2024/11/19 - 2024/11/19
184位(同エリア644件中)
玄白さん
仏教の信仰心はほとんど持ち合わせていないが、古美術としての仏像や仏教寺院の建築の美しさを愛でるのは楽しい。
というわけで、中学校の修学旅行以来60年ぶりに世界遺産が3つもある奈良県に3泊4日の旅へ。わずか4日の旅で、それぞれの地の歴史・文化を深く理解するのは無理で、見所のいくつかをつまみ食いのように巡る、まさしく修学旅行スタイルのせわしない旅である。
前日は、午後の半日で、世界遺産「古都奈良の文化財」の構成要素のうち、東大寺と興福寺のみの見学で終わった。この日は、午前中に世界遺産「古都奈良の文化財」の残りの構成要素である平城宮跡、唐招提寺、薬師寺を巡り、午後は、2つ目の世界遺産のメインの構成要素、法隆寺の見学、さらに足を延ばして明日香村の代表的遺跡の石舞台古墳、飛鳥宮跡、さらには岡寺を巡った。いささか詰め込みすぎのスケジュールではあったが、レンタカーなので、効率よくまわることができた。
-
奈良ホテルをチェックアウトして、まず向かったのは奈良市西側の平城宮跡歴史公園へ。
かつては平城京の正門、羅生門から平城宮の正門、朱雀門まで長さ約4km、幅80mの朱雀大路という広い大路が整備されていた。現在は朱雀門の前200mほどが復元されている。
朱雀門は、1998年、当時の朱雀門に関する歴史的・文献的調査に基づいて再建されたものである。 -
朱雀大路の両側には、平城宮いざない館、天平うまし館、天平つどい館などの博物館、食事処などがあり、訪れた人たちが、平城京の歴史や一休みする施設がならんでいる。
平城宮いざない館に入ってみた。
聖武天皇の平城京遷都の詔の一部が掲げられている。 -
平城宮の建物模型の前で、奈良時代の装束に身を包んだ連れ合いの記念写真。いつもは嫌がってこういうことはやらないのだが、珍しくこんな記念撮影をしてみた。
-
朱雀門と大極殿の間を近鉄の線路があり、頻繁に電車が行き来している。
朱雀門から大極殿と電車のコラボ。 -
イチオシ
線路を渡り、朝堂院跡から朱雀門側を見る。奈良時代と現代が共存しているような奇妙な感覚を覚える。
-
左から第1次大極殿、大極殿南門、復元工事中の東楼。
第1次とあるのは、平城京には2つの大極殿があったから。第1次大極殿は元明天皇、第2次は聖武天皇によるものである。第1次大極殿は復元が完了しているが、第2次大極殿の復元はこれからである。
広大な平城宮跡の発掘調査は、まだ進行中で、40%ほどの進捗だという。これから、また新たに木簡などが発掘され、新しい歴史的発見があるかもしれない。 -
広大な平城宮跡が、宅地開発されなかったのは、明治、大正期の植木職人だった棚田嘉十郎という人物が、熱心に平城宮跡保存運動をしたおかげだという。
-
のんびり散策していると、あっという間に時間が足りなくなってしまうので、大極殿は遠くから眺めるだけで、戻ることにした。朱雀門を大極殿側から眺める。
-
朱雀門広場の南側に、復元された遣唐使船が展示されている。
長さ30mほどで、当時としては巨大な船だったろう。これにより、当時の先進国、唐から様々な最先端の文物が日本にもたらされ、日本の文明発展に大きな役割を果たした。 -
次の目的地、唐招提寺へ。
奈良の朝廷の招きで来日した唐の高僧、鑑真の寺である。唐から日本に渡る旅は、12年で5回試みたが、いずれも失敗、65才にして初めて日本にわたることに成功した。最初の5年は東大寺で、残り5年は、自分の私寺であった唐招提寺で過ごしたという。
来日の目的は受戒の伝道であった。
当時、日本の仏教界は、戒律がおざなりで、誰でも僧侶になれたこと、僧侶には税金免除という特典があったため、ろくに仏教が分からなくても自称僧侶が増えるという問題があり、きちんとした僧侶の資格を明確にするために戒律を授けるという仕組みを取り入れたのが鑑真である。いわば僧侶の資格証明である。それを受戒というが、それを行う権限があったのが、東大寺と筑紫観世音寺と、我が家の隣り町にある下野薬師寺である。そんなわけで、唐招提寺は、鑑真つながりでなんとなく親しみを覚える古寺である
