2024/05/18 - 2024/05/18
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今回の旅は、北陸三大祭り三国祭をメインにして、これにいくつかの課題を加えての四日間。偶然ですけど前回の城端曳山祭りをメインにした四日間と同じ感じですね。
今日は、その一日目。新大阪の南東側、東淀川区と茨木市域を回ります。特にテーマと呼べるものはないのですが、敢えて言えば、淀川の北岸エリア。あるいは北摂エリアの散策です。ここで、分かりやすくするために茨木に目線を置いて説明すると、今の感覚では茨木は京都と大阪の間となるのですが、江戸時代の藩政時代だと淀川の北側を通っていたのは西国街道。京都の東寺を起点に、山崎宿(大山崎町)、芥川宿(高槻市)、郡山宿(茨木市)、瀬川宿(箕面市)、昆陽宿(伊丹市)、西宮宿(西宮市)と続いていて、淀川からだとけっこう北に離れた山沿いです。つまり、西国街道は大阪を経由せず西国に通じているので、茨木は京都と大阪の間という感覚にはなりませんね。これに対し、淀川の南側を通っていたのは京街道(東海道57次)。大津宿から京都寄りの山科追分で分かれて、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を経由、大阪高麗橋へ。今の京阪電車の路線にほぼ相当していて、まさに京都と大阪を結ぶ道ですね。枚方とかなら、京都と大阪の間という感覚がぴったりです。また、各宿場は淀川の水運とも連携していて、その利便性や輸送力にはずば抜けたものがありました。そもそも摂津国は淀川水系と大和川水系の結束点という難波津や住吉津の地の利がそのベース。難波京や四天王寺、大阪城だって、その基盤の上に築かれたものと言っても過言ではありません。
しかし、反面、西国街道はむしろ大阪を経由しないということもメリットだったようで、参勤交代においては効率的で重要なルート。西国大名はここを利用しましたから、芥川宿とか大いに賑わったと伝わります。ちなみに、芥川宿は高槻藩領。摂津国で目立つ藩は高槻藩36千石くらいですが、高槻は高山右近の拠点だった歴史もありますからね。戦国末期の摂津だと高槻の高山右近に茨木の中川清秀、それらを束ねる荒木村重。摂津衆の面々は、山崎の戦いで明智光秀に対峙した秀吉を助け、その勝利を確実なものとする活躍を見せました。中央(京都)を巡っては、信長の上洛に至るまで細川氏から三好氏、松永氏へというのが大きな流れですが、その陰で摂津でもそれなりの有力武将が育っていたという感じかな。淀川の南側に比べて、必ずしも北側が辺境だったということではないと思います。
淀川や京街道、西国街道との関係で言うとこういうことになるのですが、今回訪ねた先は、柴島浄水場と水道記念館、摂津国分尼寺の流れをくむ法華寺、三好長慶が攻略した柴島城址、ガラシャ夫人の墓がある崇禅寺。茨木に移動して、茨木市立文化財資料館、酒呑童子の家来 茨木童子、中川清秀・片桐且元の茨木城、川端康成文学館、西国三十三所第22番札所 総持寺といったところ。これはこれで意外な見どころもあって、それなりには楽しめたのですが、北摂の核心的なところにはまだまだ届いていないような。そこはちょっと心残り。ここで止めるのはもったいないので、次回以降のリベンジが必要かなと思います。
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新大阪駅から、真南へ。淀川の河川敷を目指します。
途中、阪急の南方駅を過ぎて、到着です。 -
河川敷に出たところが、淀川河川公園 西中島地区。いくつもある淀川河川公園ですが、ここは一番下流の方の公園です。土のグラウンドに周囲の草原とか。眺めは他の地区と同じなのですが、ここの最大の特徴は大阪駅辺りとか、大都会のキタのビル群が淀川の向こうに見えていること。
ちょっと贅沢な眺めだと思います by たびたびさん淀川河川公園 西中島地区 公園・植物園
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河川敷は河川敷でも、ちょっと贅沢なロケーションです。
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下手の方には、十三大橋が見えています。昭和7年に作られたアーチ橋。橋の長さは、681.24m。国道176号線、十三筋と十三駅から梅田駅に向かう阪急線を通しています。川幅の広い淀川に架かる姿は、妙に遥かな感じがして、重要な橋というだけでなく、絵にもなっていると思います。
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河川敷に降りてみるとこれはバーベキュー広場かな。
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川の方まで出てみようと思いましたが、藪が茂っていて、それはできませんでした。
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イチオシ
河川敷を川上の方に歩きます。
これは、上淀川橋梁。 -
東海道本線の新大阪駅と大阪駅の間。トラス橋の鉄道橋で、全長は729.3m。
けっこう古びていますが、迫力はありますね~ -
上淀川橋梁を越えると、今度は長柄橋が見えています。
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淀川河川公園 西中島地区は過ぎましたが、同じような野球場、グラウンドが続きます。
