2025/04/15 - 2025/04/19
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manmaさん
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この旅行記のスケジュール
2025/04/15
2025/04/19
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義母の13回忌に京都に行きます。それならば、長年行きたいと思っていた長篠、設楽原、桶狭間古戦場、清洲城、岐阜城、坂本城、安土城、関ヶ原…。今まで行きたいと思っていた所をぜーんぶ回ってくるのはどう?
近頃といえば、夫ともども、どうにも年齢を感じずにはいられない。新幹線じゃなくて車で行くなんて、ここらで行っておいた方がいいんじゃない?
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝5時10分に千葉の自宅を出発して10時40分、愛知県新城市の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)のお墓(胴塚)に着きました。
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新東名高速近くの畑の中を歩いて、
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鳥居強右衛門磔死(たくし)の碑へ来ました。
鳥居強右衛門磔の跡 名所・史跡
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牛渕橋から長篠城のあった場所を眺めます。
ここから見ると豊川と宇連川が合流する断崖上にあって、天然の要害であったということが理解できます。長篠城址 名所・史跡
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長篠城跡に行く途中で馬場信房(信春)のお墓に寄りました。武田信虎、信玄、勝頼と武田家3代に仕え、鬼美濃と言われた馬場信房でしたが長篠の戦いで、織田・徳川連合軍から敗走する武田軍の殿(しんがり)を務めて亡くなりました。
その働きぶりは『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されているそうです。
馬場信房は深志城(ふかしじょう)の城代でした。
深志城を何度か改修し、今の姿になったものが松本城です。
秀吉の時代には石川数正が松本城を治め、天守を造りました。NHKの大河ドラマ、「どうする家康」では松重豊さんが演じていました。馬場信房、石川数正が治めた松本城を今度じっくり見てみたいと思っています。馬場信房の墓 名所・史跡
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長篠城本丸跡に来ました。
鳥居強右衛門は長篠城城主・奥平信昌に仕えた足軽です。武田軍に攻められた長篠城から岡崎城にいる徳川、織田軍に応援を求めて、豊川と宇連川の合流地点近くから川に潜ぐりました。そして3日間で岡崎と長篠間を往復しました。今の時代ならトライアスロンに出られそうです。長篠城を目の前に武田軍に捕らえられた強右衛門は援軍が来ることを叫んで、磔(はりつけ)にされました。鳥居強右衛門磔の跡 名所・史跡
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長篠城址史跡保存館、設楽原歴史資料館は定休日なので、長篠の戦い決戦場に向かいました。
長篠城址 名所・史跡
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途中、道の傍に甘利虎泰の息子、信康のお墓がありました。武田勝頼はこの戦いで多くの武将を失いました。
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連吾川沿いに馬防柵が再現されています。
馬防柵 名所・史跡
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長篠設楽原パーキングエリア内の長篠陣屋食堂で昼食にしました。新城インターから高速に乗りパーキングに停めて食事をするつもりだったのですが、Google map検索をしたら一般道で案内されました。一般道からも、高速道路からも利用することが可能です。
長篠設楽原パーキングエリア(下り) 道の駅
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信長本陣跡に抜ける通路に火縄銃などが展示されていました。
長篠設楽原パーキングエリア(下り) 道の駅
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信長の本陣跡には長篠設楽原パーキングエリアから歩いて行けます。
織田信長戦地本陣 名所・史跡
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パーキングエリア自体が高い場所にあるので、茶臼山頂上にある本陣へもすぐに着きました。
