの玄関を出たところで一台のタクシーが空車でホテルに入って来た。その運ちゃんと視線が合い運ちゃんから声を掛けられた。そこで思わず誘いに乗ってしまい、包車の話しになった。もう包車済みだと言ってもひつこく食い下がってくるし、私も今すぐにも出かけたい気持ちになったので、「あんたが電話を掛けてキャンセル成立すれば行こう」と言うことになった。
そしてホテルのフロントに戻り、さっき約束したタクシーの運転手の携帯番号を教えてもらい、この運ちゃんに電話をさせた。こんな話し満洲では成立しないだろうし、運転手同士の会話の内容は分からなかったが、とにかく1時に待ち合わせをキャンセルして、この運転手と早速出かけることにした。
包車の契約内容は、まず先に甩湾子断橋(甩湾子断? Shuǎi wān zi duàn qiáo シュアイワンズドアンチャオ)、次に穏城大橋(おんじょうおおはし ?城大? Wěn chéng dàqiáo ウェンチャンダーチャオ)
どちらも図們江・豆満江に架かる橋で、琿春市密江郷(甩湾子断橋)と図們市涼水鎮(隠城大橋)にある。ソ連侵攻を受けて日本軍が爆破したと言われている。そこに行ってから次に五家子・防川村、張鼓峰事件の戦跡と一眼望三国へ行くことになった。
包車料金はそれぞれ方向が違うので200元×2=400元で契約完了。運転手は陳○○さん。漢族。43歳。家族は奥さんと高校3年生17歳の娘。仕事休みは日曜日。
まず琿春市密江郷にある甩湾子断橋に向って10時過ぎに出発した。進行方向に向って左側が図們江で川向こうが北朝鮮。琿春賓館を出発し中朝国境沿いを走り10分ちょっとで橋に到着した。途中軍の国境監視塔もあった。
こっちの人は人民解放軍の駐屯地や施設を部隊(部? Bùduì ブドゥイ)と言うことが多い。この橋の対岸は北朝鮮咸鏡北道。この橋の欄干に嵌め込まれている金属板に書かれた文字は「甩湾子?」と簡体字であった。
日本軍が爆破して破壊された橋の欄干に、後から橋の名前の銘板だけを嵌め込むなど考えられない。簡体字は1960年代から正式に制定され使われだした文字のようだし。この簡体字を見て、この橋はホントに満洲時代の物なのか?と疑うが・・・真偽は分からない。橋の中国側にはトーチカのような物が残っており戦争に関係すると思われるが、真相は如何に?何故?簡体字が?
車を降り北朝鮮に向って橋を歩いた。向こうの方に観光客らしき人たちが3、4人橋上から琿春方向を眺めながら話しをしていた。近づけばその言葉から韓国人一行だった。その中の一人が「写真を撮ろうか?」とゼスチャーで問いかけてくれたので、ありがたく写してもらった。
雲はやや多かったがまあまあの天気で、ここからの風景は素晴らしかった。北朝鮮の山並みが左右に広がり、360度大きな人工構造物もなく田園風景が広がっている。目の前のたった一本の川が中朝国境だが、その意識なければ自然が広がるのんびりした田舎の景色でしかない。そりゃあ人工衛星から見れば国境の線引きなどないのは当たり前だ。
河が国境を示しているが、その他にはなにもなく。どちらの兵士の警戒もなく、橋の上に線もなく歩いて私も国境?を越えたのは間違いない。断橋の先まで行くと、50メートル先は北朝鮮だ。そこに北朝鮮側の建物があるが人の姿もなく監視カメラの様子もない。対岸の右手の方に建物があり数人の人が外で立ち話しをしているのが見えた。軍人なのか?どうか分からない。
この橋の東側に並行して鉄橋の橋桁だけが残っている。ソ連侵攻後にソ連軍がこの鉄橋を収奪したそうだ。そんなソ連軍を中国人は満洲各地で解放軍として讃える碑を建てている。橋の入り口にある要塞のような戦時遺跡と簡体字で書かれた橋の名前の銘板。真実は如何に?
並行に残る橋げたは、東満州鉄道
東満州鉄道
南満州鉄道北鮮線の訓戎(クンジュウ)駅手前のカーブから、北向きに飛び出すように分岐し、豆満江で国境を越えて満州国に入ると、そこで東向きに方向を変えて豆満江に沿うようにして下り、主要駅である琿春に至る。そこから先、本線は駱駝河子・馬圏子と右折を繰り返しながら磐石に向かっていた。
また老龍口へ向かう磐石支線は駱駝河子から、東廟嶺へ向かう廟嶺支線は馬圏子から北東方向に向けて伸びており、全体で見ると斜めに傾いた「H」のような形をした路線網となっていた。
これらの路線のうち訓戎 - 豆満江鉄橋中心までの1.2キロが朝鮮領内であったため、朝鮮総督府への出願により日本の法律である地方鉄道法で造られ、残りの満州国内部分は満州国の法律である私設鉄道法に基づいて造られた。
-
琿春から車で10分ちょっと、すぐです。
橋への通路
この先は、一体どうなっているのやら・・・ -
甩湾子橋、「?」ってのは簡体字
簡体字は1960年以降??
日本軍が爆破した???どうもオカシイ?けど
真相は不明 -
橋のたもとにトーチカ
1938年 ??486.50米,? 6.50 米,次?系32孔 ?板?。 -
山並みは北朝鮮
手前の河原は中国 -
甩湾子断橋を北朝鮮に向かって歩く
どこで断橋なのか?この手前では分からない
この橋は琿春市の管理で、
図們市管理の隠城橋とは整備の仕方は全然違う
こっちは整備されずにそのまま放置されているようだ
その方が価値はある・・・が -
破壊箇所は北朝鮮側のすぐ手前
日本軍がソ連軍侵攻に備えて爆破した??
