2024/12/16 - 2024/12/17
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2024/12/16
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前回、「三木と京街道、堺の街歩き」で淀川の南側を歩いたのですが、特に寝屋川とか観光という点ではやや無理筋だったかも。そういう意味で、今度はリベンジで淀川の北側。茨木は、つい先般も「北陸三大祭り三国祭と新緑の関西旅(一日目)」(https://4travel.jp/travelogue/11905493)で一部回っていますが、西国街道と摂津衆の課題設定がうまく出来た反面、ちょっとポイントが外れていたのか、まだディープなところには届いてないなあみたいな気持ちが残ってもいましたからね。そういうことを言い出すとどこでもきりがないことにはなってしまうのですが、鉄は熱いうちに打て。せっかく淀川の周辺に気持ちが向いてその気になっていますから、回るなら今しかないでしょう!
ということで、ここは思い切って茨木に二日を充てることに。やっぱりそれなりに広いですからね。出発点は二日目ともJR茨木駅。一日目は、JR茨木駅からバスで南に下って。そこから淀川に沿って歩いて南西方面、淡路駅の方まで。結局、茨木市ではなくて、摂津市から大阪市東淀川区なんですけどね。二日目は、反対方向。JR茨木駅から自転車を使って北東方面、摂津峡の近くまで。という作戦です。
さて、白井河原古戦場跡と椿の本陣は、それぞれ摂津衆にかかるもの、西国街道にかかるものですから、まさに目論見通りですね。ちなみに、白井河原の戦いは、元亀2年(1571年)、主君であった池田勝正を追放して三好三人衆と結ぶ荒木村重と中川清秀の連合軍が、将軍、足利義昭方の和田惟政、茨木重朝らの軍を破った戦い。これによって、摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)の時代は終わり、荒木村重を筆頭にそれに組する中川清秀や高山右近といった新興勢力が摂津の主役となる。荒木村重は反信長のはずでしたが、この後すぐに主君池田勝正が仕えていた信長に降っていて、そのあたりのかわり身の早さはさすがです。ただ、荒木村重は結局は信長に反旗を翻し早々に消滅。中川清秀と高山右近はそんな荒木村重とは決別し、その後の天王山の戦いで秀吉に与して道が開けるという展開ですね。まあ、二人の方も無事に済んだかどうかは見方次第ですが、高山右近は棄教はせず信念を貫いたし、中川清秀も別所氏の後の三木へ移封。最終的には豊後竹田藩で家名を残しました。ただ、うーん。やはりこれは秀吉に使い捨てられたというのかなあ。ちなみに、秀吉は金ヶ崎の戦いでは池田勝正とはともに戦っていて、荒木村重が下剋上しなければ池田勝正は姉川の戦いにも参戦していたでしょうからね。摂津衆にはあまり親しみは感じていなかったかも。微妙は微妙です。
一方で、意外な収穫は阿武山古墳。京都大学の地震観測施設建設の際に偶然発見された古墳ですが、中臣鎌足の墓と目される古墳。つまり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺があって、これは相当の貴人の墓であることの証。さらには、出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠、大織冠の特徴があることが判明し、決め手となったのです。また、茨木から高槻という古代の三島郡の一帯は藤原鎌足の拠点のひとつだったようで、日本書紀には大化の改新の1年前から藤原鎌足は三島郡で隠棲したと記述されてもいるのです。であれば、あの大事件、蘇我氏を滅ぼした乙巳の変の計画もここで練っていたということでしょう。6世紀の前半に造られた継体天皇の古墳、今城塚古墳も高槻市であり三島郡。三島郡と大和飛鳥との距離をどう考えるかですが、物部氏も大和だけではなく河内に根拠があったし、大和政権の中枢は意外に広い範囲に根を張っていたと考えるのが素直な捉え方なのかなと思います。
なお、一方で、一日目とか淀川に近いエリアに残るのは水との戦いの歴史や淀川の渡しに荒れ地を利用した放牧地とか。権力者が大きな拠点を設けるような地ではなかったようで、その辺りは寝屋川から守口の事情とよく似ているような。今でも交通の便はイマイチだし、田舎びた感じも否めない。西国街道が山の方を通っていた時代から、淀川周辺は難しい土地とされていたように感じました。
なお、続いての兵庫津は堺との比較にもチャレンジです。
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イチオシ
JR茨木駅から淀川の北岸、鳥飼地区に向かいます。なお、鳥飼地区はもう摂津市。いきなりですが、ここからは実は摂津の市域を歩くことになります。
まず訪ねたのは、離宮鳥養院跡。