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イチオシ
堤防の道に上がって、改めて、大阪のビル群を眺めました。いいじゃないですかあ。
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左手に見えているのは、水道記念館。次はそこを目指しているのですが、近道はない。遠回りしないといけないみたいですね。
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堤防の道を進んで、
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結局、長柄橋まで。ここから大通りを渡って、Uターンです。
ちなみに、長柄橋は、昭和58年に開通したアーチ橋。長さは655.60mで、両側のアーチが互いに傾いて上部で接するというのが独特のデザイン。今の位置とは違うようですが、長柄橋という名前の橋は古代よりあって、歴史がある橋のようですね。歴史のある名前 by たびたびさん長柄橋 名所・史跡
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水道記念館は、大阪市の水道の歴史について楽しみながら学ぶことができる科学館。
ちょっとありえないくらいの建物です by たびたびさん水道記念館 美術館・博物館
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しかし、まず驚くのはこの巨大な赤煉瓦の建物。
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イチオシ
関西建築界の重鎮、宗兵蔵の設計により、大正3年に送水ポンプ場として建築されたもの。
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以降、大阪市水道の主力ポンプ場として使われたようですが、この美しさとスケール感は今でも瞠目すべきもの。大阪でこの手の建物だと大阪市中央公会堂がありますが、これもちょっとありえないくらい堂々とした建物です。
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では、中へ。
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子どもたちの団体がいて、賑やかですね~
最初のパネルでは、地球上にある水の総量をビジュアルで示してありまして。
総量14億立方キロメートルの水って、実はこんなに少ないんですね。海は広いし、水はもっと豊富にあると思っていましたが、そういうことでもないのかな。にわかには信じられない事実を知って、ちょっと愕然としました。 -
海に流れる大量のゴミもショッキングですが、実感としても、これは常々感じていること。海や川に道路の周辺とか街中も。至る所にプラスチックごみが目につきますが、それが海に流れ出る深刻さを我々はどれだけ理解できているのでしょうね。そうした啓蒙活動はもっとどんどんやってもらって、少しでも減らす努力が広がるようにと思います。
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水道からコップに注がれる水。当たり前のことにも感謝しなければ。
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かつての水売り商売も今は昔。
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技術の進歩で今の生活が成り立っています。
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ところで、水道記念館が建つのは柴島浄水場の一角。柴島浄水場は、大正3年にに完成したもの。大阪市水道発祥之地は、都島橋の方にあるようですが、人口の増加により新たに造られたのがここ。敷地内はかなり広大。敷地内は外から見るしかありませんが、古そうな建物がまだ建っていたり、やっぱり歴史を重ねてきた施設であることを感じます。
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現龍大神は、長柄橋の北詰。柴島浄水場の敷地に接した小さな一角にありました。赤い三つの鳥居の先に祠があって、
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傍らには「現龍大神」と大書した大きな石碑。名前からして水の神様でしょうし、ここは浄水場。水の神様を祀るにはちょうどいい場所なんだと思います。
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ここからは、古い町並みの散策です。
法華寺は、門前に摂津国分尼寺伝承地の石柱がありました。門前に摂津国分尼寺伝承地の石柱 by たびたびさん法華寺 寺・神社・教会
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当初は広大な寺域を有し七堂伽藍や舎利塔なども構えていた大寺だったようですが、衰退。応永13年(1406年)禅宗の寺として、柴島浄水場のあたりに再建されたよう。その後、浄水場の拡張に伴い当地へ。ということは、摂津国分尼寺今の柴島浄水場付近にあったということなんでしょうか。いずれにしても、四天王寺や難波京のあった場所とはけっこう離れていますよね。摂津国はどこか特定の中心部にいろんなものが集中する国ではなかったのかもしれません。
