2024/04/09 - 2024/04/09
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Lily-junjunさん
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この旅行記のスケジュール
2024/04/09
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電車での移動
日比谷線北千住駅(10:03発)⇒人形町駅(都営浅草線乗換)⇒大門駅(10:33着)
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都営浅草線・大江戸線の「大門駅」⇒「増上寺 大門」※A6番出口を出て2分130mほど
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「増上寺 大門」⇒「増上寺」 ※約110mほど
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「増上寺」⇒「旧台徳院霊廟惣門」 ※徒歩2分110mほど
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「旧台徳院霊廟惣門」⇒「平和の灯」 ※「旧台徳院霊廟惣門」から「平和の灯」までは2分150mほど
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「平和の灯」⇒「芝東照宮」 ※「平和の灯」から「芝東照宮」までは1分70mほどの距離
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「芝東照宮」⇒「銀世界の梅」 ※「芝東照宮」から「銀世界の梅」までは1分70mほどの距離
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「銀世界の梅」⇒「丸山貝塚」 ※「梅園」から20mほど
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「丸山貝塚」⇒「円山随身稲荷大明神」 ※「丸山古墳」から70mほど
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「円山随身稲荷大明神」⇒「大野伴睦句碑」 ※「円山随身稲荷大明神」から徒歩1分50mほどの距離
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「大野伴睦句碑」⇒「伊能忠敬測地遺功表」 ※「円山随身稲荷大明神」から徒歩1分70m
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「伊能忠敬測地遺功表」⇒「芝丸山古墳」 ※「伊能忠敬測地遺功表」から徒歩2分120mほど
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「芝丸山古墳」⇒「宝珠院」 ※「芝丸山古墳」から「宝珠院」までは徒歩5分350mほど
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「宝珠院」⇒「もみじの滝」 ※「宝珠院」から「もみじの滝」までは徒歩3分190mほど
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「もみじの滝」⇒「心光院」 ※「もみじの滝」から「心光院」までは、徒歩2分170mほど
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電車での移動
都営浅草線「大門駅(15:02発)」⇒人形町で日比谷線乗換⇒「北千住(15:32着)
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この旅行記スケジュールを元に
今回は、「増上寺」から「東京タワー」付近の「芝公園19号地」の周辺の名所・旧跡等を散策しました。最初に訪れたのが、都営浅草線・大江戸線の大門駅のA6番出口を出て2分130mほど進むと正面にある「増上寺大門」です。「大門」は、「増上寺」の「総門」(表門)で地名の由来になっている門です。両側に「増上寺」の子院や商業施設の立ち並ぶ参道を190mほど進み、「日比谷通り」を渡ると「増上寺」の三門である「三解脱門」があります。「三解脱門」は、「増上寺」の「中門」にあたります。「三解脱門」をくぐると気のせいか神聖な気持ちになりました。「増上寺」の次は隣にある「旧台徳院霊廟惣門」です。「旧台徳院霊廟惣門」は、、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」の霊廟の「惣門」でした。「旧台徳院霊廟惣門」の先の階段を上ると東京タワーの絶景を眺めることができます。次が「芝公園」にある「平和の灯」です。ここに灯された「火」は広島市平和記念公園の「平和の灯」、福岡県八女市星野村の「平和の火」、長崎市の長崎爆心地公園「ナガサキ誓いの火」をあわせたものだそうです。次が、「芝東照宮」です。「芝東照宮」は、全国に数多くある「東照宮」のなかでも、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「上野東照宮」と並ぶ「4大東照宮」のひとつとされています。ちなみに、「東照宮」とは、東照宮大権現の神号を授けられた「徳川家康」を祀る神社のことです。次が、「芝東照宮」に向かって左手のテラスをおりると「銀世界の梅」が目の前に広がります。目をつぶるとテラスの下には白銀の世界が広がります。次が、同じ敷地の一角にある「丸山貝塚」です。「芝公園1号地」には、「丸山」と呼ばれる丘陵があります。その丘陵の東南側の緩やかな斜面に貝層が残存しています。それが「丸山貝塚」です。次が丘陵の階段を昇ると途中にある「円山随身稲荷大明神」です。「随身稲荷」という名の由来は、桑名から運ばれてきた御本尊「阿弥陀如来像」をその道中に守護するために元の場所から稲荷が「徳川家康」にお供したという事から「随身稲荷」だそうです。階段をさらに上ると「大野伴睦句碑」があります。「大野伴睦句碑」は、昭和38年(1963年)6月の調理師法施工5周年にあたって、「大野伴睦」が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものだそうです。さらに丘陵地帯を進むと「伊能忠敬測地遺功表」の碑があります。「伊能忠敬測地遺功表」は、日本地図を作った測量の先駆者である「伊能忠敬」の功績を顕彰して、明治22年(1889年)に建立されました。120mほど進むと「芝丸山古墳」になります。「芝丸山古墳」は、「芝公園1号地」の標高約16mの台地先端部にあります。「芝丸山古墳」は、4世紀後半に築造されたと考えられています。その規模は、全長が約106m、前方部前端幅が約40m、後円部直径が約64m、くびれ部幅が約22mの都内最大級の「前方後円墳」です。今度は丘陵を下ります。下りたところにあるのが「宝殊院」です。「宝珠院」の境内には、ヘビ、カエル、ナメクジの石像が点在しています。これは「ヘビがカエルを食べる」、「カエルがナメクジを食べる」、「ナメクジがヘビを溶かす」という習性によって、三者ともに動けなくなる「三竦み」を意味しているそうです。次が、「芝公園19号地」にある「もみじの滝」へ向かいます。ここまで来ると、「東京タワー」がすぐ近くで見上げるようになります。「もみじ谷」は、「芝公園」の一角である「芝公園19号地」に設けられた人工の渓谷です。また、「芝公園19号地」には、「如意輪観世音」や金運スポットの「蛇塚」もあります。そして、最後に訪れたのが、「心光院」です。「心光院」は、芝公園の「もみじ谷」の渓谷に金運スポットの「蛇塚」を建てるきっかけとなった寺院です。今回の散策・参拝巡路は下記のとおりです。
【今回の散策・参拝巡路】
①《増上寺》⇒②《旧台徳院霊廟惣門》⇒③《芝公園平和の灯》⇒④《芝東照宮》⇒⑤《銀世界の梅》⇒⑥《丸山貝塚》⇒⑦《円山随身稲荷大明神》⇒⑧《大野伴睦句碑》⇒⑨《伊能忠敬測地遺功表》⇒⑩《芝丸山古墳》⇒⑪《宝殊院》⇒⑫《もみじ谷》⇒⑬《心光院》
それでは、「増上寺」周辺の散策・参拝をしていきます。まずは「増上寺 大門」を目指します。「増上寺」へのアクセスは、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA1出口からが一番最寄り駅ですが、今回は、「増上寺」の「大門」を最初に見るので、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を利用しました。都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口から「大門」までは徒歩2分130mです。都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出て進行方向に進むと最初の信号(表示名「芝大門」)のところにあります。「大門」から「増上寺」の三門である「三解脱門」までは、徒歩3分230mほどです。
最初に、「増上寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「増上寺」は、「酉誉聖聰」上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。室町時代の開山から戦国時代にかけて、「増上寺」は浄土宗の東国の要として発展していきます。安土桃山時代に入ると、「徳川家康」が関東の地を治めるようになり、江戸に入ると、天正18年(1590年)に徳川家の菩提寺として「増上寺」が選ばれました。「増上寺」は、慶長3年(1598年)に現在地に移転し、江戸幕府の成立後には、「徳川家康」の手厚い保護もあり、隆盛を極めました。特に、17世紀中頃の「増上寺」は、広大な寺有地に120以上の堂宇や100軒を越える学寮が建ち並ぶようになり、3000人以上の学僧もいたそうです。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、「関東十八檀林」の筆頭で主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山「知恩院」に肩を並べるまでになりました。そして、「増上寺」は、6人の将軍が眠る徳川将軍家墓所で、2代将軍「徳川秀忠」、6代将軍「徳川家宣」、7代将軍「徳川家継」、9代将軍「徳川家重」、12代将軍「徳川家慶」、14代将軍「徳川家茂」の墓所が設けられています。また、墓所には各公の正室と側室の墓も設けられ、「静寛院和宮」の墓もありました。墓所の中には、それぞれの宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。
また、「増上寺」は、勝運を招く「黒本尊」(阿弥陀如来像)でもよく知られています。「黒本尊」は、平安中期の天台宗の僧である「恵心僧都源信」の作とも伝えられています。「徳川家康」は、「黒本尊」を戦にも帯同して戦の勝利を祈願したそうです。「徳川家康」の死後、「増上寺」に奉納され、勝運、災難除けの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めました。「黒本尊」の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて黒くなったことなど諸説がありますが、やはり「徳川家康」の命名といわれています。
そして、「増上寺」の堂宇の配置にも興味深いものがあります。それは、「大門」から「大殿本堂」に至る道程は、「穢土」から「極楽浄土」に至る世界を表しています。「三門」をくぐり、煩悩を解脱して、「大殿」へと向かうと、御本尊である阿弥陀仏が鎮座し、西方極楽浄土の西に位置している点が特徴です。そのため、「増上寺」の「大殿」は、極楽の世界を視覚的に表現した造りになっています。「大門」から「大殿本堂」に至る道程は、まず、「大門」から「三門」は、約108間あり、「三門」をくぐり108の煩悩から解脱します。そして、「三門」から「大殿」は距離にして約48間あり阿弥陀仏の48願を表しています。次に、「参道」から「大殿」前への階段は18段あり阿弥陀仏の本願、第18願を表しています。最後の「大殿」に登る階段は25菩薩をあらわし、25の階段となっています。現在、「増上寺」の16000坪の広大な敷地内には、昭和20年(1945年)の空襲で焼失した堂宇も再建され、「大殿」、「安国殿」、「圓光大師堂」、「光摂殿」、「鐘楼」、「経蔵」、「開山堂」(慈雲閣)が建ち並んでいます。では、「増上寺」を下記のような巡路で参拝したいと思います。
《「増上寺」のお薦め参拝巡路》
①《大門》⇒②《三門(三解脱門)》⇒③《グラント松》⇒④《聖観世音菩薩》⇒⑤《仏足石》⇒⑥《魚供養之碑》⇒⑦《詠唱発祥の地碑》⇒⑧《水盤舎》⇒⑨《聖鉄観音像》⇒⑩《法然上人歌碑(お歌の由来)》⇒⑪《黒門》⇒⑫《慈雲閣(開山堂)》⇒⑬《土木建築殉職者慰霊塔》⇒⑭《鐘楼堂》⇒⑮《「江戸彼岸枝垂桜」の石碑》⇒⑯《写経塔》⇒⑰《「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑》⇒⑱《TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~》⇒⑲《熊野神社》⇒⑳《「綿貫次郎」の碑》⇒?《火消しの碑》⇒?《弔魂之碑》⇒?《筆塚(心と創造)》⇒?《阿波丸事件殉職者之碑》⇒?《「千躰子育地蔵菩薩」の石碑》⇒?《大殿》⇒?《増上寺宝物展示室》⇒?《安国殿》⇒?《西向聖観世音菩薩》⇒?《徳川将軍家墓所》⇒?《四菩薩像》⇒?《大納骨堂(舎利殿)》⇒?《貞恭庵》⇒?《圓光大師堂》⇒?《光摂殿》⇒?《増上寺会館(寺務所)》⇒?《経蔵》
01_《大門》
まずは、「三門」(三解脱門)から少し離れた200mほどのところにある「増上寺」の表門である「大門」がスタート地点です。都営浅草線・大江戸線の大門駅のA6番出口を出て2分130mほど進むと正面に「増上寺 大門」がその姿を現します。「大門」は、「増上寺」の「総門」(表門)で地名の由来になっている門です。「大門」からは、「増上寺」の「三門」である「三解脱門」も目に飛び込んできます。「大門」から「三門」(三解脱門)までは約108間(約197m)の距離があり、「三門」(三解脱門)をくぐることで、108の煩悩から解脱できるように設計されているそうです。現在の「大門」は昭和12年(1937年)に国道の通行整備のため、原型より1.5倍の大きさの鉄骨鉄筋コンクリート造りの「高麗門」で再建されました。その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者が確認できなくなっていましたが、平成28年(2016年)3月に東京都から「増上寺」に無償譲与され、「増上寺」では耐震調査を行い、平成28年(2016年)11月から耐震補強と外観化粧直しの改修工事を進め、平成29年(2017年)3月末に完成し、80年ぶりの大改修が完了して美しい姿を取り戻しました。ちなみに、「旧大門」は慶長3年(1598年)に「増上寺」が芝に移転したときに、「徳川家康」が、それまで江戸城の大手門だった高麗門を「増上寺」の表門として譲ったものです。「旧大門」は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたので、「回向院」に移築されましたが、残念ながら昭和20年(1945年)の空襲により焼失しました。次は、日比谷通り(都道409号)を渡り「三門」(三解脱門)へ向かいます。
02_《三門(三解脱門)》
「三解脱門(三門)」のところに来て初めて気が付いたのですが、浄土宗の宗祖法然上人の忌日法要である「御忌大会」の期間中だったの参拝客も多く、お祭りのように華やかな雰囲気でした。グッドタイミングですね。「三解脱門(三門)」は、「増上寺」の表の顔として、東京都内でも有数の古い建造物であり東日本最大級を誇り、「増上寺」の「中門」にあたり(表門は「大門」)、正式名称を「三解脱門」といいます。通称として「三門」とも呼ばれています。ちなみに、「三解脱門」とは、煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行である「空門」、「無相門」、「無願門」の三門で、一切を空と考える「空門」、すべての執着を離れる「無相門」、作為なく自然であることを意味する「無作門」という悟りに通ずる3つの解脱の境地を表わしています。「三解脱門(三門)」は、慶長16年(1611年)に、徳川幕府の助成により、幕府大工頭「中井正清」とその配下により建立され、元和7年(1621年)の強風により一度倒壊しましたが、元和8年(1622年)に再建されました。「増上寺」が隆盛を極めた江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、戦災を免れた建造物の一つです。「三解脱門(三門)」は、大正4年(1915年)3月26日に国の重要文化財に指定されています。三戸二階二重門の建築様式であり、非公開となっていますが、二階内部には、「釈迦三尊像」と「十六羅漢像」が安置されています。次は、「グラント松」へ向かいます。
03_《グラント松》
「増上寺」の「三解脱門(三門)」をくぐると、すぐ右手に大きな樹があります。近寄ってみると、説明板には「グラント松」と書かれています。「グラトン松」は、明治12年(1879年)に、アメリカ合衆国第18代大統領「グラント将軍」が訪日の際、参拝記念に植樹したものです。「グラント将軍」は、南北戦争時では北軍の将軍を務め、もっとも優秀な将軍といわれております。そんな「グラント元大統領」は、職を退いた後世界周遊の旅に出て、日本にも立ち寄りました。「上野公園」にて歓迎会が行われました。それを記念してグラント将軍と夫人がその記念に「上野公園」に植樹したそうです。昭和4年(1929年)8月に、「グラント将軍植樹碑」が建てられました。
「グラトン松」の次は「聖観世音菩薩」です。
04_《聖観世音菩薩》
「聖観世音菩薩」は、「三解脱門(三門)」をくぐるとすぐ左手にあり、参道を隔て反対側には「グラトン松」があります。「聖観世音菩薩」は、昭和57年(1982年)2月8日に、千代田区永田町にあったホテル「ホテルニュージャパン」の火災で罹災し、死亡した33名の供養のため建立された観音像です。台座には「ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれています。「聖観世音菩薩」がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われたことによるそうです。火災は、昭和57年1982年2月8日午前3時20分過ぎに発生しました。火元は9階の客室で、宿泊した英国人(死亡)の寝たばこが原因と見られています。「聖観世音菩薩」の左手には、「仏足石」、「魚供養之碑」、「詠唱発祥の地碑」などもあります。「聖観世音菩薩」の次は「仏足石」です。
05_《仏足石》
「聖観世音菩薩」は、「三解脱門(三門)」をくぐるとすぐ左手にあり、その「聖観世音菩薩」の右隣にあるのが「仏足石」です。「仏足石」は、仏の足の裏の形を石に刻み信仰の対象としたものです。特に、古代インドでは像を造る習慣がなかったため、インドでは仏像が刻まれる以前は「仏足石」や「菩提樹」などで釈迦やブッダを象徴的に表し、人々はこれらを仏として礼拝していました。この「仏足石」は、第70世「福田行誠上人」の代に、山内宝松院「松涛泰成上人」の発願により明治14年(1881年)5月に建立されたものです。「仏足石」の側面には仏像、経文、由来などが刻まれています。「仏足石」の次は「魚供養之碑」です。
06_《魚供養之碑》
「仏足石」の右隣にあるのが、「魚供養之碑」で、「魚供養之碑」に併設された説明板によると「魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。」と記載されていました。「魚供養之碑」は、昭和60年(1985年)3月8日に千代田水産株式会社によって建立されたものです。「魚供養之碑」の次は「詠唱発祥の地碑」です。
07_《詠唱発祥の地碑》
「魚供養之碑」の右隣にあるのが、「詠唱発祥の地碑」です。「詠唱発祥の地碑」は、「増上寺吉水講」の発足20周年を記念して平成14年(2002) に建立されました。詠唱は、終戦直後の焦土と化した昭和21年(1946年)に「増上寺」山内の浄土宗の宗務所において、宗門教化のため行われたもので、「増上寺」を「詠唱発祥の地」としました。ちなみに、「浄土宗吉水流詠唱」は、念仏を唱えやすくするための「念仏の助業」で、メロディーに鈴と鉦を使い、楽譜に合わせて歌います。そして、念仏を唱えするということは、阿弥陀仏に帰依し、全てをお任せするということだそうです。念仏は阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するための五種の行の一つ「称名正行」です。「五種正行」とは、阿弥陀仏を中心とした「読誦」・「観察」・「礼拝」・「称名」・「讃歎供養」をいい、この五種の中で「称名正行」は阿弥陀仏の本願にかなった行いとして「正定の業」であり、他の四種は「称名正行」へ導く為の行としてあることから、「助業」とされています。「詠唱発祥の地碑」の次は「水盤舎」です。
08_《水盤舎》
「詠唱発祥の地碑」のすぐ先というか前には「水盤舎」があります。「水盤舎」は、もと「清揚院殿」の「徳川綱重」の霊廟にあったものです。「徳川綱重」は、甲斐甲府藩の藩主で、3代将軍「徳川家光」の3男であり、5代将軍「徳川綱吉」の兄、そして6代将軍「徳川家宣」の父でもあります。そして、「徳川綱重」は、は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。「徳川家将軍霊廟」は、昭和20年(1945年)の東京大空襲で大部分の建物が焼失してしまっていることから、この「水盤舎」は、華麗かつ荘厳な徳川家霊廟建造物として現存する数少ない遺構のひとつです。「水盤舎」は、成13年(2001年)2月27日に港区文化財に指定されました。「水盤舎」の次は「聖鉄観音像」です。