織田信長戦地本陣 名所・史跡
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新城インターに戻って高速道路で名古屋の熱田神宮へ来ました。
信長塀です。桶狭間出陣の際に熱田神宮で戦勝祈願した信長が大勝したお礼に寄贈したものです。熱田神宮 寺・神社・教会
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今日のホテルはマイステイズホテル名古屋栄です。上下別のパジャマなのが嬉しいです。
ホテルマイステイズ名古屋栄 宿・ホテル
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朝食にはあんこがありました。トーストを焼いて名古屋名物餡トーストにしました。
ホテルマイステイズ名古屋栄 宿・ホテル
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2日目。桶狭間古戦場公園です。
左端の石碑に「今川義元戦死之地」と刻まれています。
左の石には「今川義元公」と刻まれ裏面に昭和8年建立と書かれています。右の石には「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻まれています。墓碣とは埋葬箇所に建てる目印の石や木の柱のことだそうです。説明板には昭和28年に偶然に出土したと書かれていました。桶狭間古戦場公園 公園・植物園
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今川義元が水を飲むために馬を繋いだというねずの枯れ木です。
桶狭間古戦場公園 公園・植物園
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昭和初期のこの辺りの写真です。写真後方の森がおけはざま山であり、その手前に広がる田園が義元最後の地であったという説明は説得力があります。
桶狭間古戦場公園 公園・植物園
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桶狭間古戦場公園から車で5分はどの所に桶狭間古戦場伝説地はあります。
こちらは国の史跡に指定されています。桶狭間古戦場伝説地(国指定史跡) 名所・史跡
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塚だった所に明治9年に義元の墓が建てられました。
桶狭間古戦場公園と古戦場伝説地はどちらも今川義元最後の地を謳っています。桶狭間古戦場伝説地(国指定史跡) 名所・史跡
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清洲城に来ました。平成元年に再建されたものです。
信長は清洲城で10年ほどをすごしたそうです。桶狭間の戦いには、この城から出陣しています。清洲城 名所・史跡
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信長が桶狭間の戦いに臨んで舞ったという幸若舞について説明されています。
清洲城 名所・史跡
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廊下に展示された戦国中スポがとても楽しいです。広告までが当時風に作られています。
各新聞の文字を起こしましたが、長いです。清洲城 名所・史跡
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ついに宿願なる! 御正室・濃姫様との婚礼以来、小康状態にあったの美濃との関係は、信長公の舅にあたる故・斎藤道三の死によって潰え、長年にわたり織田家内紛の火種となってきた。自らに叛いた実子・義龍よりも信長公の器量を評価していたとされる今は亡き道三のためにも、また尾張支配を盤石なものにしたい信長公にとっても、美濃攻略は宿願だったと言えるだろう。
「岐阜」命名の由来
古代中国で周王朝の文王が天下太平の礎を築いたとされる「岐山」の「岐」と、学問の祖である孔子の生誕の地「曲阜」の「阜」を合わせ太平と学問の地であれとの意味を込めて信長公の命により、旧稲葉山城とその城下町に命名された。
永禄6年(1563)、本格的な美濃攻略を企図して、拠点を清須城から小牧山城へ移した信長公は、その後、あらゆる外交手段を用いて美濃国人衆の調略や美濃包囲網の形成を進めてきた。永禄 9年(1566)には、東美濃の国人衆、遠山氏、遠藤氏、西美濃の市橋氏、高木氏、坪内氏などの調略に成功し、稲葉山城(金華山城)の孤立化に成功。
