2025/06/27 - 2025/06/29
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この旅行記のスケジュール
2025/06/27
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二子城(飛勢城)跡
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手作りクッキーの水曜屋
2025/06/28
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江釣子城跡
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岩崎城跡
2025/06/29
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更木館跡
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黒岩城跡
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浮牛城跡
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北上市には和賀町が有ります。その名が残る、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年あまり続いた、和賀一族がいました。しかし、1691年豊臣秀吉の奥州仕置により改易され、その後に起こった和賀一揆で滅亡します。和賀氏はどんな城・館を持っていたのか気になり、和賀一族のお城めぐりに行きました。長く住んだ街ですが、お城めぐり目的では初めて訪れました。
6月27日(金)二子城
6月28日(土)江釣子城・岩崎城
6月29日(日)更木館・黒岩城・浮牛城(伊達藩)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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6月27日(金)二子城大手門跡
二子郵便局の交差点を左折して、300m位の右側に柱標が有ります。 -
確かな位置は不明です。
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和賀二子城の大手門は慶長19年(1614)の頃、時の花巻城主南部彦九郎政直が花巻城の築城整備にあたり、この材料を引き上げ、三の丸からめ手である円城寺坂に移築しました。
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二子城跡/別名飛勢城(とばせじょう)
和賀氏の本城で和賀郡最大の城郭跡。その全体規模は南北約1,000メートル、東西約500メートル。ほぼ中央の通称「飛勢の森(現八幡神社境内)」は標高約130メートル、沖積地から約70メートルで最も高く、その周囲に平常居館や家臣屋敷が配置され、東側沖積地には宿(しゅく)と呼ばれる城下集落が形成されています。 -
二子城を二分している市道秋葉線から本丸跡に向かいます。
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飛勢城跡石碑
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広い駐車場が有り、トイレも完備しています。
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二子城跡 見取図
『きたぶら』 より
https://kitakami-kanko.jp/location/iwasakijo/
和賀氏の出自および系譜に関しては数々の伝承記録が伝えられ、鎌倉時代に刈田系和賀氏の弟小田島が姓を和賀と改め、ここを本拠としていました。兄刈田系の和賀氏は、黒岩の岩崎城を本拠とし、やはり和賀氏を称し和賀郡半の総領地頭でした。 -
南北朝時代、二子和賀氏は南朝方に属し西和賀方面の一族や仙北郡(秋田県)本堂氏(小田島氏支族)と力を合わせ大勢力となっていきました。
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二子八幡神社
一方、黒岩和賀氏側は、支族鬼柳氏側より後継者を迎え鬼柳氏らと共に北朝方として活躍しました。1400年(応永7年)からは二子城に移り、和賀郡一円を支配する和賀氏の本城として確立されていきました
鬼柳氏:和賀氏宗家3代・泰義の庶子とされる光義が和賀郡鬼柳(現在の北上市鬼柳地域)に所領を与えられたのに始まる。応永8年(1401年)以降、宗家に変わって和賀郡一円の惣領頭となった。元南部藩士鬼柳氏は和賀氏の歴史を伝える有力史料である『鬼柳文書』を伝えている。 -
八幡神社本殿
室町時代には、和賀氏の家運に消長はありましたがそれでも奥州の大名として、奥州探題の御所へ集まれば上席の地位でした。 -
八幡神社は全国に四万四千社あるとされ、その総本社は宇佐神宮(大分県)です。
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二子城の築城年代は不明ですが、1591年(天正18年)義忠の代に豊臣秀吉の奥州仕置によって廃城となりました。
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和賀はアイヌ語で綺麗な水のことを「ワッカ」と呼ばれたことに由来しています。
和賀は、平安時代に奥州和賀郡という郡名が成立し、「和賀」の地名自体は、奥六郡(陸奥国の新設6郡)の一つとして940~950年ごろに誕生したとされ、以降、郡名や支配氏族の名として定着しています。 -
