2012/05/05 - 2012/05/05
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ナオさん
5月、信州からの帰り、関ヶ原に立ち寄りました。
「天下分け目の関ヶ原」などとよくいわれる関ヶ原は、かつては「壬申の乱」が起こり、戦国時代の終わりには「関ヶ原合戦」の起こった地です。。 歴史ファンでなくても、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った「関ヶ原の戦い」は、余りにも有名ですから、誰でもなんだかの形で、聞いたことがあると思います。では、「関ヶ原はどこにあるのか?どんな場所なのか?」と聞かれると、これに正しく答えられる人は少ないと思います。
私も、いつも名神自動車道を走る時に関ヶ原を通過するので、関ヶ原の場所はわかっていましたが、詳しいことは何も知りませんでした。そこで、信州の帰りに少しだけ時間を取り、歴史を紐解くミニ散歩と洒落込みました。
私の歩いたのは、「決戦地」と、石田三成の陣地の「笹尾山」、「関ヶ原町歴史民俗資料館」、徳川家康最後の陣地の「陣場野公園」だけですが、それでもこれだけ歩けば関ヶ原の地形も少しわかりました。
「不破関」が置かれ、関西と関東の境となっていた関ヶ原で、東軍と西軍が戦ったというのも、何か運命的なものを感じます。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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信州からの帰り、関ヶ原に立ち寄りました。
不破関がある関ヶ原は、672年には「壬申の乱」が起こり、戦国時代の終わりの1600年には「関ヶ原合戦」の起こった歴史の舞台です。歴史ファンでなくても、石田三成の西軍と徳川家康の東軍が戦った関ヶ原は見て見たいですよね!
私達は、名神自動車道の関ヶ原ICでおり、国道365号線に出ました。
まず「関ヶ原町歴史民俗資料館」に行けば、歴史もよくわかるし、マップだって入手できると思ったのですが、右折箇所がわからず行き過ぎてしまったので、引き返さずに「決戦地」に向います。 -
ここが石田三成の西軍と徳川家康の東軍が戦った「決戦地」です。1600年(慶長5年)9月15日、ここで6時間にも及ぶ激戦が繰り広げられたのです。
「決戦地」は笹尾山からわずか300mの所です。こんなに近くまで攻め寄られたのでは、西軍の不利は目に見えていますよね。
なぜこうなったかというと、松尾山に陣をしいていた小早川秀秋が寝返ったからです。圧倒的に有利な布陣をしいていた西軍も、小早川軍の寝返りにより東軍に攻め寄られ、ついにはここで激戦がくり広げられたのです。
今ここには、石田三成と徳川家康の両軍の陣旗が立てられ、風に閃いていました。 -
関ヶ原では今田植えの時期です。水が張られ、稲を植えられたばかりの田は、静かでのどかですが、この地でかつて起こった時代を動かした合戦を思う時、とても複雑な気持ちになります。
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今は静かな歴史ブーム。若い人の中にも歴史ファンは多く、地図を片手に、数人のグループで歩く人を見かけます。
そんな人のため、関ヶ原町ではあちこちに、このような標識が立てられています。私達も、標識をたよりに、石田三成の陣跡の笹尾山に向います。ここから笹尾山までは250m5分です。 -
歩いて、石田三成の陣営のある笹尾山の下の無料駐車までやって来ました。
198mの笹尾山には西軍の石田三成の本陣があり、山裾には蒲生郷舎と島左近の陣がありました。
見えているのは、蒲生郷舎の陣跡で、武者姿で写真撮影に応じる地元のボランテァの人々です。 -
これも笹尾山の麓の蒲生郷舎の陣跡と、陣跡に佇む武具や甲冑を身に着けたボランテァの人です。
笹尾山の麓には竹矢来と馬防柵が復元されています。
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「関ヶ原町観光案内図」です。
これを見れば、笹尾山と決戦地と徳川家康最後の陣跡の位置関係がよくわかると思います。 -
島左近陣跡に復元された「丸太矢来」とも呼ばれる「馬防柵」です。矢来(やらい)とは、竹や丸太を荒く組んで造られた臨時の囲いのことで、これによって敵が簡単に侵入するのを防いだのだそうです。矢来は、組み方によって角矢来、菱矢来などがあります。
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これは竹で組まれた竹矢来です。
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石田三成の陣があった笹尾山に登ってみます。
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5分も登れば、「石田三成陣地」と書かれた旗のはためく笹尾山の展望所に登れます。
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見事に関ヶ原盆地を見渡せる笹尾山です。決戦前夜に大垣城から移動して来た石田三成は、ここ笹尾山に本陣を置きます。
これが三成の眺めた風景かと思うと、感慨深いものがあります。
東軍西軍仲良く並んで写真に納まってくれたのは、歴史大好きなボランテァの方々です。 -
「関ヶ原古戦場」の碑が立つ笹尾山で、甲冑と武具に身を包み、私達の求めに応じてポーズしてくれた二人。感謝です!