どうもこの破壊箇所の現況を見ても??と思う -
これが断裂箇所
爆破したのか? -
北朝鮮側のこの短い部分が落とされている
一ヶ所の橋桁スパンが崩落しているようだった -
崩落附近から中国側を写す
向こうに立っている彼等の一人が私を写してくれた -
この甩湾子断橋と並行して
東満洲鉄道の鉄橋の橋桁
1945年終戦時にソ連がシベリア鉄道用に
橋上の鉄梁をすべて収奪した・・・そうだ -
中国軍の国境監視塔
と
東満洲鉄道の鉄橋の橋桁
甩湾子断橋の橋上から撮影す -
あのタクシーは私が包車した車
橋の傍に残るトーチカ
欄干に埋め込まれた銘板の「甩湾子?」
一体この橋は、
何時架けられ
誰の手によって断橋になったのか?
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甩湾子断橋:琿春市密江郷
http://www.youtube.com/watch?v=zlmKkSJU11g&feature=player_embedded
-
穏城大橋(おんじょう大橋)へ
??
I
凉水?―汪清
「真っ直ぐ→??」「左→凉水?」「右→汪清」
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■穏城大橋へ
次に図們涼水鎮にある穏城大橋に向った。陳さんは知っていると言っていてたが、実は行ったことがなく結局行き過ぎてから地元の人、何人かに聞いて辿り付いた。中国で包車をすればいつもそうだ。こっちが「此処と此処に行きたい。知っているか?」と問えば全く見当付かない場所以外は、「知っている」と言う。だから当てに出来ない。まあここは河に架かる橋だから、幾ら知らずとも近づいて聞けば分かる。
そしてこの穏城大橋は中国側「涼水鎮」と北朝鮮「穏城郡(おんじょう オンソン)郡」に架かる橋。図們市の管轄で、琿春市の管理する甩湾子断橋とは様相はまるで違う。この場所は遺跡公園のようになっていた。どっちが私として良いのか?と言えば、無論手を加えていない甩湾子断橋の方だ。中国の遺跡保存は、現状そのままではなく、最悪それなりに手を加えて、さもそれが当時の物のように作ってしまうことだ。嘘丸出しならまだしも嘘か眞か分からない改竄こそ罪でしかない。
甩湾子断橋を出て30分くらいで穏城大橋に到着した。図們江・断橋との石で作った碑が正面にあった。この場所を観光地の一つとして整備したのだろうが、一見するればまだ最近作ったばかりの公園なのに、無残に朽ち果てて寂れた公園になっていた。新しい??のに朽ち果てて・・・。橋の横には見た目にも最近作ったトーチカがあった。当時ホントにあったのか?橋は北朝鮮側にあたる部分が爆破されて橋桁だけが残っている。
この橋の中国側欄干には向って左に「穏城大橋」右に「昭和12年5月○○」と書いた銘板が残っている。この橋は間違いなく満州時代の物で、ソ連侵攻を受けて日本軍が爆破したと言われている。爆破の仕方も甩湾子断橋とは全然違うし、どうも簡体字で書いた銘板が残る甩湾子断橋はいつの時代の物か怪しい。橋の向こうには北朝鮮の穏城郡なのか町並みらしき風景があった。図們江の対岸はどことも同じように遠望に山並みが連なりその前に田園風景が広がり音もなく昔のままだろうと思われる景色が広がっていた。
ソ連侵攻までは多少の緊迫した雰囲気の中にも、この満洲には日本本土や太平洋戦線のような戦争も爆撃もなく、いつもと同じ生活が続けられていたはずだ。
銃弾飛び交うこともない満洲へのソ連軍の侵攻は関東軍には準備と心構えがあっただろうが、在留邦人は誰しも右往左往するのは当然だ。それは実際に爆弾や砲弾が炸裂しソ連軍が差し迫ってこそ即刻退避にも躊躇はないだろうが・・・。
この景色広がるまま満洲での生活全てを即座に放棄し、荷物一つで駅に集合しろと言われても誰がすぐに従うのだろう。ソ連軍の急進撃と在留邦人の避難行。関東軍は邦人を見捨てて逃げたのか?そんな単純に軍を貶める資格は誰に有る。
豆満江(図們江)に架かるこの橋を日本軍が爆破したのは、ソ連軍の朝鮮侵攻を阻むためなのか?それとも朝鮮に入ったソ連軍の満洲への侵攻を阻むためなのか?良く分からない。 -
「図們江断橋」を表記されています
琿春のタクシー運転手陳さんは
「知ってる」と即答しながら知らなかったようで
何度か地元の人に聞いて辿り着きました -
只有一个?
有很多名字
↓
「??江断? 」
「凉水断?」
「?城断? Wěn chéng duàn qiáo」
「河??城公路? Hédōng wěn chéng gōnglù qiáo」
「断橋」公園になってます
寂れてますが -
橋横に展望台もある
-
1936年施工,1937年5月竣工→1945年8月爆破、橋年齢8年
橋長525米,幅6米,橋脚21個
この橋は中国側「涼水鎮」と北朝鮮側「穏城郡」に架かる
“地球の歩き方”には隠城大橋と紹介されている・・・隠? -
“断”地点から左手方向を写す
対岸は北朝鮮
のどかです -
“断”地点から右手方向を写す
対岸は北朝鮮
のどかです -
1945/8/12.日本軍が爆破したそうです
日本軍かく戦えり、先人に心からの敬意を表す -
「昭和12年5月○○」
1937/支那事変勃発の二ヶ月前に竣工 -
中国側の一部が残存している
-
陳さん
托他的福我的?春??旅游非常痛快!太??了!
