2015/07/23 - 2015/07/23
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【ドイツの美しい城】
ドイツの歴史が生んだ古城群は数も大変多い事で知られている。
その中でも世上好まれている「ドイツの美しい城10選」には、ある方によれば、以下のような古城群が選ばれている。
いずれも観光的にも、訪れる観光客が多い城である。
私自身、古城好きもあって、以下の10選の城は全て訪ねている。
中には旅の行程によって、何度も訪れた古城もある。
さて、皆さんは御承知でしょうか?
そして、以下の中でどの城がお好みでしょうか?
Burg Eltzエルツ城(Wierschem・Eifel)
Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(Bisingen)
Reichsburg Cochemコッヘム・ライヒスブルク城(Cochem・Mosel)
Schloss Moritzburgモーリッツブルク城(Moritzburg ・Sachsen)
Schloss Hohenschwangauホーエンシュヴァンガウ城(Schwangau)
Schloss Neuschwansteinノイシュヴァンシュタイン城(Schwangau)
Schloss Linderhofリンダーホーフ城(Ettal)
Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城(Lichtenstein・Reutlingen)Schloss Drachenburgドラッヘンブルク城(Königswinter)
Schloss Schwerinシュヴェリーン城(Schwerin)
因みに、<ドイツ三大名城>として挙げられるのは
「ノイシュヴァンシュタイン城、ホーエンツォレルン城、ハイデルベルク城(城址)」であり、(尚、城址を入れることに異論はある)
また、<ドイツ3大美城>の括りで「エルツ城、ノイシュヴァンシュタイ城、ホーエンツォレルン城」が挙げられている。
・・・・・
写真はWilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの小説リヒテンシュタイン1826年出版・・・メルヘンチックなSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城はシュヴァーベン地方のReutlingenロイトリンゲン近くに実在する。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
【ドイツ・シュヴァーベン地方の美しい城:夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの小説に憧れて、ロマンチックな城を建てた Graf von Württembergヴュルテンベルク伯爵】
ここでは私の好みで抜粋した【ドイツ シュヴァーベン地方の3名城】
の内、メルヘンチックなSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城について、改めて纏めてみた。
2015年7月に訪ねて以来だから、もう10年も経ってしまったことになる。
参考写真はSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城:Map -
【Schwäbische Albstrasseシュヴェービッシュ・アルプ街道】
Schwäbische Albstrasseシュヴェービッシュ・アルプ街道は南ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州にあり、およそ200kmの距離を走る観光街道である。
この街道は黒い森近く、トロシンゲン音楽大学で知られたTrossingenトロシンゲンと、トロシンゲンの南東、黒い森の東に位置するTuttlingenトゥットリンゲン(三十年戦争のSchlacht bei Tuttlingenトゥットリンゲンの戦いで有名)から、南西から北東に向かって走り、最終的に二つの町Aalenアアレンと Nördlingenネルトリンゲンの町で終わる。
この街道沿いにはローマの砦のあったRömersteinレーマーシュタイン、Neresheimネレスハイム、Heidenheim ハイデンハイム等の町がある。】
・・・・・
Sonnenbühl-Erpfingenゾンネンビュール・エルプフィンゲンのRomatik Hotel & Restaurant Hirschロマンチックホテル ヒルシュに21日から2泊した。
<7月23日(木) 朝は小雨、午後徐々に晴れる 17.5~27.5℃ 140km>
9:00ホテルをチェックアウト。出発日は朝から雨で17.5℃と昨日とは様変わりの天候になった。小降りだが、折角の名城リヒテンシュタイン城が雨だと・・困ったなと思いながらReutlingenロイトリンゲン(人口11万人とこのあたりでは一番の都市だが、一度もここは訪れたことが無い)に向かって走る。
途中、リヒテンシュタイン城の案内を見て左折し、山中に上がっていく。
2007年以来、8年ぶりになるリヒテンシュタイン城の見覚えのある駐車場に入る。バスが停まっていたものの、乗用車が少なく、近くの森林公園にあるアスレチック施設を利用する者や、校外学習の子供たちは多いが、あまり個人の観光者がいないようだ。
ゾンネンビュール・エルプフィンゲンからは15km、9:30には到着した。
【Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城】
D-72805 Lichtenstein
http://www.schloss-lichtenstein.de/
https://www.youtube.com/watch?v=2zhxj06jo-4
開館:4月~10月 毎日、9時~17時半
9:30~11:15 駐車料Euro2(278円)
10:15~45、入場料Euro12(1,671円)
リヒテンシュタイン城は817m高さの崖上に1840~42年にかけて築城された。
相当な山奥にこんな小さな、可愛い城をもつ意味はあまり無かったと思われる。
築城された意味も趣味的とも云え、南ドイツのバイエルンにあるSchloss Neuschwansteinノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)のイメージに近い城である。
参考写真はSchwäbische Albシュヴァーベン・アルプ地方の絵葉書(赤星印は三大美城) -
イチオシ
≪中世の趣むきをもったロマンチックな騎士の城Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城≫
リヒテンシュタイン城は817m高さの狭い山の頂に、1840~42年にかけて築城された。
2007年4月28日、シュヴァーベン地方の素晴らしい名城群巡りでSchloss Sigmaringenジクマリンゲン城、Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)と共に、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪れたから、今年は8年ぶりになる。
