2011/09/11 - 2011/09/11
78位(同エリア342件中)
明石DSさん
2011年9月16日、6:18:20
図們大厦の窓ガラスは青色
窓越し写真はこの色になる
南東方向を写す
写真左向かいの建物は「図們農村合作銀行」
これが高層ビルなので展望が悪い
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6日目:9月16日(金):曇り
図們にて
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2011/平成23年9月16日(金)
■図們の朝
いつものように5時頃に起床する、といっても日本時間は6時なのでその感覚のままと言う感じだが。7時半頃にホテルの朝食を食べる。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
図們最高級ホテルの朝食バイキング
なるほど私の泊まるホテルのなかでは
なかなか豪華 -
美味かったという記憶なく
こんなん食べたのか・・・ -
食堂もなかなか豪華そうだ
見栄と面子の文化はこうでなくてははじまらぬ -
朝の図們大路を正面の駅に向かう
みんな給料どれくらいもらっているのだろう?
写真の服装を見ても給料は分からず
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■朝の散歩
朝の散歩と包車(包? Bāochē タクシーのチャーター)をして図們を巡るために駅方向に歩く。 -
図們でも建設ラッシュか
バブル崩壊が叫ばれ続け
北京オリンピック、上海万博終われど
バブル崩壊未だ至らぬのか?それとも
どっちにしろ不健全な発展に輝く未来は有り得ない
中韓経済の今を羨ましがることなど全く不要だ -
駅を背にスライド写真を写す
正面:図們大路、右斜め:解放路
敗戦時、この図們駅にて
避難列車へのソ連軍爆撃によって在留邦人300名余の死傷者が出た
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朝の8時頃の図們駅/2011/平成23年9月16日
http://www.youtube.com/watch?v=W-3ONoXT4AA&feature=player_embedded -
間島日本領事館図們分館跡へ
この坂を上りきった突き当たりに
図們市第一高級中学(高校)がある
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■「一期一会」の出会い、包車
包車の瞬間はいつもながら緊張の一瞬でも有る。良い運転手であれば今日の旅は楽しく有意義な旅になるが、そうでなければ幾ら天気が良く景色が良くても面白くない旅の一日となる。やはり人間は一人で過ごしても面白くない。私のように我がままで、団体行動が苦手な人間でも、人との係わりの中でこそ喜びや怒りや感動がある。
一人旅もそうだ。一人旅は否が応でも現地の人と係わり話す機会は増える。それが一人旅の最大の良さだ。ツアーガイドもいなく同行者もいない旅を有意義にするためには、現地の人と係わって自分で何とかしなければ目的地に行って遺跡や景色を見ることも出来ない。
旅の成否は人との出会いが決める。そして相手に良き人であることを求めるには、まず自分が相手にとって良き人でなければ話にならない。だから包車をしても値切り過ぎては駄目だし、相手の言いなりも駄目だ。そこには互いが納得出来る妥当な料金と、互いに相手を尊重する気持ちが必要だ。私はムチャを言わないつもりだし、相手に敬意を払っているつもりだ。だから今まで包車して嫌な思いは皆無とは言わないがほとんど記憶にない。
今日も道すがら女性ドライバーのタクシーを見つけ、顔も年齢も分からない距離だったが手を上げて停めた。そしていつものように運転手に相談を持ち掛けた。「市一中・烈士の塔・八葉橋・安山村に行きたい。場所は知っているか?3時間くらい掛けてゆっくり回りたい。3時間の包車は幾ら?」と、彼女は「みんな知っている。1時間40元×120元」と言った。
