2024/11/14 - 2024/11/14
119位(同エリア253件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2024/11/14
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今治10:41-(しおかぜ、宇和海)-12:02伊予大洲
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臥龍山荘
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大洲城
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大洲市立博物館
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伊予大洲16:01-(宇和海)-16:50宇和島
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大洲城は、1595年に入城した藤堂高虎が近世城郭としての整備を始めました。1609年には、賤ケ岳七本槍の一人、脇坂安治がこの地を拝領し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。
1617年、6万石で加藤貞泰が入り、以後は加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えました。
維新後は城内のほとんどの建築物は破却されましたが、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されました。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために1888年に解体されました。
現在の天守は、2004年に竣工したもので、第二次世界大戦後初めて当時の工法・木造で復元されたものです。
明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿を正確に木造復元することができました。このように多くの資料が残ることは稀です。
そのため、本来なら建築基準法で木造の建設は認められない規模でしたが、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の木造復元に至りました。
現存している、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓が国指定重要文化財です。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:新神戸駅→丸亀城→(今治泊)
2日目:今治城→大洲城、臥龍山荘→(宇和島泊)
3日目:宇和島城、天赦園、伊達博物館→大宝寺(松山泊)
4日目:松山城、萬翠荘、道後温泉本館、石手寺→松山空港→羽田空港
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自転車 JR特急
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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13:01伊予大洲駅に到着しました。
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駅前からタクシーで臥龍山荘へと考えていたのですが、1台だけ停まっていたタクシーには先客が乗車して行ってしまいました。
タクシーはすぐに戻ってくる可能性が高いとは思いましたが、レンタサイクルがあったので、これを利用することにしました。
臥龍山荘までタクシーで行ったとしても、その後の、臥龍山荘→大洲城、大洲城→伊予大洲駅は徒歩となり、結構な距離があるのでレンタサイクルは大正解だったと思います。電動アシスト車で、1,000円/日でした。 -
臥龍山荘は肱川流域随一の景勝地「臥龍淵」に臨む三千坪の山荘で、大洲藩3代藩主加藤泰恒が「蓬莢山が龍の臥す姿に似ている」ことから「臥龍」と命名したといわれています。
この地をこよなく愛した泰恒公は、吉野の桜・龍田の楓を移植し、庭園に一層の風情を加えたため、歴代藩主もここに遊賞しましたが、やがて手を入れられることもなく荒廃していきました。
現在の臥龍山荘は明治の貿易商河内寅次郎氏が十余年かけて築いたものです。
臥龍院・不老庵・知止庵の三建築はそれぞれ数寄をこらした逸品揃いであり、山々と肱川・如法寺河原の自然をとりいれた借景庭園は、自然と人工の典雅な調和をみせ、四季折々に違った顔を見せてくれます。
桂離宮を参考にした名数寄屋建築や大洲の自然のものを取り入れた借景は修学院離宮の様式、そして近代の空飛ぶ茶室があり、大洲の桂、修学院離宮と呼ぶ人もいます。 -
臥龍院、不老庵、文庫の3棟が国の重要文化財、庭園を含む一帯が国の名勝に指定されています。
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パンフレットに掲載されている臥龍山荘の配置図です。
この時の入場者の半数以上が外国人だったと思います。
松山空港へは現在、ソウル(毎日)、釜山(週6便)、台北(週3便)からの国際航空便が運航されていますが、大洲の町はアニメ映画「すずめの戸締り」の舞台になったこともあり、愛媛県でも道後温泉、松山城などと並んでかなりの人気のようです。
私の場合、大洲といえば「男はつらいよ“寅次郎と殿様”」ですね。名作でした。 -
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門をくぐったところの石垣です。
「乱れ積み」「末広積み」「流れ積み」と変化を持たせた石積みの中に生きた「チシャの木」が繁茂し、自然と人工の共存を感じさせています。 -
石垣には石臼が埋め込まれていて、これを月と見立て、周りの3種類の石積みが、大洲の風景を表しているといわれています。
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臥龍院(国指定重要文化財)です。1907年に完成しました。
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パンフレットに掲載されている臥龍院の平面図です。(中国語版です。)
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霞月の間です。
京都大徳寺玉林院の霞床の席に案を得ています。違い棚を霞に見たて、掛け軸には富士山が描かれており、丸窓の奥には仏間があり蝋燭の明かりが灯されると月明かりのようになり、月に霞で霞月の間というわけです。
右手の襖もあえて鼠色で薄暮を表現し引手にはコウモリの細工が施されています。壁の一部を塗り残し、荒れた農家の風情を表し、わびさびの表現がされています。和紙で仕上げた天井、床柱を省いた通し落とし掛け、縁側廊下には仙台松の一枚板が使用され、時雨高欄など、細やかな細工が施されています。 -
