2024/11/12 - 2024/11/12
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gianiさん
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用語等
下関:19世紀まで赤間/赤間関/赤間港/赤間市の名称だったが、文中では現在の名称(下関)で通します。
特別輸出港:1889年に門司を含む9港が指定。石炭/硫黄/米/麦/麦粉の5品目に限り、輸出が特別に許された。国際競争力を鑑みて無税で輸出された。輸入はNG。輸出入が自由にできる「開港」は、幕末の条約で指定された長崎/函館/横浜/神戸/新潟の5港。
1899年の開港:陸奥宗光が漕ぎ着けた条約改正(1894)が発効した年と重なる。治外法権/一部の関税権が撤廃されたことにより、外国籍の船舶/船員に日本の法律を適用できるようになり、貿易量(実績)以外の制限が撤廃された。
第1種重要港湾:1907年に関門/横浜/神戸/敦賀港が指定。貿易に関わる最重要港で、国営。第2種(10港)地方が経営し、国の補助もあり。
- 旅行の満足度
- 5.0
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古代
地名から察するに、統一国家ができる前に新羅や高麗の船が門司に寄港していたようです。
大化の改新の翌年に、関所(門司関)が設置されます。本州と九州が接する関門海峡は昔から交通/軍事上の要所でした。 -
当時は社埼(もりさき)関と呼ばれ、都へ続く官道(西海道)の出発点でもありました。と同時に、大宰府へ通じる国内第一の幹線道路でした。
豊前国企救郡の社埼には駅逓網の一環として馬が常時15頭配備され、中央政府との通信が確保されました。 -
源平の決戦(1185)
門司は、対岸の下関と不可分の関係でした。壇ノ浦(の合戦)は下関の地名ですが、勝者源氏の本陣が置かれたからです。もしも平家が勝っていたら、(平家が本陣を置いた)門司側の地名である田野浦の戦いと呼ばれた筈です。 -
平氏滅亡の地
壇ノ浦の合戦ゆかりのスポットが門司にはたくさんあります(②~⑨)。
昔から平氏の地盤は伊勢ですが、清盛の祖父の代から九州への影響力を強め日宋貿易も行いました。厳島神社のある安芸/門司の位置する豊前国は、早くから清盛の知行地となりました。一ノ谷の合戦で福原の都を捨てた平氏の西方撤退は、平氏の縄張りを辿る道でもあります。 -
鎌倉時代
鎌倉幕府は、平氏の根城だった九州支配に当たり、東国武士を地頭とすることで支配を固めました。承久の乱/元寇を契機に、不在地主/幕府官僚だった九州の地頭を現地へ赴任させることで強化を図ります(西遷御家人/下り衆)。それとは別に九州探題(後の鎮西探題)を設置して、九州御家人を指揮統括しました。北条氏の信仰する律宗の寺院を建立して、地域支配の要としました。 -
鎌倉時代:北条氏と門司氏
門司関を擁する九州の玄関口は、執権北条氏が直接支配しました。鎌倉で執権職を履行しつつ、知行地の門司には東国御家人の下総氏を代官として派遣しました(現在の北九州市域である山鹿荘(戸畑/八幡/若松)には宇都宮氏を派遣します)。
北条氏の地頭代として赴任した下総氏は門司氏と名乗って、鎌倉幕府滅亡後も地域勢力となります。 -
足利尊氏
倒幕の功労者足利尊氏は、建武の新政に反発しますが戦いに敗れて九州へ落ち延びます。門司氏らは尊氏を支持し、後醍醐天皇勢を打ち破って室町幕府を開きます。門司氏は、転機となった多々良浜の戦いを勝利に導きました。 -
足利尊氏感状(1336年)
建武3年9月10日付で、宛先は下総次郎三郎親胤。軍忠神妙、可有恩賞之状如件(まことに素晴らしい働きである/きっと恩賞を与えよう)。
1335年に吸収へ落ち延びた尊氏の再起を支え、翌36年5月の摂津国湊川の戦いで楠木正成らを破り、尊氏と共に京都へ上った門司親胤の働きを賞したものです。 -
大内氏
南北朝の争いで北朝へ転じた大内氏は、守護/代官として室町幕府の北九州支配を支えました。大内氏は周防(現在の山口市)を本拠地としていたので、門司の現地支配は地元の門司氏に委ねました。 -
応仁の乱(1467-)
幕府中枢の内輪揉めであると同時に、地域勢力間の代理戦争でもありました。
北九州では大内氏(西軍)と大友氏(東軍)の勢力争いで、豊臣秀吉が九州を治めるまで両者の戦いが続きました。守護大名出身の大内/大友氏は安定政権だったので、下剋上で戦国大名が誕生することはありませんでした。門司氏も大内氏配下として行動を共にしています。 -
門司六ヶ郷図田注文写(1529)
財源(課税対象)となる土地をリスト化した台帳で、原本は1274年作です。1459年と1529年に書き写して受け継いできたもので、門司氏が鎌倉時代から保管してきた一連の「門司文書」と呼ばれるコレクションの一つです。
16世紀半ばを前に、門司氏は門司城主の立場を失います。 -
京都文化の流入
大内氏は幕閣でもあり、京都滞在中に多くの文化人と人脈を築きます。例えば、大内政弘は連歌師の飯尾宗祇(写真)を領地に招き、門司にも滞在しています。各地で、中央の洗練された文化を伝道しました。 -
旅程を見ると、名所を訪ねつつ宿舎は大内氏家臣を頼っています。彼の旅行記はスポンサーの大内政弘に献上され、連歌集であると同時に、領内の視察を兼ねていました。