同年8月には、美濃に出陣したが、河野島で斎藤勢と戦い大損害を被った。美濃攻略の絶好の機会と思われていたが、実は当時、まだ機が熟していなかったようだ。これを教調にした信長公はひとまず矛先を変え、美濃の西南端を制圧し、伊勢大湊から美濃への流通を阻害するとともに北近江の浅井長政に、妹君・お市様を嫁がせて美濃包囲網を完成させていた。これによって危機感を抱いた美濃衆の動揺は、信長公の家臣・木下藤吉郎が成し遂げた「美濃三人衆」と呼ばれる斎藤氏の重臣、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の調略成功によって決定的となった。永禄10年(1567)8月、信長公は三人が申し入れてきた人質がまだ小牧山城に届かないうちに美濃へ兵を向け稲葉山と尾根続きの 瑞龍寺山を占拠した。斎藤方では信長公の来攻を予期できず、 家臣たちは領国内の支城に散らばっていたため、稲葉山城下を埋め尽くし井ノ口を焼き払って城を包囲する織田軍団の来攻に大いに慌てたようだ。迎え 撃つ斉藤氏の当主・龍興は、故・斎藤道三の孫にあたり、病に斃れた義龍の庶子で、父の死によりわずか13歳で家督を相続した。龍興は信長公の侵攻に対抗するため、北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。
しかし信長公に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に浅井長政までもが美濃に侵攻するようになった。このときは義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻しため、 長政は美濃攻めを中止していたが、周辺からひしひしと迫る包囲網の脅威におびえ次第に反攻の力を削がれていったとも考えられる。いずれにせよ、決定打となったのは今回の美濃三人衆の離反だろう。その意味では調略に成功した木下藤吉郎の功績を評価する声もあるが、木下は信長公の小者から成り上がっているという出自もあって、現在、織田家中でその存在を重要視する者は多くない。
8月15日、激闘の末稲葉山城はついに降伏開城。当主・斎藤龍興は一命を助けられ、伊勢長島へ落ちのびた。 これにより尾張・美濃 二国を平定した信長公は金華山城と呼ばれていた稲葉山城を「岐阜城」と改名した。古来「濃尾を制する者、天下を制す」とも言われており、この先、「信長公の野望」がどこに向かうのか?目が離せない。清洲城 名所・史跡
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武田信玄の存命中、武田氏に属していた長篠城主・奥平信昌が、天正元年(1573)の信玄没後に、徳川家康の調略を受けて徳川方についたことに端を発する長篠・設楽原の戦いは、設楽原における最終決戦において、織田軍団の歴史的勝利で幕を閉じた。信長公考案と思われる新戦術が戦場に炸裂した時、 風林火山の伝統は木っ端みじんにはじけ飛んだ。
奥平の寝返りに激怒した信玄の後継者・武田勝頼が天正3年(1 575)4月、一万五千の大軍を率いて長篠城を攻撃したことで戦端が開かれた。長篠城では城将・奥平信昌以下五百人ほどの寡兵で、大軍の猛攻を支えながら家康に援軍を要請。これを受けて、信長軍およそ3万と家康軍およそ8千が長篠城西方の設楽原に到着したのが5月18日のことだった。これを知った武田陣営では直ちに軍議が開かれ、信玄時代からの重臣たちは信長自らの出陣を知って撤退を進言したとも言われているが、勝頼は長篠城の牽制に二千ほどの兵を残すと主力となる一万三千の兵を設楽原に向けた。
しかし、このとき既に、信長公は設楽原に防御陣を築かせる一方、酒井忠次が率いる別働隊を鳶の巣山に向かわせ、長篠城を監視する5つの砦を背後から急襲し、長篠城包囲網の無力化に成功する。この攻撃によって退路を断たれた勝頼は、設楽原の野戦に引きずり出されたかたちになった。
鉄砲による新戦術
三段式装填法
5月22日、設楽原において織田・徳川連合軍対武田勝頼軍の決戦の火ぶたが切られた。
例年なら梅雨にあたるこの時期、この日だけはなぜか快晴だった。織田・徳川連合軍は馬防柵に守られ、三段に分かれて横一列に配置された鉄砲隊の間断ない一斉射撃で次々と武田騎馬軍団を打ち倒し、早朝から昼過ぎまでの戦いは、織田・徳川連合軍の圧勝で終結した。
現地からの報告によると武田軍の犠牲者は一万二千人にも達しており、信玄以来の多くの重臣達が命を落とした。武田家がこの戦いで受けた 被害は甚大で回復は不可能と見られており、 新羅三郎以来の甲斐の名門は存亡の危機に立たされたといえる。清洲城 名所・史跡
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去る9月9日、朝廷より豊臣姓を賜った関白・豊臣秀吉は12月25日、太政大臣の宣下を受け、名実ともに位人臣を極めた。今や政権中枢で肩で風を切る大名たちの中にも、出自や経歴があやしい方々も数多く存在する中、農民から関白ならびに太政大臣の位に登りつめた人物は、本邦開闢以来例がなく、まさに史上初の快挙ともいえよう。
4年前の天正10年 (1582)、本能寺に 斃れた主君・信長公の敵、明智光秀を山崎の戦いで破り、一躍信長公の後継者として歴史の表舞台に登場した秀吉。しかしその道は平坦なものではなかった。山崎の戦い後、清須で行われた信長公の跡目決定会議では対立する柴田勝家を抑え込み、信長の嫡子で、本能寺の変で共に滅んだ信忠の忘れ形見・三法師(織田秀信)を擁立して、信長公亡き後の後継者としての地位を確立したが、織田家中の門閥意自の低さなどから様々な敵対勢力と矛を交えることとなった。
