2026/04/05 - 2026/04/06
838位(同エリア1231件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/04/05
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電車での移動
京都18:10-(こだま号)-18:29米原
2026/04/06
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電車での移動
米原-(JR)-彦根
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彦根城
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電車での移動
彦根-(JR)-米原
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この旅行記スケジュールを元に
1600年、井伊直政が関ヶ原の戦いの軍功により18万石で石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。
直政は、佐和山城の中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、居城を移すことを計画していましたが、1602年に逝去しました。
家督は井伊直継が継ぎ、家老の木俣守勝が徳川家康と相談して、1603年に彦根山に築城を開始しました。
1606年、天守を含む2期までの工事が完了し、直継が入城しました。
1616年、5万石を加増されて長浜を領有した彦根藩により第3期工事が開始され、1622年、御殿の建設等全ての工事が完了しました。
彦根城を築くにあたり、大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用されました。
かつての彦根城は、三重の堀・人工河川(現・芹川)や城下町を含む大城郭でした。その中で、中堀より内側の範囲は、石垣で構成された城郭平面構造が極めて良好な形で残っていることから、1956年に国の特別史跡に指定されました。
彦根城は、城全体の保存状態が最も良く、江戸時代の 政治体制をあらわす代表例といわれています。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:新横浜駅→京都駅→大谷本廟、清水寺、三十三間堂→京都駅→米原駅(米原泊)
2日目:彦根城(米原泊)
3日目:渡岸寺観音堂、赤後寺、長浜別院大通寺、長浜市曳山博物館、慶雲館(米原泊)
4日目:海津大崎桜クルーズ゙、竹生島、西野薬師堂、米原駅→新横浜駅
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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米原駅東口の東横インに宿泊しました。
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翌日、東海道線(琵琶湖線)で彦根へ向かいました。
米原駅在来線の改札口です。在来線部分はJR西日本の管轄になっているため、キヨスクはセブンイレブンです。 -
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彦根駅前と井伊直政公騎馬像です。
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彦根城の天守が見えます。
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10分程歩いて、彦根城に着きました。
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堀端の桜が満開です。
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この案内図は、公式サイトからの借用です。
また、この旅行記の作成に当たっては、Youtube動画「歴史探訪番組 レキトビラ」での、広島大学三浦正幸名誉教授と彦根市文化財課斎藤一真氏の解説を参照させていただいています。
国宝天守の秘密を暴く!彦根城天守編の驚き
彦根城 馬屋・大堀切編 非公開「佐和口多聞櫓」の中も見せちゃいます
彦根城天秤櫓内部編 EXPERT Reveals the Hidden Secrets of 太鼓門櫓 -
中堀に架けられた橋の先、佐和口から向かって左に伸びているのは、佐和口二の丸多聞櫓、国指定重要文化財です。現在の建物は1769年から1771年にかけて再建されたものです。明治になって櫓門は失われましたが、本来は右に伸びる多聞櫓(現開国記念館)と一体のもので、彦根城の表玄関的な役割を果たしていました。
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城内に入ります。桜まつりが開催中で、夜桜のライトアップなどが行われるそうです。
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馬屋、国指定重要文化財です。藩主などの馬21頭が繋がれていたといわれ、昔はどの城にも必ずありましたが、その多くは明治になって必要の無い建物として真っ先に壊されました。現在では、城内に残る馬屋は全国でもこれだけで、たいへん貴重な存在です。
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一頭分ごとに、間仕切りがあります。通路の床には掃除のための排水溝が設けられ、板で蓋がされています。
