1967/02/15 - 1967/02/18
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kojikojiさん
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山形の蔵王温泉のスキーを楽しんだ後は秋田県の横手へ「梵天祭り」を見に行きました。実家の前に住んでいらした家のご主人が横手の出身で、その方の実家に泊めていただきました。初めてみたかまくらは幻想的でした。父が買った蓑と笠に藁靴を履かされて絣の着物を着せられて、大人は喜んでいましたが寒いし知らない人から写真は撮られるし嫌でたまりませんでした。梵天のお祭り会場では父が試しに持たせてもらいましたが全く持てませんでした。初めて父親がかっこ悪く見えました。でも今の自分だったら絶対に持たせてなんていわないと思います。2月16日には「ぼんでんコンクール」をが開催され、翌日の2月17日に五穀豊穣と町内安全、商売繁盛と除災招福を祈願するため旭岡山神社にぼんでんを奉納する祭はかけ声やほら貝の音も勇ましく、大小合わせて数十本のぼんでんが揃う姿は壮観でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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山形県の蔵王温泉から秋田県の横手に向かいます。昭和42年ですから当然蒸気機関車だったと思います。いつも思うのですが出発前の列車に子供を残して、写真を撮る父が嫌いでした。このまま汽車に乗れなくて1人になったらと思うと不安で心が張り裂けそうでした。
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停めていただいた近所の方のご実家の1階は完全に雪で埋まり、出入りは2階の部屋の窓からだったことを覚えています。
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東海林さんという方のお宅には3人のお兄さんがいらして、とてもかわいがってくれたことを覚えています。1階の部屋は全て雨戸が閉められ、廊下も部屋も真っ暗でした。
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夜になってかまくらを見に行きました。生まれて初めて見る鎌倉はとても幻想的でした。深々と冷える夜道の先に明りの灯ったかまくらは幼い子供でも美しく感じました。
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写真には無いのですが当時流行っていたアニメの「おばけのQ太郎」の形をしたかまくらが気に入りました。目のところが光っていたのを覚えています。
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「かまくら」は水神様をまつる横手の小正月行事です。中に子供たちがいて「はいってたんせ(かまくらに入ってください)」「おがんでたんせ(水神様をおがんでください)」といいながら、甘酒やおもちをふるまいます。
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NHKの「新日本紀行」の富田勲のテーマ曲が聞こえてきそうです。
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昭和44年になると自動車の交通量が多くなり、規制を受けた道路はかまくらが作られなくなりました。この頃よりかまくらの数がだんだん少なくなっていきました。
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昭和40年代に日本各地を父と旅したことのほとんどが鮮明に記憶として残り、こう捨て写真も残されているとつくづく良い時代に旅しておいてよかったと思います。
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この旅以降横手を訪れたことはありませんが、こんな風景や観光客の少ない時代は2度と味わえないのではないかと思います。
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翌日の2月16日は「梵天コンクール」の日です。この当時は小さい通りに車が通れないほどかまくらが造られていました。雪の量も現在とは違って多かったと思います。
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鳥居迄設けられたかまくらの前で叔母と留めていただいた東海林さんのお父さんと記念写真。
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町中がお祭りの活気に溢れているのが5歳の子供でも分かりました。
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街の中を梵天が練り歩き、コンクール会場に向かいます。
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梵天の本体は4メートルの竿の先に直径90センチの籠を取り付け、「さがり」とよばれる色鮮やかな布や、直径15センチほどの太い「鉢巻」が結ばれます。また本体の上には豪華な頭飾りが乗せられ、これがの大きな特徴となっています。
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大きな通りの町並みの風景も時代を感じます。もう55年過ぎてしまいましたが、どんな風に変わっているのでしょうか。
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梵天の起源には諸説あるようで、弘化二年(1845年)に横手城主戸村十太夫の催しで全町あげての巻狩が中山で行われ、それには火消しや火防組も参加したそうです。正月16日の夜中から巻狩が始まリ、17日の夜明けには獲物を持って引き上げました。火防組は「まとい」を先頭に装いも勇ましく旭岡山神社に引き上げ、無火災祈願をして解散したといわれています。この「まとい」の名残が今のような大型のぼんでんとして受け継がれているとされています。
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また嘉永の頃(1848年~1853年)に八軒町(現神明町)の人が紙の小型のぼんでんを奉納したのがぼんでんの始まりともいわれていますがはっきりしていないようです。しかし嘉永年間のぼんでんの制札が神社の拝殿に残っているので、この当時ぼんでんの奉納があったことは事実のようです。
