2010/04/24 - 2010/08/08
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きっちーさん
注)表紙写真はミケランジェロの手ではありましぇん。念のためー。
手元にローマ写真がないので、中国は鼓浪嶼(コロンス島)・フランスはリヨン、ルーヴル美術館などなど。
それっぽいストック写真を代用いたしておりまする〜。
夏休みのイタリアひとり旅むけて、地道なテーマ学習開催中。
その名も、『ミケランジェロ×プロファイル』!
いろいろ面白い資料がありましたので、そゆの中心に出発までひたすら更新中心の、いままでやったことない手法で旅行記にトライしてみようと思います。
前述したように、写真自体も更新予定♪
出発が完結という、不思議なコトになっちゃいますけど、一緒に楽しんでいただければ幸いです。
そんでは、スタート☆
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ボンジョルノ!
はれてポチからコーギーに昇格(?)しました。
つかオイラ、猫派なんですけど(笑)。
好き勝手呼んでもらうと、犬・馬・宇宙人となんだか呼称に一貫性がなくなってくる今日この頃・・。
まいっか。面白いから。
ただいま、巨匠ミケランジェロをテーマに、夏休みのひとり旅事前学習をしちょります。
とくに力を入れたのは、ダンテの『神曲』!
ミケランジェロ作品に大きな影響を与えたという、超有名詩人の著作です。
「ダンテの影響うんぬん・・」は、いろんな学者さんが指摘していますが、人の請け売りじゃなくて、原典に目を通して作品を眺めたいと思いました。
ミケランジェロが具体的に『神曲』から取捨したのは、なんだったのか?
「持ち込まれたこと」「はずしたこと」みたいな、彼の価値観があらわれる行動の基準が分かれば、気難しいといわれたミケランジェロの内面世界が、垣間見えるかも知れません。
いっちょ、やってみますかっ。 -
はじめに、ミケランジェロのプロフを。
ミケランジェロ・ディ・ロドヴィコ・ブォナルローティ・シモニ(長っ)は、1475年3月6日フィレンツェ共和国カプレーゼで、5人兄弟の次男として生まれます。
カプレーゼ、といわれてもどういうトコかさっぱりですが、ロベルト・ベニーニ『ライフ・イズ・ビューティフル(LIFE IS BEAUTIFUL)』のロケ地!といえば、「ボンジョルノ!お姫さま!」陽気な声や、自転車の車輪が跳ねる、あかるい石畳の広場が目に浮かびます♪
『ミケランジェロ』(集英社・世界美術全集)によると、ブォナルローティ家はフィレンツェ共和派(教皇派)の貴族の家柄、とありますが、これについては後述する資料で否定されているので、「?」マークつきで。
どの資料でも共通するのは、祖父の代までは裕福な家柄であったものの、ミケランジェロの生まれる頃には家門は凋落、父親はしがない地方役人であった、ちゅーコト。
生まれて1ヶ月もしないうちに、家族はフィレンツェへ。
ミケランジェロは、フィレンツェ郊外のセッティニャーノへ里子に出されます。
経緯は不明ですが、5人兄弟のなかで里子に出されたのは、彼だけ。
なんでだったんでしょうねー。
ちなみに、ミケランジェロの里親ファミリーは、石工家業をされていたそう。
実母は、ミケランジェロが6歳の時に他界。
母親の死後、ミケランジェロはフィレンツェの父親のもとへ戻されます。
里親から引き離され、実家に帰ったミケランジェロ。
10歳になるころ、父親は再婚。
父親との確執と、不幸な側面が強調される、実家との関係ですが、ミケランジェロは弟をよく可愛がっており、彼なりの心の拠り所にはなっていたのではないかと〜。
安定した収入を望む父親の希望で、文法学校へ入学し、ラテン語や会計を学んだものの、期待されたほどには身につかず。
13歳でフィレンツェの画家ギルランダイオの工房へ、3年間の見習いへ入ります。
見習い生活を始めた、1年後。
転機が、訪れました―― -
ドラマティックに粉飾された、いきさつは諸説ありますがミケランジェロ、14歳。
メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチに、その才を見いだされ、師匠ギルランダイオのもとからメディチの大邸宅へ引き取られます。
ロレンツォの祖父、コジモ・デ・メディチは、医師や翻訳家という例外をのぞき、フィレンツェ共和国内で労働も居住も禁じられていたユダヤ人を、積極的に招致しました。
この「老コジモ」のやり方を引き継いだロレンツォは、信仰/出自の垣根を越えて、芸術とアカデミックな活動の場として、サン・マルコ庭園に彫刻工房をつくります。
サン・マルコ庭園で、ミケランジェロは彫刻の基礎を学ぶと同時に、メディチ家の古代彫刻のコレクションと、気鋭の学者たちに囲まれた日々を過ごします。
黄金期ともいえるこの時期に、まだミケランジェロのなかに、ダンテの影響は窺えません。
文学者や芸術家だけでなく、才能ある市民や人文主義者に門戸を開いたメディチ家。
ロレンツォによって「プラトン・アカデミア」と呼ばれる知的サークルが開催され、一流の知識人たちが集められました。
ギリシア・ローマの古典研究をもとに、人間性の再興をめざす斬新な思想に触れ、美術の殿堂のようなメディチ大邸宅での生活が少年ミケランジェロに与えた影響は大きく、その後の創作にある決定的な特徴をもたらします。 -
☆それが、男ムキ&マッチョ☆
「なんでーっ?!」と思われるかも知れませんが。
『フィレンツェ的性癖』と例えられるほど、同性愛に開放的な土壌がありました。
フィレンツェでは、同性愛専門に取り締まりをおこなう『夜間風紀役』によって、1432〜1502年までに17000人が告発され、およそ3000人が有罪にされました。
ただし、実刑にされたのは6人に満たず、大半は罰金で済んでしまったそう。
彼の生涯を語る文章によって、「特別な友情」「性への感情」とぼかしたり、ストレートに「同性愛」って書かれているものと、ありますけど。
中坊くらいの男の子がバリ思春期に、同性愛が日常アリの環境にいれば、恋愛の幅は広がりそう。
とにかく、彼の才能の形成段階において、男性の裸体に惹かれる要素が加わります。 -
洋書でミケランジェロ素描集をみましたが、スゴイすよ。
顔なんか、ほとんど描いてないですもん(笑)。
筋肉質な男性の胴体!胴体!胴体!トルソ!胴体!(たまにムキ女性の)胴体ですヨ!
未完成に終わった、《囚われ人》(アカデミア美術館)の4体をみても、胴体から着手している徹底した執着ぶり(汗)。
サン・マルコ庭園時代に、《階段の聖母》《ケンタウロスの闘い》が製作されていますが・・・・う〜ん!!
もうこの頃から、女子がゴツイし、男性の裸体群像テーマが(笑)。
ミッキー16歳ごろ製作の《ケンタウロスの闘い》ですが、元ネタにはふたつの説があります。
ひとつめは、ラピタイ族の婚礼に招かれたケンタウロス族が酒に酔い、花嫁や女たち奪おうとして、大混乱に陥ったようすを描いた、という説。
ふたつめは、ケンタウロスに娘を差し出すように求められた、デクサメノスがやむなく婚礼を挙げようとした時、ヘラクレスが現れケンタウロスを退治した、という、ヤマタノオロチのような説。
どちらもギリシア神話ですが、作品の入り乱れるようなエネルギッシュな情景は、最初の説が近いように思えます。 -
不思議です。
肉体美への興味の方向が、この後どちらかっちゃ、たおやかな《ピエタ》に結晶したのは、どうしてだろ・・?
まあ、『男ムキ&マッチョ』はともかく(笑)。
サン・マルコ庭園でくりひろげられた、当時のキリスト教社会において異端視された世界――ギリシア・ローマ哲学、古典美術や、人文主義、ユダヤ教義といった、タブーをものともしない自由な学問に(ミケランジェロが積極的にコミットしたかは不明ですが)、もたらされた影響は計り知れません。 -
・・っと!
ここで、冒頭に掲げたプロファイルの設問をひとつ立ててみましょう。
ミケランジェロが、「しなかったこと」にご注目☆
〜Q1、なぜ重要と思われる顔の素描が少ないのか?〜
考えてみてください♪ -
ロレンツォの庇護のもと腕を磨いていたミケランジェロですが、メディチ家の栄光には徐々に暗雲がたれこめます。
フィレンツェ社会の腐敗、およびメディチ家独裁体制への批判を声高に叫ぶ、ドミニコ会の修道士サヴォナローラの説教が、フィレンツェ市民の心をつかみ始め、メディチ家の政敵を巻き込んで反勢力を拡大したのです。
そこへ、ロレンツォの体調悪化が拍車をかけます。
1492年、ロレンツォ・デ・メディチ死去。
家督は、長男ピエーロが継承しました。
ロレンツォの死後、ミケランジェロはメディチ大邸宅をあとにして、実家へ戻ります。
輝かしい芸術の庭園に、夕闇が訪れようとしていたこの時期。
父の家でミケランジェロは、大理石で《ヘラクレス》を製作し売却した、と伝えられていますが、残念ながら《ヘラクレス》は後年遺失しています。
この時期、特筆すべきはミケランジェロが、ローマ教皇庁が禁止する人体解剖を、サント・スピリト教会の修道院長の協力のもと、密かに行なっていたこと。 -
サント・スピリト教会の通路から発見された《磔刑像》は、死んで間もない死体を実際に磔の状態で観察し製作された、とも伝えられます。
真偽はどうあれ、このとき得た人体構造知識が彼の彫刻と、のちのシスティーナ礼拝堂の大作へと、つながっていきます。
一方、メディチ家新当主ピエーロには、サヴォナローラを筆頭にフィレンツェ市民からの反発が、日に日に強まります。
1494年、フランス王シャルル8世によるフィレンツェ領内への進軍が、共和国の政情不安に拍車をかけました。
メディチ家の斜陽を目前に、ミケランジェロは突然、緊迫したフィレンツェを旅立ちます。
ヴェネツィアで短期間すごしたあと、ボローニャでメディチ家と協力関係にあった、アルドロヴァンディの邸宅に身を寄せます。
ここでようやく、『神曲』が登場〜っ!!
長かった〜・・。
ボローニャのアルドロヴァンディ邸逗留中、ミケランジェロはよく古典に親しみ、『神曲』を諳んじてみせたそうです。
ここで、プロファイル2番目の設問☆
〜Q2、なぜボローニャで、ダンテの神曲だったのか?〜
ひとまずプロフィールを中断し、ダンテの『神曲』にフォーカスします。 -
ダンテ・アリギエーリ著『神曲』、原題は『La Divina Commedia(神聖なる喜劇)』!
まわりくどくて難解な翻訳本の世界に、ぐぐっと惹き込んでくれる、ギュスターヴ・ドレの挿絵は大好きv
かなめの文章読まんと、ミルトンの『失楽園』やドレ画集は持っとりました。
そんな状態ですから、『神曲』もいわずもがな・・。
お恥ずかしながら原典にはあたらず、『チェーザレ 破壊の創造者』(惣領冬実・講談社)や『ダンテ神曲地獄編』(永井豪・講談社)などのマンガであらすじ理解程度?
「おっし!いい機会だし、ちゃんと読んでみるか」
と、気合で岩波文庫の『神曲』を手にしてみたものの・・。
ありえない!
意味わかんない!
一撃突破の精神主義でぶつかってもムリムリですよ、あのいかつい文体は。
文章が古すぎて、ついていけません(泣)。
しかも、総ページ数の半分は解説〜!
イジメか?
コーギーにどうしろと・・??
早々にあきらめて、別の出版社バージョンをあたります。
お勧めは、河出文庫の『神曲』☆
解説も、最後まとめてくるんじゃなくて、ちゃんと読み進めるなかで、注釈されていてオッケー!
もちろん、文章も河出版なら小説のようにフツーに読めます。
お勧めですよ〜。 -
ではさっそく、前述の河出文庫バージョンで、ミケランジェロとの関わりをみていくことにします。
素人遊びなので、話半分で楽しんでください☆(と、逃げ道を作りつつ・・)
えーと、『神曲』のあらすじは非常にシンプル。
暗い森で目覚め、獣に襲われそうになった、ダンテ(筆者)。
そこへ古代ローマの詩人ウェルギリウス(のユーレイ?)が、窮地の彼を救います。
お助けウェルギリウスの動機は、これまたすでに亡くなっているダンテの初恋の女性、ベアトリーチェの頼みを汲んで、彼を地獄・煉獄・天国へ案内する約束を果たそうとするもの。
ヘタレ風味のダンテが、ウェルギリウスと共に3つの世界を旅する、というのが大筋です。 -
そのミドコロは、なんつっても地獄の描写!
