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2023年1月25日(水)、朝起きると外は見事な雪景色。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8889760771093868&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />ずっと前から雪の金閣寺を見たいと思ってて、そういう日が来るのを待っていたのが、ようやく訪れた。と云うことで、9時頃の電車に乗って金閣寺へ向かう。9時半過ぎに京都駅に到着。さすがにこの時間は人は少ない(下の写真1)。<br /><br />9時45分頃の立命館大学前行の市バスに乗車する。運転手さん、チェーンを付けての走行は慣れてはいないと思うが、時間は多分普通よりも掛かったけど、1時間ほど掛けて立命館大学衣笠キャンパス正門横のバスターミナルに無事到着(下の写真2)。今回の行先に関係ないが、私の母校の4年間通ったキャンパスなのだが、東門の出入りがほとんどだったので、正門付近にはあまり縁がなかった。<br /><br />この辺りは京都市北区衣笠。京都市と北区に付いては以下で書いた。<br />https://4travel.jp/travelogue/11832454<br />https://4travel.jp/travelogue/11916847<br /><br />衣笠は衣笠山の東部および南麓一帯の地名。かつては衣笠村だった。北区と右京区の境界を成す衣笠山は、平安前期、9世紀末の第59代宇多天皇が夏のさなかに雪が見たいと所望して白絹をかけたという故事から「きぬかけ山」とも呼ばれ、それが衣笠山の東部および南麓一帯であるこの地の地名の由来となっている。<br /><br />住所的には衣笠は付かず、単に金閣寺町だが、衣笠山と衣笠が付く町に囲まれた金閣寺の他にも、等持院、真如寺、平野神社、わら天神などがあり、また大正から戦後まで活躍した日本画家の堂本印象の作品を展示する堂本印象美術館もあり、立命館の学生や観光客で賑わう。<br /><br />1895年(明治22年)に6村が合併して衣笠村が成立したが、1918年(大正7年)に京都市に編入され、当時の上京区の一部となり、1955年に上京区から北区を分区して以来、北区に編入され、現在の境域となった。<br /><br />11時前、金閣寺の黒門前に到着。雪だっと云ってやって来た私みたいな人間は少ないと思うけど、まあよう混んでるわ。修学旅行らしき生徒達や外国人が多い(下の写真3)。多分、予定行動でラッキーだったんだなと思う。<br /><br />金閣寺、正式には北山(ほくざん)鹿苑禅寺(ろくおんぜんじ)を略して鹿苑寺だが、臨済宗相国寺派の寺院。舎利殿の内外に金箔が貼られていることから金閣寺と呼ばれる。同志社大学今出川キャンパスの北にある大本山相国寺の境外塔頭。ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財(Historic Monuments of Ancient Kyoto)」の構成資産。<br /><br />この辺り一帯は、鎌倉時代の1225年頃に西園寺家の実質的な祖とされる西園寺(藤原)公経(きんつね)が西園寺を建立し、併せて北山第という豪壮な山荘を開いた場所。西園寺家の名はこの寺から来ている。<br /><br />公経は鎌倉幕府とのつながりが強く、以後も西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府が滅亡するに及び衰退し、北山第も荒廃していった。西園寺自体は室町時代の1354(もしくは1352)年に室町頭(現在の烏丸鞍馬口近く)に移転した(その後、安土桃山時代の1590年に現在の高徳寺町に移転)。<br /><br />1397年、3年前に将軍職を子の義持に譲っていた第3代将軍だった足利義満が河内国の自領と交換にこの一帯を手に入れ、北山第の改築と新築を行った。2年後には黄金の金閣寺舎利殿が完成。<br /><br />北山殿と飛ばれた山荘の規模は御所に匹敵し、太政大臣を襲名し実質的に実権を握り続けていた義満は、政治中枢の全てが集約されたここで政務を執った。北山殿を中心としたこの時代の文化は北山文化と呼ばれ、義満は1408年に51歳で亡くなるまで北山殿で政務を行いながら暮らし続けた。<br /><br />義満の死後、北山殿は義満の妻であった北山院日野康子の御所となるが、1419年に北山院が亡くなり、その翌年に義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺と命名された。鹿苑とはインドの地名で、お釈迦様が最初に説法を行った鹿野苑(ろくやおん)のこと。<br /><br />1467年から11年間続いた応仁の乱では多くの禅寺が焼討に遇い、鹿苑寺も同様だったが、幸いに金閣(舎利殿)や石不動堂、護摩堂などは焼失を免れた。江戸時代になり、秀吉、家康の両者に政治顧問として重用され、「黒衣の宰相」と云われた西笑承兌が家康の命により鹿苑寺住職となり中興する。以後主要な建物が再建され、金閣も1649年に大修理された。<br /><br />明治時代の鹿苑寺は庇護者をなくし、また廃仏毀釈により寺領の多くが返上されて、経済的基盤を失う。そうした中で、1894年(明治27年)に庭園および金閣を一般に公開し、拝観料を徴収して寺収入を確保した。<br /><br />戦後の1950年には子弟の見習い僧侶であった大谷大学学生によって放火され、金閣は全焼する。三島由紀夫は「金閣寺」を、水上勉は「金閣炎上」をこの事件に関して執筆している。どっちも読んでないわ。1955年に再建。<br /><br />1986年から1987年に金閣の昭和大修復が行われた。また、1997年に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年から2007年に方丈の解体修理も行われた。<br /><br />私が最初にここに来たのは中2の夏(下の写真4)。次は大学時代に同級生と来た。この時は授業の後で計画なく来たように思うので、写真はない。普段カメラなんて持ち歩かないしね。で、3回目は連れ合いとのデートで84年の冬に来た(下の写真5)。今回はそれ以来なんで、39年振り。<br /><br />ずっと雪に覆われた金閣を見たいって思ってたのだが、結構うちから遠いし、現役時代は休みの日の雪が合うことも少なく、ずっと行きたいで終わっていた。で、ようやく見られたのがこれ! 満足でした<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8889776681092277&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />境内を回ったので、続く