こちらは、宇多天皇(貞観9年(867年)~承平元年(931年))の離宮。宇多天皇は、あの菅原道真を重用した天皇ですね。醍醐天皇は、寛平9年(897年)、譲位した宇多天皇からは菅原道真を重く扱うように!とあったのですが、太宰府への左遷は昌泰4年(901年)のことでした。聖代の瑕とも言われる事件ですが、これには太上天皇となった宇多天皇の影響力を排除したいという醍醐天皇の思惑もあったとされ、そう単純ではありません。ちなみに、宇多天皇は、自らが建てた仁和寺に入って法皇となっていて、仏教に熱中していた時期。道真に十分なバックアップができなかったともされています。
当時、淀川の両岸にはこの離宮ほか貴族の別荘がたくさんあったとか。碑には、大和物語に登場する遊女の歌が刻まれています。
あさみどりかひある春にあひぬれば
かすみならぬどたちのぼりけりあさみどりかひある春にあひぬれば by たびたびさん離宮「鳥養院」跡 名所・史跡
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囲み堤「輪道(和道)」碑は、淀川の北側で、これも鳥飼地区の一角。
碑文によれば、淀川流域は、古来、洪水との戦いを繰り返した地域。これに対し、慶長元年(1596年)、豊臣秀吉は、諸国大名に命じ文禄(慶長)堤を完成させます。堤は堤防としての役割だけではなく、淀川の渡し場から大坂方面に往来する道としても利用され、輪道(和道)とも呼ばれたのだそうです。なお、淀川の南側の文禄堤は京街道につながります。豊臣秀吉は、諸国大名に命じ慶長堤を完成 by たびたびさん囲み堤碑 名所・史跡
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碑はこんな公園の中でした。
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堤防の道に上がって、下流の方へ進みます。
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イチオシ
例によって、淀川の河川敷には広い範囲に淀川河川公園があって、地区別に区分されています。ここは、鳥飼下地区。鳥飼大橋の下手で、鳥飼大橋の上手は鳥飼上地区です。
鳥飼上地区と比べるとここからは淀川の流れがよく見えて、見晴らしはこちらの方がいいような気がします。 -
淀川河川公園 鳥飼下地区にある鳥飼サービスセンター。堤防の道からの入り口がありました。
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運動施設利用の受付はここでやっていて、シャワー室、更衣室、ロッカーを備えて、利用者のサポート施設といった位置づけかな。
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高槻市のあちこちの見どころを紹介するパンフレットがずらりと並んでいて、これもすごいです。
しかし、ここは摂津市。なぜ高槻市のものがあるかは不明です。 -
少し北に向かって。
黒丸城の址の碑は、なんでもない大通りの歩道部分。辺りは真っ平らな平坦地です。
碑文には、黒丸城(鳥養砦)は、土石を積み重ねて築いた小城であったらしいとしていますが、それ以上は「細川両家記」に登場する三好方の衆の記述等を紹介して、大坂方面攻撃の際の前線基地の一つだったと結論付けているだけ。この辺りにそういうものがあったことに違和感はありませんが、その重要性はよくわかりません。 -
また堤防の方に戻って。
千本つきの歌碑は、淀川河川公園 鳥飼下地区の西側の堤防の一角。
千本突きというのは、杵を持って堤防の土を固める作業のこと。明治18年の洪水をきっかけに、本格的な堤防工事が行われますが、その際、歌われたのが千本つきの歌。辛い労働を歌が癒してくれたんだろうなと想像できる歌碑です。
碑には「千本つきには 調子がござる 足と手と口 三拍子」と刻まれています。千本つきには 調子がござる 足と手と口 三拍子 by たびたびさん千本つきの歌碑 名所・史跡
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堤防からは鳥飼の市街が見えています。
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かつて、この辺りには、この「鳥飼の渡し」のほか「鳥飼上の渡し」「五久の渡し」「願正寺渡し」「一津屋の渡し」などの淀川の両岸を結ぶ渡し場はいくつもあったのだとか。
「鳥飼の渡し」は、片桐且元が大坂冬の陣を前に大阪城を退去。弟、貞隆の茨木城へ入る前に利用したというのですが、一行は武装した兵を含めて4000人とも言われる大人数。それを渡したのですから、しっかりした渡し場であったことが想像できます。
なお、大坂冬の陣が始まると家康方として参戦。真田丸への攻撃にも参加したよう。夏の陣でも参戦。秀頼、淀殿の助命嘆願も叶わず、ほどなく死去。賤ヶ岳の七本槍の一人ではありますが、寂しい最期だったと思います。 -
