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勘八稲荷神社や波岩神社が鎮座する波岩地区、今回はその波岩神社と車で5分程に鎮座する枝下川神社を掲載します。

波岩神社と枝下川神社

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2024/10/22 - 2024/10/22

558位(同エリア748件中)

wabisabi2さん

勘八稲荷神社や波岩神社が鎮座する波岩地区、今回はその波岩神社と車で5分程に鎮座する枝下川神社を掲載します。

旅行の満足度
2.5
観光
2.5
交通
1.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車 徒歩
  • 波岩(ハイワ)神社。<br />波岩神社へは、前回掲載した勘八稲荷大明神から、枝下用水沿いに5分程上流の越戸発電所の東側に向かいます。<br />鎮座地は赤枠の位置になり、越戸発電所の東側の発電用取水口付近に鎮座します。<br />波岩神社から徒歩5分程で社頭に至ります。<br /><br />波岩神社の詳細について以下に目を通しました。<br />大正15年(1926)出版の西加茂郡誌、昭和46年(1968)猿投町誌に目を通してみましたが、波岩神社の記述は見つけられませんでした。<br />地図上からも鳥居の記はみられず詳細は不明です。

    波岩(ハイワ)神社。
    波岩神社へは、前回掲載した勘八稲荷大明神から、枝下用水沿いに5分程上流の越戸発電所の東側に向かいます。
    鎮座地は赤枠の位置になり、越戸発電所の東側の発電用取水口付近に鎮座します。
    波岩神社から徒歩5分程で社頭に至ります。

    波岩神社の詳細について以下に目を通しました。
    大正15年(1926)出版の西加茂郡誌、昭和46年(1968)猿投町誌に目を通してみましたが、波岩神社の記述は見つけられませんでした。
    地図上からも鳥居の記はみられず詳細は不明です。

  • 越戸発電所全景。<br />左のフェンスが枝下用水で、矢作川から取り込んだ発電用取水口から分流し灌漑用に導いています。

    越戸発電所全景。
    左のフェンスが枝下用水で、矢作川から取り込んだ発電用取水口から分流し灌漑用に導いています。

  • 施設後方右手の森が波岩神社の社叢になります。<br />ここから導水路の橋を渡った右側が社頭になります。

    施設後方右手の森が波岩神社の社叢になります。
    ここから導水路の橋を渡った右側が社頭になります。

  • 橋から取水口の眺め。<br />枝下用水はここから分流され、下流の田畑を潤しています。<br />昔は矢作川上流の枝下から取水していましたが、水力発電施設完成後の枝下用水はここが源流となります。

    橋から取水口の眺め。
    枝下用水はここから分流され、下流の田畑を潤しています。
    昔は矢作川上流の枝下から取水していましたが、水力発電施設完成後の枝下用水はここが源流となります。

  • 波岩神社社頭正面全景。<br />社地後方には杜若高校があり、神社は発電施設と学校の施設に挟まれるように、小さな杜の中に祀られています。<br />社頭には石の明神鳥居と左に手水鉢がありますが社標は見られなかった。

    波岩神社社頭正面全景。
    社地後方には杜若高校があり、神社は発電施設と学校の施設に挟まれるように、小さな杜の中に祀られています。
    社頭には石の明神鳥居と左に手水鉢がありますが社標は見られなかった。

  • 寄進年は未確認ですが、特徴のある手水鉢。<br />冒頭詳細は不明と書きましたが、ただ、境内の鳥居、常夜灯の寄進年が昭和8年(1933)11月となっていました。<br />ここからは推測になりますが、昭和8年は、地元実業家前田氏により前田公園が整備された年で、寄進者名は確認していませんが、恐らく公園整備に伴い創建されたか、越戸ダム・発電所の運転が昭和4年(1929)なので、この施設の建設・運用に伴い祀られたものかもしれません。<br />或いは、波岩の地名を冠するだけに、前田公園から平戸橋にかけての地域の鎮守の可能性もあるかもしれませんが、寄進物に昭和以前のものが見当たらずその可能性は低いのかな。

    寄進年は未確認ですが、特徴のある手水鉢。
    冒頭詳細は不明と書きましたが、ただ、境内の鳥居、常夜灯の寄進年が昭和8年(1933)11月となっていました。
    ここからは推測になりますが、昭和8年は、地元実業家前田氏により前田公園が整備された年で、寄進者名は確認していませんが、恐らく公園整備に伴い創建されたか、越戸ダム・発電所の運転が昭和4年(1929)なので、この施設の建設・運用に伴い祀られたものかもしれません。
    或いは、波岩の地名を冠するだけに、前田公園から平戸橋にかけての地域の鎮守の可能性もあるかもしれませんが、寄進物に昭和以前のものが見当たらずその可能性は低いのかな。