8年前は市内周遊2時間包車40元だった。2時間も掛らないかもしれないし、距離も短いので値切れば半分の60元、いや80元なら絶対OKと言うと思ったけど、円高だし、まあええかと「120元太貴、100元就行(120元は高すぎる100元ならOK)」というと相手も即座にOK。交渉成立となった。
彼女の名前は李○○(仮名)。52歳、漢族。25歳の娘は北京で大学院生、美人だそうだ。主人は工員(工人 Gōngrén)で交代制で働いている。両親はすでに亡くなっている。四人兄弟、兄二人は図們、姉は長春。2歳の頃河北省から家族で図們に来たそうだ。1999年会社が潰れて解雇(下? Xiàgǎng)になってタクシーの運転手を始めた。休みなしに毎日仕事(没有休息,天天工作)で趣味は運転。朝6時半から午後4時まで仕事。食事は作れる方が作る。最近81平米のマンションを購入。私にとって包車は中国語学習の場でもある。
図們での旧跡めぐりはWeb頁「ぷるはとん通信・延辺探索記/図們」を参考にした。行き先の順番は、李○○に一任し、まず最初に行ったのは1934年図們市と改められ、それに伴って新設された間島日本領事館図們分館跡。今は図們市第一高級中学になっている。図們駅から南方向に歩いても行ける距離で高台にあった。
この分館も新設3年後の1937年には、日本の「対満治外法権撤廃」により龍井日本総領事館など在満各地の領事館は閉館となっている。図們分館の写真は「鎮魂の旧大日本帝国陸海軍」に掲載されている。
この分館跡地の周辺に「日本人住宅が残っている」ということで探したら、それらしき建物が何軒も残っていた。「これは日本時代の建物ですか?」と聞いたら、一人のお年寄りが「以前的」と返事してくれたが、その他の人は私の質問が聞き取れないのかも?だけど「知らない」とのそっけない返事だった。
日本住宅の特徴として、『屋根は鋼板製で周辺の成形瓦と違い歴史を感じさせるものだ。外壁は海砂利を多く含んだ左官仕上げで、なんだか日本風なおもむきだ。』とのことだが・・・。それは確認できなかったが周囲の家屋と明らかに雰囲気の違う建物が長屋のように固まってあった。とにかくこの分館跡地周辺に日本人が暮らしていたのは確かだ。図們の町並みが見下ろせる高台で、眺望まあまあ良く東方向は豆満江を越え北朝鮮が見通せる。
1945年/昭和20年8月9日のソ連侵攻までは、この図們も日本本土や太平洋・沖縄の戦域と違って、普段とあまり変らない満洲の日々の暮らしが営まれていたはずだ。それらの日本人長屋も意識していなければ、今ではすっかり周囲の薄汚れた家並みに溶け込んで気付くことはなかったろうが、意識して探せば一見してすぐにこれだろうと分かる。きっと当時は美しく整備された住宅街だったはずだ。 -
図們市第一高級中学(高校)
ちょっとした高台で眺めも良く立地条件は良い
市内からも近い
ここに日本領事館図們分館があったのか -
ちょっと気をつけて見たら
周囲とは雰囲気の違う建物が目に付いた
きっとこれが満洲時代の日本人が住んでいた建物だろうと
領事館公邸のような雰囲気もある
でも????無論確証はない。 -
領事館跡附近の建物
これらはどうみても日本人の家屋ではない -
この一画の建物群が日本人長屋では
建物を一見すれば違いが分かる
どっちにしろこのあたりに日本人長屋があり
多くの日本人が満洲時代を生き抜いた -
この一画に並び立つ家屋は他と違う
当時の日本人の意気旺盛を羨ましく思う
子供の目も輝いていただろう
今の日本人のように先人を貶め
綺麗ごとで自らを善人ぶる人間には
哀れと軽蔑しかない。
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間島日本領事館図們分館跡(現在:市第一高中)
http://www.youtube.com/watch?v=drVCu6ht2PY&feature=player_embedded -