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萬福寺は、弘安6年(1283年)、空専が開基。当初は天台宗だったところ、寛正4年(1463年)蓮如の下向により真宗本願寺派になったという寺。
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「蓮如上人御旧跡」の石柱が建っていて、そうした経緯を表しているのではないかと思います。寺は比較的小さいですが、真宗らしい厳めしさも多少感じます。
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柴島城址は、なんでもない住宅地の中に石柱がありました。神崎川と中津川に囲まれた中州にあったとされていますが、現在は中津川もなく、往時の姿は想像もできません。
城は天文18年(1549年)の江口の戦いで戦場に。これは、三好長慶と同族の三好政長の戦いで、政長は討ち死。政長派の細川晴賢は柴島城に籠って長慶軍に対抗しますが、攻められ城を明け渡します。室町幕府管領、細川晴元の家臣だった三好長慶は、以降、細川晴元を圧倒。ついには和泉国、摂津国も平定し、信長以前に事実上の天下人に。
なお、細川晴賢は細川典厩家の当主。細川晴元は、細川京兆家17代当主で、細川典厩家は細川京兆家の番頭のような関係です。また、信長と争ったのは、三好長慶の死後に三好政権を支えた三好三人衆です。 -
柴島神社は、貞永元年(1232年)、大洪水の時に、仲哀天皇の森という高地に避難していた村人の元に、柴に乗った小祠が流れ着き、産土神として祀ったのが始まりと伝わる神社。
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旧村社で、社殿の屋根瓦とかけっこう立派です。社殿の横に詳しい由緒の説明がありました。
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崇禅寺は、天平年間(729-748年)に創建された法相宗の古刹。室町時代、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教を殺した赤松満祐が義教の首をこの寺へ葬るのですが、その後、摂津守護細川持賢が義教を弔うとともに細川家菩提寺として再興。曹洞宗の寺となりました。
今でも隆盛を維持しているお寺のようです by たびたびさん崇禅寺 寺・神社・教会
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大和郡山藩の遠城兄弟と生田伝八郎との果たし合い仇討崇禅寺馬場でも知られ、これはその遠城兄弟の墓。
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その奥には、足利義教の首塚、細川ガラシャ夫人の墓も。
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細川玉子(ガラシャ夫人)の墓と
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足利義教の首塚は、屋根付きの建物に並んでいます。
ちなみに、ガラシャ夫人。関ヶ原の戦いの直前、石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャ夫人を人質に取ろうとしますが、これを拒否。家臣に命を絶たせると家臣らは屋敷に火をつけ全員が自害する結末。辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」は、あまりにも有名です。
ガラシャ夫人の遺骨はいったん堺のキリシタン墓地に葬られますが、後にここ崇禅寺へ改葬されたということ。周囲に小さな五輪塔がありますが、これは殉死した家臣たちの墓だそうです。
なお、崇禅寺の境内はかなりの広さがあるし、建物も新しくて活気を感じるもの。今でも隆盛を維持しているお寺だと感じました。 -
中島惣社は、乙巳の変(645年)の後の白雉2年(651年)、第36代孝徳天皇が中大兄皇子らの企画で難波長柄豊碕宮に遷都した際に創建されたと言われる神社。
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古社ですが、境内は敷石と玉砂利できれいに整備されていて、新品みたいにピカピカですね。
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この日はお祭りがあるみたいで露店の準備が進んでいました。
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愛宕神社は、神社というか小さな祠。近くにある永春寺の境内に淡路の守護として祀られていたものをここに持ってきたようですが、住宅地の一角。境内と言っても駐車場の横にフェンスで囲んだ小さなスペース。ただ、砂利が敷かれてとてもきれいに維持されています。
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永春寺は、あんまりパッとしないお寺なのですが、境内の傍らに由緒書きがありまして。