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隠城大橋
http://www.youtube.com/watch?v=MHtD5v27Dq0&feature=player_embedded -
ここで昼食食べました
帰国後
地図見てやっとここだったのか?と
ふ〜ん、こんなとこで昼食だった
http://local.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=42.629791,130.483589&spn=0.089925,0.21904&t=m&z=13&vpsrc=6&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&source=embed
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■張鼓峰へ
二つの橋を見終わり次にいよいよ張鼓峰事件の戦跡へと向う。右手に北朝鮮を見ながら来た道をしばらく引き返し琿春の手前で圏河口岸(Quān hé kǒu'àn)38キロの案内標識の方向に右カーブした。口岸(コウアン)というのは国境検問所であり税関なのか。
そして途中の小さな街「敬信鎮」の敬信飯店という名前の朝鮮族のレストランで日本海の魚と豆腐の料理を食べた。135元(1755円)。道沿いのありきたりの小さな店なのに何でこんな料金が高いのか?と、思うことはここだけではなく、それが普通だ。
高いといっても日本に比べれば全然高くないが、市内の高級レストランならいざ知らず、この店構えと値段には正直ピンと来ないが、来る客も限られそれでないと店はやっていけないのだろう。味は「美味い」と言うほどの物ではない。 -
店内
旅すれば一期一会の出会いばかり
お姉さん今日も元気ですか? -
海の魚だそうですが?
味は・・・。 -
圏河橋
昭和12年日本が架けた橋
そういえば穏城大橋も昭和12年竣工だった
当時のこの辺りの活況なる様子が伺える
日に日に目を見張るような発展を遂げたのだろう
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■圏河橋:中国の圏河⇔北朝鮮の元汀里
昼食後、まず着いたのは圏河橋(Quān hé qiáo)。日本語でどう読むの?か、分からない。1937年:昭和12年日本によって架けられた。中国の圏河と北朝鮮の元汀里を結んでいる。2010年、琿春と羅先との経済交流促進のために橋は改修された。
1937年:昭和12年竣工。ならば張鼓峰事件勃発の一年前にこの橋は開通していた。その時のソ連軍の爆撃による橋への攻撃はなかったのだろうか?圏河口岸は包車の時に言わなかったので、立ち寄れず翌日訪れた。
橋を展望する場所から望遠鏡で見たが、この時は車の往来もなく中朝の交易の実態というのはどんな物なのか?最近良く耳にする活気の有る状況とは程遠い。北朝鮮側に一台トラックが走っているのが確認出来ただけだ。 -
一応ここは圏河橋の展望公園のようです
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圏河橋
http://www.youtube.com/watch?v=ByYOCfrFoSg&feature=player_embedded -
この防川風景区の石碑も旅行前に写真で良く目にしていた
車で走ってたら、これが有った
「ちょっと停めて」「写真を写す」・・・と
我もここに来たる
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■防河風景区へ
いよいよ今回のメーンテーマである「張鼓峰事件の戦跡」にやってきた。
まず蓮花湖、ここは公園になっており整備されている。この場所に来るにあたっての一番の不安は、「張鼓峰・将軍峰」はともかくとして「沙草峰」「「野口高地」「52高地」などの山や高地を特定出来るや否や?ということだった。その地域にある蓮花湖へまず行った。
この湖が何なのか?この時はさっぱり分からないままだったが、この湖の向こうに側になだらかな稜線の低い丘陵のような山が沙草峰だった。
Web頁で仕入れた資料を良く見ていれば、この蓮花湖が当時の丸池であり沙草峰がこの山だというのが分かったはずなのに、その時はそういったことを知らないままでこの湖のほとりに立ち写真を撮っていた。帰りに再度立ち寄った時に分かったが・・・。 -
蓮花湖か
実際に来てみないと、どうなってるか?
分からない
そうか、こんなとこか -
これが丸池とも気付かずに、ただ蓮花湖だと眺める
まして沙草峰が目の前にあるとも知らず -
丸池(蓮花湖)に沙草峰(无名高地 Wúmíng gāodì)
この時は露知らず
帰路、この目の前の丘陵が沙草峰だと知る
1938/昭和13年7月29日
ソ連軍沙草峰に現われ工事を始める
尾高中将独断攻撃を命じ
千田部隊ソ連軍を駆逐する
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張鼓峰事件の経過
われら張鼓峰を死守す:冨永亀太郎(著)
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1938/昭和13年
6.13
リュシュコフ大将、ポシェットより長岑子を経て、琿春に亡命し朝野を驚かす。
7.5
ソ連軍ポシェット警備隊長の暗号電報傍受。関東軍、ソ連軍張鼓峰越境の企図を知る。
7.9