馬房の間口は、六尺五寸、約2mです。馬は後ろへは下がらず、無理に下がらせようとすると暴れるので、前向きに引いて入って中で回転させます。その際、通常の一間では少し狭いので、馬房の間口は六尺五寸が多いです。 -
身分の高い人の馬を繋ぐとこでもあるので、床が板張りになっています。床には穴が開いていて馬の糞を入れるようになっています。普段は、馬が落ちないように蓋がされています。
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上部には、いろいろな梁が通してあります。馬は基本的に立ったまま寝るので、梁から綱をお腹の下に通して、座らないようにし、前面にも綱を張って逃げないようにしていました。
梁の上の飾りは、猿の耳といわれています。「猿は馬の守り神」という考え方があるので、縁起を担いで猿の関係の彫り物をしていると考えられています。室町時代の侍の屋敷の馬屋には生きた猿が繋がれ、馬の守り神として病気から守ると信じられていました。生きた猿を繋ぐことは江戸時代には行われなくなりましたが、その代わりに猿に代わるものを飾っています。
また、猿の頭に似た形の木鼻が付いています。通常、この位置には木鼻は付けられませんが、一般の木鼻に比べて大きなものを装飾として付けています。 -
馬屋の平面はL字形になっています。
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奥の方には、番人の部屋もあります。
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内堀と鐘の丸です。
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古い時代の城では、堀の底から頂部まで一気に石垣を積むのではなく、まず土手を築造します。ここでは、堀が水堀なので浸食防止のため水際に石垣を積んでいます。
水際の石垣と上の石垣の間を芝土居、上のものを鉢巻石垣、下のもの腰巻石垣といいます。鉢巻石垣の際には土塀が建てられていました。
鉢巻石垣と腰巻石垣の両方が揃っている例は珍しいです。 -
手前の鉢巻石垣が曲線になっているのに対して、奥の方は屏風折りになっています。
曲線の場合、敵の正面側しか銃撃できず、敵が堀を渡って土居まで上がって来てしますと、もう銃撃できません。
一方、屏風折りにすれば、折れ曲がった部分から土居の上にいる敵を銃撃することができ、防御性が圧倒的に高くなります。こちらの方が軍学的に正しく、新しいやり方です。
これらの両方を同時に見ることができるのは、日本でここだけです。 -
内堀に架けられた表門橋が見えます。
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登り石垣が見えます。
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【説明板より】彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれています。登り石垣は、文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣です。
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【説明板より】斜面をよく見ていただくと、 高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びているのがご覧いただけると思います。 石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、 登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。 かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようです。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、 朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。 日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることができません。
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本丸を目指して石段を登って行きます。
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天秤櫓とその石垣です。
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大堀切です。廊下橋から地面まで8mほどある大規模なもので、幅も日本最大級です。
堀切の底が道になっていいて、ここを通り左手を登って廊下橋まで螺旋状に上がっていく構造になっています。 -
ここの石垣は地震で崩れたため、1854年に積み直しています。
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右側は、築城時のもので、打込接積みです。
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左側は、地震後に積み直したもので、切込接積みです。更に、石を斜めに積み上げる「落とし積み」という技法が用いられています。石の重みによって石が下がるため、比較的積みやすく崩れにくいとされ、19世紀以降の技術です。
