2006/10/05 - 2006/10/09
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旅人のくまさんさん
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<2006年10月8日(日)>
今日の午前中は、全員揃って富川の映画村と国立中央博物館の見学でした。博物館での自由行動の後、夕方には、食事場所の近くの恵化駅で落ち合うこととしました。富川の映画村の正式名称は、富川ファンタスティック・スタジオです。戦前、戦後のソウル鐘路等の建物、街路が再現されていました。
私は、国立中央博物館で自由行動の後、引続いて博物館見学としました。今日も絶好の天気に恵まれました。(ウィキペディア)
<全員で、富川映画村と国立中央博物館見学>
最初に富川映画村の紹介です。写真編に沢山写真を掲載しておきましたから、ここでは簡単な説明にしておきます。日本語パンフレットも用意されていました。
ソウルからのアクセスは、1号線の仁川行きに乗り、ソンネ駅での下車となります。富川駅から二つ先、富平駅からは二つ手前の駅になります。ここからは市内バスでの移動となります。バスは20分程です。
富川映画村は、1930年代から1970年代のソウル鐘路、清渓川、明洞、乙支路等が約1万2千坪の敷地に再現されています。有名な建物では、和信百貨店、鐘路警察署、優美館、前YMCA等があります。
この映画村では、沢山の映画やテレビドラマが撮影されています。話題作の「野人時代」、「下流人生」、日本での英雄でもある「力道山」、「姉妹の海」、「キム薬局の娘達」等です。これらのポスターや、スチール写真が部屋いっぱいに展示してありました。休憩所を兼ねて、営業しているお店もありました。これらも、ドラマ等で使われた建物です。
映画村の後は、国立中央博物館見学です。私は、昨日に続いての中央博物館見学となりました。昨日の記述で、博物館の概要を説明しておきましたから、今日は展示物について、やや詳しく紹介します。(ウィキペディア)
<韓国の白磁>
インターネット情報等を参照しながら、韓国の白磁、李朝白磁について説明します。私が李朝白磁の素晴らしさを学んだのは、立原正秋の小説が始まりでした。その後、民芸運動の指導者、柳宗悦(むねよし)との関連で知る事となりました。
ある時、柳宗悦を初めとする民芸運動家が立ち寄ったとされる名古屋市南部の会席料理のお店で、浜田庄司や河井寛次郎等の作品群を見せて頂いたことがあります。春先になりますと、サクラの古木が見事な花を咲かせていました。そのライトアップをお手伝いさせていただいたのが、お付き合いの始まりでした。
雨だれを受ける大壷や、灰皿代わりに使われた小物までが、名だたる作家の焼物だったことには、正直吃驚しました。昭和30年代に、合掌造りの家を移築した「白雲閣」と言う屋号でした。そのお店で、民芸運動の同人誌に掲載された白雲閣の写真も見せて頂きました。昭和30年代の本だった記憶です。
本題へ戻って、高麗青磁から転化したと考えられる粉青沙器は、李朝初期の主流をなしました。これらは日本で三島、刷毛目、粉引等と呼ばれ、茶陶として深く親しまれました。鉄分を多く含んだ鼠色の素地に、白土の象嵌及び化粧掛けが特徴とされます。テレビ番組の「何でも鑑定団」でも、時々、これらの茶器の名品が紹介されることがあります。
白磁は高麗白磁を受継いで初期には作られ、中国・明初様式を写した純白のものから、堅手と言われる灰白白磁、金沙里窯を中心に焼かれ厚い釉が施された乳白白磁、そして分院窯における薄い青緑色の白磁へと変遷していきます。
李朝500年を通じて高く評価され続けたその背景には、儒教精神が深く人々の中に生き続け、清浄な白に対する特別な思いがあったのではないかとされます。焼物以外にも、服装にもその流れを感じます。
15世紀中頃から中国の明初の影響を受けて始まった青花白磁は、壬辰、丁酉の乱を経て大きく姿を変え、李朝独自の様式を確立させていきました。銅系の顔料を使い紅色を呈する辰砂は、青花同様、中国の釉裏紅の影響からつくられました。これは、中期から末期にかけてよく作られ、特に末期の分院窯が多いと考えられています。
鉄砂は15世紀より白磁を下地とした白磁鉄砂が生まれたと言われますが、その遺例は極めて少なく、17世紀頃が最も盛んであったとされます。文様は官窯の画員が描いた写実的なものや、陶工による大胆かつ力強い筆致のもの等、変化に富んでいます。
