2011/09/11 - 2011/09/21
78位(同エリア342件中)
明石DSさん
①大連:②延吉:③琿春:④張鼓峰:⑤図們:⑥開山屯:⑦三合(望閣江):⑧龍井
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はじめに
これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。
公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。
目 次
(0) 旅たち前:張鼓峰事件の戦跡を訪ねる
(1) 9月11日(日)関空~大連~延吉へ出発
(2) 9月12日(月)延吉~龍井~延吉
(3) 9月13日(火)延吉~琿春~張鼓峰
(4) 9月14日(水)琿春~張鼓峰~防川村
(5) 9月15日(木)琿春~図們
(6) 9月16日(金)図們
(7) 9月17日(土)図們~傑満~開山屯~三合~龍井
(8) 9月18日(日)龍井
(9) 9月19日(月)龍井~延吉
(10) 9月20日(火)延吉~大連
(11) 9月21日(日)大連~関空
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
左:将軍峰/右:張鼓峰
1938/昭和13年:満ソ国境紛争:張鼓峰事件の現場
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張鼓峰事件の戦跡を訪ねる
張鼓峰事件と言うのを私が意識したのは、「ノモンハンへの旅(2008.H20.5.13〜5.24)」をした時、ノモンハン事件の一年前にやはり同じ満ソ国境紛争があり、それが張鼓峰事件だった。その時は、ノモンハンもそうだが張鼓峰事件の結果についても日本軍がソ連軍に対して「惨敗した戦い」という感覚だった。
そして、まだ今にしてもこの二つの事件に対しての世間の評価は正されてないように思う。その評価とは『支那戦線とは違い近代兵器の総力を挙げて戦いを挑んできたソ連に張鼓峰事件で日本は痛い目にあいながら、ノモンハンに生かせず再度惨敗し、それらの惨敗に日本軍は学ぶことなく太平洋での米英蘭相手の近代戦に成すすべなく敗れた』等々である。
しかし張鼓峰・ノモンハンは原因も結果も私が知る世間のこれまでの評価とは全然違っており、つくづく自虐史観に基ずく戦後日本の戦史家・歴史家・メディアなどの罪深さには愕然とする。1938年:昭和13年7月末から二週間ほどのこの張鼓峰事件は、スターリンという独裁者が仕掛けた戦争であり、ソ連・ロシアと今にも続く彼等のDNAとも言える果て無き膨張主義が招いたものだ。
張鼓峰事件は極東軍KGB高官の亡命を機に、その失点カバーのつもりか?極東軍司令官がスターリンに張鼓峰占領を具申。それを受けてスターリンが自らの軍隊の「武器の精度・破壊力・効果・兵士の忠誠心・錬度」等々を試し、日本軍を試し、日本国の対ソ認識を試そうとした。スターリンという冷徹な独裁者がゲーム感覚で起こした戦いだ。
しかしスターリンは張鼓峰で相手に圧倒する近代兵器と兵力を投じながら、専守防御というハンディを背負っての日本軍にしてやられた。張鼓峰事件での司令官ブリュヘル元帥は、1938年10月、張鼓峰事件収束後すぐにモスクワに呼び戻され「片目が飛び出すほどの拷問を受け、間もなく獄死した」のがその証でもある。
その雪辱とモンゴルのソ連化及び満洲内蒙古支配を企みスターリンはノモンハンで用意周到の準備を整え再度国境侵犯を仕掛けたが、日本軍の奮戦によってまたしても屈辱を舐めたというのが私の思う両事件の真相だ。両事件とも国境での偶発的な侵犯が引き起こした戦いではない。共に意図を持ってスターリンが仕掛けた。
そんなゲームに付き合わされた日本軍は、張鼓峰では健気にも武器の制約・専守防御などいう圧倒的不利な条件で戦いながら相手に勝る戦いを行い満洲国境を死守した。満洲国境すなわち今の中ロ国境である。それまで極東に拡大するソ連に成すすべなく自国領土?を侵犯されていたのが支那である。日本軍が死守したこらこそ今の国境がある。
そしてこの張鼓峰・ノモンハンで日本軍に手痛い目を合わされた復讐からスターリンは、昭和20年8月9日、150万以上の大軍を持って満洲各地から侵攻し残虐非道の限りを尽くした。「張鼓峰事件」は決して日本の負け戦ではない。日本軍かく戦えり。
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■旅たち前の予備知識と実際の印象
張鼓峰事件についての記述は、「われら張鼓峰を死守す」冨永亀太郎(著)から抜粋参照が多い。この旅行記の文章は、ごちゃまぜなのでイチイチ注釈はつけない。みんなパクリだと思ってもらっても構わない。
張鼓峰は、満洲・ソ連・朝鮮との国境を流れる豆満江に近い、湖・沼と河にはさまれた丘陵地帯にそびえる標高149メートルの山で、その名前の通り鼓を張ったような、稜線のきわだったきれいな山である。
その張鼓峰の戦いは、ソ連軍の高官がスターリンの粛清を恐れて、満ソ国境間島省琿春(こんしゅん)の分遣隊に亡命を求めて来たのが始まりです。その人物はソ連ゲ・ペ・ウ、リュシュコフ大将、時は1938年:昭和13年6月13日のことでした。
日本の陸軍省がリシュコフ亡命を発表した7月1日の五日後、関東軍情報部はソ連軍国境警備隊長から極東ソ軍司令部への張鼓峰占領許可の電報を傍受しました。次いでその内容を裏付けるかのように7月9日には張鼓峰にソ連軍兵士40名が現われて陣地を構築しだした。
ウィキペディアでの記載によれば「13日、これを監視中の松島伍長をソ連軍が不法に殺害した。」とあり、そして、現在の中国・朝鮮の張鼓峰事件の説明では、松島伍長の偵察と殺害が張鼓峰事件の切っ掛けであるかのように記している。確かにソ連軍による不法殺害は事実だが、それが切っ掛けと言うのは事実ではない。
昭和13年7月といえば、前年の昭和12年盧溝橋に端を発した支那事変も、すでに南京を含む北支一帯を占領し、日本軍は支那との戦いに全力を挙げていた。そんな日本はソ連軍の越境に「直ちに実力を持って反撃する態度にはでず」とした。
そして外交交渉での解決を目指すことを第一としながらも、朝鮮軍第19師団に対して応急派兵の準備を命じ、7月19日第19師団各隊は前線に集結を完了した。
その後交渉は進展しないまま、武力行使は陛下の反対もあって7月26日には撤退命令が下達された。その三日後、日本軍撤退の動きを見定めるかのようにソ連兵が張鼓峰の北側、沙草峰にも国境侵犯を行い陣地構築を始めた。
それを見た尾高(すえたか)中将が越境ソ連兵の駆逐を命じ、部隊の撤退の中止、前線への復帰命令を出した。
尾高中将は、沙草峰と張鼓峰は切り離しての処理としながら、沙草峰の保持は張鼓峰の確保が必要と7月30日張鼓峰への夜襲をかけ占領した。大本営も戦線拡大なきよう命じながらこれを認め、ここに張鼓峰での戦いが始まった。
ソ連軍は日本軍の三倍に及ぶ圧倒的な物量、戦車、飛行機をもって攻撃して来た。それに対して第19師団は一貫して戦線の不拡大、戦車なく、飛行機なく、あくまでも「専守防御」という、ソ連軍に対してあまりに不利な戦いを強いられながらも国境を守り抜き戦いぬいた。
この7月29日から8月11日までの約2週間に渡るソ連との戦いを日本では張鼓峰事件と呼んでいる。戦後の自虐史観によりこの戦いも日本軍の一方的な敗北とされていたが、ソ連軍資料などでも明らかになったように、
