2011/08/11 - 2011/08/19
693位(同エリア1216件中)
ライオンベラーさん
- ライオンベラーさんTOP
- 旅行記230冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 277,262アクセス
- フォロワー1人
※ 9 (http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10642590/) の続きです。
リンカーン記念堂を訪れた後、ポトマック川を渡ってバージニア州に向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
記念堂の中には、このようなリンカーン大統領の像がありました。
リンカーンは言うまでもなく、有名なかつてのアメリカの大統領です。
今、そんな有名な人の記念館を訪れているということで、大いに感動しながら、これらの写真を撮りました。
そしてここには、十分、そのような厳(おごそ)かな雰囲気がありました。
それはまるで、教会の十字架やキリスト像とかにも通づるような崇高(すうこう)なものでした。
きっとそのような雰囲気は、この建物や像をデザインした人とか、今、ここを訪れている人たちの様子とか、そういったものから醸(かも)し出されているのでしょう。
このリンカーンは言うまでもなく、かつてのアメリカの奴隷(どれい)制度を廃止した人です。
それによって、少なくともこのアメリカの国内では、法制上は、アフリカから強制的に連れてこられた人たちの自由が保障されました。
奴隷制度のようなものはアメリカだけではなくて、世界各地で局在的に存在してきたと思われます。 -
しかし当時のアメリカほど大規模に、広範囲に行われていたことはなかったでしょう。
そのため、ここでリンカーンたちが成し遂(と)げたことは、その後の世界の人々の心に大きな影響を及ぼしてきたと思われます。
奴隷制度に限らず、支配者と被支配者が固定された場合、支配者がそれなりに苦労していて、被支配者が幸福に暮らしているような場合は、それほど深刻な問題は生じないかも知れません。
そのような支配者は、逆に望まれて、敬愛の対象とされることもあるかも知れません。
しかし、支配者がその権限を振りかざしたり、被支配者が感情的に支配者を憎むようになった場合は、それによってさまざまな問題が引き起こされてくると思われます。
そのため、やはり支配者、被支配者が固定されるような社会は、公正で健全な社会だとはいえないでしょう。 -
アメリカの南北戦争は、奴隷制度をめぐって戦っていました。
しかし残念ながら私は、世界の歴史についてはあまり詳しくありません。
そのためリンカーンはこの南北戦争の時代の人であるということぐらいはわかるのですが、その南北戦争が具体的にはどのように展開していったのかというようなことはまったくわかりません。
昔の西部劇とか、映画”風と共に去りぬ(Gone with the wind)”で出て来るシーンなどから、少しはイメージのようなものはあるのですが、ただそれだけでしかありません。
そこで今、あらためて南北戦争について調べてみました。 -
この戦争は1861年〜1865年に起こりました。
日本にペリーの黒船が現れたのが1853年で、明治新政府が発足したのが1868年ですから、アメリカの南北戦争は、ちょうど日本の幕末の混乱期と一致しています。
この戦争による死者数は、南北両軍合わせて62万人で、第二次世界大戦のアメリカ人の死者数32万人の倍近くになります。
第一次世界大戦では11万人、ベトナム戦争では6万人、朝鮮戦争では5万人、独立戦争では1万人で、その他メキシコ(2千人)やスペイン(300人)、イラク(5千人)などとも戦っていますが、南北戦争での死者数は、すべての対外戦争の死者数よりも多いそうです。
南北戦争は、実際には工業を主産業とする北部と、農業を主産業とする南部の国々の利害の対立によって起こった戦争です。
しかし北部諸州が国の品位を損(そこ)なうような奴隷制度は、撤廃しなければならないと主張していたのに対して、南部の諸州は、地域の産業を守るためにはやむを得ないといって、その維持を主張していました。
そのため、もしアメリカの建国の理念である、人間は生まれながらにして平等であるという見地に立てば、南部の主張はそれと矛盾(むじゅん)してしまうことになります。
そこで、南部はそのような理念を持つアメリカ合衆国から独立して、新たにアメリカ連合国をつくろうとしました。 -
南部の主張は、人間が平等であるのは白人の範囲に限られ、黒人とか他の有色人種は別であるという、かなり無理なものになってしまいました。