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鍛冶町に旭岡山神社の信者たちで作った講中があって、ぼんでんを奉納したそうです。この講中は神社から特別待遇を受け、講中の奉納ぼんでんは神社に置いたままにし、制札だけ神官宅へ持参したようです。鍛治町のぼんでんが来ると他のぼんでんは敬意を表して道をあけて通したそうです。
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どこか小学校の校庭のようなところに集まった記憶があります。そして急に吹雪いてきて気温も下がり、寒かったことも覚えています。
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こんなぼた雪ですが傘をさしている人が少ないのに驚きます。
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この時に蓑を買ってもらい背中に背負っていました。まだこれくらいならよかったのですが、後にもっとエスカレートします。
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旭岡山神社では「梵天は元々祭りにあたって神霊が降臨するための標示物で、依代(よりしろ)としての「ボデ」より出た言葉であり、それ自体神霊の宿れるものであって、大きなご幣形のものを意味するものである。」とされるそうです。
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揃いの半てんを着た若者たちがほら貝を吹きならし、「ジョヤサ、ジョヤサ」のかけ声とともに進む様は迫力がありました。
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「頭飾り」は町章や団体の徴章などを模したものが多かったようですが、干支を表すものも多いようです。昭和42年はひつじ年でした。
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「さがり」と呼ばれる布地は友禅や絹や羽二重などで作ることが多く、麻糸や真綿や稲穂などで作ることもあるそうです。色は白や赤、ピンクや藍など様々で柄物も多かったようです。昔は子どもが丈夫に育つように「さがり」の布地で作った着物を着せる風習があったそうです。
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6歳の子供には頭飾りが珍しくて面白かった記憶があります。
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コンクール会場は小学校の校庭だったような記憶がありますが定かではありません。広場のような場所は風を遮るものも無く、ひたすら寒かったです。
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いろいろな持ち方を披露していた記憶もあります。竿灯のようなアクロバット的なものはありませんでしたが、番号の札が貼ってあるのでその出来栄えを競っていたのだと思います。
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こちらも頭飾りは干支の羊が乗っています。ほら貝の音が聞こえてきそうです。
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こちらの「さがり」は着物のような布では無く、麻糸を下げた麻糸梵天と呼ばれるものです。
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梵天を持ち上げたり回転させると躍動感があってとてもきれいでした。
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これもよく覚えているのですが、ミニチュアの梵天が売っていました。
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それを叔母に買ってもらいました。
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自分の梵天が持ててうれしかったことを覚えています。頭飾りにはピンク色の消しゴムのリスが接着してありました。その消しゴムのいい匂いは55年経っても鮮明に覚えています。匂いについて人生で1番古い記憶かもしれません。
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梵天には一緒に移動する木製のそりがありました。背中の蓑といい、東京生まれのシティボーイの面影はありません。
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この当時は現在より寒くて、雪も多かったと思います。着ている洋服を考えるととても寒かったことも記憶に残っています。足元は靴下にゴムの長靴ですから深々と寒さが下から上がってきます。パンツに股引にニットのパンツだけです。上着も綿入りのジャンバーで、手袋はスキー用の皮のグローブです。
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東京から来て蓑を背負った子供は人気の的で、梵天も持たせてもらいました。基本的に梵天は1人で持てなければならない決りがあるそうです。
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当時の国鉄の横手客貨車区のみなさんとその梵天です。
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お城と武将の頭飾りは見事です。この後にこれが発展していくことになるようです。この当時は企業物も多かったようで、田辺製薬のアスパラLの頭飾りも。これはコンクールでは勝てないですね。
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父も梵天を持たせてもらいましたが、1人で持ちこたえることは出来ませんでした。ちょっと父がかっこ悪く見えましたが、初めて持つ素人には無理だと思います。
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父は子供を連れて叔母と3人で旅をしながら、2台のカメラでよく記録を残したと思います。元々新聞記者になりたかったのですが、それが叶わずに共同通信に入社しましたが、経理畑で現場には行けずに終わりました。その分有給などは取りやすかったようで、年中旅行をしていました。
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丸に通はすぐに日本通運の梵天だと分かります。カメラのストラップが写ってしまうところが素人カメラマンですね。
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大きな建物の中で観ている方がいいですね。しかし父も6歳の子供を連れまわして写真を撮っているのですから迷子になったらどうするつもりだったのでしょう。