北上駅の北東・主要地方道北上・東和線の北上川に架かる昭和橋から二子城址(飛勢城跡)を見ます。
城跡は北上川湾曲部西岸の丘陵地帯あり、二子という名は地内北西部に小山が二つ並んでいることからこう呼ばれています。 -
永明寺
住所 岩手県北上市二子町坊舘127 -
山門の中で阿吽が番人です。
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和賀氏の菩提寺として古くから歴史があり、毎日夕刻の晩鐘を耳にしている地域の人々に親しまれる寺院です。
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永明寺敷地はかつて小田島屋敷が有りました。
和賀氏居館である白鳥館東側に隣接しています。 -
和賀神社
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和賀神社は、「我等が祖和賀氏」を出版した二子出身の事業家及川銀太郎氏が創建しました。
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二子城内白鳥館の跡地には和賀神社と白鳥神社が鎮座しています。
白鳥神社は宮城県の刈田峯神社(かったみねじんじゃ)を勧請したものと伝わり、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭っています。
これは和賀氏が中世元仁元年(1224年)奥州刈田郡(現宮城県)から和賀郡へ所替えになったことによるものです。 -
道祖神社
沢山の神様が同居しています。 -
木の先は断崖で、北上川に続いています。
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八幡神社参道入口と一の鳥居
入口の岡崎型狛犬 -
二の鳥居
和賀氏居城 八幡神社表参道の石段
198段をのぼる一直線の石段は、和賀氏の歴史を物語るとともに圧倒的な景観を有しています。 -
登った右側を行くと二子城(飛勢城)跡奥の展望台下方に、 高村光太郎の文学碑があります。
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文学碑の上に見晴台があり、北上川もよく見えます。
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北上川は、幹川流路延長249km、流域面積10,150 km2の一級河川 であり、現在は木がしげっていますが、山城として利用されていた頃は、写真のような木々はなかったので、より広く軍事目的の交通路と活用されていた北上川の水運を監視することができたでしょう。
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物見跡入口
八幡館側よりの通路です。かなり急峻です。 -
物見跡
愛宕神社が祀られている。 -
隣接して飛勢高区配水池のタンクが建っています。
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飛勢低区配水池のタンク
狸と目が合いました。 -
主要地方道北上・東和線
二子郵便局付近からの二子城跡遠望 -
手作りクッキーの水曜屋
ジャンル 洋菓子、パン、ベーグル
予約・問い合わせ 0197-62-5816
住所 岩手県北上市二子町宿西49-2 -
クッキーの色々
女性客が沢山訪れていました。 -
クッキーギフトボックス 50%off ¥320-
クッキーザッツチョコ 3*260= ¥780- -
6月28日(土)江釣子城跡
江釣子城(えずりこじょう)の遺構は総て消失しており、現況は江釣子小学校付近。北側にわずかに堀と土塁が残る。
城主は江釣子民部吉資で、和賀氏の重臣であり、慶長5年(1600年)岩崎一揆の発起人の一人です。 -
北上市民江釣子体育館の横に立っています。
築城年代は不明。和賀川北岸の台地を中心とする大郷で、南北交通の要地であった。天正18年(1590)奥羽仕置に伴い、和賀氏は失領し、江釣子城は三戸南部氏の持城になり、二年後の天正20年(1592)に破却されました。 -
岩崎城跡
※ 写真右下にある天守閣を模した建物(旧岩崎地区交流センター)は、老朽化の為、平成20年に取り壊されております。
『きたぶら』 より
https://kitakami-kanko.jp/location/iwasakijo/ -
岩崎城は和賀氏が最後に籠った城で、和賀川と夏油川にはさまれた台地上にあります。
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台地上には三つの曲輪(くるわ)が東西に並び、中央の曲輪が本丸跡です。各々の曲輪は空堀(からほり)と土塁で区画されています。西端の曲輪(三の丸)の西は組小路(くみこうじ)といわれ、武家屋敷が並んでいました。現在は運動公園になっています。また、台地の北崖下には城内地区がありますが、そこは普段の住まいのある二の丸があったところです。城内地区の中央を東西に古道が延び、それに沿って掘や土塁があり、屋敷群があったと言われます。
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鬼剣舞の石碑等が設置してあります。
ユネスコ重要無形民俗文化財です。 -
本丸跡
岩崎鬼剣舞
北上和賀地方に伝わる鬼剣舞の源流。起源は大宝年間(701~704)に修験の祖である役の行者小角が念仏を唱えながら踊ったのが始まりとも、大同年間(806~810)に羽黒山の法印善行院が大日如来の化身から悪魔退散・衆生済度の念仏踊りとして伝えられたともいわれている。 -