日本軍の戦死者:525名、戦傷者:913名。
それに対して
ソ連軍の戦死者:717名、戦傷者:2,752名
死傷者数からも、そして当時、外電がこの戦いをどのように論評しているのかを見れば日本軍の敗北ではないことが分かる。
そしてソ連軍の不法越境によっての戦いも、第19師団の専守防御と言う献身的な敢闘によって沙草峰・張鼓峰の満洲国境を守り抜き停戦となった。停戦の条件として互いの占拠地より双方80メートルづつ後退することになり両軍の間に160メートルの緩衝地帯を設けた。
日本軍は停戦後ソ連軍との衝突を避けるためにすみやかに撤退したが、ソ連軍はそのまま現地に駐留を続け、翌年の解氷期を迎えるや、停戦協定を無視し張鼓峰頂上、52高地などの第19師団が幾多の犠牲を払って守り抜いたはずの要点に野戦要塞を構築した。
この事件を機に、この地域は朝鮮軍から関東軍に防衛移管をした。その後、現地を視察した関東軍、辻正信参謀は、貴重な血を持って守ったはずの国境が、すべてソ連軍によって占領されている事実に憤激した。
この現実こそがソ連であり、世界であり、日本の甘さであり、今もこれからも日本人が歴史に学ぶべきことの一つだと思います。
今日は2011年/平成23年10月20日です。今から73年前に、この辺境の地で満洲の国境を死守し、今尚この地に眠る日本軍兵士の方々に哀悼の意を表し心からご冥福をお祈りします。
張鼓峰の戦いは日本の輝ける歴史の一つとして子々孫々に必ずや語り継がれて行きます。そして国を守るために自己犠牲をいとわぬ精神は、日本人の遺伝子の中に受け継がれていることと信じています。
今の私がどうであろうと・・・。そして今の日本人がどうあろうとも・・・。
2011/平成23年10月20日(木)記
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張鼓峰事件の経過
われら張鼓峰を死守す:冨永亀太郎(著)
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1938/昭和13年
6.13
リュシュコフ大将、ポシェットより長岑子を経て、琿春に亡命し朝野を驚かす。
7.5
ソ連軍ポシェット警備隊長の暗号電報傍受。関東軍、ソ連軍張鼓峰越境の企図を知る。
7.9
ソ連兵、張鼓峰に現われ工事を始める。
7.13
小磯朝鮮軍司令官、事件処理の方針を決め、中央に意見具申。その要旨は、先ず外交交渉を行い、ソ連がこれに応じない場合は、武力をもってこれを駆逐する。
7.14
大本営、小磯報告を聞き、事件処理要綱を決める。その要領は、朝鮮軍の意見の通り先ず外交交渉を促進し、かつ交渉決裂に備えて、第19師団を事件地附近に集中することを命じ、同時に武力発動は中央の指令によるべきことを明示したしたものである。
7.16
大本営、前記要旨の「大陸命」を下す。この際兵力集中の目的と、現地軍に慎重な態度をとるよう、特に注意を喚起した。中村朝鮮軍司令官は、右「大陸命」により、歩兵四大隊・山砲・工兵の主力などの応急派兵の準備を命ずる。
7.17
尾高中将は、朝鮮軍命令により部隊に待機命令を下す。歩兵75連隊、歩兵76連隊第一大隊、山砲25連隊主力、野戦重砲連隊高射砲、工兵連隊主力。朝鮮軍は、待機部隊に対し、国境に前進を命ず。
同時に、兵力の豆満江渡河と武力行使は、別命によるべき旨厳命す。尾高中将は、歩兵75連隊、砲兵、工兵の主力部隊を阿吾地に、歩兵76連隊の一大隊を慶興に前進を命ず。
7.18
歩兵75連隊、会寧出発。その他の部隊も同夜、羅南出発。
7.19
各隊は、それぞれの地に午前中に集結を終える。大本営は、その後の外交交渉がはかばかしくないのに対し、国境におけるソ連軍の行動の活発なのを憂慮して、武力行使の考えが強くなった。荒尾参謀を第19師団長の許に急派して、武力行使についての大命案(朝鮮軍司令官は、張鼓峰附近におけるソ連軍の不法越境に対して実力を行使することを得)を伝えさせ、あわせて急襲的限定攻撃について第19師団を指導させた。
現地の尾高中将、歩兵75連隊長佐藤大佐は、荒尾参謀の指導により着々戦備を整え、大命の下るのを待った。
7.20
中央では、武力行使は許可されないのみか、板垣陸相は陛下よりお叱りを受け、武力行使は中止となる。陸相は、上奏の行き違い不始末を憂慮して辞意を表明。重光大使、モスクワにてリトヴィノフ外相と会見、ソ連軍の引揚げを要求。
7.21
武力行使中止の大命現地に届く。この間、中央と現地で電報のやりとりがあったが、武力中止は一時的と解される節もあり、中央、現地とも、武力行使について全面的にこれを守る空気にはなかったようである。
7.22
参謀次長電をもって、武力を使用しない旨再確認したが、この時点では国境に進出した第19師団諸隊を撤退させる処置は考えていなかった。
7.23
現地からの荒尾参謀電により、第19師団は依然として、限定攻撃を期待する空気にあるを知って、ようやく撤退に踏み切る決心をした。
7.26
第19師団撤退に関する大陸命下る。
7.28
第一梯団より撤退はじめる。
7.29
ソ連軍歩兵数名、沙草峰に現われ工事を始める。尾高中将、千田中佐に独断攻撃を命じ、越境ソ連軍兵士の駆逐をはかると同時に、未帰還部隊の出発中止、羅南に先に帰った師団司令部、山砲主力を再び戦場に引き返す命令を出す。
千田部隊、沙草峰のソ連兵を駆逐す。退いたソ連軍は兵力を増し、、戦車を伴い再び攻撃して来る。我が方の判断によると、ソ連兵は国境線を500メートル越えていた。
7.30
中村中将は、尾高中将の処置を認め、かつ、あくまで不拡大方針をとるように注意す。沙草峰の越境ソ連軍の攻撃を命じた尾高中将の心境は、沙草峰は張鼓峰とは切り離して処理すべきであると決め、ついで沙草峰保持のためには、戦術上張鼓峰をわが有とせねばならない、従って張鼓峰を独力攻撃すべきであるとした。夕刻、歩兵75連隊第一大隊張鼓峰夜襲の行動につく。
7.31
夜襲部隊攻撃開始。午前2時頂上占領す。ソ連軍多数の遺体を残して敗退す。歩兵76連隊第一大隊、沙草峰の敵を払暁攻撃、ソ連軍を撃退し同地占領す。多田参謀次長戦況奏上。大本営は、尾高中将に対し、現在線を確保し、現状以上に戦闘を拡大させないよう命ず。尾高中将感涙にむせぶ。
8.1
羅南部隊(歩兵73、歩兵76連隊)に応急派兵下令、国境に向かい出発す。敵の反撃始まる。第一線、大空襲(百数十機)を受く。
8.2
夜、歩兵73連隊、豆満江を渡る。歩兵76連隊は、敵の右側を包囲攻撃する計画のもとに、豆満江の渡河を始めたが、この計画は不許可になったので、下汝坪に転進集結す。
8.3
歩兵73連隊、沙草峰の配備につく。尾高中将、歩兵74連隊の招致を申請したが、朝鮮軍これを却下す。ソ連軍、反撃をやめ後方陣地に退く。
8.4
師団主力部隊、戦備を急ぐ。敵の攻勢準備次第に活発となる。重光大使再度、リトヴィノフと会見、交渉進展せず。
8.5
敵の攻撃準備、昼夜間断なく行われる。
8.6
ソ軍、空陸呼応しての総攻撃始まる。張鼓峰、夜戦の攻防。佐藤大佐張鼓峰死守。
8.7
野口高地落つ。野口中隊(歩兵75第9中隊)全滅。52高地の苦戦、歩兵73、第一大隊の救援。
8.8
第一線守備隊の苦戦続く。歩兵74連隊先遣部隊、8日夜豆満江を渡る。90改造野砲二中隊、野戦重砲中隊(15加二門)戦場に到着。歩兵76連隊第三大隊の東南角高地の夜襲成功せず。
8.9
増加、長距離砲試射開始。歩兵74連隊主力、将軍峰に集結す。この日、各戦線ともに苦戦が続いたが、よく陣地を固守す。