京都 北区衣笠 金閣寺(Temple of the Golden Pavilion,Kinugasa,Kyoto,Kyoto,Japan)

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2023/01/25 - 2023/01/25

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旅行記グループ 金閣寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年1月25日(水)、朝起きると外は見事な雪景色。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8889760771093868&type=1&l=223fe1adec

ずっと前から雪の金閣寺を見たいと思ってて、そういう日が来るのを待っていたのが、ようやく訪れた。と云うことで、9時頃の電車に乗って金閣寺へ向かう。9時半過ぎに京都駅に到着。さすがにこの時間は人は少ない(下の写真1)。

9時45分頃の立命館大学前行の市バスに乗車する。運転手さん、チェーンを付けての走行は慣れてはいないと思うが、時間は多分普通よりも掛かったけど、1時間ほど掛けて立命館大学衣笠キャンパス正門横のバスターミナルに無事到着(下の写真2)。今回の行先に関係ないが、私の母校の4年間通ったキャンパスなのだが、東門の出入りがほとんどだったので、正門付近にはあまり縁がなかった。

この辺りは京都市北区衣笠。京都市と北区に付いては以下で書いた。
https://4travel.jp/travelogue/11832454
https://4travel.jp/travelogue/11916847

衣笠は衣笠山の東部および南麓一帯の地名。かつては衣笠村だった。北区と右京区の境界を成す衣笠山は、平安前期、9世紀末の第59代宇多天皇が夏のさなかに雪が見たいと所望して白絹をかけたという故事から「きぬかけ山」とも呼ばれ、それが衣笠山の東部および南麓一帯であるこの地の地名の由来となっている。

住所的には衣笠は付かず、単に金閣寺町だが、衣笠山と衣笠が付く町に囲まれた金閣寺の他にも、等持院、真如寺、平野神社、わら天神などがあり、また大正から戦後まで活躍した日本画家の堂本印象の作品を展示する堂本印象美術館もあり、立命館の学生や観光客で賑わう。

1895年(明治22年)に6村が合併して衣笠村が成立したが、1918年(大正7年)に京都市に編入され、当時の上京区の一部となり、1955年に上京区から北区を分区して以来、北区に編入され、現在の境域となった。