南陽市を見るために革命烈士紀念碑へ
ホテルの部屋の窓からもこの高台の紀念碑が見える
高台から北朝鮮方向を見れば
どんな風景が広がっているのだろう・・・と
あの上に行くのが楽しみだった
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■革命烈士紀念碑へ
図們市第一高級中学から程近く、図們と北朝鮮を結ぶ鉄道の線路を横切り小高い丘の上に紀念碑がある。この烈士の碑は図們大厦から真南方向に見える。ここに来たかったのは、東寧砲兵連隊の元兵士の方が戦後に何度かこの地を訪れこの場所で写真を撮って「敗残延辺彷徨記」で紹介している。私も図們に行ったらこの場所から北朝鮮「南陽」を見たいと思っていた。
タクシーで上までの道がみつからず、途中で車を降りて歩いて上った。といっても数分で上れる小高い丘の上にある。紀念碑公園?は柵で囲まれて扉は閉まり施錠してあった。その扉に電話番号が書いてる張り紙があった。中に入るには電話してくれということなのだろうけど、邪魔臭いので柵を乗り越えて入った。内部は工事中のようだったが誰も工事をしている者もいない。
写真で見ていた場所に来て「南陽陣地構築工事跡」を眺めた。今も山肌に左側第二中隊、右側第四中隊がソ連参戦の日まで陣地構築工事をしていた跡がはっきりと見える。第二中隊の元兵士のSさんは「敗残延辺彷徨記」に『我々初年兵の任務は崩れ落ちた岩石をモッコで担ぎ出す運び方である。来る日も来る日も朝は朝星夜は夜星、N2等兵が先棒私が後棒でエッサ!エッサ!とモッコを担ぐ。これがソ連参戦の前日8月8日迄続いた。』と書かれている。
そして『東寧重砲兵連隊終焉の地、北朝鮮「南陽西郊」を臨む(H14.8.17)あれから57年、渡辺連隊長以下数百名の将兵、今なおここに眠る! 』とある。自爆した場所は、「南陽西郊」とあり、ここからのその方向の写真もある。図們江を渡る鉄橋の右側に広がる畑地の中での自爆だったのだろう。 -
鉄道口岸がこんなところに
-
図們⇔南陽を結ぶ鉄道
枕木も真新しいコンクリート製
前方高台に烈士の碑が見える -
途中までで車で行く道がなくなり
車を停めて歩く
紀念碑はあれど道らしき道なく -
辿り付いたが柵に鍵が掛っていた
そしてそこに携帯番号を書いた札が
邪魔臭いから塀をよじ登って入る -
烈士の塔よりパノラマ写真
-
東寧重砲兵連隊終焉の地:南陽西郊を望む
「敗残延辺彷徨記」の著者Sさんがこの地を訪れ写真で説明している
『東寧重砲兵連隊終焉の地、北朝鮮「南陽西郊」を臨む(H14.8.17)
あれから57年、渡辺連隊長以下数百名の将兵、今なおここに眠る!』
『自爆地は南陽、豆満江ほとりの畑の中である』
この写真正面の畑地が自爆地なのだろう -
高台、烈士の塔から見た山肌に△の工事跡
左:第二中隊 右:第四中隊 -
南陽駅
金日成の肖像画を掲げている
主体思想
序
自分の運命の主人は自分自身であり、
自分の運命を開拓する力も自分自身にある。
故に、革命と建設の主人公は人民大衆であり、
革命と建設を促進する力も人民大衆の側にある。
朝鮮民主主義人民共和国の政治思想 -
革命烈士紀念碑
-
電話は邪魔臭いので
塀をよじ登って入った -
第一高級中学:北北西方向を写す
図們も駅の西側に、そこそこ町が広がっている -
一期一会:李○○さん
この車で図們を巡りました -
図們市の北を流れる嗄呀河に架かる橋
右手方向は図們江に合流
『日本軍がソ連侵攻に備え八葉端橋を爆破』
それが事実ならこの橋はそれ以後に架けられた橋となる
そういえばこの橋はなんとなくオンボロだ
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■八葉橋(八叶? Bā yè qiáo)から安山村へ
図們でのソ連軍との戦闘は、私の満洲戦跡めぐりの虎の巻『「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)』には図們の戦闘状況は以下のように書かれている。
