2024/11/14 - 2024/11/15
152位(同エリア380件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2024/11/14
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電車での移動
伊予大洲16:01-(宇和海)-16:50宇和島
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JRクレメントイン宇和島
2024/11/15
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車での移動
タクシー
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天赦園、伊達博物館、宇和島城
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電車での移動
宇和島12:55-(宇和海)-14:17松山
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この旅行記スケジュールを元に
宇和島城は、1595年に宇和郡7万石を拝領した藤堂高虎により、1601年に完成しました。
この間、1600年藤堂高虎は伊予半国二十万石を加増されて今治に転出しましたが、従弟の藤堂良勝を城代として置きました。
1608年、富田信高が宇和郡十万石を拝領し城主となりましたが、1613年に改易となり、幕府直轄領となった宇和郡の代官として藤堂良勝が再び城代として入城しました。
1614年伊達政宗の長男秀宗が10万石で入封。以後、仙台伊達家の別家として宇和島伊達家が9代に渡り幕末まで城主となりました。
1662年2代藩主宗利が天守をはじめ、城郭全体の改修に着手し、1666年天守の建築が完了しました。現存12天守の一つにかぞえられる天守(国指定重要文化財)はこれです。
幕府への届出は修理とされていましたが、土台は岩盤から石垣へ、構造は望楼型から層塔型へ、外観は下見板張から白漆喰総塗込へとまったく異なる天守が建築されました。
1900~1913年の宇和島港の改修工事により、堀が埋め立てられ、三の丸の石垣や搦手門、黒門、櫓などが解体されました。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:新神戸駅→丸亀城→(今治泊)
2日目:今治城→大洲城、臥龍山荘→(宇和島泊)
3日目:宇和島城、天赦園、伊達博物館→大宝寺(松山泊)
4日目:松山城、萬翠荘、道後温泉本館、石手寺→松山空港→羽田空港
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- タクシー JR特急
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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17:51宇和島駅に到着しました。
宿泊先は、駅ビル内のJRクレメントイン宇和島です。 -
部屋の直下が宇和島駅のプラットフォームです。
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夕食は、ほづみ亭です。ホテルから徒歩5分ほどでした。
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造りとじゃこ天です。
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朝食は、①和食、②宇和島鯛飯、③洋食、から選べたので、②にしました。
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楽しみにしていた鯛飯でしたが、何とホテルの朝食で頂けました。
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宇和島駅前からタクシーで、国の名勝に指定されている天赦園にやって来ました。
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天赦園は、1672年に2代藩主の伊達宗利が海を埋め立てて造成した「浜御殿」の一部でした。
1863年に建物等が整備され、7代藩主の伊達宗紀が移居し「南御殿」と称された後、1866年に築庭が竣工し、「天赦園」と命名しました。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の大名庭園です。
天赦園の名は、伊達政宗が詠んだ漢詩中の以下の部分から命名されたもので、余生を十分に過ごしたいという思いが込められています。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
(馬上に少年過ぎ?世は平にして白髪多し 残躯は天の赦す所?楽しまずして是を如何せん)
園内には伊達家の家紋である「竹に雀」より竹を配しているのが特徴で、珍種も含め18種もの竹や笹が植栽されています。
また、伊達氏が藤原氏の流れであることから、多くの藤が植えられ、藤の名所としても名高い所です。 -
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こんな逸話もあるようです。
シーボルト先生(ドイツ人)のお孫さんですね。 -
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東側芝生は、1896年まで「明心楼」という建物があり庭を眺める拠点でしたが、今は広々としてマツを数本残すのみとなっています。
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ソテツが植えられています。
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「春雨亭」です。能書家だった宗紀はこの書屋で多くの貴重な書を残しました。
