2011/09/11 - 2011/09/21
61位(同エリア339件中)
明石DSさん
雨・・・か
せっかく窓から見える展望台に行こうと思っているのに
天気だけは仕方が無いけど
/////////////////////////////////////////
5日目:9月15日(木):雨降ったり止んだり
琿春〜図們
------------------------------------
2011/平成23年9月15日(木)
■琿春の朝
今日は朝から雨が降っていた。まだしょぼ降る雨だったので、本降りになる前に客運站に行こうと思って7時頃に朝食を食べた。昨日の朝食風景は人も少なかったが、今日は朝から大勢で賑わっていた。このホテルに昨日来た時も何で?と思っていたが、中国海軍の制服を着た軍人が多かった。今朝も何組も坐っていたが家族連れもいる。
琿春と中国海軍とをネットで検索したら、大体の感じは掴めた。北朝鮮の特別区である羅先(ラソン)市に最近中国軍が駐屯しているらしい。琿春市から北朝鮮最北端の穏城(オンソン)への日帰り観光も20年ぶりに再開されたとある。でもこれは延吉の崔さんに聞いたら日本人は行く事が出来ないと言われたけど、実際の所は知らない。
Web頁によれば『2007年3月、中国は琿春市のある貿易会社を通して、北朝鮮に対して357億人民元を投資して羅津港の埠頭や道路建設を始めた。これにより、同港の50年にわたる共同開発と使用権を獲得したという。』・・・羅津への中国軍駐屯は海軍だけではないようだが、その関係でこの琿春賓館に中国海軍の軍人がいたのだろう。
昨日、馬滴達に行った時もそうだが、やはりこのあたりは中朝露の国境地帯なので各所で部隊(駐屯地)や人民解放軍の軍用車を良く見かけた。でも海軍軍人を見たのは、この琿春賓館の中だけだったけど、やたら制服を着たままの海軍兵士がウロウロしていた。海軍ご用達ホテルかも。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
雨の中の登校風景
朝から雨が降り続けているのに
傘をささずに歩いている者もけっこう見かけた -
ちょっと食う
-
中国海軍兵士たちが多かった
軍服を着たまま、しまらんデブが多いなあ。 -
部屋の窓からデジカメのズームで北山の展望塔?を写す
雨でも霧でも行くぞ!
時々霧で窓から見えなくなったが -
客運站に向う
雨も小休止
文化路を北に歩いて客運站へ
//////////////////////////////////
■琿春賓館を退房する
図們に行く前に、天気がどうであれ北山の展望塔に行くつもりだったので、9時前に退房してバックを担ぎ客運站に向って歩いた。ホテルを出た時は傘をさすほどの雨ではなかったが、どうせもっと降るだろうと途中の超市(Chāoshì スーパーマーケットorコンビニ)で25元で折りたたみ傘を購入した。日本から超ミニ傘を持ってきたけど使う気にならず。
客運站の寄存(Jìcún 手荷物預かり所)に3元で預け、またそこのオバちゃんに道と時間を聞いたら「ゆっくり歩いても20分で行ける」とのことだった。さっき退房の時にフロント姑娘にも聞いたが、どうも遠くに見えてそんな簡単に行けると思わなかった。しかし実際その方向に近づけばホンマすぐそこだった。
「キツネにつままれる」とはこのことかというくらい北山にある「展望塔?」は錯覚して見える。
歩いて行く途中部隊があったのでカメラを向けたら警備の若い兵隊にでっかい声で怒鳴られた。 -
鉄道がこの北側にあるのに客車はなく
どこに出て行くのにもバス
とりあえずここでリュックを預けて展望塔へ -
正面が北山公園
この道左側に解放軍部隊が -
北山公園「霊寶禅寺」
客運站からゆっくり歩いて10分くらい
ホテルの部屋の窓から見ていた時は
もっと遠いと思っていたけど