09_《聖鉄観音像》
「水盤舎」の先には、「聖鉄観音像」があります。「聖鉄観音像」は昭和56年(1981年)に国際美容協会会長の「山野愛子」が願主となって建立したものです。設置されていた説明板によると「願主(山野愛子)の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことえの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって「聖鉄観音像」造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。」と書かれていました。ちなみに、この「聖鉄観音像」は、彫刻家の「北村西望」により制作されました。そして、毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が行われるそうです。「聖鉄観音像」の次は「法然上人歌碑」です。
10_《法然上人歌碑》
「聖鉄観音像」をさらに進むと植え込みの中に「法然上人歌碑」があります。歌碑には、「池の水 人の心に 似たりけり 濁り澄むこと 定めなければ」と刻まれていました。この意味は、大雨が降って水が流れ込んだ時には池の水は濁っています。しかし穏やかな時には、今度はその水がきれいに澄んで池の奥の方まで見渡すことができます。状況に応じて濁ったり澄んだり様々に変化します。すなわち、池の水が状況によって変化するように、人の心も様々に変化するということだそうです。また、「法然上人」が詠まれたこの「池の水」は京都にある「金戒光明寺」の御詠歌になっているそうです。また、本堂に向かって右側にも「法然上人歌碑」があります。「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」と刻まれています。感無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を、「法然上人」が歌に示したもので、浄土宗の宗歌になっています。「法然上人歌碑」の次は「黒門」です。
11_《黒門》
見逃したところがあったので少し後戻りします。それは、「増上寺」の「旧方丈門」である「黒門」です。全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれています。ちなみに、「方丈」とは禅宗寺院建築で本堂,客殿,住職居室を兼ねるもので、そこへ通じるのが「旧方丈門」である「黒門」です。「黒門」は、1648年から1652年の慶安年間に、3代将軍「徳川家光」の寄進により建立とされています。「黒門」は、御成門交差点付近の「芝公園」、「みなと図書館」、「御成門小学校」一帯にあった「増上寺方丈」の表門であった「旧方丈門」です。鐘楼堂脇に移築されましたが、昭和55年(1980年)に行われた「善導大師1300年遠忌」の際に、「増上寺」の通用門として「日比谷通り」沿いに移築しました。建築様式は、一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門です。建造年代を明らかにする「棟札」などの記録はありませんが、江戸時代初期の特徴を示す様式から、17世紀後半のものと推測されるそうです。そして、「黒門」は、昭和55年(1980年)11月15日に、港区の有形文化財に指定されました。「黒門」の次は「慈雲閣」(開山堂)です。
12_《「慈雲閣」(開山堂)》
「黒門」をくぐると左手に「慈雲閣」(開山堂)があります。「慈雲閣」(開山堂)は、平成元年(1989年)に「増上寺」を開山した「酉誉聖聰上人」の「550年遠忌記念事業」の中心として、戦災で焼失した「開山堂」の再建を企画、建築されました。2階中央には「聖聰上人像」、両脇にはその師「聖冏上人像」と「増上寺」中興の「聰観智国師像」が安置されています。現在は葬儀や年中行事など、多目的に利用できる設備を備えています。「慈雲閣」(開山堂)の次は「土木建築殉職者慰霊塔」です。
13_《土木建築殉職者慰霊塔》
「土木建築殉職者慰霊塔」は、「黒門」をくぐると右手にあります。「一般社団法人全国建設業協会」の前身てある「日本土木建築請負業連合会」は、昭和12年(1937年)3月21日に、全国の建設工事での殉職者などを供養するために建立しました。これまて慰霊塔に合祀された御霊は、令和元年度時点て62,935柱だそうです。慰霊塔内の須弥壇には阿弥陀如来像を安置してあり、それともう一つ注目すべきは、収納(1940年)から百年後の2040年に開封すべきと書かれた木箱(タイムカプセル)も納められているそうです。「土木建築殉職者慰霊塔」の次は「鐘楼堂」です。
14_《鐘楼堂》
次は、「グラント松」の右手にある「鐘楼堂」へ向かいます。現在の「鐘楼堂」は二代目で、戦後の再建によるものです。最初の「鐘楼堂」は、寛永10年(1633)年に建立されました。「鐘楼堂」に収められている「大梵鐘」は、延宝元年(1673年)に完成した東日本で最大級、江戸三大名鐘の一つに数えられています。「大梵鐘」は、あまりに大きいため、7回の鋳造が必要だったそうです朝と夕べ、2回の鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす 108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。江戸時代の川柳には次のようなものがあります。「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」、「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれたそうです。
15_《「江戸彼岸枝垂桜」の石碑》
「鐘楼堂」のすぐ前に満開にはもう少しですが、花のつぼみをたわわに付けて頭を垂れているのが、「江戸彼岸枝垂桜」です。「江戸彼岸枝垂桜」の向こう側に見える「鐘楼堂」は、コラボしてまた違った趣があります。「江戸彼岸枝垂桜」は、日本に10種あるといわれている野生のサクラのひとつです。「江戸彼岸枝垂桜」は、「江戸彼岸桜」が変異して、枝が下に垂たれるようになったサクラで、別名「イトザクラ」とも呼ばれます。そして、「江戸彼岸枝垂桜」の左手には、平成6年(1994年)3月に建立された「江戸彼岸枝垂桜」の石碑があります。「江戸彼岸枝垂桜」の石碑の次は「写経塔」です。
16_《写経塔》
「鐘楼堂」の左手には、「写経塔」があります。「写経塔」は書写された写経を保管するものです。この「写経塔」の建立の契機となったのが、昭和54年(1979年)3月14日(「善導大師」の命日)に、「善導大師千三百年の遠忌記念」として始まった「増上寺」の「写経会」です。「写経会」で書写された写経は、境内中程に建立された「写経塔」へ永代にわたり、奉納されるそうです。「写経塔」の次は「「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑」です。
17_《「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑》
「写経塔」の右手には、「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑があります。桜植樹碑をみると歌舞伎役者の「市川海老蔵」とその子供である「市川ぼたん」、「堀越勧玄」の合同植樹と祝1,000本目と刻まれていました。「増上寺」での桜の植樹は、平成4年(2022年)1月23日に実施され、桜の名所を中心に延べ86箇所、累計1,000本の桜の植樹になるそうです。「わたしの街の未来の桜プロジェクト」は、株式会社伊藤園が、平成31年(2019年)から取り組みを始めたもので、全国47都道府県内にある桜の名所における桜の植樹・保全活動に対して、「お~いお茶 緑茶」、「お~いお茶 ほうじ茶」、「お~いお茶 玄米茶」桜パッケージなどの売上の一部を寄付する取り組みです。「未来につなぎ、咲かせ続けたい」という願いを込めて、公益財団法人「日本さくらの会」と協働して取り組んでいるそうです。「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑の次は「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」です。
18_《TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~》
「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑と「写経塔」の間の小道を進むと、突き当りに「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」があります。「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」は、「増上寺」の境内にあるカフェで、営業時間が10:00~17:00で年中無休になっています。お薦めは、茨城県産和栗使用生絞りモンブラン、抹茶のアフォガード、熊本県産 希少品種使用【極】などです。その他にアルコール類として、ビール、ほうじ茶ハイボールなどもあります。都会の喧騒を忘れてゆっくりと時の過ぎゆくのを楽しむことができます。「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」の次は
19_《熊野神社》
「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」の右奥には、「熊野神社」があります。「熊野神社」は、元和10年(1624年)に、「増上寺」第十三世「正誉廓山上人」が「熊野権現」を「増上寺鎮守」として東北の鬼門に勧請したものだそうです。「熊野」は「クマノ」、「ユヤ」と2通りの呼称がありますが、「増上寺」では「ユヤ権現」としています。「熊野神社」には、港区七福神の一つである「恵比寿さま」が祀られています。恵比寿さまは、右手に釣竿、左手に鯛を持っています。本来は漁師の神で豊漁や航海安全をもたらす神として信仰されてきました。商業が盛んになってくると、商売繁昌の神としても信仰を集めるようになりました。サッカー好きの私も気になったのですが、それは、「手水舎」の水盤に描かれた「八咫烏」のデザインです。実は、「熊野神社」の神紋が3本の足のある「八咫烏」なのだそうです。その関係で、最近は、「八咫烏」がJリーグのシンボルマークになっていることから参拝する人が増えたそうです。そして、「八咫烏」は、日本書紀によると神武天皇が熊野に上陸するとき、「天照大神」より「天から八咫烏を使わそう。八咫烏が道案内をするであろう。」というおさとしがあり無事山越えを出来たと言います。このことから熊野の鳥が三本足の八咫烏になったと言います。
「熊野神社」の御祭神は、「熊野本宮大社」の「家津御子大神」、「熊野那智大社」の「大己貴命」、そして「熊野速玉大社」の「伊弉諾尊」の三柱です。「熊野神社」の次は「火消しの碑」です。
20_《火消しの碑》
「火消しの碑」は、「熊野神社」と「三解脱門」の間にあります。石碑に刻まれた赤い「め組」の文字が印象的です。「火消しの碑」は、「増上寺門」前の町火消しで有名な「め組」の殉難者、物故者の供養のために、享保元年(1718年)建てられました。かたわらに纏を彫刻した標石と組員名を刻んだ玉垣風の石柱があります。ちなみに、「町火消」の始まりは8代将軍「徳川吉宗」の時に創設され、南町奉行の「大岡忠相」により火消の組織化がされました。分担は、隅田川から西を担当する「いろは組47組と東の本所・深川を担当する16組に分けて「町火消」が設置されたそうです。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」という方法が主流だったそうです。「火消しの碑」の次は「弔魂之碑」です。
21_《弔魂之碑》
「西南の役」で戦死した看護卒の供養碑で、明治11年(1878年)8月20日に建立されたものです。石碑の題字は「山岡鉄太郎」(鉄舟)の筆によるものです。ちなみに、看護卒とは看護兵の旧称のことです。「弔魂之碑」は、台石が4尺位、碑石は14・5尺もある大きな立派な石碑で、「弔魂之碑」の左下の方には、「有志六百名」と刻まれた石碑もあり、台石の方には、発起世話人、関成功など8人の名を刻んでありました。また、その小さな石碑には「有志六百名」とも刻まれていました。「弔魂之碑」の次は「筆塚(心と創造)」です。
22_《筆塚(心と創造)》
「弔魂之碑」の隣には、「筆塚(心と創造)」があります。「筆塚(心と創造)」の説明板には、「筆塚 心と創造 学びの精神はいつの時でも人を育み人とともに歩んでいきます。その歩みの中で心豊かに それぞれの人生を創造していきます 学びとは心の糧であり創造の源です。努力と研鑽 勇気と希望 自信と志の象徴です。 碑に刻まれた「心と創造」が 明日へ歩む子どもたちの人生の標となるようここに努力の軌跡を残し 今感謝の気持ちを込めて 学び具を奉納します。子どもたちへ 学べよ 努めよ 今がその時です。平成十六年二月吉日 練成会グループ」と書かれていました。「筆塚(心と創造)」は、札幌在住の書家「小川東洲」の揮毫によるものだそうです。「筆塚(心と創造)」の次は「阿波丸事件殉難者之碑」です。
23_《阿波丸事件殉難者之碑》
「弔魂之碑」と「筆塚(心と創造)」の左手奥に、「阿波丸事件殉難者之碑」があります。「阿波丸事件」は、昭和20年(1945年)4月1日夜半に、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」を台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号が攻撃し不法撃沈したものです。「阿波丸」は、連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に対する救恤品の輸送にあたっていました。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この不法撃沈により遭難者の数は2000名以上で、世界史上最大の海難事故となりました。「阿波丸事件殉難者之碑」は、阿波丸事件犠牲者の遺族一同により昭和52年(1977年)4月1日に建立され、副碑には殉難者の氏名が刻印されています。「阿波丸事件殉難者之碑」の次はです。
24_《千躰子育地蔵菩薩》
「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」まで戻るとその先には、「千躰子育地蔵菩薩」があります。「増上寺」境内の北側の端には、広く親しまれている仏尊である「地蔵菩薩」の像が約1,300体並んでいます。桜の花の咲き誇る中で見る1,300体の「地蔵菩薩像」は壮観な眺めでした。子育て安産に霊験あらたかとされる「西向観音」にちなんで、子供の無事成長と健康、また、水子の供養を願い、昭和50年(1975年)より順次奉安されているそうです。そして、毎年4月の第3日曜日に大祭、7月には盆踊り大会が行われます。お地蔵様の像は子どもを亡くした親たちが納めた頭巾と前掛けをまとっています。また、親たちはお地蔵様の加護に感謝するため風車などのおもちゃもお供えしていきます。お地蔵様が身につけているものは通常、阿弥陀仏の守護を表す色である赤色です。また、「地蔵菩薩」は、旅人や妊婦、さまよえる魂の守護者でもあるそうです。「千躰子育地蔵菩薩」の次は「大殿」です。
25_《大殿》
「大殿」の方に目を移すと黒山の人だかりです。「御忌法要」の行事が行われているみたいです。どうやら唱導師による日中法要が行われているみたいです。そう言えば、法要開始30分前に、開始の合図である江戸三大名鐘の一つに数えられる大梵鐘が鳴り響いていました。「大殿」は、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した後、昭和49年(1974年)に、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した「本堂」が再建されました。2階が本堂、3階が道場、1階が檀信徒控室となっており、地下には「増上寺宝物展示室」があります。本堂の御本尊の「阿弥陀如来」は、室町期に制作されたもので都の指定文化財になっています。「阿弥陀如来」の両脇壇に「高祖善導大師」と「宗祖法然上人」の像が祀られています。また、「大殿」が「東京タワー」を背景に、インスタ映えする過去と現在の不思議なコントラストを写真に収められます。
26_《増上寺宝物展示室》
「大殿」の次は、地下にある「増上寺宝物展示室」です。「大殿」への大階段の右側に入口があります。「増上寺宝物展示室」は、徳川家康公の没後400年を記念して、平成27年(2015年)4月に「大殿」の地下1階に開館しました。英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」や、かつて「増上寺」境内に造営されていた2代将軍「徳川秀忠」の御霊屋の1/10スケール模型、「狩野一信」筆の「五百羅漢図」など所蔵の宝物を展示しています。
? 電話番号…03-3432-1431 ? 営業時間…10時~16時(最終入場16:45)
? 休業日…毎週火曜日 ※火曜日が祝日の場合は開館
? 入場料…大人700円、中高生300円、展示室将軍墓所共通券1000円
「増上寺宝物展示室」の次はです。
27_《安国殿》
「増上寺宝物展示室」を出て左方向に進むと「安国殿」があります。「安国殿」には、秘仏「黒本尊」(阿弥陀如来)が祀られています。「黒本尊」は「徳川家康」が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな「阿弥陀如来像」です。江戸時代以来、勝運、厄除けの仏様として広く人々の尊崇をあつめているそうです。「安国殿」は、東京大空襲で焼失した「大殿」の代わりに「仮本堂」としていた建物です。昭和49年(1974年)に「大殿」が完成した際に、境内北側に移転し、御堂「安国殿」としました。老朽化のため、平成23年(2011年)に新しい「安国殿」が建立されました。恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」の御開帳は、正月、5月、9月の15日に「黒本尊祈願会」が開催されます。また、御前立の「阿弥陀如来立像」、脇陣には「徳川家康肖像画」、徳川家御歴代並びに御一門の尊霊の御位牌、「皇女和宮」の等身大の御像等が祀られています。「安国殿」の次は「西向聖観世音菩薩」です。
28_《西向聖観世音菩薩》
「安国殿」の右隣には、「西向聖観世音菩薩」があります。「西向聖観世音菩薩」は、鎌倉時代に執権の「北条時頼」が現在の東京タワー付近の「観音山」に辻堂を建て、「鎌倉街道」に向けて安置した石像の観音さまです。「西向聖観世音菩薩」は、子育て、安産に霊験あらたかと伝えられているそうです。そして、昭和50年(1975年)の浄土宗開宗800年記念の境内整備事業として、現在の「安国殿」前に尊像を遷座し、昭和55年(1980)1月に「観音堂」が完成しました。「西向聖観世音菩薩」は、平成10年(1998年)4月9日に港区の有形民俗文化財に指定されています。「西向聖観世音菩薩」の次は「徳川将軍家墓所」です。
29_《徳川将軍家墓所》
「西向聖観世音菩薩」から「安国殿」と立ち並ぶ「千躰子育地蔵菩薩」の間の道を進むと「徳川将軍家墓所」になります。「徳川将軍家墓所」は、左右の扉に5個ずつの「葵紋」、両脇には「昇り龍」と「下り龍」が鋳抜かれている見る人の目を引く立派な「鋳抜門」と何基もある石燈籠そして石塀に囲まれています。チケット札所が「鋳抜門」に向かって左側にありますので、そこで拝観冥加料を支払い入場します。定休日は火曜日ですが、火曜日が祝日の場合は拝観可能です。
「増上寺」は東京上野の「東叡山寛永寺」(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺になっています。「増上寺」の「徳川将軍家墓所」に埋葬されているのは、2代将軍「徳川秀忠」、6代将軍「徳川家宣」、7代将軍「徳川家継」、9代将軍「徳川家重」、12代将軍「徳川家慶」、14代将軍「徳川家茂」の6人の将軍のほか、「崇源院」(2代将軍「徳川秀忠」夫人)、「皇女和宮」(14代将軍「徳川家茂」夫人)ら5人の正室、3代将軍「徳川家光」側室の「桂昌院」(5代将軍「徳川綱吉」実母)はじめ5人の側室、及び3代将軍「徳川家光」第3子甲府宰相「徳川綱重」ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
「鋳抜門」は、青銅製で独特の侘びさびを醸し出しています。「鋳抜門」は、旧国宝で、もともとは「文昭院殿霊廟」(6代将軍「徳川家宣」)の宝塔前「中門」であったものです。左右の扉に5個ずつの「葵紋」を配し、両脇には「昇り龍」と「下り龍」が鋳抜かれています。「上野東照宮」の「唐門」(唐破風造り四脚門)にも左甚五郎作の「昇り龍」と「下り龍」があったのを思い出しました。「鋳抜門」は、平成9年3月11日に港区の有形文化財(建造物)に指定されています。
また、「徳川将軍家墓所」からは「東京タワー」がまじかに見え、記念撮影にはもってこいの場所です。
【徳川将軍家墓所特別拝観】
? 拝観受付時間…①平日11:00~15:00 (最終入場14:45) ②土日祝 10:00~16:00(最終入場15:45)
? 受付場所…徳川霊廟前チケット札所 ? 拝観冥加料…大人500円(高校生以下無料)
? 定休日…毎週火曜日 ※祝日の場合は通常通り公開します。
「徳川将軍家墓所」の次は「四菩薩像」です。
30_《四菩薩像》
「徳川霊廟前チケット札所」に向かって左側に「四菩薩像」があります。「四菩薩像」は、向かって右側から「普賢菩薩」、「地蔵菩薩」、「虚空蔵菩薩」、「文殊菩薩」の順に並べられています。