いつ見てもリヒテンシュタイン城の立ち姿は美しい。
緑の谷から垂直な、自然の岩山に可愛い城が建っている。岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所で、その上に築城された城はとても絵になる。
写真はリヒテンシュタイン城:2015年7月23日訪問時、危なっかしい頂に立つ、メルヘンチックで、可愛らしい古城は実に魅力的だ。リヒテンシュタイン城 城・宮殿
-
<リヒテンシュタイン城の歴史>
かってのBurgruine Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城は、現在の新リヒテンシュタイン城から南に500m程行った所に建てられた。
今も城址(写真参照)が残る。
1100年頃から騎士領主リヒテンシュタイン家はここを発祥の地としていた。その後、力を付けた帝国都市ロイトリンゲンにより1311年と1377年の二度、攻め落とされている。
現在のリヒテンシュタイン城の地に、1180年、Gebhard von Lichtensteinゲプハルト・リヒテンシュタインにより、城砦が築かれた。
1388年、Graf von Württembergヴュルテンベルク伯がこれを所有した。
参考写真はかってのBurgruine Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城址 -
途中をはしょると、
1687年、オスマントルコ軍との戦いでリヒテンシュタイン城は落城し、その後の長い間はほったらかしになってしまったようだ。
参考写真は リヒテンシュタイン城と眼下に見えるHonauホーナウの町 -
眼下の谷間を埋める赤い屋根の家々が見える。
写真はリヒテンシュタイン城:城郭から眼下の町を遠望する。 -
イチオシ
さて、リヒテンシュタイン城には築城の謂れが残っている。
まずその事から、話を進めたい。
1837年、ヴュルテンベルク王国(首都はシュトゥットガルト)の王族であったWilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯は父王から譲られた、リヒテンシュタインの地に、簡単な狩猟の為の、且つForsthaus森林監督官の館を建てた。
その後、ヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯は、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン(写真参照)』(1826年)を読み、これに大いなる憧れを抱いたと云う。
その憧れを実現しようと、1840~42年にかけて、この地に中世の趣むきをもったロマンチックな、メルヘンチックなドイツの騎士の城を築城してしまった。
それはハウフの作品の様な城であったから、後世の人達もヴィルヘルム公の熱情を感じる事が出来るだろう。
戦災から免れたリヒテンシュタイン城はヴィルヘルム公の家系に繋がるUrachウラッハ公爵が現在も私有している。
参考写真は『Lichtensteinリヒテンシュタイン』Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説リヒテンシュタイン1826年初版 -
肖像画家に描かれたのはGraf von Württembergヴュルテンベルク伯爵Wilhelmヴィルヘルムである。
写真のヴィルヘルム公は、ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826年)を読み、これに大いなる憧れを抱き、その憧れを実現しようと、1840~42年にかけて、この地に中世の趣むきをもったロマンチックな、メルヘンチックなドイツの騎士の城を築城してしまった男だ。
この方が後の第二代ウラッハ公爵となる。
参考写真はFürst Wilhelm von Urach侯爵ヴィルヘルム・フォン・ウラッハ、Graf von Württembergヴュルテンベルク伯、 2. Wilhelm I. Herzog von Urachヴィルヘルム1世第二代ウラッハ公爵(1864年~1928年) -
25歳の若さで亡くなった作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフは長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826)で知られた作家だが、リヒテンシュタイン城に夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの記念碑がある。
ハウフの童話は後期ロマン派(グリム兄弟も属するとか)文学に分類され、ロマン派歌劇の頂点を極めたリヒャルト・ワーグナーも、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も大きい範疇ではロマン派なのでしょう。
それにしても憧れから新白鳥城を建てたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も驚きですが、小粒ながらヴィルヘルム公(ヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の築城したリヒテンシュタイン城も素晴らしい。
私のPCの壁絵は冬まで、2015年7月23日訪問時に撮った、この城の写真になっている。
参考写真はSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城と作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフ:ハウフの人物画が右手に見られる。 -
城外の少し離れた場所に、作家ヴィルヘルム・ハウフの記念碑はリヒテンシュタイン城に対面するような形で、岩壁上に彼の胸像が建てられていた。
これは初めて見るもので、以前は恥ずかしいことに、ハウフの存在すら知らなかったという事になる。
【ドイツ人作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフのこと】
Wilhelm Hauff,ヴィルヘルム・ハウフ( 1802年 ~1827年)はドイツの小説家である。シュヴァーベン派の代表的文筆家の1人。
父、August Friederich Hauffアウグスト・フリードリヒ・ハウフはシュトゥットガルトでヴュルテンベルク王国の Kabinetts-Ministerialregistrator内閣書記官を務めた人物である。父はヴィルヘルムが7歳の時(1809年)に死亡した。
ヴィルヘルムは3人のきょうだい(兄1人、妹2人)とテュービンゲンに移り。母Wilhelmineヴィルヘルミーネとその父法学教授のKarl Friederich Elsässerカール・フリーデリヒ・エルゼッサーに育てられた。
ヴィルヘルム・ハウフは、テュービンゲンのギムナジウムで教育を受けた後、1817年にブラウボイレンの神学校へ送り込まれた。1820年から24年の期間は奨学金を得てテュービンゲン大学に通い、プロテスタントの神学を学ぶ。