見た目ほど遠くなく、ホテルからでも徒歩30分で行けそうだ
////////////////////////////
■北山公園「霊寶禅寺」
北山の登り口にあったのは寺だった。「北山公园?迎您 Běishān gōngyuán huānyíng nín」との看板があり、その背に「霊寶禅寺」(灵宝禅寺 Líng bǎo chán sì)との名前の巨大テーマパーク禅寺が建っていた。入場料20元也。ホテルの窓から展望塔と見えたのはこの寺の七重の塔だった。
コンクリート作りの禅寺は、遠目では色彩も鮮やか美しい寺に見えるが近づけばどこもかしこも人影なく廃墟なのか?と首を傾げるしかなかった。参拝者を一人だけ見かけたが、これだけ大きな寺なのに僧の姿もなく、この眺望素晴らしき場所に建つ禅寺は不思議な空間だった。
私が登りたかった展望塔は七重の塔で外観は綺麗な装飾で完成していると思っていたが、内部は全く工事途中で放置されたまま扉も施錠されている。黄金色に輝く涅槃像も外見だけで工事途中でストップしたまま放置され荒れている。
ようするにこの禅寺は、作りかけで資金難に陥り廃墟にならんとするかのような寺だった。でも琿春市内の眺望には絶好の場所であり、琿春観光の際は是非早い目に訪れて市内を一望すれば琿春市の全容を感じることが出来る。今から77年前の昭和9年の琿春は竜宮城のような城門のある以下のような街だった。
////////////////////////////////////////////
琿春の回想
『満州脱出 満州中央銀行幹部の体験』武田英克・中公新書
「1934/昭和九年の夏、中国語の三等通訳の試験にパスした私は、同九月、(満州中央銀行の)琿春出張員を命ぜられた。入行一年六か月であった。中国服にモーゼル銃一梃を腰につけ、朝鮮側の訓戒から図們江を渡り、幌馬車に揺られること約二時間、竜宮城のような城内をくぐって琿春に入った。
アメリカの西部劇シーンそっくりの情景である。支店は城内の中央にあり、支店長以下十数人の中国人行員たちに出迎えられ、ここで彼らと寝食を共にした。(中略)県下には到る所に砂金とアヘンが大量に産出し、石炭も木材も豊富なところなので、これを狙う「匪賊」の横行も激しく、彼らは自分たちの利益の邪魔になる宗参事官と私の首に、当時の金で五〇万円の賞金をかけたという噂が立ったりした。
そのころ、琿春の支店から新京の本店まで、金塊を運ぶのは文字通り命がけの仕事であった。琿春から西へ、国境の町の図們まで幌馬車で行き、図們から新京まで汽車で行くのだが、この京図線(きょうとせん)の沿線、特に延吉と吉林の間は満州全域で最も「匪賊」の襲撃の多い危険なところとして恐れられていた。
金塊は私が運ぶのだが、私の出発の時間や乗る列車の情報は「匪賊」に筒抜けになっている恐れがあるので、わざと間際になって予定を変更するのだが、それでもある晩、ついに列車が襲撃された。山の谷間でダーン、ダーンと銃声が鳴り響き、列車が止まる。
馬に乗った「匪賊」が両側の山中からどっと襲ってくる。私は銃声を聞くと同時に、入口に近い網棚によじのぼり、真暗な中で、入口に向かってモーゼル銃を構え、入ってくる「匪賊」を一人ずつ頭上から狙い撃ちにしていった。列車後部に同乗していた守備隊の応援と、近隣の守備隊の増援で、小半時の後、彼らは撃退されたが、その間全く生きた心地はしなかった。」
以上
満洲建国2年後の琿春の状況が目に浮かぶようだ。まだまだ匪賊が横行しており銀行員でありながら、匪賊を銃で撃ち殺して行く。そんな満洲で軍人だけではなく多くの日本人が満州国の発展に命懸けで寄与していた。
満洲が満洲として今も存続していたら、きっと素晴らしい国として立派に栄え、東アジア及び世界に安定をもたらしていたと思う。
-
禅寺・・・か
禅も中国では明の時代に衰退し