ここは、京都の刀剣師、来一族ゆかりの地。この寺は延宝3年(1675年)の創建ですが、明治11年に来一族の居住跡だった現在地へ移転してきたよう。
来一族ですが、南北朝の戦乱を避けるため、元徳3年(1331年)、来国安・国長・国次らが淡路に来たもの。来国次は鎌倉へ下り、岡崎正宗の門下に入り、正宗流を習得して名を成す。境内には来一族の墓もあるようです。 -
最後の長柄人柱巌氏碑は、長柄橋の人柱に関係する碑。
由来によると、推古天皇21年(621年)、巌氏は「日頃の報恩の精神すなわち、慈悲の心を達成するため」自ら志願して人柱となったとあります。碑が建ったのは、昭和11年。ただ、ここでいう長柄橋は現在の長柄橋の位置とは違うよう。位置の特定はできていないようです。 -
東淀川駅から茨木駅へ移動。
レンタサイクル駅リンくん茨木駅店で自転車を借りて、ここからはレンタサイクルで回ります。
その前に、昼飯です。
レモングラスハウスは、茨木駅の西口を出てすぐ。ただ、店構えが怪しげだし、店名がはっきりと読めないので、初めてだと入るのにちょっと戸惑うかもしれませんね。 -
さて、タイ料理なので辛いのとかいやだなあと思って店員さんに尋ねるとメニューに辛くないのページがあって、なるほどねという感じ。タイの焼きめしをいただきましたが、普段食べない味わいだし、それだけでも新鮮味はありますね。ただ、値段は少しお高めな感じもしますが、それはちゃんと本格的なタイ料理だからかな。そこまでの見極めは付きませんでしたが、おまけで付いているスープもそう思うとそう思える複雑な味わいであることは認めます。
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まずは、茨木市立文化財資料館へ。
日本で唯一完全に近い形で出土した銅鉾の鋳型 by たびたびさん茨木市立文化財資料館 美術館・博物館
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こちらのメインは、地元茨木市の東奈良遺跡の関係。
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弥生時代の大規模環濠集落や古墳時代、中世の遺構を含む複合遺跡ですが、
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最大の特徴は当時の日本最大級の銅鐸や銅製品の工房遺跡であること。
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日本で唯一完全に近い形で出土した銅鉾の鋳型はなるほどなかなかのものだと思います。
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銅鏡、装飾品や
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石器もきれいに展示されています。
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そこから若園公園へ。少し距離がありますね。
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しかししかし、
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ここのバラ園は実に見事。
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地元の人がたくさんやってきて、
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満開のバラを楽しんでいました。本当に贅沢な空間。
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バラ園は若園公園の中でも別区画になっているのですが、このバラに埋もれたような感覚を味わえる公園はなかなかないように思います。
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イチオシ
若園公園=若園公園バラ園みたいな感じかなと思います。
見事に咲いた満開のバラが楽しめました by たびたびさん若園公園バラ園 祭り・イベント
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目垣城址は、安威川のほど近く佛照寺の山門向かい側の
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植え込みの中に石柱が建っていました。
地元の土豪、溝咋氏代々の居城で、山田十三城のひとつとされる城。溝咋氏は、先祖が溝咋神社にも祀られて、日本書紀の頃にも活動が認められる一族。しかし、今では名残りはとても微かです。 -
その溝咋氏に関係する溝咋神社は式内社で、旧社格は府社。
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イチオシ
主祭神は、神武天皇皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命とその母、玉櫛媛命。ほか、五十鈴媛命の祖父の溝咋耳命など、大阪府の北部を拠点にしていた三島溝咋耳一族を祀っています。