しかし秀吉の強さは、他の織田家中の武将たちに比べると群を抜いている。鬼柴田と称された柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗北し、自刃。ついで信長公の 次男・信雄と同盟した徳川家康とも小牧・ 長久手での対陣、後に臣従を誓わせてている。
その後は紀伊、四国、越中、と転戦し。敵対勢力をあるいは下し、あるいは調略して多くは秀吉に城下の盟を誓わせている。
しかし、九州の島津氏や奥州の伊達氏、さらには関東に巨大な根をはる小田原の北条氏など未だ秀吉の覇権確立に対し、頑強に抵抗する勢力もあり、予断は許されない状況だ。しかし現在の秀吉の勢いは本物だと見る向きも多い。
何といっても「海道一の 弓取り」と称される徳川家康が臣従し、越後の龍、上杉謙信の 衣鉢を継ぐ名将・上 杉景勝が臣下の礼をとったのも、秀吉の覇 権確立の大きなフォローとなっている。
このまま秀吉が勝 ち続け、その覇権が確立すれば、応仁の乱以降百年にも及んだ戦国の世に終止符を打つことになり、まさに位人臣を極めるに足る最大の功績となるだろう。しかし秀吉に は大きなウィークポイントがある。新興の成り上り者であるため、譜代意識を持った家臣に恵まれず、秀吉本人に臣従したとしても、新興の「豊臣家」に対する忠誠心がどれほどのものかは図れない。今だに子がなく、明確な血縁後継者がいない秀吉の基盤は決して強固なものとは言い難いようだ。今後の動向に注目したい。清洲城 名所・史跡
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慶長5年(1600) 9月15日、豊臣秀吉 亡き後の天下を狙う 徳川家康と、秀頼を頂点とした豊臣家による政権維持を目論む石田三成の覇権を賭けた「天下分け目の戦い」が美濃国関ヶ原において、日本全国の武将を東西に二分して行われた。まさに戦国時代の総決算とも言えるこの戦いを制したのは徳川家康を総大将とする東軍。わずか1日の戦いで、勝敗が決したこの世紀の大会戦の詳細をリポートする。
【前哨戦】
上杉討伐を口実に諸将を率いて会津へ向かう途中、小山で石田三成挙兵の報に接した徳川家康は、上杉攻めを中断し、西上を開始した。一方、三成は、挙兵と同時に家康の家臣・鳥居元忠が城番をつとめる伏見城を陥落させる。その後、近畿や伊勢の諸城を攻略し8月には西軍の拠点となる大垣城に入城した。一方家康率いる東軍は福島正則、池田輝政を先発組と出すために、三成の居城である佐和山城を落とし、大坂を目指すとの流言を流す。これによって三成は夜陰に紛れ大垣城を脱出し、決戦の地となる関ヶ原に引き出された。
【午後8時】
当日、関ヶ原は濃霧に包まれていたが、日が登り、霧も晴れ西軍の旗指物が徐々に見え始めた午前8 時頃、先鋒の福島隊が、宇喜多隊に発砲し、これを合図に東軍の攻撃が始まった。
【午前9時~10時】
両軍は一進一退を繰り返していた。西軍は地の利を生かし、東軍の度重なる波状攻撃をしのいでいた。
【午前1時】
西軍の善戦で、東軍は押されぎみになる。戦況有利と見た三成は、総攻撃の狼煙を上げるが、家康と内通していた吉川隊が、毛利隊の参戦を阻んだ。一方 家康は、内応を約したにも関わらず、日和見をきめこんでいた小早川隊に一斉射撃を命じ、これに驚いた小早川隊は、大谷隊に攻撃を開始する。
【午後1時】小早川隊の裏切りで西軍は浮き足立ち、小早川の攻撃をささえていた大谷隊も、西軍諸隊の裏切りにあい遂に潰走する。
【午後2時】
西軍の諸隊が壊滅する中、石田、島津隊は頑強に東軍と抗戦していたが、優位に立った東軍の猛攻に、遂に石田隊が崩れた。最後に残った島津隊は、家康本陣前の敵前突破を敢行し、辛くも退却に成功した。天下を分けた合戦は、わずか6時間で勝敗が決して、東軍の大勝利となった。この戦いの勝利によって家康の覇権は確実となり、 今後の豊臣政権の行く末には重い暗雲が垂れこめている。清洲城 名所・史跡
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誰がいったい予測したであろう。昨日まで覇権の頂点にいた信長公が、その腹心中の腹心ともいえる惟任日向守明智光秀の謀叛にあってこの世を去るなどという事を。
しかし、これは現実の出来事であり、われわれはこの事実を厳粛に受け止めねばならないだろう。
6月2日未明、京都・本能寺で事変が起こった。信長公が宿所としていた本能寺を、あろうことか腹心中の腹心と目されていた明智光秀率いる一万三千の軍勢が取り囲んで火を放ち、信長公が横死したというのである。事変はさらに続き、信長公より一足先に上洛して二条御所に移動していた嫡子・信忠公も明智勢の攻撃を受け、奮戦むなしく戦死したことが確認されている。
その後の取材により、明智光秀の謀叛は事実だが、本能寺の延焼が激しく、明智勢の必死の探索にも関わらず信長公の遺体は未だ発見に至っていない という。しかし事の経緯や本能寺から逃れることができた人々の証言によると、信長公の自害は間違いないものとみられている。
一体何が謀叛のきっかけとなったのかは不明だが、前後の出来事を追うことで、この事変の流れを検証してみたい。5月15日、信長公は安土城で徳川家康を歓待していた。家康の来訪は先の長篠・設楽原の戦いにおける援軍助成と駿河国加増への御礼言上のためであり、信長公も清須同盟以来、変わらぬ律義さで盟約を守り続ける家康に対する好意と感謝もあったのだろう。