ソ連兵、張鼓峰に現われ工事を始める。
7.13
小磯朝鮮軍司令官、事件処理の方針を決め、中央に意見具申。その要旨は、先ず外交交渉を行い、ソ連がこれに応じない場合は、武力をもってこれを駆逐する。
7.14
大本営、小磯報告を聞き、事件処理要綱を決める。その要領は、朝鮮軍の意見の通り先ず外交交渉を促進し、かつ交渉決裂に備えて、第19師団を事件地附近に集中することを命じ、同時に武力発動は中央の指令によるべきことを明示したしたものである。
7.16
大本営、前記要旨の「大陸命」を下す。この際兵力集中の目的と、現地軍に慎重な態度をとるよう、特に注意を喚起した。中村朝鮮軍司令官は、右「大陸命」により、歩兵四大隊・山砲・工兵の主力などの応急派兵の準備を命ずる。
7.17
尾高中将は、朝鮮軍命令により部隊に待機命令を下す。歩兵75連隊、歩兵76連隊第一大隊、山砲25連隊主力、野戦重砲連隊高射砲、工兵連隊主力。朝鮮軍は、待機部隊に対し、国境に前進を命ず。
同時に、兵力の豆満江渡河と武力行使は、別命によるべき旨厳命す。尾高中将は、歩兵75連隊、砲兵、工兵の主力部隊を阿吾地に、歩兵76連隊の一大隊を慶興に前進を命ず。
7.18
歩兵75連隊、会寧出発。その他の部隊も同夜、羅南出発。
7.19
各隊は、それぞれの地に午前中に集結を終える。大本営は、その後の外交交渉がはかばかしくないのに対し、国境におけるソ連軍の行動の活発なのを憂慮して、武力行使の考えが強くなった。荒尾参謀を第19師団長の許に急派して、武力行使についての大命案(朝鮮軍司令官は、張鼓峰附近におけるソ連軍の不法越境に対して実力を行使することを得)を伝えさせ、あわせて急襲的限定攻撃について第19師団を指導させた。
現地の尾高中将、歩兵75連隊長佐藤大佐は、荒尾参謀の指導により着々戦備を整え、大命の下るのを待った。
7.20
中央では、武力行使は許可されないのみか、板垣陸相は陛下よりお叱りを受け、武力行使は中止となる。陸相は、上奏の行き違い不始末を憂慮して辞意を表明。重光大使、モスクワにてリトヴィノフ外相と会見、ソ連軍の引揚げを要求。
7.21
武力行使中止の大命現地に届く。この間、中央と現地で電報のやりとりがあったが、武力中止は一時的と解される節もあり、中央、現地とも、武力行使について全面的にこれを守る空気にはなかったようである。
7.22
参謀次長電をもって、武力を使用しない旨再確認したが、この時点では国境に進出した第19師団諸隊を撤退させる処置は考えていなかった。
7.23
現地からの荒尾参謀電により、第19師団は依然として、限定攻撃を期待する空気にあるを知って、ようやく撤退に踏み切る決心をした。
7.26
第19師団撤退に関する大陸命下る。
7.28
第一梯団より撤退はじめる。
7.29
ソ連軍歩兵数名、沙草峰に現われ工事を始める。尾高中将、千田中佐に独断攻撃を命じ、越境ソ連軍兵士の駆逐をはかると同時に、未帰還部隊の出発中止、羅南に先に帰った師団司令部、山砲主力を再び戦場に引き返す命令を出す。
千田部隊、沙草峰のソ連兵を駆逐す。退いたソ連軍は兵力を増し、、戦車を伴い再び攻撃して来る。我が方の判断によると、ソ連兵は国境線を500メートル越えていた。
7.30
中村中将は、尾高中将の処置を認め、かつ、あくまで不拡大方針をとるように注意す。沙草峰の越境ソ連軍の攻撃を命じた尾高中将の心境は、沙草峰は張鼓峰とは切り離して処理すべきであると決め、ついで沙草峰保持のためには、戦術上張鼓峰をわが有とせねばならない、従って張鼓峰を独力攻撃すべきであるとした。夕刻、歩兵75連隊第一大隊張鼓峰夜襲の行動につく。
7.31
夜襲部隊攻撃開始。午前2時頂上占領す。ソ連軍多数の遺体を残して敗退す。歩兵76連隊第一大隊、沙草峰の敵を払暁攻撃、ソ連軍を撃退し同地占領す。多田参謀次長戦況奏上。大本営は、尾高中将に対し、現在線を確保し、現状以上に戦闘を拡大させないよう命ず。尾高中将感涙にむせぶ。
8.1
羅南部隊(歩兵73、歩兵76連隊)に応急派兵下令、国境に向かい出発す。敵の反撃始まる。第一線、大空襲(百数十機)を受く。
8.2
夜、歩兵73連隊、豆満江を渡る。歩兵76連隊は、敵の右側を包囲攻撃する計画のもとに、豆満江の渡河を始めたが、この計画は不許可になったので、下汝坪に転進集結す。
8.3
歩兵73連隊、沙草峰の配備につく。尾高中将、歩兵74連隊の招致を申請したが、朝鮮軍これを却下す。ソ連軍、反撃をやめ後方陣地に退く。
8.4
師団主力部隊、戦備を急ぐ。敵の攻勢準備次第に活発となる。重光大使再度、リトヴィノフと会見、交渉進展せず。
8.5
敵の攻撃準備、昼夜間断なく行われる。
8.6
ソ軍、空陸呼応しての総攻撃始まる。張鼓峰、夜戦の攻防。佐藤大佐張鼓峰死守。
8.7
野口高地落つ。野口中隊(歩兵75第9中隊)全滅。52高地の苦戦、歩兵73、第一大隊の救援。
8.8
第一線守備隊の苦戦続く。歩兵74連隊先遣部隊、8日夜豆満江を渡る。90改造野砲二中隊、野戦重砲中隊(15加二門)戦場に到着。歩兵76連隊第三大隊の東南角高地の夜襲成功せず。
8.9
増加、長距離砲試射開始。歩兵74連隊主力、将軍峰に集結す。この日、各戦線ともに苦戦が続いたが、よく陣地を固守す。
8.10
尾高中将、専守防御の限界を具申す。大本営、第19師団の後退を決断す。正午(零時)モスクワの停戦交渉まとまる。
8.11
11:20大本営は、外務省から停戦協定成立の報を受け、直ちに電話により正午(12時)を期して、戦闘行動の中止を命令す。
11:50/第一線部隊に停戦命令とどく。
12:00/日ソ両軍戦闘行動中止す。