11時前、金閣寺の黒門前に到着。雪だっと云ってやって来た私みたいな人間は少ないと思うけど、まあよう混んでるわ。修学旅行らしき生徒達や外国人が多い(下の写真3)。多分、予定行動でラッキーだったんだなと思う。

金閣寺、正式には北山(ほくざん)鹿苑禅寺(ろくおんぜんじ)を略して鹿苑寺だが、臨済宗相国寺派の寺院。舎利殿の内外に金箔が貼られていることから金閣寺と呼ばれる。同志社大学今出川キャンパスの北にある大本山相国寺の境外塔頭。ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財(Historic Monuments of Ancient Kyoto)」の構成資産。

この辺り一帯は、鎌倉時代の1225年頃に西園寺家の実質的な祖とされる西園寺(藤原)公経(きんつね)が西園寺を建立し、併せて北山第という豪壮な山荘を開いた場所。西園寺家の名はこの寺から来ている。

公経は鎌倉幕府とのつながりが強く、以後も西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府が滅亡するに及び衰退し、北山第も荒廃していった。西園寺自体は室町時代の1354(もしくは1352)年に室町頭(現在の烏丸鞍馬口近く)に移転した(その後、安土桃山時代の1590年に現在の高徳寺町に移転)。

1397年、3年前に将軍職を子の義持に譲っていた第3代将軍だった足利義満が河内国の自領と交換にこの一帯を手に入れ、北山第の改築と新築を行った。2年後には黄金の金閣寺舎利殿が完成。

北山殿と飛ばれた山荘の規模は御所に匹敵し、太政大臣を襲名し実質的に実権を握り続けていた義満は、政治中枢の全てが集約されたここで政務を執った。北山殿を中心としたこの時代の文化は北山文化と呼ばれ、義満は1408年に51歳で亡くなるまで北山殿で政務を行いながら暮らし続けた。

義満の死後、北山殿は義満の妻であった北山院日野康子の御所となるが、1419年に北山院が亡くなり、その翌年に義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺と命名された。鹿苑とはインドの地名で、お釈迦様が最初に説法を行った鹿野苑(ろくやおん)のこと。

1467年から11年間続いた応仁の乱では多くの禅寺が焼討に遇い、鹿苑寺も同様だったが、幸いに金閣(舎利殿)や石不動堂、護摩堂などは焼失を免れた。江戸時代になり、秀吉、家康の両者に政治顧問として重用され、「黒衣の宰相」と云われた西笑承兌が家康の命により鹿苑寺住職となり中興する。以後主要な建物が再建され、金閣も1649年に大修理された。

明治時代の鹿苑寺は庇護者をなくし、また廃仏毀釈により寺領の多くが返上されて、経済的基盤を失う。そうした中で、1894年(明治27年)に庭園および金閣を一般に公開し、拝観料を徴収して寺収入を確保した。

戦後の1950年には子弟の見習い僧侶であった大谷大学学生によって放火され、金閣は全焼する。三島由紀夫は「金閣寺」を、水上勉は「金閣炎上」をこの事件に関して執筆している。どっちも読んでないわ。1955年に再建。

1986年から1987年に金閣の昭和大修復が行われた。また、1997年に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年から2007年に方丈の解体修理も行われた。

私が最初にここに来たのは中2の夏(下の写真4)。次は大学時代に同級生と来た。この時は授業の後で計画なく来たように思うので、写真はない。普段カメラなんて持ち歩かないしね。で、3回目は連れ合いとのデートで84年の冬に来た(下の写真5)。今回はそれ以来なんで、39年振り。

ずっと雪に覆われた金閣を見たいって思ってたのだが、結構うちから遠いし、現役時代は休みの日の雪が合うことも少なく、ずっと行きたいで終わっていた。で、ようやく見られたのがこれ! 満足でした
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8889776681092277&type=1&l=223fe1adec


境内を回ったので、続く

  • 写真1 雪の京都駅前

    写真1 雪の京都駅前

  • 写真2 立命館大学前バスターミナル

    写真2 立命館大学前バスターミナル

  • 写真3 金閣寺黒門

    写真3 金閣寺黒門

  • 写真4 1969年に来た時の金閣

    写真4 1969年に来た時の金閣

  • 写真5 1984年に来た時の金閣

    写真5 1984年に来た時の金閣

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