哲学で博士号を取得。
1824年から26年にかけて、ハウフはシュトゥットガルトでヒューゲル男爵家の家庭教師として働いた。その傍ら、1825年に風刺小説"Der Mann im Mond"(月の男)でデビュー。
家庭教師をやめた後はフランスやドイツ北部を旅行して回った。
1827年1月、コッタ社の「朝刊新聞」の編集者となる。同年、結婚して11月10日には娘が誕生した。
その一週間後、1827年11月18日、ハウフは腸チフスで死去した。
チロルを舞台にした作品の構想中の夭折であった。
彼の墓はシュトゥットガルトのホッペンラウ墓地にある。
(以上:Wiki抜粋)
・・・・・
参考写真はHauffdenkmal_Lichtensteinリヒテンシュタイン城にあるハウフ記念碑・・・リヒテンシュタイン城を見る位置に、ハウフの記念碑がある。 -
ドイツにおけるヴィルヘルム・ハウフの存在は評価も高く、記念切手も発行された。
彼の作品集(作品群は後述)は、いまだに多くの人に好まれ、各国でも翻訳されて、読まれている。
・・・・・
【ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタインのあらすじ】
小説はヴュルテンベルク公国の歴史を基に描かれている。
とりわけ、主舞台は『リヒテンシュタイン』の地、(1519年頃の)シュヴァーベン地方であり、公国の領土回復を目的に物語は進む。
主人公はヴュルテンベルク公の忠実な部下である騎士Georg von Sturmfeederゲオルク・フォン・シュトゥルムフェーダーとリヒテンシュタイン家の令嬢マリー姫である。
ウルリヒ公のヴュルテンベルク奪還を助けて、ゲオルクは活躍するが、囚われの身になり、最終的にヴュルテンベルク公国は再興され、ゲオルクとマリーは結婚し、平和な時代を迎える。
(前述した『リヒテンシュタイン』のあらすじが、つまりこの長編小説の内容が、短すぎていて、どれほど伯爵の気持ちをとらえたものか、私にはよく分からない。
だが、ハウフが1826年に出版した『リヒテンシュタインの挿絵』を見ると、きっとこれが伯爵の心をとらえたのだろうと思ってしまった)
・・・・・
参考写真はDBP_1977_954_Wilhelm_Hauffヴィルヘルム・ハウフの歿後150年記念切手・・・少々美形すぎるが。 -
参考写真は*Volker Hauffフォルカー・ハウフ氏(2008年当時)の事は、偶々検索していて見つけた。
*フォルカー・ハウフ氏はヴィルヘルム・ハウフの一族の出身である。
ヴィルヘルム・ハウフには17歳で亡くなってしまった娘さんが居られたが、若くして亡くなった為に、直系の係累はいない。
彼は1940年生まれというから、私共と同じ世代である。
ドイツの政治家(SPDエス・ペー・デー=ドイツ社会民主党)で、連邦運輸大臣、フランクフルト・アム・マインの上級市長などを歴任した。 -
さて、ヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯を真似たように、後世になって、ドイツのシュヴァーベン地方にあるリヒテンシュタイン城を好んで、似たような建物を建ててしまった人がいる。
世の中には(勿論、資産持ちが前提だが)、そうした懐古趣味を持った方が居られるようだ。?!
私自身が後にリューゲン島訪れた際に見かけた小城であり、更にその時に関連資料として調べて、もう一つのオストホーフェン村の小城も知ったのだ。
(写真参照)
一つはバルト海に浮かぶドイツ最大の島・Ruegenリューゲン島のLietzowリーッツォフという村(人口246人)に立つSchlösschen Lichtensteinリヒテンシュタイン小城である。
1892~93年(本物は1840~42年にかけて築城されているから、50年後にこちらは建てたことになる)にかけて建て替えた3階建ての小城には、切妻屋根と階段破風が見られ、6階建て円形の塔が付いている。
参考写真はSchlösschen "Klein Lichtenstein" - Lietzow von Rügenリューゲン島のリーッツォフにあるリヒテンシュタイン小城 -
もう一つはLand Rheinland-Pfalzラインラント・プファルツ州Alzey-Wormsアルツァイ・ヴォルムス郡のOsthofenオストホーフェン村(人口8,700人)にあるWeinbergshausヴァインベルクスハウス(もしくはMiniaturburgミニアチュアブルクと呼ばれ)で、Leckzapfen レックザップフェンのブドウ畑の高台に立っている。
良く似せて建設されているが、もっと調べて見れは、他にもあるかもしれない。
参考写真はWeinbergshaus ・Leckzapfen in Osthofenオストホーフェン村レックザップフェンのヴァインベルクスハウス
・・・・・・・・・・ -
【Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの作品集】
ハウフの童話は、グリム童話やアンデルセンの童話と並んで、今も多くの人に読まれていると云う。
ハウフの童話は、幾度も映画化され、不朽のものとなっている。彼を記念して、児童文学を振興するための「ヴィルヘルム・ハウフ賞」が設けられている。
ハウフ作品の代表的なものとしては、
1)童話作品『Die Karawane隊商』(1825年)
2)1958年に映画化された童話作品『Das Wirtshaus im Spessartシュペッサートの森の宿屋』(盗賊の森の一夜・1827年)、
3)歴史小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826年)・・・リヒテンシュタイン城が築城された謂れの小説、
4)中長編小説『Jud Suessユダヤ人ズュース』(1827年)などがある。
参考写真はWilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの Erstausgabe des Märchenalmanachs von 1828 メルヘン年鑑1828年初版 -
*グリム兄弟と同時代に生まれ、25歳の若さで亡くなった作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの童話作品『Das Wirtshaus im Spessart (1827)シュペッサートの森の宿屋』(盗賊の森の一夜)。
この作品は鍛冶職人、飾り職人、馬方、学生がシュペッサートの森の中にある宿屋(**現在の古城ホテル)に泊まる。しかし、その宿屋が盗賊の片棒を担いでいて寝込みを襲われるのではないかとの不安から、彼らは眠気覚ましにと互いに「面白い話」を語って聞かせることにした。
一番手は鍛冶職人で「鹿の銀貨」を語りだす。 物語の順序は以下の通り。
*Die Sage vom Hirschgulden「鹿の銀貨」
恩知らずの伯爵に、老婆は「銀貨一枚しか遺産は残せまい」、と予言した。
伯爵は死んだが、遺産は残っていた。長男クーノは立派な領主となったが、双子の異母弟シャルク、ヴォルフたちは、浪費ばかり。長男の財産を狙って、彼の死を待った。長男はそんな弟たちに絶望し、早死にしてしまう。長男は銀貨一枚残して、隣の領主に遺贈した。