『明治維新以後に日本の禅が世界に伝えられた』
アップルのジョブズ氏も禅に傾倒していたようだ
簡素で華美を排しが気に入り
作る製品は「シンプルにしろ」が口ぐせであったような
単純・質素・簡素・簡単を追求した先に究極の「美」がある
「シンプル・イズ・ベスト」・・・肝に銘じたい -
霊寶禅寺の内部は簡素とは程遠く
ど派手なテーマパークであった
このあり様で心落ち着くなら
その心とは?一体如何様な心なのか? -
ギンギラギンにさりげなく
そいつが俺のやり方
何かこんな歌があったような・・・ -
琿春の町並みを一望できる
天気よければさぞかし
琿春に来れば、
まずこの高台から市内を一望することをお勧めする -
ホテルの部屋から正面に見えた展望塔
それがこれだったのか・・・
禅寺の七重の塔とは露知らず -
七重の塔の内部はこのように
解体ではなく、作りかけでこの様になったようだ -
涅槃像の下より琿春市内を写す
背中は北西、南東の方角を写す
基本的に涅槃像は「頭は北向き、顔は西向きとされる」
それが俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となった。
ここの涅槃像は、頭は南西、顔は南東、ムムム
この禅寺は、あまり基本にはこだわらないようにみえる -
バスで琿春から図們へ
バスの座席は最後部真ん中
身動きとれず
写真も撮れず
車窓の景色も見れず
前の補助席から押され
悪路に揺られ
五重苦の災難にじっと我慢す
//////////////////////////////////
■サラバ琿春、図們へ
午前9時20分〜10時20分、1時間ほど琿春市内を眺めながら寺の中をぶらぶらし、客運站に戻って図們行きのバスに乗った。ちょうど切符(15元)を買ったら図們行きが発車の時間で、つられて乗ったのには大失敗だった。席はすでにほぼ満員。最後部の真ん中に坐ることになった。席は一段高くそこから外の景色は見難く、両隣に人も坐っているので写真も撮れない。琿春出発は午前10時40分頃。
折角の中朝国境沿い、図們江にそって走る道なのに・・・。時間もタップリ、先を急ぐ理由は何もないのにつられて乗り込んでしまった。おまけに私の前に補助席に坐った女性客が補助席にもたれるので私の膝にその女性の体重がもろに掛り膝が痛かった。何度か膝で押したが一度は相手も気付いて体を起こしたが、その後は知らぬ顔で押し付けてきた。踏んだり蹴ったりとはこのことか・・・と。
このバスの道は八年前に図們に来た時、図們から琿春にタクシーで行ったが、その時は道は快調だったけど、今は大型車も頻繁に通るようになっているのに補修されず、まともに走れないでこぼこの悪路となっていた。そんな道を1時間半ほど走って12時10分頃、図們駅前に到着。 -
体を屈めて車窓の写真を撮る
ここはどこや?図們江?沿いを走る
折角の中朝国境ドライブが、
バスに飛び乗ったばっかりに
慌てる乞食はもらいが少ない -
図們 (?? Túmen)
????8年前と言うと53歳の時
大連から図們まで22時間の列車の旅だった
つい昨日のようにも思えるし、随分昔のようにも感じる
でもその時は又この地に来ることは夢にも思わなかった
//////////////////////////////////////
■8年ぶりの図們
2003年/平成15年以来8年ぶりの図們再訪となった。駅と駅前の雰囲気には見覚えがあった。
図們駅前で地図を広げ、今日の宿であり、日本で予約を取っていた図們大厦(??大厦 Túmen dàshà)に向う。駅前から真っ直ぐ延びる図們大路を東に歩いて5分ほどで図們大厦に到着。日本で予約していることを言わずに「有空房???」と聞いたら「有」だった。
一泊の値段を聞けば「300元」、日本での電話予約の時は320元だったので、そのまま何も言わず。「北朝鮮方向が見える眺めの良い部屋を・・・」と頼んだ。フフフ20元の儲け、セコイというなかれ。