創作家であるミケランジェロじゃなくても、「これは、どんな風景なんだろう?」と、素人ながら空想をふくらませてしまいマス。
まあ想像力というのは、ある意味すごくて、天国よか残酷描写のほうが、ダンテの筆も生き生きと描かれております。
天国篇は、まだ読込中なんすけど、キリスト教徒じゃないとどこがアリガタイのか理解しにくい部分が・・(笑)。
ミケランジェロやドレのほかにも、サンドロ・ボッティチェルリ、サルバドール・ダリといった、名だたる画家が神曲の絵画に挑戦しています。
地獄というモティーフは、画家さんゴコロをくすぐるのかも! -
地獄篇で引き合いに出されるのは、遥か昔の神話や歴史上のキャラクターだけでなく、ダンテが生きた時代に、実在した事件や人々。
現実と非現実の世界が激しく交差します。
寓意を読み解いていく叙事詩、というだけでなく、社会風刺や、大胆な教会批判も織り込んだ作品といえます。
キリストの代理者である教皇ですらも、罪有りとあらば地獄の穴で逆さ焼きにしてしまう、ダンテの表象は、教会権力者に振り回される、ミケランジェロにしてみれば、アンビバレントな思いの共有があったのではないかと思います。
なにより、神曲に描かれるダンテの境遇。
フィレンツェを追われ、地獄を彷徨い歩きながら思索をする詩人に、同じくフィレンツェを離れて異郷に身をおく、自分自身と重ねちゃったんじゃないかなーと。
ミケランジェロは、しかつめらしいイメージですけど、詩作が好きだったらしく(うまい下手はわかんないすけど?)、関連するいろんな本で、ミケランジェロの詩が引用されています。
ポエマーだったんですね(笑)。 -
現代における『詩人』は、実社会と人の内面世界に言葉で橋を架け、問題提起したり、岐路を示したり、癒やしたり、といった役割(?)をしています。
叫ぶ・・かもしれないけど、あまり歌っちゃってるトコは、みたことないです(笑)。
しかし、かつて吟遊詩人といわれた人々は、神の世界を体系化し、実存社会とリンクさせる機能を持っていました。
こんにち、よく知られるギリシア・ローマ神話成立の基礎は、吟遊詩人ホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』といわれます。
ダンテも先達をならい、『神曲』で1300年代における神の世界と現実社会の関係性を解き明かす、現代詩人の神話再構築の試み、という野心があったのかなあ〜と。
確実なのは、神話表現の独占が、詩によって行われる必然は無い、ということ。 -
システィーナ礼拝堂の祭壇画、ミケランジェロの《最後の審判 (Giudizio Universale) 》には、ダンテの『神曲』を読んだ人なら、「おおーっ。あのシーン!登場人物」とわかる表現が随所にあります。
ダンテが叙事詩で、神話と地上の階段をかけたなら、ミケランジェロは絵画によって、天上と地下の世界を出現させました。
《最後の審判》の裸体描写に憤慨し、「ワイセツで異教的!風呂屋か安宿がふさわしい」とケチをつけた儀典長ビアージョ・ダ・チェゼーナの顔を、ミノス王に貼りつけた、ミケランジェロ。
ここで!
自分、ひとつ発見しちゃったんですけどー!!
性器に蛇が喰らいついた、儀典長モデルのミノス王。
その表象に、ダンテの神曲が当てられてるのは、よく指摘されてます。
ところで全体を見ると、蛇は胴体をミノス王自身に巻きつけています。
この、巻きついている、という表現に注目したんです。
なぜなら、『神曲』の第5歌に登場するミノス王は、彼の尾の蛇が巻いた数によって、亡者の罪をはかっているから。
つまり、ミノス王自身を二重に戒める蛇が、そのまま儀典長の罪状なのだと、ミケランジェロが皮肉ったのではないかと、気づいちゃったわけです!
ほかに指摘している本があったら、残念ですが〜(笑)。
「蛇が二重巻きってコトは・・・単純に考えて、地獄の二番目の圏谷(たに)を指してる?一体どんな刑が行われてたんだっけ??」
もいちど、ページを戻ってみると!
神曲で描かれる二番目の圏谷にいたのは、ミノス王でした!!
なんだー。
やられた(笑)。
さて、彫刻家としての時間を削られた彼が、風刺/皮肉よりも、さらに深遠な表現を壁画に隠していた!・・・らしい?
おつぎに、『ミケランジェロの暗号〜システィーナ礼拝堂に隠された禁断のメッセージ〜』(早川書房)と、『解剖学者がみたミケランジェロ』(金沢医科大学出版局)を、読んでいきます☆ -
「システィーナ礼拝堂のミケランジェロ作品は?」ときかれたら、「天井画っ」と速攻答えてしまいそうですが!
正しくは天井画と祭壇画の、ふたつにわかれます。
さあ!どっちにどんな絵が描いてあるか、わっかるかなあ〜(笑)?
って、冗談はさておき。
(正解は、天井画が《天地創造》、祭壇画は《最期の審判》でございやす。どうすか?合ってました?)
いま読んでいる、『ミケランジェロの暗号〜システィーナ礼拝堂に隠された禁断のメッセージ〜』(早川書房)には、《天地創造》と《最期の審判》にまつわる考察がまとめられておりマス!
分厚い本の中身を、ザックリまとめると――
ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の作品に、新プラトン主義やタルムード、ユダヤ人への敬愛を込めたのだっ!
――というもの。
注:タルムードはユダヤ教の『口伝律法』のコト。モーセが神から貰ったとされる、モーセ五書(トーラー)とは別に「口伝で語り継ぐべき律法」として伝えられる文書群 -
反証なしの結論ありきで、ややこじつけっぽく感じる部分は、あるのですが。
前半に丁寧に展開していく、ミケランジェロの半生と、システィーナ礼拝堂に表象される教皇ユリウス2世との確執は、たしかに面白い!
《天地創造》の一場面、教皇ユリウス2世をモデルに描かれている(と思われる)、《預言者ゼカリヤ》に対して、背後にいる子どものひとりが、むかし仕様でファッ●ユーしてたり、ユリウス2世の玉座の上位に、当時教会が敵視していたユダヤ人青年を描いたり。(つまり、教皇が軽蔑するユダヤ人の足下に置かれると)
「はー・・。そーとうキテたんだなあ〜」
ミケランジェロに同情したくなります。
小さな嫌がらせではありますが、ばれたらヤバイです。
危ない橋渡ってまで教皇を侮辱せずにはいられなかった鬱積を考えると・・。
ま。
もともと彫刻家さんで、「絵画は彫刻に劣る」という信念を持っとる人が、画業に長期間縛り付けられるのは、納得できませんよね。
ずっと誤解があって、システィーナ礼拝堂の天井画&祭壇画は、セット構想されてるのかと。
そう思うてました。
ところが、ふたつの製作時期は、
《天地創造》1508年〜1512年(ユリウス2世)
《最期の審判》1536年〜1541年(クレメンス7世→パウルス3世)
バラバラで、依頼人もかわっています。
もっと引かかったのは、彼の年齢。
《天地創造》製作時は、33歳。《最期の審判》では、61歳!
あらためて、驚かされます。
つか、教皇ひどすぎ。
芸術家づかい荒すぎ。 -
苦労人ミッキーに同情しつつ、読み進めるなかで心が躍ったのは、だまし絵!
天井画《天地創造》は、遠近法を駆使して奥域を感じさせ、彫刻のように絵画が立体的に見えるよう、だまし絵の効果を多用しています。
本によると、礼拝堂のどこに立っても、ミケランジェロのだまし絵は、凸凹とおさまりの悪い飛び出し方をしている。
けれど、たった一箇所だけピタリと焦点が合って見える箇所がある、といいます。
そこがどこかは、書籍を読んで頂きたいのですが(笑)。
すっごい!観たいっ。
そこに立ちたい。
ぐっと持ち上がった天井が、あまりに鮮明に頭に浮かんだものですから。
夢にみちゃいました(笑)。 -
ここで、クイズをひとつ。
ミケランジェロは《最期の審判》で、ダンテが地獄送りとしたトコを、天国行きへ描き替えています。
さて、それはなんでしょうか〜?
ヒントは、《最期の審判》の向って右側をよ〜くご覧下さい☆
答え。
同性愛。
《最期の審判》には、同性チューショットが描かれてます。
「教会の壁画で?マジすか?」
と思われるかも知れません。
ごってり人物が描かれているので、まぎれちゃって気づきにくいですが、向かって右手の壁際に木製の十字架があります。
そこから左上に視点をずらしていくと・・。
ゼッタイ見つけられますので、探してみてくだされ。
現代のヴァチカンの、同性愛に対する見解はどうかというと。
ミッキーの時代とくらべて、かならずしも目立った前進があるとはいえません。
人格者として評判の良かった前教皇ヨハネ・パウロ2世ですが、教義上超保守的な立場。
つまり、現代社会を生きる自分からすると、かなりビミョー。
現教皇ベネディクト16世は、前教皇の方針を完全に踏襲しています。
彼は2007年の3月の勧告のなかで、「男女の結婚を基礎とする家族の価値は譲り得ない」とまで、発言しています。
教皇を頂点とするヴァチカンは、婚姻と家庭の尊さを重視する立場から、現場聖職者の声・・・つまり、避妊やコンドームの使用、人工授精や中絶、聖職者の独身制の廃止、女性司祭の登用といった、ごくまっとうな主張に、うしろ向きな姿勢です。
さまざまな価値観が尊重される、多元的な現代生活のなかで、なぜ結婚が「男女間」という特定の価値観でしか認められないのか、自分には分かりません。
社会の制約に悩みながらも、シングルで子育てに励む人たちや、子どもを持たない(または持てない)カップルは否定されるのか?
あるいは極端な話、金銭目当ての結婚も「男女間」なら動機がどうあろうと公認され、同性婚は当人同士の愛情と同意があっても、自然に反する「不純」な関係としてしまうのか?
避妊は男女ともに考えられるべきだし、性被害や望まない妊娠に直面した時、中絶という選択肢は女性の当たり前の権利に思えますが・・。
まあ現代の問題は、私たちの解決すべき事情なんでしょうが。
しかし、ミケランジェロが生きた時代は、完全不可。
ダンテは、地獄篇・第15歌で、師であるブルネット・ラティーノを男色の罪で、火の粉が降りしきる川沿いを、永遠に歩きつづけさせとりマス。 -
どうも興味の方向が、絵&BL系話ばっかになってしもうて・・反省っ(汗)。
ミケランジェロ自身は、『彫刻家』と自己規定しているわけですから、次は本業彫刻家としてのミケランジェロにフォーカスしていこうと思います!
ミケランジェロが24歳で製作した《ピエタ》。
マリアの手に抱かれた、キリストは死んでいなかった?
ミケランジェロ彫刻の仕掛けを深めるために、『解剖学者がみたミケランジェロ』(金沢医科大学出版局)を、紐解いてみました♪
これ、すっごい面白かったです!!
マニアックな方向大好物なので(笑)。
「解剖学から彫像を観察する」っていうシチュエーションが、たまりませんv
さわり部分の紹介になってしまいますが、絶対、読んでほしい本です。
ハマリますよ〜。 -
まず、引き込まれるのは《ピエタ》。
キリストの死体に生存兆候がある、という議論。 -
なんの予備知識も無く、十字架降下後のキリスト――
つまり、死んでいるキリストである、という先入観を持たずに、それが気を失ってるのか、死んでるのかを、パッと見で確実に判断できるか、というと〜。
ちとムリす。
じゃあ、どこをみると分かるのか?
答えは――-- -
答えは、『静脈』!
ミケランジェロの彫刻に、血管が表現されているのは、写真でも確認できます。
けれど、フツーにどれが静脈かなんて、素人にはまったく判別できません(泣)。
オイラの写真じゃ、みかちゃんが可愛くて分かりにくいと思うので、本屋で図録を立ち読みしてもらうとイイと思うんですけど〜。(←よくないじょby本屋さん)
ダラリとさがったキリストの右手の甲から、二の腕にかけて見える血管。
もうひとつ、右足の甲と外果(そとくるぶし)の血管。
これが、静脈です。 -
なぜ、『静脈が見える=生きている』といえるのか?