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天秤櫓、国指定重要文化財です。
名称の由来は、重さをはかる天秤です。しかし、厳密に左右対称にはなっていません。両側の二重櫓も、屋根の向きが90度違っています。これはわざと変えているもので、日本では寺と神社は左右対称に建てますが、世俗の建物は左右対称にはしないのです。 -
櫓の中央部2階が真壁造になっています。これは古い形式で、関ヶ原以前に建てられたどこかの城門を移築したものです。その両側は移築した際に増築した部分です。
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門の鏡柱です。
扉をつける柱は正面から見たときに立派に見えることが重要で、正面にあって立派で大きく幅が広いものを「鏡」とういうことから、これを鏡柱といいます。
しかし、幅は広いですが、厚みはそれほどではありません。これは、関ヶ原の戦いの前に作られた古い鏡柱の特徴で、大きな樹木が減少していた時代に、一木造としているためです。 -
1本の欅の木から正方形の柱を取ると、見付けの幅が小さくなります。
一方、長方形にすると、厚みが薄くなる代わりに、見付けの幅を大きくすることができます。
なお、関ヶ原の戦い以後、17世紀の前半に作られた城門の柱は、ほぼ全てが鉄板が打ち付けられた「はぎ柱」となります。
更に年代が下がって17世紀後期ぐらいになると、樹木が大きく成長してきたことから一木造に戻ります。
城門の鏡柱を見ると、作られた年代がわかります。 -
天秤櫓は、長浜城から移したものという伝承がありますが、彦根城は1606年に2期工事が完了し、井伊直継が入城しています。
一方、長浜城が廃城になったのは1615年ですので、時期が合いません。
翌日、長浜城の大手門を移したものと伝えられている長浜市の大通寺の脇門を見学したので比較してみたところ、両者は極めてよく似ていて、天秤櫓は長浜城から移したものということもあり得るかもしれないと思いました。
仮にそうだとすると、素人考えですが、
①長浜城が廃城となるまで、天秤櫓は無かったかあるいは別の建物が建っていた。
②彦根城は、7か国12大名が手伝いを命じられて天下普請で築城するほど重要だったため、まだ城主(又は代官)のいた長浜城からあえてその一部を移築した。
のいずれかでしょうか。
なお、大通寺の脇門の扉金具の裏には天正十六年(1588年)の銘があり、天正地震で全壊した長浜城を当時の城主だった山内一豊が再建した時のものだと分かっています。 -
天秤櫓の門をくぐると、櫓2階の裏側が見えます。
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櫓2階の入り口は東側にあります。
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天秤櫓2階の平面図です。
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天秤櫓2階の内部です。
2階の幅は日本の櫓門の中では最大級のものの一つです。移築される前の元の城門は、関ヶ原の戦いの前に建設されたもので、このように幅の広いものではありませんでした。移築しその両側に増築した際に、後ろに拡張して幅を広くしました。
古い時代の細身の梁が、奥から半間、約1m手前で止まっています。一方その両側の増築されたところは、梁が端から端まで通っています。
このことから、櫓門の中央部分は移築に際して後ろに約1m拡張されたことが分かります。 -
天秤櫓は、江戸時代末期に地震で損壊して修理しているので、江戸の初期の様子と末期の様子を同時に見ることができます。
古い時代の梁は、非常に華奢で細いです。ほぼ丸太に近いような木材を、瓜の皮を剥くような瓜剥きと呼ばれる方法で削っています。森林資源が豊かではなかったためです。根元の元口と先端の末口の太さはあまり変わりません。
一方、幕末に建設された部分の梁は、樹木が生長したので、太く、形も大きく削られて角ばっています。用材も、元口が太く、末口は細いもので、元口は大きく削られています。
また、壁には漆喰が塗られておらず、中塗りの砂壁の状態で止められています。江戸時代の城郭建築では、天守など殿様が入る場所は漆喰を塗って白く仕上げましたが、櫓など兵士は入っても殿様は入らない場所にはお化粧の漆喰は塗りませんでした。最近では日本全国で櫓などが再建されてますが、そういうことを知らずに天守と同じように漆喰を塗ってしまっているものもあります。 -
移築された部分の窓は、縦に長く窓台が低くなっています。これは、関ヶ原の戦い以前の特徴で、接近する敵が最後まで見えるようにしています。しかし、敵をよく見ることはできますが、この窓の前に立つと自分の全身が丸見えになり、狙撃を受けやすく危険です。
それで、関ヶ原の戦いの後になると、窓台を高くし、窓の下の部分に石落としを設けるようになりました。石落としの蓋を開けて、そこから敵を銃撃することにすれば、安全性が向上します。 -
壁が厚くなっている部分があります。これは「太鼓壁」と呼ばれる構造で、中には瓦礫が詰められており、基本的には大砲の弾を止めるためのものです。
大砲が城攻めに使われたのは、関ヶ原の戦いの際に、西軍が京極氏が籠城する大津城を攻めたのが最初です。大砲の弾のうちの一発が天守に当たり、中にいた侍女が即死、そのショックで大津城は降伏しました。
死者が出た原因は、大砲の弾が貫通したのではなく、大砲の弾が外に当たったことで、中の壁が吹き飛んだためです。