写真は伽藍の中心、国宝の金堂である。 -
この寺も世界遺産「奈良の文化財」の構成要素であることを示す記念碑
-
鼓楼と礼堂。鼓楼は国宝に指定されている。
-
講堂。これも国宝である。本尊として弥勒如来坐像が安置されている。弥勒は菩薩と如来二つとおりに名前があるが、弥勒菩薩が釈迦が入滅後576、000,000年後に悟りを開いた姿とされている。写真は無し
大日如来が宇宙のすべてを体現しているとされたり、弥勒が菩薩から如来になるのに気が遠くなるような時間がかかるなど、仏教の教理は、広大な時空が舞台になっている。 -
国宝の経蔵。正倉院と同じくあぜくら造りである。唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物で、正倉院よりさらに古い建物だという。
-
境内は自然豊かで、静寂に包まれた空間である。東大寺大仏殿のような混雑はない。
-
唐招提寺から歩いても10分あまりで行ける薬師寺へ。
駐車場から南門に向かう途中にある薬師寺休ケが岡八幡宮。薬師寺の守護神社という位置づけで、典型的な神仏習合である。薬師寺で行事が行われるときは薬師寺の僧侶が、ここで神主からお祓いを受けるという。
祭神は、神功皇后ほか3柱が祭られている。神功皇后は14代仲哀天皇の后で、応神天皇の母であり、当時の朝鮮三国征伐で身重の体で九州まで遠征したという逸話が日本書紀、古事記で語られている。 -
中門に安置されている2天王像。一般に伽藍入り口の門番としては上半身裸の仁王像ないし金剛力士像であるが、ここではさらに格式が高い武装した四天王のうちの2尊が、その役割を担っている。
左側の写真が増長天、右側の写真が持国天。 -
金堂前の手水舎。青銅製の大きな水鉢が置かれている。
-
イチオシ
壮麗な金堂。450年前に焼失し、長い間放置されていたが、1976年に再建されたばかりである。
薬師寺の宗派は飛鳥時代にさかのぼる法相宗。この宗派は、無くなった人を成仏させるサービスは行わず、現生の人の生き方を教え諭す学問仏教なので、葬式は行わず、墓もなく檀家もない。そのため、お布施などの収入がないので、一般の人に般若心経の写経をしてもらう活動を全国で行い、その納経料を集めて復興資金にするという涙ぐましい努力をしたという。 -
薬師寺伽藍で、唯一創建当時の建物が現存している国宝の東塔。一見、6重の塔のように見えるが三重塔の塔である。小さい屋根は風雪から建物を保護するための裳階(もこし)というものである。これによって、塔の美しさをより高める効果もあり、飛鳥時代から寺院の塔の様式として定着している。
-
西塔。1528年に戦災で焼失し、1981年になって、ようやく再建された。青丹の壁、丹朱の柱や梁、金色の飾りのコントラストが美しい創建当時の建築美が復元されている。
-
大講堂。これも1528年の戦火で焼失し、一旦は江戸時代に規模を小さくして再建された。その後2003年に本来の大きさ、当時の姿で再建された。
重要文化財の弥勒三尊が安置されている。当然、撮影は禁止である。 -
屋根に取り付けられた鴟尾(しび)。飛鳥時代に朝鮮半島から来たもので貴族たちが履いた沓の形をしたものだが、中世になると魚の形のしゃちほこに変化した。
-
イチオシ
講堂の前から見た東三重塔、中門、金堂。レンズの画角が足りず、西三重塔までは入らない。金堂を中心に左右に塔を配置するシンメトリーな白鳳伽藍様式で、復元された建物とはいえ、古代の伽藍配置としては最高峰に位置するものではないだろうか。
-
大講堂と東西2つの塔。2枚に分けて撮影し、パノラマ合成してみた。
-
白壁と青丹の壁、丹朱の柱と屋根の梁が美しい回廊。奈良の枕詞の「あおによし」のあおには、奈良が産地の岩緑青という顔料の材料となった土のことである。
-