その他、器表全面に青花を施した瑠璃釉や鉄釉を全面に掛けた総鉄絵,辰砂による総辰砂などがみられます。
李朝陶磁は柳宗悦らの民芸運動によりその魅力をわが国に紹介され、数多くの愛好家を生みました。人の温もりを感じさせる李朝陶磁は、手元において眺めたい気持ちが湧きます。殊に、少し歪な作品には、美しさとともに温かみを感じさせます。
昭和55年に亡くなった作家の立原正秋が、生前愛し、その作品を元に小説が生まれた白磁の壷が、没後、写真と共に紹介されました。それは、少し歪な壷だったことが記憶に残っています。
なお、李氏朝鮮時代は、1392年、李成桂が高麗王朝の恭護王を亡ぼし、国号を朝鮮と称したときに始まります。一般に「李朝」と呼ばれます。1910年の日韓併合まで、500年余りの長きに亘って続きました。
首都を開城から漢陽(ソウル)に移し、官僚制度を整備し、また、仏教を排して儒教を国教とし、4代世宗王の時代には国字のハングルを作るなど、中国の影響から脱却し、李朝独自の文化を形成していきました。
<韓国の青磁>
インターネット情報などを参照しながら、韓国の青磁、その代表的な高麗青磁について説明します。
高麗青磁の技術は、中国浙江省の越州窯にその源を発していることが定説のようです。おそらく、9世紀から10世紀にかけて越州窯の陶工の群れが舟に乗り海を渡って伝えたものであろうとされています。
中国では、青磁の色を「秘色」と呼びました。「秘」については禁忌の色の意、香草の意、あるいは単なる碧色の意等、様々な解釈があります。いずれにせよ内に秘めた深奥感が漂います。
それに対して高麗青磁の色は、「翡色」と呼ばれます。当時の高麗人は、色の美しい青磁を、塗金や銀の器よりも尊んだとされています。「翡」とは玉の翡翠とも、カワセミの羽の色とも言われています。
その後中国青磁のさまざまな要素を吸収、消化し、12世紀前半には翡色青磁と呼ばれる美しい釉色と、優美な文様装飾によって、その粋を極めます。
代表的な技法は5つあります。素文(そもん)、陰刻(いんこく)、陽刻(ようこく)、象嵌(ぞうがん)と透刻(とうこく)です。収録した写真資料にも、出来る限り、その技法を記載しておきました。
次に、使われる文様です。人物では、柳下童子文、童子神仙文、松下弾琴文等が、動物では、竜、魚、鳳凰、猿、蝶等が、植物では、草花、柘榴、蓮花、牡丹、葡萄、瓢箪、唐草、竹、梅、松、宝相華等が題材とされます。その他には、単純文様と呼ばれる連珠、雨点、蓮弁等があります。
最も頻繁に使われる文様は、柳蘆水禽文、雲鶴文、野菊文等です。お土産点で一番目にする雲鶴文は、脚を伸ばし、翼を広げて空を飛ぶ鶴に、点々と風に吹かれる雲を配した文様です。
種類で区分しますと、1)純青磁 2)象嵌青磁 3)堆花文青磁 4)辰砂彩青磁 5)画金青磁 6)絵高麗 7)鉄彩青磁(黒高麗)となります。これも、銘板が読み取れたものは、写真資料に全て記載しておきました。また、1)純青磁は、?素文青磁 ?陽刻青磁 ?陰刻青磁と?透刻青磁の4つに区分されます。
青磁は、日本でも技法が再現され、テレビ放映されたことがあります。焼きあがった作品の表面が、音を立てて薄いひび割れを生じる場面が、実に幻想的でした。この微細なひび割れは、貫入と呼ばれます。青磁の色は鉄分を含んだ原料を還元焔焼成して得られるとされますが、焼成中に微妙な窯変が生じるようです。
なお、高麗王朝は918年、王建が朝鮮半島に立てた王朝です。都を、今の北朝鮮区域の開城に定め、仏教を国教とし、官僚制度を敷きました。しかし、遼、金、元の相次ぐ進行により、一時的な安定期を除いて脅かされることが多く、1392年、李成桂によって滅ぼされ470余年の王朝は幕を閉じました。
美術に関しては、新羅からの文化を引継ぎ中国の北宋、遼からの影響を受けながら、洗練された美意識を独自に確立し、高貴かつ崇高な高麗美術を完成させました。
青磁に関しての小さい頃の想い出では、仏壇へのお供え物の容器に使われていたことから、何となく近寄りがたい雰囲気がしていました。
<中国の陶磁器>
中国の陶磁器では、展示品を紹介する前に、韓国への影響を与えたとされる中国陶磁について、先に説明しておきます。
既に韓国の高麗青磁のルーツとされている中国浙江省の越州窯や、現在でも世界でも高名な景徳鎮窯のこと等です。
それと併せて、唐三彩についても説明します。昨年(2005年)亡くなられた人間国宝の加藤卓男先生によれば、ペルシャ三彩にルーツを発し、シルクロードを経て唐三彩、更に日本へ渡って奈良三彩になったとのお話を、講演会でお聞きする機会がありました。