そのまま鳥飼の市街に入って見つけた和菓子屋さん。つくし菓子店は、地元に古くからあるお菓子屋さんなんでしょうね。実直そうな年配のご主人が対応してくれました。
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いただいたのは菊型の焼き菓子。餡子の甘さ加減とか抜群のおいしさ。さりげないけど和菓子はこうじゃないとね。忘れていた和菓子のおいしさが久しぶりに蘇りました。
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鳥飼の市街では、二つ。
鳥養牧跡の碑はしっかりした石柱と説明板がありまして。
説明によると、延長5年(927年)の延喜式では、当時の牧は三種類。皇室に関係する勅使牧、兵馬・用役牛の諸国牧と都の周辺に設けた近都牧。この鳥養牧は六か所あった近都牧の一つ。諸国から運ばれた牛馬をここで飼育していたようです。 -
藤森神社は、舎人親王を京都の藤森神社より勧請した神社。
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イチオシ
現在の社殿は、天正5年(1577年)の建築です。
そういう意味だとそこから大きな水害にはあわずに来たということですから、鳥飼地区はやっぱり比較的安全な場所だったということなんでしょうね。 -
社殿の向拝には金の飾り金があって、華やかな印象。境内は広々として、こんもりした樹木がバランスよく生えているのも古社らしい趣だと思います。
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新幹線公園は、鳥飼地区を抜けたあたり。大阪中央環状線の大通りから入っていくのですが、最寄り駅の南摂津駅からでもかなり遠く感じました。桜の並木道がけっこう続いていて、
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その先に昭和44年に製造された新幹線車両が展示されていましたが、しかし、それほど価値のあるものなのかどうか。たどり着くための労力を考えるとなんか割に合わないなあという感じです。
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もう一度淀川の堤防に帰ってきましたが、ここは摂津市の一津屋地区。
宮の下渡し跡の説明板は、味生神社の鳥居脇。
説明文によれば、河内大庭大切と摂津嶋下郡一津屋村宮ノ下を結ぶ渡しで、戦国時代末の永禄年間(1558-69年)から存在。川幅は約550m。鳥飼の渡しと並ぶ重要な渡しだったようです。 -
さらに下流に進んで、まだ一津屋地区ですがここが摂津市の西端です。
神崎川分岐点跡は、淀川の堤防の少し高い場所に立派な説明板が建っていました。 -
説明文によると、桓武天皇4年(785)に「使いを遣わして、摂津国神下、梓江・鯵生野を掘りて、三国川に通ぜしむ」。つまり、淀川と三国川をつなぐ新運河が開削されたというのです。これは、淀川の水量を調整するためのもの。長岡京の遷都にともなう工事で、和気清麻呂も役割を担ったよう。都造りには多くの困難があったことが想像されて、とても興味深い内容です。
こちらは神崎川。場所からするとこれが三国川につながる新運河だったということでしょうか。 -
イチオシ
こちらが淀川です。
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東淀川区に入って、市街の方へ降りて行きます。
寂光寺は、江口の君と呼ばれた遊女、妙が結んだ庵から。世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな by たびたびさん寂光寺(江口の君堂) 寺・神社・教会
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イチオシ
妙は実は平清盛の嫡男、平重盛の次男、平資盛の娘とも言われ、平家没落の後ここに落ちていたのだとか。西行法師が一夜の宿を乞うて断られますが、歌の贈答があって一夜を語り明かしたという逸話です。
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贈答歌は境内の説明版に紹介されています。
世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな(西行)
世をいとう 人としきけば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ(江口の君) -
少し進んで。
大隅神社は、この地に応神天皇の離宮、大隅宮があり、天皇の崩御後、村人が祠を建て帝を祀ったというのが始まり。 -
その後、乳牛牧の荘と呼ばれた地域の大道村・辻堂村・三宝寺村の氏神様となりました。少し荒れた感じがなくもないですが、それでもかなり立派な構え。明治に入って村社とされた面影は十分に残っています。
