2011/09/11 - 2011/09/21
46位(同エリア342件中)
明石DSさん
境浦旅館の部屋は清潔感あります
土足厳禁だから床も綺麗です
朝食なしだけど満足です
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2日目:9月12日(月):晴
延吉〜龍井〜延吉
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2011/平成23年9月12日(月)
■延吉の朝
午前5時頃、日本時間午前6時頃に目を覚ましボチボチ活動開始。今回、いや、いつもそうだが旅行中は平常心を保てず熟睡出来ないので早く目覚める。今回もずっと5時前後起きだった。やはりこっちは朝は冷っとするのでウィンドブレーカー持参で良かった。早速それを来て早朝散歩に出かけた。
この宿は、布爾哈通河(Bù er hā tōng hé ブゥアールハートンハー)。日本人はブルハト河?と呼んでいる河のすぐ北、延新橋の近く、延西街の東側にある。昨日は夜に着いたので景色は見えず、朝の散歩で延辺朝鮮族自治州に来たことを実感した。それはハングル文字の看板と朝鮮風の建築が建ち並んでいる景色を見て。屋根に特徴がある。布爾哈通河は大きな河で水量もたっぷりあり、満洲時代の日本人もこの河の南北で河と共に生活をしていたのだろう。
建物や道路などの人工の構造物は、あっけなく姿を変え或いは消えてしまうが、山や河や大自然の風景は変わりようが無い。だから何処に旅しても、いつも足はそこに向く。満洲建国1932年:昭和7年当時の日本人も“布爾哈通河”を眺め、帽子山を眺めてこの延吉で暮らしていた。そして1945年8月15日の敗戦を境に環境は一変し生きて故国日本に帰ることのみ考え命を繋いでいたのだろう。
今朝は三連休の最終日の祝日で、普段の月曜日の朝の風景とは違うのだろうけど、そんな往時を偲びながら延新橋を駅方向に向かって歩いた。橋から東方向には高層ビルが建ち並ぶ都会の風景がある。私の暮らす明石市と比べればここは大都会。延吉の日本語サイトによれば総人口は42万人、明石市の30万よりも多い。そのうち朝鮮族の数は57.7%を占めているそうだ。
昔(1912年まで)は、局子街(Jú zi jiē)と呼ばれていたらしいけど、「今もそう呼んでいる」と20日の日に出会った延辺大学の玄○○さんが言っていた。延新橋を北に戻り、公園大路を東へ歩き延吉公園小学校前を通って、何処にもある中国の朝市や、休日なのに早朝から建築工事をしている光景を見ながら一周して戻って来た。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
宿から“布爾哈通河”まで徒歩3分
東西にゆったりとした流れの大河です
Bù er hā tōng hé
ブゥアールハートンハーと聞こえます
延新橋上より東方向を写す -
河南(ハーナン)より河北(ハーベイ)を写す
延吉では“布爾哈通河”の南北をこう呼び別けしています
因みに神戸市では山側・海側です
今日は月曜日ですが、中秋節の三連休の最後です
日本は仕事です -
延西街の東側沿い、延新橋のすぐ傍に境浦旅館はあります
河北が延西街、河南は站前街となります。
因みに東西の道は「路」、南北は「街」、他では? -
やったぁ〜、我、朝鮮族自治州に来る
屋根が象徴しています -
境浦「旅館」ではなく境浦「旅店」だった
ここの3F、出掛ける時はフロントに鍵を預けます
318号室の部屋の鍵を開ける時はコツが必要です
何度も練習すれば上手くなります
上手くならなければ不器用です、是非ともお試しを! -
「延辺旅行応援団」
“地球の歩き方”10〜11「大連・瀋陽・ハルビン」205頁にも紹介されています。
境浦旅店の階上(4F)が事務所です -
路地裏の市場
人口多いから市場も多い?
どこに行っても同じ風景あり -
?婚?育少生?生。(Wǎnhūn wǎnyù shǎo shēng yōushēng.)
