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欧米列強にて国力で大きな差をつけられたことでこれが安政の不平等条約を押しつけられて多くの苦難を味わうことになった明治政府。<br /><br />それを解消すべく、万国並立・万国対峙を掲げて列強に経済・軍事両面で追い付くことによって条約の改正と国家の保全、近代化を目指し明治政府の国策の基本である富国強兵において外貨獲得はどうしても成し遂げなければならない事でした。<br /><br />そう言った時代の流れの中で当時の近代日本を支えた産業が水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業でした。<br />涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができました。<br /><br />「ああ 野麦峠(女工哀史)」はそんな時代背景の中で貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々を強く浮き彫りにするように描かれているものです。<br />映画では実存人物の政井みねさん等出稼ぎ女工さんの悲惨な面を強調されていますが、実際は仕事が無い時代に百円工女など恵まれた環境にて家を新築できるほど裕福な人達もいたようです。<br /><br />

ぶら~り♪ 春の信濃路(ああ 野麦峠)

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2012/05/10 - 2012/05/10

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欧米列強にて国力で大きな差をつけられたことでこれが安政の不平等条約を押しつけられて多くの苦難を味わうことになった明治政府。

それを解消すべく、万国並立・万国対峙を掲げて列強に経済・軍事両面で追い付くことによって条約の改正と国家の保全、近代化を目指し明治政府の国策の基本である富国強兵において外貨獲得はどうしても成し遂げなければならない事でした。

そう言った時代の流れの中で当時の近代日本を支えた産業が水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業でした。
涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができました。

「ああ 野麦峠(女工哀史)」はそんな時代背景の中で貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々を強く浮き彫りにするように描かれているものです。
映画では実存人物の政井みねさん等出稼ぎ女工さんの悲惨な面を強調されていますが、実際は仕事が無い時代に百円工女など恵まれた環境にて家を新築できるほど裕福な人達もいたようです。

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  • ○諏訪湖(手前は諏訪市)<br /><br />明治42年には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸生産国となり、生糸は輸出の50%ほど占めるに至ります。<br />それを支え日本の近代化に貢献したのが岡谷でした。製糸結社から独立し、県外に進出にして経営を拡大する製糸家が続々と登場し、岡谷の製糸は全盛を迎え、世界一の生糸輸出国の中枢的役割を担ったのです。<br /><br />製糸業の発展は、岡谷のまちの発展にも大きな影響を与え鉄道の開通や、交通、郵便、電信・電話の整備、電気の普及、病院の設置、教育など、岡谷の人々のくらしにも大きな貢献を果たしました。<br /><br />政井みねの働いていた山一林組もその岡谷(諏訪湖の北西)にありました。<br />みねが結核性腹膜炎にかかり野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上へと辿り着いたのが1909年11月20日の午後の事でしたが、取り敢えず追ってみましょう。<br /><br /><br />

    ○諏訪湖(手前は諏訪市)

    明治42年には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸生産国となり、生糸は輸出の50%ほど占めるに至ります。
    それを支え日本の近代化に貢献したのが岡谷でした。製糸結社から独立し、県外に進出にして経営を拡大する製糸家が続々と登場し、岡谷の製糸は全盛を迎え、世界一の生糸輸出国の中枢的役割を担ったのです。

    製糸業の発展は、岡谷のまちの発展にも大きな影響を与え鉄道の開通や、交通、郵便、電信・電話の整備、電気の普及、病院の設置、教育など、岡谷の人々のくらしにも大きな貢献を果たしました。

    政井みねの働いていた山一林組もその岡谷(諏訪湖の北西)にありました。
    みねが結核性腹膜炎にかかり野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上へと辿り着いたのが1909年11月20日の午後の事でしたが、取り敢えず追ってみましょう。


  • 政井みねの働いていた旧山一林組(現・岡谷絹工房)

    政井みねの働いていた旧山一林組(現・岡谷絹工房)

  • 守衛所

    守衛所

  • 松本方面から野麦街道へ(奈川の宮ノ下トンネル)<br /><br />当然のことながら当時はこのような立派なトンネルはありませんでした。

    松本方面から野麦街道へ(奈川の宮ノ下トンネル)

