2010/12/23 - 2010/12/23
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ライオンベラーさん
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先日所用で京都に行ったとき、偶然に『ひと・まち交流館』を訪れました。
ここは古い京都の地図が時代ごとに示してあって、街の変遷(へんせん)がよくわかるようになっていました。
でもそのときは急いでいたので、ゆっくり見ることはできず、そのことがとても心残りでした。
その後はその展示が終了しないだろうかといつも気になっていました。
22日に職場の忘年会があったので、その後、京都に泊まって、翌日にその気になっていた交流館を訪ねることにしました。
2次会には参加せずに、ひとりで電車で京都に向かいましたが、それでも思ったより時間がかかってしまって、とても慌(あわて)ました。
でも、チェックイン終了時刻ぎりぎりに何とか予約していた宿にたどり着くことができました。
翌日『ひと・まち交流館』を訪ねました。
そして、その後は特に具体的な予定はなかったので、とりあえず帰り道の近くにあった京都市学校歴史博物館を訪ねてみました。
そして、そこで偶然にも霊山(りょうぜん)歴史館の『大龍馬展』のチラシを見つけました。
そういえば、龍馬は京都で活躍した人でした。
私自身京都には、学生の頃の1年間と就職が決まった後の半年間の2度も住んでいたことがあります。
だから当然、幕末はここで新撰組やら勤王の志士やらが活躍していたということは知っていました。
でも住んでいるときは、そんなところへはいつでも行けると思って、特に志士たちの所縁(ゆかり)の地を訪ねて回るようなことはしていませんでした。
そしてそのままこの街を離れ、そんなことはすっかり忘れてしまっていました。
今思えば実にもったいないことです。
今回大河ドラマで盛り上がっている今こそ、志士たちの足跡(そくせき)をたどる絶好の機会です。
ということで、早速(さっそく)その歴史館を訪ねてみることにしました。
(高知の旅 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10523773/ の続編です。)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
ひと・まち交流館です。
時刻は11時半です。 -
1階に『京のまちかど』という展示コーナーがありました。
ここは、京の街並みの変遷(へんせん)がパネルで展示してありました。
遷都(せんと)前は、当然、現在の市街地の部分は森や畑などの緑地だったでしょう。
では遷都直後の様子はどうだったのでしょうか? -
当時の市街地の中心は現代よりもだいぶ西の方だったようで、宮殿(きゅうでん)は、今の二条城よりも西で、中心を南北に走る朱雀(すざく)大路は、現在のJR山陰本線が南北に走っている辺り(千本通りの辺り)だったようです。
西の端は天神川通り(国道162号線)で、東の端は寺町通りの辺りでした。
現在の繁華街の河原町通りや祇園なんかは、都の外になってしまいます。 -
私が最初に住んでいたのは右京区で、そこは昔の都の西の端より少し外側だったようです。
この模型の家は板葺(いたぶき)です。
高知で見た龍馬の生家の辺りはすべて、瓦(かわら)葺きでした。
でもこれは単に、展示してある時代が違うからでしょう。
なるほどこの模型を見ると、京都の家は昔から間口が狭くて奥行きが広い家だったということがよくわかります。 -
最初は街は左右対称に作られていましたが、遷都(せんと)後しばらくすると、街の中心は東(左京)の方へ移っていきました。
左京はさらに北部の上京(かみぎょう)と南部の(下京)に分かれ、上京は身分の高い人たちが住み、下京は商業地区として庶民(しょみん)が住むようになっていったようです。
途中、上京も下京も、火災や応仁の乱などの戦(いくさ)で何度も街が焼失して焼け野原になってしまいました。
そして、その度に復興(ふっこう)し、再建されてきました。 -
ひと・まち交流館を出てから、東山まで歩きました。