18:20/歩兵75連隊長、佐藤大佐、張鼓峰頂上にて遥拝式を行う。
20:00日/ソ停戦委員、張鼓峰東南稜、ソ軍陣地内にて第一回停戦会談。
8.12
12:40第19師団の撤退に関する朝鮮軍命令下る。夜、第19師団は、豆満江右岸に撤退を始め、青鶴・下汝坪・阿吾地間の地区に集結。この夜から、豪雨沛然として降る。
8.13
夕、張鼓峰東南稜にて日ソ遺体交換。
8.14
左岸残置部隊、右岸に撤退す。
8.26
8月26日以降、9月上旬の間に第19師団諸隊は原駐地に帰還した。
-
「われら張鼓峰を死守す」冨永亀太郎(著)
著者:富永中尉も中隊長(連隊砲)として初陣
沙草峰に陣を構える
豆満江を渡り、沙草峰まで6キロ、悪路と砂地を行進
小高い丘から張鼓峰を眺め、その右(西)に将軍峰が並び立つ
時は、昭和13年8月3日
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今も砂丘公園があるように、このあたりは
砂丘のような砂地が広がっている
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■「張鼓峰事件戦地展覧館」へ
次に、砂丘公園を左に見ながら「張鼓峰事件戦地展覧館」(?鼓峰事件?地展?? Zhāng gǔ fēng shìjiàn zhàndì zhǎnlǎn guǎn)へ到着。まだ張鼓峰がどの山なのか分からないままWeb頁の写真で見ていた展覧館に入った。この展覧館は公的な物ではなく個人の経営する展示館のようだった。
翌日ここの展示館のオーナー(老板 Lǎobǎn)が昼頃ここに来ているというので、沙草峰、その他を確認するためにそれに合わせて再訪することにした。
展示写真は撮影もOKで興味深い貴重な写真も多かった。展示館の裏側に出れば正面に「?人??离?争 Ràng rénlèi yuǎn lí zhànzhēng」「人類を戦争から遠ざける」と書かれた碑が立ちその背景に張鼓峰が聳えている。
1938年・昭和13年7月末から始まったソ連が仕掛けた日ソの国境紛争は、2011年9月13日から73年前のことだ。2008年5月、今から3年前にノモンハン事件の戦跡を訪れた時、この張鼓峰事件のことを知ったが今回ノモンハンに続いてこの場所に来ることが出来た。
両事件とも戦後長く一貫して日本の惨敗のように言われていたが、調べればその真相は全く違うものだった。敗者は準備周到にして楽勝に勝てると思っていながら目的を達成できずに終わったソ連軍といっても過言ではない。そのスターリンの復讐劇が昭和20年8月9日瀕死の日本へのソ連軍囚人部隊を使った満洲侵攻の残虐性だと思っている。
この庭から見た張鼓峰と将軍峰は右に張鼓峰、左に将軍峰と左右に並んだ山と山だった。張鼓峰の頂きを巡って始まった熾烈な戦いを想像するには、青空の下、あまりに静かで音のない景色では難しい。
この庭に当時からあるという井戸跡の水を汲み上げる手動式ポンプがあった。「西村式」と書かれていた。張鼓峰事件と関係有るのか?いつから有ったのか?分からないが、日本人がここで使っていたのは間違いないだろう。
「明日又ここに来る」と言ってこの展示館を出て行った。 -
聞くところによれば、この展覧館なるもの
民間経営のようだ
良くぞこの場に資料を集めこの展覧館なるものを開いてくれた
この展覧館を開いた老板に、翌日会って話しが聞けた
と言っても通訳無く -
張鼓峰占領されるも、7月31日日本軍奪還す
日本軍は不拡大方針を持って専守防御に徹し
一機の飛行機、一台の戦車も使用せず
終始この方針を貫徹し、尚且つソ連軍の侵攻を防ぎきった
尾高亀蔵中将以下朝鮮軍第19師団兵士に万感の敬意を表す
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張鼓峰事件/「張鼓峰奪還す」
http://www.youtube.com/watch?v=4cZJ0ORilZM&feature=player_embedded -
11日、日本軍代表「長勇大佐」(左メガネ)一行が
停戦交渉のため張鼓峰のソ連軍陣地へ向う
長 勇 陸軍中将
太平洋戦争末期、沖縄まぶに丘にて
牛島司令官と自決。
昭和20年6月23日自決:享年51歳。
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張鼓峰事件「事件終了後の日ソの動き」
http://www.youtube.com/watch?v=jugLA4Xw_K0&feature=player_embedded -
今、ここが中国領なのは満ソ国境を死守した
日本軍の戦いの結果に他ならない
日露戦争でロシアに勝利し
満洲を建国し、張鼓峰で国境を堅守した
ここが今ロシアではないのは
日本人の犠牲の上にある -
張鼓峰事件戦地展覧館の裏庭に立つ碑
正面:張鼓峰、右:防川項
「?人??离?争 Ràng rénlèi yuǎn lí zhànzhēng」
「人類を戦争から遠ざける」 -
展覧館の裏庭より
左:将軍峰 右:張鼓峰
日本軍・・・ソ連軍
戦死 525 ・・・ 717
戦傷 913・・・ 2,752
日本軍かく戦えり -
展覧館の裏庭にあった
西村式手動ポンプ
この場所に当時のまま残っているとのこと
日本軍兵士の喉を潤したのだろうか? -
この戦いのあと、8月18日
「張鼓峰」を「正勇峰」と改称された
下總皖一( しもうさ かんいち ):作曲、軍歌「国境の守り」も作られた -
沙草峰(无名高地?堡残骸)のトーチカの残骸
ソ連軍構築と思う・・・が?