大砲の弾が外から当たると、貫通しなくても、運動量保存の法則により、内側の壁の一部剥がれて飛び出してしまいます。従って、単に壁を厚くしても防げませんが、太鼓壁になっていると、大砲の弾が当たった際に、軽く詰まっている瓦礫により力が分散され、内側の壁が壊れなくなります。
大津城の天守を彦根城に移築しているので、大砲への対策が求められたことへの対応です。 -
太鼓門櫓の石垣です。
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この石垣の隅はうまく合っておらず、算木積みの短辺がへこんでいます。これを「やせ隅」といいます。
石垣に勾配があることと、隅部の石が滑り出さないよう、奥側を少し下げて積んでいるため、直方体の石を積むとこうなります。
当初、全国の算木積みは全て痩せていましたが、徐々に角度が鈍角でないとこうなることが分かってきたため、彦根城のこの部分が積まれた時期よりもだいたい4、5年後になると、石を鈍角に加工して綺麗に収めるようになりました。 -
太鼓門及び続櫓、国指定重要文化財です。天守がある本丸表口をかためる櫓門で、近江の国の、いずれかの城から移築されたものと考えられています。
城内への合図のための太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。 -
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櫓門は右に曲がって入るように配置することが大原則です。
左側は弓を射る時によく見えますが、右側はよく見えないためです。
櫓門の防備の主力兵器は鉄砲ではなくて弓矢でした。敵の攻撃では何百人もが殺到してきます。鉄砲は一発撃つと次に打つのに3分間ほどかかりますが、弓矢ですと、3分間に30本くらい射ることができます。
したがって矢が放てるように、櫓門の2階は長い格子がずらっと並んでいます。 -
太鼓門の鏡柱です。
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建物の背面が解放され、高欄付きの廊下となっています。櫓では大変稀な構造です。
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天守です。国宝で、1604年に建設が始まり、1606年中には完成しただろうと考えられています。
入母屋造の屋根の上に望楼を乗せている望楼型天守です。3階3重の建物に破風が18個付いていて、これは姫路城よりも多い数です。花頭窓も18個設けられていて、これは日本史上最多です。しかし、これだけの数を付けながらバランスが良く、たいへん美しい天守です。 -
天守東面です。
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1階の両端に切妻破風が付いています。切妻破風は、建物の上に乗っているというのが大原則ですが、ここでは壁から生えています。日本の建築の原理を無視した、日本唯一の破風です。
真ん中の大きな破風は、望楼部分を乗せている建物の入母屋破風です。
入母屋破風であれば、通常必ず屋根の下に隅木という45°方向に出る部材が付きますが、下に切妻破風をつけてしまったことから、隅木がありません。これも、日本建築史上唯一です。
石垣上の壁の全てが白漆喰塗り仕上げではなく、下の方は黒い板壁になっています。この場所は風が強く、雨がよく当たるので全てを白壁にすると裾のところは、10年ほど経つと壁が剥がれ落ちてしまいます。板壁部分は、城下から見えると面白くないので、ギリギリ城下から見えない高さで止めています。 -
写真右側は天守北面です。
城の大手門と城下町が天守の南側にあり、京都方面にも向いているので、南面が正面で、南面、北面の方が、東面、西面よりもが幅が広くなっています。
この場所は小高い山の上で、城下町から遠く見上げられることになります。そのため天守や破風が小さくしか見えなので、「破風を大きくする」という工夫が行われています。
南面、北面の中央部にある入母屋破風は、日本史上唯一平らな壁に張り付けられたものです。通常、入母屋破風は建物の上に乗せられるものです。また、2重目の屋根の上に設け、かつ唐破風の下に収めようとするとこの半分の高さものになってしまうので、下に伸ばして2倍の高さにし、破風の下を収めるために入母屋の屋根を設けています。
更に、一重目の屋根の破風も切妻破風の下に小さな屋根が付けられた「庇付き切妻破風」で、これも日本史上唯一の形です。本来は1重目の屋根の上に設ける物ですが、それでは、現在の半分以下の高さにしかならないので、屋根よりも下に伸ばしています。
これらの工夫により、南面、北面は、力強く立派な外観になっています。 -
最上階には、人が上がることを想定してない、飾りとしての廻縁と高欄が設けられています。
古来より日本建築のルールとして、寺院の塔、楼門など2階建以上の建物には必ず廻縁と高欄を設けますが、塔には誰も登れませんからそれは飾りです。
一方、京都の金閣、銀閣の廻縁は実際に出られるものです。織田信長は、安土城の天守の最上階を、中央に戸口、両側に花頭窓、回りに廻縁という金閣、銀閣の形にしました。豊臣秀吉も、大阪城天守でそれを真似しました。
それが当初の天守の形でしたが、廻縁を番外に出しておくと、風雨により痛みやすいことから、後には、多くの天守で廻縁の外側にさらに壁を設け、廻縁を内側に入れるようになりました。松江城、姫路城などです。
彦根城天守は、価値の高い高層建築に付いていた飾りがなくなってしまうことを避けるため、腐朽しても簡単に取り替えられる見せかけの廻縁を付けました。天守につけられた見せかけだけの飾りの廻縁は、今分かっている限りでは彦根城天守が最初です。 -
天守前身建物(大津城天守)の推定断面図です。