①皮膚の表面に静脈が浮き出ているのは、心臓へ戻る血量の増加を示しているが、静脈は自力で、心臓へ血液をおくる力を持たない
②静脈は、複数の外的作用で血液を心臓へおくる
③下肢の静脈は、運動による筋の収縮で、静脈壁が圧迫され、この圧迫と弁の存在で血液が逆流せず、心臓へ流れる(筋ポンプ作用)
④呼気によって、抹消静脈から血液が大静脈へ多く流れ込み、心臓へ向かう(呼吸ポンプ作用)
⑤死体では、筋ポンプ・呼吸ポンプ作用、どちらもおき得ない
つまり、キリストが死亡しているのなら、筋収縮や呼吸はない。
ポンプ作用は起こらず、血流増加もナイので、皮膚に静脈が浮き出ない・・。
したがって、マリアの腕の中で目を閉じるキリストに、明らかな生存兆候がある!というわけ。 -
「あ、そうなんだー」
で、済ますなかれ。
ほかにも、美術解説では出てこないような、マニアックなトリビアが満載です。
ヒトの心臓は基本、胸部左側にあるのに、ミケランジェロを含む、キリスト磔刑像表現において、致命傷らしき創痕は右胸部にされている。
すると、キリストの死因は心臓の損傷ではなく、人間の最大臓器である、肝臓への直接刺傷の可能性がある。
他にも、里子体験と実父の暴力が、ミケランジェロの人格形成にどのように影響したか?
21歳ごろの作品、《バッカス》から分かるアル中度・・・などっ。
うにゅ〜っ!
面白いっ!!
通常の美術鑑賞とは一味ちがう、医学的見地から分かりやすく書いてあって、すごく読みやすい。
ホント、面白かったですv -
次の本が読み終わらないので、プロフィールでつなぎまっす(笑)。
サヴォナローラの過激な原理主義が勢いを増すフィレンツェを脱出し、ミッキーはヴェネツィアで短期間すごしたあと、ボローニャのメディチ家ゆかりのお屋敷に身を寄せた――の、続きでござまする。
ボローニャ滞在中にも、ミケランジェロはいくつかの作品を仕上げています。
・聖ペトロニウス
・聖プロクルス
・燭台を持つ天使
これらは、聖ドミニコ墓碑によせて。
また、身を寄せていたアルドロヴァンディ家のために《アポロン》を製作します。
この《アポロン》像は、1996年ニューヨークのフランス大使館で存在が確認されたそうですが、いまだ画像でみる事ができず(泣)。
ともあれ、作品数だけでいうなら、メディチ家で暮らしていたときより多いし〜。
充実していた、ともいえるのかも??
後日、別資料によると《アポロン》像は、(後述する)銀行家ガッリの注文で製作された、と記載されていました。
同じテーマで2体作られたのか、資料によって同じ像の由来がふたつあるのか、現時点では不明です?? -
ボローニャでのミッキーの作品は、正直あんまし上手いとは思えない(笑)。
下手じゃないけど、のちの作品を知ってると「こんなもんじゃないだろー」って感じス。 -
ロレンツォとミケランジェロにまつわる有名なエピソード⇒サン・マルコ庭園で、年老いた牧神ファウヌス像の頭部を模写していたミッキーに、「年のわりに歯がキレイすぎじゃない?」ロレンツォが指摘したところ、翌日には歯欠けに仕上げてきた、という逸話。
いくら天才ミケランジェロとはいえ、そこは19歳のうら若き男子。
同年齢や年下の像ならともかく、お年寄りを重厚に表現するってのは、やっぱ難しかったんじゃないかなーと。
3つの作品写真を眺めながら思いました。
その年齢に至った時に身体化できる部分、重厚感とか深みとかってのに、若いうちに到達できたら、それはそれでスゴイですけどね。 -
キレイなだけじゃない、深層表現の行き場が、重厚になるか、ムダに油っこくなるかは、作家さんの生き方しだいなんでしょうけど〜(笑)。
そんな、初々しいミッキーの精神と、テクと野心、ほんの少し恐れを感じる作品、《ピエタ》です。
少々意外だったのは、「ミケランジェロの時代、芸術家は自分の作品にサインを入れられなかった」という、事実。
え〜?うっそ。
絵描きさんは、よく作品内に自画像を、紛れ込せているじゃなーい。
ひとしきり笑ったあと、
「そーいや、おもっきり自画像はあるけど、ラファエロやレオナルド、ボッティチェルリのサインて・・・見たことがないっ!!」
瞳孔が開きます。
そうだ、見てないぞ。
有名画家のサインって。
どうも、近代絵画や中国および日本書画・絵画のイメージが強いせいで、真贋の見極め方法のひとつみたいに、「作者のサイン」は当たり前のように感じていました。 -
「作者のサイン」というキーワードが、ピエタに関係してくるのですが・・・。
ひとまず、話を戻します。
生活圏である、フィレンツェと離れがたかったのか。
ミケランジェロ、20歳。
ボローニャから、フィレンツェの街へ戻ってきます。
サヴォナローラの躍進はなおも続いており、メディチ家はフィレンツェを追放され、ミッキーのお兄たん、リオナルドも教団入りしています。
華美な装飾を敵視するサヴォナローラ派によって、芸術家たるミケランジェロの活躍する場は、徐々にせばめられていきます。
ここで終わっていたら、彼が歴史の表舞台に立つことがあっても、スケール的にどうだったか、分かりませんが。
ふたたびチャンスが巡ってきます。
フィレンツェの重苦しい空気のなか、ミケランジェロが古代ローマ彫刻を下敷きに大理石でつくった、《眠れるキューピッド》が骨董屋を介して、ローマの大金持ちリアリオ枢機卿の目にとまります。
ローマへの最初の道が、いよいよひらかれる事になります! -
ギリシア・ローマ神話をテーマとした古典彫刻類は、非キリスト教であり、異端と見做されていたものの、そこは、まあ・・スゴイものは、どしたってスゴイちゅーわけで。
キリスト教の総本山たるローマで、しかも教皇自身が、ローマ内外で発掘される「異教的」な古典彫刻を蒐集しておりました。
クリエイターの手仕事にかかれば、権威主義者の建て前も剝がれて、本音が露呈するようで〜(笑)。
ミケランジェロのローマ☆デビュー作も、それを如実に示します。
ローマでリアリオ枢機卿からミケランジェロへ出されたのは、「なにか美しいもの」という漠然としたリクエスト。
ボローニャでの《聖ペトロニウス》《聖プロクルス》《燭台を持つ天使》といった、オーダーが具体的な彫像と異なり、《ヘラクレス》《アポロン》《眠れるキューピッド》といった、ミケランジェロ個人の趣向を、反映できる余地のある依頼であったといえます。
さて!
ミケランジェロは、何をつくったのでしょうか? -
ローマで、ミケランジェロが手がけた作品。
それは、《バッカス(Bacchus)》でした。
ローマ神話のバックスまたはバッコス(バッカスは英語読み)は、ギリシア神話のディオニュソスのこと。
主神ゼウスと王女セメレーの息子で、豊穣とワインの神サマ。
元来その表象は、チョ〜濃ゆいヒゲおやじでしたが(笑)、前5世紀以降、徐々に退廃的な雰囲気の美青年に変化しています。
うるわしい大理石像《バッカス》は、ほどなく枢機卿のもとから、銀行家ヤコボ・ガッリへ売却されます。
引き続き、リアリオ枢機卿の依頼で《聖フランチェスコの聖痕授受》の下絵を、銀行家ガッリに《アポロン》像(紛失)を製作します。
(前述の通り、《アポロン》については異説あり)
この銀行家の友人であった、ビレール・ド・ラグロラ枢機卿が、名作《ピエタ》の注文をミケランジェロに、もたらすことになるのです。 -
フランスから教皇庁に派遣されていた、ビレール・ド・ラグロラ枢機卿がミケランジェロと交わした契約は、けっこー具体的。
・素材は大理石
・死亡直後のキリスト抱く、着衣のマリア像
・等身大であること
・法王印金貨450ドゥカーティ(現代価格1億円弱?!)を、前払いで150ドゥカーティ。4か月ごとに100ドゥカーティを支払う。
・期限は製作着手から1年以内とする -
「1億っ!マジで〜?」
あっけにとられてしまいますが、材料費&制作費はミッキー持ちなので、単純に「手取り1億円!」というわけではありましぇん。
にしても、スゴイだわさ。
このときミケランジェロ、23歳。
1年という短期間で製作された、渾身の作品《ピエタ》の完成を待たず、ビレール・ド・ラグロラ枢機卿は、息を引き取ります。
完成した《ピエタ》を手にしたのは、ボルジェ家(スペイン)出身の教皇アレクサンデル6世でした。 -
《ピエタ》にまつわる有名エピソードは、つぎの通り。
完成した《ピエタ》像がサン・ピエトロ大聖堂に置かれます。
ミッキー、ドッキドキで柱の陰から、ようすを窺うと・・・。
集まった人々は口々に賞賛を声をあげますが、なぜか製作者である、ミケランジェロの名前は出てこない。
それどころか、「クリストフォロ・ソラーリの作だ」「ローマだか、ロンバルディアだかの・・」と、自分の名前どころか、フィレンツェ共和国以外の作り手として、噂されている始末。
頭に血がのぼったミケランジェロは、夜になるのを待って、大聖堂へ忍び込みます。
そして、マリアの胸に襷にかかった飾り帯に『フィレンツェの出、ミケランジェロ・ブォナルローティ製作』と刻みます。
ちなみに、脱字を無理やり押し込んだような部分や、文法表現がおかしな文章になっているそう。
キンチョーしてたんでしょうか。
ミケランジェロの署名した彫刻作品は、確認された中で、これ1点――。 -
前述の通り、当時はいわゆる『芸術家のサイン』は社会通念に反していました。
うぬぼれという罪から守ってやり、身の程をわきまえさせるため、という名目でミッキーが生きた時代/地域では、著名な芸術家であっても、作品に作者の名前を入れる行為はタブーだったのです。
宗教権威者や特権階級は、個人の顔や家紋を、芸術表現に入れていたわけですから、ダブルスタンダードの鼻もちならない臭いがしますけど〜。
いまだったら、作者のサインが入って当たり前。
むしろ入っている方が、『なんでも鑑定団』とか観てると、価値がありそうな気がしちゃいます。
あえて禁を犯してまで、マリアの着衣に名前を彫り込んだのですから、よほど悔しかったんだろうなあ。
サン・ピエトロ大聖堂への侵入も、現場を押さえられれば、命に関わる処分がくだる可能性もありました。
ミケランジェロも命がけです! -
この一件で、ミッキーが処罰を受けた、という記録は見つかっていませんが、《ピエタ》の新たな所有者、教皇アレクサンデル6世から、こってり絞られたであろうことは間違いなく・・・。
以降、彼が作品に銘を入れた作品は(現在段階において)みつかっていません。
ここまでみてくると、ミッキーの代表作は《ピエタ》でイイと思うんですけど、太い客筋を掴んだっつう部分では、出世作は《バッカス》なんじゃなかろーか。
なんて、個人的には思いやシタ。
さて、1億の仕事をやってのけた、若干24歳のミケランジェロ。
キリストの死亡時、少なくとも50代と解釈されてきた、マリアの容貌の若々しさには、賛否があったようですが、それでも《ピエタ》は熱い支持を得て、ミケランジェロに公共性の高い仕事が、矢継ぎばやに舞い込みます。 -
ミケランジェロ26歳。
フィレンツェ共和国政府の招きで、ローマより帰郷します。
6月にピッコロミーニ祭壇のための15体の小像契約を。
そして8月には、フィレンツェ市参事会が大聖堂の壁に設置しようとしていた、ヘラクレスとダヴィデのうち、ダヴィデ像の製作契約をむすびます。
これが名高い、大理石のダヴィデ像!
ところで、ダヴィデ像の制作に使用を予定されることになった大理石、じつは使いまわし!?
高さはあるものの、厚みが無く加工がしにくかったこの大理石には、ほかの作家さんたちがチャレンジを断念した彫りあとが、無数に残っていたそう。
彼は、あえてこの傷だらけの大理石に、挑戦します。
そして――
完成した、約4メートルのダヴィデ像。
その素晴らしさに、設置場所までが変更に!