「四菩薩像」は、現在の正則中学校あたりにあった「地蔵山」に東に向けて安置されていました。道を隔てて「観音山」に西向きに安置された「西向観音像」と対峙して街道を見下ろす形をとっていたそうです。建立年代については、正嘉2年(1258年)ですが、「足利成氏」が建てたとも、「北条時頼」が建てたとも、土地の人が真言僧に建てさせたともいわれ、はっきり分かっていません。「四菩薩像」は、平成10年(1998年)4月9日に港区の登録有形民俗文化財に登録されました。「四菩薩像」の次は「大納骨堂」(舎利殿)です。
31_《「大納骨堂」(舎利殿)》
「四菩薩像」から「大殿」の裏側の道を進むと「貞恭庵」があります。「貞恭庵」を右方向に進むと階段があり、階段を上った先に「大納骨堂」(舎利殿)があります。「大納骨堂」(舎利殿)は、昭和8年(1933年)に建立され、昭和55年(1980年)に現在地に移されました。「大納骨堂」(舎利殿)の御本尊は「高村光雲」をもとにした「地蔵尊像」です。「大納骨堂」(舎利殿)の次は「貞恭庵」です。
32_《貞恭庵》
「大納骨堂」の階段を降りると右手に「貞恭庵」があります。「貞恭庵」は、14代将軍「徳川家茂」の正室である「皇女和宮」ゆかりの茶室です。ちなみに、「貞恭」とは「和宮」の法号から名付けられているそうです。四畳半二間の茶室からなる建物で、昭和55年(1980年)に移築・改修し、一般にも利用されるようになったそうです。「貞恭庵」の次は「圓光大師堂」です。
33_《圓光大師堂》
「貞恭庵」のところにある細い道を抜けると「圓光大師堂」の裏手に出ます。「圓光大師堂」は、「元祖法然上人八百年御忌」を記念し、平成21年(2009年) 9月に建てられました。「圓光大師堂」は、身体と心を養う念仏道場として開放されています。「圓光大師堂」では、蓮の台座に座る法然上人の木像の前で、誰でも念仏を唱えることができます。「圓光大師堂」の建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築です。「圓光大師像」の後ろにある祭壇には、五輪塔のような形をしたガラス製の経筒に納められた「法然上人」の御廟の砂が祀られていますちなみに、「圓光大師」とは浄土宗開祖の「法然上人」のことです。「増上寺」に行った当日は「御忌大会」の期間中だったので、結構な人が「圓光大師堂」の中で、念仏を唱えていました。「圓光大師堂」の次は「景光殿(旧広書院)表門」です。
34_《景光殿(旧広書院)表門》
「圓光大師堂」へ続く階段の先には、門があります。この門は、「景光殿(旧広書院)表門」です。正面に「景光殿」がありますが、「圓光大師堂」の門のような感じがします。それもそのはず、「圓光大師堂」の看板が門の柱の右側に掲げられているからです。現在は門だけが単独で建っているといった感じです。現在地に移築されたのは、「新書院」建設時の昭和53年(1978年)です。建築様式は、一間一戸の四脚門(平唐門形式)で、屋根は桟瓦葺で、正面の蟇股には表裏両面に徳川家の家紋である三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋がありました。「景光殿(旧広書院)表門」は、平成17年10月25日に、港区の有形文化財(建造物)に指定されています。「景光殿(旧広書院)表門」の次は「光摂殿」です。
35_《光摂殿》
「景光殿(旧広書院)表門」の正面には、「光摂殿」があります。「光摂殿」は、平成12年(2000年)に、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成しました。「光摂殿」の大広間の天井には、天井絵が描かれ、毎年秋の「みなと区民まつり」に併せて公開しているそうです。「光摂殿」の次は増上寺会館(寺務所)です。
36_《増上寺会館(寺務所)》
「光摂殿」の左手前には、「増上寺会館(寺務所)」があります。「増上寺会館(寺務所)」は、平成11年(1999年)に建立されました。「増上寺会館(寺務所)」は、「東棟」、「中棟」、「西棟」の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂などもあるそうです。増上寺会館(寺務所)の次はいよいよ最後である「経蔵」へ向かいます。
37_《経蔵》
「経蔵」は、徳川幕府の助成により、慶長10年(1605年)に建立されました。「経蔵」は、九間半(約17m)四面、土蔵造の典型的な「経蔵」で、都の有形文化財(建造物)に指定されています。「経蔵」の内部中央に八角形の「輪蔵」があります。「輪蔵」には、「徳川家康」が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が各大蔵経に格納され、国の重要文化財に指定されています。現在は後方の収蔵庫に移管されているそうです。
38_《双盤念仏」(都無形文化財)》
帰途に就く途中に伝統的な行事を経験することができました。私が、「増上寺」に行った当日は、「御忌大会」の期間中だったので、「三解脱門」を入ったすぐ右手で「双盤念仏」の演奏が行われていました。初めて目にする珍しい楽器で、念仏の音楽を奏でていました。参拝客も足を止めて聴き入っていました。
2「旧台徳院霊廟惣門」
「増上寺」の次に向かったのが、「旧台徳院霊廟惣門」です。「増上寺」の「旧方丈門」(黒門)を出て右方向に徒歩2分110mほど進むと右手に朱色の色鮮やかな「旧台徳院霊廟惣門」があります。
「旧台徳院霊廟惣門」は、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」の霊廟の「惣門」だったもので、霊廟は、寛永9年(1632年)に「増上寺」に造られました。「徳川秀忠」の霊廟には、この「惣門」ほか「勅額門」、「御成門」、「丁字門」があり、徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものでした。しかし、昭和20年(1945年)5月の東京大空襲により他の霊廟などの建物の多くが焼失しました。奇跡的に戦火を逃れたのは、「徳川秀忠」の霊廟の「惣門」、「勅額門」、「御成門」、「丁字門」でした。「惣門」は、その当時は現在の場所よりも45mほど西側にあったそうです。「惣門」は現地に保存されましたが、「勅額門」、「御成門」、「丁字門」は、昭和35年(1960年)に所沢市の西武狭山線の「西武球場前駅」の近くの「狭山不動寺」へ移築されました。「旧台徳院霊廟惣門」は、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。
「旧台徳院霊廟惣門」の前方には階段があり上ると、「東京タワー」を眺める絶景スポットが待ち受けていました。行った当日は、桜の季節だったので、桜と「東京タワー」のコラボレーションも楽しめました。また、右手には、「増上寺会館」や「増上寺」の境内を眺めることができました。「旧台徳院霊廟惣門」だけでなく、是非、階段を上ってみてください。
3 「平和の灯」
「旧台徳院霊廟惣門」の次は「区立芝公園」にある「平和の灯」です。「旧台徳院霊廟惣門」から「平和の灯」までは2分150mほどの距離のところにあります。「旧台徳院霊廟惣門」を出て右方向に進みます。100mほど進むと歩道の左手に港区コミュニティバス「ちぃばす」の「芝公園駅」バス停があります。右手には、「区立芝公園」があり、「平和の灯」は、公園の出入口から50mほど入ったところにあります。
「平和の灯」は、港区が平和宣言都市を宣言してから20年経った平成17年(2005年)8月15日に、現在の場所である「区立芝公園」に設置され、点灯されました。ここに灯された「火」は広島市平和記念公園の「平和の灯」、福岡県八女市星野村の「平和の火」、長崎市の長崎爆心地公園「ナガサキ誓いの火」をあわせたものだそうです。そして、私は見つけることができませんでしたが、原子爆弾が投下された広島と長崎の焦土の中を生き抜いた樹木の種から植えられた「被爆アオギリⅡ世」、「被ばくクスノキⅡ世」がこの灯の近くに植えられているそうです。また、「平和の灯」のデザインは、子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものだそうです。
4 「芝東照宮」
「平和の灯」の次は「芝東照宮」です。「平和の灯」から「芝東照宮」までは1分70mほどの距離です。「区立芝公園」の出入口を出て右方向に35mほど進むと「芝東照宮」の参道が右手にあります。その奥には、赤と白のコントラストが鮮やかな社殿が見えてきます。
「芝東照宮」の歴史を紐解いてみると、「芝東照宮」は、全国に数多くある「東照宮」のなかでも、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「上野東照宮」と並ぶ「4大東照宮」のひとつとされています。ちなみに、「東照宮」とは、東照宮大権現の神号を授けられた「徳川家康」を祀る神社のことです。もともとは「徳川家康」が、元和2年(1616年)に75歳で亡くなり、翌元和3年(1617年)に徳川家の菩提寺である「増上寺」の境内に「安国殿」として創建されました。「安国殿」の名前の由来は、「徳川家康」の法名である「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」からつけたそうです。「安国殿」の御神体は、慶長6年(1601年)正月に、還暦を迎え60歳になった「徳川家康」が自ら命じて彫刻された等身大の「寿像」です。昭和20年(1945年)の東京大空襲の戦火を奇跡的に逃れた「寿像」は昭和38年(1963年)に東京都重要文化財に指定されています。「寿像」とは、その人の存命中に造っておく肖像彫刻や肖像画のことです。そして、明治初期の神仏分離により「増上寺」から分かれ、「芝東照宮」と呼ばれるようになりました。「芝東照宮」の「社殿」は、江戸初期の寛永10年(1633年)に建て替えられたものでしたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲の戦災により焼失しました。その後、昭和44年(1969年)に現在の「社殿」が再建されました。「芝東照宮」には、寛永18年(1641年)に3代将軍「徳川家光」が手植えしたと伝えられる「公孫樹」があり、天高くそびえたっています。この「公孫樹」は、現在は高さ約21.5m、幹の周囲約6.5mの巨木に成長しました。また、「芝東照宮」の隣に広がる「銀世界」と呼ばれる梅林では、梅の花が見ごろを迎える2月中旬に、毎年恒例の「芝公園梅まつり」が開催されるそうです。「芝公園梅まつり」会場へは、「芝東照宮」の「社殿」に向かって左側にあるデッキは、隣接する梅林「銀世界」へと行くことができます。
それでは「芝東照宮」参拝したいと思います。まず、「日比谷通り」沿いに「社号碑」と「由緒板」があります。ここから先は「芝東照宮」の参道が続きます。長く続く参道の両側は駐車場になっています。参道を通り「鳥居」までの間には、「五稜郭」を設計・建設したことで知られている「武田斐三郎顕彰碑」と天明8年(1788年)に奉納された「阿」、「吽」の「狛犬」が鎮座しています。「鳥居」には、徳川宗家16代当主「徳川家逹」の書である「東照宮」と書かれた「神額」が掲げられています。「鳥居」の先には階段があり、階段を上ると右手に「手水舎」があります。「手水鉢」の基礎部分が波の彫刻が施されている珍しいタイプです。その先の右手には、天高くそびえたっている東京都指定の天然記念物の「公孫樹」があります。この「公孫樹」は、昭和31年(1956年)に東京都の文化財保護条例に基づき指定されました。「公孫樹」の説明板の右横に「神樹碑」、「神木之記碑」もあります。その先は、階段があり奥には赤と白のコントラストが鮮やかな「社殿」があります。「社殿」入口の両脇には、「芝東照宮」と徳川家の家紋である「三つ葉葵」をあしらった提灯が提げられていました。「社殿」の創建は、江戸初期の寛永18年(1633年)です。そして、嘉永18年(1641年)に再建され、現在の「社殿」は東京大空襲により焼失し、昭和44年(1969年)8月に再建されました。「社殿」の奥には、ご神体である「寿像」が鎮座しています。「寿像」は通常非公開ですが、年に一度、「徳川家康」の命日である4月17日のみ御開帳されます。「扁額」には、「東照宮」の文字があります。「社殿」をよく見ると、ハート形の装飾が施されていました。これは猪の目を模した「猪目(いのめ)」と呼ばれ、古来から魔除けのために用いられているモチーフだそうです。最後になりますが、「社殿」の右手には、「星野高士句碑・建立記念俳句」があります。句碑には、「人にまだ 触れざる風や 朝桜、 長編の 虚子の一書を 読始、 法師蝉 鳴いてゐる木と すぐわかる」と刻まれていました。ちなみに、「星野高士」は、昭和27年(1952年)に神奈川県に生まれ、「高浜虚子」の曾孫で俳人です。
5 「銀世界の梅」
「芝東照宮」の次は「銀世界の梅」です。「銀世界の梅」は「梅園」の中にあります。「芝東照宮」から「銀世界の梅」までは1分70mほどの距離にあります。「芝東照宮」の「社殿」から石段を一つ降り、二つ目の石段の手前に、右に曲がる小道があります。そこを進むとテラスがあり、「梅園」に降りる階段の手前に「銀世界の梅」の説明板があります。
説明板によると、江戸時代に新宿区角筈(現在の西新宿3丁目)に、「銀世界」と呼ばれた梅屋敷があったそうです。「東京ガス株式会社」の所有になったため、多くの梅樹は明治41年(1908年)から明治42年(1909年)に「芝公園」に移植されたそうです。「銀世界の梅」は、当時梅屋敷に咲く白梅の様子からその名が付けられたそうです。「芝東照宮」の隣に広がるこの「銀世界」と呼ばれる梅林では、梅の花が見ごろを迎える2月中旬に、毎年恒例の「芝公園梅まつり」が開催されるそうです。「芝公園梅まつり」では、野点茶会や琴の演奏等が楽しめます。ちなみに、「白梅」の花言葉は「気品」ということだそうです。
6 「丸山貝塚」
「銀世界の梅」の次は「丸山貝塚」です。「梅園」から20mほど進むと前方に「丸山古墳」に通じる階段があります。そこを左折し10mほど進むと右手に「丸山貝塚」の説明板があります。
「芝公園1号地」には、「丸山」と呼ばれる丘陵があります。その丘陵の東南側の緩やかな斜面に貝層が残存しています。それが「丸山貝塚」です。説明板によると「丸山貝塚」は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われずにいました。「丸山貝塚」の貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などはわかっていませんでしたが、平成8年(1996年)、公園内で行われた工事の際に良好な貝層が発見されたため、平成8年(1996年)に範囲等の確認調査が行われました。その結果、「丸山古墳」が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に、マガキを主体とする「貝塚」が形成されていたことが明らかになったそうです。そして、わずかに出土した「安行式土器片」から、「貝塚」の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられているそうです。
7 「円山随身稲荷大明神」
「丸山貝塚」の次は「円山随身稲荷大明神」です。「丸山貝塚」の説明板の右手に「丸山古墳」に通じる階段があります。緩やかな丘陵の坂道を道なりに70mほど上がって行くと右手に「円山随身稲荷大明神」があります。
「円山随身稲荷大明神」は、江戸時代に、「増上寺」が、慶長3 年(1598年)に、江戸城の拡張に伴い「徳川家康」によって「増上寺」は現在地へ移された際に、桑名から運ばれた御本尊の「阿弥陀如来像」に随行してきた「稲荷神」が祀られた神社です。また、「随身稲荷」という名の由来は、桑名から運ばれてきた御本尊「阿弥陀如来像」をその道中に守護するために元の場所から稲荷がお供したという事から「随身稲荷」だそうです。ちなみに、「増上寺」は「日枝神社」とともに江戸城の裏鬼門を封じているといわれています。そして、芝円山古墳上で「増上寺」の裏鬼門を鎮護しているそうです。現在は「芝東照宮」の末社になっています。
「円山随身稲荷大明神」は、奥に見える「鳥居」をくぐり、「石段」を登ると神狐が出迎えてくれます。その
「社殿」があります。「社殿」は、繊細な彫刻が施されていました。周囲にも小さめの神狐が配置されていました。「円山随身稲荷大明神」は、小さなお社ですが、未だ「増上寺」の鎮守として邪を祓う存在感を放っています。
8 「大野伴睦句碑」
「円山随身稲荷大明神」の次は「大野伴睦句碑」です。「円山随身稲荷大明神」から「大野伴睦句碑」までは徒歩1分50mほどの距離のところにあります。「円山随身稲荷大明神」から右方向に道なりに50mほど進むと、正面に「大野伴睦句碑」があります。
「大野伴睦」は、明治23年(1890年)に岐阜県で生まれました。「大野伴睦」は、下高輪町に在住し、大正11年(1922年)に、「北里柴三郎」の
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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《増上寺「大門」》都営浅草線・大江戸線の大門駅のA6番出口を出て2分130mほど進むと正面に「増上寺 大門」がその姿を現します。「大門」は、「増上寺」の「総門」(表門)で地名の由来になっている門です。「大門」からは、「増上寺」の「三門」である「三解脱門」も目に飛び込んできます。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺「大門」》「大門」から「三門」(三解脱門)までは約108間(約197m)の距離があり、「三門」(三解脱門)をくぐることで、108の煩悩から解脱できるように設計されているそうです。
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《増上寺「大門」》現在の「大門」は昭和12年(1937年)に国道の通行整備のため、原型より1.5倍の大きさの鉄骨鉄筋コンクリート造りの「高麗門」で再建されました。
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《増上寺大門》再建後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者が確認できなくなっていましたが、平成28年(2016年)3月に東京都から「増上寺」に無償譲与され、「増上寺」では耐震調査を行い、平成28年(2016年)11月から耐震補強と外観化粧直しの改修工事を進め、平成29年(2017年)3月末に完成し、80年ぶりの大改修が完了して美しい姿を取り戻しました。
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《増上寺「大門」》「旧大門」は慶長3年(1598年)に「増上寺」が芝に移転したときに、「徳川家康」が、それまで江戸城の大手門だった高麗門を「増上寺」の表門として譲ったものです。
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《増上寺「大門」》「旧大門」は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたので、「回向院」に移築されましたが、残念ながら昭和20年(1945年)の空襲により焼失しました。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」…「三解脱門(三門)」は、「増上寺」の表の顔として、東京都内でも有数の古い建造物であり東日本最大級を誇り、「増上寺」の「中門」にあたり(表門は「大門」)、正式名称を「三解脱門」といいます。通称として「三門」とも呼ばれています。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」…「三解脱門(三門)」は、慶長16年(1611年)に、徳川幕府の助成により、幕府大工頭「中井正清」とその配下により建立され、元和7年(1621年)の強風により一度倒壊しましたが、元和8年(1622年)に再建されました。「増上寺」が隆盛を極めた江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、戦災を免れた建造物の一つです。
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「三解脱門(三門)」…「三解脱門」とは、煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行である「空門」、「無相門」、「無願門」の三門で、一切を空と考える「空門」、すべての執着を離れる「無相門」、作為なく自然であることを意味する「無作門」という悟りに通ずる3つの解脱の境地を表わしています。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」…「三解脱門(三門)」は、三戸二階二重門の建築様式であり、非公開となっていますが、二階内部には、「釈迦三尊像」と「十六羅漢像」が安置されています。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」…「三解脱門(三門)」は、大正4年(1915年)3月26日に国の重要文化財に指定されています。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…「増上寺」と「三解脱門(三門)」の説明板
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…「増上寺」の説明板
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…「三解脱門(三門)」の説明板
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…「御忌」の説明板、ちなみに、「御忌」(ぎょき)とは、浄土宗の元祖「法然上人」の忌日法要のことです。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…寺院名刻んだ寺号標