    当然のことながら当時はこのような立派なトンネルはありませんでした。

  • 今は道もきれいに舗装されています。

    今は道もきれいに舗装されています。

  • 復元された石室<br /><br />特に冬の厳しい時など凍死を免れるために造られた。

    復元された石室

    特に冬の厳しい時など凍死を免れるために造られた。

  • 旧野麦街道マップ

    旧野麦街道マップ

  • ○ワサビ沢旧野麦街道入口<br /><br />1300Mの旧野麦街道(赤線ライン)<br /><br />野麦峠まで後少し・・兄妹は峠まで必死に登っていったのでしょう。

    ○ワサビ沢旧野麦街道入口

    1300Mの旧野麦街道(赤線ライン)

    野麦峠まで後少し・・兄妹は峠まで必死に登っていったのでしょう。

  • 私は車でこちらの39号線を登っていきます。<br /><br />この通り沿いに猿の集団がいました。

    私は車でこちらの39号線を登っていきます。

    この通り沿いに猿の集団がいました。

  • 松本市(長野県)から高山市(岐阜県)へ<br /><br />野麦峠は丁度その県境にあります。

    松本市(長野県)から高山市(岐阜県)へ

    野麦峠は丁度その県境にあります。

  • こちらが野麦峠へと出てきた場所になります。(1672.2M)

    こちらが野麦峠へと出てきた場所になります。(1672.2M)

  • そしてこちらがこれまで通ってきた長野県側の風景です。

    そしてこちらがこれまで通ってきた長野県側の風景です。

  • ○野麦峠(1672M)<br /><br />「ああ 野麦峠」石碑

    ○野麦峠(1672M)

    「ああ 野麦峠」石碑

  • ○お助け小屋<br /><br />明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、半ば身売り同然の12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として年季奉公に出さされました。<br />そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。<br /><br />2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。<br /><br />ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」<br />「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」娘は泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しみました。<br />そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。<br /><br />1903年2月、交通の難所として名高い野麦峠の中でも厳冬の時期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。<br />「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である。また、足を踏み外して谷に滑落する者、峠の宿(お助け茶屋)に入りきらずに吹雪のなか外で夜を明かす者もいたという。<br /><br />信州の工場では、わずかの賃金で、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。<br />蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、病気になっても休ませてもらえないくらい厳しい生活が続き自ら命を絶つ者も後を絶たなかったといいます。<br /><br /><br />当時、実際働かれていた人は「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」(明治15年生)<br /><br />「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」<br /><br />「13歳のとき、岡谷の山共製糸というとこへ7年契約で入ってな。姉4人といっしょで、姉はみんな百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなたと思うんやさ。たしか、あのころ1反(10アール)で100円か 150円くらいやと思うけどな」(明治24年生)<br /><br />「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)<br /><br />以上の話しでもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。<br /><br />こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(参照 郷土古川より)<br /><br />

    ○お助け小屋

    明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、半ば身売り同然の12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として年季奉公に出さされました。
    そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。

    2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。

    ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」
    「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」娘は泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しみました。
    そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。

    1903年2月、交通の難所として名高い野麦峠の中でも厳冬の時期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。
    「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である。また、足を踏み外して谷に滑落する者、峠の宿(お助け茶屋)に入りきらずに吹雪のなか外で夜を明かす者もいたという。

    信州の工場では、わずかの賃金で、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。
    蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、病気になっても休ませてもらえないくらい厳しい生活が続き自ら命を絶つ者も後を絶たなかったといいます。


    当時、実際働かれていた人は「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」(明治15年生)

    「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」

    「13歳のとき、岡谷の山共製糸というとこへ7年契約で入ってな。姉4人といっしょで、姉はみんな百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなたと思うんやさ。たしか、あのころ1反(10アール)で100円か 150円くらいやと思うけどな」(明治24年生)

    「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)

    以上の話しでもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。

    こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(参照 郷土古川より)

  • <br />当時の百円の価値はどれくらいだったのでしょうか?<br />百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていた。<br /><br />どれくらいの人が糸ひき稼ぎにいったのでしょうか?<br />資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人が行った。一軒で2,3人のところもあった。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われるが、他の地域では当時のそうした記録が残っていない。<br /><br /><br />


    当時の百円の価値はどれくらいだったのでしょうか?
    百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていた。