「遅い結婚と遅い出産、子供を少しだけ生めば優秀な子供が生まれる???」
一人っ子奨励標語のようだけど・・・。
我的??水平?很低,不好意思。大家?相信! -
この事務所内で崔さんと綿密なる打ち合わせ
打ち合わせ事項は丸秘なり、フフフ。
連休中なのにご苦労様です。
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■「延辺中日文化交流中心」から今回の延辺の旅は始まる
そして8時過ぎ4階の崔さんの事務所(延辺中日文化交流中心)に行った。そこには崔さんがすでに待っていてくれた。そして、私は5万円の両替を頼んだ。9日の相場で1万円=772元。
それと17日の朝、図們から傑満村を経由して中朝国境沿いを開山屯・三合・望閣江に行くコース。そこは国境警備の関係で国境沿いの道はタクシーは走りたがらないし、問題があれば難儀だから専用車を使った方が良いということでそれも頼むことにした。
そして8時半に、専属の朱さん(49歳)の車に乗って延吉巡りに出発。まず軍民路の「第三病院:元間島陸軍病院・987部隊→延吉市陸軍路3号の223医院」へ。今は人民解放軍の部隊と、その東隣の病院は延吉市長城医院という名前が大きく掲げられているが「223医院」という文字も残っていた。223医院と言えばこの場所というのはまだ誰でも知っているようだ。
延辺朝鮮族自治州フォトギャラリー
http://yb.gnk.cc/date01/info02.html
『昭和20年8月15日、間島陸軍病院ではこの日の朝、「正午に重大放送がある」旨が知らされる。10時半頃、ソ連軍機による爆撃(間島陸軍病院にいた日本人の手記による)。15日以降もポツダム宣言受諾の報告が伝わらず部分的に戦闘は続いた。』
「悲劇の青春」によれば↓
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/seisyun/seisyun11.html
『Tさんは、しめやかに父の慰霊をした。その後、広い223医院を1周り歩いた。病院の東側に赤煉瓦の塀があった。その手前を家庭菜園のようにトウモロコシを植えたり、各種の野菜が乱雑に植えてあった。
「このあたりは、今でも人骨が出てきたり、火の玉が出てくることで、地元では有名なんですよ」と、地元ガイドのBさんが言う。』
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次に、東に太平街を隔てた場所に「関東軍28部隊:延吉捕虜収容所・第一収容所」があったという場所に行った。そこは、当時の物は何も残っていなく、今は高級マンション風の建物が並ぶ一画になっていた。敗戦後の延吉の収容所は、主にこの第一収容所と第二収容所「俗称646収容所:関東軍第646部隊」、それと223医院があったようだ。
このどこかの収容所に直木賞作家、新田次郎も昭和20年10月に収容され二ヵ月後突如解放された。しかし家族のところに戻れず、酷寒の中で生き延びるために中共軍の技術者として職を得、延吉で一冬を過ごす。その後、翌年の昭和21年夏、日本軍俘虜大隊の一員として葫蘆島(ころとう)より引揚げを果たした。その時のことを「望郷」「豆満江」「七人の逃亡兵」という三冊の本に記している。 -
「第三病院:元間島陸軍病院・987部隊→延吉市陸軍路3号:223医院」
?2011?年9?月?12日、??8:43:48??
「間島陸軍病院」跡地は、今、人民解放軍部隊が駐屯している
しかしその東隣には病院があり「223医院」との表記もあった
敗戦後の苦難を思う、今から66年前 -
「董存瑞生前所在部隊」
(Dǒngcúnruì shēngqián suǒzài bùduì)
一体これは何?と思っていたが
“董存瑞”は人の名前で八路軍の英雄のようだ
「“董存瑞”がこの部隊にいた」という碑だった
しかしこの英雄伝もまこと胡散臭い
http://www.wako.ac.jp/human/kiyo/file/kiyo3-11.pdf
http://v.youku.com/v_show/id_XMTE4MjAzNzcy.html -
太平街と軍民路の交差点附近にて写す
道の向こう側に赤いレンガ塀がある
それが間島陸軍病院の東端の塀だったのかも?
「悲劇の青春」
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/seisyun/seisyun11.html -
この赤いレンガ塀が間島陸軍病院の東端の塀?
