2026/04/07 - 2026/04/07
723位(同エリア916件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/04/07
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電車での移動
米原-(JR)-長浜
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車での移動
レンタカー
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渡岸寺観音堂(向源寺)
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車での移動
レンタカー
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赤後寺(日吉神社)
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車での移動
レンタカー
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長浜別院大通寺
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長浜市曳山博物館
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慶雲館
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電車での移動
長浜-(JR)-米原
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この旅行記スケジュールを元に
滋賀県湖北地方は、仏教文化財の宝庫で、ことに観音菩薩像が濃密に分布しています。集落の数に匹敵するほどの数の観音像は平安時代に遡る古像も多く、今なお村人たちによって大切に守られています。
この地域はかつて、東にそびえる己高山(標高923m)を中心として繁栄した仏教文化圏に属していました。平安時代以降栄えた湖北の寺々は、室町期頃には弱体化し、代わっていわゆる新仏教が勢力を伸ばし、戦国の動乱期にいたって、さらに大きく変容しました。村々にあった天台寺院の多くは衰退して無住・廃寺化し、そこに残された尊像たちは、宗派・宗旨の枠を超越して、村の守り本尊として民衆に迎えられていきました。戦乱の焼き討ちにあった際は、村人たちが観音像を川底に沈めたり、地中に埋めたりして難を逃れ守ってきたと伝えられています。
そして今日なお観音信仰はこの土地に息づき、それぞれの村人たちは自分の村のホトケたちに対して、限りない誇りと親しみを持って手厚く守っています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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米原駅から、北陸線で長浜駅へ向かいます。
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長浜駅です。
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駅前の駐車場のトヨタシェアのレンタカーです。スマホアプリを操作するだけで全てが完結して便利です。料金も、220円/15分なので、短時間の利用の場合は格安になります。しかもこの料金はガソリン代込で、返却時にガソリンを入れる必要がないことも大きなメリットです。
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渡岸寺観音堂の入口です。渡岸寺というのは寺の名ではなく地名で、観音堂と諸仏は近くの向源寺に属しています。元々は、慈雲山光眼寺という天台宗の寺院で、延歴年間に比叡山の最澄が桓武天皇の勅を奉じて七堂伽藍を建立し、多くの仏像を安置しました。
1570年、姉川合戦の戦火で堂宇は全て焼けてしまいましたが、村人たちが猛火をおかして観音様を運び出し土中に埋めて難を免れたと言われています。その後、観音様は村人の氏仏として敬われ、護られました。
1888年、九鬼隆一やフェノロサなどが調査に訪れて、観音様は日本屈指の尊像と賞賛され、1897年に特別国宝に指定されました。それまで村で護ってきた観音様でしたが、国宝の観音様を村で公式に所有することはできませんので、お世話になっていた向源寺に所属させました。 -
仁王門です。
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金剛力士像です。榧一木造り、平安時代前・中期の作で県の重要文化財に指定されています。
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「慈雲閣」と名付けられている収蔵庫です。本尊以外の仏像はここに安置されています。音声による説明が流れた後、地域のボランティアの方が説明して下さいました。
