2024/07/25 - 2024/07/25
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gianiさん
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地方の小領主だった家康が街道一の弓取りとして飛躍したのが浜松時代です。三方ヶ原古戦場として唯一場所が特定される犀ヶ崖古戦場、
明治以降工業都市として、ホンダ/スズキ/ヤマハ/カワイといった有名企業が誕生した町を徒歩圏で探検します。
浜松市博物館/浜松市楽器博物館を訪れています。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、佐鳴湖。
佐鳴湖 自然・景勝地
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湖の近くには、1955年に発掘された縄文遺跡の蜆塚が。3,4000年前のもので、貝塚のゴミの9割がヤマトシジミだったことに由来。
蜆塚遺跡(蜆塚公園) 名所・史跡
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貝塚を囲むように集落が建ちます。
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佐鳴湖と遺跡の関係。
遺跡の一角に浜松市博物館があります。浜松市博物館 美術館・博物館
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伊場遺跡(BC5c-)
弥生時代には稲作が始まり、祭儀も行われました。伊場遺跡は、微高地に三重の濠で囲んだ集落と水田跡が見つかっています。木製で彫刻による装飾の施された鎧も見つかり、水利を巡る抗争を臭わせます。地域間交流も盛んでした。伊場遺跡公園 名所・史跡
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古墳時代を経て、統一国家に取り込まれた浜松は、遠江国敷知郡となります。伊場遺跡には郡衙(郡役所)が設置されます。律令制の下で戸籍が作成され、戸籍に基づき口分田が支給され、納税/労役が課されました。中央政府の権威が確実に行使されるように、官道が整備されます。遠江は都から東海道が伸び、敷知郡衙は東海道沿いに建設され、栗原駅家が設置されます。駅家は、都からの使者が乗る馬と宿舎を提供します。
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郡衙で使われた文房具(7?10c 出土した木簡に記された年号より)
上段:墨/筆
下段:刀子(木簡を削って再利用)/水滴(硯で墨を擦るときに使う水差し)/硯(風字硯の破片)
当時の硯は焼き物でできていて、墨と朱墨に分かれています。 -
硯(円面硯):専用の硯は、身分の高い人が使いました。
陶沈:文字を書く際に腕枕として使用、三彩が施された唐からの輸入品。かなり出色の展示です。
郡衙は、伊場遺跡群の城山遺跡とされます。 -
統一国家が誕生すると、祭りも中央と同じ日付で行われるようになります。遺跡からは、カレンダーが記された最古級の木簡が見つかっています。
写真は、野際遺跡で見つかった陶器の馬。平城京の出土品と酷似し、馬の足を折って願掛けします。東伊場遺跡で見つかった呪詛木簡は、若倭部小刀自女が病気治癒を祈ったもので、用が済むと川に流されました。 -
中世
平安時代に土地の公有制度は崩れ、敷知郡浜松郷は浜松荘となります。最初は皇室に寄進されましたが、14cには隣国三河の吉良氏が所有します。
地域としては、伊勢神宮(御厨)が多いのも特徴です。 -
今川氏
浜松荘のある遠江国守護は斯波氏と今川氏の間で争われますが、15世紀末に今川氏親が遠江国を実効支配し、後に守護になります。浜松荘は解体され、引間領に再編されます。
浜松市街は、東海道引間宿として鎌倉時代から継続して発展します。 -
徳川家康
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、徳川家康は三河岡崎城主に返り咲き、今川氏真が三河/遠江/駿河を相続します。1568年に武田信玄が駿河の今川氏真を攻撃し、今川氏は滅亡します。家康は駿河侵攻に呼応して引間城を占領、1570年には本拠地を引間に移し、浜松と改名します。
家康は1572年に上洛を目指す武田信玄の警告を無視して、三方ヶ原の戦いで敗れますが、信玄の急死で一生を得ます。秀吉の北条征伐まで、家康は浜松城を本拠地とします。 -
井伊氏