この塀の内側の土を掘り起こせば、今でも人骨が出てきたりするようだ -
延吉捕虜収容所跡地
間島陸軍病院の道を隔てて東隣の一画 -
この写真の右側に建ち並ぶ高級マンション群が
第一収容所の跡地
延吉市街図
http://yb.gnk.cc/date01/map01.html
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延吉にて「日ソ開戦に伴う満州在留邦人の行動」
http://www.youtube.com/watch?v=1JmcvrGL-Gc&feature=player_embedded -
延吉辺務督弁公署
監獄跡に行く予定が・・・。
ムムム、写真で見ていた通りだけど
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■監獄跡へ行く予定が清代の「延吉辺務督弁公署」へ
次に朱さんが連れて行ってくれたのは、予定では河南(Hénán ハーナン)の延吉監獄跡地で今は延吉芸術劇場だったはずが、着いたのは延辺地区唯一の清代建築物と言われる「延吉辺務督弁公署」だった。写真で見ていたから直ぐに分かった。
どちらも州政府から場所的に近く勘違いしたのだろうけど、こっちは見つけ難いとWeb頁でも書いてあったので、監獄跡は次回行くとして思わぬ瓢箪から駒で見学した。遠目では清代と言われればなるほどと納得するが、近づけば古いような新しいような“ありがたみ”?の無い建物だった。 -
?国将?吴禄?在延?。(Àiguó jiànglǐng Wúlùzhēn zài yánbiān.)
「呉禄貞」とは?日本の陸軍士官学校を出ているようだけど -
「延辺旅行応援団」の専属ドライバー
朱さん(仮名)
他比我少九?,他是好人。 -
帽子山・・・か
昔の紀行文にもこの山の名前がちょくちょく出てくる
みんなこの山を見ながら、ここで暮らしていた
満洲時代も
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■帽子山へ
今日は延吉と龍井の大体の感じを掴むための周遊ということで、延吉から帽子山(帽儿山・Mào er shān)に向った。一見すれば、なるほどと山の名前の由来が分かる。日本人は昔から帽子山と呼ぶらしいが、こっちの人は昔も今も「帽儿山・Mào er shān マオアールシャン)」と言っているとのこと。
この帽子山は延吉の市内からも龍井からも良く見える象徴的な山だ。これこそ悠久の歴史の中で、誰もが同じこの山を見ていた。満洲時代の日本人も、大人も子供も・・・。そして必ずやこの景色は記憶に残っているだろう。
まず帽子山の山麓の登山口に行く。大きな虎の石像が中央に聳え、公園になっている。祝日で好天気なので人出も多い。チマチョゴリに着飾った朝鮮族の人が記念写真を写していた。私は朱さんに「ちょっと登って来るからここで待っていて」と言って山道を登りかけたが直ぐにやめて引き返した。
頂上を見上げると大分高いし、上まで歩いてどれくらい掛るのか聞いてなかったからそのまま歩く気にはなれなかった。今にして思えばそんなに時間は掛からなかったかも。帰国後、Web頁でいろんな帽子山の写真を見ると方向によっては山の姿も大分違う。 -
山麓の公園
延吉帽爾山
今日は中秋節で賑わっていた
チマチョゴリ姿もチラホラ
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「帽子山」の登山口公園にて
http://www.youtube.com/watch?v=JfRHu8VW4Mg&feature=player_embedded -
延吉⇔龍井、延吉よりに帽子山がある
延吉→龍井の場合は右手方向に
龍井→延吉の場合は左手方向に -
東山の日本人墓地を探して
何とか日本人墓地の場所を見つけたかったが・・・。
東山公園周辺で日本人墓地を尋ねても
誰も「没听?? 聞いたこと無い」だった
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■龍井(りゅうせい)市内
そしていよいよ車は龍門橋を渡って龍井市内へ入った。先ず最初の目的地は東山の日本人墓地。手掛かりはアイさんからもらったスナップ写真二枚とYouTubeにあった動画「旧満州延吉市龍井の生家を訪ねて」 。