井伊家の年譜に、大工名前と「格好よくし直した」との記録があります。ここに移築される前の大津城の天守はそれほど格好良くありませんでしたが、それを格好良く作り直したということで、当時から天下の名工と認められていました。 -
天守1階です。
桜の季節ということもあって、天守の入場に待ち時間が生じていました。行列に並んでいて聞こえてくるのは大部分が日本語です。昨日の京都ではほとんどが外国語でしたので、まるで日本に帰国したような妙な気分です。 -
鉄砲狭間と矢狭間です。天守全体で82個あると言われています。
鉄砲は開口部が小さくても照準を合わせて打つことはできるので三角形ですが、矢は縦に長めに切らないと狙いがつけられません。
壁の中に塗り込められて外からは全く見えないようになっているので、隠し狭間と呼ばれます。高いところにある建物には狭間が全部隠してあって、これは雨風避けです。特にここは琵琶湖に面していますから、冬になると強い風が吹き、狭間が開いていると、雨風が吹き込んでしまいます。戦いの際、敵が来るという情報は1~2日前に得られるので、そのときに綺麗に穴を開けておいて待ち構えます。 -
梁に、「十一ノ五」と書いてあります。これは番付と呼ばれるもので、他にも何ヶ所かで同様の数字が見られます。
大津城から天守を移設する際に、建物の柱、梁の組み合わせ部分に番号を付けてから解体し、運搬後それをもとに再組立てしました。
「十一ノ五」とは、片方の端から数えて11番目、それに対して直角方向へ数えて5番目の交点ということです。 -
この部屋と奥の部屋の間には段差があります。
この部屋は入口に一番近い下座、奥は上座なので、床高を上げたと思われます。このような天守はここだけで、かなり古い形だと考えられています。
また、段差の部分に戸板がありますが、戦のときにはここに兵士たちが籠城して走り回ります。そのときに段差があったり、戸板が立っていると邪魔ですが、それよりも身分格式を守ることの方が重視されています。すなわち御殿建築だった時代の名残をよく残しています。
段差がある現存天守は日本でここだけ、途中に仕切りがあるのは、ここと犬山城、松山城だけです。 -
内側は身分の高い人たちが籠城する部屋で、外側は身分の低い兵士が走り回る「武者走り」です。
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戸板の下部に落とし棒あり、敷居に穴が開けられています。戸板を閉めた時には落とし棒が落ちて開かなくなります。つまり、オートロックです。
外側は武者走りで身分の低い兵士が走り回りますが、内側は身分の高い人たちが籠城する部屋なので、戸板が自動的に施錠され、内側からしか開けられないないようになっています。 -
数多く付けられた破風の裏は、「破風の間」と呼ばれる隠し部屋になっています。
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中に人が入ることができるようなっていて、狭間が横並びに二つあります。
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天井が破風の形をしているのがわかります。
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天守最上階からの眺めです。琵琶湖が見渡せます。
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天守を出て西の丸へ向かいます。ここでも、桜が見事に咲いています。
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西の丸三重櫓、国指定重要文化財です。
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西の丸の西に建ち、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い堀切が設けられており、搦め手からの敵に備えた守りの要であるとともに、平時には琵琶湖を監視する役目もありました。
現在の建物は、嘉永年間(1848~54年)に建て直されたもので、当初のものはどこかの廃城の三重の天守を移設した可能性があります。そのことから、当初は時代的に望楼型でしたが、幕末に新型である層塔型に建て直したことになります。
櫓を三重で新築することは希ですが、元々が三重の天守を移築したものであれば、幕府も引き続き櫓を三重とする権利を認めることになります。当初の部材の2割程度が再利用されています。 -
西の丸三重櫓の平面図です。
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西の丸三重櫓の内部です。
この櫓は大きいので、梁をそのまま渡しただけでは持ちません。それで、中央に柱を1本立て、その上を巨大な牛梁が通り、それに対して両側から梁を架けています。
これは、江戸時代の三重櫓の典型的な構造です。 -
西の丸から下り、内堀を渡った場所にある「楽々園」のイラスト図です。隣接する「玄宮園」とともに「玄宮楽々園」として、国の名勝に指定されています。
建物は彦根藩下屋敷の一部で、第4代藩主井伊直興により1677年に造営が始まり、1679年に完成しました。
当時は、藩主が正式な御殿に住まい、地位を譲った前の藩主は、隠居御殿として下屋敷に移りました。隠居御殿の多くは城の外に設けられていましたが、彦根城は非常に敷地広かったため、城の敷地内に造られました。
かつては 「槻御殿」の名のほか、「黒門外屋敷」「黒門前屋敷」などとも称され、広大な玄宮園を南東にひかえて隠居した藩主やその一族が日常生活を送っていました。 現在は、12代藩主直亮が設けた 「楽々の間」に因んで、「楽々園」と呼ばれています。 -