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乳牛牧の荘と呼ばれた所以の乳牛牧の跡。小さな説明板が建っていました。
説明によれば、平安時代から乳牛を飼育していたところで、味原牧(あじふのまき)とも呼ばれたとか。淀川流域は牛の放牧に適した土地柄で、ここは朝廷の薬などを司る典薬寮という役所の領地。牛乳などの乳製品を朝廷に納めていたそうです。 -
そこから暗渠の通りを行くと
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逆巻地蔵。
幕末の弘化3年(1846年)の始まり。もともとは阪巻村にあったので、逆巻地蔵。 -
現在地には大正12年から。この付近は淀川でも水流の激しいところだったようで、船は帆を逆に巻かねば転覆するほど。多くの犠牲者が出たので、その冥福を祈るための地蔵です。
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逆巻地蔵から北に向かって。
松山神社は、子供たちが賑やかに遊ぶ公園の奥に鎮座する菅原道真を祀る神社。 -
延喜元年(901年)、大宰府に配流される道真が淀川を下ってこの地に到着。小松の詩を吟じ、直筆の御真像を残したことから、それを氏神として崇めたのが始まりとか。
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一時は廃社になったこともあるようですが、昭和19年に復活しています。
なかなかきれいな社殿です。 -
松山神社から上新庄駅まで歩いて、上新庄駅の西側に抜けたあたり。
春日神社は、ここに榊の大木があり、これを神木として祀ったのが起こり。 -
その後、天正6年(1578年)、奈良の春日神社の分霊を勧請して春日神社とし、榊神社は摂社として残りました。石囲いで囲まれたオープンな雰囲気。境内も社殿もすっきりシンプルです。
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またまた南に進んで、もう淀川の辺り。
菅原天満宮は、小高い丘の上に鎮座する菅原道真を祀る神社。創建は寛永年間(1624-1643年)で、西成郡新家村が成立した際。 -
ただし、現在地に移転してきたのは、明治35年。淀川の改良工事のためだそうです。境内は木々でこんもり。古社の雰囲気はあると思います。
このエリアは集落ごとにそれぞれ神社があるという感じですね。 -
すぐ近くには、一柳家の土塀と道標。「私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所です。旧家の、瓦を練り込んだ練塀の傍らに建つ道標は、天保7年(1836年)に建てられたもの。道標には、左側には吹田・富田・茨木道、右側には瑞光寺道・江口道。淀川の北岸ですが、ここもそれなりに交通の要衝だったということでしょう。
さて、今日はここで時間切れですね。 -
今日の宿は東三国駅のそばのカプセルホテルJGARDEN新大阪。
宿に入る前に晩飯です。
熟成うどん なかやは、東三国駅にほど近い繁華街の一角。うどん屋さんにしてはバックグランドミュージックとかも渋いですね。ちょっと飲み屋さんの要素が入っているかもしれません。御主人の鍛錬の賜物という一杯でした by たびたびさん熟成うどん なかや グルメ・レストラン
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いただいたのは、冷たい鴨うどん。つけうどんですが、鴨の肉が芳醇で、もしかしたら今まで食べた中でここのが一番おいしいかも。そして、熟成うどんの方は、弾力があって、もちもちと柔らか。舌触りとか喉越しもすごくいいですね。ただ、敢えて言えば、手打ちらしい不揃い感がほとんどなくて、その辺りが私としてはちょっと不自然な印象があって、引っかかるような感じでした。しかし、全体としてはかなりいい感じ。御主人の鍛錬の賜物という一杯でした。
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カプセルホテルJGARDEN新大阪は、新大阪駅近くの安いホテルがなかったので、思い切ってこちらにしてみたという次第。どうかなと心配していましたが、これはきれいなカプセルホテルですね。三国駅近くということもあって、お客さんも少ないので、かなり静かな環境になっていて快適です。近くには飲食店も多いし、これも便利。けっこう穴場的なカプセルホテルだと思います。
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二日目は、JR茨木駅から自転車で出発です。
まず目指したのは郡山城跡。最後に坂道をしばらく上って行った浪速少年院の門からすぐの場所に説明板があって。
説明によれば、この城は高槻城城主、和田惟政に仕える高利平太夫が城主。白井河原の戦いで和田惟政、茨木重朝の連合軍は、荒木村重、中川清秀連合軍と戦いますが、敗北。高利平太夫も討ち死にしたとありました。ちなみに、和田惟政、茨木重朝も討ち死にしていますから、大敗です。 -