加藤卓男先生のお話は、ある技術系学会での特別講演の席でしたが、東大考古学教室メンバーと共同の発掘調査で、正倉院御物の白瑠璃碗をペルシャ(現イラン)の田舎で発掘された時のお話がメインでした。三彩と、ベトナムから海のルートで渡ったことを実証された織部焼の話も、レジュメに記されていました。
最後の織部焼きの話だけは、時間切れで、簡単な紹介で終りました。しかし、その後の展示会で、ご自身の発掘品や、蒐集された古陶磁器が年代を追って展示された特別展を見学する機会がありました。
人間国宝に指定された記念の展示会や、盟友の平山郁夫先生との二人展なども見学する機会に恵まれました。平山先生との二人展では、お二人のスケッチブックも展示されていました。今でも鮮やかに、その臨場感溢れるスケッチブックの世界に目を奪われたことが思い出されます。
余談ですが、大切な話です。お二人とも原爆の「被爆者」としての苦しい時代を生き抜かれてきた経験をお持ちだそうです。芸術の極みでの共通点だけでなく、もっと深い部分での、お二人の結びつきがあったようです。平山先生は二度の東京藝術大学学長を勤められましたが、世界に誇れる、日本で最高の文化人であると感じ入り、常々、周りの方にお話ししています。
平山先生の功績は、ノーベル平和賞の対象となるのかどうかは存じませんが、私の心の中では、絵画の世界だけではなく、世界平和、アジアの平和に最も貢献され続けている方だとの想いがあります。
中国、韓国との文化面での貢献は勿論、アフガニスタンのバーミヤン遺跡の復興等でも、いち早く行動されていたことが私の記憶に残っています。その平山先生との盟友の加藤卓男さんの作品群、ラスター彩、奈良三彩、青釉等の、奔放でいて格調高い作品の数々は、決して忘れることができません。
話が逸れすぎましたので、中国陶磁の本題へ戻ります。最初に景徳鎮窯のことです。
景徳鎮は江西省に位置し、饒州府景徳鎮にある窯群の総称です。今でも「青白磁」を焼成する窯として、中国随一の陶磁器生産の町です。その「景徳鎮」は、北宋景徳年間に因んで付けられた名です。その時期から現代まで、「磁都」として世界に広く知られる町です。
歴史を遡りますと、唐時代(618?906)では白磁と越州窯風の青磁を焼造していましたが、北宋時代(960?1126)の真宗皇帝の景徳年間(1004?1007)に優れた「青白磁」を焼造して名声を博した結果、地名がそれまでの昌南鎮から景徳鎮に変わり、窯名も景徳鎮窯となりました。
元時代(1279?1367)に「白磁染付」「釉裏紅」等を生産して、一躍中国最大の窯群を形成し、明、清時代(1368?1911)には官用窯として「白磁染付」「釉裏紅」のほかに様々の「色絵磁器」を生産するようになり、世界に冠たる規模の窯業都市となりました。
一般市場向けには、民窯が中国国内だけでなく日本やアジア、アフリカ、ヨーロッパまで輸出されていました。宜興が「陶都」と呼ばれているのに対し,景徳鎮は「磁都」と呼ばれています。
次に韓国の高麗青磁に影響を及ぼしたとされる、浙江省の越州窯の話です。浙江省は、上海の南に隣接しています。西湖(シーフー)等、風光明媚な地域を擁しています。私にとって、忘れられない中国旅行地の一つです。
越州窯の一支窯の龍泉窯は、11世紀頃、北宋時代より青磁(緑の青磁)を焼くようになったと言われています。日本で 龍泉窯の青磁として連想されるのは、南宋時代、元、明に渡り 盛んに焼かれた「砧青磁」の青の青磁です。古来から、青の青磁は特別な物として珍重され、日本にも幾つかの有名な伝来品があります。
その青磁が焼かれた龍泉の代表的な窯跡が大窯、渓口等です。近年、現地陶芸作家と日本の陶芸家との共同研究の結果、現在まで途絶えていた翡色青磁(ひしょくせいじ)を焼くことが出来るようになったようです。
最後の唐三彩についても紹介しておきます。次の写真は、展示してあった唐三彩の馬です。台湾の故宮博物院には、唐三彩に限らず、世界の至宝ともいうめき中国の陶磁器が収蔵されています。
唐三彩とは、中国・唐代に造られた低火度焼成の三彩陶のことを指します。陶質の素地に白化粧、あるいは透明釉を掛けたのち、緑や褐色の鉛釉を加えることで、三つの色が互いに入り混じり、独特の文様を現します。コバルトの藍釉が加わったもの、緑・白、青・白といった二彩のものを含めて三彩と呼ぶことが多くあります。
主として洛陽・長安における貴族の葬礼及び明器(副葬品)として使われ、そのために様々な器形や人形,家財をかたどった物が造られることとなりました。