8.10
尾高中将、専守防御の限界を具申す。大本営、第19師団の後退を決断す。正午(零時)モスクワの停戦交渉まとまる。
8.11
11:20大本営は、外務省から停戦協定成立の報を受け、直ちに電話により正午(12時)を期して、戦闘行動の中止を命令す。
11:50/第一線部隊に停戦命令とどく。
12:00/日ソ両軍戦闘行動中止す。
18:20/歩兵75連隊長、佐藤大佐、張鼓峰頂上にて遥拝式を行う。
20:00日/ソ停戦委員、張鼓峰東南稜、ソ軍陣地内にて第一回停戦会談。
8.12
12:40第19師団の撤退に関する朝鮮軍命令下る。夜、第19師団は、豆満江右岸に撤退を始め、青鶴・下汝坪・阿吾地間の地区に集結。この夜から、豪雨沛然として降る。
8.13
夕、張鼓峰東南稜にて日ソ遺体交換。
8.14
左岸残置部隊、右岸に撤退す。
8.26
8月26日以降、9月上旬の間に第19師団諸隊は原駐地に帰還した。
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沙草峰と手前、丸池(蓮花湖)
2011年9月14日12:22:48
沙草峰がどの山なのか皆目見当がつかないまま現地に行った
ここが、蓮花湖公園ということで行った
湖の向こうの丘陵が沙草峰だと分かったのは
ここを一旦立ち去り、戻って来た時だ
沙草峰の向こう側がソ連との戦場になった
なかなかこの状況で当時を想像するのも難しい
頂上にでも登らないと戦場の様子が分からない
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2011.平成23年2月16日(水)
■琿春・張鼓峰へ行こう
グアムから帰って旅行記を書き終わったばかりだが、次の戦跡巡りは満洲東南部の琿春、そして1938/昭和13年7月29日〜8月11日)。ノモンハンに先駆けて起きた日ソの戦い「張鼓峰事件」の現場を訪ねたい。中国の防川村で北朝鮮・中国・ロシアと国境を接している。
ノモンハン事件も最初は分からなかったが、張鼓峰事件のことも調べるまでは漠然と「日本軍の敗北」としか頭になかった。だがやはりノモンハン同様、真実はそうではなかった。軍事的にはソ連側の圧倒的優位な戦いであったにも係わらず、ソ連側の犠牲者が多かったし張鼓峰の満ソ国境も日本軍の奮戦によって奪還した。
結果は日本軍の勝利と言っても過言ではない。その証が外電が伝える張鼓峰事件は日本の勝利のような内容だし、ソ連軍司令官が事件後更迭され殺害されている。一年後のノモンハンが起きたのは、ソ連側が張鼓峰で負けた遺恨でもあったのだ。
それは当時の外電の表記を見ても明らかだ。
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ベルリン電
ドイツ官民は、日ソ停戦協定の成立を歓迎し、ソ連の挑戦に対し、軍事的政治的に示した日本の頑張りと忍耐とを賞賛している。協定成立については、ソ連軍の前線における規律退廃、士気の弛緩が明らかになったことがソ連の停戦受諾となった。日本の極東平和維持の真意は、中外に明らかにされたが、今後ソ連が挑戦的態度を棄てるとは思われない。
ローマ電
ソ連が今回挑戦行為に出たのは、リュシュコフ大将脱出事件を、内政的に湖塗するためにやったものと思われる。日本の沈着且つ毅然たる態度を見て、遂に腰折れとなり、当初の計画は全面的に失敗にした。粛清工作の深刻化と欧州政情から、モスクワは極東で戦争をやる勇気はない・・・。
ニューヨーク電
一時的にせよ、極東における大戦争勃発の可能性を除去したことは歓迎される。今後はいかに停戦の精神を実行していくのか。前途は楽観を許さないと慎重論をとなえ、且つソ連が事件を起こした意図日ソ両軍の比較など、論評が掲載されている。
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以上この三つの外電をみても、張鼓峰事件は、ソ連軍が挑発した戦いであり、且つ敗者はソ連軍だというのが当時の世界の認識だということが分かる。それが戦後の東京裁判以降、この張鼓峰事件も日本の侵略とされ、翌年のノモンハン事件同様に圧倒的な敗北とされてきた。
日本軍:戦死526名、負傷者914名
ソ連軍:戦死792名、負傷者2,752名
張鼓峰事件
かつて日本は美しかった「張鼓峰事件」↓
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20091015/1255557997
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8月11日、重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によってモスクワで停戦が合意されました。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦となり圧倒的日本軍の勝利で終わっています。このことによりソ連のブリュッヘル極東司令官らは粛清にあうことになります。
日本軍:戦死者 526名、負傷者 914名
ソ連側:戦死者1,200名 負傷者4,300名
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数字は違うが下記の数字が真実なら日本軍の圧倒的勝利と言える。停戦後の結果も日本側の境界が認められての停戦となっている。ソ連軍極東司令官が粛清されたことが、なによりの「敗北の証」だろう。
ホンマ戦後日本の自虐捏造史観には、ホトホトウンザリする。その結果が今の民主党政権であり、醜い菅・鳩山・小沢・仙谷などの面々がその象徴である。
張鼓峰事件の資料はネットで検索しても少ないし、本も今は見つかっていない。まあボチボチやろう。そして張鼓峰事件の6年後、琿春では侵攻して来たソ連と第112師団:中村次喜蔵師団長(中将)以下の将兵が戦っている。
次の行き先は決まった。ハハハ。
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2011.平成23年2月18日(金)
■「われら張鼓峰を死守す」冨永亀太郎(著)
これ以上ない本が見つかった。昨日、明石の図書館のHPで、「張鼓峰」と文字を入れて蔵書検索をしたらこの本があった。早速電話を掛けて本を棚から取り出してもらっていたのを今日借りに行った。
そして本を開いたら、この本の著者は歩兵73連隊連隊砲中隊長として張鼓峰に従軍していた方で、その後大本営に転任し、陸軍の報道宣伝を担当し、昭和16年12月8日大東亜戦争勃発時の「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり・・・」を起草した人物だった。
昭和56年に発行されたこの本の巻頭に書かれている「推賞の辞」は、陸上幕僚長・鈴木敏通陸将が書かれたものであり、反戦反軍の内容とは程遠いものだとホッとする。そして、まだチラッとしか読んでいないが戦いに至る経緯から戦闘経過、結果まで詳細に書かれているようだ。
この一冊と出会うことが出来て、張鼓峰への戦跡を巡る旅がより充実するだろう。これからじっくり読み返し、そこでどんな戦いがあったのか自分なりに把握したい。
その他についでに下記の本も借りてきた。
「転落の歴史に何を見るか」斉藤健(著)
「司馬遼太郎対話選集・3」文芸春秋
「昭和史:9」毎日新聞社