この下屋敷は、増改築を繰り返しており、1813年には11代藩主直中の隠居に伴い大規模な増築が行われ全盛期を迎えました。その後は縮小傾向に転じ、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っています。
井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれました。 -
奥書院です。
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地震の間です。地震対策として、人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にし、また、柱が土台に固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってあります。建物全体を軽快な数寄屋造とし、屋根に軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしています。下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくしています。
現代の技術を当てはめると、免震構造も取り入れているといえるかもしれません。
200年以上も前に建てられた「地震の間」は、1819年の近江地震(M7.4)、1891年の濃尾地震(M8.0)をはじめ20回をこえる大地震にも被害の記録がないことから、立派にその役割を果たしてきています。 -
楽々園の庭園です。枯山水で、布石の妙を極めています。
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楽々園、玄宮園の全体図です。
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玄宮園の庭園です。
槻御殿(現楽々園)に伴う後園として江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園です。中央に掘られた池泉には大小4つの中島が築かれ、さまざまな形式の橋が架けられて自由な回遊性を確保するとともに庭園内の景観にもなっていました。 -
手前の池、中ほどに鳳翔台(茶席)、遠方上部の天守のバランスがとれた絵葉書的な景色です。
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【説明板より】玄宮園には、水田が設けられていました。
全国のほとんどの大名庭園に水田や畑はあったようです。 特に岡山藩池田家の 「後楽園」、 水戸家の江戸下屋敷の「小石川後楽園」 広島藩浅野家の「縮景園」 などが代表的なものです。これらの庭園では、藩主自らが領内の五穀豊穣を祈って、 田植え神事が行われていたという記録が残っています。 玄宮園でも「白系壱間四分之割絵図」 には水田の部分に「神田」と書かれていて、神事を行っていたと考えられます。 藩主自らが家来の前で田植え神事を仕切ることは、藩主が領内のことをしっかり考えているのだということのアピールであり、当時の大名庭園が遊びの空間だけではなく政治的な演出空間であったことをよく示しています。 -
彦根城博物館です。建物は、明治維新後に取り壊された表御殿を1987年 に復元したもので、代々彦根藩主を勤めた井伊家に伝えられてきた豊富な美術工芸品や古文書を所蔵、展示しています。その他、彦根および彦根藩に関する資料も収集しています。
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御殿は、彦根藩の藩庁であったところで、藩の政務や対面、儀式に使われた公的空間 (表向き) と、 藩主が日常生活を送った私的空間 (奥向き) で構成されていました。
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【説明板より】この庭園は、藩主が、 居間である 「御座之御間」から鑑賞するための庭です。池を中心として、各所に様々な要素を盛り込んだ庭園で、庭に降りて散策を楽しむことができるようになっています。
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【説明板より】現在の庭園は、博物館建設の際に、木造棟とともに復元したものです。池は、発掘調査で確認された遺構を元に再現し、庭園を描いた江戸時代の絵図をもとに、庭石や築山、庭木などを配置しました。枝垂れ桜や蘇鉄、松、梅、單、柘植なども絵図に描かれたもので、四季折々の変化を楽しむことができる庭園となっています。なお、復元されてはいませんが、かつては茶室「不待庵」 や待合 「鶯谷」もありました。
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御亭です。
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米原に戻り、夕食はホテル近くの”BROS”です。
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前菜の盛り合わせです。
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ローストビーフのサラダです。
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フライドチキンです。
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