仏間の明かりで月のように見える丸窓。霞に見たて違い棚、富士山の掛け軸。
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蝙蝠(こうもり)の意匠の襖の引手。「蝙」は「至る」という意味があり、「蝠」は漢字のつくりが「福」に通じることから、「福に至る」という意味になり縁起物とされています。
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わざと一部を塗り残した壁。
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通し落とし掛け。
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床柱が省かれています。
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仙台松の一枚板の縁側廊下。
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修学院離宮の写しの時雨高欄。
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部屋には、6つの「ひょうたん」があります。
ここに2つ。 -
ここに2つ。
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ここに2つ。
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清吹の間です。
この部屋は夏向きに造られており、北向きで風通しがよく、天井は他よりも高く、涼しさを感じさせる細工が随所に見られます。
神棚の下の広い書院の欄間には、桜の花に筏で春、右側には水玉で夏、左側の壱是の間との間の欄間には菊水で秋、仏間との間には雪輪窓で冬とそれぞれ水にちなんだ彫刻がなされています。 -
桜の花に筏で「春」です。
欄間の「透かし彫り」により、水の流れを表現、見た目に涼しさを感じられます。 -
肱川の水玉を表し「夏」です。
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壱是の間との間の欄間には菊水で「秋」です。
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仏間との間には雪輪窓で「冬」です。
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神棚は、皮が付いたままの「イチイの木」が支えています。
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これは、クスノキの一枚板。
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高い天井には屋久杉が使われています。
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壱是の間です。
この部屋は格調高い書院座敷です。丸窓、濡縁、障子戸、天井板などに桂離宮様式が取り入れられています。畳をあげれば能舞台となり、床下には備前焼の壺が置かれ音響効果を高めてあります。また、数寄屋部分との調和を図るための配慮も見られます。 -
床柱は杉の四方糸柾、長押は杉の磨き半丸太、欄間彫刻は優雅な野菊、鳳凰の透かし彫り、障子戸、天井板には春日杉の中杢を使用するなどの工夫が見られます。床は松の一枚板が使われています。
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襖の引き手と壁が松竹梅を表しています。
左が梅、右が松ぼっくり、白い壁に竹の透かし(分かりづらいですが)です。 -
庭園から縁側越しに見ています。
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軒桁は一本松で、丸い窓は桂離宮の茶室笑意軒に習ったものです。
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庭園は、肱川に望む崖地の地形を利用して造営された眺望の庭園です。
巧みに配置された臥龍山荘の建物や庭園は自然と見事に調和しています。
自然のものを取り入れた借景は、京都の修学院離宮の様式を取り入れています。 -
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飛び石には様々な形の石臼、手まり石などがそのまま庭園内の要所要所に嵌め込まれています。
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灯籠の白い苔はボタンゴケという珍種で、生育が遅くここまで育つのに100年を要しているとのことです。
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干支が彫刻された燈籠です。
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潜龍洞。現代の冷蔵庫にあたる場所です。
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民家の井戸が置かれています。
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庭園を先に進むと、不老庵です。1901年完成、国指定重要文化財です。
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臥龍淵を眼下に見る崖の上に懸り造りに建てられた数寄屋造りです。
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床には2間幅の仙台松の1枚板を使用し、2間の曲がり竹を落とし掛けにし、違い棚をつけない簡潔な仕上がりです。
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庵そのものを船に見立てて作られており、天井は竹網代一枚張りを船底の形のような形にしてあります。
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対岸の山の右端から月が昇り、天井に反射して部屋を明るくするという巧妙な趣向が施されているとのことです。
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外に出て裏に廻ると生きた槇の木を使った「捨て柱」が見られます。
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財をもたらす蛇の形の石です。
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「知止庵」です。
臥龍院と同時期に浴室として建てられた建物で、1949年に内部を改造して茶室とされました。「知止」の扁額は大洲藩第10代藩主加藤泰済の筆です。陽明学者中江藤樹の説いた教えから「知止」という庵名が生まれました。 -
