2014/05/07 - 2014/05/07
6位(同エリア339件中)
哈桑湖さん
吉林省の防川(ファンチュアン)村に2度目の旅にいきました。
防川村に新しい高い展望台、龍虎閣が出来ました。
ここからなら日ソ激戦の地、ハサン湖の全貌が見えると思ったからです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 航空会社
- アシアナ航空
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向って右が張鼓峰。
左が将軍峰。
一番手前は防川項。 -
北側の道路沿いに池、沼が多いです。
これは豆満江の流れが変わり、防川村に行くのに、ロシア領を通らないといけなくなりました。
それで豆満江を埋めて、道路を作り防川村まで、ロシア領を通らずに、行けるようにしました。
そのため道路の北には池、沼が幾つかできました。
この池、沼で鯰、鯉、鮒、雷魚の養殖をしています。 -
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ここから専用バスに乗っ龍虎閣に向かいます。
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新しく建てられた龍虎閣。
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ここに登ると北朝鮮が見えます。
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豆満江の向こうは北朝鮮。
かつてこの地は1910年から日本となりました。 -
向って左がロシア、豆満江の北岸の一部が中国。
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龍虎閣からロシアのハサン村を観ます。
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中国の哨戒塔です。
張鼓峰事件当時では臥峰と呼ばれています。 -
龍虎閣より北側。
向って左が豆満江。 -
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龍虎閣から見る張鼓峰(向かって右)と将軍峰(向かって左)
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張鼓峰事件の記念館です。
リニューアルされました。 -
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平和な張鼓峰。
この張鼓峰の地域は、ソ連、満州国(当時)とも、国境をきちんと決めておらず。
あいまいな地でした。
地元の朝鮮族の人たちは、張鼓峰の頂上でお祭りの日には、豚の頭を捧げ、チャンゴをたたいて食事を楽しんでいました。 -
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ブリュッヘル元帥。
極東ソ連軍の最高責任者。
張鼓峰事件のあと、ソ連の秘密警察に逮捕されました。
日本のスパイであるとの、でっち上げの告白をせまられました。
ブリュッヘルは拒み続け、拷問3日目に絶命しました。
このとき彼の目は床に転がっていたようです。 -
リシュコフ大将、ユダヤ人。
ソ連の極東に住む朝鮮人を、根こそぎ中央アジアの地に強制移住させた責任者。
このあと、モスクワへの召喚命令を受けましたが、身の危険を感じて、1938年6月13日に満州国(当時)に亡命。
このころから張鼓峰付近のソ連の警備が強化されます。 -
張鼓峰の頂上は満州国のものだと日本側は思っていました。
ところがソ連は頂上が国境だと思っていました。 -
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1938年7月9日、ソ連兵が張嶺鼓に現れ陣地を構築しだします。
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張鼓峰。
日本は外交交渉を始めますが、ソ連は譲る気配はありません。
この地は満州国(当時)領でしたが、守備責任は関東軍ではなく、尾高中将率いる朝鮮軍でした。
尾高中将は「ソ連軍が取るに足らぬ丘(張鼓峰)を占領したことではなく。大日本帝国陸軍の威信に関わる問題だ」と激怒しました。
満州国の地元民たちは「関東軍は内に対しては虎のようだけど、外に対してはまるで子猫だ」と馬鹿にしだしました。
関東軍の辻正信は、「朝鮮軍のお手伝いをいたす」と言って現地入りをしました。
小磯朝鮮軍司令官は、辻正信が事件を拡大するとの危惧から、彼に朝鮮入りを禁止します。
天皇陛下は「朕の命なくして、一兵たりとも動かすべからず」と仰せられました。 -
沙草峰の新しい石碑。
无名(日本語表記では無名)高地と地図に書いてある場合もあります。
露語ではベズィミャンナヤ高地。
仰々しい名前に見えますが、名前の無い高地です。 -
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門が閉じられ蓮花池まで近づけません、でもよじ登って。
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蓮花池。
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蓮池湖、張鼓峰事件記念館よりも北西にあります。
この湖の向こうの丘が沙草峰。