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勘合貿易/日明貿易(1403-1550)
足利義満主宰したことは有名ですが、実務は商人(博多/堺)や博多(筑前国)/堺(和泉国)守護を務めた大内/細川氏が行っていました。大内(1482年)/細川氏が幕府の特権を引き継いで実利を得ました。写真右下は、大内氏が所有した勘合印の複製(実物は国の重文指定)。 -
博多/門司は日明貿易の中継港としてだけではなく、遣明船の造船所でもありました。周辺では、貿易でもたらされた明の磁器や永楽通宝等の銅銭が伝わっています。
※遣明船は、民間の商船を艤装しました。 -
遣明船の派遣には、禅僧も一役買います。明への留学経験で得たノウハウを外交官として提供し、見返りに門人の留学支援/寺院を庇護します。門司の大通廃寺もその一つでした。写真の策彦周良は、大内氏の遣明船で副使と正使を務めました。海禁政策ゆえに日本に開かれた窓口は寧波で、ここから北京を目指しました。
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門司合戦(1561)
大内氏は1551年に滅亡し、家臣の毛利元就が跡を継ぎます。一方で大友宗麟は、実弟を送り込んで大内義長と改名するなど勢力争いが激化し、門司が戦闘の場となります。門司で発生した最大の戦闘である門司合戦(1561年)は、門司城攻防の激戦です。 -
毛利元就書状(1660年頃)
門司合戦の少し前に発行されたもので、門司親胤(14世紀の親胤とは別人)/親国/重盛が、門司城主の仁保隆慰の指揮の下で防衛に尽力したことを褒める内容です。
※関門海峡の要衝に位置するために、実際は何度も攻め取られては取り返すということの繰り返しでした。時代の趨勢ということで、門司/大内/毛利氏を挙げています。 -
天下統一と江戸時代
豊臣秀吉の九州平定以降は小倉に城が築かれ、地域の政治/経済/交通の中心は門司から小倉へ移ります。
現在の門司駅付近に大里宿が開設され、関門海峡の人の移動の窓口となります。 -
壇ノ浦の戦いで平氏の本陣となった田野浦(写真)は北前船の寄港地になりますが、あくまでも対岸の下関の補助港としての役割にすぎませんでした。
幕末の小倉戦争では、緒戦で奇兵隊(長州軍)が田野浦に上陸して瞬時に制圧されます。おかげで小倉が経験した悲劇を免れました。 -
港町としての復権(1890s~)
現在の門司港地区は塩田地帯でしたが、急に深くなる海中地形を活かし、1888年に門司築港会社が設立されます。写真右下は会社定款で、渋沢/安田/大倉/浅野も参画しており、門司の築港は大計とみなされます。翌89年には石炭を主とする特別輸出港に指定されます。 -
鉄道伸張(1891)
1889年に博多~久留米を開通させた九州鉄道は、91年に熊本~門司(現在の門司港駅)まで伸張させます。それと同時に、本社を博多から門司へ移します。94-95年の日清戦争では、兵站として軍都の一面も加わります。戦後の好景気で多くの商社/金融機関が門司に集まります。
市制施行と開港(1899)
現北九州市域で最初に市制を敷いたのは、小倉ではなく門司でした。同年には、輸出入の制限が撤廃され、開港(一般開港場)となります、 -
官営八幡製鉄所竣工/日露戦争を境に、石炭輸出は若松港へシフトし始めます。日本が満州への権益を排他的に確保したことで、大陸への窓口として門司は繁栄します。市域にはセメント/製糖等の工場が次々と操業し、原料を輸入して製品を輸出する一般貿易港へと成熟していきます。
日清戦争での台湾併合等で、南方の果物等を中継する機能も深まり、1904年にはバナナのたたき売りも始まります。 -
更なる港湾整備
1889~97年の築港は海岸部を埋め立てるにとどまり、大型船は艀を通しての寄港でした。1907年には第一種重要港湾に指定され、国が率先して港湾整備に関わるようになります。1915年~の東海岸/19年~の西海岸改修工事によって1万トン級の船舶も接岸できるようになり、台湾航路(1919)/欧州航路(1921)が開設されます。第二期改良工事が1931年に竣工すると1万トン級船舶が7隻接岸できるようになり、横浜/神戸に次ぐ第3の港の地位を確立します。満州事変後は、大陸との関係がより緊密になります。 -
衰退
1942/44年の関門鉄道トンネル上下線供用で、鉄道輸送における門司の地位は低下します。1958年には関門国道トンネル(写真)が開通し、関門海峡で荷物を積み替える必要が無くなります。1973年の関門橋/75年の新関門トンネル開通で、門司は交通の中継点から単なる通過点となります。
戦後は政治問題もあって大陸との海運は衰退し、平成に入ると門司/北九州の工場は相次いで移転、観光で古き良き時代を売り出すことが最大の産業となります。人口は、合併前の16万人がピークで、現在は9万人を割ります。 -
それでは、現地を歩いてみます。
路線バスの終点、和布刈で下車。 -
EF30型電気機関車(1960)
関門トンネル専用に開発された車両で、記念すべき1号機が展示されています。野晒しのせいか、機体へのリスペクトを感じませんが感じられません。長大(4km)トンネルゆえに最初から無煙化(直流電化)されましたが、門司駅構内は交流電化されたために交流にも対応(ただし時速は30kmまで)。 -