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…両脇にある朱塗りの塀
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《増上寺》「三解脱門(三門)」付近…両脇にある朱塗りの塀と寺号標
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《増上寺》「三解脱門(三門)」をくぐると本堂と東京タワーが目の前に現れます。その奥には、現時点で一番高いビルもあります。
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《増上寺》「三解脱門(三門)」をくぐると本堂と東京タワーが目の前に現れます。コンビネーションが素晴らしいですね。
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《増上寺》「」グラント松…「増上寺」の「三解脱門(三門)」をくぐると、すぐ右手に大きな樹があります。近寄ってみると、説明板には「グラント松」と書かれています。
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《増上寺》「」グラント松…「グラトン松」は、明治12年(1879年)に、アメリカ合衆国第18代大統領「グラント将軍」が訪日の際、参拝記念に植樹したものです。「グラント将軍」は、南北戦争時では北軍の将軍を務め、もっとも優秀な将軍といわれております。
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《増上寺》「グラント松」…「グラント元大統領」は、職を退いた後世界周遊の旅に出て、日本にも立ち寄りました。「上野公園」にて歓迎会が行われました。それを記念してグラント将軍と夫人がその記念に「上野公園」に植樹したそうです。昭和4年(1929年)8月に、「グラント将軍植樹碑」が建てられました。
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《増上寺》「聖観世音菩薩」…ホテルニュージャパン罹災者の御霊をともらうものです。
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《増上寺》「聖観世音菩薩」…「聖観世音菩薩」は、「三解脱門(三門)」をくぐるとすぐ左手にあり、参道を隔て反対側には「グラトン松」があります。「聖観世音菩薩」は、昭和57年(1982年)2月8日に、千代田区永田町にあったホテル「ホテルニュージャパン」の火災で罹災し、死亡した33名の供養のため建立された観音像です。
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《増上寺》「聖観世音菩薩」…台座には「ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれています。「聖観世音菩薩」がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われたことによるそうです。火災は、昭和57年1982年2月8日午前3時20分過ぎに発生しました。火元は9階の客室で、宿泊した英国人(死亡)の寝たばこが原因と見られています。
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《増上寺》「仏足石」と説明板…「聖観世音菩薩」は、「三解脱門(三門)」をくぐるとすぐ左手にあり、その「聖観世音菩薩」の右隣にあるのが「仏足石」です。
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《増上寺》「仏足石」…「仏足石」は、仏の足の裏の形を石に刻み信仰の対象としたものです。石の上に大きな足跡が刻まれていました。
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《増上寺》「仏足石」…特に、古代インドでは像を造る習慣がなかったため、インドでは仏像が刻まれる以前は「仏足石」や「菩提樹」などで釈迦やブッダを象徴的に表し、人々はこれらを仏として礼拝していました。
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《増上寺》「仏足石」の説明板…この「仏足石」は、第70世「福田行誠上人」の代に、山内宝松院「松涛泰成上人」の発願により明治14年(1881年)5月に建立されたものです。「仏足石」の側面には仏像、経文、由来などが刻まれています。
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《増上寺》「魚供養之碑」…「仏足石」の右隣にあるのが、「魚供養之碑」です。
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《増上寺》「魚供養之碑」…「魚供養之碑」は、昭和60年(1985年)3月8日に千代田水産株式会社によって建立されたものです。
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「魚供養之碑」の説明板…「魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈を捧げられんこを。」
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《増上寺》「詠唱発祥の地碑」…魚供養之碑」の右隣にあるのが、「詠唱発祥の地碑」です。「詠唱発祥の地碑」は、「増上寺吉水講」の発足20周年を記念して平成14年(2002) に建立されました。
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《増上寺》「詠唱発祥の地碑」…詠唱は、終戦直後の焦土と化した昭和21年(1946年)に「増上寺」山内の浄土宗の宗務所において、宗門教化のため行われたもので、「増上寺」を「詠唱発祥の地」としました。
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《増上寺》「詠唱発祥の地碑」…「浄土宗吉水流詠唱」は、念仏を唱えやすくするための「念仏の助業」で、メロディーに鈴と鉦を使い、楽譜に合わせて歌います。そして、念仏を唱えするということは、阿弥陀仏に帰依し、全てをお任せするということだそうです。
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《増上寺》「詠唱発祥の地碑」…念仏は阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するための五種の行の一つ「称名正行」です。「五種正行」とは、阿弥陀仏を中心とした「読誦」・「観察」・「礼拝」・「称名」・「讃歎供養」をいい、この五種の中で「称名正行」は阿弥陀仏の本願にかなった行いとして「正定の業」であり、他の四種は「称名正行」へ導く為の行としてあることから、「助業」とされています。
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《増上寺》「水盤舎」…「詠唱発祥の地碑」のすぐ先というか前には「水盤舎」があります。
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《増上寺》「水盤舎」の説明板…水盤舎」は、もと「清揚院殿」の「徳川綱重」の霊廟にあったものです。「徳川綱重」は、甲斐甲府藩の藩主で、3代将軍「徳川家光」の3男であり、5代将軍「徳川綱吉」の兄、そして6代将軍「徳川家宣」の父でもあります。そして、「徳川綱重」は、は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。
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《増上寺》「水盤舎」…平成13年(2001年)2月27日に港区文化財に指定されました。
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《増上寺》「水盤舎」…徳川家将軍霊廟」は、昭和20年(1945年)の東京大空襲で大部分の建物が焼失してしまっていることから、この「水盤舎」は、華麗かつ荘厳な徳川家霊廟建造物として現存する数少ない遺構のひとつです。
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《増上寺》「聖鉄観音像」…「水盤舎」の先には、「聖鉄観音像」があります。「聖鉄観音像」は昭和56年(1981年)に国際美容協会会長の「山野愛子」が願主となって建立したものです。
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《増上寺》「聖鉄観音像」の縁起…設置されていた説明板によると「願主(山野愛子)の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことえの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって「聖鉄観音像」造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。」と書かれていました。
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《増上寺》「聖鉄観音像」…この「聖鉄観音像」は、彫刻家の「北村西望」により制作されました。
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《増上寺》「聖鉄観音像」…毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が行われるそうです。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」本堂に向かって左手…「聖鉄観音像」をさらに進むと植え込みの中に「法然上人歌碑」があります。「法然上人」が詠まれたこの「池の水」は京都にある「金戒光明寺」の御詠歌になっているそうです。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」本堂に向かって左手…歌碑には、「池の水 人の心に 似たりけり 濁り澄むこと 定めなければ」と刻まれていました。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」の説明板:本堂に向かって左手…この意味は、大雨が降って水が流れ込んだ時には池の水は濁っています。しかし穏やかな時には、今度はその水がきれいに澄んで池の奥の方まで見渡すことができます。状況に応じて濁ったり澄んだり様々に変化します。すなわち、池の水が状況によって変化するように、人の心も様々に変化するということだそうです。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」本堂に向かって右手…「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」と刻まれています。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」本堂に向かって右手…感無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を、「法然上人」が歌に示したもので、浄土宗の宗歌になっています。
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《増上寺》「法然上人歌碑(お歌の由来)」の説明板:本堂に向かって右手
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《増上寺》「黒門」…見逃したところがあったので少し後戻りします。それは、「増上寺」の「旧方丈門」である「黒門」です。全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれています。ちなみに、「方丈」とは禅宗寺院建築で本堂,客殿,住職居室を兼ねるもので、そこへ通じるのが「旧方丈門」である「黒門」です。
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《増上寺》「黒門」…「黒門」は、1648年から1652年の慶安年間に、3代将軍「徳川家光」の寄進により建立とされています。「黒門」は、御成門交差点付近の「芝公園」、「みなと図書館」、「御成門小学校」一帯にあった「増上寺方丈」の表門であった「旧方丈門」です。鐘楼堂脇に移築されましたが、昭和55年(1980年)に行われた「善導大師1300年遠忌」の際に、「増上寺」の通用門として「日比谷通り」沿いに移築しました
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《増上寺》「黒門」…建築様式は、一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門です。建造年代を明らかにする「棟札」などの記録はありませんが、江戸時代初期の特徴を示す様式から、17世紀後半のものと推測されるそうです。そして、「黒門」は、昭和55年(1980年)11月15日に、港区の有形文化財に指定されました。
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《増上寺》「慈雲閣(開山堂)」…「黒門」をくぐると左手に「慈雲閣」(開山堂)があります。「慈雲閣」(開山堂)は、平成元年(1989年)に「増上寺」を開山した「酉誉聖聰上人」の「550年遠忌記念事業」の中心として、戦災で焼失した「開山堂」の再建を企画、建築されました。
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《増上寺》「慈雲閣(開山堂)」…2階中央には「聖聰上人像」、両脇にはその師「聖冏上人像」と「増上寺」中興の「聰観智国師像」が安置されています。現在は葬儀や年中行事など、多目的に利用できる設備を備えています。
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《増上寺》「土木建築殉職者慰霊塔」…「土木建築殉職者慰霊塔」は、「黒門」をくぐると右手にあります。「一般社団法人全国建設業協会」の前身てある「日本土木建築請負業連合会」は、昭和12年(1937年)3月21日に、全国の建設工事での殉職者などを供養するために建立しました。
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《増上寺》「土木建築殉職者慰霊塔」…これまて慰霊塔に合祀された御霊は、令和元年度時点て62,935柱だそうです。
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《増上寺》「土木建築殉職者慰霊塔」説明石碑…慰霊塔内の須弥壇には阿弥陀如来像を安置してあり、それともう一つ注目すべきは、収納(1940年)から百年後の2040年に開封すべきと書かれた木箱(タイムカプセル)も納められているそうです。
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《増上寺》「鐘楼堂」…次は、「グラント松」の右手にある「鐘楼堂」へ向かいます。現在の「鐘楼堂」は二代目で、戦後の再建によるものです。最初の「鐘楼堂」は、寛永10年(1633)年に建立されました。
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《増上寺》「鐘楼堂」…現在の「鐘楼堂」は二代目で、戦後の再建によるものです。最初の「鐘楼堂」は、寛永10年(1633)年に建立されました。
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《増上寺》「鐘楼堂」説明板…江戸時代の川柳には次のようなものがあります。「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」、「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれたそうです。
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《増上寺》「鐘楼堂」…港区の文化財に指定されています。
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《増上寺》「鐘楼堂」…「大梵鐘」は、あまりに大きいため、7回の鋳造が必要だったそうです朝と夕べ、2回の鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす 108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「江戸彼岸枝垂桜」の石碑…「鐘楼堂」のすぐ前に満開にはもう少しですが、花のつぼみをたわわに付けて頭を垂れているのが、「江戸彼岸枝垂桜」です。「江戸彼岸枝垂桜」の向こう側に見える「鐘楼堂」は、コラボしてまた違った趣があります。「江戸彼岸枝垂桜」は、日本に10種あるといわれている野生のサクラのひとつです。
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《増上寺》「江戸彼岸枝垂桜」…「江戸彼岸枝垂桜」は、「江戸彼岸桜」が変異して、枝が下に垂たれるようになったサクラで、別名「イトザクラ」とも呼ばれます。そして、「江戸彼岸枝垂桜」の左手には、平成6年(1994年)3月に建立された「江戸彼岸枝垂桜」の石碑があります。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「写経塔」…「鐘楼堂」の左手には、「写経塔」があります。「写経塔」は書写された写経を保管するものです。
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《増上寺》「写経塔」…この「写経塔」の建立の契機となったのが、昭和54年(1979年)3月14日(「善導大師」の命日)に、「善導大師千三百年の遠忌記念」として始まった「増上寺」の「写経会」です。
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《増上寺》「写経塔」…「写経会」で書写された写経は、境内中程に建立された「写経塔」へ永代にわたり、奉納されるそうです。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑…写経塔」の右手には、「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑があります。桜植樹碑をみると歌舞伎役者の「市川海老蔵」とその子供である「市川ぼたん」、「堀越勧玄」の合同植樹と祝1,000本目と刻まれていました。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑…「増上寺」での桜の植樹は、平成4年(2022年)1月23日に実施され、桜の名所を中心に延べ86箇所、累計1,000本の桜の植樹になるそうです。「わたしの街の未来の桜プロジェクト」は、株式会社伊藤園が、平成31年(2019年)から取り組みを始めたものです。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑…全国47都道府県内にある桜の名所における桜の植樹・保全活動に対して、「お~いお茶 緑茶」、「お~いお茶 ほうじ茶」、「お~いお茶 玄米茶」桜パッケージなどの売上の一部を寄付する取り組みです。「未来につなぎ、咲かせ続けたい」という願いを込めて、公益財団法人「日本さくらの会」と協働して取り組んでいるそうです。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」…「おーい お茶」(わたしの街の未来の桜プロジェクト)桜植樹碑と「写経塔」の間の小道を進むと、突き当りに「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」があります。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」…「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」は、「増上寺」の境内にあるカフェで、営業時間が1000~1700で年中無休になっています。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」の看板です。入口の上に飾られています。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」…お薦めは、茨城県産和栗使用生絞りモンブラン、抹茶のアフォガード、熊本県産 希少品種使用【極】などです。その他にアルコール類として、ビール、ほうじ茶ハイボールなどもあります。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」店頭のメニューです。色鮮やかな色彩のメニューです。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」…都会の喧騒を忘れてゆっくりと時の過ぎゆくのを楽しむことができます。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「熊野神社」石鳥居付近…「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」の右奥には、「熊野神社」があります。