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大池は、園面積の三分の一を占め、美しい池庭護岸石組のもとに、そこに浮かぶ蓬莱島・東屋岬・交差した出島と顕著な陰陽石・白藤太鼓橋を透す景観は何れの眺めからも絶景です。
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「白玉上り藤」です。池泉に架かる橋のような意匠を設けています。
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中央の中島が蓬莱山とされ、写真右手の岩島は三尊石のように配列されています。
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「野田藤」です。江戸時代に東京の亀戸天神から移植されたものです。
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「苔の小径」と名付けられている苑路です。竹林、苔庭、丸石による飛石という意匠であり、その先は枯川へと続いています。
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鬼が城山系を借景とし、その源を想定した幽雅な枯川と、下流は大河となり大海に注ぐという雄大な枯流れを見せる独特の枯山水となっています。
水流を左右に分ける水分石を配しており、奥が上流で枯滝石組を造っています。 -
天赦園の近くにある、宇和島市立伊達博物館です。
宇和島伊達家に関する数々の資料を展示しています。 -
搦手口から、宇和島城に登城します。
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上り立ち門です。
宇和島城の現存建造物の一つで、城の裏口にあたる搦手門です。
武家の正門とされる薬医門形式であり、国内に現存する薬医門としては最大クラスの大きさです。
建築年代の特定には至っていませんが、古い形式の特徴が見られ、また、控柱の科学的年代分析により、1596~1601年の藤堂修築期まで遡る現存最古クラスの薬医門である可能性もあります。 -
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式部丸です。
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井戸を備えた曲輪で、井戸の深さが11mもあります。
虎口や城門がなく、山上の曲輪であるものの、櫓も認められないため、宇和島伊達家により造成された曲輪と考えられています。 -
代右衛門丸の石垣です。
古い技法と新しい技法が混在しており、古い技法は自然石を加工せず用いる「野面積み」、新しい技法は平たく加工した石を隙間なく積み上げる切込ハギです。幕末に修理された石垣は高さ15mあり、城内で一番高い石垣です。この2つの技法が確立した年代から推測すると、古い石垣と新しい石垣が施工された時期は100年以上離れていると考えられます。 -
藤兵衛丸の石垣です。
創建当時の1601年頃、藤堂高虎が築いたものとされ、最も高い部分が13mあり、築城当時は国内最高クラスの高さでした。
自然石を加工せず積み上げた「野面積み」です。 -
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長門丸の名前の由来は、藤堂高虎の家臣の名前だと言われています。
二重櫓2基、平櫓2基、多門櫓1基がありました。 -
藤兵衛丸に建っている「山里倉庫」です。
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1845年に三の丸に建てられた武器庫で、1966年に伊達家より譲渡され、城山内に移築、現在は城山郷土館として一般公開されています。
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本丸を目指して登って行きます。
この場所に三の門がありました。 -
本丸の石垣です。本丸を囲む石垣は、全長約193mあります。
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帯曲輪です。二の丸と連結して本丸を取り囲んでいます。
ここから先は立ち入り禁止でした。
帯曲輪の先に太鼓櫓がありました。天守に太鼓櫓にあった太鼓が展示されています。 -
二の門があった場所です。
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二の門を入ると二の丸、そして正面に二重櫓の御算用櫓。礎石が残っているので、規模を推測できます。
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二の丸から本丸への石段と城壁です。櫓台の上に本丸への唯一の門として櫛形門がありました。櫓門の形状ではありますが、櫛型窓を持っていたため、櫛形門と呼ばれていました。
左右の櫓台の石垣は「打ち込みハギ」です。 -
反対側の帯曲輪です。こちら側からも立ち入り禁止です。
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本丸です。
中央に天守が置かれ、その前に御台所という大きな建物、二重櫓の御弓櫓、平櫓の御鉄砲櫓、櫛型門南隅櫓、御休息所櫓、櫛形門北隅櫓がありました。 -
南隅櫓跡です。
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御台所跡です。
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御鉄砲櫓跡です。
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御休息所櫓跡です。
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天守は、宇和島二代目藩主・伊達宗利によって1666年に建てられました。独立式層塔型で三重三階、白壁が美しく、別名「鶴島城」と言われました。