トンネルに浸み込む海水による錆対策でステンレスで覆われているのが外見上の特徴です。
余談ですが、この数十メートル真下には新幹線(新関門トンネル)が通っています。 -
対岸には、火の山が見えます。
潮騒広場の右隣には丸紅の石油貯蔵庫が立ち並び、その先は平家本陣となった田野浦です。
では、時計回りに古城山沿いを移動します。お菓子製作 Voila グルメ・レストラン
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関門橋を潜って100mほど進むと、関門国道トンネルと人道トンネルが走ります。
1937年に工事が始まり、1942年に本導坑トンネル導坑は貫通していましたが、戦災/資金難による中断を経て1958年に開通します。
人道トンネルは、門司/下関側の「立坑」(長大トンネルでは工事用に掘る)を活用し、エレベータで海底58mまで降下します。関門トンネル人道 (福岡門司側) 名所・史跡
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人道トンネルの全長は780mです。県境付近は、こんな感じです。自転車やバイクはエンジンを切って引いて歩くことで歩行者とみなされます。違反すると、監視カメラを通して坑内放送で即時に注意されます。
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下関側の出入口、というわけで山口県です。
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関門プラザが併設され、西日本高速道路管轄の関門国道トンネルと関門橋に関する情報を展示パネル/模型/映像プログラムを通して学べます。
関門プラザ 美術館・博物館
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向かいには、壇ノ浦古戦場跡(源氏本陣)が。幕末には、砲台も築かれました。
壇ノ浦~和布刈間は関門海峡で最も狭い地点で、古代から早鞆(はやとも)の瀬戸と呼ばれます。潮流が複雑な動きをする一番の難所です。関門海峡(早鞆ノ瀬戸) 自然・景勝地
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めかり観潮散歩道を散策。
この辺りの航路幅は500m、潮速は最大で18.4km/hになります。海難事故が無くならないのも納得です。めかり観潮遊歩道 公園・植物園
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和布刈神社
海峡の最も狭まる場所には、潮の干満を司る神を祀った和布刈神社が。和布刈神事は、神功皇后が三韓征伐からの凱旋を自ら祝って早鞆の瀬戸のワカメを刈って神前に捧げたのがルーツとされます。和布刈=和布(ワカメ)を刈るです。和布刈神社 寺・神社・教会
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現社殿は1767年に小倉藩主によって建てられました。
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細川忠興寄進の灯篭
海中へ下りる階段へ通じる鳥居の左側です。サンゴ性の石灰岩のような表面が目印です。 -
小笠原氏寄進灯篭
細川氏の熊本移封に伴って入府した小笠原氏が寄進した灯篭。海中へ下りる階段へ通じる鳥居の右側です。 -
手前に引いた構図だと、こんな位置関係です。
写り込んでいる関門橋はいわゆる吊り橋で。本州/九州に立つ2本の橋桁の幅は714mです。関門橋 名所・史跡
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宗氏寄進海中灯篭
対馬藩が3年に1度参勤交代する際に奉納。どこが海中なのか不明ですが、境内の灯篭の説明が一切ないので、職員さんに訊いて全て教えてもらいました。 -
これは宗氏海中灯篭ではなく、氏子代表が寄進したものだそうです。その代わり、一番写真映えします。
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和布刈砲台跡
有事に、関門海峡を通過する敵艦を狙い撃ちするために帝国陸軍が1889年に完成。 -
神社のすぐ横には、平家の一杯水の伝承が残ります。
壇ノ浦の戦いの前夜には、平家一門が和布刈神社で酒宴を開いたと伝えられます。 -
ノーフォーク公園
梶ヶ鼻沿岸には、北九州市の姉妹都市の名前を冠した公園があります。実は1884年に操業開始した陸軍大阪砲兵工廠門司兵器製造所の跡地です。1912年に小倉市へ移転し、1931年に遊園地になりました。ノーフォーク広場 公園・植物園
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田野浦~門司港駅間の貨物線を越えると
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門司関跡です。
現在は地元の公園になっています。
元祖門司はここという歴史的経緯から、この辺りの住所は旧門司です。門司関址 名所・史跡