*Das kalte Herz, Teil 1「冷たい心臓 前編」
*Saids Schicksale「ザイードの運命」
*Die Hoehle von Steenfoll「スティーンフォルの洞窟」
*Das kalte Herz, Teil 2「冷たい心臓 後編」
参考写真はリヒテンシュタイン・ハウフ童話:シュペッサートの森の宿屋 盗賊の森の一夜 -
参考写真はハウフ童話『シュペッサートの森の宿屋』(盗賊の森の一夜)の1編:Das kalte Herz冷たい心臓・・・短編集の中のひとつで、あらすじは 富と愛を求める貧しい炭焼きの青年ペーターが、小人や悪魔と取り引きして望んだものを手に入れるが、その代償にやがて自分の心臓(心)を失ってしまい・・・。
**2015年7月14日(火)
(1泊)Schlosshotel Mespelbrunn 古城ホテル メスペルブルン城
D-63875 Mespelbrunn 、Schlossallee 25
Tel:+49(0)6092-608-0 、Fax:+49(0)6092-6080-100
http://www.schlosshotel-mespelbrunn.de
4星・全40室。Classic DZ=Euro110(朝食込み・15,252円)。
3階の206号室はバルコニー付き、裏手の山が見える広い部屋で、静かで気兼ねがいらない。0.25Lの水2本の提供があった。
2012年に改装されただけに、全体がきれいなホテルで、リフトもあり、客室との行き来はリフトの鍵を持った客しか利用できないもので、保安上よく考えられたものだった。
ホテルのメインレストランは私共が夕食と翌日の朝食をとった“Kaminzimmer暖炉の間”、大きな鹿の角や銃などが架けてあり、天井が独特の色彩を見せていた“Alte Wirtshaus古き宿の間”は暖炉の間の前にあり、“Rittersaal騎士の間”は本館中心にある大きな広間で祝典の間と言えよう。
この他に騎士の間より少し小さい“Julius-Echter-Stubeユリウス・エヒターの間”があり、 “Gartenterrasseガルテンテラス”と称するテラスレストランが本館前にあった。
フランクフルト空港からおよそ70kmの距離にあり、Spessartシュペッサートの森に周辺を囲まれ、小さな湖に面して立つ、小さな、美しい古城Schloss Mespelbrunnメスペルブルン城がすぐ傍にある。
ここは変哲もない、小さな山村だが、古城は“シュペッサートの森の真珠”と謳われるそうだが、尤もと思われる姿だ。
近年では2009年4月30日に訪れたが、その時、メスペルブルン城に向かう手前の左手に古城ホテル メスペルブルン城があるのに気付いた。
ホテルの歴史:
昔の記憶にはない古城ホテルだが、Familie Rügerリューガー家はReichsgrafen von Ingelheimインゲルハイム(ラインガウ)の帝国伯に、森林管理官として長く仕えた。
19世紀になるとシュペッサートの地に小さな宿を建てた。
1910年6月、現在の地に新たに小さなホテルを建て、徐々に大きなものにしていった。
既に100年の歴史を持っているが、現在の古城ホテルは2012年に改装されたものだ。
・・・・・ -
ハウフの最初の本『1826年のメルヒェン年鑑』に載った最初の童話集『Die Karawane隊商』は**枠物語(わくものがたり)の形式を用いた作品で、イスラム圏の日常を感情豊かに描き出した点に特徴がある。
砂漠を行く隊商が道中の慰みにお互いに面白い話をしようという趣向で、『コウノトリになったカリフの話』、『幽霊船の物語』、『切り離された手の物語』、『ファトメを救え』、『小さなムックの物語』、『偽王子のメルヘン』という6つの話が、『Die Karawane隊商』という繋ぎの話を挟んで語られる。
コウノトリになったカリフの話
幽霊船の物語
切り離された手の物語
ファトメを救え
小さなムックの物語
偽王子のメルヘン
**枠物語(わくものがたり)とは、導入部の物語を外枠として、その内側に、短い物語を埋め込んでいく<入れ子構造の物語形式>である。
大きな物語の中に異なる短編小説などが次々と語られるこの技法で描かれた小説を「額縁小説(がくぶちしょうせつ)」とも呼ぶこともある。
参考写真はハウフ童話:Die Karawane 『隊商』 (偕成社文庫 ) -
参考写真はハウフ童話:こうのとりになったカリフ・・・1826年最初の本『1826年のメルヒェン年鑑』の「隊商」の中の1編。
*こうのとりになったカリフのあらすじ:
むかしむかし、バクダッドの王さまが、商人から小さな箱を買いました。
箱の中には黒い粉が入っていて、その粉をかいで「ムタボール」というと、どんな動物にも変わることができるし、その動物のことばもわかるというのです。
人間にもどりたいときは、東へ向かって三ベんおじぎをして「ムタボール」と、いえばいいのです。
だけど、一つ注意しなくてはいけません。
それは、動物になっているときは、ぜったいに笑ってはいけないのです。
もし笑ったりすると、おまじないのことばを忘れてしまって、ずっと動物のままでいなければならないのです。
王さまは、さっそくためしたくなりました・・・。 -
参考写真はハウフ童話:小さなムックの物語・・・1826年最初の本『1826年のメルヒェン年鑑』の「隊商」の中の1編。
*小さなムックの物語のあらすじ:
二ケアという町に、小さなムックと呼ばれている男が住んでいました。
ムックはもう大人でしたが、身長はおよそ1メートルで、身体はきゃしゃで、頭は人並はずれて大きい奇妙な姿でした。
ムックは一人で大きな家に住み、食事は自分で作っていました。そして、月に一度しか外に出かけません。ある日、外に出てきたムックを子供たちがからかいましたが、その中の一人の子がムックをからかったことを父親に知られて罰をうけますが、その後、父親が話してくれたムックの過去とは・・・。 -
参考写真はハウフ童話:こびとのはなすけ(鼻のこびと)・・・Scheich von Alessandria und seine Sklaven(1826) 『アレッサンドリア物語』(アレッサンドリアの長老とその奴隷たち)の1編(ハウフの童話集二冊目)
*こびとのはなすけ(鼻のこびと)のあらすじ:
市場で、野菜売りの手伝いをしていた男の子が、いたずらに魔法使いのおばあさんをからかった。仕返しにおばあさんから薬草スープを飲まされて、鼻が長く首のない小人になってしまった。
少し寝ていたつもりが7年経っていました。
7年の間はリスとして働かされていて、その間に料理を覚えていたのでした。
おばあさんの所から逃げ出し、ガチョウから魔法を解く草があることを聞き、探します・・・。 -
参考写真はハウフ童話:魔法物語・・・メルヘン年鑑1826年
*魔法物語のあらすじ:
どことなく「アラビアンナイト」を思わせる物語。蜃気楼のなかに、ありもしない幻が次々に浮かんでは消える。現実と幻の間を行ったりきたりする、エキゾチシズムあふれる不思議な物語。
・・・・・
<風刺小説>