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この辺りは、日本書紀の伝承との関連もあるとかないとか。なかなかの古社ですが、松林の境内はひと気がなくて、少し寂しい感じは否めません。
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阪急茨木市駅の方に戻ってきて。
東本願寺茨木別院は、慶長8年(1603年)、茨木城主、片桐且元より城内の一角を寄進され、東本願寺第十二代教如が建立した寺。 -
現在の本堂は、安永6年(1777年)に再建されたもの。太鼓楼、鐘楼と合わせて国の登録有形文化財。駅前のほんわかした空気を変えてしまうような威厳が漂います。
ここからは、茨木市駅周辺の市街地です。 -
堀廣旭堂は、創業明治27の老舗書店。
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店頭のウインドウには、もう風化して字もほとんど読めなくなった店の看板が展示してあります。また、ここは川端康成が旧制茨木中在学時代にここで本を買っていたということが有名。貴重な逸話かなと思います。
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イチオシ
おにクルは、茨木市役所の隣り。文化・子育て複合施設として建てられた立派な施設です。前広場のきれいな芝生の広場から、地上7階の前面ガラス張りの建物の姿を見るとそれだけでわくわくするような感じ。館内には、中高生が悠々としたロビーで宿題をやっているような光景。みんなが気持ちよく利用しています。
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イチオシ
茨木童子像は、茨木市役所から茨木神社へ向かう途中。高橋の欄干に立つ4体の石の像です。茨木童子は、茨木の昔話。平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回った鬼の一人で、酒呑童子の家来。酒呑童子は、源頼光とその家来の頼光四天王によって滅ぼされ、茨木童子はその時逃げ延びたということです。渡辺綱と茨木童子の戦いも一条戻橋とか豊富です。
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茨木神社は、大同2年(807年)の創建。今は奥宮となっている天石門別神社が始まりです。
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天石門別神社の方は摂津国の式内社。明治になって、茨木神社と天石門別神社がともに郷社となるという珍しいことになりました。
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境内は奥の本殿に向かって石の参道が緩やかに伸びるというゆったりとした構え。
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途中には移築された茨木城の搦手門もありました。貴重な遺構だと思いますが、アピールはイマイチですね。
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イチオシ
梅林寺は、中川清秀の菩提寺。なお、中川清秀は荒木村重と共同して実力を蓄え、茨木城主となった人物。信長方に降ってからは、丹羽長秀や池田恒興の旗下。
山崎の戦いでは高山右近とともに秀吉の先鋒を務めたり、賤ヶ岳の合戦で活躍するも戦死しますが、長男の秀政が茨木城5万石を相続。秀政は、その後の小牧長久手や四国征伐の活躍により播磨三木城13万の加増移封。文禄の役で不用心の戦死をしたことで改易の危機もあったものの、秀吉の命で次男の秀成が後継となり、所領を6万6千石に半減して相続。さらに文禄3年(1594年)、豊後岡7万4千石へ移封。関ヶ原の戦い後も所領は安堵され、中川家は幕末まで存続しています。 -
寺は、門構えから松の間から見上げる本堂の威容も含めてちょっと別格の趣。秀吉の書簡や中川清秀画像なども残っているようです。
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すぐそばにある茨木阪急本通商店街は、ちょっとレトロで微妙かなと思ったのですが、脇に入るしんさいばし商店街などいい感じのディープさ。昔ながらの名店が隠れていそうな雰囲気があってけっこう楽しいです。
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茨木城祉は、さきほど訪ねた茨木神社に移築された茨木城搦手門とこの茨木小学校の復元櫓門以外は何もない状況です。もともと茨木城を居城にしていた地元の豪族、茨木氏は荒木村重、中川清秀の連合軍に白井河原の戦いで敗れると没落。代わって茨木城の主となったのは中川清秀でした。長男の中川秀政の代となり、播磨三木城に移封すると茨木は秀吉の直轄領へ。関ヶ原の戦いの後は、片桐且元の弟、貞隆が城主。一国一城令によって摂津では高槻城のみとされると、廃城となりました。
茨木に城があったこととか、今では地元の人でもあんまり知らないかもしれません。 -
元茨木川緑地は、茨木の市街をかなりの長さで続きます。川端康成文学館の前の道、川端通りもその一部で、すぐ南の桜通りから続いている桜の並木道。今は川の存在はよく分かりませんが、川沿いの緑地と言われれば確かにそんな雰囲気は感じます。