少し離れた場所には白井河原古戦場跡。元亀2年(1571年)の戦いは、冒頭に触れたとおりです。
跡にはお墓のような石碑が並んで、今でもちょっとおどろおどろしい雰囲気です。ちょっとおどろおどろしいです by たびたびさん白井河原古戦場跡 名所・史跡
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説明板には詳しい経緯。
前年の元亀元年(1570年)には姉川の戦いで勝利した信長ですが、浅井・朝倉にはまだ余力が残っているし、それを支援する比叡山の動きも侮れない。同年には三好三人衆の残党との戦いがその後10年にも及ぶ石山合戦に発展するという野田・福島の戦いもあって、反信長の勢いは一向に衰えていないというのが実情でした。白井河原の戦いはその背景があってのものでもあり、信長にとっては面白くないものだったと思いますが、さりとて白井河原の戦いで勝利した荒木村重・中川清秀を潰しにかかかるほどの余裕はない。ほどなく傘下に入ってくれたことはまずまずといったところだったと思います。 -
白井河原古戦場跡から今度は椿の本陣へ向かいますが、鼻摺古墳はその途中。大規模開発された住宅団地の一角。古墳時代後期(6世紀後半~7世紀)に造られた、東西南北の四方に濠を持つ方墳。一辺の長さは33m、高さ5.5m。なかなか見事なもの。一見、無造作な保存のようですが、形状はしっかり確認できると思います。
まあ、今日のエリアは古墳だらけの地域ですからね。 -
ずっと気になっていた椿の本陣です。旧西国街道、郡山宿の本陣。旧西国街道は、いろんな範囲を言うようですが、マックスは京都から下関、太宰府までの脇街道。狭義には、京都から西宮までの山崎通りです。郡山宿は、京都から山崎宿(島本町)、芥川宿(高槻)の次の三番目の宿。西宮宿は六番目です。
西国大名が参勤交代をする際の宿だった現在の建物は、享保6年(1721年)築。西国諸大名などの寄付によって再建されたということですが、確かに豪壮な建物。しかし、この建物以外周囲にはなにもなし。当時の賑わいがどれほどのものだったかは意外になかなか想像しにくいかも。さすがに矢掛や神辺のようにはいきません。旧西国街道、郡山宿の本陣 by たびたびさん椿の本陣【郡山宿本陣】 名所・史跡
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白井河原古戦場跡と椿の本陣が終われば、後はマイナーなスポット。ここからはあまり大きな期待はせずに回りましょう。
椿の本陣から少し西。
道祖神社という名前からすると猿田彦神社を祀る神社。畑の片隅にあって、小さな神社なのですが、限られた境内はとてもよく管理されている感じ。旧西国街道も近い場所だし、街道を行き来する人にも大事にされていたんでしょうか。特に由緒は分かりませんが、ちょっと清々しい気分になりました。 -
そこから北へ向かって。
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川端康成先生旧跡は、川端康成が3歳に満たないうちに父母を亡くし、祖父母の住む屋敷に引き取られたという場所。大正3年、大阪府立茨木中学校3年生の時、祖父が亡くなるまで暮らします。生け垣の前に石柱が建っているだけですが、文豪の基礎が育まれた場所。大切にすべき史跡だと思います。
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北東に向かって。
西福井の新屋神社は、茨木市にある三つの新屋坐天照御魂神社のひとつで、中心的な位置づけとも。 -
緩やかな坂を上った先からさらに石段で小山の上にありまして、式内神社ということもあって意外にちゃんとした構え。
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拝殿の周りにたくさんの石灯籠が囲んでいるのもちょっと独特です。
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西福井から東福井へ移って。
真龍寺は、天平20年(748年)、聖武天皇の勅願により行基が役小角の旧地に建立したというのが始まりの真言宗の古刹。 -
イチオシ
坂道をそれなりに上って行った先の小山の上にあって、かつては21坊を有していたというかつての隆盛がまあまあ感じられなくはない構え。
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両側に石堂の建つ石段を上がった先の鐘楼、本堂辺りは紅葉が美しくて、ちょっとした紅葉の名所かもしれません。
なお、駐車場の方にD51形蒸気機関車が保存されていますが、どういう経緯なのかは分かりません。 -
真龍寺から東に向かって、もう茨木の端っこ。もうすぐ高槻といったところですが、阿為神社は、藤原鎌足の勧請で創建されたと伝えられる古社で、式内社。