昔、住んでいたのは右京区でしたが、その頃は自転車で市内を走り回っていたので、東山の辺りもおおよその道は知っています。
でも霊山歴史館は、その存在自体知りませんでした。
まあ、近くまで行って案内を見るか、どこかで訪ねればいいだろうと思って気楽な気持ちで東山に向かいました。
近くまで来ると、途中に案内図や写真のような看板があったので、特に迷うことはありませんでした。
その横の表示を見て驚きました。
なんと、坂本龍馬の墓はここ京都にあったのです。
それまではずっと土佐(高知)のどこかだと思っていました。
もし龍馬が自分の生涯(しょうがい)を振り返るとすれば、故郷の高知よりも、大事を成し遂げたこの京都の方が思い入れが強いということなのでしょう。
ここから写真の右に見えている坂道を登って行きました。 -
坂道を突き当たった右手にこのような建物がありました。
どうやらここがその歴史館のようです。 -
想像していたような近代的な建物ではなくて、このような日本的な建物だったのは意外でした。
とても京都らしいと思いました。
このような街だからこそここは外国の人たちをひきつけ、日本を代表する観光都市であり続けられるのでしょう。 -
坂道の突き当たりはこのような看板がありました。
先ほどの霊山歴史館はこの右にありますが、龍馬の墓へ行くにはさらにこの左の坂道を登って行かなければならないようです。
まだ1時半を回ったところなので、先に墓の方に行ってみて、その後ゆっくりと霊山歴史館で龍馬の足跡(そくせき)をたどってみることにしました。 -
この写真の右にある坂を登って来ました。
ここで拝観料300円を払います。
この上の旗が立っている道を登って行ったところに、龍馬や慎太郎、その他多くの志士たちの墓があります。 -
山道を登ってくると、このような銅像がありました。
龍馬と慎太郎の銅像です。
立っているのが龍馬です。
そして彼らの墓は・・・ -
ここにあります。
-
龍馬と慎太郎の墓です。
-
私は今回、偶然にもここまで導かれてやって来ました。
彼らと何かの縁があるのでしょうか?
おそらく私だけではなくて多くの人々が、何かに導かれるようにして、このようにここにやって来るのでしょう。
彼らが成し遂(と)げたことが大きなことであったというだけではなく、おそらく人間としても、たくさんの人たちをひきつけるような魅力があるのでしょう。 -
この墓を裏から見ると・・・
-
こんな感じです。
-
龍馬や慎太郎は、いつもここからこんな風景を見続けているのでしょうか?
もしこれが映画だと、少しずつこの風景が幕末のものになっていって、その後、勤王の志士や新撰組が活躍しているようなシーンとなって、そこから物語が展開していくでしょう。
私自身も以前、この京都に住んでいたし、昔イギリスに住んでいた頃、新撰組の文庫本をむさぼり読んだりもしていたので、幕末の京都の様子はこれまでも何度か頭の中でイメージしていました。
そしてここからこうしてこの街を見ていると、そんなシーンが、まるで映画のように展開していきます。 -
また、こうしてこの街を見ていると、私がここで過ごした青春時代にもタイムスリップ(時間移動)して、そのころの様子が、次から次へと浮かんできます。
京都は私にとって、若い日の思い出がぎっしりと詰まった、どんな映画よりも素晴らしい、特別な街なのです。
人生の最もいい時期に、この街に住むことができて、本当によかったと思います。 -
この墓の後ろも山が続いていて、そこにもたくさんの志士の墓がありました。
薩摩や長州の志士の他、福岡藩士の平野國臣(くにおみ)の墓などもありました。 -
志士たちの心を想いながら、ひと通り、霊山を周って来ました。
何度か立ち止まっては、襟(えり)を正しながら周りました。
2時になりました。
そろそろここを降りて、先ほどの歴史館へ向かうことにしましょう。 -
偶然に誰もいないこのタイミングで写真を撮りましたが、実際はたくさんの人が次から次へとここを上り下りしていました。
-
霊山歴史館にやってきました。
中に入ると、高知の展示館と同じような大がかりなセットなんかもありました。