増上寺 熊野神社 寺・神社・教会
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《増上寺》「熊野神社」石鳥居付近…「熊野神社」は、元和10年(1624年)に、「増上寺」第十三世「正誉廓山上人」が「熊野権現」を「増上寺鎮守」として東北の鬼門に勧請したものだそうです。
増上寺 熊野神社 寺・神社・教会
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《増上寺》「熊野神社」石鳥居の扁額…「熊野」は「クマノ」、「ユヤ」と2通りの呼称がありますが、「増上寺」では「ユヤ権現」としています。「熊野神社」には、港区七福神の一つである「恵比寿さま」が祀られています。
増上寺 熊野神社 寺・神社・教会
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《増上寺》「熊野神社」手水舎水盤に八咫烏…サッカー好きの私も気になったのですが、それは、「手水舎」の水盤に描かれた「八咫烏」のデザインです。実は、「熊野神社」の神紋が3本の足のある「八咫烏」なのだそうです。
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《増上寺》「熊野神社」手水舎水盤に八咫烏…最近は、「八咫烏」がJリーグのシンボルマークになっていることから参拝する人が増えたそうです。
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《増上寺》「熊野神社」八咫烏の説明板…八咫烏」は、日本書紀によると神武天皇が熊野に上陸するとき、「天照大神」より「天から八咫烏を使わそう。八咫烏が道案内をするであろう。」というおさとしがあり無事山越えを出来たと言います。このことから熊野の鳥が三本足の八咫烏になったと言います。
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《増上寺》「熊野神社」(ゆやじんじゃ)熊野三所大権現の由緒書き…「熊野神社」の御祭神は、「熊野本宮大社」の「家津御子大神」、「熊野那智大社」の「大己貴命」、そして「熊野速玉大社」の「伊弉諾尊」の三柱です。
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《増上寺》「熊野神社」祠…鳥居をくぐり奥に進むと祠があります。
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《増上寺》熊野みこし講「綿貫次郎」の碑…熊野神社の境内の一角にあります。
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《増上寺》熊野みこし講「綿貫次郎」の碑…綿貫次郎は熊野みこし講の創始者です。
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《増上寺》「綿貫次郎」の碑の説明板…綿貫次郎は、通称「おじいちゃん」と呼ばれ、毎日増上寺の安国殿に通い、奉仕活動を日課としていたから始まる旨の説明が刻まれていました。
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《増上寺》「火消しの碑」…「火消しの碑」は、「熊野神社」と「三解脱門」の間にあります。石碑に刻まれた赤い「め組」の文字が印象的です。
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《増上寺》「火消しの碑」…「火消しの碑」は、「増上寺門」前の町火消しで有名な「め組」の殉難者、物故者の供養のために、享保元年(1718年)建てられました。かたわらに纏を彫刻した標石と組員名を刻んだ玉垣風の石柱があります。
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《増上寺》「火消しの碑」…ちなみに、「町火消」の始まりは8代将軍「徳川吉宗」の時に創設され、南町奉行の「大岡忠相」により火消の組織化がされました。分担は、隅田川から西を担当する「いろは組47組と東の本所・深川を担当する16組に分けて「町火消」が設置されたそうです。
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《増上寺》「火消しの碑」…当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」という方法が主流だったそうです。
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《増上寺》「弔魂之碑」…「西南の役」で戦死した看護卒の供養碑で、明治11年(1878年)8月20日に建立されたものです。
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《増上寺》「弔魂之碑」…石碑の題字は「山岡鉄太郎」(鉄舟)の筆によるものです。ちなみに、看護卒とは看護兵の旧称のことです。
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《増上寺》「弔魂之碑」…小さな石碑には「有志六百名」とも刻まれていました。
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《増上寺》「弔魂之碑」…「弔魂之碑」は、台石が4尺位、碑石は14・5尺もある大きな立派な石碑で、「弔魂之碑」の左下の方には、「有志六百名」と刻まれた石碑もあり、台石の方には、発起世話人、関成功など8人の名を刻んでありました。
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《増上寺》「筆塚(心と創造)」…「弔魂之碑」の隣には、「筆塚(心と創造)」があります。
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《増上寺》「筆塚(心と創造)」…「筆塚(心と創造)」は、札幌在住の書家「小川東洲」の揮毫によるものだそうです。
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《増上寺》「筆塚(心と創造)」説明板…学びの尊さが書かれていました。
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《増上寺》「阿波丸事件殉職者之碑」…「弔魂之碑」と「筆塚(心と創造)」の左手奥に、「阿波丸事件殉難者之碑」があります。
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《増上寺》「阿波丸事件殉職者之碑」…「阿波丸事件」は、昭和20年(1945年)4月1日夜半に、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」を台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号が攻撃し不法撃沈したものです。
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《増上寺》「阿波丸事件殉職者之碑」…「阿波丸」は、連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に対する救恤品の輸送にあたっていました。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この不法撃沈により遭難者の数は2000名以上で、世界史上最大の海難事故となりました。
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《増上寺》「阿波丸事件殉職者之碑」…「阿波丸事件殉難者之碑」は、阿波丸事件犠牲者の遺族一同により昭和52年(1977年)4月1日に建立され、副碑には殉難者の氏名が刻印されています。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」の石碑…「TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~」まで戻るとその先には、「千躰子育地蔵菩薩」があります。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」の説明板…「増上寺」境内の北側の端には、広く親しまれている仏尊である「地蔵菩薩」の像が約1,300体並んでいます。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…「増上寺」境内の北側の端には、広く親しまれている仏尊である「地蔵菩薩」の像が約1,300体並んでいます。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…桜の花の咲き誇る中で見る1,300体の「地蔵菩薩像」は壮観な眺めでした。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…子育て安産に霊験あらたかとされる「西向観音」にちなんで、子供の無事成長と健康、また、水子の供養を願い、昭和50年(1975年)より順次奉安されているそうです。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…地蔵様の像は子どもを亡くした親たちが納めた頭巾と前掛けをまとっています。また、親たちはお地蔵様の加護に感謝するため風車などのおもちゃもお供えしていきます。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…毎年4月の第3日曜日に大祭、7月には盆踊り大会が行われます。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…お地蔵様が身につけているものは通常、阿弥陀仏の守護を表す色である赤色です。また、「地蔵菩薩」は、旅人や妊婦、さまよえる魂の守護者でもあるそうです。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」…千躰子育地蔵菩薩の上には、桜の雲の絨毯がかかっていました。
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《増上寺》「千躰子育地蔵菩薩」からの東京タワーと桜です。境内の至る所で見ることができます。
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《増上寺》「大殿」と「東京タワー」…「大殿」は、昭和49年(1974年)に再建され、首都圏では最大級の御堂です。「大殿」が「東京タワー」を背景に、インスタ映えする過去と現在の不思議なコントラストを写真に収められます。
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《増上寺》「大殿」と「東京タワー」…「大殿」は、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した後、昭和49年(1974年)に、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した「本堂」が再建されました。2階が本堂、3階が道場、1階が檀信徒控室となっており、地下には「増上寺宝物展示室」があります。
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《増上寺》「大殿」で行われている「御忌大会」の模様…「大殿」の方に目を移すと黒山の人だかりです。「御忌法要」の行事が行われているみたいです。どうやら唱導師による日中法要が行われているみたいです。
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《増上寺》「大殿」で行われている「御忌大会」の模様…そう言えば、法要開始30分前に、開始の合図である江戸三大名鐘の一つに数えられる大梵鐘が鳴り響いていました。
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《増上寺》「大殿」で行われている「御忌大会」の模様です。日本人ばかりでなく外国の観光客もかなりいました。
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《増上寺》「大殿」の説明板…本堂の御本尊の「阿弥陀如来」は、室町期に制作されたもので都の指定文化財になっています。「阿弥陀如来」の両脇壇に「高祖善導大師」と「宗祖法然上人」の像が祀られています。
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《増上寺宝物展示室》「増上寺宝物展示室」…「大殿」の次は、地下にある「増上寺宝物展示室」です。「大殿」への大階段の右側に入口があります。「増上寺宝物展示室」は、徳川家康公の没後400年を記念して、平成27年(2015年)4月に「大殿」の地下1階に開館しました。
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《増上寺宝物展示室》「増上寺宝物展示室」…英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」や、かつて「増上寺」境内に造営されていた2代将軍「徳川秀忠」の御霊屋の110スケール模型、「狩野一信」筆の「五百羅漢図」など所蔵の宝物を展示しています。
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《増上寺》「安国殿」と「東京タワー」…「増上寺宝物展示室」を出て左方向に進むと「安国殿」があります。「安国殿」には、秘仏「黒本尊」(阿弥陀如来)が祀られています。
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《増上寺》「安国殿」… 「黒本尊」は「徳川家康」が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな「阿弥陀如来像」です。江戸時代以来、勝運、厄除けの仏様として広く人々の尊崇をあつめているそうです。
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《増上寺》「安国殿」… 「黒本尊」は、「徳川家康」が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」…「安国殿」の右隣には、「西向聖観世音菩薩」があります。「西向聖観世音菩薩」は、鎌倉時代に執権の「北条時頼」が現在の東京タワー付近の「観音山」に辻堂を建て、「鎌倉街道」に向けて安置した石像の観音さまです。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」…「江戸三十三観音札所」で「聖観音像」は子育て開運の御利益があるといわれています。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」…平成10年(1998年)4月9日に港区の有形民俗文化財に指定されています。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」…「安国殿」の右隣には、「西向聖観世音菩薩」があります。「西向聖観世音菩薩」は、鎌倉時代に執権の「北条時頼」が現在の東京タワー付近の「観音山」に辻堂を建て、「鎌倉街道」に向けて安置した石像の観音さまです。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」柔和な顔立ちをしています。
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《増上寺》「西向聖観世音菩薩」の扁額には、「西向観音」とだけ書かれています。
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…「西向聖観世音菩薩」から「安国殿」と立ち並ぶ「千躰子育地蔵菩薩」の間の道を進むと「徳川将軍家墓所」になります。「鋳抜門」は、「文昭院殿霊廟」(六代将軍「徳川家宣」)の宝塔前「中門」であったものです。
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…平成9年3月11日に港区の文化財に指定されています。チケット札所が「鋳抜門」に向かって左側にありますので、そこで拝観冥加料を支払い入場します。定休日は火曜日ですが、火曜日が祝日の場合は拝観可能です。
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…青銅製の左右の扉に5個づつの葵紋が描かれ、その両脇には昇り龍と下り龍が鋳抜かれています。
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」から見た「東京タワー」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…左右の扉に5個づつの葵紋
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…右側の扉脇の昇り龍
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…墓所から撮影
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…右側の扉脇の昇り龍
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」の「鋳抜門」…右側の扉脇の下り龍
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」と「鋳抜門」の説明板…「増上寺」の「徳川将軍家墓所」に埋葬されているのは、2代将軍「徳川秀忠」、6代将軍「徳川家宣」、7代将軍「徳川家継」、9代将軍「徳川家重」、12代将軍「徳川家慶」、14代将軍「徳川家茂」の6人の将軍や正室、側室などです。
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…「慎徳院殿(十二代徳川家慶)宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…「慎徳院殿(十二代徳川家慶)宝塔」の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…「慎徳院殿(十二代徳川家慶)宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…惇信院(九代徳川家重)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…惇信院(九代徳川家重)宝塔の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…惇信院(九代徳川家重)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…惇信院(九代徳川家重)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…有章院(七代徳川家継)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…有章院(七代徳川家継)宝塔の説明板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…有章院(七代徳川家継)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…有章院(七代徳川家継)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…台徳院殿(二代徳川秀忠)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…台徳院殿(二代徳川秀忠)宝塔の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…台徳院殿(二代徳川秀忠)宝塔の案内板(正室お江方)
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…台徳院殿(二代徳川秀忠)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…台徳院殿(二代徳川秀忠)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…文昭院(六代徳川家宣)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…文昭院(六代徳川家宣)宝塔の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…文昭院(六代徳川家宣)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…昭徳院(十四代徳川家茂)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…昭徳院(十四代徳川家茂)宝塔の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…昭徳院(十四代徳川家茂)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…昭徳院(十四代徳川家茂)宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…静寛院和宮宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…静寛院和宮宝塔の案内板