この日家康の接待を拝命したのが明智光秀だった。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなしたという。家康の接待が続く中、信長公は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者から援軍の依頼を受けた。信長公は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じたが、この前に、光秀の接待内容に不満を覚えた信長公が光秀を折檻したという未確認情報もある。信長公が中国遠征の出兵準備のために安土を発って上洛の途についたのは 5月20日のことだ。これが最後の上洛になるとは信長公とて知る由もなかったことだろう。
その後、京の本能寺に逗留していたところへ、秀吉の援軍を命じていたはずの明智軍が 突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を取り囲んで襲撃したというわけだ。百人ほどの手勢しか率いていなかった信長公は、自ら槍を手に奮闘したとの証言がある。しかし多勢に無勢、もはやこれまでと居間に戻った信長公は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した模様だ。享年49歳。信長公亡き後、どのような混乱が引き起こされるのか、予断を許さない状況だ。清洲城 名所・史跡
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天守閣からの眺め。実際の天守閣は大手橋を渡った左側にあったのだそうです。
清洲城 名所・史跡
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五条川右岸で発掘された当時の石垣の一部が移設復元されています。
清洲城 名所・史跡
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岐阜市です。ロープウェイで岐阜城に向かいます。関ヶ原の戦いの後廃城になってたそうで、現在のお城は1956年に再建されたものです。
信長が清洲城、小牧山城の次に居城としたのが、岐阜城です。元々は姑の斎藤道三が居城としていた稲葉城です。道三と息子の義龍は折り合いが悪く、道三は義龍によって殺されました。その後、義龍の急逝によって、義龍の子、龍興が城主となります。信長は龍興から稲葉城を攻略し、天守閣の前身である高層の楼閣などを新たに作って、岐阜城と名付けました。岐阜城 名所・史跡
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信長は鵜飼をおもてなしとして活用したそうです。
むかし、長良川に鵜飼を見に行ったことがあったのですが、信長が愛し、保護したことを知っていたら、もっと感動したのにと思います。岐阜城 名所・史跡
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信長が用いた天下布武の印章。「天下に武を布(し)く」、つまり「武力で天下を治める」というように読めると思います。しかし、その真意は中国の史書からの引用で「七徳の武」という為政者の徳を説く内容であったといいます。
七徳の武
1.暴力を禁ずる
2.戦いを収める
3.大国を保つ
4. 功を定める(功績を正しく評価する)
5.民を案じる
6.人心を和ませる
7.財物を豊かにする
この七徳の武を備えた者が天下を治める。
信長の理想とする社会。信長にとって、戦はそれを実現するための必要悪だったのでしょうか。岐阜城 名所・史跡
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岐阜城からは眼下に長良川を眺めることができます。
岐阜城 名所・史跡
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岐阜城資料館。岐阜城のチケットを見せれば入館できます。資料館と謳っていますが、特に見るべき資料はありません。
大河ドラマ「麒麟が来る」で斎藤道三を演じた本木雅弘さんの蝋人形がそっくりです。岐阜城資料館 名所・史跡
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宿泊は「ホテルピアザびわこ」です。
明智光秀が坂本城から見たであろう景色を味わってみたくて、本当は「KKRホテルびわこ」に泊まりたかったのですが満室でした。坂本城とは離れてしまうのですが、こちらのホテルに決めました。
夕食は義兄夫婦にプリンスホテルのディナービュッフェをご馳走になりました。とてもおいしかったです。
夜景の写真を撮るために琵琶湖のほとりへ来ました。
ジョギングや夜釣りをしている人がいました。暗いのですが、治安が良いのでしょう。ホテルピアザびわ湖 宿・ホテル
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3日目。