回廊の外に出て、一画面におさまるように斜めから東西両塔と回廊をパチリ。
-
薬師寺の美しい伽藍の佇まいを堪能してから、奈良の2つ目の世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」の斑鳩町へ。「古都奈良の文化遺産」よりこちらの方が早く1993年に世界遺産に認定されている。
ちょうど昼食時になったので、法隆寺見学の前に奈良の郷土料理「柿の葉寿司」を食べようと、法隆寺門前にある総本家平宗法隆寺店に入った。 -
柿の葉寿し
海がない奈良でなぜ寿司なのか? 起源は諸説あるようだが、日持ちするように塩で漬けた鯖を程よい柔らかさの夏の柿の葉で包んで1日ほど熟成させたということらしい。元来の寿司は滋賀の鮒ずしのように本格的に発酵させたものが、江戸時代に発酵させない早すしに変化していく、ちょうどその中間的な寿司である。柏餅など、日本の食文化では、食べ物を植物の葉で包むという文化が普遍的にあった。なぜ柿の葉というと奈良は柿の生産地ということらしい。 -
イチオシ
法隆寺南大門
構造は、上部が切り妻造り、下部が四方吹き下ろしとなる入母屋造り。本瓦葺きの屋根の曲線が実に美しい。ただ、この門は室町時代の再建だそうだ。元々あった南大門は僧侶間の権力争いが原因で焼けてしまったという。 -
南大門をくぐると中門、左側には塔が見えてくる。
-
中門は創建は飛鳥時代だが、創建は飛鳥時代だが年まではわかっていない。
1903年、2015年に再建に近い大修理が行われている。1951年に国宝指定されている。 -
中門の両袖に安置されている仁王像。阿形の仁王像は塑像で、711年に頭部は作られたままの形が残っているが、体部は補修のたびに少しずつ盛り上がり、マッチョになった。吽形の仁王像は、最初は塑像だったが、16世紀ごろの修理で木彫りに変わった。どちらも重要文化財である。
多くの寺院の仁王像は、金網で囲われているが、法隆寺の仁王像はそれがないので、写真映えする。 -
境内の紅葉がよい具合に色付いている。
-
回廊の一部。注目は柱の形状である。円筒ではなく、真ん中が少し膨らんだ形状、すなわちエンタシスであり、パルテノン神殿のような古代ギリシャの建築様式と類似しているのである。古代ギリシャが繁栄した時代と飛鳥時代では1000年の時間差があり、ギリシャと日本を繋ぐシルクロードのような中間には、エンタシス様式の柱は見られないので、ギリシャの文化が日本に伝わったのではなく、古代ギリシャ人と飛鳥時代の宮大工の建築美に対する美意識が共通していたのかもしれない。本当の理由はまだ解明されていないようだが、古代のロマンが感じられる一つの題材である。
-
大講堂
創建時は回廊の外側に建てられていたが、これも925年に焼失し、990年に再建された。この時、回廊も外側に拡張して回廊とつながった構造に変わった。 -
イチオシ
金堂と五重塔。縦に延びる五重塔と横に広がる金堂という伽藍配置は、薬師寺のような左右対称な配置と違って、ややアンバランスな印象を受けるが、これもまた日本的な美といえるのかもしれない。
670年の創建当時の伽藍(若草伽藍)は焼失し、場所をずらして679年に再建されているが、だれが再建したのか不明なのだそうだ。 -
回廊の東側の格子の間から落葉を始めたイチョウの木が見える。
-
食堂と綱封蔵
-
左右の宝蔵からなる大宝蔵院と中央の百済観音堂
ここには、有名な玉虫厨子、夢違い観音、百済観音像など有名なお宝が安置されているのだが、撮影は禁止されている。 -
イチオシ
東院伽藍の夢殿
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院のメインの建物である。本尊は、これまた有名な救世観音で生前の聖徳太子の姿に作ってあるという。春と秋の年に2回、開帳される。ちょうど開扉の時期に当たっていたのだが、暗くてよく見えない。残念! -
枝垂れ桜の枝越しの夢殿
-
東院から駐車場がある西院方向に戻る。
-