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…静寛院和宮宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…静寛院和宮宝塔
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…将軍・生母・側室「合祀宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…将軍・生母・側室「合祀宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…将軍・生母・側室「合祀宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…将軍・生母・側室「合祀宝塔」
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…墓所内風景(右側の宝塔)
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…墓所内風景(左側の宝塔)
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《増上寺》「徳川将軍家墓所」…墓所内から「東京タワー」です。一番近い距離にあります。
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《増上寺》「四菩薩像」…「徳川霊廟前チケット札所」に向かって左側に「四菩薩像」があります。「四菩薩像」は、向かって右側から「普賢菩薩」、「地蔵菩薩」、「虚空蔵菩薩」、「文殊菩薩」の順に並べられています。「四菩薩像」は、現在の正則中学校あたりにあった「地蔵山」に東に向けて安置されていました。
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《増上寺》「四菩薩像」…右から「普賢菩薩」、「地蔵菩薩」、「虚空蔵菩薩」、「文殊菩薩」
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《増上寺》「四菩薩像」…「普賢菩薩」(それぞれ単独で撮影しました。)
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《増上寺》「四菩薩像」…平成10年(1998年)4月9日に港区の文化財に指定されています。
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《増上寺》「四菩薩像」の説明板…道を隔てて「観音山」に西向きに安置された「西向観音像」と対峙して街道を見下ろす形をとっていたそうです。建立年代については、正嘉2年(1258年)ですが、「足利成氏」が建てたとも、「北条時頼」が建てたとも、土地の人が真言僧に建てさせたともいわれ、はっきり分かっていません。
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《増上寺》「四菩薩像」…「文殊菩薩」(それぞれ単独で撮影しました。)
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《増上寺》「四菩薩像」…「虚空蔵菩薩」(それぞれ単独で撮影しました。)
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《増上寺》「四菩薩像」…「地蔵菩薩」(それぞれ単独で撮影しました。)
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《増上寺》「大納骨堂」(舎利殿)…四菩薩像」から「大殿」の裏側の道を進むと「貞恭庵」があります。「貞恭庵」を右方向に進むと階段があり、階段を上った先に「大納骨堂」(舎利殿)があります。
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《増上寺》「大納骨堂」(舎利殿)の説明板…「大納骨堂」(舎利殿)は、昭和8年(1933年)に建立され、昭和55年(1980年)に現在地に移されました。「大納骨堂」(舎利殿)の御本尊は「高村光雲」をもとにした「地蔵尊像」です。
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《増上寺》「貞恭庵」…「大納骨堂」の階段を降りると右手に「貞恭庵」があります。「貞恭庵」は、十四代将軍「徳川家茂」に正室「皇女和宮」ゆかりの茶室です。
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《増上寺》「貞恭庵」…ちなみに、「貞恭」とは「和宮」の法号から名付けられているそうです。
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《増上寺》「貞恭庵」の説明板…四畳半二間の茶室からなる建物で、昭和55年(1980年)に移築・改修し、一般にも利用されるようになりました。
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《増上寺》「圓光大師堂」…「貞恭庵」のところにある細い道を抜けると「圓光大師堂」の裏手に出ます。
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《増上寺》「圓光大師堂」の説明板…圓光大師堂」は、「元祖法然上人八百年御忌」を記念し、平成21年(2009年) 9月に建てられました。
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《増上寺》「圓光大師堂」…「圓光大師堂」は、身体と心を養う念仏道場として開放されています。「圓光大師堂」では、蓮の台座に座る法然上人の木像の前で、誰でも念仏を唱えることができます。
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《増上寺》「圓光大師堂」と「東京タワー」…「圓光大師堂」の建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築です。「圓光大師像」の後ろにある祭壇には、五輪塔のような形をしたガラス製の経筒に納められた「法然上人」の御廟の砂が祀られていますちなみに、「圓光大師」とは浄土宗開祖の「法然上人」のことです。
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《増上寺》「圓光大師堂」…「圓光大師堂」へ続く階段の先には、門があります。この門は、「景光殿(旧広書院)表門」です。正面に「景光殿」がありますが、「圓光大師堂」の門のような感じがします。それもそのはず、「圓光大師堂」の看板が門の柱の右側に掲げられているからです。現在は門だけが単独で建っているといった感じです。現景光殿 (旧広書院)表門は平成17年(2005年)10月25日に港区の文化財に指定されています。
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《増上寺》「圓光大師堂」…景光殿 (旧広書院)表門説明板…建築様式は、一間一戸の四脚門(平唐門形式)で、屋根は桟瓦葺で、正面の蟇股には表裏両面に徳川家の家紋である三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋がありました。「景光殿(旧広書院)表門」は、平成17年10月25日に、港区の有形文化財(建造物)に指定されています。
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《増上寺》「圓光大師堂」…「増上寺」に行った当日は「御忌大会」の期間中だったので、結構な人が「圓光大師堂」の中で、念仏を唱えていました。
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《増上寺》「圓光大師堂」…景光殿 (旧広書院)表門と「東京タワー」
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《増上寺》「経蔵」…「経蔵」は、徳川幕府の助成により建立されました。「経蔵」の内部中央に八角形の「輪蔵」があります。
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《増上寺》「経蔵」…「経蔵」の大きさは、九間半(約17m)四面が土蔵造の典型的な「経蔵」で、都の有形文化財に指定されています。
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《増上寺》「経蔵」の説明板…「徳川家康」が「増上寺」に寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経が収蔵され、これは国の重要文化財に指定されています。
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《増上寺》「光摂殿」…「光摂殿」は、平成12年(2000年)に、講堂、道場として完成しました。一階に講堂、三階に大広間があります。
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《増上寺》「増上寺会館(寺務所)」…「増上寺会館(寺務所)」は、「東棟」、「中棟」、「西棟」の3棟からなる会館です。
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《増上寺》「増上寺会館(寺務所)」…「増上寺会館(寺務所)」は、昭和36年(1961年)に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11年(1999年)に建立されました。
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《増上寺》「幼少法然像」と説明板…4月7日は法然上人の誕生日です。
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《増上寺》「幼少法然像」…法然上人の子供の頃の名前は、勢至丸です。
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《増上寺》「幼少法然像」…長承2年(1133年)に現在の岡山県である美作の国に生まれました。
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《増上寺》「幼少法然像」…幼くして父を亡くし、父の教えにより出家しました。
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《増上寺》「幼少法然像」の説明板…京都の比叡山で学び、浄土宗の教えを開いたそうです。
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《増上寺》「双盤念仏」(都無形文化財)…「御忌大会」の一環として「三解脱門」を入ったすぐ右手で「双盤念仏」の演奏が行われていました。
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《増上寺》「双盤念仏」(都無形文化財)…「双盤念仏」とは、双盤を打ちながら音楽的な調べに乗せて歌う形の念仏です。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「双盤念仏」(都無形文化財)…「双盤念仏」は、直径40~50cmの鉦を二枚組にして用いたため「双盤」と言われるようになったそうです。
増上寺 寺・神社・教会
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《増上寺》「双盤念仏」(都無形文化財)…また、日本各地でもいろいろ呼び方があるそうです。地域によって、「十夜念仏」「鉦はり」「流れ」「平鉦」「あそび鉦」とも呼ばれているそうです。
増上寺 寺・神社・教会
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《旧台徳院霊廟惣門》正面から「東京タワー」と撮影…「増上寺」の次に向かったのが、「旧台徳院霊廟惣門」です。「増上寺」の「旧方丈門」(黒門)を出て右方向に徒歩2分110mほど進むと右手に朱色の色鮮やかな「旧台徳院霊廟惣門」があります。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》正面から撮影「旧台徳院霊廟惣門」は、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」の霊廟の「惣門」だったもので、霊廟は、寛永9年(1632年)に「増上寺」に造られました。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》正面から撮影…「徳川秀忠」の霊廟には、この「惣門」ほか「勅額門」、「御成門」、「丁字門」があり、徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものでした。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》芝公園側から撮影…しかし、昭和20年(1945年)5月の東京大空襲により他の霊廟などの建物の多くが焼失しました。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》芝公園側から撮影…奇跡的に戦火を逃れたのは、「徳川秀忠」の霊廟の「惣門」、「勅額門」、「御成門」、「丁字門」でした。「惣門」は、その当時は現在の場所よりも45mほど西側にあったそうです。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》芝公園側から撮影…「惣門」は現地に保存されましたが、「勅額門」、「御成門」、「丁字門」は、昭和35年(1960年)に所沢市の西武狭山線の「西武球場前駅」の近くの「狭山不動寺」へ移築されました。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》芝公園側から撮影…「旧台徳院霊廟惣門」は、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》重要文化財の看板…「旧台徳院霊廟惣門」の前方には階段があり上ると、「東京タワー」を眺める絶景スポットが待ち受けていました。行った当日は、桜の季節だったので、桜と「東京タワー」のコラボレーションも楽しめました。また、右手には、「増上寺会館」や「増上寺」の境内を眺めることができました。「旧台徳院霊廟惣門」だけでなく、是非、階段を上ってみてください。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》「木造仁王像」(阿形)の像の高さは243.5cmあります。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》「木造仁王像」(吽形)の像の高さは247.0cmあります。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《旧台徳院霊廟惣門》「木造仁王像」の説明板によると港区指定有形文化財に指定されています。
台徳院霊廟惣門 名所・史跡
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《区立芝公園平和の灯》「旧台徳院霊廟惣門」の次は「区立芝公園」にある「平和の灯」です。
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《区立芝公園平和の灯》「旧台徳院霊廟惣門」から「平和の灯」までは2分150mほどの距離のところにあります。「旧台徳院霊廟惣門」を出て右方向に進みます。100mほど進むと歩道の左手に港区コミュニティバス「ちぃばす」の「芝公園駅」バス停があります。右手には、「区立芝公園」があり、「平和の灯」は、公園の出入口から50mほど入ったところにあります。
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《区立芝公園平和の灯》「平和の灯」は、港区が平和宣言都市を宣言してから20年経った平成17年(2005年)8月15日に、現在の場所である「区立芝公園」に設置され、点灯されました。
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《区立芝公園平和の灯》オレンジ色の平和の灯火がはっきりと見えます。
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《区立芝公園平和の灯》「平和の灯」と「港区平和都市宣言」の説明板…ここに灯された「火」は広島市平和記念公園の「平和の灯」、福岡県八女市星野村の「平和の火」、長崎市の長崎爆心地公園「ナガサキ誓いの火」をあわせたものだそうです。
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《区立芝公園平和の灯》「平和の灯」の説明板…そして、私は見つけることができませんでしたが、原子爆弾が投下された広島と長崎の焦土の中を生き抜いた樹木の種から植えられた「被爆アオギリⅡ世」、「被ばくクスノキⅡ世」がこの灯の近くに植えられているそうです。
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《区立芝公園平和の灯》「港区平和都市宣言」の説明板…また、「平和の灯」のデザインは、子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものだそうです。
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《区立芝公園平和の灯》ここからも「東京タワー」と「増上寺」そして桜の花を見ることができます。
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《芝東照宮》参道入口付近にある「社号標」…「平和の灯」の次は「芝東照宮」です。「平和の灯」から「芝東照宮」までは1分70mほどの距離です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》参道入口付近にある「由緒板」と「社号標」…「区立芝公園」の出入口を出て右方向に35mほど進むと「芝東照宮」の参道が右手にあります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》参道入口付近にある「由緒板」…御祭神、御鎮座年月日、祭日、社殿、公孫樹の説明が書かれていました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》入口付近から「石鳥居」までの参道…奥には、赤と白のコントラストが鮮やかな社殿が見えてきます。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の狛犬(左側)…狛犬と桜の花のマッチアップです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の狛犬(右側)と東京タワー、まるで「東京タワー」を守っているようです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の「武田斐三郎顕彰碑」…参道を通り「鳥居」までの間には、「五稜郭」を設計・建設したことで知られている「武田斐三郎顕彰碑」あります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の「武田斐三郎顕彰碑」…「武田 斐三郎」は、文政10年(1827年)に生まれました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の「武田斐三郎顕彰碑」…「武田 斐三郎」は、伊予大洲藩士で、緒方洪庵」や「佐久間象山」らから洋学などを学びました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》鳥居付近の「武田斐三郎顕彰碑」…箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設しました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「鳥居」…それでは「芝東照宮」参拝したいと思います。まず、「日比谷通り」沿いに「社号碑」と「由緒板」があります。ここから先は「芝東照宮」の参道が続きます。長く続く参道の両側は駐車場になっています。参道を通り「鳥居」までの間には、「五稜郭」を設計・建設したことで知られている「武田斐三郎顕彰碑」と天明8年(1788年)に奉納された「阿」、「吽」の「狛犬」が鎮座しています。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「鳥居」の扁額…「扁額」には「東照宮」と書かれています。徳川宗家16代当主「徳川家逹」の書です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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05_①《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…参道右側にあり、東京大空襲を生き抜いた貴重な御神木です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…「手水舎」先の右手にあります。