私は数年前から「大東亜戦争賛美」を大言壮語しているが、戦争の酷さ(むごさ)惨めさ(みじめさ)は十二分に想像できるし、自分が当事者になる勇気も気力も無い。そして、軍人に憧れるが、帝国軍人が何も立派な軍人ばかりだったなどと露も思っていない。
私が敗戦までの日本を軍人を賞賛するのは、何をおいても拉致された同胞すら救えない今の日本人が自分を棚に上げ、戦争に踏み切った帝国日本や、帝国軍隊軍人を非難する言葉に辟易しているからに他ならない。そりゃあ当時だって軍人にも政治家にも今と同じく嫌な奴、腐った人間は少なからずいただろうことは言われなくても分かっている。
戦後66年も不当に非難され続けてきた反動で、私は「終戦のその日までの日本」を賛美し褒め称えている。だからちょっとでも昔の悪口を聞けば気分が悪い。特に最近は生き残った元兵士やその時代を知る人たちが反戦反軍を訴え、「二度と戦争はしてはいけない」と声高に訴える姿は見るに耐えない。
「二度とするな!」というなら奴隷になれと言うのか?「あなたたち世代が負け戦をしたあげく、戦争は悲惨だから奴隷になれか・・・」
そして、まさにその通り米国に従属する保護国となった。これは一人前の人間ではなく奴隷である。それすら自覚が無い。というより見てみない振りをしているのだ。
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2011.平成23年5月18日(水)
■関空⇔大連
3月11日の東日本大災震災が発生し、福島原発事故をうけて中国人の帰国ラッシュで中国への航空券は高騰していたが、その後、震災と原発事故の影響で中国からの観光客も激減し航空券は格安になっている。
ここ数回の満洲行き「関空⇔ハルピン」は長男の中国南方航空でのマイルを使って手に入れていたが、昨年突然南方航空の経営難からか?一気にマイルの点数がそれまでの2000点から5000点と倍増し長男のマイルが減ってしまい今回は足らなかった。故に以前に買っていたヤフーの格安航空券を利用して購入した。
購入先は:「株式会社ジータック・グッドツアー URL: http://www.good-tour.co.jp」
2011年09月12日(月) CZ 638 大阪(関西/関空)/14:30発 大連(ダーリェン)/15:40着
2011年09月21日(水) CZ 637 大連(ダーリェン)/10:30発 大阪(関西/関空)/13:30着
料金
国際線航空券代金 1名 \30,800
関西空港施設使用料1名 \2,650
空港施設使用料1名 \2,220
燃油サーチャージ1名 \5,000
発券手数料1名 \2,625
合計\43,295
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2011.平成23年7月14日(木)
■関空⇔大連⇔延吉
12日の関空⇔大連が、中国南方航空の都合でフライトキャンセルになったので上記航空券をキャンセルした。大連から延吉の国内線の航空券の手配を悩んでいたのだけど、ネットで検索したら「H・I・S」で関空⇔延吉が購入できることが分かって早速手配し購入できた。
出発日が早くなり滞在も一日増えたけど、まあその分ゆっくり旅をしようと思う。
9月11日(日){関空}(CZ638)14:30→15:40{大連}(CZ6683)15:20→20:10{延吉}
9月20日(火){延吉}(CZ6684)21:00→23:50{大連}
9月21日(水){大連}(CZ637)10:30→13:30{関空}
料金:合計¥60,790円
内訳
航空券 ¥38,000円
航空保険:燃油サーチャージ ¥13,400円
関空施設使用料 ¥2,650円
中国出入国税 ¥2,540円
手配料金 ¥4,200円
12日出発の大連行きがキャンセルになって、延吉までの往復を新たに買えたのでラッキーだった。料金も国内分を含めれば高くはない。大連で一日過ごすことは出来なくなったが、これで旅の大枠が決定した。 -
北朝鮮:南陽 東寧重砲兵連隊自爆死す
2011年9月15日13:32:20 撮影
図們大橋展望台より、北朝鮮「南陽」の東寧重砲兵連隊陣地構築跡を望む
終戦の二日後、東寧重砲兵連隊:渡辺薫連隊長(大佐)以下は
火砲と運命を共にすべく自爆の道を選んだ
詔書を奉読、訓示を行い訣別の宴を催した後
自動貨車、砲車に分乗し自爆を決行し
この図們対岸、北朝鮮南陽西の畑地にて
192名が死亡した
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2011.平成23年8月3日(水)
■張鼓峰への旅に備えて
あと一ヶ月と少しに迫って、やっと気合も入ってきた。まだ往復の航空券の手配だけで宿泊先も何も決まっていないが、旅の計画は旅の大きな楽しみでもある。
張鼓峰事件以外の戦跡というのがほとんど見当たらず、今までに比較して余裕の日程なのに中身が決まらず焦っていた。でもネットのブログや旅行記で、日本人に関係のあるいろんな情報が得ることが出来、それらをプリントして幾つもの冊子が出来た。
延吉・琿春・図們・龍井この四ヶ所に二泊づつくらい宿泊しての旅になる。この四ヶ所はそんなに離れていなく、今までで一番移動距離も短い。満州と言っても朝鮮族自治州でもあり、朝鮮への旅といっても半ば過言ではないと思う。
そして延辺日中文化交流センターのHPに、延辺朝鮮族自治州フォトギャラリーがあり、そこに詳しくこの地域の歴史が「〜1931年 移住・開墾と日本の侵入」というような項目で紹介されている。
これは朝鮮族の抗日歴史を主眼とした頁だから、まともには見れないが、当時の状況がこと細かく時系列で網羅されているので、資料としては大いに参考になる。日本側の資料には出典も明記されており、それは私が見る範囲では正確だ。
もっとも私が参考にするのは、関東軍や日本人の動きで、抗日朝鮮人の資料の多くは真実とは思えない。そしてその真偽は確かめようもない。そこには金日成の名前も頻繁に出てくるくらいだから・・・。
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2011.平成23年8月5日(金)
■張鼓峰への旅に備えて
延辺地方での「抗日、捏造の歴史」
朝鮮族ネットに1920年(大正9年)に、金佐鎮の指揮する北路軍政署軍なる部隊が日本軍を壊滅させた 青山里戦闘という戦いの様子がまるで事実であるかのようにこと細かく書かれている。
一体、そんな戦いがあったのか?と、疑問に思って検索したら、直ぐにその捏造が解明した。当時、地元民から金佐鎮(キム・ジャジン)を頭目とする強盗団(匪賊・賊徒)が青山里に露営しているとの内報が日本軍に入り、日本軍が討伐している。
その捏造の物語を英雄伝として、大きな記念碑を建て子孫に伝えている。日本人の感覚からすれば、とても容認できないが・・・。しかしそれを恥としない民族ならば、彼等にとってそれが輝ける歴史となるのだろう。
英雄伝とは対局の出来事を歴史の事実として作り変える。無論どこの国もある程度はそうなのだろうが、近隣三ヶ国+ロシアは度を越えているとしか思えない。彼等が自分たちの歴史を改竄するのは好き勝手にすれば良いが、そんな彼等から日本の真実の歴史を守るのは今を生きている日本国民の義務だ。
それなのに日本人は自国の真実の歴史を守るどころか、彼等の言い分を鵜呑みにし先人たちを辱めている。それこそ人として許されざることであり、天に唾することだ。
日本が、これからどうなって行くのか・・・。日本の溶解は、加速度的にその速度を早めているのかも?