姑娘は「先に部屋を見てから決めろ」と言ってくれたが、その場で決めた。このホテルから図們江まで歩いて10分とのこと。二泊で300元×2泊+押金=700元を払って8階の811号室へ行く。
窓からの景色は図們江は見えないけれど、図們の街の南側半分と北朝鮮の山並みが一望でき眺めは良かった。そして部屋が一番端で横が非常口、そのテラスに出れるのでそこからの眺めも良かった。 -
駅前、図們大路の左側ピンクの建物は当時のまま
右側は新しく建ったビル群だ -
図們站から北東に延びる図們大路
まっすぐ10分足らず歩けば左手に図們大厦がある -
これが図們随一?の図們大厦
どうみてもそうは見えないけど
まあ値段も一泊300元なので -
8階811号室
二つベッドがあれば荷物の整理がしやすいので助かる
バスタブ・湯など当初より期待せず
よって不満なし・・・だったが?? -
窓越しに写真を撮れば青色に
この窓から
東寧重砲兵連隊の陣地構築跡が見えた
左側:第二連隊、右側:第四連隊
山肌が三角に崩れた所、場所は北朝鮮、南陽 -
部屋から図們の南南西方向を写す
正面に烈士の塔が見える -
市人民医院
屋根が朝鮮風になっている
/////////////////////////////////
■さっそく図們江へ
12時半を過ぎていたがまだ昼飯も食っていないので、まず外に出かけた。とりあえずの行き先は北朝鮮との国境、図們江へ。どこかで先に昼食をと思い探しながら歩いたが適当な食堂が見当たらず、図們江に到着してしまった。八年前の図們江公園は、今は公園として閉鎖された状態になってすっかり寂れていた。
代わりに図們口岸のすぐ近くが「旅游サービスセンター」として大きな広場を中心に、周囲にレストランや土産物店、中国朝鮮族の文化遺産展覧館などの新しい建物が並んでいた。今日は観光バスも少なく人は多くはなかったが、随分綺麗になっていた。韓国からの団体観光客が多いようだ。 -
口岸大街(南北)を南に歩けば図們江
-
図們口岸の北側に大きな広場が出来ていた
中に軽食コーナーがあったけど入りそびれる
何か食べておけば良かった -
少年?及朝?族非物?展??
なんやこりゃ?と思っただけで、入らず -
図們江沿いの
広場の一画はウッドデッキのように・・・
/////////////////////////////////
2003年以来 八年ぶりの図們:2011年
http://www.youtube.com/watch?v=p7l5hvhJ4NU&feature=player_embedded -
国境の碑
これも新しい
中国バブルは全土くまなく
バブル崩壊も同じく、それは何時? -
この左側、建物の先を左に曲がれば
図們口岸へ観光客が入れる入り口がある
入場料は20元 -
■図們口岸・図們大橋展望台
昼飯を食いそびれながら懐かしい図們大橋の展望台へ上る。入場料は20元。8年前も20元。琿春口岸も圏河口岸も撮影も出来ない厳しさなのに、ここでは門に展望台があり撮影は自由。それに橋の真ん中の国境まで歩いて行ける。
この違いは一体何なのか?良く分からないが・・・。これだけ国境を自由にさせているのは北朝鮮にも少なからずの恩恵を与えているのだろう。図們江(豆満江)の真ん中が国境と言いながら遊覧船では自由に越境しているのだから。
八年前は北からの脱北者問題で行く前から少なからずの緊張感もあったけど、今は脱北者の話題も少なくいたって平穏だ。取締りが厳しくなって脱北が難しくなったのか?脱北を目指す北朝鮮人がそもそも国境まで来れなくなったのか?北朝鮮の暮らしが良くなったとは思えず、何か理由はあるのだろうけど分からない。
この図們を再訪した理由は、昭和20年8月17日、図們対岸の北朝鮮の町「南陽」で