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石鳥居から穏やかな石段を上がっていくと境内。
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イチオシ
境内はそれなりに広いのですが、その隅っこに社殿がぽつんと建っていました。小ぶりですが、千鳥破風と軒破風を重ねた重厚な意匠。威厳は十分です。
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イチオシ
大念寺もすぐ近く。飛鳥時代、藤原鎌足が自らの別荘地に、日本で初めて阿弥陀仏を説く無量寿経を講説した恵隠法師を迎えて建てたという由緒ある古刹。しっかりした石段を上っていくのですが、山門の左右には石垣の上の白い漆喰塀が延びて、なかなかの構えです。
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ただ、本堂はコンクリート造りの近代的なもの。ちょっとギャップもありますね。
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高槻市に入って。
塚原の八幡大神宮は、天照大神、応神天皇、天児屋根命を祀る神社。小山の斜面を利用した構えで建っています。 -
拝殿は、あんまりぱっとしないなあと思ったのですが、背後に回ると本殿の方はまあまあ立派。最初の印象がちょっと変わりました。
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塚原の古墳群は、塚原八十塚と書いた石柱と丁寧な説明板もありました。
説明によれば、大阪平野を一望する阿武山の南・東斜面一帯に営まれた古墳時代後期の群集墳。かつては百数十基を数え、今でも40基が保存されて、横穴式石室を有する直径7~18mの円墳だとか。家族ごとに墓域が決められていたのではないかということです。
ただ、かなり広い範囲なので、なかなか全体を実感するのは難しいかもしれません。 -
イチオシ
地福寺は、もう安威川ダムにも近い場所。けっこうな坂道を上がってたどり着きました。
寺は藤原鎌足が創建。開基は僧慧隠法師。寺の紹介では、鎌足は当地において、蘇我入鹿打倒を祈願し、ついにその目的を達したとありまして。「地福寺は鎌足の草創也」と桑原山地福寺縁起にもはっきり記されています。さっき訪ねた阿為神社や大念寺もちゃんと根っこがあるものだったんですね。 -
なお、寺はまだ新しい感じでしたが、安威川ダムができたことで移転してきたため。しかし、寺の歴史は素晴らしいもの。寺に伝わる仏像群もとても貴重なもののようでした。
で、この時はちょうど地元の博物館の方がみえていて、企画展で借りていたここの仏像を返すところだったんですね。そういうことから、偶然、お寺の住職やその博物館の方に鎌足と旧三島郡の関係が深いことをお聞きして、初めて知って驚いたという次第。そういう意味では、がんばって訪ねた甲斐は十分あったというもの。手抜きをしないといいことは必ずあるものです。 -
地福寺で話を聞いた後だったので、阿武山古墳もますます楽しみになってきましたよ~
阿武山古墳は、京都大学の地震観測所の敷地内。この入り口から切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められた石室は滅多にない貴人の古墳様式 by たびたびさん阿武山古墳 名所・史跡
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どんどん入っていった先。
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イチオシ
途中から山道に入って、
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ちょっとした山登りになりました。
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これが古墳ですが、眺めるだけではよく分かりませんけどね。
調べたことを整理すると、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められた石室は滅多にない貴人の古墳様式。藤原鎌足が被葬者であるとされる大きな根拠です。
そして、日本書紀の記述にある「蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の前年、皇極天皇3年(644年)、中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、固辞して摂津国三島の別邸に退いた」という三島の下りも冒頭に触れたとおりです。 -
殿岡神社は、奈佐原の小さな集落の中心通り沿い。宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)を祭神とし、かつては稲荷神社と称した神社。