ミッキー武勇伝(笑)? -
29歳で、ミケランジェロが彫り上げた《ダヴィデ》像です。
ここでも、前作《ピエタ》と同様、ミッキーはある表現上の工夫を行なっています。
さて、それはなんでしょ〜っ?
わかった人は、旧約聖書マニアかジェロ★マニアだな(笑)。
答えは、ダヴィデの年齢!
ミッキーは、ペリシテ人の大将ゴリアテに、立ち向かう寸前の、少年ダヴィデの緊張したようすを、生き生きと表現していますが・・・。
そう!
羊飼いダヴィデは、この大勝負のとき、13歳でごわす。
今でいえば、中学へ入ったばっかの男の子。
多少、老けてたにしても、こげなマッチョはあり得ません。
ピエタはキリストが腕の中にいるので、「マリアが若い!」とよく言われますが、「ダヴィデが老けすぎ!」っていうのは、聞きませんよね♪
さて、そのダヴィデですが、設置をめぐってひと悶着起こります。
かのレオナルド・ダ・ヴィンチも、メンバーとして加わっていた、設置委員会。
委員会の提案で、ダヴィデ像の展示は予定されていた大聖堂(ドゥオーモ)の控え室、もしくはその付近から、シニョリーア広場のランツィの回廊(ロッジャ)への設置に傾きかけていました。
しかし、ミッキーは「とんでもない」と食ってかかります。
結局、ダヴィデは市庁舎入り口前に。
名誉ある場で、公開される決定がなされました。
ミッキーがなぜそれほど、ダヴィデの「場所」にこだわったのか?
なぜならミケランジェロは、ダヴィデを地上から見上げた時の角度を計算に入れ、像の手足と頭部をわざと大きく作って、力強く感じさせる視覚的な効果を狙っていました。
また、当初の設置場所。
ドゥオーモ控え室へ、射し込む光をダヴィデのハート型の深い瞳孔が捉え、遥か彼方を見つめているような印象を放つ、といった工夫ポイントも活かされなくなり、かえって迷惑だったもよう。
ともあれ、ピエタと同様、今までに無いダヴィデの評判は上々。
翌年には、青銅のダヴィデ。
さらに翌年末には、《ドーニ家の聖家族》に着手するなど、切れ間の無いスケジュール! -
でも正直、ミケランジェロがここまで色んな依頼を受けていたって、知りませんでした。
ピッコロミーニ祭壇のための15体の小像なんかは、ミケランジェロ自身が手がけたのは、2体だけ?
あとは「弟子に丸投げ方式」で行なった、やっつけ仕事だったようですが(笑)。
ま、でも、思ったより作品数がある!
だって、フツーに「ミケランジェロの作品は?」と聞かれたら、「システィーナ礼拝堂とォ〜、ピエタ、ダヴィデ?」くらいしか、答えられませんから〜。
なんとなく芸術家ってのは、不遇環境で周囲に変人扱いされながら、「いつか、認められてみせる・・!!」なんてブツブツ言いながら、作品をコツコツ作っているって、イメージです(笑)。
どちらかっちゃ、シューベルトやゴッホの生涯に、近いっつーか。
「え、ナニ?ミッキーは、真面目に仕事してたんだ!」って感じ。
ミケランジェロのプロフは、ひとまず置いて。
ここからは、プロフはプロフでも、プロファイルの方に、再び移りヤス! -
ミケランジェロの人生に、決定的な影響を及ぼしたと思われるキーパーソンズとして、父親やロレンツォ、教皇やダンテなどを紹介しましたが、もうひとり。
サヴォナローラについて、調べてみたいと思います。
彼はミケランジェロだけではなく、レネサンスやフィレンツェ共和国自体の興亡に関わる人物なのですが・・・。
ぜんっぜん!資料が無くて苦労しやシタ〜っ(泣)!!
サヴォナローラに絞って、いくつか出版されている書籍はありましたが、使えそうなのはすべて絶版!
ルネサンスの有名芸術家に関わる、脇役のような記載しか見つからず・・。
ノォ〜ッ!
ようやくヤフオクで、古本を入手しました♪
ミケランジェロがテーマなのに、ややまわり道しましたが、読んで良かった。
サヴォナローラの説教の中身は、あきらかにミケランジェロの作品、とくにシスティーナ礼拝堂の天井画と関係アリ!と、感じます。
では、すこし時間を巻き戻して〜・・。
ジロラモ・サヴォナローラは、ミッキーが生まれる約23年前、1452年9月21日にエミニア・ロマーニャ地方のフェッラーラに生まれます。
レオナルドと、同世代ですね。
サヴォナローラは、若いころから哲学に才能を発揮し、特にプラトンは解説書も記していたそうです。
フェッラーラの大学で、芸術と医学を修め、神学の学士号も修得しました。
「いずれは、祖父のように医者になってほしい」
家族の期待を背負った彼は、しかし22歳で家を飛び出し、1475年4月ボローニャのサン・ドミニコ修道院の門を叩きます。 -
修道士となったサヴォナローラは、修道院で積極的に奉仕に励み、比較的ゆるやかだった規則を厳格に守り、そうではない修道士らを怒鳴りつけたこともあるそうです。
いわゆる、お堅いタイプ。
生真面目な性格が買われたのか、82年春に北イタリアの街レッジョ・エミリアで開催された、ドミニコ会ロンバルディア支部総会に参加します。
この『レッジョの会議』が、サヴォナローラをフィレンツェへ結びつけるきっかけとなります。
会議でおこなわれたサヴォナローラの発表は好評で、フィレンツェのサン・マルコ修道院に読師として迎えられます。
『読師』なんて、耳慣れない役職ですが、ようは修練僧に聖書の購読をする人のコト★
献身的な姿勢で修練僧たちの信望をあつめ、フィレンツェで順調なスタートかに見えたサヴォナローラですが、面白味のない説教は大不評(汗)。
84年にメディチ家のサン・ロレンツォ教会での説教は、四旬節が終わる頃には聴衆は25人をきったそうです。 -
四旬節での手痛い挫折から、サヴォナローラの説教は徐々に、
①教会の堕落と宗教界の浄化
②くだされる天罰の預言
といった、黙示録的な色を帯び始めます。
民心を動揺させるスタイルを危ぶんだ、ロレンツォ・デ・メディチによって役職を解かれ、87年に古巣のボローニャのサン・ドミニコ修道院へ教授として「昇格左遷」されます。
しかし、ロレンツォのプラトン・アカデミアに席を置いていた若き碩学、ピコ・デッラ・ミランドラ伯爵のとりなしによって、サヴォナローラは90年、再びサン・マルコ修道院へ呼び戻されます。 -
フィレンツェへ戻ってきたサヴォナローラは、若きミケランジェロの創作の場、サン・マルコ庭園と目と鼻の先にある、サン・マルコ修道院を拠点に伝道を再開します。
サヴォナローラが説いたのは、修道士らしく華美虚栄の否定であった、といわれます。
欲望は悪で、聖書の教えに立ち返れという、サヴォナローラの声が耳から離れない――
ミケランジェロが晩年にそう語ったと。
いくつかの本に、書かれてありましたが、じゃあ具体的にサヴォナローラは、何をどう言ったんだろう?
ミッキーがそんなインパクトを受けた説教って、どんなだったの??
どーしても知りたくて・・・。
サヴォナローラに関する本を探したのですが、前述の通り、絶版の壁。
やっとこさっとこ見つけましたヨ〜。
意外なことに、いま読んでも納得できるような、中身でありました。
――馬鹿を見るのは貧乏人ばかりです。「災いなるかな」と神は金持ちに向かって言っています。
けれども税金を払う段になると、あなた方も知ってのとおり、金持ちは雀の涙ほどしか出しません。それなのに、文無しのほうは・・・。
50の儲けに100の税金を払う者もいます。税額は誰にも相談せず勝手に決められるのです。後家さんが涙ながらに訴え出れば「行って寝ていろ」と言われますし、貧乏人が抗議をしても、「払え、払え」の一点張りです。こんなふうですから、金はざくざくたまります。一方で貧乏人は数知れず、嫁入り娘に持たせる持参金もないのです。
貧しい人たちよ、あなた方を苦しめる者には、私の話など痛くも痒くもないのです。なぜなら彼らは、わたしにできることは、耐えよと言う事くらいだと知っているからです。
彼らはますます自信をもって、愚行を続けるでしょう。
それでもわたしはあなたがたに言いたい。
じっと辛抱して、神の到来を待ちなさいと。
裕福な人たちには、神が預言者エレミアの口を通しておっしゃった言葉を伝えたい。
「わたしはこの地に破滅を蒔きにやってきた」――
(『サヴォナローラ イタリア・ルネサンスの政治と宗教』より) -
清貧と道徳を重視し、金持ちの強欲を否定するサヴォナローラ説教は、いま聞いても耳触りがよく。
税と金持ちうんぬんのくだりは、「社会福祉税とは名ばかりで、大手企業の減税とセットだった、消費税の隠喩みたいだなあ〜」という印象を受けますが・・(笑)。
ただ、このルネサンスの全盛期に修道士的道徳概念を持ち込むことは、突き詰めれば芸術家であるミケランジェロの表現範囲を、規制しかねない議論だと思います。
いわば時代のセレブであったメディチ家に目をかけられ、切磋琢磨していた芸術家たちは(良し悪しの価値判断は別に)、メディチの権力機構を芸術によって維持/補完する、共犯&共存関係にあったといえます。
おそらく庶民出身で、名が売れたあとも華美を退け、ストイックな生活を貫いたミケランジェロにすれば、ローマの高位聖職者や、メディチ家が所有する眩むようなゴージャスな生活は、憧れであると同時に、違和感を感じる生き方だったかも知れません。
そこには、サヴォナローラの原理主義的な説教を、受け入れる素地があったといえるでしょう。
貴族階級や、美に混在する「贅沢さ」を糾弾するサヴォナローラの視点は、パトロンを基礎として成り立つ当時の芸術家の「立場」そのものに、疑問を呈する論立てです。
権力者の財力をバネに美を追求した、芸術家としてのミッキーにとって、共鳴してしまえば、足元を揺るがしかねない思想でした。
実際、《春 プリマヴェーラ》《ヴィーナス(ウェヌス)の誕生》で有名な、サンドロ・ボッティチェルリを含め高名な芸術家の中にも、サヴォナローラがシニョーリア広場で行なった、贅沢品を火にくべる「虚飾の焼却」で、自らの作品を投げ込んでいます。
ボッティチェルリは、自らの持ち味である、古典が香る楽園のような甘い作風すらも、ガラリと変えてしまいます。
サヴォナローラの巻き起こした宗教改革的熱狂は、ルターの呼び水となり、事実上、フィレンツェ・ルネサンスの幕引きをしました。
しかし、ここで注目したいのは、説教の中身そのものではなく、もうひとつ別の部分なのです。 -
サヴォナローラが説教のなかで、さかんに取り上げる、預言者エレミア、ヨナの大魚、出エジプト記、ノアの箱舟・・・・。
どっかで、見たような聞いたような〜?
そう!
このテーマは、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画に描いた、旧約聖書モティーフそのもの☆
←写真はシスティーナ礼拝堂の、“預言者エレミア”。
エレミアは、紀元前6世紀ユダヤ王国がバビロニアによって危機にさらされていた時代、預言を受けて、くり返しユダヤ王に妥協を進言し、平和交渉の道をさぐった人物。
努力もむなしく、ユダヤ王国はバビロニアと衝突し、滅ぼされてしまいます。
エジプトへ亡命した、エレミアの言葉「主は告げた、わたしはイスラエルの家とユダヤの家とに新しい契約を結ぶ」――。
この『新しい契約』ちゅー部分が、イエス・キリストの出現と福音書を予告している、と解釈されました。 -
ミケランジェロは、同胞の滅びの預言に苦悩するエレミアの姿を描いちょりますが、このスタイルにインスパイアされたのが、19世紀の彫刻家ロダン!だそうな。
←ロダン作《考える人》♪
どうすか、エレミアに似てますか〜??