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コンクール会場に梵天がそろい踏みです。
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末広町青年会なんて文字も読み取れます。
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数日泊めていただいた東海林さんご家族と記念写真。寒かったなー。
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ほんの数日ですが可愛がっていただきました。
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2月17日は旭岡山神社梵天奉納祭です。
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そろいの半てんを着た若者たちがほら貝を吹きならし、「ジョヤサ、ジョヤサ」のかけ声とともに進む様は素晴らしかったです。
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秋田荷方節の唄に合わせて「ジョヤサ、ジョヤサ」と男衆がかけ声をかけ、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしながら4キロ先の旭岡山神社まで練り歩きます。
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横手川を渡る場面では一番きれいに梵天が見えるのではないでしょうか。
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日野自動車のマークや電車の踏切や松と鶴なんて頭飾りが見えます。
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橋の上はすごい人出です。欄干も低いのでよく事故が起きないものだと思います。
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梵天と共に人々も旭岡山神社に向かいます。
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この時代は手作り感が満載です。
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川の上を風が通りぬけると「下がり」がたなびいてきれいです。
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この辺りの写真の順番があっているのか不明ですが、旭岡山神社へ向かう道中のようです。東海林さんの知り合いのお宅の2階の窓から写真を撮っているのだと記憶しています。
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すごい迫力の写真が残っています。
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狭い通りを通過するので「さがり」は下で結ばれています。その分祭りに参加する人の熱気が伝わってきます。
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現在の梵天祭りも観てみたい気もしますが、この頃の記憶のままでいる方が良いのではないかという気もしてしまいます。
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この光景もよく覚えています。
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揃いの半纏には「横手アサヒ」の文字が読み取れます。旭岡山神社の入り口の山門が第1の難関だそうで、先に到着した団体が通すまいと梵天を押し返してきます。
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押し合いへし合いが何度か続いた末「ジョヤサ、ジョヤサ」の掛け声と共に、梵天が山門をくぐり抜けます。最後の難関は旭岡山神社へと続く急な坂で、全員でスクラムを組むようにして後ろにひっくり返りそうになる両手がふさがる梵天の持ち手を後ろで支えて上がっていきます。
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旭岡山神社に着くと梵天の「頭飾り」を外し、「さがり」をまとめて奉納の準備をします。
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ここもすごい数の参加者の人であふれ返っています。また雪が強くなってきました。
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周囲には見学者の姿も見えますが、酔狂なカメラマンの姿は少なそうです。
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ここの神社の風景はまったく記憶にないので、さすがに6歳の子供をここへは連れて行かなかったのかもしれません。
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神社への奉納の瞬間です。
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北海道の雪まつりには行ったことがありませんでしたが、横手にもこんな雪像があったようです。なぜ聖徳太子だったのか…。
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横手の魚屋さんの店先です。魚屋さんといっても雪の上にトロ箱(トロール漁で収穫した魚を入れる箱の略)を並べただけのようですが、魚が傷まなくてよいですね。この当時の写真をよく見ると男性の多くが耳あての付いた黒い帽子を被っていました。
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父と叔母と3人で入った郷土料理の店で藁沓と絣のモンペとお揃いの帽子を借りて記念写真です。この後はこの衣装でしばらく町歩きをしたので、お祭りに来ていた人に写真を撮られまくりでした。蓑は買ったものだったのでこの後10年くらいは家の玄関の階段の脇に飾ってありました。
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この旅行記へのコメント (4)
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- くまのみホヌ子さん 2010/03/13 11:34:29
- はじめまして!