『東寧重砲兵連隊の連隊本部・第二大隊本部と第二・第四中隊はソ連軍と戦闘を交えることなく終戦を迎え、終戦の二日後火砲と運命を共にする道を選び自爆を決行した』
ということを数年前に知り、機会有ればもう一度ここに来たいと思っていた。 -
北朝鮮:南陽 東寧重砲兵連隊自爆死す
切り立った岸壁に洞窟を掘り備砲(大砲)を備える。
8月17日朝7時頃、やっと備砲なり
遮蔽網を張り、弾薬10発余り搬入して射撃準備は完了した -
八年ぶりの展望台
あの時も同じようにここから南陽の街を見た -
2003/平成15年:8年前の写真
↓
2003年9月18日、15:16:26
この時は東寧重砲連隊のことも陣地構築跡も何も知らず
北朝鮮の風景を眺めていた
その時撮った写真で陣地跡が写っているのはこれしかない
橋の上に人の往来がある、今も人や車が行き来している -
南陽の山肌、図們大橋を渡って左側に陣地跡
展望台からもはっきり見える
////////////////////////////////////
東寧重砲兵連隊の自決:南陽(於)
「ソ連軍進攻と日本軍」中山隆志(著)
東寧重砲兵連隊:連隊長、渡辺薫大佐。この連隊は、勝鬨陣地、郭亮(かくりょう)・勾玉(まがたま)陣地、穆稜(むーりん)、図們附近にそれぞれ分散配属されていた。そしてこの図們の川・図們江(トゥーメンジャン)、豆満江(とまんこう)を挟んで対面する北朝鮮:南陽附近にあった主力は、戦闘することなく敗戦となった。
渡辺連隊長は、火砲と運命を共にして自爆すべく決意した。第二中隊は、中隊長:吾郷(あごう)政一中尉がいちはやく自決したため、この自爆には参加しなかった。渡辺大佐は正式に部隊を集め、詔書を奉読、訓示を行い訣別の宴(うたげ)を催した後、自動貨車、砲車に分乗させ自爆を決行した。
連隊本部114名は15キロ黄色薬二個、破甲爆雷二個、ドラム缶二本を搭載した自動貨車12両に分乗し、これを円形に配置して中央で点火して80名が死亡した。同じく第二大隊本部と第四中隊132名は砲車二両に分乗して自爆、第二砲車不成功で事後師団司令部から自決を禁止されたため、死亡66名に留まった。
牽引(けんいん)第15中隊は牽引車5両、自動貨車1両に79名が分乗して自爆、46名が死亡した。結局この集団自決の参加者は合計325名で、連隊長・渡辺大佐、第二大隊長飯田常雄少佐以下192名が死亡するという壮烈かつ悲劇的なものであった。
以上
一戦を交えることなく敗戦となった無念と、その後の無力感はいかばりだったのか・・・。集団自決という決断と実行の是非については、多くの意見があることは承知します。しかし私は、ただただ頭を垂れ万感の敬意を表します。
誰が何と言おうと決して皆様方の死は無駄死にではありません。子々孫々未来永劫、日本人としての潔い責任の取り方を示してくれました。自決と言うのは、今の私には到底出来ないことですが、皆様方と同じ日本人であることが私の誇りでもあり、それが心の支えにもなっています。
今の日本も私自身も恥ずかしい限りですが、この先何年掛ろうが、いつかきっと日本と日本人が再生する日が来ると信じています。それは南陽で自決された兵士の方々の崇高なる行為が日本人の心の拠り所となっているからです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2011/10/15.記
////////////////////////////////////
■「敗残延辺彷徨記」
http://homepage2.nifty.com/JR2IJK/kaisou/framepage1.html
この自爆のことは、「新・秘めたる戦記:第二巻」伊藤圭一(著)や「ソ連軍進攻と日本軍」中山隆志(著)にも詳しく書かれている。そしてWeb頁:回想「敗残延辺彷徨記」は、元東寧重砲兵連隊の少年兵士として、第2中隊吾郷政一中隊長の自決前夜中隊長付きとなってお世話をした方の手記だ。