岩崎城 桝形
延文5(1360)年、岩崎城主の岩崎弥十郎が主君の和賀政義を城に招き、剣舞を踊らせたところ政義が大いに喜び、家紋の笹リンドウの使用を許したという。
岩崎城が作られた時期は、正確にはわかりませんが南北朝時代(1336年~1392年)にはすでにあったとおもわれます。 -
空堀
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に参陣するよう、命令され、和賀氏も評定により鬼柳一族の相去清三郎を代参させようとしたが、昆土佐(こんとさ)らの反対にあって機を逸した。しかし、どれほど参陣の必要性を理解していたかは疑わしい。中央の情勢が的確に把握されていなかったようです。 -
1592年(天正20年)には、豊臣秀吉の命令により南部氏によって破壊されました。岩崎一揆のあとには、南部家臣の柏山伊勢守明助が入城しましたが、その後いつまで続いたかははっきりしません。
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1600年(慶長5年)、和賀忠親は旧領地を奪い返すため一揆を起こしますが失敗し、ここ岩崎城に籠もり南部勢と激戦になりましたが翌年4月、城はついに陥落しました。
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土塁
岩崎一揆は慶長5年(1600)9月から翌年4月4日まで続いたが、長期の籠城戦を展開できたのは、伊達政宗の裏工作で武器や軍糧の補給があったためであり、戦国的野心旺盛な政宗の野心を受けた和賀氏は滅亡してしまいます。
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周囲は急峻な崖になっています。
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舫の桜(もやい)
和賀江嶋築港に鎌倉幕府の御家人だった和賀三郎盛綱が工事を行った縁で鎌倉市と交流しています。原産地の桜『舫の桜』を植栽しています。
和賀江嶋港
鎌倉時代の1232年に築かれた防波堤・人工島であり、現存する日本最古の築港遺跡 -
現在は運動公園になっていますが、当時は組小路(くみこうじ)といわれ、武家屋敷が並んでいました。
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岩崎城跡を見上げて。
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6月29日(日)更木館跡(さらきだて)
中世和賀氏の城館跡です。黒岩城から本拠を移したとされ、さらに後には更木館から二子城に居城を移したという。
地元では館主として多田(和賀)式部太輔忠明の名が伝わっている。 -
矢印付近にいると思われます。
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南北の沢にはさまれた丘陵先端で、大きさは東西400m、南北200m、北上川東部最大の城館(じょうかん)。中心部が頂部にあり、東側に平坦地が続く。
北上川の氾濫原にのぞむ高さ数10mの丘陵先端に築かれている。手前斜面に段がみられるが、かなり農地に改変されている。 -
しらゆり公園
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ヤマユリがたくさん植えられています。
開花時期には百合の強烈な匂いが漂います。 -
キオクシアの工場が良く見えます。
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更木館跡の遠景
樹木で良く解りません。農地に改変されたようですが農地も解りません。 -
黒岩城跡
名称 黒岩城跡(岩崎塞)
所在地 北上市黒岩第18地割
北上川の東側(左岸)に有り、現在の北上市街地とは反対側に有ります。 -
アクセス方法 黒岩の正洞寺付近が城跡であり、千曳城と呼ばれる城の中心部がその北にある。
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館神
1221年(承久3年)の承久の乱により後鳥羽上皇に組した将兵の領地は、すべて没収となり、和賀郡は刈田義行に与えられ、和賀氏を称する事になります。
和賀義行は黒岩村の岩崎へ砦を構え館を設けました。ここが和賀氏の本家となります。 -
黒岩・千曳城の当時 予想復元図
説明版の裏に、隠れるように張ってありました。 -
黒岩・千曳城付近の現況
畑 -
正洞寺
城跡から空堀を越えた南側に有ります。城の一部です。 -
正洞寺
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正洞寺と黒岩・千曳城の間の空堀
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付近の民家のスカシユリ
日本原産のユリで、ユリのなかでは比較的育てやすい -
黒岩地区交流センター
この付近も城跡です。 -
写真の左側にも城の範囲が続いていました。
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ランチ
里山Cafe 多三郎山荘
2014年に訪れて以来のレストランです。
当時は年配の夫婦が切り盛りされていましたが、若い経営者に代わっていました。里山Cafe 多三郎山荘 グルメ・レストラン
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メニュー
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季節のランチ ¥1,500-