    どれくらいの人が糸ひき稼ぎにいったのでしょうか?
    資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人が行った。一軒で2,3人のところもあった。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われるが、他の地域では当時のそうした記録が残っていない。


  • 女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。<br />

    女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。

  • 政井みねの碑<br /><br />この碑は岐阜県の村によって建てられたものですが、何故か資金は吉永小百合さんから送られている。<br /><br />政井 みね(まさい みね、1888年2月3日 - 1909年11月20日)は、日本の労働者。日本近代化を陰で支えた労働者の一人であり、かつて野麦峠を越えた女工を語る際に欠かせない人物です。<br /><br />政井みねは岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)の農村部に生まれた。当時はまだ貧しい農村部では、自らが出稼ぎに出る事で実家の食費を浮かし、家計を助けるという「口減らし」が一般に行われており、みねも家庭の生活費を助けるために信州の岡谷へ出稼ぎに出る事となった。<br />明治政府による富国強兵のもと、外貨獲得のために日本の近代化を支えたものは水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業であり、みねを始め多くの女性労働者が家族との別れを惜しみつつ野麦峠を越え出稼ぎに出る、当時はそんな時代でした。<br />みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳になった1903年2月。<br /><br />製糸工場、山一林組で働く事となったみねを待っていたものは、現在とは比較にならないほど劣悪な環境下での労働でした。<br />15時間にも及ぶ長時間労働に加え、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、工女の逃亡を防ぐため工場に鉄製の桟が張られているという監獄にも近い状態であったが、みねを含め多くの少女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できることを信じ、歯を食いしばって耐えたのである。(その結果、当時の生糸の輸出は日本の総輸出量の3分の1にもなった)<br /><br />時は経ち、工女の模範となって年収が百円を超えた(通称、百円工女)みねに突然訪れた病、それは重度の腹膜炎でした。知らせを受け、みねを引き取りに来た兄・辰次郎は松本で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。<br />やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。帰路の途中、多くの女工が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「ああ 飛騨が見える」と言い残し、息を引き取った。1909年11月20日午後2時、わずか20歳での死であった。<br /><br />

    政井みねの碑

    この碑は岐阜県の村によって建てられたものですが、何故か資金は吉永小百合さんから送られている。

    政井 みね(まさい みね、1888年2月3日 - 1909年11月20日)は、日本の労働者。日本近代化を陰で支えた労働者の一人であり、かつて野麦峠を越えた女工を語る際に欠かせない人物です。

    政井みねは岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)の農村部に生まれた。当時はまだ貧しい農村部では、自らが出稼ぎに出る事で実家の食費を浮かし、家計を助けるという「口減らし」が一般に行われており、みねも家庭の生活費を助けるために信州の岡谷へ出稼ぎに出る事となった。
    明治政府による富国強兵のもと、外貨獲得のために日本の近代化を支えたものは水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業であり、みねを始め多くの女性労働者が家族との別れを惜しみつつ野麦峠を越え出稼ぎに出る、当時はそんな時代でした。
    みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳になった1903年2月。

    製糸工場、山一林組で働く事となったみねを待っていたものは、現在とは比較にならないほど劣悪な環境下での労働でした。
    15時間にも及ぶ長時間労働に加え、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、工女の逃亡を防ぐため工場に鉄製の桟が張られているという監獄にも近い状態であったが、みねを含め多くの少女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できることを信じ、歯を食いしばって耐えたのである。(その結果、当時の生糸の輸出は日本の総輸出量の3分の1にもなった)

    時は経ち、工女の模範となって年収が百円を超えた(通称、百円工女)みねに突然訪れた病、それは重度の腹膜炎でした。知らせを受け、みねを引き取りに来た兄・辰次郎は松本で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。
    やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。帰路の途中、多くの女工が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「ああ 飛騨が見える」と言い残し、息を引き取った。1909年11月20日午後2時、わずか20歳での死であった。