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図們での戦闘
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)による。
第79師団(太田貞昌中将)歩兵第289連隊(松山圭介大佐)の一部図們残留部隊は17日朝から侵入したソ連軍戦車・歩兵部隊と交戦したが、午前10時師団司令部築城班長鈴木少佐が停戦命令を伝達、一切の戦闘、破壊行動を停止した。連隊主力は18日図們で武装解除した。
図們西方二キロの安山高地にあった第三中隊(勝又忠光中尉)は、16〜17日ソ連軍の攻撃を受けて戦死5名を出したが、18日停戦命令を受け、図們で武装解除した。
日本軍は図們周辺でも各所でソ連軍と戦っている。なかでも図們と琿春の中間の密江峠での戦いは激戦だった。密江峠死守の命を受け、明月溝から急進して14日夜到着したばかりの第112師団工兵隊(尾形茂人大尉)は、正午頃から優勢なソ連軍を迎撃して奮闘し、これを撃退した。師団工兵隊は15日以降の密江峠の激戦で300名中約100名が戦死、不明となり、臼砲小隊も損害多発し、残存して武装解除を受けた者は10名に過ぎなかった。
師団は18日朝以降密江峠において武装解除した。この間停戦のための処置を終わった師団長:中村次喜蔵中将、師団参謀長:安木亀二大佐、同兵器部長:古川儀兵衛大尉、工兵隊長:尾形茂人少佐等がそれぞれ覚悟の自決をとげた。
9月の延吉避難民の原住地復帰の際に密江峠の激戦跡の様子が生々しく残っていたようだ。
「延吉での不安な収容生活約一ヵ月、九月になって食糧事情などを理由に、ソ連軍から原住地復帰を命ぜられ琿春へ向かって徒歩の旅をすることになった。(中略)ある日峠道に差しかかると、四五人のソ連兵がトラックから降りて来て、坂道を登ってくる難民から荷物を略奪していた。
(中略)そこは蜜江峠の激戦の跡だった。至る所に戦車や軍用トラックがひっくり返っていたり敵弾に斃れた日本兵や軍馬、中にはソ連兵なども死んでいたがどれもこれも腐っていて悪臭が辺り一面に漂っていた。」
「日ソ開戦と避難」田口敏男『遠のく昿野の空 琿春朝日開拓団回顧録』
岐阜県開拓自興会朝日支部編・1982年
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『延辺文物簡編』には図們に駐留の日本軍がソ連侵攻に備え、八葉端橋を爆破し、後安山に陣を構えソ連軍と戦ったという記録もあるようだ。それによれば『8月15日早朝交戦開始。激戦の末8月17日ソ連軍図們を占領。ソ連軍は20名が戦死。』とある。図們での戦いで犠牲になったソ連紅軍兵士を讃える碑が図們の街の解放路の中央にある。
八葉橋は図們の北にあり「嗄呀河 Á ya hé」に架かる橋。橋を渡って安山村方面に走り、高台で図們市が一望できる場所に行った。さっきの烈士の塔と同じく、そこから図們市を眺め66年前の景色を思い描いた。街の装いは一変しているだろうが、周囲に見える自然の景観は当時と同じだろう。
景色を堪能し、図們に戻る。 -
八葉橋より嗄呀河上流を写す
すぐ上流に図琿線の鉄橋がある -
これから橋を渡って安山村へと向う
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安山村の高台から八葉橋を写す
-
安山村高台から図們市を望む
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)によれば
『図們西方二キロの安山高地にあった第三中隊(勝又忠光中尉)は、
16〜17日ソ連軍の攻撃を受けて戦死5名を出したが、
18日停戦命令を受け、図們で武装解除した。』
このあたりでも日本軍かく戦えり -
八葉橋を渡り安山村の高台から図們市を望む
http://www.youtube.com/watch?v=09Oi2FqLVW4&feature=player_embedded -
これが図們の刑務所らしい