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近隣の四か村が干ばつに苦しんだ時、神輿を阿武山の山頂、殿岡の峰に埋めて降雨を祈願。その霊験に因んで殿岡神社と称するようになったようです。
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浄正寺も同じ並び。慶長14年(1609年)創建の真宗大谷派の寺。例によってちょっと厳めしい雰囲気がありますね。
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説明板が建っていて、この地は平安時代の文書には奈佐原庄として記述され、近在に強い勢力を誇り、奈佐原四箇庄と言われる勢力があったのだとか。寺は、宗祖親鸞聖人の直筆と伝えられる名号もあるようです。
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奈佐原から真西へ。けっこうな峠を越えて芥川緑地へ。芥川の上流はもう摂津峡です。山の斜面を切り開いた高台にある住宅地と芥川に挟まれた限られた場所ですが、その地形を上手に使って自然公園のようにきれいに整備されています。しっかりした駐車場があって、そこから歩くようになっていました。
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その傍らに建つのは、高槻市立自然博物館。
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ここからも芥川の流域を見下ろすいい眺め。交通の便がいいか悪いかは分かりませんが、面白いロケーションであることは確かです。
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エレベーターで下がって、展示室へ。
鳥類のはく製はけっこうな数だし、 -
動物たちや
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淡水魚の水槽もなかなか充実。摂津峡とか近隣の自然の豊かさがよく分かります。
しかし、JR茨木駅からするとちょっと遠くに来過ぎたような。そろそろ帰らないと危ないですよ~ -
とにかく国道171号線に出ないといけないのですが、まずは史跡新池ハニワ工場公園に向かいたいですね。
と、道を急いでいる途中に気になる食事処を発見。
団地の入り口のようなところに、にく家 牛地蔵ってなんでしょう。 -
旧家のお屋敷を活用した京都モリタ屋プロデュースのお店だとか。では、せっかくなので寄ってみましょう。一服しないと体も持ちませんからね。
建物は豪邸と言っていいと思いますが、かつての個人宅。床の間の座敷からお庭を眺めながら焼肉という贅沢なシチュエーションでした。 -
いただいたのは季節のランチ。
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マルチョウというホルモンがかなりうまい。これは博多のもつ鍋のホルモンと同じくらいうまいですね。このマルチョウだけでもかなり満足できますよ。
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ちょこっと最後のカレーの方も濃厚でおいしいです。
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では、元気になったところで。
史跡新池ハニワ工場公園は、広い池の周囲に際まで住宅地が迫るというちょっと危ないような景色。無理な開発でなければいいのですが。。みたいな感じですね。
史跡というのは、今城塚古墳の埴輪がここで焼かれて供給されていたというもの。ハニワ工場館という施設があったようですが、景色に気を取られて、気が付きませんでした。残念。 -
さらに下って。
闘鶏野神社は、天照皇大神、応神天皇、天児屋根命を祀り、八幡大神宮と称していた神社。この辺りには同じような神社がいくつかありますね。
闘鶏野は、仁徳天皇62年頃、額田大中彦皇子の猟場だったところ。いずれにしても、古社だと思います。
なお、社殿の正面は高速道路の陸橋。これが参道の一部となっていて面白いです。 -
そして、鴨神社まで来ればもうすぐ171号線です。
大山積命を祀るかつての式内社。先住の鴨氏一族が創祀したと伝わり、祭神は鴨氏の祖神のようですね。 -
鳥居から続く細い参道を抜けたところに、境内が開けます。社殿は今風に建て替わっていますが、古社の雰囲気はやはりそこそこ感じられると思います。
さてさて、これでほぼ予定していたコースは終了。後は気を付けて、JR茨木駅まで。
なお、明日は兵庫津。今日のうちに神戸に入って、前泊です。
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