※仏像の写真は公式サイトから借用しています。 -
十一面観音像、国宝です。
9世紀の作で、像高は194cm、檜材の一木彫です。 -
頭上面、天冠台上正面の化仏、両手首から先、持物、胸飾をそれぞれ別材とするほかは台座蓮肉部と天衣遊離部まで含め一材から彫出されています。別材矧ぎ付け部分のうち化仏、両手首から先、持物は後補です。頭髪部の造形には木屎漆を併用しています。像表面は彩色、金箔等を施さない素地仕上げとし、体部は背面から内刳を行っています。
均整のとれた体躯、胸部や大腿部の豊かな肉取り、腰を捻り片脚を遊ばせた体勢などにインドや西域の風が伺われます。文学作品や映画などにも取り上げられた、日本における観音像の代表作です。 -
胎蔵界大日如来座像、国指定重要文化財です。
【公式サイトより】檜材寄木造り、像高148㎝、平安中・後期の作。膝上で法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来。胎蔵界の彫像は金剛界に比べ数が少なく貴重な像である。当初は漆箔が施されていたと思われるが現在は剥がれている。頭上には螺髻を表し天冠台を刻出して地髪には入念に毛筋を刻む。眉間白毫には水晶を埋め込む。半丈六の大日如来のとしては、わが国でもっとも美しい像でなかろうかとも云われ、名のある仏師の作であろう。 -
阿弥陀如来座像、県の重要文化財に指定されています。
【公式サイトより】漆箔、檜材寄木造り、像高138㎝、平安時代後期の作。前後は別材。正面は左右に各一材を寄せて内刳りしている。頭部は差込み、膝前部は横に財をえぐって寄せ、両肩より下に三角財を矧ぎ付ける。如来像では本来厳しいお顔をなされているのが通常であるが、この像はいたって童顔で親しみやすい表情をされている。お顔の部分が黒いのは、金箔を施す前の工程で止まっており財が尽きてしまったのか未完成の状態である。 -
再びレンタカーを走らせ、赤後寺にやって来ました。
赤後寺は、日吉神社の境内にあり、仏像も日吉神社の所有です。 -
観音堂です。
無住・無宗派で、唐川地区の七十数世帯から選ばれた6人の世話方(2年任期、毎年3人ずつ交代) が運営にあたっているそうです。そのため、拝観には、事前の電話連絡が必要です。ここでも、音声による説明が流れた後、世話方が説明して下さいました。 -
左は千手観音立像(9世紀・国指定重要文化財)、右は聖観音立像(10世紀・国指定重要文化財)、いずれも像高は180センチ前後で、檜の一木造りです。
千手観音は頭上面が全て失われ、当初あった左右42本の腕は12本を残すのみで、残った腕も手首から先がありません。聖観音も両手先、両足先がありません。戦国時代の戦火のたびに村人が観音像を運び出し、川に沈めて難を逃れた際に破損し、流されたと伝わっています。
※写真は「観音の里コンシェルジュ」のパンフレットから借用しています。 -
長浜駅に戻り、レンタカーを返却して徒歩で長浜別院大通寺に向かいます。
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黒壁ガラス館です。
1900年に第百三十国立銀行長浜支店として建てられ、黒漆喰の壁であったことから「黒壁銀行」という愛称で市民に親しまれました。現在は、1階はガラス製のアクセサリーや生活用品など、2階では、世界中からスタッフが直接買い付けたガラス製品を展示販売しています。
「黒壁ガラス館」を中心に、ガラスショップや工房、ギャラリー、体験教室、レストランやカフェなどが古い街並の中に点在しています。 -
商店街入口のアーケード上部に、曳山まつりの屋台をモチーフにしたレリーフが飾られています。
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しだれ桜が綺麗に咲いています。
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大通寺の表参道です。
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湖北地方の浄土真宗本願寺派の僧俗が、天正年間(1573~1592年)の始め頃に、織田信長と戦っている大坂本願寺への支援の協議を行うための寄合の場として設置した道場が大通寺の前身だったとされています。
その後、長浜城に城主が置かれていなかった時代(1590~1606年)に、道場は城内に移転し湖北の中心道場・総坊となり、長浜御堂と呼ばれました。1602年、前本願寺派法主教如が徳川家康より本願寺の分立の許可を得て大谷派本願寺(東本願寺) を興すと、時を同じくして、道場から無礙智山大通寺と称する寺院に改編されました。
1606年、内藤信成を城主とする長浜藩が成立すると、長浜城の修築に伴って大通寺は現在地に移転しました。
その後、1639年に大谷派本願寺代13世宣如上人の三男霊瑞院宣澄が住職として入寺し、それを契機に大通寺は彦根藩主井伊直孝の援助を得て寺域の拡大をはかると共に、東本願寺より伏見城の遺構と伝えられる本堂や大広間を譲り受け、寺観の整備を図りました。それ以来、真宗大谷派の別格別院として七千坪の境内を有し、この地方における信仰の要として今日に至っています。 -