ちなみに、上野の国立西洋美術館の前庭には、ちっこい『考える人』が乗った、《地獄の門(The Gates of Hell)》がありますが、これはダンテの『神曲』に着想を得た、ロダン作品。
こうなってくると、スゴイのはミッキーじゃなくて、ダンテか(笑)。
ロダンは、ミッキーをライバル視もしくは、リスペクト?! -
中身に触れることなく、ただ史実のプレイヤーとしてサヴォナローラを理解しようとしてたら、気づけないミッキー&ロダン&ダンテのウロボロスでした〜。
うーん。
やっぱ、主人公だけにフォーカスし、周囲の人物を背景化していく、縦の読書だけじゃつまんない。
こう、横にも読んでかないと、面白くないっつーか。
とはいえ、ひっちゃかめっちゃかに散らかす、複数視点で観ていってますので、そーとう脱線気味になってますね。反省(笑)!
戻ります。
サヴォナローラの思想の一端が、ミケランジェロの倫理観に根付いていたのではないか。
そして、創作モティーフそのものにも、サヴォナローラの説教の影響が現れているのでは?
というトコまで、でした。 -
ネットでお手軽に調べると、預言を連発した神がかりの「怪僧」としかイメージできない、サヴォナローラ。
ネットだけに依拠してしまうと、なぜメディチ家の脅威にまでなり、フィレンツェ共和国へ政治関与できたのかが、理解できません。
サヴォナローラの成り上がり背景は、
①フランス王シャルル8世による、ナポリ遠征ルートに、フィレンツェ共和国が乗り、戦場化する恐れがあったこと
②侵攻してきたシャルル8世との交渉役にあたった、ピエーロ・デ・メディチ(亡きロレンツォの長男)が、いちじるしくフィレンツェにとって不利な条件を呑んでしまい、メディチ家による危機管理が失敗したこと
③サヴォナローラとフィレンツェ政府の再交渉によって、ピエーロとシャルル8世とのあいだに結ばれた条件が見直され、不利な条件が緩和された
④長年の支配層、メディチ家追放のあと、フィレンツェが陥っていた慢性的な政情不安を、サヴォナローラが宗教を救いとする、一種の「癒し」を提供したこと
⑤著作出版をフル活用して、フィレンツェ以外でも影響力を強めたサヴォナローラを、フィレンツェ政府がフロントマンとして、利用したこと
以上。
つまり、個人のカリスマと宗教の動員力を利用し、フィレンツェ新政権とサヴォナローラの両者が、共存関係を築いたことが、サヴォナローラ台頭の決定的要因となったように、思えます。 -
サヴォナローラの「預言」とされる文言は、そのまま読むとノストラダムスの詩同様、どうとでも解釈が可能なあいまい表現で〜。
たとえば、
A『見よ、神の剣はすみやかに地上に振り下ろされるであろう』『見よ、わたしは地上に洪水を起こすであろう』
B『山々が大海めがけて踊りかかることだろう』
Aの2節で、フランス軍の遠征を。
Bは、オーストリア皇帝マクシミリアンの艦隊が、海からフィレンツェ侵攻を狙っていたおり、強風によって壊滅的被害をこうむったことを、言い当てたとされます。
どうすかね?
こげなセリフで、どこまで具体的に出来事を予想できますでしょうかーっ。
思っきし、あとづけっぽいですけど〜。
占いやスピリチャルや宇宙人解剖および中国の陰謀関係に(笑)、懐疑的な立場のワタクシには、眉唾でゴザイマス。 -
シャルル8世の侵攻、メディチ家追放、フィレンツェ共和国の瓦解、サヴォナローラの絶頂期と火刑――。
そう、フィレンツェの政治を左右したサヴォナローラですが、最期は文字通り政治闘争に敗れます。
ぶつかった相手は、教皇アレクサンデル6世、かのロドリーゴ・ボルジェです!
ちなみに、ミッキーの《ピエタ》を、死んだビレール・ド・ラグロラ枢機卿に代わって手に入れた教皇ですよー。
キリストの代理人、とされる教皇を頂点にピラミッドに形成されたキリスト教の枠組み。
そのなかで勝負をしかければ、いくら身内贔屓と女性関係で悪名を馳せた教皇といえども、当然ながらサヴォナローラのが分がわるい・・。
サヴォナローラの主張は、ようは「下からの改革」。
親族登用に余念のない教皇アレクサンデル6世を、おおやけの審判へ引きずり出そうと、『公会議』開催を呼び掛けますが、教皇側からのしっぺ返しは、ローマを含む国家連合「聖同盟」の対フランス(フィレンツェが協力関係を結んでいると思われた)をめぐる微妙な情勢のなか、国家間の問題にまで飛び火します。 -
わたしたちは現代視点でみていますから、フィレンツェもローマも(ヴァチカン市国は別として)ひとくくりに同じ『イタリア』。
ですが、当時フィレンツェは完全なる独立国です。
さらに現代感覚からすると、世界宗教の権威たる教皇といえども、一国の「内政」に口を出すのは限界があるように思われます。
ところが、教皇がサヴォナローラを擁護するフィレンツェにつきつけた、「聖務停止」や「破門」は、この時代においては、フィレンツェ共和国の周辺国との関わりを破たんさせ、経済自体を破壊しかねない影響力を持っていました。
教皇が強硬な姿勢(?)にでると、論争が続いていたフィレンツェ政権内部だけでなく、宗派、他国の思惑を含め、都市全体が支持派と反支持派との、綱引きが始まります。
緊張が臨界点に達した時、『火の試練』事件が起こります――。 -
1498年3月25日。
発端は、サンタ・クローチェ教会での説教でした。
フランチェスコ派説教師、フランチェスコ・デ・プリアは、
「サヴォナローラの考えが正しいと言い、(教皇による)破門は無効だという者は、誰でもいいから私と一緒に火のなかをくぐろう」
と、挑発的に呼びかけました。
3日後、サン・マルコ修道院の修道士ドメニコ・ダ・ペーシャが説教のなかで、デ・プリアの挑戦に応じます。
じつは、このふたりには因縁がありまして。
1年前にも、プラート(当時フィレンツェ共和国領土内)において、デ・プリアは同じ内容の挑戦をし、やはり同地にいた修道士ドメニコがこれを受けていますが、このときはデ・プリアが上司にフィレンツェに呼び戻されたため、『火の試練』は立ち消えになっていました。
ふたたび勝負を受けようと修道士ドメニコは、政庁内の公証人の前で挑戦受諾書に署名し、デ・プリアを待ちますが、彼はいつになっても現れません。
使いが送られ、ようやく本人が顔を出しますが、デ・プリアは
「自分の相手はジロラモ(サヴォナローラ)で、ドメニコと火に入る意志は毛頭ない」
と撥ねつけます。
すったもんだの挙句、最終的に『火の試練』に参加するのは、フランチェスコ会からデ・プリアではなく、彼が指名したジュリアーノ・ロンディネッリ。
ドミニコ会は、変わらずドメニコ・ダ・ペーシャが自ら進んで、火の試練へ参加することになりました。
4月6日、政庁から両者の対決にあたり公表されていたラテン語決議文が、一部修正を加えられ確定します。
①ふたり同時におこなう試練から、無傷で生還した者の言い分を正しいものとする
②ドミニコ派の者だけが死んだ場合、修道院長ジロラモ・サヴォナローラは反逆者とみなし、3時間の猶予ののちフィレンツェ共和国を永久追放
③フランチェスコ派の者だけが死んだ場合、フランチェスコ・デ・プリアとロレンツォ・コルシを追放とする
④両派の代表が死んだ場合は、追放されるのはドミニコ会のふたりの修道士だけで、フランチェスコ派のふたりは放免とする
ややドミニコ会側不利の決議文に思えますが、いよいよ決戦の日、4月7日をむかえます。 -
政庁前のシニョリーア広場には、地上から2〜3メートルの高さで、長さ30メートル幅6メートルの脚台が設置されます。
両側に、燃焼加速剤のしみこんだ木材が2列に並ぶと、真ん中を人ひとりが通れるほどの細い道ができ、両端から向かい合いに挑戦者たちが歩き始めると、木材に火が放たれる――と、こんな仕組みになっていたそうです。
つか、真ん中でぶつかったら、避け合いながらすれ違うわけ?
そのあと、どうすんの???
素朴な疑問がわきますが、この「試練」、基本的に死んじゃう前提す!
確実に死んでしまう設定で、「奇跡的な力」によって生還できれば正しくて、言い分が認められるという〜・・。
つか、命は大切にしましょう(汗)。 -
1498年4月7日土曜日。
大観衆がシニョリーア広場をとりまき、300人の歩兵隊が暴動を警戒するなか、聖歌を響かせながらドミニコ会の信者とサヴォナローラ、そして修道士ドメニコが、広場へ進み出ます。
しかし、またもやフランチェスコ会指名の修道士ジュリアーノ・ロンディネッリが、いつまでたっても姿を見せません。
そのうち政庁から、フランチェスコ会からクレームが出ていることが伝えられ・・。
いわく、ドメニコが羽織っている緋色のマントは宜しくない。服もすべて着替えるように。火に入る際、手にしていくという木製の十字架もいけない。十字架のかわりに持ち込もうとした聖体もけしからん。
完全にいちゃもんですが、結局フランチェスコ会側の対戦者は現れません。
やがて、天気が崩れ雨が降り出し、徐々に日も傾き始め、野次馬も含めて「全員帰宅」の命令が、政庁から発せられます。
じつに6時間あまり、大掛かりな舞台を前に、振りまわされた感のある民衆。
そのなかには、以前から嫌がらせをくり返していた、反サヴォナローラ派の愚連隊のような、徒党を組んだ若者たちが含まれており、彼らはこの茶番劇ともつかない「火の試練」を皮切りに、暴徒化します。
広場から帰宅した一部の人々が襲われ、翌8日の夕方には宗教書を読みながら歩いていた若者が、彼らに刺し殺されます。
日曜日の夕べの祈りに、女性や子どもたちが訪れていたサン・マルコ修道院にも、愚連隊がつめかけます。
修道院の扉が破られ、持ち込まれた火縄銃による流血騒ぎまで起こり、もはや収拾のつかない混乱した状況に、政庁でサヴォナローラとドメニコの追放決定がなされます。
8日夜の未明、政府の最後通牒に応じて、サヴォナローラとドメニコが政務官と共に、サン・マルコ修道院から出頭してきます。
サヴォナローラ逮捕。 -
逮捕されたのは、サヴォナローラとふたりの修道士。
そのうちのひとりは、『火の試練』に応じたドメニコ。
ドメニコはあきらかに不利な状況にも、逃げることなく最後までサヴォナローラを支持する立場を、崩さなかったようです。
まあ、『火の試練』自体が死にに行くようなものでしたから、命を懸けちゃうってのは多少狂信的といえるかも知れませんが。(でも、わき役が好きv)
『サヴォナローラ イタリア・ルネサンスの政治と宗教』によると、政府とヴァチカンから送られた審問官フランチェスコ・レモリネスらを含め、サヴォナローラは3回の裁判を受けています。
ですが当時の「裁判」とは、拷問をともなう尋問だったそうで・・。
2度目の「裁判」を受けたあと、サヴォナローラの左腋のしたは切り裂かれ、関節が露出していました。
残された記録で、このような「裁判」で録られた供述書の撤回を、サヴォナローラが幾度も試みていたのが分かります。
自白の強制を容認するような、世俗の倫理に影響力を持つ人物(教皇)の腐敗に対して、剣ではなく言葉によって戦ったサヴォナローラには、ミッキーでなくても、やはり共感できるものを感じます。
処刑ありきの裁判は終了し、教皇から使わされたレモリネス審問官から、サヴォナローラ、ドメニコ、シルヴェストロへ、異端と宗教分立の罪により絞首刑執行後、火刑に処すという判決がくだされます。
1498年5月23日。
3人の修道士はひとりずつ、シニョリーア広場の中央へ設置された、処刑台へ続くタラップを進み、首を吊られます。
そして死亡が確認されると、遺骸は火に焼かれました。
最後に残された遺灰は、信仰の対象となることを危ぶんだ者たちによって、アルノ川へ遺棄されます。
サヴォナローラの死によって、共和国とローマ教皇との間に、政治的決着が図られます。
サヴォナローラを支持した市民に対しては、多数の者を告訴して震えあがらせますが、一部に追放・聖務停止・罰金を科したのみにとどめ、「温情」的措置を講じます。
こうして、急転直下。
たった2ヶ月間で、サヴォナローラは政治の舞台から姿を消し、フィレンツェ共和国は文字通り新体制でスタートをきります。 -
新生フィレンツェ共和国の門出として、発注・製作されたのが、ミケランジェロのダヴィデというわけ☆
あ〜!