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で、これがその川端康成文学館。
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日本人初のノーベル文学賞受賞者、川端康成の業績を顕彰し、その人となりを紹介する施設です。
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イチオシ
ただ、それにしても、川端康成が両親と死別して3歳から祖父に引き取られて育ったというのは初めて知りました。子供の時から神童とも呼ばれ、優秀な子供であったようですが、その生い立ちが後の活躍にどのように影響したのかはなかなか想像できるものではないですね。つまり、作品の原稿とかで、いくつかの作品の1節を拾い読みしましたが、川端文学って改めてですが、美しいものですね。繊細な文章も美しいし、対象とする人物それぞれの心模様が瑞々しく伝わってきて、その世界観のすべてが純粋に美しい。文学者というと往々にしてバックにある主義主張が出てきたりするものですが、そういう匂いも一切なくて、これが純文学というものでしょうか。
なにか不思議なものを見たような気持ちにすらなりました。まあ、そういうことはないと思いますが、もしこうした川端文学と生い立ちを結びつけて考える人がいたら、それはやはり野暮なことでしかないように思います。 -
その流れで、もうひとつ。富士正晴記念館は、詩人であり小説家の富士正晴が、生前に収集していた文学資料や氏の作品を紹介する施設。
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イチオシ
交友関係の広さやエネルギッシュな活動に人となりがストレートに伝わってきて、こちらもそれに負けないようにという気持ちで拝見しました。
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贋・久坂葉子伝や映画の豪姫とか、
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それだけでもこの人は世の中にいいものを送り出したんだなあというけっこうな感慨がありました。
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もう夕方になりかかっていましたが、ここからもうひと踏ん張りで総持寺へ向かいました。
総持寺は、高野山真言宗の寺で、西国三十三所第22番札所。街中にあって、あんまり山岳仏教の寺という雰囲気もないし、西国三十三所の賑やかさも思ったほどではないかもですね。 -
助けた亀の恩返しと観音の霊験に関する草創説話があって、本尊の千手観音は亀に乗った姿のよう。
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仁王門を
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くぐって、
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その先正面が本堂。
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この本堂は、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼による再建です。
本堂を覗くと、確かに、亀に乗った千手観音が拝見できました。ただ、観音像自体としては、そこまでのインパクトはないかな。ごく普通の観音像だと思います。 -
その他、境内には日本庭園のような一角もありましたが、これもほどほどです。
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総持寺から、ついでに太田茶臼山古墳も訪ねます。
磯良神社は、その途中。もともとは式内社の新屋坐天照御魂神社の旧境内地にあった境内社だった神社だとか。 -
イボを取るのに霊験があるということで疣水神社(いぼみずじんじゃ)とも。境内から本殿とかけっこうしっかりした構え。地元で支持されていることが窺えます。
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そして、これが太田茶臼山古墳。5世紀半ばに作られた前方後円墳。
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墳丘長226mは、全国第21位の規模であり、継体天皇陵とも。ただ、造られた時代からすると6世紀に作られた今城塚古墳の方が有力とされていて、今城塚古代歴史館とか整備のレベルもそちらの方が抜群に充実しています。遥拝所は住宅地を奥に入った先。静かな構えはしっかり天皇陵としてのものですけどね。
では、これで今日の予定は終了。 -
茨木駅で自転車を返す前に晩飯です。
ひだりうまは、茨木駅からは少し離れた大通り沿い。この辺りでは圧倒的な人気を誇るうどん屋さん。この日も夜の開店時間と同時に店内は満席でした。 -
うどんは手打ちの讃岐うどんらしいうどん。コシがあって、舌触りもいいですね。ただ、ここまで固いとちょっと食べにくさを感じるくらい。居酒屋風のうどん屋さんなのでこうなるのかなあ。私的にはそこがちょっと残念でした。
今日は京都に泊まって、明日は嵐山の三船祭です。
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