山門です。1808年に建築が始まり、1812年にはほぼ上棟していたとみられていますが、上棟式が行なわれたのは1839年で、彫刻等の細部が完備されたのは翌1840年です。
この山門は京都の東本願寺の山門を模して造られており、その後東本願寺の山門が焼失した際の再建には、この山門が参考にされたといわれています。
また、この山門が建築されるまでは、西側に建つ脇門がこの場所にあったといわれています。 -
脇門です。長浜城の追手門を移築したもので、扉金具の裏に、天正十六年(1588年)の銘があります。
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本堂(阿弥陀堂)、国指定重要文化財です。寺伝では、伏見城の殿舎を徳川家康が教如に寄進し、東本願寺の御影堂として用いたものを、承応年間(1652~1654年)に当寺に移築したものと伝えられています。
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本堂正面中央にご本尊の阿弥陀如来が安置され、向かって右側の厨子に親鸞聖人、左側に蓮如上人の絵像が掛けられています。外陣と参詣席の間にある木彫欄間の彩色は伏見城当時のものといわれ、色石を粉にした鉱彩を使用しています。
※室内の撮影は禁止されているため、室内の写真は大通寺のパンフレットから借用しています。 -
渡廊、18世紀後期に建てられたものです。
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玄関、国指定重要文化財です。1760年に、大通寺第5代住職 横超院真央の内室である嘉寿姫 (彦根藩第8代藩主井伊直惟の八女) の寄進によって増築された式台玄関です。現在は大通寺の法要時に近隣の僧侶の出入りまた、仏前結婚式が執り行われる際に新郎、新婦並びに両家の親族の出入りに使用されています。
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玄関の内部、広間との境の襖には金地に松、壁面には金地に群鶴が描かれています。
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玄関の奥は、広間、国指定重要文化財です。本堂と同様、承応年間(1652~1654年)に東本願寺から移築したもので、伏見城の遺構と伝えられています。
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正面奥に書院造りの要素である床、帳台構、違棚及び附書院などを一直線上に並べた上段の間をかまえて、対面所としての風格を備えています。上段の障壁には、各柱間ごとに画材を異にした著色の花鳥図、花弁図、人物図などが描かれて、桃山風御殿の豪華な麺を伝えています。
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新御座です。1787年、彦根藩井伊家より大通寺第6代住職として明達院乗徳が入寺した際、彦根藩から寄進された建物です。その後幾度かの改築工事があり、現在の新御座として再建されたのは1912年で、主に大通寺における法要時に近隣の僧侶が出仕する際の控えの間として使用されてきました。
上段の間は書院造りになっていて、京狩野派9代目狩野永岳(1790~1867年)による「琴棋書画図」が描かれています。襖絵は岸駒(?~1839年)の作です。
江戸時代中期から後期にかけて大通寺は彦根藩井伊家との関係を深めていきましたが、奥の間にあたる新御座や蘭亭などはその時代に建立された建造物です。 -
含山軒、国指定重要文化財です。庭園を望む一の間に狩野山楽筆の山水画、二の間に狩野山雪筆の山水画があります。
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含山軒庭園、国指定名勝です。江戸時代初期の作庭で観賞式枯山水庭園。東方に望む伊吹山を借景とすることから含山軒と名付けられました。
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蘭亭、国指定重要文化財です。1755年建立、円山応挙筆の蘭亭曲水宴図の襖絵があり、蘭亭の名はここから採られています。
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蘭亭庭園、国指定名勝です。江戸時代の作庭で池泉観賞式庭園。蘭亭の障壁画・蘭亭曲水宴の風景を現出したものです。
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長浜市曳山博物館にやって来ました。
長浜曳山まつりは、長浜八幡宮を中心に行われ、京都祇園祭、飛騨高山祭と並び日本三大山車祭のひとつとされています。羽柴秀吉が男子誕生の祝いに町人へ若干の砂金を贈り、これを原資に町人たちが曳山を造営し、八幡宮の祭礼に曳いたのが「長浜曳山まつり」の始まりといわれています。
絢爛豪華な山車は”動く美術館”ともいわれ、そのクライマックスを彩るのが「子供歌舞伎」で、5歳から12歳くらいの男の子が衣装に身を包み、歌舞伎を演じます。今年は、4月13日から16日までの開催です。 -