写真の一枚には弟「山口○○為」兄建立と刻まれた墓碑の写真と、土台の石を囲んでみんなで慰霊をしている写真のバックに風景が写っている。その風景だけが頼りだが、特定出来ず。
朱さんも登り口を二ヶ所ほど巡って悪路を上り、出会った何人かに日本人の墓地のことを聞いてくれたが一様に聞いたことない(没听??)だった。満洲時代の東山には龍井神社があり墓地があり火葬場もあったようだ。 -
あちこち登り口を探したが断念す
17日、18日、19日と龍井に来る
その時を期して
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龍井東山公園:日本人墓地を探して
http://www.youtube.com/watch?v=irwWZACAh4E&feature=player_embedded -
1909年設立より1932年の閉館までの23年間、間島日本総領事館
それ以降は病院・医科大学として使用されている
そして、今も龍井人民政府庁舎として使われている
2011/102年を経ても尚威風堂々と勤めを果たす
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■間島日本総領事館跡
しばらく探したが諦めて、次は間島日本総領事館跡(今は龍井人民政府)へ行く。1909年(明治42年)伊藤博文がハルビンで暗殺された年、日韓併合の1910年の一年前に設立。同じ年、局子街(延吉)にも総領事館分館を置いている。当時は龍井が行政の中心だったようだ。
そして1932年(昭和7年)満洲建国の6年後には閉館している。その後は、軍の駐屯地になったり、1938年・昭和13年張鼓峰事件の際には「琿春陸軍病院」となり多数の負傷兵が運びこまれたとのこと。そして東満医科大学として終戦を迎えている。そんな変遷を辿りながら総領事館跡の建物が今も龍井人民政府庁舎として堂々とその姿を残していた。
その向って右側に、領事公邸が残っている。今も玄関には吉林省龍井市:广播??局(Guǎngbò diànshì jú)として龍井のテレビラジオ局として使われている。日曜日だったので勝手に中に入れた。
そしてこの場所で日本人らしき旅行者の方がいたので声を掛けた。やはり日本から龍井を訪ねてきたご夫婦と、この龍井で生まれ育ち今は日本で生活されている日本国籍の朝鮮族の女性の三人連れ(50代?)だった。
男性の父親が龍井の林野庁(営林署)、お母さんも龍井の発電所で働いていたそうで、両親の思い出の地を訪ねて来られた。そして龍井出身の女性が里帰りと、ご夫婦のガイドを兼ねての三人旅のようだった。そして私が持参していたアイさんに頂いた龍井の満州時代の手書きの地図を三人に見せてあげたら喜んでくれた。そして、その場で満州談義にしばし盛り上がった。 -
庁舎に向って右側隣に残る旧領事公邸
今は龍井のテレビラジオ局
この場所で日本人夫婦及び
龍井生まれの朝鮮族女性(現日本在住・日本国籍)の三人連れと出会う -
間島省は危険なれど、新国家建設に熱き血潮はたぎる
そんな世界であり、時代だった。先人を今の価値観で安易に辱めるな
今、北朝鮮人民は真に幸福なのか?併合時代よりも? -
在満国民学校(現在:龍井高級中学)
今から66年前、この学校は在満国民学校であった
龍井の日本人小学生が通っていた
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■在満国民学校(現在:龍井高級中学)、龍井地名起源之井泉へ
そして、次にアイさんが小学校3年まで通っていた在満国民学校に向った。といっても人民政府から目と鼻の先にその学校はある。今は龍井高級中学という学校で建物は威風堂々たる大きな学校だ。ここも場所だけ確認し外観の写真を撮って、次はこれまた直ぐそばにある「龍井地名起源之井泉」の碑を見に行った。
その言い伝えを簡略すれば「美しく善良な朝鮮族の娘が、悲恋に絶望して井戸に身を投げた時に、龍に化身した彼が女性を助け二人はめでたく夫婦になった」・・・それを記念し、ここの地名を六道溝(六道沟 Liùdào gōu)から龍井(?井 Lóngjǐng)とした。文化大革命で碑は壊されたが、1986年に再建されたのが現存する石碑だそうです。