やっと戻った。
頑張った、オレ!えらい(笑)!
猫の目のようにめまぐるしく、と言うには、厳しい。
恐るべき過渡期にあった故郷フィレンツェを、ミケランジェロがタイムリーに目撃することはありませんでした。
「ミケランジェロとは直接関係ない」と、切り捨ててしまうのは簡単ですが、ミケランジェロの一生を鳥瞰すると、フィレンツェとローマのあいだを、行ったり来たりしているのが目立ちます。
なので、脱線ではありますが、あえて丁寧にミケランジェロが不在であった時期のフィレンツェを、サヴォナローラと共に見てきました。
おっし!
そしたら、ミッキーに戻るぜよ。←内野聖陽(JIN-仁-)風味でv -
彫刻家でも画家でも、人物表現を仕掛ける人には、『好きなタイプの顔』があると思っています。
大好きなサンドロ・ボッティチェルリなんか、設定は違えども、ほとっんどおんなし顔だし(笑)。
前後の写真は、ルーヴル美術館にあるボッティ作の壁画!
超レトロ(ホントに昔ですが)な雰囲気で、油彩とは違った良さに感激して、撮ってきたものでしゅ!
やつはチョイと極端ですが、ミッキーにもタイプがあるんじゃないかな〜と。
ミケランジェロの作品で、美青年トンマーゾ・ディ・カヴァリエリが、モデルといわれている《勝利》の像。
確かに、カッケー顔です!
小顔で、唇薄くて、目はでかくて、カラダ引き締まってて・・。
童顔でありながら、ムキ&マッチョ☆
なるほど、ガタイふぇちのミッキーが、ハマるの分かるかも。
このタイプ基準で探してみまシタ。
すると、ありましたぜ!おやびん!
えーと、まずは意外かも知れませんが、どちらも女性像☆
・メディチの聖母子(マリア)
・バンディーニのピエタ(マグダラのマリア)
他にも探していこうと思うんですけど・・・時間軸が行ったり来たりになっちゃってますね(泣)。
いきあたりばったりテイストが、加速しているやうな・・。
やばい、やばい。
写真も数に限りがあるし〜。
しまっていこうぜー!
ミケ×プロ、結構タイヘン(汗)。
-
ミッキー☆プロフを整理しつつ・・(笑)。
えー、サヴォナローラ失脚後のフィレンツェ共和国から依頼を請け、「13歳の少年ダヴィデ」を、大胆にアレンジ。
「たくましい青年」像として製作したっつー、とこまででございやシタ!
(つか《ピエタ》の時もそうだけど、ミッキーは完成後もこだわりがあるよ〜) -
1504年、ダヴィデ像設置でひと悶着あった、レオナルド・ダ・ヴィンチと共に、ヴェッキオ宮(政庁舎)内の大会議室を彩る、壁画制作に取り掛かります。
レオナルドもミケランジェロ同様、フィレンツェ共和国とは関わり深い芸術家です☆
トスカーナの大自然で感性を磨いていたレオ様が、本格的に芸術の道に足を踏み入れた地。
なにをかくそう、それがフィレンツェ共和国なのでして〜。
少年レオ様は、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオ工房で、画家修業をスタートしちょります。
ま、そんなわけでー。
お互い愛着もあり、ハートランドでもあるフィレンツェで、ガチ勝負に挑むルネサンスのライバル!
どっちも、ガンバレ!! -
政庁舎大会議室の壁画対決!
ミッキーは→《カスチーナの戦い》
レオ様は→《アンギアーリの戦い》
ダヴィデ像設置場所で、もめた経緯もあり、彫刻至上主義で絵描きを見下す傾向ミッキーと、ルネサンスの万能人であり、天才画家★レオ様の因縁バトルですから、当然衆人の注目は集中します♪
余談ですが、ミッキーは伝えられているほど、画家さんのお仕事を否定していたと、思えないのです。
なぜかといいますと、人間は本当にキライなことは長くは出来ないし、続かない。
彼がシスティーナ礼拝堂に費やした時間(1508年〜12年天井画、1535年〜41年祭壇画)や、大修復(洗浄作業)で確認された手の込んだ制作方法を知ると、どうしても「絵画は彫刻表現に劣る」といった言動を、そのまま信じちゃっていいのか、疑問符がつきます。
また、それちゃいました(汗)。 -
2大巨匠の未完の対決として知られる大壁画は、現在では残されていません。
正確には、ミケランジェロの壁画は失われましたが、レオ様の《アンギアーリの戦い》は、発見の可能性が残されているとか。
現在、上野の『カポディモンテ美術館展』であやし〜い《キリストの復活》を披露している(笑)、ジョルジョ・ヴァザーリ。
彼は、完成を待たず放置されたレオ様の壁画の上に、もう一層の壁を作り、そこに描いたフレスコ画《マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い》に「Cerca Trova(探すなら、見つかるだろう)」という、ほのめかしを残しているのです。
いつか、レオ様の失われた《アンギアーリの戦い》が、壁の裏から出現する日が来るかも?
写真はルーベンスが描いた、《アンギアーリの戦い》(部分)。
ロレンツォ・ツァッキアの版画をもとにした、模写だそう。
一部だけ見ても隙のない、レオ様の《アンギアーリの戦い》に対して、ミケランジェロが描いた《カスチーナの戦い》は、相変わらずというか、やっぱそうなのかというか・・。 -
ずばり!男ムキ&マッチョ☆リターン!
背中の筋肉美?
←ミッキーの習作です。
ご覧の通り、「戦い」つーても戦闘シーンではありません。
カスチーナ村で、武装を解き入浴していた兵士たちが、ピサ軍に不意打ちを喰らう場面、として描かれたもの。
それって《カスチーナの戦い》って、タイトルでいいのか?
《カスチーナの入浴》じゃダメでしょか?? -
←ちょっと見づらいかと思うので、サンガルロの模写で。
ミケランジェロ16歳のころ、ロレンツォ・デ・メディチのもとで手がけた、《ケンタウロスの闘い》同様、ムッキ兄さんズの裸体が入り乱れる、「ミッキーてば、好きだな〜」とツイちゃわずにはいられない作品(笑)。
イヤ、いいんですよ?
何に魅力を感じるかは、人それぞれ。
看護師さん、保母さん、部活マネージャー好きな人も、ライフセーバー、リーマン、バーテンダーが好きな人がいてもv
↑
好みが入ってるよね? -
アルコールはやりませんが、バーテンダーさんが好きです!
↑
もういいから
カスチーナの入浴・・もとい、《カスチーナの戦い》制作の依頼を受けて、半年後。
1505年3月。
教皇ユリウス2世により、ミケランジェロはローマへ呼び出され、5年以内の完成約束で墓廟制作を依頼されます。
その契約には、40体におよぶ等身大の大理石彫刻像の制作が含まれました。
あれ?
サヴォナローラとバトってた、教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジェ)は?!
ローマにおける、猫の目のように変わる権力争いは、フィレンツェ共和国を、凌駕していました。
修道士サヴォナローラを退けた、教皇アレクサンデル6世ですが、1503年8月死亡。
ピウス3世が同年9月22日、教皇に選出されますが、なんと在位26日目の10月18日に死亡!
こうして、新たな教皇としてヴァチカンのトップに君臨したのは、60歳の教皇ユリウス2世。
この「恐怖の教皇」の就任と共に、ミケランジェロの葛藤に満ちた生活が、幕を開けます。 -
大理石彫刻つき墓廟オファーを受けたミッキーは、1503年から手がけていたフィレンツェ大聖堂の《12使徒像》の契約を、破棄。
1506年1月、ローマへおもむき、サン・ピエトロ大聖堂近くに居をかまえます。 -
レオ様とミッキーの壁画対決〜っ!
なんて、もったいないんだ(泣)!
教皇のおかげでガッカリですが、ミケランジェロはよほど嬉しかったのでしょう。
入念に準備した大会議室の壁画を、下絵状態のまま完全放置で、墓廟に使用する大理石の切り出し指導に、さっさとカッラーラへ発ってしまいます。
わかり易い彫刻家、ミッキーに対して、もういっぽう、天才画家レオ様の壁画も、頓挫します。
原因は、レオ様のスタイルと実験精神。
俗に、「潔い彫刻家に対して、油絵画家はねちっこい」などという、気の毒な風評がありますが。
レオ様もどちらかといえば、いつまで〜も筆を置かずに、作品に手を加え続けたいタイプだったようでして・・。 -
当時、もっともポピュラーな壁画装飾手法は、フレスコ画。
ポンペイ展旅行記(http://4travel.jp/traveler/need/album/10449728/)で、少しご紹介しましたが、古代エジプト・ギリシア時代から用いられた、古典手法です。
①濡れた漆喰が乾かないうちに、水彩絵具で描く
②壁面が乾く過程で、顔料(水彩絵具)が壁に染み込み、しっかりと定着する
書くのは簡単ですが、描くのはタイヘン(笑)!
漆喰を塗ってから乾ききるまで、約8時間程度でテキパキ仕上げなくてはいけません。
間に合わなければ、あとから加筆になります。
(加筆部分の耐久性は、いちじるしく落ちます)
実際には、いくら手が早くても限度がありますので、加筆はごく当たり前におこなわれていました。
レオ様は、フレスコ画にまつわる上記の時間制限や耐久性を、なんとか新技術でもって、クリアしたかったんでしょう。
ルネサンス技術革新、です! -
《アンギアーリの戦い》にジニアス☆レオ様は、いまでいう「油絵」――油彩で挑みました。
ところが、大失敗!
表面の絵具が流れ、斬新な試みによって壁画は台無しになります。
イタイ・・これは、イタイ・・。
1498年に完成した《最後の晩餐》でも、「濡れた漆喰が乾くまで」克服にチャレンジしたジニアス。
試行錯誤をみると、結果は出ませんでしたが、6年前のミラノに引き続き「時間をかけて、より良い完成を追求する」という、レオ様のこだわりを感じます。
やっぱ、ジニアス!
ちょっとの失敗は、ご愛嬌だぜ♪ -
古代エジプトから、綿々と受け継がれてきた技術の壁は、なかなかどうして・・。
啓蒙思考回路にどっぷり浸かったコーギーは、どこかで古いものを超えた新しい技術/手法を礼賛し、昔の技術や理屈を軽んじる部分がありますが。
長年つづいてきた技法というのは、それだけの実績があったから、廃れなかったともいえる。
ミケランジェロは、先達のテクを否定するのではなく、究める道を選びました。
時代の先を行こうとしたジニアスと、異なるアプローチで、いわば「畑違い」のフレスコ画に挑んだのです。
え?
フレスコ画?
墓廟の40体の大理石彫刻はーっ?! -
フィレンツェ政庁舎のフレスコ画をバックレ、真骨頂の壮大な大理石彫刻があふれる、教皇墓廟にチェレンジするはずが、ふたたびフレスコ画に取り組む羽目に。
それが、かのシスティーナ礼拝堂《天地創造》!!
完全にミケランジェロ代表作になっている、この超有名な壁画誕生は、墓廟建設計画の張本人、教皇ユリウス2世の心変わりから始まります。
とはいえ、ミッキーの伝記をやりたい訳ではないので、こまい部分はザックリはしょりますが(ほほほ!)。
8ヶ月およぶ大理石切り出しの現場指揮を、精力的にこなしてヴァチカンへ戻ってきたミケランジェロは、愕然とします。
教皇は「待機せよ」の一点張りで、資金面からのストップがかかります。
そうして、墓廟計画はすっかり暗礁に乗り上げてしまいます。
大理石準備に要した多額な経費の支払いを滞らせる教皇に、すっかり腹を立てたミケランジェロ。
ぶち切れてローマを出奔し、フィレンツェへ帰国されてしまいます。
お金が絡んだ人間関係は、冷え込むもの・・・?
ジニアス☆レオ様に一歩も譲らなかったミッキー。
しかし、世界屈指の権力者相手のケンカは、分が悪かった。
残念ながら、教皇の前にひざを折り、しょーもないオーダーを受けて、和解の着地点を探ります。
まあ、コーギー的に横暴な権力者の我が侭には、最後までガンとして突っぱねて頂きたいトコですがー(笑)。
生活かかってっし、社会&芸術家生命かかってますから。
そりゃしゃーないわな〜。
スッキリせんけどな〜。
気を取り直して。
んじゃ、いよいよ行きましょう!