ここで展示されている山車は通常2基ですが、幸運なことに、4月7日から26日までの間、来年子供歌舞伎が行われる4基全てが特別公開されていました。
館内では、長浜曳山まつりをドラマ形式で解説するビデオも上映されていました。 -
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「翼果楼」という店で遅めの昼食にします。11時半過ぎ頃にこの店の前を通りましたが、すでに行列ができていました。「焼鯖そうめん」が人気のようです。
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メニューです。
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焼鯖寿司膳+鮒寿司(一切)です。
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長浜駅をデッキで越えて、慶雲館にやって来ました。
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【説明板より】慶雲館は、明治二十年(一八八七)、二月二十一日 明治天皇、昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商・浅見又蔵氏が私財を投じて建設しました。命名は、同行した初代内閣総理大臣・伊藤博文です。
約六千平米の広大な敷地内には、地元の宮大工 平山久左衛門 (屋号山久)により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、以後も長浜の迎賓館として使われてきました。
明治四十五年に造営された庭園は、京都の平安神宮神苑などを手がけ、近代日本庭園の先覚者と呼ばれた七代目小川治兵衛 (屋号植治)によるもので、国の名勝に指定されています。 主庭となる南庭は、地形に大きな起伏をつけた立体的な構造と巨石や大灯籠を用いた豪壮な意匠が特徴です。
また、毎年一月二十日から三月十日までの間、新春の風物詩「長浜盆梅展」の会場となり、見事な枝振りの梅と純和風の建物、そして雪吊が施された庭園の美しさに多くの観光客が訪れます。 -
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【説明板より】玉座の間 明治天皇、昭憲皇太后の御休憩所として建設された本館は、尾州産総檜の書院造りで、二階には両陛下を迎えるために「玉座の間」が設けられました。
現在は埋め立てられていますが、建設当時は南側と西側が琵琶湖に面しており、二階からの眺望はすばらしいものでした。東側に伊吹山や霊仙山などの山々、南西側には広大な琵琶湖が一望でき、当時の新聞に「美麗壮観同地に冠たるものなり」と記されています。このほか、襖絵や欄間、梅の形をした照明器具など建設当初のものが残っています。 -
【説明板より】明治天皇と長浜行幸 明治二十年(一八八七) 二月、明治天皇・皇后は京都行幸啓の帰路、長浜へ立ち寄られました。琵琶湖を大津港から長浜港まで第二太湖丸で渡り、長浜駅から汽車に乗り換えるという行程でした。二月二十一日、慶雲館は昼食をとられる休憩所となりました。
午後一時の到着に煙火が打ち上げられ、港からの仮設廊下には白縮緬が柱に巻かれ、白縮緬の垂れ幕がかけられました。慶雲館の入口には緑門が設けられ、一階東の間には浜縮緬をはじめ当地の名産品が展示されました。 そして、二階には天皇・皇后の玉座が設けられました。慶雲館には一時間ほど滞在され、再び仮設廊下を経て北側の停車場から汽車に乗られました。 -
2階からの庭園の眺めです。
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庭園を巡ることもできます。
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「長浜領朱印地石標」が移設されていました。
【説明板より】年貢免除地(朱印地)と年貢地の境界を明らかにするため建てられた石標。1583年、秀吉は朱印状によって長浜町人に「町屋敷年貢三〇〇石免除」の特権を与えた。
江戸時代後期に描かれた長浜町御朱印地絵図(長浜豊国神社蔵)には、二八本の石標が記されているが、現存するものは本石標を含め十四本だけである。 -
慶雲館のお向かいにある旧長浜駅舎です。1882年に長浜、敦賀港間に開通した官設鉄道のもので、1889年に米原、長浜間が開業するまでは、北陸線の始発駅でした。
現存する駅舎としては日本最古のもので、鉄道記念物に指定されており、現在は鉄道資料館になっています。入館しませんでしたが、館内には、駅長室や待合室など、当時の面影がそのまま残されているそうです。
明治天皇の長浜行幸は1887年とのことですので、この駅舎から敦賀方面に向かわれたのでしょうか。
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旅行記グループ 桜満開の京都と湖北
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