残念ながら撮影禁止なので写真はありませんが、特に龍馬が暗殺された部屋などは、ぞっとするようなリアリティ(臨場(りんじょう)感)を感じました。
恥ずかしながら、この龍馬が殺害された近江屋は、実際にはどこにあったのか、はっきりとは知りませんでした。
そしてこの旅行記を書きながら、今、初めてその場所を地図で調べてみました。
すると何とそこは昔、いつもよく歩き回っていたところ(河原町通り)にありました。
それまでは、襲撃されて傷を負った寺田屋と混同していて、近くに川が流れていることから、その川はきっと高瀬川で、今の雰囲気からして、もっと南の五条通りの辺りかと勝手に思い込んでいました。
今、これを書きながら、ついでにその寺田屋の場所も調べてみたら、何とそこも想像していた五条の辺りではなくて、それよりもずっと南の伏見(ふしみ)の辺りでいた。
これも大きな勘(かん)違いでした。
(他の志士が襲われた池田屋の場所(河原町三条辺り)は、知っていました。)
この寺田屋のセットに強い衝撃を受け、龍馬が襲われたシーンが頭に焼き付いてしまいました。 -
霊山歴史館を出て、登って来た坂道を降りていくと、途中に写真のような賑(にぎ)やかな通りがありました。
風情のある土産物屋などが並んでいたので、ここを通ってみることにしました。
先ほど訪れていた霊山歴史館は、この写真の左後方(北東)のずっと上の方で、そこから西向きに(この写真の右後方(北西)に)坂を下りてきて、その途中にこの通りがありました。(写真は南向き)
京都駅は写真右前方(南西)に直線距離で5kmぐらいのところです。 -
こんなところはデートコースとしては最適かも知れません。
私、ベラーはいつも一人で旅をしているようなイメージを持たれているかも知れませんが、特に若いころは人並みにデートなんかもしていました。
その頃は彼女ができるとよく京都に連れて来ていました。
いまざっと数えてみると、少なくとも5、6人はいっしょにこの街を歩いています。
そしてそのどれもが、素晴らしいドラマのような恋愛でした。
また、私だけではなくここに住んでいたいろいろな友だちなんかも皆、まるで現在の韓流(はんりゅう)ドラマのような、素敵な恋愛をしていました。
京都は街全体が映画のセットであって、誰がここを訪れても、彼ら彼女らに素晴らしい青春ドラマや恋愛ドラマのストーリーを与えてくれるような、そんな不思議な街なのです。
そして私は今でもこの街が大好きです! -
先ほどの通りを進んでいくと、右(西)の方に、五重の塔が見えました。
どうしようかと迷いましたが、ここで右折して、塔の方へ行ってみることにしました。 -
塔を見ながら坂を下っています。
なんとなく心が和(なご)むような不思議な風情を感じます。 -
こんな普通の街中に突然こんな塔が現れるなんて驚きです。
こんなものがここにさりげなく建っているということが、ここ京都の魅力なのでしょう。 -
塔の近くにやって来ました。
-
立派な塔です。
-
いい感じです。
-
込み入った造りのようです。
-
立派な塔なのですが・・・
-
この電線は避雷針のものでしょうか?
茶色に塗って十分なシールド(保護カバー)をして、屋根や壁に沿って降ろしてくるなどの工夫をして、美観を保ってほしいと素直に思いました。
あ、舞妓(まいこ)さんです!
「すみません、写真いいですか?」 -
「この辺でお願いします。」
カシャ! -
カシャ!
-
カシャ!
「どうもありがとうございました。」 -
先ほどの塔を振り返りました。
東向きです。
あの塔の裏側からここまで下って来ました。 -
時刻は3時半を回っています。
今日は12月23日なので、一年でもっとも早く日が暮れる時期です。
この後、京都駅まで歩いて、電車で家に帰りました。
(完)
2010年旅行写真セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10558052/
※ 次回の旅は下関と長崎です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10561135/)
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