そのため今日では、その主張は、ごく一部の白人社会では受け入れられることがあっても、黒人や黄色人種などの様々な人種を含む国際社会では、とうてい受け入れられるようなものではありません。
だから日本などの有色人種が大半を占めるような国ではどうしても、南北戦争は北軍が正義の軍団で、南軍が悪の軍団というようなとらえ方になってしまいます。
少し補足しておけば、南軍の最高司令官のリー将軍は、相応の人格を備えていた人のようで、彼自身は奴隷制度には反対だったようです。
しかし北軍からの再三の申し出を断って、結果的には故郷バージニアにつくすことを選びました。
そして南軍の最高司令官として指揮をとって、南軍に数々の勝利をもたらしました。
そのため今日でも、南部を中心に、各地に彼の銅像が建てられて、彼の崇高(すうこう)な人柄(ひとがら)と、その戦いぶりがたたえられています。 -
南北戦争における北軍の首都は、このワシントンD.C.で、南軍の首都は、ここからわずか150kmほど南下したところにあるリッチモンドでした。
だからこの周辺のバージニア州やメリーランド州、ペンシルバニア州などは激戦地となって、両軍に多くの犠牲者を出しました。
しかし実際の戦いは、それら諸州(東部戦線)にとどまらず、ルイジアナ州やケンタッキー州(西部戦線)など、広範囲に及んでいました。 -
この戦争は1865年に北軍の勝利によって終結しましたが、そのときの武器が日本に輸入され、そのわずか3年後の1868年に日本でも、国を2分するような内乱(戊辰(ぼしん)戦争)が起こりました。
その戦争では明治新政府と奥羽越列藩同盟が戦いましたが、農業を主産業とする奥羽越列藩同盟が、旧体制の維持(いじ)を求めて独立を志向するなど、状況がアメリカの南北戦争ととてもよく似ているのには驚かされます。 -
リンカーン記念堂から東を見ています。
ワシントン記念塔が見えます。
ここからあの記念塔までは1km少しあります。
その先さらに2kmほど向こうには、国会議事堂があります。
こことワシントン記念塔の間には、プールになっていますが、現在修復中のため、水はありません。
このプールの向こうには、第二次世界大戦記念碑(ひ)がありますが、この写真ではよくわかりません。
このプールの左側には、ベトナム戦争戦没者慰霊碑(いれいひ)があり、右側には、朝鮮戦争戦没者慰霊碑があります。
これからその朝鮮戦争慰霊碑の方へ向かいます。
時刻は12時40分です。 -
朝鮮戦争戦没者慰霊碑です。
朝鮮戦争は、1950年に朝鮮半島の主権を巡って、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で起こりました。
アメリカ合衆国は、国連軍の主力として、大韓民国側に派兵して、北朝鮮や中国義勇軍と戦いました。
双方で多くの犠牲者を出しながら、3年後に停戦し、現在に至っています。 -
兵士、ひとりひとりの視線が異なっているのが、この記念碑の特徴だそうです。
兵士は皆、ひとりひとり心をもった人間です。
決して国によって統制された、単なる戦闘アイテム(駒(こま))ではありません。
このモニュメントは「今のこの国の自由は、このような心を持った若者たちの尊(とうと)い犠牲によって、守られてきたということを決して忘れてはいけない」・・・というようなことを表しているそうです。 -
兵士は皆、不安そうな表情をしています。
この朝鮮戦争は、資本主義国家を理想とする西側諸国と、社会主義国家を理想とする東側諸国がぶつかった戦争でした。
資本主義を掲(かか)げる西側は、自由を守るために戦いました。
社会主義を掲げる東側は、格差社会の拡大を防ぐために戦いました。
戦いの舞台は朝鮮半島でした。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、ソビエト連邦や中華人民共和国、その他東ヨーロッパの国々の代理として戦いました。 -
大韓民国は、アメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国、日本などの代理として戦いました。
戦いはこう着して、3年後に停戦しました。
その停戦ライン(北緯38度線)が、現在の北朝鮮と大韓民国との国境です。
この戦争で、中国、北朝鮮、韓国で、多くの犠牲者を出しました。
アメリカ合衆国も3〜4万人の犠牲者を出しています。 -
その後、国家の力で経済をコントロールしようとした東側諸国は、次々と崩壊(ほうかい)し、現在では北朝鮮、中国、ベトナムなどのわずかな国が、そのシステムを維持(いじ)しているのみとなってしまいました。
社会主義国では、官僚が大きな力を持つようになり、高級官僚が世襲(せしゅう)されるようになってしまって、結局新たな格差社会が構築されてしまう心配があります。