私のその最大の危惧は、菅・小沢をはじめに民主党は無論だが、日本の国会議員、{衆議院は480人(小選挙区300人・比例代表180人)}{参議院は242人}合計722名の内、在日帰化人(成りすまし日本人)議員が70名以上もいるそうだ。人口比率で言えば妥当な数は二人。あまりも突出している。
品性・品格なき菅や小沢の言動を見ていれば良く分かる。皇室への尊崇の念も無く、恥を知らない輩たちであり、敗戦を機に日本はこうやって溶解していくのか・・・と、考えれば気が滅入る。こんな形での内部崩壊が現実に起きているような気がしてならない。
▲和龍市青山里の村り入口の丘に立つ青山里大捷記念碑(資料写真)
以下のWeb頁が、簡単明瞭に解説しているので転載しておく。
http://mijikaku.blog67.fc2.com/blog-entry-2.html
<青山里戦闘> 1920年、金佐鎭将軍が指揮した韓国独立軍が和龍県三道溝青山里白雲坪渓谷で独立軍討伐のために進軍して来た日本軍一個連隊を撃破した戦い。
日本軍の戦死者は連隊長1名、大隊長2名を含む1254名、負傷者は200名余り。独立軍側は戦士1名・負傷2名・捕虜2名。独立軍の輝かしい勝利だった。
で、史実はこうなります。
<間島出兵・青山里の戦い>
1920年10月、日本軍が 青山里と呼ばれる東満洲の長白山東北麓の密林地帯で、独立軍と総称される朝鮮人武装集団と交えた戦闘。
10月2日、琿春を馬賊が襲撃し、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件が発生した。これをきっかけに日本政府は間島への出兵を決意し、ゲリラ掃討を開始。 日本軍は朝鮮人武装組織と戦い、これを討伐した。間島出兵における日本軍の戦死者は11名、武装組織に与えた損害は1100名。他に900名を逮捕・帰順させた。
この「青山里の戦い」ってのは韓国の歴史歪曲のモデルケースです。いわば韓国人の願望が生んだ歴史創作であり、あの国の歴史認識の象徴です。
いまだに韓国の歴史教科書ではこれを「青山里大捷」として持ち上げて、「金佐鎭」という人物は独立軍の指揮官として英雄になってます。だが、実態は山村を襲撃した匪賊を日本軍が討伐しただけです。単にそれだけです。
上記の中央日報の記事では、この実態をネットに曝した金完燮(キム・ワンソプ)氏をソウル中央地検・刑事第7部が「死者名誉棄損」の容疑で、在宅起訴したっていうんですから、まさに驚天動地の大韓模様、言論の自由なんて国家のプライドの前にはすっ飛んでいくんですね。
歴史を自由に語れば容疑者として起訴ですからこの強固な反日感情には、べつに嫌韓派でなくとも笑わざるをえません。
この国との真の友好なんて、韓国人が歴史認識を改めるか、あるいは日本人が土下座するかのどちらかしかあり得ないでしょうね。
詳しくは以下の頁
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間島出兵(青山里戦闘の真実)
http://ww1.m78.com/sib/kanto%20shuppei.html
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青山里戦闘の真実( 「朝鮮独立運動之血史」の嘘)
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/aoyamasato.html
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日本軍「張鼓峰」を奪還する
1938/昭和13年7月31日
日本軍「張鼓峰」を奪還する
頂上にて
左より:松岡准尉・伊藤大尉・白武中尉・鳴沢准尉・高橋軍曹・宇留賀軍曹
日本軍かく戦えり!子々孫々の誇りです
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2011.平成23年8月7日(日)
■張鼓峰への旅に備えて
朝鮮人の「抗日、捏造の歴史」
私は朝鮮人曰くの「青山里戦闘」は、その内容があまりに馬鹿げているので、これはWeb頁の朝鮮人ネットだけの捏造だと思っていたが、れっきとした「韓国国定歴史教科書」で教えられているということが分かり、ホンマかいな?と今更ながら驚いた。これでは慰安婦問題も竹島の不法占拠も、併合の真実も、彼等とは何もかもまともに議論など出来ないということを認識するしかない。
これが彼等の歴史か。中国韓国朝鮮の歴史学者は、真実を求めず捏造創作歴史を作り出すことに意義を置いているのか??信じられないけどそれが現実だということが分かる。日本人からみれば不幸の極みだが、彼等にとってはそれが当たり前のようだ。
満州の匪賊を抗日の英雄に・・・それは。
1916年(大正5年)袁世凱死亡のあと、馬賊の頭目からのし上った張作霖が満洲の覇者として奉天省・黒竜江省・吉林省を牛耳っていた時に、今の吉林省、延辺地域で地元民からも恐れられていた朝鮮人匪賊の頭目が、韓国の歴史教科書に抗日の英雄として大きく取り上げられている。
http://f17.aaa.livedoor.jp/~kasiwa/korea/textbook_korea/8_3.html#8_3_4_5
国定歴史教科書には以下のように紹介されている。
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鳳梧洞(ほうごどう・ポンオドン)・青山里の戦闘
1920年代に入って満州と沿海州には数多くの独立軍部隊が活動していた。彼らは日本軍警と戦闘を展開するとともに、軍資金募金、密偵の処断、親日派の粛清などの活動を行なった。このなかで最も輝かしい成果をあげたのは洪範図が率いる大韓独立軍が勝ち取った鳳梧洞戦闘と、金佐鎮が率いる北路軍政署軍などが勝ち取った青山里大捷であった。
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(4) 1920年代を前後して、満州では大韓独立団、西路軍政署、北路軍政署、大韓独立軍、大韓独立軍備団、義軍府、光復団、太極団、光韓団、光復軍司令部、光復軍総営、大韓統議府、匡正団などの独立軍組織が、沿海州では血誠団、警備隊、新民団などが、アメリカでは国民軍団、飛行士養成所、少年兵学校などが設立された。
(5) 青山里大捷の戦果は資料ごとに異なっていて正確に明らかにできない。大韓民国臨時政府の発表は日本軍死亡1254人、朴殷植の『韓国独立運動之血史』では約2000人、この戦闘に参戦した李範○の『陣中露営火』には死傷者を3300人であると記録している。
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当時、張作霖が支配していたはずの延辺地区で、日本軍が馬賊を討伐したのは、その地域を荒らす馬賊を張作霖の軍隊は傍観するだけではなく、兵士の一部は馬賊(朝鮮人・ロシア人・支那人)に加わり強奪を繰り返していた。そして張作霖軍から兵士を拉致し武器も奪った。
そんな状況の中で日本軍が、在留邦人を保護するために出兵した。この間島出兵における日本軍の戦死者は11名、敵に与えた損害は1100名である。他に900名を逮捕・帰順させた・・・と、いうのが日本の資料によるこの事件の顛末だ。
当時はすでに朝鮮人も日本臣民
1910年(明治43年)の日韓併合によって朝鮮人は日本臣民とみなされていた。日中条約によって朝鮮人も満洲で特権階級的な地位を与えられていた。それを逆手にとっての朝鮮人馬賊のこの地域での横行だった。
それを何故抗日の英雄的戦いと創作したのか??私が思うには・・・。
青山里の戦闘(1920年/大正9年)は、朝鮮併合1910年(明治43年)から10年後のことである。そして、1909年(明治42年)に有名な??? 三・一運動という朝鮮全島に波及したといわれる日本からの独立運動?が起きている。
この運動も『特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。』とも言われている。『韓国独立運動之血史』によれば、『死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸』とあるが、これに信憑性など全くない。
その根拠として著者「朴殷植」自身が「数字は伝聞による」と認めており、この運動を立ち上げた今も韓国の英雄である「民族代表33人」たちは、最高でも懲役3年、それも刑期も半減されている。もし、上記のような膨大な死者が出た大騒乱であれば、むざむざ抵抗もせず7509名もの人間が殺されていく訳がない。当然日本側にも多大な犠牲者があったはずだ。
朝鮮総督府の記録には357名の死者とあるようだ。日本人の死者数は分からない。
///////////////////////Web頁参照
きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。
下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。高等法院で確定した刑期も、1920年(大正9年)の大赦令によりさらに半減されている。
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『その後の朝鮮半島では 1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。』