Der Mann im Mond oder Der Zug des Herzens ist des Schicksals Stimme;1825年の初刊行時にはH・C・クラウレン名義が使われた
Mittheilungen aus den Memoiren des Satan (1825/1826);2分冊
Controvers-Predigt über H. Clauren und den Mann im Mond, gehalten vor dem deutschen Publikum in der Herbstmesse 1827
<短・中編小説>
Othello (1826)
Die Sängerin (1826)
Die Bettlerin vom Pont des Arts (1827)
Jud Süß (1827)
Die letzten Ritter von Marienburg
Das Bild des Kaisers
Phantasien im Bremer Ratskeller, ein Herbstgeschenk für Freunde des Weines (1827)
Die Bücher und die Lesewelt
Freie Stunden am Fenster
Der ästhetische Klub
Ein Paar Reisestunden
<オペラ>
『アレッサンドリア物語』中の一編「若いイギリス人」を基にして、インゲボルク・バッハマンは1964年にハンス・ヴェルナー・ヘンツェのコミック・オペラ"Der Junge Lord"(若いイギリス貴族)向けにリブレット(台本)を書いている。
<映画化作品>
以下に挙げる数本の映画はハウフの作品を原作としている。
1940 - Jud Süß 監督:ファイト・ハーラン(Veit Harlan)***
1950 - Das kalte Herz 監督:パウル・フェアヘーヴェン(Paul Verhoeven) 1953 - Die Geschichte vom kleinen Muck 監督:ヴォルフガング・シュタウテ(Wolfgang Staudte)
1957 - Das Wirtshaus im Spessart 監督:クルト・ホフマン(Kurt Hoffmann)
・・・・・
***【無実の罪で処刑された『Jud Suessユダヤ人ズュース』】
『無実の罪で処刑された『Jud Suessユダヤ人ズュース』』バーデン・ビュルテンベルク州(ドイツ)の旅行記・ブログ by jijidarumaさん【フォートラベル】 (4travel.jp) -
こんなハウフの作品Phantasien im Bremer Ratskellerブレーマー・ラーツケラーのファンタジー、 ein Herbstgeschenk für Freunde des Weines ワインを友にするのは秋の贈り物を楽しむことだ(1827年)の写真がある。
北のブレーメンには長い歴史(1405年創業)を持つ市庁舎の地下レストラン「Bremer Ratskellerブレーマー・ラーツケラー」があるのはよく知っている。
観光客が訪れる、そのラーツケラーを舞台にしたファンタジーだと云う(右の紳士はハウフと思われる)。
ラーツケラーには1200種ものワインの大樽が立ち並び、酒神バッカスが登場する。
住所:Am Markt 28195 Bremen
参考写真はPhantasien im Bremer Ratskeller, ein Herbstgeschenk für Freunde des Weines (1827)・・・A._M._Mailick,_Hauff’s_Phantasien_im_Bremer_Ratskellerブレーメンのラーツケラーでのファンタジー(ワインは秋の贈り物) -
【ドイツ シュヴァーベン地方の3名城】
Schwabenシュヴァーベン地方はバーデン・ヴュルテンベルク州の中東部・南東部を中心(シュトゥットガルトやウルムなど)として、バイエルン州南西部などを含む一帯を指す現在となってはやや漠然とした、歴史的な地方名称として残存している。
3名城とは、私の好みで勝手ながら、リヒテンシュタイン城、ホーエンツォレルン城、ジクマリンゲン城の三つを指す。
ホーエンツォレルン城はノイシュバンシュタイン、ハイデルベルクと並ぶドイツ3大名城の一つと称されているそうだが、何をもって名城というのかは、意見が分かれるところだろう。
因みに「ヨーロッパ100名城」(日本城郭協会の選定)にはハイデルベルク城(城址が正しい)が選ばれているが、上記の2城の名はない。
今年、2015年もリヒテンシュタイン城に来たくて、近くのホテルを見つけた。幸い鄙には稀な、ミシュラン1星のオーナーシェフが経営するホテル(2泊)だった。
この日は朝方から小雨も城に行ったときは晴れてきましたが、撮ってみた写真は今一つでした。写真を比べてみると2007年の方が天気は良かった。
尚、リヒテンシュタイン城、ホーエンツォレルン城とジクマリンゲン城は2007年の旅で訪れている。今回はリヒテンシュタイン城のみ訪れて、他の二つは今回は見送った。
参考写真はSchwäbische Albシュヴァーベン・アルプ地方の古い絵葉書 -
駐車場から緩やかなスロープを上っていくと、木々の先に小さな城門とそれに付随した幾つかの建物が現れた。
その先に憧れのリヒテンシュタイン城があるのだが、ここではまだ見えない。
写真は2015年7月23日訪問時、緩やかなスロープと小さな建物 -
イチオシ
小ぶりと言っても良い、第一の城門をくぐると古城入館の切符売り場がある。
ここの切符売り場では、城内の案内書(日本語!・・・良く出来た説明書でした)の3枚ワンセットを貸してくれる。その際、保証金Euro2をとるが、案内書を返却すると返金される仕組みだった。
切符売り場で次のガイドの時間を聞くと、10:15からだと言う。
まだ30分もあるので、直ぐ近くだと言っていたので、いったん城門を出て、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの記念碑を見に行くことにした。
写真はSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城:2007年4月28日訪問時、城門と入場券購入所の前で。 -
イチオシ
城門外の少し離れた場所に、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの記念碑はリヒテンシュタイン城に対面するような形で、岩壁上に彼の胸像が建てられていた。
これは2007年当時も見ていなかったから、初めて見るもので、以前は恥ずかしいことに、作家ハウフの存在すら知らなかったという事になる。
作家ハウフの記念碑はリヒテンシュタイン城に対面するような形で、岩壁上に彼の胸像が建てられていた。
歴史小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』が出版された1826年から丁度100年を記念して、1926年に建てられたようだ。
写真はリヒテンシュタイン城を見る位置に、ハウフの記念碑がこのような格好で立っている。 -
イチオシ