謎に満ちた、ミケランジェロの天井画の世界へ!! -
ご存知の通り、システィーナ礼拝堂の天井画《天地創造》の修復は、1980年6月“エレアザルとマタン”のテスト洗浄を経て、翌81年2月に本格的な作業がスタートしました。
この歴史的な大修復によって、以下の事実が確認されています。
①ミケランジェロは、顔料の特性をよく研究していた
②壁の色をそのまま利用し、彩色をしていない箇所もあった
③ブオン・フレスコをマスターしていた
④カールトンを使っていない、ルネッタが見つかった
⑤謎とされていた、『ミケランジェロの足場』が解明された
⑥“アサ・ヨシャパテ・ヨラム”のルネッタに、ミケランジェロの手形(?!)が残っていた
⑦ミケランジェロ御用達の筆は、豚毛
⑥⑦は、ともかく(笑)。
修復士さん達の地道なお仕事によって、美術史の研究に新たなページが加わったことには、間違いありません。
くわしくは、『修復士とミケランジェロとシスティーナの闇』(青木昭 日本テレビ)のご一読をお勧めしますが~。
またまた、ザックリまとめてみましょう☆ -
そもそも、システィーナ礼拝堂はミッキーに壁画を依頼した、教皇ユリウス2世の伯父さん→教皇シクストゥス4世によって、自らの名を冠し(シクストゥス→システィーナ)、旧約聖書に登場するイスラエル王ソロモンが神命により創建したという、エルサレム神殿をモデルに、建設されました。
教皇シクストゥス4世の死後、システィーナ礼拝堂は周囲の工事などの影響で徐々に地盤が緩み、満天の星空が描かれていた天井に、激しい亀裂が走り始めます。
ミッキーをご指名したユリウス2世の時代に入ると、隣り合ったサン・ピエトロ大聖堂建築工事が追い討ちをかけ、倒壊の危険性さえ出てきていました。
ウルビーノから招致されたドナト・ブラマンテが、基礎補修をおこなったものの、教皇ユリウス2世にとって、伯父の金字塔でもある、システィーナ礼拝堂の内部補修は急務でした。
そこで、フレスコ画!
濡れた状態の漆喰が乾く過程で、顔料を染み込ませる画法。
痛んだ壁の補強にもピッタリ☆←ホントかよ -
左官屋ミッキー☆開業ス!←そんなコト書いてないっショ
修復士さんによると、フレスコ画の顔料は、粒子の細かい薄い色の方が、よろしいそうで。
雨水の浸透から、壁面に浮き出る炭酸塩を、薄い絵具はスルリと通過させ、フレスコ画を長持ちさせるそうです。
逆に濃い色の配合は、絵具の層を厚くし、壁から塩が浮き出ると塩分に押されて、絵具が剥がれてしまう現象が起こるそうです。
ミケランジェロは、粒子の細かい薄い色の顔料を多用することで、炭酸塩によるフレスコ画の損傷を押さえていました。
色が重なる濃い部分は、絵具を濃く混ぜ合わせて色を作るのではなく、薄い2色を重ね塗りして、濃淡をつけています。
①の顔料テクですネ。
そして②、『ブオン・フレスコをマスターしていた』というのが、衝撃をもたらしました。 -
ブオン・フレスコって耳慣れない言葉ですが、フレスコ画には大きく分けて2パターンの、描き方がゴザイマス!
A.漆喰が乾かないうちに完全に描きあげ、乾いたあとの手直しが、まったく無いもの。もしくは、非常に少ないもの。←ブオン・フレスコ
B.乾いた壁面に描くやり方。または、描き終ったブオン・フレスコへの加筆。←セッコ
Aのブオン・フレスコの方が、もちろん難しく、描くスピード、色彩配合の的確さ、描き損じの無い熟練技能が要求されます。
しかし、ですね〜。
ミッキーは、出来ちゃってるらしいんですよー。
ブオン・フレスコ。 -
システィーナ礼拝堂の壁画に取りかかる以前に、ミケランジェロのフレスコ画に関するキャリアが積まれた可能性があるのは、13歳からわずか1年ほど。
フィレンツェ画家ギルランダイオ工房での、見習い期間くらい。
ジニアスとの対決となるはずだった、ヴェッキオ宮大会議室壁画制作も、下絵までしか終わっていませんでした。
システィーナ礼拝堂とりかかる直前に描かれた、《聖家族》はおなじ絵画ではありますが、油彩とテンペラで描かれていますので、フレスコ画の手法とは異なります。 -
基礎教養だけで、あの天井画が描けるのか?!
フィレンツェから、何人かの助っ人を呼んだとされていますが、それだって描いたのがミケランジェロだという事実は、動きません。
このとき、ミッキー33歳!
(やばいっ!同い年!!)
修復士さんらのお仕事によって、面白い発見が続きます。
ミケランジェロが最初に手がけた作品と伝えられる、“ノアの大洪水”。
画面右側では、広範囲にわたってセッコ技法が見られ、左側の丘に避難する人々には一転して、ブオン・フレスコが見事に完成しているそうです。
天才ミッキーも、さすがに最初っからエンジン全開とはいかなかったようで。
とはいえ、窓を囲むルネッタ(半月形画面)では“ウジヤ・ヨタム・アハズ”など、カールトン(下書き)なしで、一発描きしています。
つか、こーいう思い切りの良い部分が、「彫刻家さんらしい」と感じるのは、コーギーだけかなあ。 -
歴史ミステリーがお好きな方には、「ミケランジェロの足場解明!」も、興味がお有りではないでしょうか。
天井画を描く前段階で、作業用の足場をブラマンテが用意したのですが、彼が考案した『つり橋式』の足場は、絵を描く天井に複数の穴をあけるため、ミッキーによって却下。
当たり前だろ(笑)。
リベンジ@ブラマンテの2度目の足場は、使う前に崩れてしまいます。
「まじ殺す気かっ」
と、ミッキーも思ったことでせう〜。
自身で『アーチ橋型』の足場を組みます。
ミケランジェロの手によるスケッチも残る足場ですが、どのように支えられていたのかは、長いあいだ謎のままでした。
しかし、ルネッタ“レハベアム・アビヤ”の修復中に、ミケランジェロの足場を支えた支柱の穴が発見されたのです!
ルネッタの下から30センチあたりまでは、システィーナ礼拝堂から完全な死角になります。
まったく見えないその部分に、ミケランジェロは堂々と穴をあけて、支柱を埋め込んでいたのでした。
ちなみに、天井画修復の足場にも、このミッキーの穴が再利用されたそうですヨ☆ -
修復士さんたちのフレスコ画の洗浄作業には、使われた顔料の分析が欠かせません。
汚れを除去する際に、ミケランジェロの絵具まで引っぺがしたら、貴重な文化遺産の破壊になってしまいます。
剥離しやすいセッコ部分の洗浄は、特に慎重におこなわれます。
ミケランジェロが、ブオン・フレスコを完全マスターしていたのは発見でしたが、あえてセッコで描いたと考えられる部分も見つかりました。
セッコとは、Bの壁が乾いてから描く手法。
絵具が壁にしみ込まないので、定着力が弱いという欠点があります。
ブオン・フレスコを修得していたミッキーが、なぜセッコを選んだのか?
それは、顔料の性質と関係がありました。
“ゾロベル・アビウデ・エリアキム”のルネッタでは、耳あての緑色がセッコで描かれています。
緑色は、壁の石灰を腐食させる性質がある『銅』がベース。
フレスコ画に適しません。
ですから、わざと緑色の部分だけ、壁の表面にセッコの手法で描かれたようなのです。 -
さらに、当時フレスコ画制作に頻繁に使われた、アズライト(岩群青)、マラカイト(岩緑青)といった銅期性の青や緑の顔料が、ミケランジェロのフレスコ画にはみられません。
変質しやすい鉛系顔料の使用も、わずかでした。
時間の経過とともに劣化する、これらの成分が含まれた顔料を排除して、極力、完成当初の色彩を鑑賞できるように、工夫していたのです。
まさに、究極のフレスコ画・・。
ジニアス☆レオナルドが苦戦した顔料の問題に、ミケランジェロは正攻法で挑み、顔料の使い分けと技術の習得で、答えを出していた事になります。
ミッキー、ジニアス越えか?!
やるじゃない。 -
省略しますが、“ダヴィデとゴリアテ”では、ゴリアテの縞模様の袖の白い部分に色を塗らず、漆喰の壁色をそのまま使っていたり、“レハベアム・アビヤ”の女性の左手中指に、ミケランジェロの絵筆の穂先が潜り込んでいたりと、ほかにもエキサイティングなネタが盛りだくさんです☆☆
以上♪
『修復士とミケランジェロとシスティーナの闇』(青木昭 日本テレビ)でした!
いま読んでも大変おもしろく、修復士さん達の心意気みたいなのも伝わってきて、良い本だと思います。
機会がありましたら、ご一読を〜v -
ミッキーはなぜ、システィーナ礼拝堂の天井画モティーフに、《天地創造》を選んだのでしょうか?
依頼人ユリウス2世の原案は、マリアとイエスを中心に12使徒が描かれるっつー構想だったそうです。
けれどミッキーのチョイスは、旧約聖書の預言者たちを中心に、イエスの系譜ともいうべき、数々のエピソードちりばめたドラマティックな世界でした。
サヴォナローラのパワフルな説教や、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の美しい《天国の扉》など、天井画の着想はいろいろ考えられますが、どこかで「人と同じコトはやりたくない」って部分が強かったんじゃないかなーと。
すでに、システィーナ礼拝堂の左右壁面には、ミケランジェロの師匠ギルランダイオ作品を含む、《キリストの生涯》《モーセの生涯》の連作が描かれており、そこに重ねるようにイエスやマリアや12使徒とかって、くどいかなって。
二番煎じをよしとしないのって、ミッキーぽいかもv
-
なんやかやで、専門でないフレスコ画を苦労しながら描き続けた、ミケランジェロ。
そして彼にプレッシャーをかけ続けた、「恐怖の教皇」教皇ユリウス2世。
有名なエピソードがあります。
天井画の制作を始めたばかりの頃、教皇から作品の完成時期を尋ねられたミケランジェロは、「わたしが終わったと言った時です」ぶっきら棒に答えます。
すると教皇ユリウス2世は、
「早く完成させなければ、その足場から突き落としてやるぞ」
そう、やり返しました。
完成後も、教皇のぶっといキャラは健在です。
完成した天井画を観たあと、一点だけ加える必要があるから、ふたたび足場を組むように、と命じます。
絵のなかに、ユリウス2世の出身である、デッラ・ローヴェレ家のシンボル・カラー、紫紺と金色をもっと使えというのです。
紫紺はラピスラズリを、金色は金箔を原料とするもので、画具や画材はミケランジェロの負担でしたから、そういった高価な顔料はそうそう使用できません。
ましてや、漆喰の乾きを利用した描き直しのきかない、フレスコ画・・・。
ミケランジェロが渋い顔で、「完成した以上、色の変更は不可能です」と断ると、教皇はあざけります。
「ならば、この絵はじつに『貧弱なもの』といわねば」
これに対するミケランジェロの答えが、ふるっています。
「そこに描かれている聖人たち・・・皆いずれも、とても貧しかったのです」
ミッキーの、この言葉が好きです。
皮肉にも聞こえますし、事実そうなんでしょうが。
オイラの大好きな、もうひとりのミケランジェロ。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオを、髣髴とさせるセリフです。 -
天井画の中心は、①神の創世②人類の誕生③ノアの半生④預言者とイエスへの系譜、に分けられます。
ミケランジェロは、神を含めこれらの人々から色彩以外、華美な装飾品を取り払っています。
もし、当初の依頼どおり12使徒がここにあったとしても、飾り立てはしなかったでしょう。
イエスは、どんな時代にあって、何をしたのか?
マリアの暮らしと日常は、どこにあったのか?
その弟子たる者の後継者だとか、その代理人だとかを自称する人物に、買い求めた『世界』の本質を問い返す言葉に、ミケランジェロの気概を感じました。
そのさきに続く、バロックの冷厳な闇と光の道も――。
さて!