そんな朝鮮が日本の敗戦によって独立を得たのでは、朝鮮人にとって都合の悪い歴史事実となる。だから3・1運動に続いて独立までの戦いの歴史を創作したのだ。しかし、これほど事実とは掛け離れた捏造歴史を創作したのでは、日本人なら誰だってすぐに嘘だと分かる。それを受け入れることなど絶対無理だ。
彼等はそれが平気だ。大正9年8月22日〜25日、正味たった四日間の日本軍との交戦、それもあっけなく蹴散らされながら馬賊の頭目が抗日の最大の英雄として今も歴史教科書で讃えられている。
その後は、一村単位やグループ単位で強盗団を組み活動に従事したようだが、その強盗団が・・・。
『満州では大韓独立団、西路軍政署、北路軍政署、大韓独立軍、大韓独立軍備団、義軍府、光復団、太極団、光韓団、光復軍司令部、光復軍総営、大韓統議府、匡正団などの独立軍組織』
ありもしない軍事組織が、まるであったかのように教科書に書かれている。そんな韓国にも良識を持った人間もいる。金完燮もその一人だ。
彼もオーストラリアに一時移住するまでは・・・多くの韓国人青年と同じ若しくはより先鋭的な反日青年だった。
【金完燮はかつて強い反日感情を抱いていた。日本語はまったく学ばず、日本を旅行したいとも思わなかった。また対日感情がよいとされる慶尚道の人間を嫌い、阪神大震災を『天罰だ』と歓喜していた】
そんな青年が事実を知り、疑問を持ち、今では彼は母国韓国で反逆者扱いとなっている。思えば不幸な国であり、不幸な民だ。韓国では発禁となった彼の著作「親日派のための弁明」を私も読んだが、一人でも多くの日本人に読んでもらいたい本である。
そして日本人でありながら歴史の事実を知ろうとせず、支那朝鮮に言われるまま「日本は悪いことをした」と先人を貶める日本人は彼等に増して不幸で罰当たりな民だ。そんな人間が多数いるのが今の日本の不幸な現実だ。
おまけに日本の歴史教科書は、支那朝鮮の捏造とは逆に自国・日本が悪いように事実を歪曲して近隣三ヶ国に媚びる自虐史観の教科書が未だ主流を占める。先人にたいしても子々孫々に対してもこれ以上の罪は無い。
【韓国】「親日作家」金完燮を金乙東(「青山里戦闘」の金左鎮将軍の孫)が告訴。
国外追放も要求へ
★ 2006/02/25(土) 16:28:24
女優でハンナラ党の前常任運営委員だった金乙東(キム・ウルドン)さん(61)が、親日作家の金完燮(キム・ワンソプ)氏を名誉毀損罪で今月22日にソウル中央地検に告訴した。 金乙東さんは25日の電話インタビューで、金完燮氏を告訴した理由を明らかにしたが、金完燮氏に対する怒りを隠さなかった。
金乙東さんは、「金完燮はほとんど精神病者の水準。彼の頭脳構造を取り出して見たいほど」と述べた。また金乙東さんは、「誰にでも祖国がある。それに金完燮もウリナラの言語を使っている。そういう人がこんな言動をするとは想像もできないことだ。まさに大韓民国の売国奴だ。とうてい聞き捨てならない。金乙東としてではなく、大韓民国の名前で彼を告訴した」と、激情的な心情を吐露した。
金乙東さんが金完燮氏を告訴したのは、今月15日に金完燮氏がインターネットにあげた文のため。金完燮氏はこの中で、「青山里戦闘や鳳梧洞戦闘が詐欺という内容は、日本学者らのサイトに出ていて、鳳梧洞戦闘については慎上h廈(シン・ヨンハ)教授の反駁論文もあります。
金左鎮(キム・ジャジン)や李ボムチョンなどは李氏朝鮮時代ならまさに山賊一味の頭目なのに、どのようにして独立軍に化けたのか。本当に韓国史は不思議な魔術を使っていますね。そういえば李氏朝鮮時代の山賊も人を殺して品物を奪うとき、みんな義賊だと豪語してました。この父にしてこの息子ということか、金左鎮のせがれは、やくざ者だったし…。国会で肥溜めの中身を撒いたりして…。とにかく本当に情けないです」と言及した。
金乙東さんは、国会議員だった金斗漢(キム・ドゥハン)氏(訳注:ドラマ「野人時代」の主人公)の娘で、日帝時代の抗日闘士だった金左鎮将軍の孫だ。<中略>
金乙東さんは、「私の告訴で金完燮が有罪判決を受けたら、名誉毀損と精神的な被害に対する損害賠償請求を続いて行なうつもり。多くの独立運動家子孫たちにも同じようにするよう求める」と述べた。
また金さんは、「金完燮が大韓民国に住んで形成した全財産に対して、損害賠償を請求して国庫に帰属させる。金完燮を国外追放にすることを要求する。大韓民国の法律は、守ってやる価値がある者だけを保護するものだ」と付け加えた。
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▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.02.25 12:40)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=63&newssetid=487&articleid=20060225124016242a3
▽関連スレ:【韓国】『親日派・金完燮インタビュー(1)』〜「元喜龍議員は滅ぶ」[2/24]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140790850/l50
【韓国】『親日派・金完燮インタビュー(2)』〜「私を知ってから悪口を言え!」[2/24]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140800129/l50
【韓国】ネチズンを告訴した「親日作家」金完燮氏に、「日帝擁護防止法」の元喜龍議員が反撃 [02/10]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1139590137/l50
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満洲時代の龍井市街地図
愛知県アイさん提供
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2011.平成23年8月11日(木)
■張鼓峰への旅に備えて
「戦争は何があっても絶対してはならないですね」「大事な男たちを何人も無駄に失ないましたね。これがいちばんやっぱり心に残ります。」「無駄な戦争でしたねぇ。これくらい無駄なものはなかったですね」
元兵士たちが語る戦争証言の最後は、決まり文句のように戦争の全否定だ。「つまらん戦争」「無駄な戦争」「戦争は悪・絶対二度としてはならない」
まだホンの一部しか見ていないけど。NHKの残している元兵士たちの「映像証言集」である。戦争の当事者、それも下級兵士の偽らざる気持ちなのだろうけど・・・私には聞きたくない言葉であり、言って欲しくない言葉だ。
元兵士は「戦争は悪、二度としてはならない」と異口同音に話しながら、日本軍の精鋭さも自慢げに語る。「死ぬことは全然恐くない」「死ぬもんだと思っていた」「国のため天皇陛下のために命を捧げる」「捕虜になるなんてことは一度も考えなかった」
彼等の発する言葉から、「人の命は鴻毛より軽し」「兵士は消耗品」「人の命は一銭五輪、馬はもっと高価」等々、これらの言葉から日本軍が当時強かったことが良く分かる。日本軍の突撃には、大概の敵は逃げるそうだ。そして「洗脳されていた」「人命軽視だ」と続く・・・。
私に言わせれば「軽き命」こそ日本人の真骨頂であり、それにこそ日本人の日本人たる価値があると思っている。こんなことを言ってもほとんど誰も同意してくれないが、ごく少数は分かってくれると信じている。
「軽き命」と「人命軽視」とは全く違う。その反対だ。「軽き命」とは「人間には命より大切な物がある」ということに尽きる。「命より大切な物」とは、「人に迷惑をかけない」「卑怯なことをしない」「親に孝行する」「家族を守る」といったごく人間として当たり前であり、基本的なことをいう。
「人として恥ずかしくない生き様」・・・それが日本人にとって「命より大切な物」である。それが恥の文化であり、日本人の日本人たる所以だ。命が大切なのではない。どう生きるか、どう死んでゆくかが大切なのだ。命が絶対の価値になれば、命を守るためには何をしても許されることになる。それは誰にとっても不幸でしかない。
元兵士よ
戦争の全否定をしないで欲しい。戦ってでも国を守るということは、戦ってでも家族を守り自分を守ると同じだ。それすらも否定するのか?命を賭して家族を守ることが、無駄なことか?つまらぬことか?新疆ウィグルのようになっても、チベット、内蒙古のように支那に侵略されても構わないというのか?
「無駄な戦争」なんて口が裂けても言うな。己は生き残った挙句、戦友の死を犬死扱いするな。元兵士よ、無駄とか悪とか・・・自分が何を言っているのか深く考えろ。じゃあ戦わず白人列強の植民地になる道を選んだほうが良かったのか?侵略される側になったほうが良かったのか?
戦後世間の風潮に迎合するかのように、元兵士は異口同音に戦争を全否定する。そんな元兵士を私は心の中で軽蔑してる。もっと良く考えて発言しろ・・・と。
元兵士よ、誰か一人くらい
「俺たちは国を守るために、家族を守るために死を恐れず堂々と戦った。そのことを今も誇りに思っている。戦争は極力避けるべきだが、お前たちも、いざとなれば戦う気概と覚悟はいつも肝に銘じて生きろ。それが真っ当なる人間だ」と言ってくれ!