その近くに、その小説を読んでリヒテンシュタイン城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯の3m近い大きな顕彰碑が立っていた。
紋章の下には、伯爵のシュヴェービッシュ・アルプ地方の友人たちが1902~3年にこれを建てたと碑文に記されていた。
同時に、この地域は数百万年も前にジュラ紀の海底が隆起した土地で、化石の発掘において世界的に知られた所だそうだが、それらの説明文も添えられていた。
二つの碑はこれからも長く、彼らの業績を世に伝えていくだろう。
写真はリヒテンシュタイン城近くの森にヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯の大きな顕彰碑があった。 -
そこから戻って再び城門をくぐり、左手にFürstenbauフュルステンバウ(侯爵の館)(1901年)を見ると、この館も小さいながら、印象に残る建物だ。
写真はリヒテンシュタイン城:小さなFürstenbau侯爵の館(1901年) -
印象と言えば、Fürstenbauフュルステンバウ(侯爵の館)の前にあるベンチに下に、面白い格好をした小人(妖精)のような像が隠れるように置かれていた。それ自身、何か物語を持っているように思えたが、分からぬまま先に進んだ。
写真はFürstenbau侯爵の館:ベンチ下に隠れる小人(妖精)のような像 -
写真はリヒテンシュタイン城:城門にくっついたような建物はFürstenbau侯爵の館の反対側にある建物だが、今は侯爵の館と共に様々な催しに利用しているようだ。
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参考写真はリヒテンシュタイン城:左右の建物は纏めてFürstenbauフュルステンバウ(侯爵の館)、Schlosshofシュロスホフ_Fürstenbauフュルステンバウ(侯爵の館)と呼んでいるようだ。
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左の先に円筒の白い塔があり、深い堀で隔てた城郭が見える。木造の短い橋があり、その先に小さな城門がある。
写真はリヒテンシュタイン城:円筒の白い塔と本城、右に木造の短い橋が見える。 -
イチオシ
小さな飾りの塔も幾つか見え、緑の谷から垂直な、自然の岩山に可愛い城が立っている。岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所だろうと推測したが、その上に建てられた城はとても絵になる立ち姿である。
写真はリヒテンシュタイン城:2015年7月23日訪問時、この姿はメルヘンチックで実に好ましい。 -
参考写真は1982発行のドイツ(ベルリン)郵便切手になったSchloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城
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“ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
:黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
期間 : 2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間の旅
4.28(土) 快晴 27℃ 、 182km
<シュヴァーベン地方の城巡り>
レンタカーで周遊した名城は以下の三つ。
Schloss Sigmaringenジクマリンゲン城(プロイセン王家)、
Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城、
Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)。
シュヴァーベン地方の素晴らしい名城群巡りでSchloss Sigmaringenジクマリンゲン城、Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)と共に、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪れた。
写真はリヒテンシュタイン城:2007年4月28日訪問時、土曜日だが、あまり観光客はいないし、日本人は皆無だ。 -
イチオシ
写真はリヒテンシュタイン城:2007年4月28日訪問時、絶好の写真日和だった。
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城の右手を少し行くと、丸い稜堡(りょうほ:城壁の外に向かって突き出した角の部分)があり、中をのぞくと大小の大砲や丸い弾丸が置かれていた。
もう少し先に旧リヒテンシュタイン城址らしき平場があるので、こちらの稜堡を旧リヒテンシュタイン城址と呼んでいいのか分からないのだが。
写真はリヒテンシュタイン城:かってのBurgruine Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城址。 -
写真はリヒテンシュタイン城:かってのBurgruine Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城址にある大砲や弾丸。
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眼下の谷間を埋める赤い屋根の家々が見え、少し雲が湧き、湿った空気が流れていく。
相当な山奥にこんな小さな、可愛い城を見るのは楽しい。・・・が、このリヒテンシュタイン城は19世紀半ば、海抜822m、谷底から255mの高さの岩壁上に、ヴュルテンベルグ伯が中世の騎士への憧れから築城したものだから、軍事的意味が全く無い代物(しろもの)なのだ。
参考写真はリヒテンシュタイン城:Panoramaパノラマ、右手に旧リヒテンシュタイン城址が見える。 -
緑の谷から垂直な、自然の岩山にかわいい城が建っている様子がすごい。
岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所で、その上に建った城はとても絵になる立ち姿である。
参考写真はリヒテンシュタイン城:狭い山の頂に立つ城 -
写真はリヒテンシュタイン城:2007年に撮った美しいリヒテンシュタイン城の写真だが、危なっかしい頂に立つ、メルヘンチックで、可愛らしい古城である。
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<城内見学>
ガイド付きの見学は30分。
ガイドに案内されて、小学生の課外授業のグループと共に深い堀にかけられた短い木造の橋を渡って、城の小さな中庭に至る。
ここからガイド付きの見学になる。
以前はそうではなかったが、今はカメラ撮影が不可になった。
写真はリヒテンシュタイン城:深い堀にかけられた短い木造の橋を渡って、城の小さな中庭に至る。 -
参考写真はリヒテンシュタイン城:Grundriss縄張り図
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ここでガイドから、見学についての注意事項など概略の説明がある。