この井戸のある巨龍友好公園で、運転手の朱さんの娘さんと出会った。娘さんは結婚しこの龍井で子供とご主人の三人で暮らしている。お父さんに何か手渡す物があったようで朱さん自慢の美人の娘さんだった。
その後、龍井賓館を予約しようと思ったら今はもうすでに無いとのことで、丁度人民政府の隣り、龍井高級中学(在満国民学校)の向かいあった現代賓館に17日と18日の予約をした。一泊120元とのこと。 -
今は高級中学、高級中学とは日本の高校のことなり
初級中学は、日本の中学のことなり -
龍井地名起源之井泉
ちっさな公園だったけど・・・井戸はあった
満洲の地名の読み方は難しい
龍井は「たつい」ではなく「りゅうせい」と読むことも知らなかった
その他、当時日本人が読んでいた地名の読み方も
どう読めば良いのか?難しくて分からないのが多い
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秀吉の朝鮮出兵「文禄(1952)・慶長(1958)の役」
「文禄・慶長の役」
秀吉の朝鮮出兵「文禄(1952)・慶長(1958)の役」
加藤清正は「文禄の役」の時、朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈:中国東北地方間島)へ進攻したとある。この龍井にも当時、清正の軍団がこの辺りまで遠征していた。元より秀吉はこの出兵を「唐入り」と称し、朝鮮半島は通過点だったようだからそれも頷ける。
文禄・慶長の役においては、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った。死後から20世紀になるまで無名であったが現在の韓国においてはその功績が評価されて国民的英雄となっており、肖像画が紙幣や硬貨に描かれたり、韓国各地に銅像が建てられている。
李 舜臣(り しゅんしん)について
「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする「あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です」「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」言説については・・・。
東郷が公の場でそのような発言をしたという記録はなく、現在のところ東郷と知己であったという韓国人実業家・李英介からの伝聞以外の記述は見い出すことが出来ない。 -
龍井中学校庭の端に旧大成中学が建っている
18日にも再訪する
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■龍井中学
次に龍井中学に向った。この龍井中学というのは、中に展示されていた沿革によれば、1920年頃に私立学校として創立された「恩眞・永信・東興・大成・龍井光明女子・龍井明信女子」などの中学校が様々な経緯を経て1985年1月から龍井中学校としてこの場所に存在しているようだ。
その校門正門を入ると右手、運動場のグランドの一角に旧大成中学の校舎を模して1994年に建てられた建物がある。正面には大成中学と書かれている。内部は博物館のようで朝鮮族から見た龍井の抗日の歴史、そして尹 東柱(ユン・ドンジュ)が、英雄詩人として大きく紹介されていた。
当時の写真も沢山展示され撮影も自由。そして教室も再現されており、当時の様子を偲ぶことが出来る。韓国からの観光客が多いようで内部で飛び交う言葉は朝鮮語ばかり。一見の価値はある。 -
朝鮮族の抗日の歴史博物館のようだった
それと「尹 東柱」を大きく紹介している
中国共産党と並び、ここでも共産ゲリラとしての
朝鮮族抗日歴史を賛美しているが、共産主義国家の顛末は如何に?
中共政府しかり、そして、今においても金日成を賛美するのか?
共産主義者や無政府主義者を排除し戦った先人に感謝と敬意を表す -
女子中学か・・・日本人の教育熱心さが分かる
日本人はどこに行こうが教育には熱心だ -
記帳名はハングル名ばかりだった
私は記帳せず
展示写真はありがたいが、その他の説明書きは信じない
もっとも読めないけど(泣) -
「尹 東柱」コーナー
彼の詩は読んだことはない
関係ないが今の韓流には辟易している
竹島は日本固有の領土だ。いつか必ず取り返す
日本国及び日本人が腐った今は不可能だが
近未来の日本の再生を信じている -
当時の教室の雰囲気はどうだったのだろう?