  • ああ 飛騨が見える(政井みねと兄の政井辰次郎の石像)<br /><br />明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。<br /><br />角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。<br />「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからである。<br />辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎だった。<br />工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。<br />辰次郎はむっとして何か言いかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっと堪えて引きさがった。<br />  <br />「兄さ、何も言ってくれるな」<br />みねはそう言って合掌した。飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場から出た。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。<br />辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっと堪えて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、<br /> 「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」<br />  あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。<br /> 「おじさん、お世話になりました」<br /> 「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」<br />二人はお互いに見えなくなるまで合掌していた。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めた。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからだある。彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変らなかった<br /><br />仕方なく辰次郎はそこを経ち野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後であった。<br />その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、<br /><br /> 「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。<br /> 「みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。<br /><br /> 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される。<br /><br />実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。(河合小学校の隣)<br />みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。その後病気で帰り、長い病の後やはり同じ腹膜炎で亡くなりました。<br /><br />当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。<br /><br />工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。<br /><br />

    ああ 飛騨が見える(政井みねと兄の政井辰次郎の石像)

    明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。

    角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
    「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからである。
    辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎だった。
    工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。
    辰次郎はむっとして何か言いかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっと堪えて引きさがった。
      
    「兄さ、何も言ってくれるな」
    みねはそう言って合掌した。飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場から出た。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。
    辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっと堪えて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、
     「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」
      あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。
     「おじさん、お世話になりました」
     「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」
    二人はお互いに見えなくなるまで合掌していた。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めた。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからだある。彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変らなかった

    仕方なく辰次郎はそこを経ち野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後であった。
    その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、

     「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。
     「みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

     「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される。

    実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。(河合小学校の隣)
    みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。その後病気で帰り、長い病の後やはり同じ腹膜炎で亡くなりました。

    当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。

    工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。

  • ミネも息を引き取る前にこの乗鞍岳を見たのでしょうか・・

    ミネも息を引き取る前にこの乗鞍岳を見たのでしょうか・・

  • 政井みねの故郷、岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)

    政井みねの故郷、岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)

  • 生誕地

    生誕地

  • みねの墓がある専勝寺。

    みねの墓がある専勝寺。

  • 本堂の奥のようです。

    本堂の奥のようです。

  • 明治42年11月21日死去

    明治42年11月21日死去

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この旅行記へのコメント (10)

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  • あんみつ姫さん 2012/06/18 23:33:51
    教科書でも読んだような記憶が…そして、映画でハッキリとした記憶が。
    野麦峠。
    「飛騨が見える」といって、亡くなった主人公。
    当時の日本の様子を伝えた女工哀史。
    日本の産業を背負ってくれた女工のみなさん。

    ここは「特別な峠」だと思います。

    教科書でも読んだような記憶が…
    そして、映画での各女優・俳優さんの名演技。
    いまでも心に残っています。

    comevaさんの旅行記を見て、それを思い出します。。。

    この景色を見ながら、当時の少女たちは飛騨に帰っていったのですね。

    comeva

    comevaさん からの返信 2012/06/20 00:03:54
    RE: 教科書でも読んだような記憶が…そして、映画でハッキリとした記憶が。
    > 野麦峠。
    > 「飛騨が見える」といって、亡くなった主人公。
    > 当時の日本の様子を伝えた女工哀史。
    > 日本の産業を背負ってくれた女工のみなさん。
    > ここは「特別な峠」だと思います。
    > 教科書でも読んだような記憶が…
    > そして、映画での各女優・俳優さんの名演技。
    > いまでも心に残っています。
    > comevaさんの旅行記を見て、それを思い出します。。。
    > この景色を見ながら、当時の少女たちは飛騨に帰っていったのですね。


    あんみつ姫さん こんばんは。
    台風が列島を通り過ぎていますが、大丈夫だったでしょうか?
    野麦峠のコメント有難うございます!

    もう1世紀以上も前の話になってしまいましたが、野麦峠は近代史を語る上で通り過ぎることの出来ない場所ではないかと思います。
    知りませんでしたが、教科書にも載っていたんですね。

    そしてご無沙汰の映画の方も、また見てみたいですね。

    C



  • 潮来メジロさん 2012/06/12 11:43:02
    久しぶりに感動しました。\(^o^)/
    comevaさん、こんにちは! ヾ(^o^)
    毎度、訪問&投票ありがとうございました。

    comevaさんの旅行記を拝見して、私も「ああ 野麦峠」の映画かDVDを
    見たいと思って検索しましたが、DVDは作られていないようですね。
    でも、comevaさんの旅行記の詳しい解説を読んで、久しぶりに感動しました。ありがとうございました。