資本主義国では、富裕層が富を相続することによって、生まれながらにして貧富の差ができ、それがどんどん拡大していってしまうような問題が生じます。
少なくとも、人生のスタートラインでは格差をつけないというのが、皆がやる気のある健全な社会を作っていく上では、とても大切なことであるような気がします。 -
ポトマック川にかかるアーリントン・メモリアル橋を見ています。
西向きです。
橋の向こうはバージニア州です。
南北戦争開戦のときはこの川を境に向こう側が南軍、こちら側が北軍でした。
北軍(アメリカ合衆国)の首都はこのワシントンD.C.で、南軍の首都は向こうのバージニア州にあるリッチモンドでした。
ここからリッチモンドまでは、わずか150kmほどしか離れていません。 -
橋の下を潜(くぐ)りました。
対岸に見える丘の上には、南軍のリー将軍の記念館があります。
橋の東側(写真の後ろ側)にはリンカーン記念堂があるので、この橋の両側には、南北戦争の両軍の指導者を記念する建物が向かい合っていることになります。(リンカーン記念堂は反対側の国会議事堂の方を向いていますが)
さあ、これからあの橋を渡って、対岸のバージニア州に向かいます。
時刻はちょうど1時です。 -
先ほどのアーリントン・メモリアル橋を渡ったあと、南(写真右)に進んできました。
橋は、この写真の左、約1.5kmのところです。
そして写真の建物が、アメリカ国防総省の建物です。
第二次世界大戦直後の1943年に完成しました。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、その後の大きな戦争はみな、ここで指揮されてきました。
この国防総省の建物は、英語で五角形という意味のペンタゴンと呼ばれています。 -
ここは総床面積が世界最大のオフィスビルで、このビルの中では数万人もの軍人や職員が働いていてるそうです。
ここで、このようなタイミングで、ペンタゴンに遭遇(そうぐう)するとは思ってもみませんでした。
その名を聞いたときは、心の準備が十分にできていなかったので、あまりの突然のことに、大きな衝撃をうけてしまいました。 -
2001年9月11日の午前9時38分、低空を飛来してきた何かが、この建物に激突し、建物の一部を破壊して炎上しました。
激突したのは旅客機で、それは一瞬にして砕(くだけ)け散ってしまったため、その後しばらくはその破片さえ確認できないような状況でした。
俗にいう、9.11同時多発テロです。
ガイドさんが、その日の地元の混乱ぶりを、実体験を交えて詳しく話してくれたので、とても恐ろしい気持ちになりました。 -
実際に飛行機が突っ込んだのは、今見えている面で、その部分は一面、改修されて、写真右端の部分より色が白っぽくなっています。
よく考えてみると、この面に低空から激突したということは、この写真の後ろ側から侵入してきた旅客機が、この道路のすぐ上を横切って、あそこに激突したということになります。
あの面が炎上しているシーンを、全世界の人たちがテレビで見ていました。
それが、いま目にしているこの場所だと思うと、身体が凍(こお)りついてしまいます。 -
この激突によって開いた穴は、旅客機の幅より小さかったので、実際には何か別のものが突入したのではないかという疑問も出ていました。
でもよく考えてみると、主翼は機体に平行についているのではなくて、斜め後ろ向きについているので、機体の先端部分が空けた穴に主翼の前の部分が入り込むときに、内側に折れて折りたたまれたと考えると、胴体部分ほどの穴しか開かなかったということは、十分に説明がつきます。
このあと、食事をするために、ショッピングモールに向かいました。 -
このモールで昼食をとりました。
-
そのときは自由行動でした。
-
残念ながら、何階のどんな店で何を食べたかは、忘れてしまいました。
-
おしゃれなショッピングモールです。
-
2時になろうとしています。
-
帰りもペンタゴンの前を通過しました。
-
アーリントン国立墓地にやって来ました。
ここは戦没者やテロ犠牲者などのアメリカ合衆国のために尽くしたとされる人たちの墓地です。
南北戦争、二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの戦没者たちがここで眠っています。 -
もともとは、ここは南北戦争の南軍の司令官、リー将軍の居住地でしたが、1864年の南北戦争末期に墓地になりました。
-
あの芝生の下あたりに故ケネディ大統領の墓があります。
-
ケネディ夫妻の墓です。
ケネディは1961年に大統領に就任し、2年後の1963年にオープンカーでのパレード中に頭部を狙撃(そげき)され、死亡しました。