7月30日の夜襲、31日の払暁攻撃により
52高地―張鼓峰―沙草峰の要線を占領
日本の主張する国境線を確保した -
52高地トーチカ残骸
野口大尉の第9中隊が死守、その後、野口高地と呼ぶ
野口(52)高地は北の沙草峰と共に
張鼓峰防衛の両翼を担う要点 -
事件収束後張鼓峰頂上で記者の質問に答える
尾高亀蔵中将(左端:軍帽)
教育・統帥に名声をうたわれた将軍
昭和28年死亡:享年70歳 -
日本軍「張鼓峰」を奪還する
頂上にて
左より:松岡准尉・伊藤大尉・白武中尉・鳴沢准尉・高橋軍曹・宇留賀軍曹
日本軍かく戦えり!子々孫々の誇りです
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張鼓峰事件「戦いの概要」
http://www.youtube.com/watch?v=USyPZ3MuNgE&feature=player_embedded -
1928年/昭和13年8月6日:甑山
ソ連軍兵士の遺体を収容する日本軍 -
ヴァシーリー・ブリュヘル:ソ連軍司令官(元帥)
1938年11月9日
リュシュコフ亡命と張鼓峰の戦いでの指揮の無能を問われ
モスクワに呼び戻され逮捕拷問により獄死。享年49歳
張鼓峰事件収束直後の司令官の逮捕、拷問獄死
このことからも戦いの結果が如何なるものだったか
誰でもわかるはずだ -
写真:下左:ゲンリフ・リュシコフ
1938年6月13日、リュシュコフの亡命に端を発す
粛清を恐れての亡命
これが共産主義国・社会主義国の現実だ
戦争よりも遙かに多くの人命を抹殺する、粛清、飢餓
ソ連・中国・北朝鮮、その他。
大東亜戦争に到るまでの戦いは共産主義勢力との戦いでもあった
治安維持法は悪法なのか?綺麗ごとこそ不幸を招き人を殺す
生活保護・弱者救済・人権・平等・博愛を唱え、人を不幸にする
「商人国家」「今の民主党」「リベラル」「地球市民」「左翼政権」
こんな連中が人間を駄目にし国を滅ぼす -
朝鮮族の暮らす防川村
左:将軍峰、中:張鼓峰、右手前:防川項
張鼓峰で屈辱を味わったソ連軍は
その一年後ノモンハンで満蒙国境紛争を仕掛ける
ソ連軍は計画的に準備周到の戦いであり
日本軍はやはり張鼓峰と同じく
装甲車両 約100両(日本)vs 約1000両(ソ連)
圧倒的に不利な状況での戦いとなるが
ソ連軍に自軍を上回る損害を与え停戦となる
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張鼓峰で戦った第19師団六人の高級将校
http://www.youtube.com/watch?v=zkgeVroWFOQ&feature=player_embedded
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張鼓峰事件「8月6日の戦い」
http://www.youtube.com/watch?v=0mTD9RNjzd4&feature=player_embedded -
防川村にて
左:将軍峰、右:張鼓峰
手前、張鼓峰湖?
ソ連軍は、停戦後も現地に駐留を続け
明けて翌年の昭和14年、解氷期を迎えるや
張鼓峰頂上、52高地などの要点に
コンクリート制のトーチカをつくり
日本軍が死力を尽くして確保した国境は
再度侵犯されソ連軍に易々と実効支配を許した。
張鼓峰頂上はロシア領として現在に至る
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■防川村より
張鼓峰事件戦地展覧館からすぐ近くの防川項の朝鮮族のニュータウンとも言える整然と区画された村へ行く。車を停めて整然と区画整備されたニュータウンのような村の中を歩いたら池か湖に行き当り、そのバックに右:張鼓峰、左:将軍峰が並ぶ絶好の場所だった。
陳さんに聞いたら確か「張鼓湖 Zh醇Fng g醇・h醇avと言っていたように思うが、はっきりしない。その湖のほとりで張鼓峰・将軍峰を写真を写し、しばらく眺めながら張鼓峰事件当時の様子を思い浮かべていた。2011年からちょうど73年前の1938年のことである。二十歳で張鼓峰事件に参戦していれば御歳93歳か。
「国立国会図書館/近代デジタルライブラリー」
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
「張鼓峰」で検索→「6.〔東洋協会調査部〕調査資料」をクリック→「第37輯 張鼓峯事件の經過概要」
「今日は取り敢えずの下見で又明日も来る」・・・そのつもりだったので、次に「一眼望三国・Y醇dy醇En w醇Ang s醇Fngu醇p」へと向った。 -
グーグルアースより
①丸池、②沙草峰、③将軍峰、④張鼓峰、⑤防川項、⑥豆満江(図們江)、⑦長池(ハーサン湖)
ここの写真は「赤★」が撮影地点 -
防川項麓の朝鮮族の集落は
新興住宅地のように整然と整備されている -
どんな理由があってのことか?
中朝露国境付近ゆえなのか?
この地の整然とした街の風景に違和感を感じた -
一体、ここの住民は何で生計を立て
この暮らしを維持しているのだろう?
グーグルアースでも分かるが小さな集落だ
人の気配も少なく活気を感じることもない -
朝鮮族家屋の屋根はどこでも青色が多い?