唐三彩が出土するのは、陜西、河南、揚州、遼寧、江蘇、山西、甘粛、江西、湖北、広東と、かなり広い地域です。中でも陜西省の西安と、河南省の洛陽が特に出土が多く、江蘇省の揚州が次ぎます。西安と洛陽は、政治、経済の中心的な存在であり、揚州はシルクロードの中継地であったことがその理由とされます。
かつて、お聞きした加藤卓先生の講演では、ペルシャ三彩がシルクロードを経て、奈良三彩となったとのお話でした。その奈良三彩の再現を宮内庁から委嘱を受けられたようでした。中国には、唐三彩のほか、渤海三彩、遼三彩、宋三彩、新羅三彩といった焼物もあるようです。
618年、隋末の乱に李淵・世民父子が立てた唐王朝についても簡単に紹介しておきます。以後、907年朱全忠によって滅ぼされるまでの20代300年あまり続きました。日本にとっても、遣唐使で知られる文化交流の盛んな時代でした。
唐は、律令格式を基礎とする中央集権的な国家を確立させ、友好的な対外政策を敷きました。都は隋代の大興城を改称して長安城としました。洛陽城の二つの都を中心として、シルクロードを通して伝わった西域、地中海の政治、経済、文化をうまく吸収していきました。
この時代、詩人の李白、杜甫、王維や、敦煌莫高窟、龍門石窟、そして唐三彩を生み出すなど芸術面においても大きな開花を見た時代でした。周辺諸国にも多大な影響を与えた時代です。
<日本の陶磁器>
日本の陶磁器も大切に展示してありました。それぞれの展示品につけられた表示には、「東京国立博物館」の文字が、いくつも目に留まりました。寄贈品なのか、所有権をそのままにした展示委託なのかは分かりませんでした。
昨日観覧した、特別展示の螺鈿細工の出品にも、東京国立博物館や、名古屋城博物館の添え書きを沢山見ましたから、普段の文化交流、共同研究が行われていることが想像されました。考古学の世界でも、戦後になって共同研究が続けられていることは、新聞記事などで目にしていました。平成天皇が「天皇家のルーツは韓半島」の発言もあった事を考えれば、共同で歴史研究を行うことは、両国の将来にとっても重要なことと思われます。
日本の陶磁器では、江戸時代、安土桃山時代当たりから、古くは古墳時代、弥生時代、更には縄文時代の土器にも及んでいました。土器や陶磁器だけでなく、銅鏡、銅鐸等の文物も多く展示してありましたが、こちらにも、東京国立博物館の説明書きが多く見受けられました。
<日本人からの寄贈展示品>
日本人から韓日友好を願って寄贈された展示がいくつかありました。その中でも、井内功さんが1987年に1082点を寄贈された韓国の瓦の蒐集が、その経緯を含め、2階の専用展示室にあります。もう一つは、40年に亘ってアジア各国の文化財を蒐集され、2003年に1030点を寄贈された金子量重(かずしげ)先生の寄贈品です。こちらは、2階の専用展示室のほか、3階のアジア館に多くの品が展示されています。それぞれに、見応えがありました。
井内功先生は朝鮮瓦■(セン:中国でレンガのこと)の年代別図譜を刊行され、学会に多大な貢献をされました。日本語の案内文では、「幼い頃、叔父から統一新羅時代の龍門瓦を譲り受けた」のが蒐集の契機だったと紹介されていました。
2003年7月21日から8月17日にかけて、韓国国立中央博物館で、金子量重氏の蒐集による「アジアの民族造形展」が開催されました。この種の展覧会は韓国で初めてだったようで、大きな話題を呼び、盛会だったと、インターネット情報にありました。この時陳列されたのは、ミャンマーの佛頭やタイ・バンチェンの祭文陶器をはじめとする数々のアジアの工芸品です。
同じHPから、アジア民族造形文化研究所所長の金子氏の略歴などを紹介しておきます。先生は1925年横浜市生まれ、数々の大学で、民俗学などを講義されてきた方です。
特別展示の挨拶で、「私が蒐集したアジアの工芸品を韓国中央博物館に寄贈した理由は、過去の韓国から文化的な報いに少しでも恩返しするためです」と述べられました。更に、親友の郭少普韓国著作権センター所長から、「新築中の中央博物館の東洋室に展示する遺物が足りない」と聞かれ、郭所長の勧誘も有って寄贈を決心したと語られました。
<恵化駅集合、無くなっていた韓式定食のお店>
夕食の待合せ場所は、東大門駅の一つ北の恵化駅でした。昨年11月の旅行の時に、駅近くのビルの地下で晩酌をしたことがあり、中々お値打ちなお店だったためです。大規模な韓式定食のお店でした。食事の合間に民族楽器の演奏や舞踊もありました。
今回のメンバーの中で、その韓式定食を食べられたことがない方もいましたので、ここを待合せの場所にしました。この日、自由行動でしたから、三々五々に集まりました。