当初は、藤堂高虎による複合式望楼型の三重天守が建っていましたが、老朽化のため、建て替えられました。 -
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天守の入り口には唐破風がかけられ、開放的な造りの玄関となっています。この不自然な間口の幅は、お殿様が駕籠から出やすい構造にしたものです。
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妻飾りの伊達家の家紋3種類。上から「九曜紋」、「宇和島笹(竹に雀紋)」、「竪三引両紋」です。
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飾り瓦の「桃瓦」です。長寿を表す亀の上に、魔除けの果実と伝わる桃が載った珍しい瓦です。
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天守1階には内室があり、その周囲を武者走りで囲まれています。
廊下の内側には障子戸がかけられ、生活空間のような造りの「障子の間」となっています。
廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされています。 -
パンフレットに掲載されているイラストです。
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引き戸窓の上下には、格式を象徴する長押を回しています。
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天守雛形です。
1860年に行われた大規模な修理に際して作られたことが、天守1階の繋ぎ梁に打ち付けられている木札に記されています。非常に精巧に作られており、柱の太さに至るまで1/10スケールで作られています。宇和島城では天守・雛形ともに江戸時代のものが残り、かつ雛形の制作年代がはっきりとしている点で非常に珍しく、貴重なものです。 -
天守2階です。
手すりや欄干にも丁寧な細工が見られます。2階にも武者走りがありますが、1階と比べて狭くなります。基本構造は1階と同じです。 -
太鼓櫓にあった太鼓が展示してあります。
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最上階の3階です。
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宇和島城は使い勝手や装飾が重視されていることから、無防備な太平の世の建築であると言われますが、実際にはすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰ほどの高さに開けられた窓から、直接射撃を行う設計であったと考えられています。(写真では鉄砲の代わりに竹の棒が掛けられています。)
武者窓は、鉄砲や弓矢の射撃角を広くとるために五角形としています。 -
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江戸時代の宇和島城下町を描いた屏風の複製品が展示されています。
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天守3階からの眺望です。
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大手口を目指して下って行きます。
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井戸丸です。
宇和島城に3か所ある井戸のうち、もっとも重要な井戸を守っていた曲輪です。 -
幕末に作り直した際の記録が、井戸の縁の石に刻まれています。
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井戸丸櫓下の虎口です。
ここを曲がると井戸丸門があり、厳重に守りを固めていました。 -
石畳の階段と苔むした古い石垣群です。
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「藩老桑折氏武家長屋門」です。
藩政時代宇和島藩の家老、桑折氏の屋敷にあった長屋門を城山北登城口に移築したものです。従来は間口35mの堂々たるものでしたが、移築の際に向かって左方部分が大幅に切り取られ、現在の間口は15mです。建築年代は不明ですが、1703年ごろに造られたと言われています。 -
門の外に宇和島市観光情報センター「シロシタ」があり、宇和島のおみやげや、宇和島城・伊達家にまつわるグッズの限定販売などを行っています。
ここで宇和島城のペーパークラフトを購入しました。暇を見つけて組み立てるつもりです。 -
追手門があった場所です。
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宇和島城の正面口に位置していた正門で、1945年まで現存していましたが、空襲により焼失しました。
1596~1601年の藤堂高虎の築城時に築かれたもので、その規模の巨大さから「十万石には過ぎた門」といわれ、上部渡櫓の大きさは、桁行12間(約24m)、梁間4間(約8m)に及び、桁行は高知城追手門(11間)を上回り、二条城東大手門(12間)に匹敵するものでした。 -
石垣に使われていたと思われる巨石が、「国宝追手門旧跡」と刻まれ残っています。
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天赦園に、追手門のかずら石(縁石)が屋外展示されています。大手門の土台となっていた石です。
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宇和島駅に戻り、12:55発の宇和海号で松山へ向かいます。
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