部屋から朝日を見ることができました。ホテルピアザびわ湖 宿・ホテル
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部屋の中から見る琵琶湖です。
ホテルピアザびわ湖 宿・ホテル
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坂本城跡公園に車を停めて、坂本城の石垣を見に行きます。こんな細い道を琵琶湖に向かって歩きます。
坂本城址公園 公園・植物園
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大河ドラマ「麒麟が来る」が放送されていた頃には観光客が来たのかもしれません。今は道案内の文字も消えていました。
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琵琶湖の水位が低くなった時だけ、ここに石垣の遺構が現れるそうです。残念ながら、見ることができませんでした。
坂本城は水城で、城内から直接舟に乗って安土城へ向かうことができたと考えられています。
ホテルピアザびわこのすぐ近くに義仲寺というお寺があります。木曽義仲と巴御前、松尾芭蕉のお墓があります。今日は義母の法事があるので、行くことができず、残念でした。 -
法事のあと、「ザ ホテル東山」の中にある「ナナノイチ」で会食です。ランチコース8,400円が開業記念価格で7,200円。割引価格とはいえ結構な値段です。こんな機会でなければ絶対に食べません。
前菜はカンパチのカルパッチョか豚ロース肉のしゃぶしゃぶ仕立てから選べます。
焼きたてのパンもとても美味しいです。THE HOTEL HIGASHIYAMA KYOTO TOKYU, A Pan Pacific Hotel 宿・ホテル
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こちらはポタージュスープ。
THE HOTEL HIGASHIYAMA KYOTO TOKYU, A Pan Pacific Hotel 宿・ホテル
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オマール海老のロースト。
THE HOTEL HIGASHIYAMA KYOTO TOKYU, A Pan Pacific Hotel 宿・ホテル
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国産牛の網焼き、ワサビ仕立て。最後にデザート。
どれもこれも、本当に美味しかったです。THE HOTEL HIGASHIYAMA KYOTO TOKYU, A Pan Pacific Hotel 宿・ホテル
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会食の後、すぐに京都を離れ安土城城郭資料館に来ました。開館時間は17時までで16時半が最終入館時間ですが、ギリギリでした。
安土城が20分の1のスケールで再現されています。安土城郭資料館 美術館・博物館
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安土城の復元図屏風などがありました。
安土城郭資料館 美術館・博物館
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コンフォートイン近江八幡です。僅かな金額の差なのでツインハイクラスの部屋にしました。ツインエコノミーの2倍の広さがあります。
コンフォートイン近江八幡 宿・ホテル
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お風呂も洗い場が別です。
コンフォートイン近江八幡 宿・ホテル
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4日目。朝食は900円。
コンフォートイン近江八幡 宿・ホテル
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安土城跡。8時半、一番乗りです。ここから405段の階段が始まります。入り口で杖を持って行くように言われました。
大手道の幅は6m。道の両脇に側溝があります。安土城跡 名所・史跡
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前田利家の屋敷跡と伝わる所です。ここは虎口(玄関口)だそうです。
安土城跡 名所・史跡
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大手道を挟んで向かい側は秀吉の屋敷跡です。
安土城跡 名所・史跡
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杖が助かります。
安土城跡 名所・史跡
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階段には石仏も使われています。
安土城跡 名所・史跡