白身魚のから揚げ和風タルタル
本日のスープ
季節の小鉢
フレッシュサラダ
ごはん
ミニデザート
コーヒー -
彩り野菜カレーセット ¥1,400-
本日のスープ
季節の小鉢
フレッシュサラダ
ミニデザート
コーヒー -
満席だったのですが、最後の客だったので店内を撮影
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上口内要害(浮牛城ふぎゅうじょう)
城は伊達藩領で、上級家臣を配置し、館と知行地を与え小領主とし、地域を支配させていました。伊達藩と南部藩を結ぶ脇街道で、軍事上の重要な地でした。
産直「あぐり夢くちない」に隣接しています。 -
浮牛城配置図
あぐり夢くちない
住所;岩手県北上市口内町松坂214―4あぐり夢くちない お土産屋・直売所・特産品
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上口内要害は、別名浮牛城(ふぎゅうじょう)(お館)で、城(館)を中心に小城下町をつくり、100人位の武士団が常住していました。
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あぐり夢くちない駐車場からの浮牛城跡方面
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城は、孤立状の丘陵にあり高さ30m・東西200m・南北130mの平山城で、本丸・二の丸があり、周囲は水掘り・空掘・土塁・矢来をめぐらしていた。
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浮牛城は、安倍貞任の築城で、牛三頭を生き埋めにして鎮護したと伝えられています。鎌倉時代には、この地方の国守葛西氏七党のひとり江刺氏の一族、口内氏がいましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で、追放され南部領へ移りました。伊達領となり、中島氏(一族)で、明治維新をむかえました。
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丘の上が本丸跡です。
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本丸跡
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説明版
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浮牛城跡
東屋 -
浮牛城(上口内要害) 梵字池
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本丸跡からの景色
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大手門跡付近から本丸跡を見上げる。
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浮牛城 二の丸跡
和賀氏が滅亡後、南部藩と伊達藩が藩境を接するようになり、両藩とも藩境地帯を固めることを特に意識して配置しました。
今まで知らなかった地元周辺の歴史を少し学ぶことが出来ました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ポテのお散歩さん 2025/08/03 23:13:43
- 和賀氏の苦悩
- 164-165さん こんばんは。
まだ、この頃は 天守を持たない時代の城跡で
古い歴史があるのだなと感じます。
お城と言えば、天守があると思っていたのですが、
天守を持つ時代は江戸時代が多く、それ以前は山城や城柵だったのですね。
そういえば、『女城主直虎』を観ていた時も、天守は無かったです(^^)
秀吉の小田原征伐に参陣するかどうか、この地で何度も話し合い、
たった一度 行かなかった事で兵を向けられる事となった
その風景が、かすかに残された痕跡が語りかけているようです。
小田原征伐に参陣したらしたで、近隣から攻めて来られる不安もあり、
和賀氏の苦悩が偲ばれます。
里山Cafe 多三郎山荘さん、雰囲気が良いお店ですね。
コーヒーだけでなくデザートまで付いて、これは人気がありそうです♪
和賀氏が滅亡したのちの、南部藩と伊達藩の藩境は
その力の大きさを考えると、相当ピリピリしていたのではないかと空想します。
夏真っ盛りなので、御自愛下さいね(*^-^*)
ポテ
- 164-165さん からの返信 2025/08/04 10:54:44
- Re: 和賀氏の苦悩
- ポテさん いつもコメント頂き感謝しています。
確かに飛勢城・岩崎城他の城は天守を持たない館や木柵でできていたようです。石垣も東北のその時代ではなかったようです。
『女城主直虎』をご覧になっていたのですね!私もリバイバル放送で全部見ました。あの番組で「井伊直政」に興味を持ちました。
秀吉の小田原征伐に参陣していたら世の中大分変っていたでしょうね?しかし、世の中を見る目が乏しかったのでいずれは滅亡していたと思われます。
里山Cafe 多三郎山荘は辺鄙な場所にあるのですが、人気のレストランです。
南部藩は伊達政宗の策謀を恐れて、藩境を厳重に監視していました。しかし、後には、北上川の舟運を開発してウインウインの関係を持っていたこともあったようで知ると面白いことが分かってきます。
京都は毎日暑いですね。オーバーツーリズムの問題も連日放送されていて、住みにくくなっているかましれません。
お大事になさってください。
【164-165】
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