アニメ『銀魂』ふうにいうと、「オトナの事情で、だいじなトコすべてはしょって、むだなトコだけ拾ったって感じ?」なラストでお送りします!
ビコーズ!!
いつしか、時は流れて~・・・(笑)。
ミケランジェロ晩年の日々が、訪れようとしていました。
↑
早やすぎんだろーっ -
1564年2月18日金曜日。
午後5時ごろに、ローマで88歳という長寿を生き延びて、ミケランジェロは永眠しました。
トンマーゾを含め、4〜5人の助手や友人にかこまれた死の床で、ミケランジェロは自分のノートや下絵、スケッチブックや古写本の償却を言い残します。
(「誰っ、トンマーゾ!いつでてきたの?!」by銀さん)
ミッキーの死因は、極度の疲労、および通風と尿路結石に関連した合併症によるもの、といわれています。
(「おーい。なに聞こえないフリして続けてんですか?」by銀さん)
ミケランジェロの遺体は、ヴァチカンでもなく、パンテオンでもない。
ご近所のサンティ・アポストリ教会へ、「ローマ出身の画家」として埋葬されることとなりました。
ローマ出身の画家?!
これに憤慨したのが、フィレンツェの人々。
すぐさま、募金が集められます。
(「無視?・・もうイイよ、全っ然やる気でねぇよ・・」by銀さん)
その募金とは、腕利きの(?)泥棒を2名雇うためのもの★
ふたりの盗人は、牛車を仕立ててローマへ乗り込み、日没を待って教会に忍び込みます。
まんまと盗み出したミケランジェロの亡骸を、積荷に見せかけ、一目散!!
夜明けには、フィレンツェの街に到着します。
ミケランジェロは、『火の試練』の発端となった、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬され、いまもそこに眠っています。
*トンマーゾ・ディ・カヴァリエーリTommaso di Cavalieri(1505?〜1587年)・・・ローマ屈指の「美貌の貴公子」と謳われた青年。ミケランジェロの彼への入れ込みようはハンパでなく、スケッチや素描、絵画や詩文などを贈っている。
また、ミッキーの彫刻《勝利》像のモデルと伝えられる。
これで、銀さんも大満足♪ -
最期まで、ドラマチックというか。
ふりまわされ傾向にある、ミッキーです。
まあ、ふたつの国(当時)をまたいだ、彼らしいっちゅーか・・。
こんなエピソードも残されています。
雪の降るローマの町。
馬車に乗った枢機卿が、コロッセウムとフォルムへつづく、ぬかるんだ泥道をヨロヨロと行く、年老いた著名な芸術家の姿をみとめます。
枢機卿は御者に命じて、彼の傍らに馬車を停めさせ、芸術家に同乗していくよう勧めます。
「ありがとう。でも、これから学び舎へ行く途中です」
枢機卿は、不思議に思ってたずねます。
「学び舎とは?あなたは、有名なブォナルローティ殿ではありませんか。あなたほどの方に教えられる学び舎など、どこにあるというのですか?」
ミケランジェロは、泥土に埋もれた古代ローマ帝国の廃墟を指さして、答えます。
「あれが・・・その学び舎です」
ミケランジェロは、古代ギリシア・ローマの古典を再評価する『ルネサンス』運動を、生涯背負いきった芸術家だったと思います。
もちろん、ただの懐古趣味や古典回帰ではなく、いまを生きるアーティストとして。
制約と政治の狭間で、ピエタやダヴィデといった、彫刻表現のあたらしい挑戦を、作品のなかで打ちたてています。 -
ミケランジェロ×プロファイルでは、なるべく彼の生きた時代の息吹や、周囲の考え方。
社会的制約のなかで、ミケランジェロがどういった作品を手がけたのかを通じて、やや遠まわしに(笑)彼に近づこうという・・・ちょっとスートーキングっぽいアプローチで迫ってみました。
いかかがでしたでしょうか~。
写真は文字通り、最後の《ピエタ》です。
甥のリオナルド宛に書かれた、ミケランジェロ自筆の最後の手紙(死の約2ヶ月前、1563年12月28日付)には、「片手がきかず」手紙が書けなかったとが述べられています。
しかし、1564年。
急激な発作を起こして倒れた2月14日の、わずか2日前までミッキーは、←この《ロンダニーニのピエタ》を不自由な手を使い、終日、制作を続行していたのです。
儚く吸い込まれる未完成の作品のように、立ち尽くすだけ。
力不足なため、ミケランジェロの内面に迫る“プロファイル”まではいきませんでした。
がっくし・・(涙)。
人ひとりの一生だもの。
一朝一夕には、いかなかった~。
あたりまえスね。
最後に、「もし、いまの時代にミケランジェロが創作をするとしたら?」という、プロファイルをやってみようと思います。
①ギリシア・ローマ古典彫刻ふぇち。躍動感のある神話モティーフ大好き。
②マッチョでちょっぴり童顔、美形男子好き。全裸でたくさんいれば、なおヨシ。
③オーソドックスな表現にひと工夫。従来の表象に思い切ったデフォルメを加え、新しいスタンダードを提案してみる。
④べつに、専門で無いジャンルでも、完璧にマスターしてみせます。プロだもの。
⑤ダンテが好き。聖職者であっても神の前には等しく裁かれ、推し量れない神意が随所にちりばめられた『神曲』は、とくにフェバリットv -
う〜ん。
なんだか、まとまらなかったな(汗)。
でもミッキーに好き勝手につくらせとくと、当時も今も、みんながヨシとするような「キレイはキレイだけど無難で優等生的な創作」じゃなくて、あえて他の人が顧みないワンダーな世界を、周囲をうならせずにはいられない完成度でぶつけてきそう。
てな、ミケ×プロ完成!!!←テキトーすぎない?!
ずさんな部分は目をつぶって頂いて〜☆
まだこの調子で、ズルズル続けるコトもできますが(得意!)、成り行きまかせの夏旅事前学習で、よく知らない芸術家とトコトン付き合うっていうのは、コーギー的にかなり新鮮な取り組みでした。
ホントは、マイケル・サンデルしゃん(きゃv)の『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(早川書房)を使って、当時の教会が採用していたアリストテレスの哲学なんかもご紹介したかったんです〜っ。
タイトルも、『ハーバード白熱教室』のパクリで、『白熱コーギー』にしたんだもん!←TV好き
ぶっちゃけ、もうチョイ彼の人生と道行きしてみたかったのですが・・・・時間切れス!
いずれ、続きをやるかも知れないし♪
そのときは、また白熱コーギーにお付き合い下さい☆
途中でてきた、プロファイル〜Q1、なぜ重要と思われる顔の素描が少ないのか?〜と、〜Q2、なぜボローニャで、ダンテの神曲だったのか?〜については、答えをアップする前に、すでに何人かの方からメールで先読みされちまったので、もうやりません!・・・やる気でねえよ。めんどくせえよ・・・銀さんキャラ(笑)。←どんだけ〜 -
厳密にいうと、旅行記以前?
イベントちっくな、夏休みのイタリアひとり旅むけてのテーマ学習、ミケランジェロ×プロファイルにお付き合い頂きまして、グラツェ ディ クオーレ!!
暑くて暑いけど、楽しい夏をお過ごしください!
オフスプリングの『HAPPY HOUR!』で、ガンガン盛り上がっている、きっちーでした☆
Arrivederci、どうもです!
2010.08.08.
《参考文献》
『チェーザレ 破壊の創造者』(惣領冬実・講談社)
『ダンテ神曲地獄編』(永井豪・講談社)
『ミケランジェロ』(集英社・世界美術全集)
『Michelangelo Life Drawings』(Dover Pubns)
『神曲』(ダンテ・アリギエーリ 平川 祐弘 河出文庫)
『ミケランジェロの暗号〜システィーナ礼拝堂に隠された禁断のメッセージ〜』(Blech・Benjamin Doliner・Roy 飯泉恵美子 早川書房)
『解剖学者がみたミケランジェロ』(篠原治道 金沢医科大学出版局)
『イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ』(池上俊一 講談社学術文庫)
『ダンテ「神曲」の旅 描かれた地獄-煉獄-天国』(町田市立国際版画美術館)
『修復士とミケランジェロとシスティーナの闇』(青木昭 日本テレビ)
『メディチ家 12の至宝をめぐる旅』(宮下孝晴 アスキー新書)
『バチカン――ローマ法王庁は、いま』(郷富佐子 岩波新書)
『サヴォナローラ イタリア・ルネサンスの政治と宗教』(エンツォ・グラッツィ著 秋本典子訳 中央公論社)
『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界 』(フィリップ・シャルリエ著 吉田春美訳 河出書房新社)
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳 早川書房)
読んだ順です☆
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 唐辛子婆さん 2010/08/23 11:48:19
- 脱帽
- きっちーさん
コーギーの名づけ親なのに今頃読んでたりしてごめんね。
こんだけ調べていけば超充実の旅行になるだろうなあと思いつつも
こんだけ読み込むの超大変◎◎
大尊敬でごぢゃりまする。
一番印象に残ったのは
フィレンツェの人々が募金を集めて遺体を盗んだってとこだったりして。
ってか、あまりに多すぎて大きすぎて前のトコ覚えていられないの。
行く前の下調べができるのも若いうちだけぢゃなあ(涙)
イタリア編をゆっくりと楽しみに待っています。
- きっちーさん からの返信 2010/08/23 12:10:28
- 姫、ありがとうございます!!
- ペッパー姫さまv
事前学習いうても、旅行にはまったく役立ちませんでした〜(汗)。
「えーと、えーと・・」
って、ウロウロ同じ場所を行ったり来たり・・。
地図を覚える方が、方向音痴には大事だと実感(笑)。
姫の、おフランス紀行大好きですv
ああいうの目指してがんばりまっす!
-
- 権天使さん 2010/04/24 23:35:33
- え、ナニ、いつ?
- 行きたいなぁ。
行こうかなぁ、私も。。。
フィレンツェは絶対として、あとはどこどこの予定で何日間でしょーか?
- きっちーさん からの返信 2010/04/24 23:45:41
- ムフっv
- 4ヶ月先です(笑)。
夏休みに、行ければと。
仕事に妨害されなければ、行ける!つか行く!
フィレンツェの『また戻ってこれる系イノシシ?』を、なでなでしといたから絶対いつか戻っちこよう思うてたですアル。
(フィレンツェまで、足を伸ばせるかは不明ですが)
それまで、ちょっとやったことない長編企画に挑戦!
ガンバリマス。
その前に母君と、権サマのお膝元近くへ行くかもです〜(笑)。
ひょっとしたら、街なかですれ違うかもですよん♪
- 権天使さん からの返信 2010/04/28 16:03:05
- RE: ムフっv
- 私のお膝元って・・・ どっちの?
右? それとも左?
- きっちーさん からの返信 2010/04/28 16:37:41
- うーん、真ん中・・?
- 早くフィレンツェに行きたい〜・・。
ではなく(笑)。
母君に大宰府だか吉野ヶ里遺跡だかへ、連れて行かれる予定でござる。
お勧めスポットを教えてくださいトラベラーv
- nh155さん からの返信 2010/07/01 09:40:14
- リベンジ
- 日本代表のスカウティングチームにも引けを取らない情報収集&分析力!
これならアウェー(イタリア)でのベスト8進出も期待できますね(ってなんのこっちゃ)
- きっちーさん からの返信 2010/07/01 11:54:07
- ごめんね、岡ちゃん!結果オーライ!「ベスト4」は無理らしいけど?
- 行く先の事前学習をするのも、たまには楽しいですが、どんどん脱線して行ってしまうのが弱点と知りました(笑)。
今は、『ハーメルンの笛吹き男』のお話は、実際にドイツであった130人の子ども失踪事件が元にされている、という本を一生懸命読んどります〜。
↑
イタリアじゃないじゃん
サッカーは、今回の一連の試合をスポーツ好きの同僚に解説してもらいました!
彼によると・・
?試合直前に、作戦を変えたのは無茶
?選手の配置が、やはりおかしかった
?守備を重視する作戦で今回は勝てたけど、世界のレベルでそれをやっても、レベルの高いトコにあたったら消極的な作戦は通用しない
?前に出ていくやり方を、もっと追及した方がいい
と、かなり辛口(汗)。
でも、詳しい人に聞くと分かった気になります〜(笑)。
まあ盛り上がる話は、いいですよねー。
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