  • 鳥居扁額は「波岩神社」

    鳥居扁額は「波岩神社」

  • 鳥居の先の本殿。

    鳥居の先の本殿。

  • 外から見た社叢は鬱蒼として暗い印象を持ちましたが、程よく伐採され以外に陽光が入る明るい境内です。

    外から見た社叢は鬱蒼として暗い印象を持ちましたが、程よく伐採され以外に陽光が入る明るい境内です。

  • 本殿は見世棚造で鰹木4本の外削ぎの置き千木が付くもので、これをもって祭神が男神・女神かを問う人はいないと思います。<br />時代はジェンダーレスです。

    本殿は見世棚造で鰹木4本の外削ぎの置き千木が付くもので、これをもって祭神が男神・女神かを問う人はいないと思います。
    時代はジェンダーレスです。

  • 境内から社頭の眺め、道路の先は発電所敷地のため、周囲はこうしたフェンスに囲まれています。

    境内から社頭の眺め、道路の先は発電所敷地のため、周囲はこうしたフェンスに囲まれています。

  • 波岩神社社頭全景。<br />由緒がなく、詳細が分からない神社ですが、境内は定期的に手入れされているようです。<br />帰り道はフェンス沿いに発電所をひと回りすれば、枝下用水に続きます。<br /><br />波岩神社<br />創建 / 不明<br />祭神 / 不明<br />境内社 / ・・・<br />祭礼 / 不明<br />所在地 / 豊田市平戸橋町波岩<br />参拝日 / 2024/10/22<br />車アクセス / 勘八稲荷大明神から移動時間5分。

    波岩神社社頭全景。
    由緒がなく、詳細が分からない神社ですが、境内は定期的に手入れされているようです。
    帰り道はフェンス沿いに発電所をひと回りすれば、枝下用水に続きます。

    波岩神社
    創建 / 不明
    祭神 / 不明
    境内社 / ・・・
    祭礼 / 不明
    所在地 / 豊田市平戸橋町波岩
    参拝日 / 2024/10/22
    車アクセス / 勘八稲荷大明神から移動時間5分。

  • 次は波岩神社から車で5分程の場所に鎮座する枝下川神社に向かいます。<br />鎮座地は赤枠部分。<br />矢作川右岸にあたり、矢作川を見下ろす小高い山の頂に神社は鎮座します。<br />現在の地図で勘八稲荷神社から県道11号線に出て右折、青木町1丁目信号の手前100m先で斜め右に進み、民家裏の右方向の突き当りが現地になります。<br />県道から神社に続く入口が見つけにくいかもしれませんが、制限速度で走っていれば見付けられるはずです。

    次は波岩神社から車で5分程の場所に鎮座する枝下川神社に向かいます。
    鎮座地は赤枠部分。
    矢作川右岸にあたり、矢作川を見下ろす小高い山の頂に神社は鎮座します。
    現在の地図で勘八稲荷神社から県道11号線に出て右折、青木町1丁目信号の手前100m先で斜め右に進み、民家裏の右方向の突き当りが現地になります。
    県道から神社に続く入口が見つけにくいかもしれませんが、制限速度で走っていれば見付けられるはずです。