- はじめまして! くまのみホヌ子といいます。
故郷の横手の旅行記はないかと、検索してkojikojiさんに辿りつきました。
1965年の梵天祭りがとても懐かしいです。
当時の町並みが写っていて、涙が出るほど感動しました。
写真の『チャームショップ福久屋』の周辺。
現在は都市計画の一環で市役所がその近くに移転したこともあって、一番変わってしまった町だと思います。
私は数年に一度しか里帰りしないので、町が変わってしまうと迷子になりそうです。
勇の文字の梵天に見覚えがあります。
当時の私は就学前だから、見ていて記憶に残っているのではなく、
もしかしたら、父が撮ったアルバムの一枚だったのかもしれません。
確かに幼い頃、冬は2階から出入りしていた記憶があります。
それがおもしろかったんですけどね。
まさか4トラで、幼い頃の記憶がよみがえるとは思っていませんでした。
何度でも読み返してみたい旅行記です。
※そういえば、梵天祭りは12月ではなく2月ですね。差し出がましいけど、ごめんなさい・・・
他の旅行記もちょくちょく拝見させていただきます。
雪国生まれで南の島大好き くまのみホヌ子
- kojikojiさん からの返信 2010/03/14 01:20:36
- RE: はじめまして!
- くまのみホヌ子様
古い旅行記を見ていただいてありがとうございます。
私も就学前なので写真を撮っているのは現在80歳を過ぎた父です。
父はサラリーマンでしたが毎月のようにどこかに出掛ける程の旅行好きでした。そして写真好きだったこともあって膨大な量の写真のフィルムや8ミリのフィルムが残っています。以前は缶にしまったままになっていたフィルムですが、昨今のPC環境のお陰でスキャンして蘇らせることが出来ました。仕事の合間にスキャンしているので時間がかかるのですが、テレビ画面にデータを送って見せると両親が喜ぶので頑張っています。そんな事をしている時に4トラの旅行記を知りました。最初は自分で撮り貯めていた旅行の写真をアップしていましたが昔の写真も面白いかなと思いました。NHKの新日本紀行ではありませんが昭和の時代の旅行やその土地の空気が残っているように思います。家族の記録ではありますがこうやってお便りをいただくととても嬉しく思います。明日父に報告したいと思います。ありがとうございました。
- くまのみホヌ子さん からの返信 2010/03/17 21:11:38
- RE: はじめまして!→また見てしまいました。
- お返事ありがとうございます。
何回見ても、懐かしさがこみ上げてきて飽きませんね。
私は、故郷の秋田から離れて他の県にいますが、私と同じ様に故郷を離れて他県で暮らしている兄にも、この旅行記のことを紹介しました。
兄にも何年も会っていないので、おかげさまで兄との会話のネタができたことを嬉しく思います。
ありがとうございました。
- kojikojiさん からの返信 2021/01/19 02:50:55
- 10年前に梵天祭りのお便りいただきました。
- 実家の整理をしていたところ父の古いスライドやフィルムがまた出てきました。その中に横手の梵天祭りの物も多くあったので旅行記を整理してみました。以前お便りいただいていたことを思い出しましたので連絡させていただきました。お時間がありましたらまたお立ち寄りください。
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旅行記グループ 昭和42年 山形蔵王と横手の梵天祭り
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