それに詳しく写真入りで南陽の陣地構築工事跡を紹介されている。今も、その工事跡がくっきりと対岸の図們から見える。この回想「敗残延辺彷徨記」のホーム頁も願わくば削除されることなく、いつまでもネット上で公開し続けてもらいたい。一人でも多くの日本人にこのことを知ってもらう為にも。
図們の目の前の北朝鮮「南陽」で、東寧重砲兵連隊192名の方が自爆死された。そしてその骨は今もここに眠る。
展望台は多くの中国人観光客も来て賑わっていた。話す言葉で中国人か韓国人か分かる。私は一人でしばらくその場にたたずみ景色を眺めていた。陣地構築跡が目の前に見える。今から66年前、8月15日に終戦を知りその二日後に自爆を決行した
自爆決行場所は「敗残延辺彷徨記」によれば『東寧重砲兵連隊終焉の地、北朝鮮「南陽西郊」を臨む(H14.8.17)あれから57年、渡辺連隊長以下数百名の将兵、今なおここに眠る!』と、その現場と思われる写真に明記されている。
それは、「南陽西郊」とあるように図們から向って右手、豆満江を渡る中朝の鉄橋のまだ右側に広がる畑地の一画だろう。この時はそのことも頭に思い浮かばず、展望台からその方向の写真は撮っていなかった。残念。
長らくこの上にいた。展望台にある土産物屋で記念に?25元を20元(260円)に値切って北朝鮮の貨幣入りケースを買った。八年前にもここでバッチや紙幣を買った。そして「又、明日も来るよ」と言って展望台を降りた。 -
渡辺連隊長以下192名、今尚この図們対岸「南陽」の地に眠る
第二中隊陣地構築跡・・・「第二中隊は自決に参加せず」
「敗残延辺彷徨記」より抜粋↓
『吾郷政一第二中隊中隊長は自決を潔しとせず、敵陣に突入玉砕することを決意した。
処が出撃準備作業中に不測の齟齬が生じ弾薬を満載したトラックが暴発
傍らに居合わせた中隊長は負傷、最早これまでと躇うことなく
その場で、拳銃を自らのこめかみに充て自決し果ててしまった。』 -
第四中隊陣地構築跡
石川中隊長は病気重態で、東准尉が中隊長代理となる
東准尉(談)
『8月17日、石川中隊長入院のため中隊長代理となる。
想像もしなかったその責任の重大さと名誉に、
緊張感がひしひしと身を引き締める。』
この日の夕方、東准尉は第四中隊長として自爆を指揮
重傷を負いながらも急死に一生を得生還される -
中国人もいるが韓国からの観光客も多い
日本人観光客も沢山来ているようだけど
昭和20年8月17日
東寧重砲兵連隊の南陽での自爆を知っている
日本人はどれほどいるのだろうか?
一人でも多くの日本人が知ることが
亡くなられた彼等への供養にもなると思う -
重傷を負い生還した谷井曹長の手記より抜粋
『「立つ鳥跡を濁さず」の諺どおり寝具
その他のものをきちんと整頓し
醜い死に方をしたくないので
ガーゼ一反を腹に巻き
母の写真を焼いてしまった。』 -
谷井曹長手記より
『さあ、俺たちもと・・・、その時誰かが
「海ゆかば」を歌いはじめ三唱し終わると
私は直ちに小林兵技軍曹を点火者に命じ、
二人で点火地点に走る。
「点火用意、点火」軍人として最期の号令をかけ、
さあこれで護国の鬼となって靖國神社に集合だ。
導火線は白煙を出して燃えていった。』 -
展望台の土産物店
北朝鮮の紙幣セットを買う -
この急な階段が展望台への道だ
//////////////////////////////////
図們にて「東寧重砲兵連隊の自爆」/No.1
http://www.youtube.com/watch?v=BzJUjA96d_w&feature=player_embedded -
満洲建国そして朝鮮併合時代
やはりここは国境に架かる橋として
自由に行き来は出来なかったのかなあ?