ここにどんな学生が集いどんな授業だったのか
今私が想像する範疇ではないような気がする -
当時の写真が多く撮影も自由
一見の価値あり龍井訪問の時は是非 -
龍門橋と昔の橋桁
隣に並行する橋桁が旧龍門橋
海蘭河も時代の変遷を見て来た
そしてこれからも見続ける
龍井で何が起こりどんな変化を遂げて行くのか
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■龍門橋
次は、龍門橋へ行く。
延吉から龍井市内に入る時もこの橋を渡って来た。この橋の片側に橋と並行して旧龍門橋の橋桁が残っている。
朝鮮族ネットによれば『龍井市民たちは 8月18日朝 8時、歓迎委員会の指揮の下に隊列を作って龍門橋方面へ動き始めた。 龍門橋を過ぎた行進隊列は、途中でソ連紅軍に会った。行進隊列の中から熱狂的な歓声が出た。』とある。
海蘭江(ハイランジャン 海?江 Hǎi lán jiāng)に残る橋桁にも多くの物語が存在するのだろう。 -
龍井駅
立派な駅舎だ。当時のままの姿を留める
今日は駆け足にて去る
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■龍井駅へ行く。
龍井の駅舎は、平成14年に三度目の龍井を訪問したアイさんによれば満洲時代そのままで、駅正面に向って左側にあるトイレも当時と同じとのこと。
今でもなかなか立派な駅舎であり66年前の昭和20年当時はさぞかし堂々としたものだったのだろう。駅を背にし左側附近には、電電公社の社宅などがあり多くの日本人が暮らしていたようだ。 -
龍井駅舎内風景
発車時刻が近づいているのか?
そこそこ人が集まっていた -
龍井電業株式会社(龍井発電所)
満洲発展に寄与した龍井電業株式会社
今も発電する
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■龍井電業株式会社(龍井発電所)へ
Iさんのお父さんが所長として勤務されていたところであり、今も当時の設備や姿をどれだけ留めているのか分からないが同じ場所に「吉林???井??厂 Jílínlónghuá lóngjǐng rèdiànchǎng」として存在している。
火力発電所の象徴ともいうべき聳え立つ煙突が見るからに年代物のように見えたので・・・もしかしたらあの煙突はと思ったが、いや思いたかったがそれは分からない。 -
発電所の裏道を通って延吉に向う
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帽子山(帽儿山 Mào er shān)
帰路は
左右に黄金色の田園風景広がる道を一路
絶景かな
きっと昔と変わらぬ風景だろう
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■帽子山(帽儿山 Mào er shān)
次は帽子山撮影に
龍井周遊予定を終わり延吉への帰路は、朱さんに聞いておけば良かったが、往路とは違って多分旧道だと思う道を走った。それは帽子山の全景が良く見える道ということで朱さんが選択してくれた道だ。
この山あの川、周囲に広がる田園風景。そんな大自然に囲まれた景色は、加藤清正の軍団も満洲時代の日本人も、そして今の私も同じ風景を見ているのだ。きっと100年後でさえ同じであり、未来永遠に続くであろうことを思わせてくれる。そんな風景の中にたたずむ時こそ旅の楽しさがある。 -
実るほど頭を垂れる稲穂かな
まだ収穫までもう少し
頭が高い -
帽子山ってどんな山だろうと旅たち前は思っていたが
こんな分かりやすい山はない
誰に聞かずとも、目を瞑っていても、下を向いていても
生まれたてのガキでもわかるんじゃ -
マォアールシャン
龍井から延吉までの帰路
帽子山がずっと見えていた
この地になくてはならない風景だ -
狗肉店で犬肉を食う
机以外の四つ足はみんな食うっていうけど
健康管理を趣味としてからの私のもっとうは
「牛乳飲むな肉食うな」なので
断れば良いものを・・・断らず入る
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■昼食は狗肉店で犬肉を食う
一応、今日の延吉・龍井の予定は終了し、昼食は朱さんの自宅近くの馴染みの狗肉店で食べることになった。「何を食いたいか?」と聞かれたが、逆に「朱さんが食いたい物を食いたい」というと、「じゃあ狗肉は?」というので決まった。