壁の腰張は、将軍が勅使を迎える際に接待役を勤めた第3代藩主藩泰恒の「茶方日記」の反古です。
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刃傷事件を起こさなくて良かったですね。
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「蓬莱島」の展望台です。肱川、臥龍淵、臥龍山荘を眺めることができます。
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臥龍山荘と大洲城の間にある「おはなはん通り」です。
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「おはなはん」は、約60年前に放送されたNHK朝ドラです。
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これから大洲城の外堀だった場所を通過し、三の丸南隅櫓→天守→苧綿櫓の順に見学します。
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三の丸南隅櫓(国指定重要文化財)です。
本丸から少し離れた三の丸の外堀南隅に位置しており、1766年の完成で大津城の4つの櫓の中で最古です。 -
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内部1階です。
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2階です。
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大洲城二の丸、本丸の絵図です。
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二の丸大手門跡です。
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門を抜けると内堀にかかる土橋がありました。
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土橋を渡ると左に櫓門がありました。
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枡形と呼ばれる防衛構造になっていました。
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薬医門を抜けると、現存建物の下台所があります。
外部は漆喰で塗り込まれており、城内の食料庫としての機能を果していたと考えられています。大津監獄所時代は、獄舎として使われていました。 -
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天守と高欄櫓(国指定重要文化財)です。
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この場所に暗り門という門がありました。この門は天守に至る最後の城門で、最も大きな櫓門です。現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を上ると台所櫓の前に出るようになっていました。
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本丸上段です。
中央が天守、右が台所櫓、左が高欄櫓です。台所櫓と高欄櫓は天守と連結しています。 -
台所櫓、国指定重要文化財です。
台所機能を備えた建物で、籠城時には城兵のための台所として使用されるため、1階の1/3が土間となっており、排煙用の格子窓なども取り付けられています。 -
台所櫓の内部です。
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高欄櫓です。
上層の屋根には軒唐破風、西南隅には石落としが設けられています。「擬宝珠」の付いた高欄が設置されており、櫓にこのような高欄を設置する例はきわめて珍しいものです。 -
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高欄櫓1階です。
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高欄櫓2階です。
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天守は4層4階の複連結式で、2004年に再建されたものです。
外観は板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用されています。2階には華頭窓のみが並べられています。 -
天守1階です。
台所櫓が入城口で、天守、高欄櫓と渡って行けます。 -
大洲市発行の「復元大洲城」掲載の天守平面図です。
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大洲市発行の「復元大洲城」掲載の天守立面図、断面図です。
心柱には、加藤家の菩提寺、如法寺の木が使われています。 -
天守2階です。写真中央の柱が心柱です。
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天守3階です。
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千鳥破風の内部です。
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天守4階(最上階)です。
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天守4階からの眺望です。
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大洲市立博物館に展示されている、1665年製の鯱です。
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大洲市立博物館に展示されている、天守雛形です。
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大洲市立博物館に展示されている、天守古写真です。
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苧綿櫓です。
二の丸の東隅にある独立した櫓で、肱川に面し、城の東の防御を担っていました。石落としを備え、その一部が格子窓になっているのが特徴です。 -
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肱川橋から見た大洲城です。
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駅へ戻る途中、大洲市立博物館に立ち寄りました。
社会教育センターの4、5階にあります。 -
自転車を返却し、16:01発の宇和海号で宇和島へ向かいます。
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