写真はリヒテンシュタイン城:城内入り口前で。 -
良く書かれていた日本語の説明書はこの城の展示を理解するうえで、大変助かった。
写真はリヒテンシュタイン城:日本語の説明書 -
写真はリヒテンシュタイン城:日本語の説明書
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写真はリヒテンシュタイン城:日本語の説明書
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①“Waffenhalle武器の間”
1階にはまず、“武器の間”があり、規模は勿論小さいけれども、Wilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯が旅の際に蒐集した中世の武器類が展示されている。
入口近くには30年戦争時代の銃が陳列されていて、この大きな、重い銃は二人係りで使用したと云う。その他にはピストル、儀典用の銃、17世紀の弓、中世時代の兵隊が使用した鉾槍、斧もある。
中でも特筆するのは1m93cmの長身だったWilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯の甲冑がある事だろう。1846年の騎士祭りの際に彼はこれを着用したそうだ。
入口横の肖像画は1347年に亡くなった皇帝LudwigⅣルートヴィヒ4世のもの。
写真はリヒテンシュタイン城:①“Waffenhalle武器の間” -
②“Schlosskapelle城内礼拝堂”
城主や家族たちが礼拝したSchlosskapelle城内礼拝堂は一般的に狭いものだが、ここもそれほど大きくはない。美しい色彩で表現された15~6世紀のステンドグラス、キリストを中心とした宗教画に見るべきものが多い。
参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂” -
規模は小さいけれども、“礼拝堂”には15~6世紀のステンドグラスが目を引く。
聖母マリアの死、聖母マリアのお告げ、キリスト誕生が描かれている。
参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”:15~6世紀のステンドグラス -
ここではUrachウラッハ公爵家の日曜ミサが行われていた。
祭壇の左右にドイツルネサンス期の画家、版画家、数学者Albrecht Dürerアルブレヒト・デューラーの先生だった方の絵(15世紀後半)がある。
何故ここにあるのかはわからないが、天井には7つの“要石(かなめいし)”の装飾が美しく、ニュルンベルクのSt.Lorenz Kircheローレンス教会にある“要石”のレプリカだそうだ。
参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”:祭壇の左右に絵画、天井には7つの“要石(かなめいし)”の装飾が見られる。 -
参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”:Leuchterweibchen愛妻の燭台
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参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”:祭壇
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参考写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”:宗教画と祭壇
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③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jägerstubeイエガーシュツーベ(狩人の部屋)
Trinkstubeトリンクシュツーベは食事や宴会が行われた場。狩りの絵が壁に描かれ、飲酒についての格言が書かれている。
狩りの絵が壁に描かれていることで“狩人の部屋”とも云われる。
狩りの後、獲物自慢で賑やかに酒量が上がる様子が目に浮かぶようである。
この部屋には16世紀の木製の時計、ボヘミア地方のガラス細工がある。
やはりここでも特筆するのは城主様の身長と同じ1m93cmのシャパングラスだろう。このグラスにはなんと3本のシャパンが入ると云う。
そしてこのグラスで飲むのに3人が必要だと・・・グラスを抱え上げる人、飲み干す人、飲み干す人を支える人の3人だ。
参考写真は③“Trinkstubeトリンクシュツーベ -
先祖の胸像があるWendeltreppe螺旋階段を2階に上がると、
王の間、紋章の間、張り出しの間(張り出し窓のように)、そして大きな騎士の広間がある。
④“Königszimmer王の間”
先祖の胸像があるWendeltreppeヴェンデルツレッペ(螺旋階段)を、2階に上がると“王の間”になる。
まだ城が狩猟の館であった頃、ヴュルテンベルク王国初代国王Friedrich I. Wilhelm Karl von Württembergフリードリヒ1世・ヴィルヘルム・カール・ヴュルテンベルク(1754~1816年、在位:1805~1816年)が宿泊したことに由来する。
この部屋にはご先祖様24人の絵が飾られているが、この城にとって大事なのは2人の城主の絵であろう。
参考写真は④“Königszimmer王の間”・・・右手の絵がヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯 -
一人は現在の城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)である。シュヴァーベンの連合軍に追われたヴィルヘルムが、昼間は4km離れた鍾乳洞に身を隠し、夜はこの城にやってきて世話を受けたと云う。
参考写真は④“Königszimmer王の間”:猟犬と共にヴィルヘルム・ヴュルテンベルク伯が描かれた肖像画 -
もう一人は“Eberhard im Bartエーバーハルト髭公”の異名で人気の高かったEberhard 1. von Württembergエーバーハルト1世・初代ヴュルテンベルク公(1445~1496年、在位:1495~1496年)である。
公爵に昇格するまではGraf Eberhard V. von Württemberg-Urachヴュルテンベルク・ウラッハ伯エーバーハルト5世であった。
エーバーハルト1世(エーバーハルト5世)は1477年、テュービンゲン大学を創設した。同時代人達からもエーバーハルト1世は学識者として評判が高かったが、19・20世紀のドイツの愛国主義的な歴史著述家たちはエーバーハルト1世を好んで美化したと云う。
ヴァルハラ神殿(注:ヴァルハラ神殿は「賞賛に値する著名なドイツ人」の殿堂である。ドイツ語を母語とするドイツ史上の有名人、すなわち政治家、支配者、科学者、芸術家などを祭った、レーゲンスブルクの東のドナウ川岸の丘にある新古典主義の建物)には、そうそうたるメンバーに交じって彼の胸像が置かれている。
