2026/04/24 - 2026/04/24
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しろくまクンクンさん
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中津城へ行きました。
今治城(愛媛)、高松城(香川)と並び、日本三大水城に数えられます。
すぐ横を流れる山国川(中津川)の河口、つまり海と直結する場所に建てられており、城の堀には海水が引き込まれています。潮の満ち引きによって堀の水位が変わる、非常に珍しい構造です。
黒田官兵衛が、天正16年(1588年)に築城を始めました。
上空から見ると、お城の縄張りがきれいな「扇の形」をしていたことから、別名「扇城」とも呼ばれています。
天守閣は見ごたえのある「奥平家歴史資料館」となっています。
https://youtu.be/XwAlGPasXBw
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩 バイク
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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中津城へ行きました。
黒御門跡にあります大きな鳥居の中が駐車場です。 -
中津城の歴史とお城の地図です。
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現在の中津城公園マップです。
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三斎池です。
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黒田長政の後を引き継いだ細川忠興が場内の用水不足を補うために水道工事を行いました。
その水をたたえての賀子の池です。
鑑賞や防火用水としても使われました。
忠興の号三斎の名を冠して「三斎池」と言います。 -
駐車場入って左奥にあります中津神社です。
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中津城本丸下段の松の御殿跡にご鎮座しております。 明治16年、六所神社・丸山神社(義氏社)・稲荷神社・蛭子神社・八幡大江神社のご分霊を合祀し、中津神社と称し、鎮祭されました。
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拝殿です。
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拝殿と本殿です。
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中津城 水門跡から出ます。
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割烹「汐湯」です。
明治15年(1882年)に料亭・旅館として創業したのが始まりです。その後、明治29年(1896年)に隣接する建物で「中津海水湯」として銭湯をはじめました。 -
海水を沸かした珍しい銭湯で、元々は海水湯という屋号で営業していたそうです。
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木造3階建ての瀟洒な建物(大正初期建築)は、現在も割烹として会席料理や宴会を受け付けています。
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お城の石垣にあるのも何とも言えない風情です。
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中津 海水湯と刻まれています。
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場内へ戻ります。
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ちょっと時期が過ぎた藤棚です。
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中津大神宮です。
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中津大神宮は、明治十四年、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として中津城址に御鎮座しました。
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『豊前の国のお伊勢様』と親しまれています。
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中津大明神から駐車場越しの黒御門跡の鳥居です。
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中津大神宮の奥に「扇城神社」と「城井神社」があります。
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城井(きい)神社です。
謀殺された城井鎮房の霊を祀る神社です。
鎮房は凄まじい武勇の持ち主であったため、非業の死を遂げたあと、中津城内では怪異や悪疫が流行し、「鎮房の怨霊の祟りではないか」と恐れられました。
これを恐れた黒田長政は、早くも天正19年(1591年)に城内に「紀府(城井)大明神」として鎮房を祀り、のちに黒田家が福岡へ移封された際にも、福岡の地に「警固大明神」としてその霊を連れていき、祀り続けました。 -
扇城(せんじょう)神社です。
鎮房とともに散った忠義の家臣たちを祀る扇城神社です。ちなみに「扇城(せんじょう)」とは、中津城の美しい平面形状が扇の形に似ていたことからついた、中津城の別名です。
鎮房が城内で襲撃されたその時、中津城下(現在の合元寺など)に待機させられていた城井の家臣たちは、異変を察知して激昂。主君を救うため、あるいは一矢報いるために、怒濤の勢いで中津城内へと斬り込みました。
彼らは黒田軍の大軍を相手に、まるで龍が荒れ狂うかのように凄まじい乱戦を繰り広げ、全員が壮絶な討死、あるいは追腹(殉死)を遂げました。
この時、彼らの遺体が集められて埋葬されたのが、まさに現在の扇城神社がある「中津城内の乾(北西)の上段」の地です。 -
一段高い鉄御門跡に金毘羅宮が祀られています。
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金毘羅宮からは中津川がきれいに見えます。
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金毘羅宮内には大漁祈願・海上安全を願って奉納された「鯛神輿」で、額のあたりには「海上安全」「大漁満足」の文字が掲げられています。
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中津城へ向かいます。
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右手の黒田官兵衛資料館ではお城の拝観料にセットされた冷たい水かお茶がいただけました。
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右から大鞍櫓、中津城、奥平神社です。
奥平神社は江戸時代の中期(1717年)から明治まで、約150年間にわたって中津藩の藩主を務めた奥平家の歴代藩主や先祖です。
奥平家は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が戦った有名な「長篠の戦い」で、長篠城に立てこもって激戦を耐え抜いた名将・奥平信昌を祖とする名門です。 -
新緑が映えます。
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大鞍櫓です。
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大鞍櫓から天守へ向かいます。
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天守からの大鞍櫓です。
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天守内の奥平家資料館は非常に充実しています。
奥平昌高公着用の色々胴丸 -
奥平正孝公 奥平家第十一代 中津藩第五代藩主
歴代のオランダ商館長と親交を結び「フレデリック・ヘンドリック」と伊オランダ名を送られています。 -
奥平昌暢公 奥平家第十二代 豊前中津藩第六代藩主の具足です。
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島津重豪河野孫にあたります。
農民の献金額に応じて庄屋格や名字帯刀を許したり、水田開発や大洪水を池頑丈な石堤を造成したりと藩政改革に意欲を燃やし、一橋斉敦公の五女、国子姫と結婚。徳川御三卿家一橋家と譜代の名門徳川御連枝奥家が結ばれるという注目の華燭の典でした。 -
奥平昌邁公 奥平家第十五代 豊前中津藩九代大吾の藩主の具足です。
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幕末の四賢候と言われた伊予宇和島藩主伊達宗城公の四男。
奥平昌服鎬の養子として迎えられ、慶応四年に家督を継ぎ藩主となる。
維新の趣旨に基づいた藩政改革に着手、官史の任命にあたって初めて選挙法を用いました。
版籍訪韓により中津藩知事となる、慶應義塾に入学しアメリカへも留学しました。
ただ30歳という若さでこの世を去りました。 -
右は御紋鑑「丸に立澤潟」
左は御紋鑑「軍配団扇」です。 -
見事な軍配です。
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鎧や軸も展示されています。
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すべてが素晴らしいです。
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奥平昌章公 奥平家第六代 宇都宮藩主 着用の具足です。
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奥平昌高所有の筋冑です。
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胴丸の説明です。
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奥平家第七代藩主 中津藩主 奥平昌成公着用の鎧です。
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烈士鳥居強右衛門門勝商公御木像です。
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軸にもなっていますネ。
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奥平信昌公 長篠の戦時着用の鎧です。
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熊毛植黒糸威具足です。
徳川家康が着用し、九男の尾張徳川家初代徳川義直に譲られた甲冑です。 -
金陀美具足または金溜塗具足です。
若き徳川家康が「松平元康」と名乗り、今川方の一員として小田家と戦った際、初陣となる桶狭間の戦いの前哨戦「大高城兵糧入れ」で着用した具足です。 -
ドラマ「どうする家康」での着用シーンです。
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菊花石です。
こんなに大きく見事なものは初めて見ました。 -
天守からの眺めです。
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大鞍櫓です。
横は薬研堀です。 -
海にそそぐ中津川です。
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美しいです。
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椎木門跡から下ります。
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薬研堀と天守です。
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素晴らしいです。
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