8年前の図們でも食べたが、その時は美味くなかったが味も今一分からないままだったので、八年ぶりに味を確かめてみようという思いで食べることにした。35元(455円)。
8年前は鍋料理の狗肉。今回は湯通しした狗肉を辛子やニンニクを付けスープのような物に浸けて食べる。一口食って八年前の味が甦った。犬と思うからだろうけど美味くない。あっさりしているのだけど食感も脂身が変にヌルヌルして私にはやはり食えた物ではない。触感も味も八年前と同じで一口食って思い出した。
「好吃??Hào chī ma?」と聞かれて「好吃、好吃!」と言いながら、何とか誤魔化してゆっくりと食べた。焼肉で日本の焼肉ダレにつけて食うなら美味いかも?だけど、もう食べたくは無い。最後は延吉駅前で降ろしてもらい、9月17日の図們での再会を約束して朱さんと別れた。 -
先入観故なのか?やはり八年前と同じ感触だった
三度目はない -
延吉駅にて
州都の玄関として相応しい駅舎だった
その理由を述べよ
デカイ
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■延吉駅
延吉駅は大きかった。延辺朝鮮族自治州の州都の表玄関として聳えていた。駅前広場はバスの乗り場で、私も明日朝、ここから琿春に行くつもりでその下見を兼ねて来た。河南(ハーナン)に位置し站前街(Zhàn qián jiē)が駅真ん中から河まで北に伸びている。延新橋を渡れば延西街へと続く。
どこでもそうだが列車の無い時間帯は内部は人気もなく閑散としている。それが列車の出発時刻が近づくと湧き出るかのように駅に人が集まって来る。中国各地お馴染みの光景がここでも繰り広げられているのだろう。私が行った時は閑散としていた。
延吉駅でしばしたたずみ、「駅前には必ず売っている」と聞いていたので延吉の地図を買おうと駅前の何ヶ所かの売店を巡った。最初の二、三軒には地図は無かったが、ちゃんと売っている店があり無事に購入。その地図の裏面には、琿春・図們・龍井の市街地図もあり買えて良かった。 -
駅前の風景、ここは河南
この駅前がバス乗り場 -
心配無用その内、人が湧いてくる
14億人・・・か
少数民族55、漢族1=計56民族
とりあえず
内蒙古・チベット・新疆ウィグルの独立を認めろ!
侵略国家とは今の中華人民共和国なり -
メニュー看板に傘をかけ
オレンジで統一とは
なかなか粋な
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延吉駅前にて
http://www.youtube.com/watch?v=bEkD7mcerXk&feature=player_embedded -
延吉公園
ここに延吉神社があった
19日、20日も来る
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■延吉公園
站前街をしばらく歩いたが、このまま延吉公園に行くのはしんどいからタクシーに乗った。延吉のタクシーは初乗り5元。市内なら10元前後で大体の場所には行けそうだ。上海では最近タクシー初乗り14元とかのニュースを見た。早くそれぞれに違う国として別れよう。
午後1時44分頃公園に到着。今日は中秋節の祝日の月曜日。好天気に恵まれ公園内は三連休最後の休日を楽しもうとする家族連れが多かった。
この延吉公園(当時は西公園)は延吉神社があった場所で、その参道が今も残りWeb頁によれば手水舎(てみずや)の水盤跡いうのが写真も掲載されて残っているはずだが、何度探しても見つからず分からないまま帰国した。
20日(火)は、この近くの柳京飯店に泊まっていたこともあり良く何度も散歩に行った。以前は有料のようだったが今は入場料は不要。正面から公園に入場すると、大人が輪になって坐ってトランプをしてるのか?とおもいきや、覗き込むと花札だった。なるほどここに日本文化の継承があるのかと、今の日本では珍しい花札がこの延吉公園では花盛りだった。ただの遊びではなく小額だろうけど花札博打として・・・。野次馬も含めて多くの人が楽しんでいた。
この延吉公園の高台は、2000年前の漢代前後に村落があり。それらの遺物の出土品が数多くあり石碑の周囲は重点保護地域になっていいるそうだ。
敗戦後に収容所で亡くなった多くの日本人もこの一画に埋められているのだろう。日本の敗戦とソ連侵攻後の延吉の風景はいったいどのようなものだったのだろうか?昭和20年9月12日、ちょうど66年前の今日。
この延吉神社が建つここはどうだったのだろうか?8月16日にソ連軍が延吉に入り日本軍は武装解除された。翌日の8月17日には延吉が騒然としてきて関東神社が燃え上がったという。関東神社ってのは?延吉神社???分かりませんが多分そうだろうと・・・。