ヴァルハラ神殿に訪れたことがあるが、この事については知らなかった。
19世紀のドイツの詩人Justinus Kernerユスティヌス・ケルナーはシュヴァーベンへの頌歌「Preisend mit viel schönen Reden」において、「エーバーハルト髭公はヴュルテンベルク人に愛されし支配者であった」としている。
ヴュルテンベルク人の愛郷歌となっているこの歌では、「賛辞で褒め称えよう・・から始まり、あなたの国は宝石の首飾りをしている・・で終わる」のだと云う。
エーバーハルト1世は並みいるドイツ諸侯の中で最も富裕で、また命や財産を奪われることなど気にせずどの領民の膝の上にでも自分の頭を置いて休むことができた、としている。
エーバーハルト1世はヴュルテンベルクの最も優れた統治者の一人だったと。
参考写真は④“Königszimmer王の間”・・・Graf Herzog Eberhardエーバーハルト髭公 -
⑤“Wappenzimmer紋章の間”
“紋章の間”にはヴュルテンベルクの最初の伯爵から最初の公爵までの紋章がある。
ドアの左側に様々な絵画が掛けられているが、これらはシュヴァーベン派の画家たちの作品で、氏名は不詳だ。
右にはロシ皇帝から贈られた4つの*「孔雀石(くじゃくいし)」が陳列されている。
*孔雀石は艶やかな美しい緑色と多種多様な模様の天然石。
参考写真は⑤“Wappenzimmer紋章の間” -
⑥“Erkerzimmer張り出しの間”
張り出し窓の如く突出した部屋で、中世の家具、16世紀の裁縫箱、19世紀のソファーが見られ、驚いたことにデスマスクがある。
ゲーテ、シラーの文人、ナポレオン皇帝、*詩人Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント、そしてこの城で亡くなったヴィルヘルム1世のデスマスクである。
*Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント(1787~1862年)
ドイツ・ロマン派(シュヴァーベン派のリーダー)の詩人、弁護士、政治家、大学教授。
テュービンゲンに生まれ、テュービンゲン大学で法律を学び弁護士となり、議員にも選出された。民謡風の抒情詩、バラードで有名である。
参考写真は3代其々の時代のリヒテンシュタイン城:Lichtenstein_drei_Epochen -
⑦“Rittersaal騎士の広間”
城一番の美しい大きなRittersaalリッターザール(騎士の広間)は“祝宴の広間”として利用された。
パイプオルガンがあり、木の壁、天井、窓枠のアーチと美しく描かれている。
当時の有名肖像画家Stirnbrandシュツルンブランドの作品・築城者Wilhelmヴィルヘルム公の等身大の絵が左手にかかっていた。
ヴィルヘルム公がリヒテンシュタイン城で59歳の生涯を終えると、二番目の公妃であったFlorestine von Urachフロレスティーネ・ウラッハ(モナコ大公の一人娘:1833~1897年)がリヒテンシュタイン城の管理を継承し、この城の最後の居住者になった。
参考写真は⑦“Rittersaal騎士の広間” -
騎士の広間のメイン展示は当時の有名肖像画家Stirnbrandシュツルンブランドの作品・築城者Wilhelmヴィルヘルム公の等身大の絵である。
この広間の窓からの眺めは、遠くの町、遥か下のEchazエシャッツ川(ネッカーの支流で全長23km)や道路も見える。
ここでガイド案内は終了となった。
城には円塔の部屋、3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、事前の許可が必要だと云う。
参考写真は肖像画家に描かれたのはGraf von Württembergヴュルテンベルク伯爵Wilhelmヴィルヘルムである。 -
⑧“Der beruehmte Schütze von Lichtensteinリヒテンシュタインの有名な射手”
このWendeltreppe螺旋階段の下り口には“リヒテンシュタインの有名な射手”と題された絵画がある。
この絵は所謂“だまし絵”で、どの方向から見ても射手がこちらを狙っているように見える。
ここでガイドの案内は終了となった。
参考写真は ⑧“リヒテンシュタインの有名な射手”
・・・・・
城には塔の部屋、3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、事前の許可が必要だと言う。
XXX -
参考写真はリヒテンシュタイン城:最初の頃はこのようなForsthausフォルストハウス(森林監督官の館:1839年)であった。
-
参考写真はリヒテンシュタイン城:当時のForsthaus森林監督官の館を描いた絵画が残る。
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リヒテンシュタイン城には円塔内の部屋や本城の3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、これらの上階に登るのを今は事前の許可が必要だと云う。
半ば禁止だろうが、写真の姿を見れば納得である。
参考写真はリヒテンシュタイン城:俯瞰・・・これを見ると、狭い山の頂に立つ古城が少々怖い。 -
昼食:Schlossschenke Lichtensteinシュロスシェンケ・リヒテンシュタイン にて。
Schloss Lichtensteinの側にあるレストラン・シェンケのテラスで、ミネラルウオーターをスープ代わりに飲みながら、大きな焼きソーセージとパンを食べた。
これだけの簡単な食事でしたが、気持ち良い涼しい風に吹かれながら新緑の中にいると、いやに美味しく思えた。ここではセルフサービスである。
(13:50~14:10 6Euro)
写真はリヒテンシュタイン城:2007年4月28日訪問時、Schlossschenke Lichtenstein にて軽食を頂く。 -
11:15リヒテンシュタインをStuttgartシュトゥットガルト方面に向かう。
さきほど城から下を望んだが、今度はEchazエシャッツ川沿いの町から高台のリヒテンシュタイン城を見上げて写真を撮る。
写真はリヒテンシュタイン城:麓の町から見上げた。 -
B28・B27・A81をTübingenテュービンゲン・Herrenbergヘレンベルク、Stuttgartシュトゥットガルト、Pleidelsheimプライデルスハイムなどの町を経由し、シュトゥットガルトの北20kmにあるMarbachマールバッハ(詩人・劇作家のFriedrich von Schillerのフリードリヒ・フォン・シラーの生誕地)に13:10到着。
参考写真はSchloss Lichtenstein:麓の町から見上げて(拡大)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私には遂げられぬ夢、羨望でしかない築城の夢、この美しい姿は永遠に高く見上げるばかりだ。
(2025年10月28日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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