    ではまた・・・。(^o^)/~~~
      (潮来メジロ)

    comeva

    comevaさん からの返信 2012/06/12 22:29:21
    RE: 久しぶりに感動しました。\(^o^)/
    > comevaさん、こんにちは! ヾ(^o^)
    > 毎度、訪問&投票ありがとうございました。
    >
    > comevaさんの旅行記を拝見して、私も「ああ 野麦峠」の映画かDVDを
    > 見たいと思って検索しましたが、DVDは作られていないようですね。
    > でも、comevaさんの旅行記の詳しい解説を読んで、久しぶりに感動しました。ありがとうございました。
    >
    > ではまた・・・。(^o^)/~~~
    >   (潮来メジロ)
    >

    潮来メジロさん こんばんは。
    こちらこそいつも有難うございます!

    「ああ 野麦峠」、随分ご無沙汰していましたので久々にレンタルで・・と思っていましたが、DVDないんですね。残念です。

    今ですとこの方面はどうしても上高地や奥飛騨温泉郷と言うことになってしまい、このストーリーに関心がないとわざわざ出かけることはないかも知れませんね。
    次回は女工さんの故郷、飛騨にも足を延ばしてみたいですね。

  • arfaさん 2012/06/10 21:02:23
    comevaさん、こんばんは。
    私も8年位前になりますか、2004年の10月に野麦峠に行ってきました。

    残念ながら少し前に飛来した台風により橋が落ちて奈川村から上には登れませんでしたが、それでも女工たちが泊まっていた旅館がまだ旧道の道端に残っており、また記念館もありかつて映画で見た風景を思い出しながら見学しました。
    記念館では映画のハイライト版をエンドレスで流していましたが映画は見ずとも展示物で内容はほとんど理解していたので少々うるさく感じたのを覚えています。映画では一方的に資本家と搾取される方が描かれていますがあれではまるで『女工哀史』です。

    山本薩夫監督の映画のキャストは大竹しのぶ、原田三枝子、古手川佑子。TVドラマは森下愛子が主役でしたね。映画も何度か見返したのを覚えています。一度は行ってみたかった場所でしたので印象に残っています。
    私の行った時は新蕎麦の季節だったので福伝さんで待って待って食べることができ、とても美味しい蕎麦でした。

    今回、じっくりと読ませていただきました。

    comeva

    comevaさん からの返信 2012/06/11 19:33:01
    RE: comevaさん、こんばんは。
    > 私も8年位前になりますか、2004年の10月に野麦峠に行ってきました。
    >
    > 残念ながら少し前に飛来した台風により橋が落ちて奈川村から上には登れませんでしたが、それでも女工たちが泊まっていた旅館がまだ旧道の道端に残っており、また記念館もありかつて映画で見た風景を思い出しながら見学しました。
    > 記念館では映画のハイライト版をエンドレスで流していましたが映画は見ずとも展示物で内容はほとんど理解していたので少々うるさく感じたのを覚えています。映画では一方的に資本家と搾取される方が描かれていますがあれではまるで『女工哀史』です。
    >
    > 山本薩夫監督の映画のキャストは大竹しのぶ、原田三枝子、古手川佑子。TVドラマは森下愛子が主役でしたね。映画も何度か見返したのを覚えています。一度は行ってみたかった場所でしたので印象に残っています。
    > 私の行った時は新蕎麦の季節だったので福伝さんで待って待って食べることができ、とても美味しい蕎麦でした。
    >
    > 今回、じっくりと読ませていただきました。

    arfaさん こんばんは。
    ご訪問にコメントと有難うございます!

    今回はあわただしい旅でしたので峠周辺しか行けませんでしたが、次回はarfaさんが行かれた記念館や旅館、又、嫌いではありませんので本場女工さん達の出身地飛騨の方にも立ち寄ってみたいと思います。
    やはりこの近代史を語らずして現在は語れませんね。

    蕎麦は私も好きで今回の旅行でも諏訪や白馬等で満喫しました。
    一度、新そばの頃にも訪ねてみたいですね。

  • 385さん 2012/06/03 12:28:22
    歴史を顧みるとき「野麦峠」
    comevaさん

    何時も楽しく又深いものを感じます。今回のブログは私の知っている以上
    のもので時代背景を強く又、同じ女性として切なく心が衝撃に駆られ、
    再度読み返し涙しました。現在の平和で過ごせるのも過去の礎があっての事
    ですね。