  • 民家裏の細い道の突き当りが写真の枝下川神社社頭になります。<br />石段が小高い山の頂に立つ鳥居に続いています。

    民家裏の細い道の突き当りが写真の枝下川神社社頭になります。
    石段が小高い山の頂に立つ鳥居に続いています。

  • 石段右の「枝下(しだれ)用水と枝下川神社」解説。<br /><br />「米作りに必要な水は、昔から変わりません。<br />明治時代取水は、主に溜池でした。<br />安定した取水に向け枝下用水の開削に乗り出し、農民の要望に応え中心として尽力したのは、西澤真蔵です。<br />西澤眞蔵は弘化元年(1844) 近江の国に生まれ、家業の麻布問屋を営み財を成します。<br />明治20年(1887)枝下用水の工事許可が下りると、出資者としてこの事業に参加しました。<br />枝下用水の工事は、西枝下村の矢作川から取水することから始められました。<br />工事は人力で行われ、岩石の破壊、撤去など難工事です。<br />また、毎年の大雨による土砂崩れや明治24年(1891)の濃尾地震で、工事のやり直しが続きました。<br />そのため、工事費は計画の予算を越え、ほかの出資者は手を引いてしまいます。<br /><br />西澤真蔵は農民に安定した水を与えるという使命のもと、最後まで枝下用水の完成に精魂と私財を投じるのです。<br />明治23年(1890)第1回水路祝賀式典で「全財産は使い果たし、借財も多額に残ったが悔いはない、水田が増える喜ばしいことだ。」と自分に言い聞かせるように話しました。<br />しかし、明治30年〈1897〉労苦が重なり、生涯を閉じました。<br /><br />明治27年(1894)高岡村駒場までの竣工を記念し、ここに枝下川神社が創建され、 昭和43年(1968) 西澤真蔵命を合祀しました。<br />枝下用水の開削に身を投じた西澤真蔵と関係者に感謝を込めて、毎年4月16日に例大祭及び始水式が行われています。」<br /><br />枝下用水は豊田市越戸町内で矢作川から取水し、豊田市南西部へ供給する農業用水で、水路の延長は幹線・支線合わせて約110kmに及びます。<br />灌漑用水の計画は明治9年(1876)頃から計画され、越戸、花本、荒井の有力者らが幾度となく愛知県へ開削計画を提出しましたが、県や国からの許可は下りませんでした。<br /><br />当初は官民共同事業として進められ、県は西枝下村から四郷村唐沢川までの水路の試掘などを行いましたが、現在のような土木機械での作業ではなく、人力の鍬による難工事で、自然災害により工事費用は当初計画の二倍(現在の価値で約6億程)に膨らんでいきました。<br />膨れ上がる工事費用のため、県は事業から撤退、以後は民間事業として行われました。<br />民間事業として支えていた実業家もやがて撤退しました。<br /><br />その後は西澤真蔵と農民有志により進められ、明治27年(1894)に枝下用水の全幹線が完成しました。<br />その功績により、大正9年(1920)には約1,200ヘクタールの土地が開墾され、畑から水田に変わりました。<br /><br />私財を投げ打って完成させた枝下用水ですが、下流の明治用水との取水権問題や、昭和に入って越戸ダム建設に伴い取水口がダム湖に没するまでの39年間、当地に水を供給し続けました。<br />現在は枝下水力発電所から分水された水が枝下用水に導かれています。

    石段右の「枝下(しだれ)用水と枝下川神社」解説。

    「米作りに必要な水は、昔から変わりません。
    明治時代取水は、主に溜池でした。
    安定した取水に向け枝下用水の開削に乗り出し、農民の要望に応え中心として尽力したのは、西澤真蔵です。
    西澤眞蔵は弘化元年(1844) 近江の国に生まれ、家業の麻布問屋を営み財を成します。
    明治20年(1887)枝下用水の工事許可が下りると、出資者としてこの事業に参加しました。
    枝下用水の工事は、西枝下村の矢作川から取水することから始められました。
    工事は人力で行われ、岩石の破壊、撤去など難工事です。
    また、毎年の大雨による土砂崩れや明治24年(1891)の濃尾地震で、工事のやり直しが続きました。
    そのため、工事費は計画の予算を越え、ほかの出資者は手を引いてしまいます。

    西澤真蔵は農民に安定した水を与えるという使命のもと、最後まで枝下用水の完成に精魂と私財を投じるのです。
    明治23年(1890)第1回水路祝賀式典で「全財産は使い果たし、借財も多額に残ったが悔いはない、水田が増える喜ばしいことだ。」と自分に言い聞かせるように話しました。
    しかし、明治30年〈1897〉労苦が重なり、生涯を閉じました。

    明治27年(1894)高岡村駒場までの竣工を記念し、ここに枝下川神社が創建され、 昭和43年(1968) 西澤真蔵命を合祀しました。
    枝下用水の開削に身を投じた西澤真蔵と関係者に感謝を込めて、毎年4月16日に例大祭及び始水式が行われています。」

    枝下用水は豊田市越戸町内で矢作川から取水し、豊田市南西部へ供給する農業用水で、水路の延長は幹線・支線合わせて約110kmに及びます。
    灌漑用水の計画は明治9年(1876)頃から計画され、越戸、花本、荒井の有力者らが幾度となく愛知県へ開削計画を提出しましたが、県や国からの許可は下りませんでした。