刑務所には入りたくない -
北朝鮮の音楽とロシアとソ連時代の物:計3枚
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■図們で土産のCDを買う
最後は土産のロシア・北朝鮮のCDを買うためにCD店で降りた。8時40分から10時40分までのたった2時間の包車で料金は100元と李○○にすれば楽勝だったと思う。こっちにしても100元は円高で¥1300円。納得の2時間だった。
CDはロシアの物が二つと北朝鮮のが一つ、三枚で45元を40元に値切って買う。昨日図們口岸の土産物店で北朝鮮のCD三枚70元と言っていた。まあその時も「高過ぎる」と言うと50元まで値段を下げていたが、ハハハ。40元になったかも。 -
この店で買った
そして日本に持ち帰った
ここから運んだことに価値ありや? -
東北解放紀念塔
1905/日露戦争で日本軍は当時世界屈指の軍事大国
ロシア相手に堂々と戦い勝利した
そして、その33年後にも張鼓峰で優位なソ連軍を後退させた
その翌年にはノモンハンで張鼓峰の復讐戦を挑んだソ連軍を
日本軍兵士は敢然と戦いソ連軍に手痛い目を合わせた
そしてその復讐として満洲に侵攻し残虐の限りを尽くしたのがソ連だ
日本軍は決してソ連に負けたのではない
矢つき刀折れ戦えなかったのだ
日本人をして誰が関東軍を責めれよう
ましてや戦後生まれの日本人が・・・
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■東北解放紀念塔
その後、解放路にある東北解放紀念塔を写真に撮り、ぶらぶら散歩しながら途中昼食前の果物(バナナ4本・桃2個・りんご2個・みかん2個・他1個=計20元:260円)を買ってホテルに戻る。 -
果物の味
バナナは同じ
その他は日本の果物が美味い -
果物は消化が良いので
食うなら食前に食べるべし
理の当然だ
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図們にて「東寧重砲兵連隊:東准尉の手記No.1」
http://www.youtube.com/watch?v=oWdc1eI4Ysg&feature=player_embedded
図們にて「東寧重砲兵連隊:東准尉の手記No.2」
http://www.youtube.com/watch?v=NEge8iLjywI&feature=player_embedded -
イタリアンの店に
写真を見てつられて入る
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■昼食は図們でピザを?
食前の果物を食い小休止の後、また街へと出て行く。まず昼食を食おうと昨日の店を探したけど見つからず、ピザ(比? Bǐsà)の写真を店前に掲げた図們のイタリアンの店に入った。店構えは綺麗けど入った瞬間“しまった”と思った。
12時半、昼時真っ只中なのに店内に客の姿は皆無で、店の家族と店員がテーブルを囲んで昼食中だった。まあこれも話しの種だと思って、メニューを見てスパゲティーを頼んだ。
昼食中だった一人の女性が厨房に行きスパゲティを作る音が聞こえて来た。そして出てきたのは、家庭で母親が作る簡単スパゲティーその物だった。量も少なくこれが25元なんてそりゃ客がゼロなのも頷ける。辛いスパゲティーだった。
ピザはもっと高かった。この店のオーナーらしき朝鮮族のおっちゃんは嫁と小さな息子と呑気に飯を食っていたが、どうやってこの店を開き維持出来ているのか?ホンマ不思議だ。私が日本人だと分かり話し掛けてきた・・・。韓国へは何度か旅行に行っているようだった。 -
入った瞬間しまったと思ったけど
ちょうど昼時なのに客は皆無
店の家族がテーブル囲んで食事中 -
この店の雰囲気を見てピザを注文する気になれず
スパゲティーを頼んだが
商売物にあらず
この店の前途占うに容易い -
図們口岸へ
自転車をこぐおっちゃん
もし自分が図們に生まれていれば??