この公園の階段を登って行くと、一番上には八角形の屋根の展望所がある。リフトもあったようだが今は放置されたままになっていた。その向こうにはゴルフの打ちっ放し場があった。樹木の成長で視界が悪くなっているのが残念だった。晴天の中歩き回り少々疲れてきた。取り敢えずは一度ホテルに戻って休憩を・・・と、歩いて戻る。 -
公園路から正門を入る
神社へと続く参道なのか? -
満洲時代の名残が
トランプではなく花札が
小銭が飛び交っていた -
動物園でもある
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ラクダ・・・だ
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三連休最後の日、多くの人で賑わっていた
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公園の奥に進んでいけば
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小墩台遺跡”
約2000年前・漢代前後の村落跡地 -
展望台
周囲の樹木が成長して眺望悪し -
一望に見渡すこと出来ず
大都会「延吉」 -
チマチョゴリを着て撮影を・・・。
ここの朝鮮人は心も中国人なのか?
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延吉にて「ソ連侵攻後の関東軍の行動」
http://www.youtube.com/watch?v=hTfmN1wuvUs&feature=player_embedded -
公園から旅館へ
剣道は正真正銘日本古来の武道だ
起源を詐称するのは見苦しいだけだぞ
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■旅館に戻り休息後夕飯を食べに出る
今日の延吉・龍井散策は、予定通り全部見れたと思っていたが、一つ龍井で琵岩山の一松亭に行き忘れ、延吉では監獄跡の芸術劇場に行けなかった。
でも、まだまだ旅は始まったばかりで、後日行くつもり。旅初日早々から左足ふくらはぎのところが痛みだし、貼り薬を薬局で買った。兄妹?それとも若夫婦?経営の店のように見えたが、白衣を着たお兄さん薬剤師の方は、カッコばかりで私の要望に合う物を決断できず。
妹?妻?らしき女性がテキパキと薬を選択し、私が思っているような貼り薬を見つけてくれた。おもしろい光景に思わず笑いたくなった。8元のサロンパスのような物を買う。
毎日8枚を張り替えたが、効果あったのか?なかったのか?かぶれもせず、かといってそんなに刺激もなくとりあえずマッサージしながら良くなっていった。もしかしたらこの貼り薬のお陰かも。それは「麝香壮骨膏(Shèxiāng zhuàng gǔ gāo)」 -
ここがどこかはわからねど
歩いて境浦旅店に戻る -
境浦旅店の裏側
ここから24時間出入り可能 -
ベッドも二つあり便利
土足厳禁部屋なので美しい
パソコン常設ネット可能で無料 -
果物食ってから夕飯を食べに
バナナの味は同じ
「りんご」や「桃」「梨」の味は違う、日本のほうが美味い
果物屋は多いので助かる
食前の果物、食後は駄目
何故?
果物は消化がよいので
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■夕飯を食べに
夕食はいつもの日本と同じようにまず食前の果物を部屋で食い。外の小吃店で拉麺を食べたが激辛で美味くはなかった。食い物に関しては、いつまでたっても学習能力なく進歩なし。故に仕方がない、自業自得だ。
今日の旅は終了。明日は琿春、そしていよいよ張鼓峰事件の戦跡を訪ねるぞ! -
激辛ラーメンを食う
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ここで食ったけど、どこやねん?
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境浦旅店「318号室」
一回で鍵を開けることが出来れば
部屋代は要りません
と、老板は言わないです -
「麝香壮骨膏(Shèxiāng zhuàng gǔ gāo)」
やはりサロンパスとは勝負にならぬ
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