2005年に浜松市に編入された旧引佐町には、今川氏傘下の井伊氏がいました。今川氏に世継を暗殺されて、後見人として女城主となった直虎は、幼い世継を徳川家康に仕官させ、後に彦根藩主井伊直政になります。徳川四天王でも別格の家柄として、大老井伊直弼等に繋がる家系です。写真は、唯一直虎の署名の入った書状。
※江戸時代の家臣の格は、三河衆/近国衆(含井伊家)/他国洲の順に箔が付きました。 -
堀尾吉晴
1590年の家康関東移封に伴い、秀吉の重臣堀尾吉晴が入府します。秀吉は、家康の旧領に重臣を配して江戸をけん制しました。吉晴は城の石垣や瓦葺の天守閣を整備し、秀吉の世をアピールします。
※堀尾吉晴は、後に初代松江藩主になります。 -
徳川政権下
浜松時代の家康は飛躍の時期と重なるため、浜松藩主であることは特別な意味がありました。実際歴代藩主は、譜代の中の譜代が選ばれ、立身出世を果たしています。筆頭老中として天保の改革を実施した水野忠邦が最も有名です↓
https://4travel.jp/travelogue/11741887 -
商人の台頭
貨幣経済の浸透と物流革命によって、土地/米を資本とした武士の経済基盤は落ち込み、代わって商人が経済を握ります。浜松の城下町でも、藁吹屋根の武家に対して瓦屋根の商家という光景が見られました。後期は財政破綻を避けるために藩札(写真)を発行しましたが、信用の裏書は有力商人が担保することで効力を発しました。 -
水野忠邦(1794-1851)
唐津藩主でしたが、出世を考え浜松藩への転封を画策(1817)し、寺社奉行職を得て幕閣入りします。その後大阪城代/京都所司代を経て1834年に老中、1839年に老中首座になって天保の改革を推し進めます。失脚後謹慎を命じられ、水野家は山形藩へ左遷されますが、移封時に借金の踏み倒しを危惧した浜松領民が一揆をおこします(1845:遠州浜松騒動記)。 -
水野忠邦左遷後は井上正春、その後井上正直が最後の藩主となります。戊辰戦争では神職の呼びかけで浜松報国隊が結成され、有栖川宮を護衛しました。
※前年に正直は老中を辞職しています。 -
殖産興業
明治政府は殖産興業を推奨し、浜松は織物が盛んになります。20世紀に電気が開通すると動力は電力に代わり、1909年には鈴木式織機製作所が創立します。戦後はスズキ自動車となります(現社名はスズキ)。 -
楽器製作
1889年に山葉寅楠が創業し、1897年には日本楽器製作所が設立されます。1927年には河合楽器製作所が創立します。両者は、ピアノ販売で世界1位/2位です。自動車の製造ラインをヒントに大量生産が可能になりました。 -
軍都
1926年に三方ヶ原飛行場(現空自浜松基地)が運用開始され、軍都としても飛躍します。日本楽器製作所は、1921年に陸軍の依頼で木製プロペラを製造したのがきっかけで、軍需工場としても飛躍します。おかげで戦争中は27回も空襲を経験するなど、戦災の原因ともなりました。軍需工場時代の経験は、1955年分社のヤマハ発動機で活かされます。 -
1946年には本田技術研究所(本社は1953年に東京へ移転)、1953年には浜松ホトニクスが創業します。
以上が東証プライム上場企業で、いずれも浜松に本社を置いています。東海工業地域の中核として、現在に至ります。
1994年竣工のアクトシティ浜松の高さは212mで、三大都市圏では唯一の200m越えです。
※ヤマハ発動機は磐田で設立し、親会社より大きくなりました。ローランドは2020年に浜松へ移転し、現在は3大楽器メーカーが浜松に本社を置きます。
では、浜松の町を歩いてみます。 -
浜松城天守閣
これぞ城というシンボル的存在ですが、建設したのは堀尾吉晴で17世紀前半には無くなっています。
静岡国体に合わせて1958年に復元された鉄筋コンクリート造りで、大きさも当時より小ぶりです。 -
余談
1950年に浜松こども博覧会が開催された際は、ベニヤ板で天守閣が再現されました。 -
天守閣内は、展示館になっています。
地下には、井戸があります。同じく堀尾吉晴が指揮した国宝松江城天守閣でも、地下に井戸があるのは興味深い点です↓
https://4travel.jp/travelogue/11754481 -
天守曲輪
天守閣は本丸内にあるのが通常ですが、浜松城は本丸から離れた場所に別途天守曲輪(東西68m南北56m)が築かれた前様式の城です。自然の山の地形に忠実なゆえの構造です。 -
天守門
天守曲輪への入口で東側にあります。 -
天守門から下ると、本丸です。若き日の徳川家康像が目印です。
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本丸の先(東側)は二の丸です。政務を執る表御殿と、城主が生活する奥御殿がありました。中央の葵門デザインの広場から右側に相当します。大手門通り向かいの丸で囲った森が東照宮で、引馬城跡の中核です。1568年に家康は引馬城を占拠して地域支配を確立、1570年に浜松に移る際に引間城西側の浜松城を築城します。