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この石には祀?祖?と見える文字が刻まれています。
安土城跡 名所・史跡
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天守台跡です。
安土城跡 名所・史跡
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摠見寺三重塔。室町時代の建物で、棟札に1454年建立で、信長公が甲賀から移築したものと記されているそうです。
総見寺 寺・神社・教会
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西の湖(にしのこ)が見えます。西の湖は琵琶湖の内湖(ないこ)です。もともとは琵琶湖の一部だったそうです。沿岸流や土砂の堆積などで本湖と隔てられたものを内湖というのだそうです。かっては琵琶湖の周りにいくつもの内湖があり、中でも1番大きな大中湖に安土城は接していたそうです。
琵琶湖の東を信長が抑え、西側の抑えを明智光秀に任せたのでしょうね。安土城跡 名所・史跡
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摠見寺仁王門です。門の中の金剛力士像は頭部内側の造像銘から1467年に作られたものであることがわかるそうです。
総見寺 寺・神社・教会
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安土城天主信長の館に来ました。
織田信長が明智光秀に饗応役を命じ、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康や穴山梅雪を安土城にもてなした時の饗応メニューが展示されていました。
家康が安土城に到着してまもなく出された「おちつき膳」の説明は印刷された物でしたが、晩御膳はレプリカの乗ったお膳がいくつも並べられていました。
山海の珍味の並んだいくつものお膳。これらを翌日と合わせて、4回も出したそうです。それは支度が行き過ぎているとして信長の怒りを買ってしまいました。安土城天主信長の館 美術館・博物館
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信長の館には1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されています。ここは天主、最上階です。
安土城天主信長の館 美術館・博物館
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屋根には金の鯱。外壁に使われた金箔は10万枚だそうですが、それがどれくらいの量なのか見当がつきません。
安土城天主信長の館 美術館・博物館
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内部は黒漆塗で、豪華絢爛な金壁画で飾れています。
安土城天主信長の館 美術館・博物館
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彦根城へ向かいます。私には記憶が無いのですが、夫は石段が長くて大変だったと言っています。
彦根城 名所・史跡
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太鼓門櫓に着きました。
彦根城 名所・史跡
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天守閣が見えます。現存12天守のうちの一つです。
徳川家康四天王の1人、井伊直政の息子である井伊直次が築城しました。幕末に桜田門外ノ変で暗殺された井伊直弼は彦根城の13代当主です。彦根城 名所・史跡
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彦根城から見た佐和山です。石田三成の佐和山城があったところです。佐和山城は北国街道や東山道、南方の犬上郡の一帯を見渡す監視哨としても重要な役割を果たしていたとのことです。近年の研究で佐和山城の石垣が彦根城の正面部分に使われていることがわかっているそうです。政権交代を誇示する意味があったと見られているようです。
彦根城 名所・史跡
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天秤櫓と廊下橋です。天秤櫓は左右が対称で天秤のような形をしているところから、この名があり、日本の城郭でこの形をした櫓は彦根城にしか見られないそうです。
橋はいざという時の落とし橋です。彦根城 名所・史跡
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米原市に大谷吉継の首塚があるので寄っていきたかったのですが、時間が無いため諦めて関ヶ原へ急ぎました。古戦場記念館も歴史民俗資料館も入館時間の4時を過ぎてしまっていました。
島左近の陣地です。島左近陣跡 名所・史跡
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すぐ近くに石田三成の本陣跡があります。広い場所に東軍、西軍の各武将の陣地が点在しています。