/////////////////////////////////////////
■図們大橋
今度は図們大橋を北朝鮮に向って歩いた。
以前は軍服を着た兵士が付き添ってきたが、今回は下請けなのか?兄ちゃんのアルバイトらしき青年が一応の監視役?として付き添ってきた。橋の途中に敷かれた国境ラインを越えないように見張っている。一歩越えれば何て言うのか?試して見たかったが出来なかった。
そして写真を頼んだら気持ちよく引き受けてくれる。これは8年前の兵士もそうだった。サービスとして定着しているようだ。何枚も私に立ち位置やポーズまで考えてくれて。国境ラインと門に近くなって又写してくれて数えたら計9枚も・・・。別にチップを要求する訳でもなく。
この付き添いの青年とは別に入場口の所に小さな机を置い門票を売る係りの青年がいるのだが、その男が私が日本人と分かった時に、「日本円を持っていないか?」と問うてきた。何故?って聞けば「両替」のようだった。持っていないと返事し、写真の礼を言い、また明日も来ると言ってその場を去った。 -
橋の上から陣地構築跡を写す
『この集団自決の参加者は合計325名で、
連隊長・渡辺大佐、第二大隊長飯田常雄少佐
以下192名が死亡するという
壮烈かつ悲劇的なものであった。』 -
正面は「南陽駅」
当時の南陽の町はどんな様子だったのだろう?
南満洲鉄道「北鮮東部線」
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/mansyu3.5.html#図們〜雄基間 -
図們口岸門、この門の上が展望台
こうやって観光客に開放してくれるのが嬉しい
何でもありの中国、何事も一貫してない
こっちではこう、あっちではこう
いつなんどきどうなるか?油断できない
それも面白さの一つだ・・・けれど
でもそれが一瞬に恐怖と地獄に変りえる
法治国家などとは未来永劫無縁だ -
図們江の遊覧船
大きな遊覧船なのかと思ったら
この船?の向こう側に小さな船が係留されてある
その小船に客が一杯になったら順次出てゆく
///////////////////////////////////////////
■図們江の遊覧船
昼飯を食わないまま2時が過ぎ、食堂がないのでそのまま図們江沿いを歩いた。そして遊覧船に乗ることにした。小船で10人ほど乗って遊覧する。40元と結構高い。客がそこそこになり次第次々出航していた。
私が乗った船は私以外は韓国人団体ツアー客一行で、船の中でも賑やかに話し、歌も歌っていた。八年前は一人でモーターボートに乗って遊覧した。その時は15元だった。物価の上昇は凄まじい???
図們大橋の真下くらいまで遊覧船は来るが、橋の鉄の部分が「中国側:赤色」「北朝鮮側:青色」と塗り別けられているのだが、そのペンキの色が八年前はまだ鮮やかに青・赤だったのに、今は青色はくすんでしまい色も分からず、赤い色も随分薄くなっている。
どっちが金を出して塗り替えるのか?再訪すればそんな比較も出来て面白い。 -
一人40元とは高くなったものだ
八年前は
モーターボート一人貸し切りでも15元だったのに -
図們大橋に向って出航
私以外は韓国からの旅行者
団体ツアーご一行様のようだった
サムソン栄えて韓国不幸になる・・・か
グローバル企業は国を富ますことに繋がらない
近頃はウォン安で海外旅行も大変だろう。 -
図們口岸の門が見える
図們大橋の青・赤の国境カラーは
ずっと右手方向に境目がある
なら、今は北朝鮮に入国中なり -
国別カラー、青:北朝鮮。赤:中国
橋の上では「国境越えるな」と監視員が付き添うくせに
河では好きにしろと、自由往来か?
でも、ちょっとペンキ禿げ過ぎちゃう -
20分ほどの遊覧を終えて帰着
この日はどの船も
韓国人ツアーご一行ばかり
竹島は日本固有の領土だ!