    当初は官民共同事業として進められ、県は西枝下村から四郷村唐沢川までの水路の試掘などを行いましたが、現在のような土木機械での作業ではなく、人力の鍬による難工事で、自然災害により工事費用は当初計画の二倍(現在の価値で約6億程)に膨らんでいきました。
    膨れ上がる工事費用のため、県は事業から撤退、以後は民間事業として行われました。
    民間事業として支えていた実業家もやがて撤退しました。

    その後は西澤真蔵と農民有志により進められ、明治27年(1894)に枝下用水の全幹線が完成しました。
    その功績により、大正9年(1920)には約1,200ヘクタールの土地が開墾され、畑から水田に変わりました。

    私財を投げ打って完成させた枝下用水ですが、下流の明治用水との取水権問題や、昭和に入って越戸ダム建設に伴い取水口がダム湖に没するまでの39年間、当地に水を供給し続けました。
    現在は枝下水力発電所から分水された水が枝下用水に導かれています。

  • 石段左の社記、内容は以下。<br />「神社名 枝下川神社<br />鎮座地 豊田市平戸橋町波岩86-8<br />祭神 大水上祖神、西澤真藏命<br />例祭 4月16日<br />由緒<br />本社は西加茂郡西枝下村の矢作川を水源として、岩海群高岡村に至る枝下用水十二里三十一町二十間の<br />竣工を記念して明治27年創建された。<br />主神に大水上祖神を勧請し報賽の誠を捧げると共に、更に一層の加護を祈請して奉祀したものである。<br /><br />枝下用水は明治17年、愛知県の補助を得て越戸・花本・荒井の農民の手により、水源から越戸までがまず開鑿され、次いで同20年 滋賀県愛知郡八木荘の西澤真藏大人外が本格的延長工事に着手し、同27年迄に幹線水路・東用水・中用水・西用水が順次開鑿された。<br />同事業の困難は、筆舌に尽し難く多くの人士と資材を投じ、十有余年の歳月を要し1700町歩にわたる一大灌漑事業はここに完成した 。<br />爾来、枝下用水は営々と改修・改良が続けられて今日に至るが、身命を賭して水路開塾にあたった西澤大人の鴻恩に報いるべく、昭和43年、用水の守護神として合祀した。<br />社殿は昭和63年枝下用水通水百年を記念して、四月新たに造営されたものである。<br />昭和63年4月16日 」

    石段左の社記、内容は以下。
    「神社名 枝下川神社
    鎮座地 豊田市平戸橋町波岩86-8
    祭神 大水上祖神、西澤真藏命
    例祭 4月16日
    由緒
    本社は西加茂郡西枝下村の矢作川を水源として、岩海群高岡村に至る枝下用水十二里三十一町二十間の
    竣工を記念して明治27年創建された。
    主神に大水上祖神を勧請し報賽の誠を捧げると共に、更に一層の加護を祈請して奉祀したものである。

    枝下用水は明治17年、愛知県の補助を得て越戸・花本・荒井の農民の手により、水源から越戸までがまず開鑿され、次いで同20年 滋賀県愛知郡八木荘の西澤真藏大人外が本格的延長工事に着手し、同27年迄に幹線水路・東用水・中用水・西用水が順次開鑿された。
    同事業の困難は、筆舌に尽し難く多くの人士と資材を投じ、十有余年の歳月を要し1700町歩にわたる一大灌漑事業はここに完成した 。
    爾来、枝下用水は営々と改修・改良が続けられて今日に至るが、身命を賭して水路開塾にあたった西澤大人の鴻恩に報いるべく、昭和43年、用水の守護神として合祀した。
    社殿は昭和63年枝下用水通水百年を記念して、四月新たに造営されたものである。
    昭和63年4月16日 」

  • 鳥居へ続く石段の眺め。<br />手摺はないけれど、途中に踊り場もあって、見た目ほど急ではありません。

    鳥居へ続く石段の眺め。
    手摺はないけれど、途中に踊り場もあって、見た目ほど急ではありません。

  • 最後の石段から鳥居と境内の眺め。

    最後の石段から鳥居と境内の眺め。

  • 石の神明鳥居を構え、その先の境内の右に手水鉢、正面の社殿と至ってシンプルです。<br />境内の周りは、濃い緑に包まれ、西側の県道を走る車の騒音、近隣の民家からほどよく遮断された静かな環境です。