どんな今を過ごしているのだろう
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■昼食を食べ、3元の三輪車(人力? Rénlìchē)で図們口岸へ
昨日に続き橋の展望台に上り、しばし北朝鮮を眺めていた。思いは昨日と同じ。20分以上展望台にいた。今日は何故か?展望台の土産物屋はオバちゃんがいなくて閉店中。八年前にここに来た時は、車の往来はなかったが荷物を担いで北朝鮮に向う人や、こっちに来る人の往来が結構あった。でも今回はまったく人の往来の姿なく北朝鮮側に、人の気配も少ない。
望遠鏡で幾らアパートを見渡しても、人の暮らしを感じる建物は橋の周辺に限られており、少し離れた住居群には人の気配を感じない。土産物屋のオバちゃんにも昨日聞いたけど「没有人:誰もいない」と言っていた。南陽の人口1万2千人と言われているようだがここから見る限り信じられない。夜にこの図們江に来て対岸の様子を見なかったことを帰国後に悔やんでいる。灯りの点り具合を見れば一目瞭然であったろうに。八年前はもっとそこらに人がうろうろしていた。車の動きもあったし、人もいたが今回はホントひっそりしていた。
展望台から階下に下りる途中にも土産物屋が一つある。そのオバちゃんが降りて来る足音を聞いて、出て来たが私の顔を見て、昨日も顔を合わせて話しをして覚えているので「あっ、あんたか、昨日も来たね」と言いながら店内に引っ込んだ。私はそれが面白くて店に入って行った。「忙しい?」とか「日本から来た」「8年前にも来た」とか話しをした。漢族のオバちゃんだった。私に買えとは勧めなかったが、「記念に一番安い物を買うわ」と言って10元のストラップを買った。値切らずに・・・。
階下に降り又昨日と同じように国境の橋を北朝鮮に向って歩いた。勿論一人でではなく監視の付き添いが供に歩く。昨日と違う若者だった。今日も観光客以外、橋を通る車も人の姿もなく、この図們大橋を通じての中朝の交流はどうなっているのか?不明だ。昨日と同じように橋上の国境ラインで誰もが写す恒例の写真?を写してもらい南陽の陣地構築跡を写した。北朝鮮解放の暁には是非もう一度ここに来よう、そして橋を歩いて渡りたい。南陽から図們へ、図們から南陽へ。
出口に昨日の門票売りの青年が坐っており、彼と目が合い私を覚えていたようで「昨日も来て今日も来るのは何で?」と聞かれて中国語で即座に答えることは出来なかった・・・。もっとも日本語でもどう返事したのか?「いや別に・・・ここからの景色をもう一度見たくて来た」というぐらいだろうけど。 -
ここから門に入り、図們大橋に入る
入るには20元(今は260円)必要なり
歩いて北朝鮮に越境する勇気なし -
八年前この場所で写真を写した
この友誼の塔はなかったけど
後ろの金色屋根のはそのままだ -
展望台からパノラマで写す
図們江の向こう側、右端方向が
南陽西郊外:畑地の中での自爆地だろう -
橋の上には今日も人影・車の往来無く
夜に南陽の様子を見なかったことが悔やまれる
灯りを見れば、生活ぶりが分かるだろうに -
展望台から図們市方向を写す
図們口岸もひっそりしている
暇そうだ -
展望台より図們江鉄路大橋を写す
列車の通過も見れなかった -
もう二度と来る機会はないと思ったが
金正日体制崩壊すれば、往来しようこの橋を
もうすぐそんな時期が来るかも -
この下の金色屋根がある回廊のような場所
8年前も今回も入れず通れず
一体なんやねん?これは -
この門の展望台に上る急階段の途中にある
土産物屋でこの人形トラップを記念に買う -
この橋の向こう側に日本人拉致被害者が今日も暮らしている
100人とも200人ともその実数さえ掴めていない
それでも私は平気でここに立ち、苦しさも辛さもない
私が親なら何としてでも助けに行きたいだろう
同胞を放置して平気な今の日本と日本人に
人として、親として、何を語る資格があろうか?