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江戸時代辺りから、門司ではなく文字と表記していました。1889年に市町村制が施行された際も、名称は文字村でした。
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今まで古城山の麓を巡る旅でしたりましたが、関門海峡に迫る古城山を登ってみます。向こうには門司港レトロ地区が見えます。
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反対を向くと、本州(下関市街)が見えます。
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中腹には、壇ノ浦合戦壁画があります。関門自動車道めかりパーキングエリアの遊歩道も兼ねています。
壇之浦合戦壁画 名所・史跡
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さらに舗装道路を登って頂上を目指します。
古城山にある僅か2つの郵便受のために、雨の中1km以上の一本道を往復する郵便配達のバイクに頭が下がりました。
余談ですが、この旅行記では過去4回門司を訪問した際の写真をアップしていますが、すべて雨に見舞われたことも付け加えておきます。25年以上御無沙汰していたことに対する制裁でしょうか、、、 -
古城山の中腹には、国民宿舎めかり山荘が建っていました。先輩から眺めが素晴らしいと薦められて家族で宿泊しましたが、あいにくの台風。テレビを点けると渥美清さんの訃報が流れてびっくりしたことを覚えています。夕食は、ワカメを練り込んだ饂飩でした。2013年に解体され、駐車場部分のみ現役です。
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門司城
1185年に清盛四男の平知盛によって築城、古城山の名称の由来となる城です。
関門海峡を眼下に見下ろす立地ゆえに、何世紀にもわたって壮絶な取り合いが繰り広げられましたが、概して門司氏の配下にありました。1615年の一国一城令で廃城。画面左端に、石碑が写り込んでいます。標高175m。和布刈公園 公園・植物園
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眼下に関門海峡を見下ろせるロケーションゆえに、門司城址には明治時代に古城山砲台が建設されました。上の写真の木の後ろに写っている円形のコンクリート建造物です。
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甲宗八幡神社
9世紀に創建。壇ノ浦合戦時には、源氏総大将源範頼が戦勝祈願をしています。甲宗八幡神社 寺・神社・教会
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安徳天皇陵のある赤間神宮に通じる不思議な景観です。
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本殿の右奥には、平清盛の四男である知盛の墓があります。柵があるので、これ以上は近づけません。
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壇ノ浦合戦後に流れ着いた知盛の遺体を里人が哀れみ、八幡宮が鎮座する筆立山の山中供養したのが始まりといわれ、戦後に境内地へ移されました。
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御所神社
名前の通り、安徳天皇が滞在した場所とされます。門司駅の東側にあります。近似スポットを入力しました、CAFE HAYASHI グルメ・レストラン
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木曽義仲に都を追われた平氏は、柳ヶ浦に仮御所を設けます。現地の住所は大里(だいり)で、内裏と繋がるとされます。
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境内には、都を懐かしむ平氏が詠んだ歌などが刻まれています。
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おまけ
店名は覚えていないのですが、焼カレーが騒がれる前に門司港の喫茶店で食べた840円の一皿が忘れられません。昭和の喫茶店という佇まいで、煙草の煙が染みついた白い壁紙が印象的です。跡継ぎがいなくて閉店されたようです。 -
今回は六曜館を訪問。
六曜舘 グルメ・レストラン
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こんなレトロ風な店内。
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何のひねりもない正統派、私の好きなタイプです。美味しさは、工夫や丁寧な仕込みに裏打ちされていることに違いはありませんが。
明治以降を扱う旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11945489
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