予定の時間に全員集合しましたが、残念ながら、地下の韓式定食のお店は、別のお店に替わっていました。それで、付近を散策しながら、別のお店を探しました。その結果は、オープンカフェーのような焼肉のお店に決まりました。
若い人で賑っていたお店です。部屋の中に5人分の席が取れませんでしたから、店外にセットして貰いました。安価なお店でした。
李朝白磁に寄せて
菊活て愛でたや李朝白磁壷
菊日和笑窪と見えし白磁哉
高麗青磁に寄せて
既視感を青磁に覚ゆ韓の秋
一堂に青磁国宝並ぶ秋
仏像に寄せて
絹の道仏像に知る旧の盆
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー
- 航空会社
- 大韓航空
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同じホテルへ3連泊ですから、荷物を置いて身軽な格好での行動です。1号線のソンネ駅到着です。富川と富平駅から、それぞれ2駅の中間です。
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富川市はソウル特別市と仁川広域市に挟まれた行政区です。富川に市庁があります。綺麗に整備されたソンネ駅前の広場です。
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バス乗り場方面に移動したあと、駅舎方面を振り返っての一枚です。駅の正面入口は、右手の茶色の建物です。
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駅前のバス乗り場です。富川ファンタスティック・スタジオまではバスでの移動です。地下鉄、電車に比べると、少し利用の仕方が難しくなります。
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ソンネ駅で下車し、駅前で乗ったバスで、ソウル外郭高速道路と平行しながら北上しました。富川ファンタスティック・スタジオへの到着です。
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バスを降りた後、駐車場を横切って、スタジオの入口方面に向かいました。添え木をした若木が、既に色づき始めていました。
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スタジオの裏の風景です。ここだけ見ると、少しがっかりしそうですが、入場しますと、別の世界が飛び込んできます。
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富川ファンタスティック・スタジオの切符売り場です。入場料は3000ウォンでした。中間辺りは、鏡のようです。背景が写り込んでいます。
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入口から左に進むと、暗いトンネルがあります。タイムトンネルと呼ばれています。現在から、過去への旅が始まる場所です。
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タイムトンネルを潜ると、少し広い場所に出ます。まっすぐに進むと東大門へ、右手にアーチを潜ると、東町通りとなります。
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「東町通り」と呼ばれる一角へ続くアーチです。日本語パンフレットには「本町通り」と記されていましたが、アーチに記された文字の方で紹介します。
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東大門へ続く電車道は、「鐘路通り」を模しています。左手の大きな建物は、「和信百貨店」です。実物の1/3の大きさとされます。撮影スポットです。
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中々雰囲気のある通りです。木製の電柱が立ち、街路樹もあります。ソウル市中区の東町通りを模しています。現在の忠武路です。
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入口に近い本通に面した建物です。パンフレットには、説明が載っていませんでした。玄関に赤い十字架が見えますから、病院のようです。