すべては偽善に過ぎぬ
つまらぬ日本国になり、つまらぬ日本人になったものだ
////////////////////////////////
図們大橋口岸展望台/2011/平成23年9月16日
http://www.youtube.com/watch?v=RBuQBAfVzdY&feature=player_embedded -
図們江ほとりにて
広〜い広場
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■図們江ほとりにて
図們江沿いの公園を北に向かって散歩した。遊覧船乗り場附近にウッドデッキのような木の広場があり、そこで韓国人団体のオバちゃん旅行者が歌に踊りで楽しんでいた。韓国人、いや朝鮮民族が歌や踊りが好きなことが良く分かった。
中国各地でもそうだが韓国人の間でも、それが普通に自国民謡のように馴染まれ歌われている日本の歌が有る。それは千昌夫の「北国の春」だ。20日に泊まった延吉の北朝鮮のホテル「柳京飯店」でも歌と踊りのショーで「アリラン」より先に「北国の春」が歌われたのには驚いた。
日本人ツアー客は見かけないが韓国人ツー客で今日もここは賑わっていた。1時から2時半くらいまで図們江のほとりで時を過ごし、午後3時ころ疲れてタクシー(5元)でホテルに戻る。歩き疲れて足・膝・腰が痛い???。この時はこの痛さの原因に気付かず、やたら「足がだるい」「足が痛い」と嘆いていた。 -
韓国からの旅行者ご一行
テレビで韓流スターが出ていれば
私はすぐにチャネルを替えるか切る -
今日も相変わらずの図們江の風景なのだろう
中朝国境が緊迫するのはいつなのだ? -
図們江の河川敷公園の風景
-
冬にはこの川も凍って
その時はどんな様子なのか見てみたいけど
寒さは苦手だ
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図們にて「東寧重砲兵連隊:谷井曹長の手記No.1」
http://www.youtube.com/watch?v=7-DR7VJ8PaA&feature=player_embedded
図們にて「東寧重砲兵連隊:谷井曹長の手記No.2」
http://www.youtube.com/watch?v=iMYS16g67Dg&feature=player_embedded -
図們最高級ホテル「図們大厦」の洗面所
どうにも解せぬ、この洗面台のデザイン
手がどうにも洗いにくいのは何故??
旅の面白発見、ムムム、これも文化の違いなのか -
ちょっと高級感があったけど
値段はリーズナブル
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■夕食
しばらく休憩し、夕食前の果物を食べて晩飯を食いに雨の中を街に出てゆく。レストランに入ったら、内部は個別に部屋で仕切られているような店だった。「只有一个人可以??。一人でもOK?」と聞いたら「可以、OK」というので入った。
冷麺15元+辛白菜湯10元=計25元(325円)を食べる。高級感のある店だったが値段も全然普通で味も良く満足だった。325円で腹一杯の夕食というのは、昔なら日本と違っての激安感があったが、デフレ真っ只中の今の日本も325円出せば腹一杯食える牛丼店も珍しくない。それを考えれば日本人の努力っていうのは半端ではない。
6時前には部屋に戻り明日に備えた。 -
冷麺も豪華で美味しかった
作るのに時間が掛ったけど -
さあ、明日は傑満洞高地
そして中朝国境を走る
////////////////////////////////
■図們大厦にガッカリ
図們で一番の高級ホテル?図們大厦にガッカリしたのは、バスタオルを替えてくれてなかった。まるで使っていないかのように私が綺麗に置いていたのが失敗だったが、まさかそのまま置きなおしているとは思ってもいなかった。
何か湿っていると思い広げたら、明らかに昨日のバスタオルだった。二枚とも使ったのに二枚とも置きなおしているだけだった。文句を言うのも邪魔臭く、使っていないタオルが一枚あったのでそれを使う。
そこではじめて中国の旅で以前にもそんなことがあったことを思い出した。使ったらそれ相応に分かるように置いておかないと、連泊の場合、そのまま替えずに置き直すことがあるのだろう。疑わしいことは良く有るけど、こっちはすぐにその事を忘れて使ったバスタオルもそれになり整頓して置いてしまう。性分というのは厄介なものだ。
今日終盤には、とにかく尋常ではない足の痛みとだるさ、体全体の何かがおかしくなっていた。明日は9時にこのホテルに延吉から朱さんが迎えに来る。図們を去り傑満洞→開山屯→三合→望閣江→琵岩山・一松亭→龍井へ行く。明日の天気が良いように祈る。
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