ケネディは若い頃、太平洋戦争で魚雷艇(てい)に乗っていて、その魚雷艇が日本の軍艦と衝突して沈没しましたが、近くの島に泳ぎ着いて九死に一生を得ています。
大統領に就任した頃は、東西冷戦(社会主義諸国と資本主義諸国との対立)の真っただ中でした。
当時のベルリンは東ドイツの中にありましたが、その西半分は西ドイツに含まれていました。 -
そこを東ドイツの影響下に置こうとしたソ連に対して、ケネディはまったく譲歩(じょうほ)しませんでした。
ソ連は止(や)む無くベルリン市内に壁を築いて西側への人の流出をくい止めました。
このときの緊張は、核戦争の危機をはらんでいたので、この事件はベルリン危機と呼ばれています。
当時、ベトナムは社会主義の北ベトナムと資本主義の南ベトナムが対立していました。
ケネディはアメリカの南ベトナムへの派兵を増強し、戦争は泥沼化していきました。 -
これは、失策だったとして後に強い批判をあびることになりました。
1962年、社会主義国となったキューバにソ連が核ミサイルの基地を建設し、アメリカ政府内では、直ちにそれを攻撃し、破壊すべきだとする強硬な意見が出ていましたが、ケネディは海上封鎖(ふうさ)によってソ連をキューバに近づけないようにしながら、交渉によって基地の撤去を求め、それを実現させました。
そのときは、米ソ両国で、全面核戦争止む無しという主張も強く、日本をはじめ、世界各地が核兵器による攻撃を受ける危機に直面していました。
この事態はキューバ危機と呼ばれています。 -
この危機を冷静に回避したケネディの政治手腕は、彼のもっとも大きな業績として評価されています。
ケネディは、1960年代中に人間を月に送ると宣言しました。
この宣言によって、アポロ計画が推進され、その8年後に人類が初めて月に到達しました。
ケネディは人種差別撤廃に向けて、積極的な政策をとり続けました。
それによって、キング牧師のワシントン大行進も実現しました。 -
ケネディ夫妻の墓はこの写真の下です。
この上の建物は、南軍のリー将軍が居住していたという家です。 -
リー将軍は30年以上もここに居住していましたが、南北戦争が始まると、北軍につくようにとのリンカーンの申し出を断って南軍につき、この家を出て、南軍(アメリカ連合国)の首都、リッチモンドに移りました。
-
この芝生の上が先ほどのリー将軍の家で、その下がケネディ大統領夫妻の墓です。
そして、この写真の後ろには、ケネディの大統領就任演説の中の、もっとも有名な部分が刻まれた石碑(せきひ)がありました。 -
これがその石碑です。
And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you -- ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.
「だから国民のみなさん、あなたの国があなたのために何ができるかと尋(たず)ねてはいけません。あなたがあなたの国のために何ができるかということを尋ねてください。
世界のみなさん、アメリカがあなたがたのために何をしてくれるのかと尋ねないでください。人間の自由のために、私たちが共に何ができるかということを尋ねてください。」 -
バスに戻りました。
これが私たちが使っているバスです。 -
再びポトマック川を渡って、ワシントンD.C.に戻ります。
時刻は3時を回りました。 -
ワシントンD.C.に帰って来ました。
ワシントン記念塔が見えます。
この記念塔から国会議事堂までのナショナルモールには、国立スミソニアン博物館群があります。
これは1848年にイギリス人の科学者スミソニアンの遺産(いさん)を基金としてつくられたもので、そのうちの十数館がここに集まっています。
スミソニアン・アメリカ美術館、国立アメリカ歴史博物館、国立自然史博物館、国立アフリカ美術館、国立アメリカ・インディアン博物館など、興味深いものがたくさんあります。 -
でも時間の関係で、私たちが訪れるのは、国立航空宇宙博物館ひとつだけです。
これは芸術産業館です。
航空宇宙博物館はこの左(東)300mぐらいのところにあります。 -
到着しました。
どんな展示物があるのでしょうか。
楽しみです。
※ 11 (http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10656014/)に続く。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ライオンベラーさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
42