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大きな「福田時計店」の看板があります。日本統治時代ですから、ハングルより漢字、日本語表示の方が普通だったのでしょう。
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南北の本通に面した町並みです。当時としてはモダンと思われる建物には、洋服店の看板があります。街路樹はプラタナスです。
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赤い十字架がありますから、やはり病院でしょう。ハングル表示は「ピョンヤン・サンウォン」のようです。平壌産院でしょうか?
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プラタナスの並木が続きます。ここは、まだ入口に近い場所です。パンフレットには、「野人時代」の撮影に使われたサクラ・カフェとありました。
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本通りから、脇道に入った場所です。壁にべたべたとポスターが貼ってありました。その入口には、済州島の石のおじさんらしい像がありました。
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縁台一杯に軍需品が並んでいました。迷彩色がなかった時代の深草色のヘルメット、飯盒、担架、リュック、軍靴、無線電話機などです。
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こちらの縁台には民生品が並べられていました。大きなラッパ型の蓄音機、タイプライター、ラジオ、比較的新しそうなテレビなどです。
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展示というより、雑貨屋さんの店先です。この縁台にも民生品の数々、携帯ラジオ、壁掛け時計、レコードプレーヤー、扇風機などです。
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展示品はまだまだ続きます。どう言った訳か、逆さまの酒屋の看板、帽子、矢、刀類です。映画撮影の小道具類かもしれません。
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ますます、訳が分からない展示品です。ザル、お碗、手提げ袋などの民芸品に混じって、棘の付いた緑色の棍棒もあります。
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韓国初の近代的交通手段として、1899年に開通した市電です。当時は、東大門から光化門の間を往復していました。撮影に大切な光景のようです。
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ハングル版のパンフレットに「普信閣(ポシンカク)」と記されていました。元は漢陽(ハンヨウ)にあり、1398年に創建されたもののようです。
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「野人時代」は、韓国近代史の風雲児であり、侠客であったキム・ドゥハンを描いた話題作と紹介されていました。2003年10月に撮影終了です。
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「力道山」は、2005年7月から撮影が開始され、現在も進行中とパンフレットに掲載されていました。著名な俳優、ソル・ギョング主演です。
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「ブラザーフッド」は、2003年10月から11月にかけて撮影されました。主役はチャン・ドンゴンです。市電も大切な場面に使われたようです。
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パンフレットが作成された後に撮影されたのでしょうか?パンフレットには掲載されていませんでした。題名は、ホアンクム・サグァ(林檎)?
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