    石の神明鳥居を構え、その先の境内の右に手水鉢、正面の社殿と至ってシンプルです。
    境内の周りは、濃い緑に包まれ、西側の県道を走る車の騒音、近隣の民家からほどよく遮断された静かな環境です。

  • 手水鉢から社殿の眺め。

    手水鉢から社殿の眺め。

  • 社殿正面全景。<br />玉垣に囲まれた本殿域に本殿以外の社の姿は見られません。<br />静かな境内の最深部に佇む社殿の姿が印象的です。

    社殿正面全景。
    玉垣に囲まれた本殿域に本殿以外の社の姿は見られません。
    静かな境内の最深部に佇む社殿の姿が印象的です。

  • 祭神は社記にあるように、大水上祖神。<br />川の守護神で、矢作川の水で潤う周辺の守護神。<br />そして、私財を投じてこの地に矢作川の恵みをもたらし、神となった西澤真藏命が祀られています。<br />安城市東栄町の明治川神社には明治用水の守護神として同神が祀られています。

    祭神は社記にあるように、大水上祖神。
    川の守護神で、矢作川の水で潤う周辺の守護神。
    そして、私財を投じてこの地に矢作川の恵みをもたらし、神となった西澤真藏命が祀られています。
    安城市東栄町の明治川神社には明治用水の守護神として同神が祀られています。

  • 本殿全景。<br />昭和63年(1988)に新たに造営された流造のこぢんまりとした社ですが、細部には寄進者の思いが感じられます。

    本殿全景。
    昭和63年(1988)に新たに造営された流造のこぢんまりとした社ですが、細部には寄進者の思いが感じられます。

  • 向拝柱を結ぶ水引虹梁の上には中備の龍が入れられています。

    向拝柱を結ぶ水引虹梁の上には中備の龍が入れられています。

  • 木鼻の獏。

    木鼻の獏。

  • 脇障子には矢作川の流れを昇る鯉の姿が描かれています。<br />川の守護神と矢作川の水の恵みをもたらした西澤真藏命らしい意匠ではないだろうか。

    脇障子には矢作川の流れを昇る鯉の姿が描かれています。
    川の守護神と矢作川の水の恵みをもたらした西澤真藏命らしい意匠ではないだろうか。

  • 本殿域から境内の眺め。<br />創建が新しいとはいえ、手前の松の剪定や雑草が見られない境内から、地元の人から親しまれているのが伝わってきます。

    本殿域から境内の眺め。
    創建が新しいとはいえ、手前の松の剪定や雑草が見られない境内から、地元の人から親しまれているのが伝わってきます。

  • 境内の鳥居から南の眺め。<br />鳥居の寄進年は昭和8年4月と刻まれています。

    境内の鳥居から南の眺め。
    鳥居の寄進年は昭和8年4月と刻まれています。

  • 〆の子の先には矢作川と平戸橋を眼下に望みます。

    〆の子の先には矢作川と平戸橋を眼下に望みます。

  • 間近に水源がありながら、旱魃に苦しんで来たこうした土地は、なにも当地に限らない。<br />こうした大事業に拘わらず、山奥の沢から里に導く小さな導水路などはどこでも見られます。<br />耕作放棄地や宅地化され、田畑は消え導水路の有難味を肌で感じる事はないかもしれない。<br />そうした当たり前の水が先人達の智恵と情熱の結晶の賜である事を忘れてはいけない。<br /><br />枝下川神社<br />創建 / 明治27年(1894)<br />祭神 / 大水上祖神、西澤真蔵命<br />境内社 / ・・・<br />祭礼 / 4月16日<br />所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-8<br />参拝日 / 2024/10/22<br />車アクセス / 波岩神社から移動時間5分。

    間近に水源がありながら、旱魃に苦しんで来たこうした土地は、なにも当地に限らない。
    こうした大事業に拘わらず、山奥の沢から里に導く小さな導水路などはどこでも見られます。
    耕作放棄地や宅地化され、田畑は消え導水路の有難味を肌で感じる事はないかもしれない。
    そうした当たり前の水が先人達の智恵と情熱の結晶の賜である事を忘れてはいけない。

    枝下川神社
    創建 / 明治27年(1894)
    祭神 / 大水上祖神、西澤真蔵命
    境内社 / ・・・
    祭礼 / 4月16日
    所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-8
    参拝日 / 2024/10/22
    車アクセス / 波岩神社から移動時間5分。

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