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2011.平成23年8月17日(水)
■満洲への旅に備えて
2006年に琿春で創業を始めた小島衣料(琿春)服装有限公司の代表小島氏が、思想信条・中国情報をネットで公開している。
そのブログ「琿春と岐阜県開拓団」・「読後雑感:2011年第3回」の中に以下のようなことが書かれていた。
【満州開拓団のことが詳しく書いてあった。それらを読んでわかったことは、多くの日本の開拓団が満州の地に勝手にきて、中国人を追い払い、そこを自分のものにしたという事実である。日本人自身の口からそれが語られているし、中国人側からの詳細な記述もある。それらを読めば、開拓というのは名ばかりで、実態はまさに侵略であったことがよくわかる。そこに地元の中国人を虐殺したという記録がないことだけが幸いだった。もちろんこれらの開拓団が満州に進出したのは国策に沿ったもので、彼らもまた被害者だったことも事実である。】
【西村眞悟前衆議院議員は、1997年に尖閣諸島の魚釣島に上陸し視察している。その先見力と行動力には驚く。しかし西村氏はこの本で、「祖国日本と同胞を守ることは、国民の神聖な義務である。その義務を実現する為に、具体的な我々の目標を確認しよう。まず、我が国は陸海空軍を保持する。さらに、中国の核弾頭ミサイルを抑止する為に、我が国は核弾頭ミサイルを保持する」と明言している。私はいかなる理由があっても戦争をしてはならないし、そのために武器を保持してはならないと考えている。あくまでも私の老人決死隊は、丸腰を原則とする。したがって西村氏と私の間には、かなりの距離がある。】
【私は中国人が被害者意識を払拭していない限り、たとえそれが自虐意識といわれようが、日本人は贖罪感を持ち続けるべきであると思う。常に贖罪感を持ち、頭を低くして中国人に接することで、余計なトラブルを避けることができるからである。中国は「強国大国」ではなく、「空威張り大国」である。また日本は衰亡しつつある国家ではなく、やがて思想的な大変革を遂げ、再興する国家である。その日本が中国と付き合うには、「金持ち喧嘩せず」の態度がふさわしいと考える。】
以上抜粋終わり
中国で一応経営者として成功している人物の中国情報は読み応えがあり、説得力もある。的を得ているところも大いにあるだろう。しかし、自らの先人をかばうこともせず、先人の成した行為を「悪」と規定し、それに対して相手に盲目的に謝罪し、そんな自分を善とする。
私から見れば、この歪んだ精神こそ「金」と「安全」こそが全ての「醜い商人根性の証」であり、ユニクロの社長同様中国で商いをしている連中に共通している精神性だ。
「国策に沿って満洲に来た農民は被害者である」と小島氏は、嘯いているが、開拓団も子供ではあるまいしそんな言い訳こそ見苦しい。一体当時の覇権主義全盛の時代というのは、どのような雰囲気の世界だったのか?小島氏にはそんな想像力もないのか?いやそうではあるまい。
「強い国が弱い国を武力を楯に支配し、そこで自国の益を計り、独立自尊はもとより富国強兵を増進して更なる列強国としての立場を目指す」・・・そのことに世界の列強は邁進する時代だったと私は思っている。それに即して、日本も満洲を自国権益下に組み込み、日本人開拓者に土地を与えた。
ただそれだけのことだ。今の価値観・常識で過去の行動を安易に評価するのは間違っている。日本が逆の立場にならなかった幸いを先人たちにまず感謝すべきだ。「金持ち喧嘩せず」の上から目線のつもりだろうが、こういった慇懃無礼の似非善人こそが日中双方のみんなを不幸にする。
そしてこのような「事なかれ主義」こそが、徐々に互いのストレスを高め戦争への道を歩むことになる。そのことが分からないのか?情けない限りだ。
そして「如何なる理由があっても戦争をしてはならない」「そのために武器を保持してならない」・・・憲法9条護持の理想主義者?企業経営者としてはどうか知らないが、人間としては軽蔑する。「家族を守る」は「国を守る」と同義であり、国を守らねば家族も守れない。
チベット・新疆ウィグル・内蒙古・そして満洲はどうなのだ・・・。漢族・中共政府にこれらの地域を統治する正当性はあるのか?
戦争を全否定するな。戦争は悪ではない。義務であり権利だ。武器を持たない老人決死隊は、勝手にすれば良いが、寝言ならやめてくれ。ふざけるな!
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2011.平成23年8月19日(金)
■満洲への旅に備えて
延辺の龍井には、1934年(昭和9年)満洲建国の2年後に龍井国民学校に「加藤清正の龍井征伐」を記念した「清正公兀良哈(オランカイ)攻伐追思碑」が建てられたとある。秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」の第一次、文禄の役の時に、加藤清正は豆満江(図們江)を越えてここまで来ていたのか・・・。
今頃になってボチボチ歴史を学んでいる。ちょっと調べてみただけでも、今まで思っていた朝鮮出兵とは中味も違う。なるほど私の少ない歴史認識の全てが自虐史観をベースにしたものだったという再認識の連続だ。まあ気付かないより“まし”と慰めるしかないけど・・・。
でもその反動で、私は過去の歴史において「日本が悪い」「悪いことをした」ということは、どんなことでも頭の中では、とりあえず完全否定し、その全部が嘘だと思うようになった。とりあえず、支那朝鮮と係わることが、日本にとっていかに難儀でうっとうしいことかが納得出来た。
しかしながら地政学的にも、歴史上からも、何が何でも、彼等と永遠に係わっていくしかない。とにもかくにも「友好」など有り得ない。そのことを明確に認識した上で、付き合うしかない。その根幹の認識さえ揺らがなければ、日本が彼等にしてやられることはない。
満洲建国についても・・・。
花谷正(当時少佐・関東軍参謀)の「満州事変はこうして計画された」を読めば、その全貌が良く分かる。そして日本の敗戦が無ければ、いやもっと違った終戦があれば、そして今も満洲があればと思う。
満洲・内蒙古・新疆ウィグル・チベットを、漢族・中共政府の支配下にしたのは人類の不幸の一つだ。
花谷元参謀の意見↓に同意する。
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あの時満州事変を起したことは時機としても方法としても決して誤つていたとは思えない。 当時ブロック圏形成の動きは世界的な必然であつて、日本が満州なしに生活して行くことは不可能であつたし、逆に放置しておくならば日本は張学良及び背後の南京政府の排日によつて大陸の足がかりを失つていたかも知れないのである。
我々は、世界情勢の危機にあつて日本の進むべき道は満州の中国本土からの分離のみである、更に虐げられた満州住民に王道楽土を建設してやることが東亜安定の最も好ましい政策であると信じたのであつて中国本土と果しない大戦争に入るという愚を冒すつもりは毛頭なかつた。
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満洲は今も満洲だ。
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2011.平成23年8月21日(日)
■満洲への旅に備えて
「満州国見聞記」:ハイリッヒ・シュネヒー(著)と「日中戦争見聞記・1939年のアジア」:コリン・ロス(著)を読んだ。
ハインリッヒはリットン調査団の5名の委員の一人でドイツ人。コリン・ロスは新聞特派員でオーストリア生まれのドイツ人。二人のドイツ人が見た当時の日本と満洲・中国・朝鮮の様子が書かれていて面白い。二冊とも政治軍事というより旅行記・人物批評という内容で、外国人が見た東アジア情勢、それぞれの国の雰囲気を感じる。
当時の日本と支那朝鮮のことは、さすが列強の一国ドイツ人の見聞記というべきなのか、日本の満洲建国も重慶爆撃の様子も淡々と書いている。直接の当事者ではない、第三者から見た当時の情報は、面白い。どちらかに偏った感情的な記述がないし、客観的な判断を述べているから・・・。