西院伽藍から400mほどのところに藤ノ木古墳があるので、ちょっと立ち寄ってみた。
直径50mほどの未盗掘の円墳で、被葬者はあきらかではないが、3度にわたり、発掘調査が行われ、夥しい副葬品が見つかっている。 -
次に明日香村へ移動。明日香村もいろいろな遺跡をじっくり見て回るとすると丸一日かかりそうだが、つまみ食いでまず、石舞台古墳へ。
盛土がなく、石室があらわになった異形の古墳である。蘇我馬子の墓だと言われている。 -
石室の内部に入ることができる。使われている30数個の岩の総重量は約2300トン、天井石だけで約77トンあると言われ、重機がない飛鳥時代にどうやって築造したのか、当時の土木技術の優秀さに驚く。
-
イチオシ
次に向かったのは明日香村の東側にある岡寺へ。
正式には東光山真珠院龍蓋寺というのだが、村の地域名、岡にあることから岡寺で通っている。創建は天智天皇勅願で日本で最初の僧正、義淵僧正が開祖だと言われている。この人物、法相宗の開祖でもあり、東大寺造営の資金集めを兼ねて全国を行脚し、様々な伝承を残している行基の師匠でもある。 -
ちょうど、紅葉祭りということで、夜は光の巡礼と称してライトアップされるようで、あちこちに和傘が置かれている。
-
ここにも和傘が・・・
夜、再び訪れてライトアップの撮影をしようとこの時はおもっていたのだが、ホテルにチェックインしてから、夕食のときに飲んでしまったので、断念したのであった。
あとで調べたところ、ライトアップは11/16・17・22~24 に限られていて、この日はないと分かった。無駄足を踏まずに済んだ。 -
夜、灯りがともされればいい感じになるのだろうが、明るい時に写しても絵にはならないな。
-
西国三十三所観音霊場の第七番札所の寺であり、日本で最初の厄除け霊場だが、春には3000本のシャクヤクが咲き誇る花の寺でもある。
-
開山堂とその右側は本堂。本尊は如意輪観音坐像で、高さ5m弱の巨大な塑像である。もちろん撮影は出来ない。
-
紅和傘がわんさか!
-
賓頭盧尊師。参拝者に撫でられているので、ピカピカである
-
本堂の前の灯篭
-
次は飛鳥京の中心地、飛鳥宮跡へ。建物があるわけではなく、訪れる人は誰もいない。かつては飛鳥板葺宮と言われていたが、その後の調査で、かつて伝承飛鳥板蓋宮跡(皇極天皇)とされてきたが、その後の発掘調査で、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)と複数の天皇の時代の宮殿が継続的に造営された跡ということが分かっている。
-
飛鳥板葺宮が置かれていた時代、中大兄皇子と中臣(のちに藤原姓)鎌足によるクーデターで、当時権力をほしいままにしていた蘇我入鹿を暗殺した事件、すなわち乙巳の変の舞台であり、その後の大政治改革、大化の改新に繋がった古代最大の政治事件の現場である。
-
少し離れたところにある水落遺跡。日本書紀によると、天智天皇が、ここに漏刻の施設を作ったとある。漏刻とは時間を計る水時計であり、初めて支配権力が時間まで管理するようになったのである。
-
今宵の宿、ホテルメルキュール橿原にチェックイン
-
橿原市内にあるが、静かで、部屋はゆったりとしている。
このホテルを選んだのは、目下我が家のマイブームとなっているサウナ施設があるからだ。 -
窓から大和三山の一つ、畝山が見える。
-
夕食はビュッフェスタイルだが、料理や飲み物の種類の多さに圧倒される。しかもフリーで飲み放題なのである。
なので、岡寺のライトアップを見に出かける気持ちはすっかり萎えてしまったのである。結果的には、先に記したようにこの日はライトアップはなかったので良かった。
続く
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
斑鳩・法隆寺周辺(奈良) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 関西旅行
0
62