石田三成陣跡 名所・史跡
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島津の退き口として、その撤退の武勇を知られる島津義弘陣跡です。
島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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関ヶ原では数羽のキジがお互いの存在を知らしめるように鳴き声をあげていました。
関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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名古屋市に戻りました。名古屋城が目の前のKKR名古屋です。
KKRホテル名古屋 宿・ホテル
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5日目、最終日です。
名古屋城に来ました。
名古屋城天守閣は江戸時代の姿に戻す木造復元工事をするため天守閣には入れません。空襲で消失した後、1959年に鉄筋コンクリートで再建された現在の天守閣は築後60年が経過して耐震性に問題があるのだそうです。2018年から閉館になっている天守閣工事の完了は最短でも2032年以降になる見込みだそうですが、まだ再建工事は始まっていません。名古屋城 名所・史跡
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本丸御殿は復元工事が完了しています。
本丸御殿の正式な玄関である一之間は「虎之間」とも呼ばれています。名古屋城 名所・史跡
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壁一面に虎が描かれています。
名古屋城 名所・史跡
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権力の象徴として訪問者を圧倒し、尾張徳川家の威光を示す意図があったと考えられているのだそうです。
名古屋城 名所・史跡
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上洛殿一の間。上洛殿は本丸御殿が建った約20年後に、三代将軍・家光が京都に向かう途中で名古屋城に宿泊するために増築された部屋だそうです。
一の間は将軍が家臣や親族と対面したりする時に使われた部屋で隣の将軍の座る上段の間より一段低くなっています。名古屋城 名所・史跡
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こちらが上洛殿の上段の間です。
名古屋城 名所・史跡
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廊下にも至る所に意匠が凝らされています。
名古屋城 名所・史跡
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釘の頭を隠すための「釘隠し」にも細かな細工。
名古屋城 名所・史跡
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加藤清正は名古屋城の石垣普請だったそうです。
場内最大の巨石は加藤清正が巨石を運んだという伝承に基づいて清正石(きよまさいし)と呼ばれています。
ですが、本当はこの石垣の持ち場は黒田長政だったそうです。名古屋城 名所・史跡
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二の丸庭園では名古屋おもてなし武将隊が演舞を披露していました。
名古屋城 名所・史跡
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KKR名古屋ホテルに戻ってレストランで昼食をいただきました。
KKRホテル名古屋 宿・ホテル
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KKRホテル名古屋 宿・ホテル
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帰りは新東名ではなく東名高速で帰りました。
お目当てはここ、富士川サービスエリアから見る富士山です。
でも、せっかくの富士山が黄砂の影響で霞んでいます。
残念( ; ; )富士川サービスエリア 道の駅
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歴史に全く興味の無かった私が退職後に夫の影響で少しづつ歴史に興味を持つようになりました。
信長、光秀、三成、家康の足跡を辿った今回の旅は、私たち夫婦にとって、とても楽しい充実したものでした。
海老名付近で大渋滞。全く進む気配がありません。
旅の終わりにはまだ少し時間がかかりそうです。
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