ドイツと言う帝国の人間だから、植民地・侵略なんて当然のことであり、その経営をいかに上手くやるか?やる能力があるかないか?という視点で日本を観察し、やられている側にも同情はない。そして、この二冊の本は、まだ三国同盟を結ぶ少し前のことだが支那事変の最中、重慶に逃げ込んだ蒋介石を助け商魂は逞しい。
こっちのヒガミかもしれないが、その心の底には、日本に対しての対等の目線はない。満洲建国も視察すればその変貌ぶりに一目おいているが、認めたくないだけの調査団だろう。満洲建国を白人の国が行い、その時日本が満洲でなしていたような統治行政を見れば、満洲帝国を即座に認め、商魂逞しく満洲に自国企業を誘致するだろう。
それだけのことだ・・・。お人よしの日本が、他国に進出しても莫大な出費をして多大な貢献をした挙句、損ばかりの結果となる。私の最大の願望はやはり「尊皇攘夷」に尽きる。出来ることならそれが一番日本の幸福と成る。でも、それは不可能だろう。ならば、それを念頭にしての政治を行うことが日本の進むべき道だ。ホンマ。
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2011.平成23年8月31日(水)
■「望郷」「豆満江」「七人の逃亡兵」:新田次郎(著)
新田次郎は中央気象台の職員として新京(長春)で終戦を迎えた。その後北朝鮮の宣川(せんせん)に疎開していたが、昭和20年10月にソ連軍の捕虜として、間島省の延吉の収容所に送られ二ヵ月後突如解放された。しかし家族のところに戻れず、酷寒の中で生きるために中共軍の技術者として職を得て一冬を過ごす。その後、翌年の昭和21年夏、日俘大隊の一員として葫蘆島(ころとう)より引揚げを果たした。
この三つの短編小説は、フィクションが多いと新田自身があとがきで書いているが、敗戦後の日本人が満洲の地で「なにを考え、なにを見詰めていたかを汲み取って頂ければ幸いである」と結んでいる。
満州と言う大陸の地で、敗戦を境に関東軍兵士も一般市民も開拓団農民もすべての日本人は、統治する権力者の立場から、敵の渦中で俘虜というどん底の立場になった。日本人を守る組織は関東軍を筆頭に、ことごとく崩壊し、侵攻したソ連軍は当然だが、満人朝鮮人の前にもひれ伏すしかない立場になった。日本人が、主従逆転となった状況で命乞いをし餌を恵んでもらう乞食になった。
戦いに負けたが命は残った。それも敗戦と同時に敵国の地となった満洲で・・・守ってくれるものは何もない。そんな日本人の生きる希望は家族の待つ故国に生きて帰ることだけだ。身も心もボロボロになった日本人は、中共軍が管轄するようになった延吉の収容所で、管理者である中共軍に媚びるために日本人同士のつるし上げによっての人民裁判のようなものが行われている。
シベリア抑留の民主運動とも基本的には同じだろうが、共産主義の恐怖政治を思う。得たいの知れない「共産主義思想」のまえに、みんなが猜疑心の塊に成り、互いに言動を抑制しあう。そんな状況を新田は『捕虜収容所から軍国主義は影を消したが、軍国主義とは比較にならないほど冷酷なものが日本人の中に流れているように思えてならない』と書いている。
「冷酷」と言う言葉がぴったりだ。ほんの些細なことが生死を分かつことになる。誰もかばってくれる者はなく、誰もが自分の命を永らえることだけに必死だ。帰国を果たすために・・・。想像らしきことは可能だが、その想像を遙かに絶する状況だったのだろう。
そんな地獄のような状況下を生きて日本に戻った者は、「何が起きようが二度と戦争はしてはならない」というのも至極当然と言える。でも我々が、その言葉に頷いてはいけない。我々は「二度と負けてはいけない」と言うしかないのだ。そうでないと国を守ることは出来ないし、自分も家族を守れない。
又満洲旅行で動画を沢山撮ってブツブツと語りを入れる。私にとっては短編映画のつもりだ。こうやって一介のおっさんが自分の思いの丈をこそっとでも発信できるなんてメチャ凄いことだ。見てくれれば嬉しいが、誰も見てくれなくても構わない、これこそ自己満足だ。3〜7分くらいまで、すでに16本くらい作る予定、ハハハ。
去年のサイパン旅行で作った「2010/H22.2.4/サイパン:大場榮大尉」のが一番のヒット作、今日現在で{34,907}のアクセスがある。これは特別で、今年偶然、映画『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』が封切りされて一時的に一挙にアクセスが増えたから。こんな偶然もある。
動画を撮影しながらナレーションを吹き込むには読まないといけないし・・・。でもそのほうがリアル感が出ていいけど、無言で撮影して帰国後声を入れるのなら写真も挟めるし、段々懲りたくなるから大変だ。ちっこいデジカメで、ホンマこれはしんどいけどオモロイ。
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2011.平成23年9月6日(火)
■満洲への旅
やっと初日の延吉のホテルも決まり、旅行社のSさんと電話で話しもした。到着翌日の一日だけ日本語ガイドを頼み延吉・龍井の満洲時代の日本に関係する旧跡を訪ねるつもり。大体の場所が分かれば、後からゆっくり一人で回れるから。
今回宿泊は延吉・琿春・図們・龍井。最後の夜は大連だけど、移動距離は短くそれぞれの町に二泊づつだから、結構ゆっくり旅が出来そうだ。といっても私の性分から歩き回り疲れ切ってしまういつもの旅になるのだろうけど。あれもこれもと欲張りたくないなァ〜ホンマ。
延辺地区は朝鮮人の多いところだから、日本と朝鮮の関係も少し学んだ。加藤清正もこの辺りまで進出している。
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2011.平成23年9月10日(土)
■愛知のアイさんの来訪
満洲生まれで小学校3年生まで龍井で過ごしたアイさんが、昨日我が家に来てくださって龍井での生活についていろんな話が聞けて龍井訪問がより楽しみなった。
そして当時の日本人に関係する旧跡の記した地図をもらったので、これはホントに有り難い。龍井駅を起点にしても大概歩いて行けそうなので、歩き回るつもりだ。朝鮮人の子供の遊びは当時もサッカーだったこと。お父さんが満洲電業、龍井発電所勤務(所長)だったので社宅はオール電化だったこと。
暖房もオンドルではなく電熱器と電気ストーブ。風呂は五右衛門風呂だがニクロム線を入れて沸かしていたことなど、聞いてビックリのことが多くて参考になった。どこまで龍井の街を見て回れるか分からないが、旅たち前に貴重な話しが聞けた。
■明日の今頃
現在時:午後10時23分。明日の今頃、延吉の境浦旅館一泊¥160元の宿にいるはずだ。向こうの気温は12℃〜26℃と朝晩は寒いくらいかも。平成15年に行った時はウィンドブレーカーを着ているし。
円高で日本円1万円が今日のレートなら824人民元。中国に行きだしてから普通650元前後だったから・・・。円高っていうのは海外旅行には嬉しいものだ。今回の旅のメーンは張鼓峰事件の戦跡巡りだけど、その他にも日本との係わりの多い地域でもあり、情報も多すぎて頭の中は整理が付かないままの出発になる。
ホンマに基本的に欲張り人間は、ええ加減疲れる。そして結果実り少なくっていう感じがしてならない。訪ねる場所さえ定かにならず、グチばかり多い出発になった。ただ救いは移動距離が少ないことだ。
枕が替われば寝れない旅に出よう。いつまでたっても旅なれない。ツアーなら気楽だけど、そしてサイパン・グアムと違って満洲一人旅っていうのは緊張感がある。なんせ敵陣に進入していくっていう心境になってしまうから。
最近、私の言う事も少し変ってきた。併合や満洲建国を侵略とか植民地にしたとか、今も自虐こそ善人だと思っている愚かな日本人に問う。ならば逆に侵略された方が良かったのか?併合された方が良かったのか?当時の世界は二者択一の時代だったはずだ。
そのどっちも属さない国というのは、誰もが見向きもしない辺境の国だけだろう。「侵略された方が良かったのか?」「併合された方が良かったのか?」と聞く事にしている。そう聞いても誰も明確な反論は今までのところはない。出来ないのだろう。逆の立場にならなかっただけでも先人に感謝すべきだ。
でもなあ・・・。負けてからどうしようもなくなった。
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