赤い甲冑の彼は、先陣を切って宇喜多隊へ発砲した井伊直政が好きとのことで、井伊家の家紋の入った旗を担いでいました。 -
「史跡関ヶ原古戦場 石田三成陣地」の石碑が建っています。
198mの笹尾山一帯には、石田隊六千余りが配置されており、前衛隊長の島左近の指揮のもと死闘を繰り広げたのだそうです。小早川の裏切りにより状況は一変し、西軍は敗戦が濃厚になるや、この地から北国街道沿いに敗退して行ったのです。
私は西軍派でも東軍派でもありませんが、「関ヶ原合戦」は時代の流れだったとか、運命だったと、あっさり片付けてしまうには余りに大きな出来事ですね。私も芭蕉を気取って、「夏草や兵どもが夢の跡」と、呟いてみたくなります。 -
笹尾山には皇太子殿下も来られています。明治43年と読めるので、この時の皇太子殿下といえば、大正天皇でしょうか?
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この日は天候にも恵まれたGWの一日。
石田三成の陣地のあった笹尾山には、多くの観光客や歴史フアンが登ってきていました。 -
笹尾山から関ヶ原盆地を眺めると、このように見えます。見えている右手手前の北天満山には、島津義弘、小西行長の陣地が、その向こうの南天満山には宇喜多秀家の陣地、その向こうには大谷吉継の陣地がありました。
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ここも笹尾山です。
暑い中、甲冑姿で私達に応対してくださるボランテァの方とのふれあいがまた楽しい関ヶ原の古戦場です。 -
笹尾山から下りてきました。駐車場はご覧のとおり車がいっぱいです。
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ここは決戦地から歩いて徳側家康の最後の陣跡に向う東海自然歩道です。史跡めぐりの推奨ルートで、自転車では通れますが、車は通行不可の所です。クマ出没注意の立て札がちょっと怖いです。
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少し近道をして、岡山(丸山)烽火場には行かずに、関ヶ原町歴史民俗資料館にやってきました。
関ヶ原町歴史民俗資料館へ、入場料大人350円を支払って入館します。 -
関ヶ原町歴史民俗資料館では、大型ジオラマで合戦の流れがわかるようになっていますので、まずこれを見て行きます。関ヶ原町歴史民俗資料館には、武具や「関ヶ原合戦図屏風」も展示されています。
ここで先に勉強してから歩き出せば、より合戦の様子がわかります。
ミュジアムショップでは、色々な武将グッズが売られています。Tシャツ、ミニのぼり旗、グラスなど、楽しいものがいっぱいです。 -
この建物がなんだかわかりますか?これは、関ヶ原町歴史民俗資料館の駐車場にある「レンタサイクルハウス」です。関ヶ原町歴史民俗資料館の受付で手続きすれば、ここで自転車を借りることが出来ます。使用料は半日500円、1日1000円です。
またここは、人気の撮影スポットにもなっています。 -
関ヶ原町歴史民俗資料館前にある記念写真撮影用パネルです。ここで石田三成や徳川家康になって、記念写真に納まるのもいいかも。
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これは、2000年10月に関ヶ原合戦400年祭が行われた時の記念碑です。
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関ヶ原町歴史民俗資料館の前に立つ山口誓子の句碑です。
「雪積みて 全白となる 関ヶ原」と彫られています。 -
関ヶ原町歴史民俗資料館の前には、陣場野と呼ばれる徳川家康最後陣跡があります。今ここは、広い芝生の「陣場野公園」となっています。
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陣場野公園には、「史跡関ヶ原古戦場徳川家康最後陣地」の大きな石柱が立っています。
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桃配山(ももくばりやま)からここに陣を進めた徳川家康は、ここで采配を取りました。合戦後は、ここで首実検が行われたのだそうです。
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陣場野の床几場では、武将たちが討ち取ってきた敵の首が実検されましたが、女性の仕事に「首化粧」というのがあったそうです。家康が、敵方武将の首を検分する「首実検」にあたり、顔を洗い、化粧を施し、少しでも首の者の身分を高く見せようとしたのだそうです。戦国時代の女性って、すごいですね。驚きです。
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ここは陣場野公園内にある御霊神社です。この地に屍をさらした多くの戦死者を慰霊するため、関ヶ原合戦380周年を機にここに御霊神社が祀られたのだそうです。私達も御参りしていきます。
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陣場野公園内に立つ観音像です。
天下分け目の関ヶ原。大きな夢を描いた者もあれば、運命の悪戯で仕方なく巻き込まれた者たち、いずれにしても関ヶ原合戦は、多くの戦死者を出しました。私は、上に立つ武将よりも、下について戦った名も無き兵士に哀れを感じます。
観音菩薩がこの辺りで亡くなったすべての霊を導きますように!
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