同じような瀟洒な家が整然と並んでいる -
この村入り口の建物がレストラン
14日、ここで昼食を食べた -
村の入り口に立つ五星紅旗
近隣三ヶ国+ロシアとは必要最低限の交流でよし
それこそが日本の安全と平和に寄与する
彼等との真の友好など有り得ない -
「土字碑」
車の通行料金ゲート:ここも20元だったと思うけど・・・
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■土字碑(Tǔ zì bēi トゥズゥベイ)
さっきの朝鮮族の村で防川の国境監視勤務についている若い軍人が部隊に戻るので送ってくれということで後部座席に坐った。その彼のお陰で一般には行けないとなっている「一眼望三国」の突端の監視哨がある場所まで行く事が出来た。
そこには清朝時代ロシアとの国境策定において1886年清朝政府に派遣された大臣:呉大?とロシア側代表:バラノフとが設立した「土字碑」と呼ばれる国境標石がある。
「???三国,犬吠惊三疆」(Jī míng wén sānguó, quǎnfèi jīng sān jiāng)
「鶏が鳴けば三国で聞こえ、犬が吠えれば三国を驚かす」・・・なるほど納得。
「一般人はここまで来れない」という場所ということだが行ってみると中国・韓国人の旅行者たちが沢山来ていた。ここまでの道は金網のフェンスと鉄銃網で囲まれていた。このフェンスそのものがズバリ国境とは思えないが、もしかしたらそうかも知れない。
現地に来て高台からこの風景を見て、「一眼望三国」の国境がどのように接しているのか良く分かった。写真で見てはいたがどうも状況把握は難しかった。中国領の先端が北朝鮮・ロシアの間に楔を打ち込むような形になっている。そして楔(くさび)の先は、ロシアと北朝鮮が国境を接している。
ちょうど一ヶ月前の8月に、この前に見える鉄橋を渡り金正日がロシアを訪問した。この国境線は日本軍が張鼓峰事件によって守り通した満洲の国境であり、それまでの清代には屈辱的な愛琿条約によってロシアに領土を奪われている。 -
相乗り兵士のお陰で、一般の者は入れないと言われた
突端の監視哨がある場所まで行く事が出来た -
土字碑
1886年清朝政府に派遣された大臣呉大?と
ロシア側代表バラノフとが設立した
「土字碑」と呼ばれる標石。
日露戦争もそうだが、日本の関与なければ
この満洲の地は、今、ロシアなのか
それとも・・・ -
一般の者は入れないと言いながら
沢山の旅行者が来ていた
その中に紛れて日本からやって来た私です -
この三ヶ国国境が緊張する時はいつ来るのか?
北朝鮮の独裁政権の崩壊する時なのか?
中国の共産党一党独裁が崩壊する時なのか?
それともプーチン・ロシアの瓦解する時なのか?
先人たちの苦労が分かる
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防川:中国領最先端国境監視所へ
http://www.youtube.com/watch?v=-hvwearpXTU&feature=player_embedded -
「一眼望三国」
国境警備の最前線
部隊右端建物の屋上に展望台が設けられている
朝鮮ロシアとの国境は、気楽に来れる場所が多い
ここの風景も来る前に写真で良く見ていた
「百聞は一見にしかず」
やはり現地に来て全体を見ないと把握できない
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■展望台より「一眼望三国」
「土字碑」を見たあと、少し戻って写真やYouTubeで見ていた「一眼望三国」の展望台に上った。国境警備部隊の建物の屋上が観光用の展望台になっている。入場料は20元。Web頁で見た展望台があり、写真でしか見ていなかった「一眼望三国」の実際の景色を見た。
建物横の非常階段を上ると展望台になっており、ロシア・北朝鮮、そして今自分の立っている場所でもある中国。四方を海で囲まれ陸続きの国境がない日本人の私には、国境を持たない者としての興味を覚え、幾ら見ても見飽きない。ましてこんな中国領土に立ち目の前でロシア・北朝鮮の領土を眼下にして見れる場所というのは、そう多くはないだろう。
展望台には「日本海」「俄?斯 Èluósī ロシア」「朝鮮」と書いたプレートがそれぞれの方向の壁に貼られていた。晴れて見晴らしも良く、日本海まで一望できた。旅たち前に写真で見ていたところに実際に来て、自分の目で確認することが旅の楽しみでもあり、写真で描いていたイメージと実際の違いを感じることが出来る瞬間でもある。ここからの景色は、写真見ていた通りであり違和感はなかった。
ロシア側を見れば、すぐそこにロシアのハサン(Khasan)という小さな集落があり、その向こうは田園が広がる風景があった。このハサンの街の人の生活基盤・仕事は一体何なのだろう?ハサン地区。中朝の国境に接しているけどロシア側ハサン背後には見渡す限り街らしきものは何もなく、孤立したような小さな街。そこには、どんな生活があるのかなァ〜・・・。
Web頁によれば、ハサンは『外国人でないロシア人も国境地帯のハサンを訪問するにはロシア国境警備局への事前申請が必要で、許可なく立ち入れば拘束されることも。「国境警備兵を刺激するから彼らの前では写真は撮らないで」。7カ国約20人で構成される代表団の案内役を務める旅行会社のロシア人女性が叫んだ。』・・・2010年、国連開発計画(UNDP)の代表団でさえこんな状況のようだ。それがロシアってものか。
北朝鮮側を見れば正面に仏岩峰という名前の二つの頂きを持った山が象徴的に聳えている。張鼓峰の戦いにおいて田中砲兵大佐は、8月8日に砲兵主力をこの仏岩峰に置き52高地、張鼓峰の敵軍に砲撃を加えた。ここから52高地への砲撃は極めて有効で日本軍は同高地を守りぬいた。その山の手前にポツポツと集落が点在しているのが見える。右方向に見る街並みが豆満江(Tumangang トマンガン)市のようだ。北朝鮮のこの地域は羅先特別市(ラソンとくべつし)。
そして日本海側を望めば、「一眼望三国」となる。今、自分が立っている展望台とその前方少しだけが中国領であり、右側に北朝鮮、左側にロシア領土が国境を接し左右に広がっている。韓国人観光客も多いこの展望台のプレートは「日本海 Japanese Sea」と表記されていた。土産物屋の冊子類には「日本海・(東海)」と併記されている物もあったが・・・。因みに運転手の陳○○さんは、韓国人が大嫌いとのこと。その理由は「金持ちぶる。偉そうにする」誰もが態度が尊大だからと言うことだった。私から見れば支那朝鮮文化は中華と小中華であり同じようなものだけど。「見栄」と「面子」の文化だ。
この展望台でハサン湖と思って写真を撮り見ていた湖は、帰国後にグーグルアースで確認したらロータス湖だった。今、観光用に展望タワーを建設中だ。来年にはオープンするらしい。それが完成すれば今のこの国境警備基地の屋上に設けられた展望台は立ち入り禁止になるようだけど、どんな眺望になるのか?13、14日と二度ここにやってきたが、ここから張鼓峰もハサン湖も目には映っていただろうけど意識できず。写真も撮れず残念なり。 -
この階段を登れば展望台
そうか、こうなっていたのか
フムフム -
展望台より北北東・ロシア方向を写す
前方の湖は
盛田池(ドリツエーニ湖)今→「ロータス湖 Ozero Lotos」 -
展望台より北東・ロシアを写す
左:盛田池、ハサンの街 -
そうかホンマに「一眼望三国」や!