天高くそびえたっている東京都指定の天然記念物の「公孫樹」があります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…「公孫樹」は、昭和31年(1956年)に東京都の文化財保護条例に基づき指定されました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》こちらは「芝東照宮ノ公孫樹」の文部省が作成した「芝東照宮ノ公孫樹」の由緒板です。文部省ですからかなりの時代物ですね。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》こちらは東京都教育委員会の作成した「芝東照宮ノ公孫樹」の説明板です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」の説明板…。境内にそびえる「公孫樹」(イチョウ)は、寛永18年(1641年)に3代将軍「徳川家光」が手植えしたと伝えられるものです。現在は高さ約21.5m、幹の周囲約6.5mの巨木となり、夏には豊かな葉をしげらせ秋には黄色く色づいて、参拝者の目を楽しませてくれます。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…「公孫樹」の説明板の右横にある「神木之記碑」です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…「公孫樹」の説明板の右横にある「神樹碑」です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」…大きな公孫樹なので一枚の写真に収めるのが大変でした。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」境内にある手水舎…「鳥居」の先には階段があり、階段を上ると右手に「手水舎」があります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「芝東照宮ノ公孫樹」境内にある手水舎…「手水鉢」の基礎部分が波の彫刻が施されている珍しいタイプです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」…公孫樹のの先は、階段があり奥には赤と白のコントラストが鮮やかな「社殿」があります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」へ通じる参道です。「拝殿」はすぐそこです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」の提灯…「社殿」入口の両脇には、「芝東照宮」と徳川家の家紋である「三つ葉葵」をあしらった提灯が提げられていました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」の扁額…「社殿」の創建は、江戸初期の寛永18年(1633年)です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」にある葵の御紋の入った賽銭箱…嘉永18年(1641年)に再建され、現在の「社殿」は東京大空襲により焼失し、昭和44年(1969年)8月に再建されました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」にある御祭神の説明板…「社殿」の奥には、ご神体である「寿像」が鎮座しています。「寿像」は通常非公開ですが、年に一度、「徳川家康」の命日である4月17日のみ御開帳されます。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」に通じる参道付近には桜の花が頭を垂れていました。「芝東照宮」は、全国に数多くある「東照宮」のなかでも、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「上野東照宮」と並ぶ「4大東照宮」のひとつとされています。ちなみに、「東照宮」とは、東照宮大権現の神号を授けられた「徳川家康」を祀る神社のことです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」右斜めから撮影…もともとは「徳川家康」が、元和2年(1616年)に75歳で亡くなり、翌元和3年(1617年)に徳川家の菩提寺である「増上寺」の境内に「安国殿」として創建されました。「安国殿」の御神体は、慶長6年(1601年)正月に、還暦を迎え60歳になった「徳川家康」が自ら命じて彫刻された等身大の「寿像」です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」付近にある由緒板…昭和20年(1945年)の東京大空襲の戦火を奇跡的に逃れた「寿像」は昭和38年(1963年)に東京都重要文化財に指定されています。「寿像」とは、その人の存命中に造っておく肖像彫刻や肖像画のことです。そして、明治初期の神仏分離により「増上寺」から分かれ、「芝東照宮」と呼ばれるようになりました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」をよく見ると、ハート形の装飾が施されていました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》これは猪の目を模した「猪目(いのめ)」と呼ばれ、古来から魔除けのために用いられているモチーフだそうです。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」左手にある「社務所」…私が参拝した時は、御朱印待ちの人が数名いました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」左手にある「社務所」…こちらでは御守り等を授かることができます。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》最後になりますが、「社殿」の右手には、「星野高士句碑・建立記念俳句」があります。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」右手にある「星野高士句碑・建立記念俳句」…「星野高士」は、昭和27年(1952年)に神奈川県に生まれ、「高浜虚子」の曾孫で俳人です。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《芝東照宮》「拝殿」右手にある「星野高士句碑・建立記念俳句」…句碑には、「人にまだ 触れざる風や 朝桜、 長編の 虚子の一書を 読始、 法師蝉 鳴いてゐる木と すぐわかる」と刻まれていました。
芝東照宮 寺・神社・教会
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《銀世界の梅》「芝東照宮」の次は「銀世界の梅」です。「銀世界の梅」は「梅園」の中にあります。「芝東照宮」から「銀世界の梅」までは1分70mほどの距離にあります。「芝東照宮」の「社殿」から石段を一つ降り、二つ目の石段の手前に、右に曲がる小道があります。そこを進むとテラスがあり、「梅園」に降りる階段の手前に「銀世界の梅」の説明板があります。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》説明板…説明板によると、江戸時代に新宿区角筈(現在の西新宿3丁目)に、「銀世界」と呼ばれた梅屋敷があったそうです。「東京ガス株式会社」の所有になったため、多くの梅樹は明治41年(1908年)から明治42年(1909年)に「芝公園」に移植されたそうです。目をつぶるとテラスの下には白銀の世界が広がります。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》「銀世界の梅」は、当時梅屋敷に咲く白梅の様子からその名が付けられたそうです。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》芝東照宮」の隣に広がるこの「銀世界」と呼ばれる梅林では、梅の花が見ごろを迎える2月中旬に、毎年恒例の「芝公園梅まつり」が開催されるそうです。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》「芝公園梅まつり」では、野点茶会や琴の演奏等が楽しめます。ちなみに、「白梅」の花言葉は「気品」ということだそうです。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》「銀世界碑」は、梅屋敷内にあった石碑です。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》「銀世界碑」は、琉球の「棟応昌」の筆によるもので、天保3年(1832年)に建立されました。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》こちらの説明板は、三田線「芝公園駅」側の入口のところにあります。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《銀世界の梅》三田線「芝公園駅」から公園の入口を入り、この石橋を渡ると「銀世界の梅」があります。
銀世界の梅 自然・景勝地
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《円山随身稲荷大明神》外観…「丸山貝塚」の次は「円山随身稲荷大明神」です。「丸山貝塚」の説明板の右手に「丸山古墳」に通じる階段があります。緩やかな丘陵の坂道を道なりに70mほど上がって行くと右手に「円山随身稲荷大明神」があります。
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《円山随身稲荷大明神》説明板…「円山随身稲荷大明神」は、江戸時代に、「増上寺」が、慶長3 年(1598年)に、江戸城の拡張に伴い「徳川家康」によって「増上寺」は現在地へ移された際に、桑名から運ばれた御本尊の「阿弥陀如来像」に随行してきた「稲荷神」が祀られた神社です。
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《円山随身稲荷大明神》鳥居…また、「随身稲荷」という名の由来は、桑名から運ばれてきた御本尊「阿弥陀如来像」をその道中に守護するために元の場所から稲荷がお供したという事から「随身稲荷」だそうです。
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《円山随身稲荷大明神》鳥居…ちなみに、「増上寺」は「日枝神社」とともに江戸城の裏鬼門を封じているといわれています。
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《円山随身稲荷大明神》鳥居の扁額…芝円山古墳上で「増上寺」の裏鬼門を鎮護しているそうです。現在は「芝東照宮」の末社になっています。
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《円山随身稲荷大明神》祠…「円山随身稲荷大明神」は、奥に見える「鳥居」をくぐり、「石段」を登ると神狐が出迎えてくれます。
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《円山随身稲荷大明神》祠の扁額…「社殿」は、繊細な彫刻が施されていました。
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《円山随身稲荷大明神》祠…周囲にも小さめの神狐が配置されていました。
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《円山随身稲荷大明神》祠…「円山随身稲荷大明神」は、小さなお社ですが、未だ「増上寺」の鎮守として邪を祓う存在感を放っています。
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《円山随身稲荷大明神》祠付近の風景…小さな神狐たちが、可愛く何とも言えませんでした。
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《円山随身稲荷大明神》裏手から撮影、ここからも素晴らしい桜を見ることができました
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《大野伴睦句碑》「円山随身稲荷大明神」の次は「大野伴睦句碑」です。「円山随身稲荷大明神」から「大野伴睦句碑」までは徒歩1分50mほどの距離のところにあります。「円山随身稲荷大明神」から右方向に道なりに50mほど進むと、正面に「大野伴睦句碑」があります。
大野伴睦句碑 名所・史跡
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《大野伴睦句碑》迫力ある虎が台座の上で睨みをきかせています。「大野伴睦」は、明治23年(1890年)に岐阜県で生まれました。「大野伴睦」は、下高輪町に在住し、大正11年(1922年)に、「北里柴三郎」の支援を受けて東京市会議員に当選しました。
大野伴睦句碑 名所・史跡
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《大野伴睦句碑》昭和5年(1930年)に、「鳩山一郎」の直系として衆議院議員(岐阜1区)に初当選して、13期務めあげました。その後、北海道開発庁長官、自由民主党副総裁を務めました。
大野伴睦句碑 名所・史跡
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《大野伴睦句碑》丸山西頂部にあり、迫力ある虎が台座の上で睨みをきかせている「大野伴睦句碑」は、昭和38年(1963年)6月の調理師法施工5周年にあたって、「大野伴睦」が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものだそうです。碑には「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」と刻まれています。
大野伴睦句碑 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》「円山随身稲荷大明神」の次は「伊能忠敬測地遺功表」です。「円山随身稲荷大明神」から「伊能忠敬測地遺功表」までは徒歩1分70mです。右方向に70mほど進むと左手に広場があり、その中に「伊能忠敬測地遺功表」があります。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》「伊能忠敬測地遺功表」は、日本地図を作った測量の先駆者である「伊能忠敬」の功績を顕彰して、明治22年(1889年)に建立しました。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》当時の「伊能忠敬測地遺功表」は、高さ8.58mの青銅製の立派な角柱型のものだったそうです。残念ながら昭和19年(1944年)9月に戦時中の金属回収によって失われました。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》丸山古墳の頂上の広場にある現在の「伊能忠敬測地遺功表」は昭和40年(1965年)に再建されたものです。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》「伊能忠敬」は、18歳で下総国佐原の「伊能家」に婿養子に入り、50歳で隠居すると19歳年下の「高橋至時」に師事して天文学、測量術を学びました。寛政7年(1795年)には、幕府の命をうけて全国を測量し「沿海路程図」を完成しました。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《伊能忠敬測地遺功表》そして、「伊能忠敬」が測量の際の原点としたのは「高輪大木戸」で、寛政12年(1800年)から日本全国の測量を開始し、文化13年(1816年)に終了するまでに測量距離は、17年間をかけて43,708kmに及びました。有名な「大日本沿海輿地全図」は「伊能忠敬」の死後、弟子たちによって編集されたものです。
伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡
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《芝丸山古墳》「伊能忠敬測地遺功表」の次は「芝丸山古墳」です。「伊能忠敬測地遺功表」から「芝丸山古墳」までは徒歩2分120mほどです。広場を出て左方向に40mほど進みむと突き当りになり、左方向に60mほど進むと「芝丸山古墳」の説明板があります。
芝丸山古墳 名所・史跡
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《芝丸山古墳》「芝丸山古墳」は、「芝公園1号地」の標高約16mの台地先端部にあります。「芝丸山古墳」は、4世紀後半に築造されたと考えられています。その規模は、全長が約106m、前方部前端幅が約40m、後円部直径が約64m、くびれ部幅が約22mの都内最大級の「前方後円墳」です。
芝丸山古墳 名所・史跡
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《芝丸山古墳》「芝丸山古墳」の東南斜面には、さらに古い縄文時代中期後半のものと推定される「丸山貝塚」があり、先史時代から芝公園周辺に人が住み、4世紀後半には、ヤマト王朝と繋がりをもつ有力者がこの地を治めていたことが推測されるそうです。
芝丸山古墳 名所・史跡
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《芝丸山古墳》説明板…「芝丸山古墳」の存在に気付いたのは、丸山の高さに不自然さを感じていた自然人類学者の「坪井正五郎」です。「坪井正五郎」は、東京府知事の依頼で明治30年(1897年)~明治31年(1898年)に本格的な発掘調査を行いました。その結果、「芝丸山古墳」と周辺にある小円墳群存在することが明らかになりました。
芝丸山古墳 名所・史跡
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《宝珠院》外観(都道301号側)…「芝丸山古墳」の次は「宝珠院」です。「芝丸山古墳」から「宝珠院」までは徒歩5分350mほどです。「ザ・スプリングタワー東京」のガーデンチャペルを回り込むようにして道なりに進むと、「プリンス芝公園」があり、さらに進むと前方右手に「宝珠院」が見えてきます。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》外観(都道301号側)…「宝珠院」は浄土宗の寺院で、「増上寺」の塔頭寺院です。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》外観(弁天池側)…宝珠院」は、「増上寺」第30世貫主「生譽靈玄大僧正」が、「閻魔王」と共に白蓮池の「辨才天女」を勧請して、別当寺として貞享2年(1685年)に創建しました。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》外観(常夜燈)…現在地には、大正4年(1915年)10月に移転してきました。平成30年(2018年)に建替えられた真新しい寺院です。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》外観…「宝珠院」は、「本堂」、「弁天堂」、「閻魔堂」の3つの御堂に庫裏を併せた複合建築です。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》弁天池…「宝珠院」前にある「弁天池」は、かつては「蓮池」などと呼ばれ、文豪や画家にも愛され多くの作品の題材となったそうです。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》弁天池…弁天池の名は、古くは 「さよ」 という女が身を投じた故に呼ばれた「さよが池」、また「ゆりが淵」などとも言ったと伝えられています。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》弁天池…夏には江蓮白蓮が混ざり合う幻想的な風景を醸し出します。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》弁天池に架かる石橋… 池中に架かる石橋を「接蓮橋」、又は「美蓉橋」といい、これも「霊玄上人」の命名したものです。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》弁天池…「弁財天」は一尺余りの腰かけ像で、「源頼朝」、「北条家に」篤く信仰され、その後「徳川家康」が「増上寺」に移したと伝えられています。「徳川家康」は尊像を篤く信仰し念持仏とし、江戸幕府を開府でき開運したということで、「開運出世大弁財天」と「徳川家康」が自ら名づました。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「弁天池」の説明板を転記…明治6年(1873年)の太政官布達第16号により芝公園になる以前より、増上寺の山内丘陵の西後方、境内裏鬼門にあたる位置に弁天池という広大な蓮池があり、夏には江蓮白蓮が混ざり合う、清香馥郁として奥深く静かな景勝地でした。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「弁天池」の説明板を転記…池中の中島には増上寺三十世霊玄上人の時に弁財天が勧進され、弁天堂ができました。弁財天は一尺余りの腰かけ像で、9世紀に智証大師によって作られたものが源頼朝、北条家に篤く信仰され、その後徳川家康が増上寺に移したと伝えられています。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「弁天池」の説明板を転記…また、島には稲荷妙見菩薩も並んで祀られ、現譽公記に「丸山の麓に池あり、二月の頃は近郷の百姓もみを浸して番をなす故に、池の中に少しの島を築き、稲荷の祠をかまへり」とあります。明治維新までは両方の社がありましたが、現在では隣の宝珠院内に祀られ、現在、弁財天は港七福神の一つとして親しまれています。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》境内には「芭蕉」と「古調庵萬嶽」の2句が刻まれている石碑上がりました。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「芭蕉」と「古調庵萬嶽」の句碑…石碑には、「古池や蛙とひこむ水の音 祖翁乃高吟也 あれほとの雲を起すや雨蛙 古調庵万嶽 八十五歳」と刻まれていました。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「芭蕉」と「古調庵萬嶽」の句碑の隣には「子育水子地蔵尊」があります。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「子育水子地蔵尊」…「水子地蔵尊」とは、出産後すぐに亡くなったり、流産したりし、やむを得ず流してしまったり、本来ならばこの世に生を授かり育っていたであろう、尊い生命を供養し、手を差し伸べてくださるお地蔵様が、水子地蔵菩薩様です。