    諏訪湖を見下ろす山・町並み雪を頂いた山々は大好きな光景です。
    今後も訪問させてください。

    385

    comeva

    comevaさん からの返信 2012/06/03 18:59:16
    RE: 歴史を顧みるとき「野麦峠」
    > comevaさん
    >
    > 何時も楽しく又深いものを感じます。今回のブログは私の知っている以上
    > のもので時代背景を強く又、同じ女性として切なく心が衝撃に駆られ、
    > 再度読み返し涙しました。現在の平和で過ごせるのも過去の礎があっての事
    > ですね。
    >
    > 諏訪湖を見下ろす山・町並み雪を頂いた山々は大好きな光景です。
    > 今後も訪問させてください。
    >
    > 385
    >

    385さん こんばんは。

    時代と共に環境は大きく変わりましたが、その礎を作って来られた人たちに手を合わせ、寿命が世界的レベルの現代に生まれてきた事に感謝したいですね。

    C

  • 前日光さん 2012/06/02 23:39:48
    映画見ました。
    comevaさん、こんばんは。

    たしか山本薩夫監督だったと思いますが、ずいぶん以前に映画「ああ野麦峠」を見ました。

    大竹しのぶさんが、政井みねを演じていました。
    後の配役は覚えていませんが、大竹さんのあの演技力ですから、この話が真に迫ってきて、いつの時代でも犠牲になるのは、真面目にひたむきに生きている弱者なのだと悲しく憤慨した記憶があります。

    みねが野麦峠を越えて諏訪湖を初めて見たとき、「海だぁ〜」と無邪気に叫んだ場面も印象に残っています。
    また後ろ向きに兄に背負われ、工場に向かって手を合わせる場面も覚えていますが、あれは門番のおじいさんに向かってのものだったのですね。

    美しい乗鞍岳の景色と悲しい近代日本の現実とが重なり、心に沁みました。
    comevaさんの思いも、この旅行記から伝わって参りました。

    みねさん及び同じ運命を辿ったその他の人々に合掌


      前日光

    comeva

    comevaさん からの返信 2012/06/03 18:34:08
    RE: 映画見ました。
    > comevaさん、こんばんは。
    > たしか山本薩夫監督だったと思いますが、ずいぶん以前に映画「ああ野麦峠」を見ました。
    > 大竹しのぶさんが、政井みねを演じていました。
    > 後の配役は覚えていませんが、大竹さんのあの演技力ですから、この話が真に迫ってきて、いつの時代でも犠牲になるのは、真面目にひたむきに生きている弱者なのだと悲しく憤慨した記憶があります。
    > みねが野麦峠を越えて諏訪湖を初めて見たとき、「海だぁ〜」と無邪気に叫んだ場面も印象に残っています。
    > また後ろ向きに兄に背負われ、工場に向かって手を合わせる場面も覚えていますが、あれは門番のおじいさんに向かってのものだったのですね。
    > 美しい乗鞍岳の景色と悲しい近代日本の現実とが重なり、心に沁みました。
    > comevaさんの思いも、この旅行記から伝わって参りました。
    > みねさん及び同じ運命を辿ったその他の人々に合掌
    >   前日光


    前日光さん こんにちは。
    映画が公開された当時、その少し前まで長野県民でしたので関心を持って見させてもらいました。

    ただ野麦峠にはこれまで行った事がなく一度は訪れてみたいとずっと気になっていた場所でした。
    実際みねが野麦峠にたどり着いたのは半年後の秋(11月)でしたが、これをきっかけに今回だけでなく今後も当時の女工さんの辿った道、足跡等をもっと深くチェックしていければと思っています。

    一部とは言え女工さんにとっては1年間で新築出来るほどのお金を稼ぐことが出来た恵まれた時代の中で現在と比較してしまえば最低最悪の環境の中でと言うことになってしまうのだと思いますが、それをじっと辛抱しながらと言うかそれが当前だと言われる時代だったのですね。

    それを思えば高度成長やバブル期経験の現代に生まれてきた我々は感謝しないといけませんね。

    C

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