こうなってたんか、実際に見てやっと分かった
中国領が楔状に食い込んでいるとは
しかしながらこの大陸に国境も国もあって無きに等しく
そもそも中国は、たった62年の国であり
この先百年あれども、その先は分からず -
展望台より南西方向:北朝鮮側
正面の山:仏岩峰
田中隆吉大佐(山砲25連隊)
8月8日、砲兵主力を仏岩峰地区に転進させ
52高地、張鼓峰の敵陣に砲撃を加えた
攻撃は極めて有効であり、敵砲兵群を沈黙させた -
豆満江(とまんこう)、図們江(トゥ−メンジャン)
豆満江(トゥマンガン)Туманная(トゥマンネ)
満洲語「トゥメン」が語源
目の前:観光用展望台を工事中 -
ハサン(哈桑 Hā sāng)駅がすぐ近くに見える
ハサンからこの展望台も当然良く見えている
高台から見下ろしているのがコチラで
ハサンは頭の上から見下ろされている -
ロシアの面積は日本の40倍、因みに旧ソ連は60倍
こんな極東の果てまで領土とし、おまけに北方四島を略奪し
ふざけやがって
面積40倍で人口は、たった1億4,291万人(2011年4月)か・・・
支那朝鮮ロシアには絶対的優位を保ち続けたい
そうであらねばならない・・・何が?
すべてに! -
ロシアはたった1億4千万人で、これだけの領土を保全し
他国の領土を掠め取り、堂々と世界の中で存在している
日本人には真似できないし、すべきでもないが
学ぶべきところは大いにある
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「一眼望三国」
http://www.youtube.com/watch?v=sMvMqbkwb9M&feature=player_embedded
-
ここに車を停めて門票を買って、確か20元
歩いて入って行く
明日もここに来よう -
防川地区から琿春へ
車窓より
右手前:防川項、正面奥:張鼓峰
今から73年前、これらの山々には砲弾が炸裂し
ソ連軍と二週間に渡っての激烈なる戦いがあった
故国日本を離れて日本軍兵士は戦い
多くの命が散華し負傷した
日本軍死傷者は1,438名を数える
戦死者525名は靖国神社に合祀されている
靖國神社に参拝しない国会議員は
私は元より日本人議員とは認めない
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■防川地区から琿春へ
午後3時半頃防川を出て琿春への帰路に着いた。途中、砂丘公園を歩き沙草峰を探したが、それらしき山はあったが無論確証などなく分からない。その後、もう一度蓮花湖に行った。それは陳○○さんが蓮花湖の資料館?で働く知り合いを琿春まで乗せて帰る約束したようでその人を迎えに行った。
その“おっちゃん”の話しで沙草峰が分かった。その蓮花湖(丸池)の前の小高い丘陵が沙草峰だった。翌日、展覧館のオーナーも、あれが沙草峰だとのことで確信できた。
張鼓峰でも将軍峰でも沙草峰でも良いと思うが、高い山に登って戦場全体を広く見渡せなければ全容は分からない。当時は樹木もなかったようだが今は木が生い茂り周囲の景色もなかなか見難い。
でも張鼓峰・将軍峰・沙草峰・防川項は分かったし、そして52高地・野口高地などは戦場遺跡が残っているようだが軍の管轄地域なのか?今は足を踏み入れることが出来ないようだ。 -
琿春市内に戻る
-
ホテルに戻り
5階511号室
明日は馬滴達に行くことにした
ここに来るまで馬滴達へ行くつもりはなかったが
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■琿春賓館へ戻る
午後5時前にホテルに戻り、朝10時過ぎに出発した今日の7時間ほどの一日旅游は終了した。明日も陳○○さんに一日包車をして、午前中に琿春から東に60kmくらいのロシア国境に近い村「馬滴達(?滴达 Mǎ dī dá)」に行き、次に五家子、圏河口岸、そして今日と同じく蓮花湖・張鼓峰事件戦地展覧館で老板の話しを聞き、防川の「一眼望三国」の展望台というコースで行くことにした。
琿春賓館到着時に、ホテル向かいの朝鮮族の食堂が美味しいと陳○○さんが紹介してくれた。食前の果物を買って511号室に戻り、果物を食い小休止。そして向かいの食堂に行った。
ちょっと見慣れないメニューを見て頼んだのは、「?豆腐? Chún dòufu tāng」15元と「?州炒? Yángzhōu chǎo fàn」10元。純豆腐スープは初めてだった。でもホントここは焼き飯も豆腐スープも美味しかった。
今日琿春に来てから、甩湾子断橋・隠城大橋・張鼓峰事件の戦跡を訪ね、防川の「一眼望三国」をしっかりと見ることが出来て充実の一日だった。琿春市内は全く見ていないが、張鼓峰の大体の感じが掴めた。 -
食前の果物と腹式呼吸を続けながら
道中の健康を保っている・・・今のところ -
ホテルの真向かいの店
ここが美味いと陳さんに教えてもらい -
朝鮮族経営の店
値段も普通 -
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