1938年7月29日朝9時半ごろ、ソ連兵が沙草峰に現れ陣地の構築を始めました。
張鼓峰での一連の出来事に対しては、昭和天皇から武力行使の禁止命令が出されていうました。
今回の沙草峰へのソ連軍の陣地構築は、張鼓峰での事件と別個のものと尾高地中将は解釈しました。
そして沙草峰でのソ連軍撃退は、天皇の命令に背くものではないと判断しました。 -
ハサン湖の最北部
向って左が沙草峰 -
沙草峰
向って左奥の池が蓮花池 -
蓮花湖
張鼓峰事件当時は、丸池と呼ばれていました。
遠くかすんで見えるのが張鼓峰。
ここから2キロあります。 -
蓮花池の北東。
遠くかすんで見えるのは張鼓峰。
沙草峰から2キロあります。
張鼓峰と沙草峰は一体のものか、別個のものかで、解釈はことなります。
一体のものであれば、沙草峰のソ連軍撃退は、天皇陛下の命に背くことになります。
ただこの沙草峰の占領を維持するためには、張鼓峰の占領が不可欠となります。 -
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1938年7月29日午後3時、千田中佐率いる部隊がソ連兵を撃退させます。
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ソ連軍は戦車や爆撃機・戦闘機まで繰り出してきました。
日本兵たちは、張鼓峰の山肌にしがみついていました。
死傷者が増える一方です。
日本の戦闘機は上空にはありませんでした。
なぜなら天皇の命にそむいて尾高亀蔵師団長が、独断でソ連軍を攻撃したからです。 -
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下が張鼓峰。
上が无名(無名)高地、すなわち沙草峰。 -
佐藤幸徳大佐の率いる歩七五連隊。
佐藤大佐は将軍峰に登り、張鼓峰を視察。 -
尾高中将、独断攻撃開始。
1938年、7月31日、歩七五連隊第一大隊、張鼓峰に夜襲攻撃。
午前2時、張鼓峰の頂上を占領。
歩七六連隊第一大隊、沙草峰を攻撃してソ連軍撃退。 -
天皇の命に背いて、兵を動かしたのですが、このままでは日本軍は全滅します。
そこで参謀本部の多田駿次長が、天皇陛下に戦況を報告します。
天皇陛下は「起きたことは仕方ない」と尾高中将に御咎めはなかったのです。
中将は感涙にふけります。 -
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佐藤幸徳は後に、陸軍中将となりインパール作戦に従事しますが、独断で抗命し撤退して、多くの部下の命を救うことになります。
佐藤は、インパール作戦については、
大本営、総軍、方面軍、15軍という馬鹿の4乗が、インパールの悲劇を招いたと述べています。 -
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ソ連軍は二個師団二万名を繰り出してきました。
さらに戦車や戦闘機・爆撃機まで。
日本軍兵士たちは、張鼓峰の山肌に、しがみついていました。
ソ連の戦闘機や爆撃機にさられながら。
上空には日本軍の戦闘機は、ありませんでした。
なぜなら天皇陛下から「朕の命令なくして、一兵たりとも動かすべからず」
と釘を刺されていたのに、尾高亀蔵師団長が独断で、ソ連軍を攻撃したからです。 -
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ロシア側からみたハサン湖です。
小高い丘が張鼓峰。
遠くの川は豆満江。
向って左が河口方面。 -
ロシア側からみた、ハサン湖と張鼓峰。
鼓のようにピンと張った稜線を持っています。
これを地元民は、張鼓峰と名づけました。
満州国時代は、ちょうこほう。
現在は、チャン・クー・フェン。 -
ロシア側からみた、ハサン湖と張鼓峰
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龍虎閣から。
向って右が張鼓峰、左が将軍峰。 -
ロシア側から。
ハサン湖の向こうに張鼓峰です。
ロシア名は、ザオゼルナヤ高地、意味は湖の向こうの高地です。
少し前は、ロシア人でもハサン湖には行けませんでしたが。
今は行けるようです。 -
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奥の湖がハサン湖
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手前が52高地、奥がハサン湖
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手前が52高地
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北朝鮮。
田中隆吉・砲兵大佐は、豆満江対岸のこの仏岩峰から、52高地、張鼓峰の側面からソ連軍に、大砲をぶちこんでいきます。 -
8月11日
正午に停戦です。
写真右の記者と笑顔で向かいあっているのが、尾高亀蔵師団長です。
ソ連軍が沙草峰に陣地を構築したのを見て「これは張鼓峰事件とは、別個の事件である。」といって独断でソ連軍を先制攻撃したのです。 -
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停戦交渉にやってきた、長勇大佐です。彼がこの大役に選ばれたのは、軍服が一番綺麗だったからです。長勇、田中隆吉とも、危険人物として、この戦闘中には、積極的な役目を、もらえませんでしたが。