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《宝珠院》「子育水子地蔵尊」…「子育水子地蔵尊」とは、小さな尊い命を供養し、また、あらゆる子供達が健やかに育ちますようにと願いをこめ建立したものです。
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《宝珠院》「子育水子地蔵尊」…「子育水子地蔵尊」は、やさしく赤ちゃんを抱いています。
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《宝珠院》「浄水盤」…ここで手を清めます。手を蛇口に近づけると自動で水が出てきます。
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《宝珠院》「御御籤掛け」…どんな願いを託し御御籤を結んだのでしょうか。
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《宝珠院》「百度石」…正面入口付近にあります。
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《宝珠院》「三竦み石像」(蛇)…「宝珠院」の境内には、ヘビ、カエル、ナメクジの石像が点在しています。
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《宝珠院》「三竦み石像」(蛙)…これは「ヘビがカエルを食べる」、「カエルがナメクジを食べる」、「ナメクジがヘビを溶かす」という習性によって、三者ともに動けなくなる「三竦み」を意味しているそうです。
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《宝珠院》「三竦み石像」(ナメクジ)…この意味は、物事が動かなくなる、転じて平和を願う気持ちを表現しているそうです。ただし、注意点があります。
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《宝珠院》「三竦み石像」(なめくじ)…ヘビとカエルは石像なのですぐに分かりますが、ナメクジは石柱の線刻なので、最初は分かりませんでした。ガチャガチャの隣にある石柱がそうです。
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《宝珠院》「三竦み石像」(ナメクジと蛇)ナメクジが下から蛇を狙っています。
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《宝珠院》「閻魔堂」にある「閻魔大王座像」…「閻魔堂」にある「閻魔大王座像」は、高さ2mもある木彫りの像です。
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《宝珠院》「閻魔堂」にある「閻魔大王座像」…「閻魔大王座像」は、港区重要文化財で、「閻魔大王座像」の脇侍は「司録」、「司命」といい、「閻魔大王」による裁判の記録、判決の言い渡しを司ります。
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《宝珠院》「閻魔堂」に向かって左側の壁面にある「閻魔耳」の説明板…心当たりがあればこの機会に、閻魔様に打ち明けてお許しを乞いましょう。この「閻魔様」は、「江戸東京四十四閻魔」の第二番で、江戸時代には、「芝の閻魔さま」と呼ばれていました。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「閻魔堂」に向かって左側の壁面にある「閻魔耳」です。分かりにくいので、見逃さないようにしてください。
宝珠院 寺・神社・教会
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《宝珠院》「閻魔堂」に向かって左側の壁面にある「閻魔耳」…「閻魔耳」は、悪い行いを「閻魔様」に懺悔できるそうです。
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《芝公園19号地》「宝珠院」の次は、まず、「芝公園19号地」にある「もみじの滝」むかいます。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「宝珠院」から「もみじの滝」までは徒歩3分190mほどです。「宝珠院」を出ると斜め右に「東京タワー下」の交差点があります。交差点を左折し、そのまま50mほど直進すると「芝公園19号地」になり、「もみじの滝」はこの中にあります。「もみじ谷公衆トイレ」の右脇の道を道なりに、50mほど直進すると「もみじの滝」があります。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷公衆トイレ」の右脇の道を道なりに、50mほど直進すると、広場がありその前に「もみじの滝」があります。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷」は、「芝公園」の一角である「芝公園19号地」に設けられた人工の渓谷です。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…傾斜のある地形を生かして、緑豊かな樹林、自然石の岩場、渓流などが配されていますが、なかでも見どころは高さ10mの「もみじの滝」です。2段に流れ落ち、渓流へと注いでいます。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷」は紅葉スポットとしても知られており、イロハモミジやオオモミジなど9種類、約200本のモミジが秋になると鮮やかに色づき、12月に見ごろを迎えます。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじの滝」の歴史につて紐解いてみると、「もみじの滝」がつくられたのは明治39年(1906年)で、設計を手がけたのは、明治から大正にかけて活躍した造園家の「長岡安平」です。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…何故、「長岡安平」が「もみじ谷」に「もみじの滝」を造ったかというと、その理由は、かつてこのあたりには天然の滝があったからだそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷」には、それに加え、奥深い山の雰囲気が残っていたからだとされています。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷」では、平成29年(2017年)12月から令和2年(2020年)2月まで2年以上かけて大規模な修復工事が実施されました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…この工事で、滝や崖の整備、植生の調整、歩道のアスファルト舗装などが行われ、かつての素晴らしい景観を復活させました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…自然に囲まれた渓流沿道を歩いていると、都心の喧騒をすっかり忘れさせてくれました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの滝」…「もみじ谷」を進んでいくと奥に「もみじの滝」の源泉を発見しました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの谷」にある「もみじ」の説明板…「もみじ谷」の前に広場がありその前に「もみじの滝」があります。その広場には、「もみじ谷」で見られるモミジを図解してある説明板がありました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの谷」にある「もみじ」の説明板…「もみじ谷」には、9種のモミジがあるそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「もみじの谷」にある「もみじの滝」の説明板…その歴史と経緯が詳しく書かれています。
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《芝公園19号地》「もみじの谷」にある「もみじの滝」の説明板…設計した「長岡安平」は、日本人初のランドスケープデザイナーの1人といわれる人物で、日本全国で数々の公園・庭園の設計を手がけました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「複眼的報道の塔」…「もみじ」の説明板のすぐ近くにあるのが、「複眼的報道の塔」です。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「複眼的報道の塔」…ソーラー三面電波時計付き「複眼的報道の塔」というモニュメントです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「複眼的報道の塔」…「複眼的報道の塔」は、平成16年(2004年)10月に、「社団財団法人日本専門新聞協会」によって建立されました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「複眼的報道の塔」…複眼的報道の塔」の基礎部分には、見ることはできませんが、「社団財団法人日本専門新聞協会」の歴史と伝統を次の世代に伝えるため、各加盟社発行の記念紙に記念品を添えて収納してあるそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」…「もみじの滝」の渓流のほとりから斜面を見上げるとお地蔵様の姿があり、そこには都内屈指の金運パワースポットといわれる「蛇塚」があります。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」…「蛇塚」は金運や財運、出世運にご利益があると言われています。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」の1番目のお地蔵さん…「蛇塚」の由来は、昭和40年代に新宿で「秋田」という屋号の居酒屋を営んでいた秋田県出身の「神成志保」という女性が、ある日金色に輝く蛇の夢を見たそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」の2番目のお地蔵さん…そして、夢や自宅で蛇を見るようになってから店が繁盛するようになりました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」の3番目のお地蔵さん…ある日、家のタンスの中から蛇の抜け殻が出てきたことをきっかけに、感謝の意味を込めて蛇の置物を「芝公園」に持って行ききました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」の4番目のお地蔵さん…このお地蔵さんの奥に蛇の像があります。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」…芝公園は都の管理下にあったため勝手に置物を置くことができなかったのですが、近くにある「心光院」の住職が仲介してくれて蛇の像を祀ることができました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「蛇塚」…以来、「蛇塚」は金運や財運、出世運のご利益があると評判になり、多くの人々が参拝に訪れるようになったそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「如意輪観世音」…「如意輪観世音」は、遊歩道のようになっている細い道を通り、階段を数段上がるとお堂があります。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「如意輪観世音」…「如意輪観世音」の創建年代や由緒については不詳だそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「如意輪観世音」…薄暗いお堂を覗き込むと優しい顔をした「如意輪観音」が鎮座していました。
もみじの滝 自然・景勝地
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《芝公園19号地》「如意輪観世音」…「如意輪観音」は片手を頬に当てて少し首をかしげています。これは、人々を苦しみから救いたいと思案しています。片足を立てて座り、人々をどう救おうかと思惟する姿だそうです。
もみじの滝 自然・景勝地
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《心光院》外観…「もみじの滝」の次は「心光院」です。「もみじの滝」から「心光院」までは、徒歩2分170mほどの距離です。「如意輪観世音」の近くに階段があります。それを降りるとバスの停留所があり、その反対側に「東京タワータクシー乗り場」があります。その先に「東京タワー」と「東京タワースタジオ」の間に挟まれた道があります。そこを道なりに110mほど進むと「心光院」の「山門」が右手にあります。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》外観…「心光院」は、浄土宗の寺院です。「心光院」の歴史を紐解いてみると、その歴史は古く、明徳4年(1393年)に「増上寺」を開山した「酉誉聖聰上人」によって開山されました。当時は江戸の「貝塚」(現在の千代田区麹町付近)にありましたが、慶長3年(1598年)に「増上寺」が徳川家の菩提寺となると、「心光院」も現在地である芝へ移転いたしました。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》山門右手にある「登録有形文化財」のプレート…享保3年(1743年)造られた山門(四脚門)と本堂が国の登録有形文化財となっています。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》朱色に彩られた「山門」には、見事な装飾が施されています。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》外観…「心光院」は、元禄8年(1695年)に、2代将軍「徳川秀忠」(台徳院殿)菩提のため、「増上寺」の別院、念仏道場となりました。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》本堂…そして、院内には「徳川秀忠」寵愛の白馬を供養した「布引観音堂」がありました。そして、宝暦11年(1761年)に「惇信院」(9代将軍「徳川家重」)の廟を造営するために赤羽橋付近に移転し、昭和20年(1945年)の戦災により、赤羽心光院の堂舎は空襲を受けましたが、ご本尊の頭部と表門は焼失を免れました。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》本堂…昭和25年(1950年)、区画整理事業により、現在の地に移転しました。そして、「表門」を移築し、「本堂」は昭和30年(1955年)に落成しました。
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《心光院》本堂の扁額…白と木のコントラストが印象的です。「心光院」の「本堂」は、第二次大戦の空襲で焼失し、昭和25年(1950年)に区画整理で現在地に移転後に再建されたものです。「本堂」の建築様式は、木造平屋建て、入母屋造桟瓦葺で平成29年(2017年)5月2日に国登録有形文化財(建造物)に指定されている見事な「本堂」です。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「お竹堂」…「心光院」の見どころは、「本堂」、「お竹堂」、「龍王堂」です。
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《心光院》「お竹堂」…「於竹大日如来」は、江戸時代初期の人物で、本名「竹」といい、佐久間家の奉公人でしたが、自分の食事を貧しい人に施し、自分は流しの隅の網にかかった飯粒を食べるなど、つつましく信心深い人物でした。いつしか、「お竹」は「大日如来」の化身とされるようになりました。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「お竹堂」…お竹如来像と流し板がまつられています。
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《心光院》「お竹堂」の説明板…寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたという。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「お竹堂」…「お竹」の死後、5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」は、「お竹」を称賛し、「お竹」が使ったとされる「流し板」を金襴の布に包まれた箱におさめて「心光院」に奉納しました。「お竹流し板」は、平成5年(1933年)3月23日に、港区登録有形文化財(民俗文化財)に指定されました。実は、「於竹大日如来」が安置されている「お竹堂」も「神成志保」が建立したものだそうです。
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《心光院》「龍王堂」…「龍王堂」は、「龍王堂」は昭和41年(1966年)に「神成志保」の金色に輝く蛇の夢から「心光院」へ勧請しました。そして、「お竹堂」とともに平成29年(2017年)に再建されたものです。
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《心光院》「龍王堂」…中心にいるのが龍王様で、こちらは神成志保さんの娘で人形作家、陶芸家の神成澪さん作だそうです。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「龍王堂」の説明板…「お竹堂」とともに平成29年(2017年)に再建されたものと書かれていました。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「龍王堂」の手水鉢…心地よい水のしたたる音がします。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「馬頭観音」…その他「心光院」の境内には「馬頭観音」、「水子地蔵」や「浄緑の塔」などがあります。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「馬頭観音」の説明板…「心光院」の壁沿いにある「馬頭観音」は、2代将軍「徳川秀忠」の愛馬「布引」を供養するために建てられたものです。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「馬頭観音」…「徳川秀忠」の霊廟は「増上寺」に造営されましたが、「心光院」が分院ということもあり、こちらに「馬頭観音像」が安置されたそうです。ちなみに、「馬頭観世音」のご利益には、無病息災 厄除け 動物救済 五穀豊穣 道中安全、旅行安全などがあります。「馬頭観音」は古くから、山越えなどに使われた道筋でよく見かけられ、交通と関係が深い要所に建っています。
心光院 寺・神社・教会
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《心光院》「浄緑の塔」…「浄緑の塔」は、「心光院」の江戸の記憶を伝える庭園内に設立した永代供養の納骨堂です。
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《心光院》「浄緑の塔」…納骨堂の正面には、竹澤正人作による「阿弥陀如来立像」が飾られています。
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