不法占拠は韓国にとって損なだけだ
今の日本と日本人は性根も腐って駄目だけど
再生日本成し得た暁には必ず取り返す
/////////////////////////////////////
図們江の遊覧:2011/平成23年9月15日
http://www.youtube.com/watch?v=XIGJ-5D_PG4&feature=player_embedded -
陸続きの国境ってのはいつ見ても面白い
この小さな川を隔てて国が違う
例え民族は同じでも国は違う
それを思えば日本人は幸せなのだろう
//////////////////////////////////////
■やっと昼食にありつく
船を降りそのまま川沿い公園を北東に歩いた。川沿いの図們江公園の北の端が、以前は一番のメーンの広場だったが、今は遊覧船乗り場も閉鎖され寂れてしまっていた。でもそれは最近になってのことなのだろう。まだまだ全てが片付け途中の様相だったから。
そこから歩いて中心部に戻りながら昼食を食う場所を探しやっとありついた。朝鮮族の店で3時過ぎの遅い昼食となる。「冷麺」と「茄子の焼き飯」計25元。美味かった。でも量が多いのでやっぱし全部は食えない。 -
八年前はここが図們公園のメーンだった
最近までそうだったか感はあるけど
今では場所が変わり、すっかり寂れていた -
解放路を歩きながら八年前に泊まったホテル
「金三角賓館」を探して歩く -
東北解放紀念塔
友誼街と解放路の交差点にある
ソ連軍が解放軍・・・か
挙句に共産党独裁政権とは笑止千万 -
多分この正面の三角形の建物が
金三角賓館だと
確信はないけど・・・多分 -
午後3時過ぎてやっと昼食にありつく
冷麺はどこで食べても大体同じ味で美味い -
図們大厦
“地球の歩き方”10〜11版
図們大厦の紹介:208頁
『町の中心部に位置するホテル。造りは古く、
外貨両替もできず、ビジネスセンターもないが、
2011年5月現在、図們では最高級ホテル。
また、図們で年間を通して営業している数少ないホテルでもある』
なかなかオモロイ紹介だけど・・・
バスタオルさえ換えてくれていれば満足だったのに
///////////////////////////////////////////////
■ホテルに戻り、又、靴を買いに出る
そしてホテルに戻ったけど、雨で靴の中はびちょびちょ。来る前に靴を買い替えようと思ったのだけど、慣れた靴の方がと思いボロ靴のままやってきた。でもこれじゃあどうしようもないので靴を買いに行く。
そして図們の靴屋で35元(455円)の安い靴を買う。見栄えはまあまあ、日本に帰ったら又買えば良いと思っての靴だった。その靴で後からえらい目にあったけど、その時は満足して購入した。そして八年前に泊まったホテル「金三角賓館」を探して歩く。
2010,11年版“地球の歩き方”にもちゃんと金三角賓館は地図にある。数人に聞いたが、「そこを曲がったところにある」とか「あっちに有る」とか教えてくれたが、見つけることが出来ず明日の課題にすることにした。
そして果物を買って部屋に戻り食前の果物を食す。 -
カメラを変えたから時間も??ちょっと違う
靴屋と金三角賓館を探して歩く -
この靴屋で335元の靴を買う
靴が悪いのか?足が弱いのか?
数日後に思い知る。旅すればこそ分かったことだ -
果物を買ってホテルに戻る
金三角賓館を数人に聞いたけど
「そこを曲がったところにある」とか「あっちに有る」
とかの返事だったが・・・見つからず
明日に持ち越しとする -
図們の市場
こんな小さな町でも
市場の品物は豊富だ
一体誰がこんなに沢山を買うのか?
いつも不思議に思うくらい、どこでも -
とりあえず図們駅前へ散歩する
夕刻過ぎると人通りも車も少なくなる
////////////////////////////////////
■夕食を食べに
小休止のあと、夕食を食べに出て、「小石?麻辣? Xiǎo shítou má là tāng」で、野菜スープと羊か鶏かの串焼き二本を食べた。味はまあまあ。
午後7時過ぎに部屋に戻って明日に備える。明日は、一日図們。行き先予定は、烈士紀念碑・図們第一高級中学・八葉橋・安山村・そして図們口岸等々。靴も買ったし、明日の天気を祈りながら・・・。 -
どこだったか?全く分からないけど
ここで夕食を食べる
今まで食ったことがない料理だった -
若い兄貴が調理していた
小さい店だがお客はそこそこ多かった
料理の写真もあって選びやすい
でも中味は分からず、味も無論不明 -
こんな鍋料理
野菜大盛りでヘルシー料理だった
毎日食う気はしないけど
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
明石DSさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
68