長大佐は、ソ連軍将校の前で、「どうぞ、ごゆっくりやってください。戦闘で疲れているので寝させてもらいます」と言って、高いびきで寝入ります。
1937年の南京攻略戦において、中国兵捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じたことで、松井大将からお叱りを受けたとも言われています
南京事件の肯定派からも、大虐殺は否定する部分的肯定派からも、南京事件は彼の責任との声も。この「ヤッチマエ」発言は、長勇が、田中隆吉に言ったことが拡がったようですが。
長勇は、沖縄県民から、よく言われていません。沖縄県民にアメリカ兵にに対し「一人十殺」させろと言った、つまり国際法の適用されないパルチザンになれと。
また沖縄県内で、相次ぐ日本兵の不祥事に業を煮やし、沖縄県の女性を、慰安婦として提供しろと言ったとか。
一方では、彼は大言壮語のきらいがあり、南京事件でも沖縄戦でも、実際にはあまり関わりなかったという説も。沖縄で自決されており、死人に口なしで、責任をおしつけられているだけだとも。 -
南京事件の記念館には長勇の写真はありませんでした。
長勇中佐(南京戦当時)が南京での捕虜虐殺の張本人だと言う、保守派の論客もいます。
一方、たかだか中佐の率いる部隊で、1万5000人もの捕虜を虐殺できるはずがないという人もいます。
当時の日本軍の機関銃はすぐに故障したようです、また機関銃を連射すると砲身は焼けただれます。
責任を彼になすりつけているのだと言う人もいます。
彼の副官は長勇中佐が捕虜射殺の命令など出していないと言っています。 -
長勇作詞 あゝ張鼓峰 が、あります
1 曇りては晴れ 晴れてまた 曇りがちなる北の空 昭和十三 夏遅く
暗雲閉ざす 張鼓峰
2 ソ連の暴虐 懲らさんと 大詔(みこと)のままに 気負い立ち
剣光 燦と月に冴え 進む北鮮鎮守軍
3 鉄血うばう 正勇山(せいゆうざん)爆煙(ばくえん)覆う沙草峰(しゃそうほう) 52(ごーに)高地は 厳(げん)として
将軍山(しょうぐんさん)と 天高し
4 屍山血河(しざんけっか)の誅戦(ちゅうせん)は 皇国(みくに)を守る
丈夫(ますらお)が 祖宗(そそう)に受くる 熱血の赤き誠(まこと)の
精果(せいか)なれ
5 戦雲ここに 収まりて 昇る朝日の 影射(かげさ)せど 国に殉ぜし
武士(もののふ)を 悼みいて鳴くか 虫の声
6 芙蓉千古(ふようせんこ)の 姿貌(すがたかお) 正義を踏みて ゆるぎなき 極東平和の 守護神と 馳(は)せり 北鮮鎮守軍 -
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カチューシャの唄は、この戦いのあとで生まれたといわれています。
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記念館の外の井戸。
日本軍が使用したようです。 -
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なお、この戦いの後、張鼓峰は正勇山(せいゆうざん)と名づけられました。
現在の名前は、張鼓峰(チャンクーフェン)ですが。
尾高中将が言うように、張鼓峰はとるにたらぬ丘です。
この丘のために大勢の日本人の若者が、命を亡くしました。
尾高中将は戦線後方にいて指揮していただけです。
ここで死んだ日本兵の方たち、お国のために命を捧げたのでしょうか?。
この地は、日本古来のものではありません。
また住民も住んでない、取るにたらぬ丘ですよ。 -
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この張鼓峰事件とは、何だったのか。
張鼓峰記念館の館長さんは、日本が負けたとおっしゃていました。
停戦時には、張鼓峰の頂上は、日本軍が占領していました。
そして停戦の条件として日本軍は、1キロ後退するという取り決めが。
その後中国軍と日本軍の戦闘が激化していき、この張鼓峰のことは、忘れられていきます。1939春には、張鼓峰の頂上には、ソ連国旗がはためいていたのです。
日露戦争が、勃発したときに、大文豪のトルストイは
「殺生を禁じられた仏教徒と、愛を掲げるキリスト教徒が、残酷に殺し合うとは、何事か。これは必要のない戦争で、私は決して許せない。
国の指導者たちが、砲弾弾雨の中に行け。俺たちはごめんだ。」と言いました。
トルストイに言わせれば、張鼓峰での戦闘も、そうなんでしょうね。勿論、日中戦争も太平洋戦争も。
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この旅行記へのコメント (2)
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- くまくまさん 2014/07/29 22:20:17
- 哈桑湖さん
- くまくまです。こんにちは。このたびはくまくまの旅行記にご訪問&投票ありがとうございました。
御礼にきました。
- 哈桑湖さん からの返信 2014/07/29 23:16:32
- RE: 哈桑湖さん
- > くまくまさま
お便りありがとうございます。
この張鼓峰事件は、尾高師団長が独断専行で、ソ連軍に戦闘をしかけました。
ソ連軍は戦車も戦闘機も爆撃機も、繰り出してきます。
しかし、日本側は天皇の許可を得ぬまま、戦闘を始めたので、日本側は戦車も飛行機もなく、張鼓峰の岩肌にしがみついていただけでした。
この戦闘が終了したときには、生き残ったことが奇跡に思われたようです。
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