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二の丸南側
旧市役所庁舎までが二の丸で、道路の先にある人工的台地は出丸で鳥居元忠が屋敷を構えて守っていました。現在は中央図書館と駐車場になっています。 -
鎧掛の松
三方ヶ原の戦いで命からがら帰還した家康が鎧を解いて掛けた松。現在は3代目。旧市役所と出丸跡の間の道沿いにあります。鎧を解いたということは、安全な我が家に帰ったということ。わざと城門を開けて篝火まで焚いて難を乗り越えたというエピソードは、創作みたいです。家康公鎧掛松 名所・史跡
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家康時代の浜松城
三方ヶ原台地の端っこにある平山城で、平城の引馬城とは対照的です。時代を反映して、土塁と柵を組み合わせた土の城です。石垣や屋根瓦を使った石の城は、安土桃山時代に一般的になります。三の丸の代わりに、城から孤立した出丸があります。
城の南側と西側の三方ヶ原台地は、姫街道に沿って武家屋敷群があり防備を固めています。 -
出丸を背に、鎧掛の松から二の丸方向の眺め。遠くには本丸/天守曲輪が見えます。
浜松城 名所・史跡
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三の丸
東海道と概ね秋葉街道に挟まれたエリアで外堀に面し、藩政時代に整備されました。大手門は、江戸から続く東海道が左へ折れる地点(連尺交差点)に面しました。現在は市街地になっています。家康時代は城の東側が表玄関でしたが、藩政時代には南側に代わっています。 -
大手門跡から東海道を京都方面へ下ると、旅籠町など往時を彷彿とさせる地名が残ります。
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大手門跡から東海道を東進します。
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田町交差点で北上すると、分器稲荷神社があります。徳川四天王の一人本田忠勝屋敷がありました。稲荷神社は今川氏時代の引間宿の南限に当たります。北限は椿姫観音です。
遠江分器稲荷神社 寺・神社・教会
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城下町の変遷
今川政権下では引馬城の東に、南北に通じる引馬宿がありましたが、家康は浜松城下に三河の家臣の半分を移住させて、武家町を形成します。東海道も浜松城下へ迂回させて、商人も多く住む賑やかな宿場町となります。 -
稲荷の北東、遠州病院駅横には、徳川秀忠誕生井戸があります。
徳川秀忠誕生井戸 名所・史跡
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ここは浜松城下屋敷跡で、秀忠生母の西郷局はここで出産しました。家康の浜松城時代は29-45歳の間で、いろいろな出来事があります。
大手門へ戻り、東海道と分岐する姫街道を進みます。 -
浜松秋葉神社
姫街道沿いには、1570年に家康によって勧請された秋葉神社が、浜松城の裏鬼門に鎮座します。境内には、奥平信昌の屋敷がありました。
秋葉神社には、旧武田軍から家康へ仕官した家臣団の忠誠を誓った起請文が奉納されました。三方ヶ原で家康の本陣を襲った武田の赤備えは、井伊直政が受け継ぐことになります。
※赤備え:足軽を含む部隊全員の甲冑を赤色で統一した部隊。 -
姫街道が三方ヶ原台地の淵を走行するところに、産業遺産があります。
※姫街道は、東海道の脇道で浜名湖北岸を迂回するので、今切の渡し(6km)を回避できるので、天候に関係なく通行できました。大地震が起きると新居宿付近が長期にわたって通行不能になり、姫街道へ迂回しました。中世までの本道です。 -
亀山トンネル跡
1914年に開業した浜松軽便鉄道のトンネル跡です。現在は歩道になっています。奥山線 亀山トンネル跡 名所・史跡
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翌15年には国鉄二俣線と繋がり、1923年に浜松~奥山25.7kmが全通します。
桑/茶の貨物輸送を目論んでいました。1926年には陸軍三方ヶ原飛行場も開業し、通勤路線にもなります。 -
ラッキョウ軽便と親しまれ、1947年に遠州鉄道に吸収、奥山線となりますが、モータリゼーションに逆らえず、1964年に廃止されます。
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煉瓦造りのトンネルを抜けます。
敗戦跡の遊歩道は続き、次のトンネルに入ります。 -
当時の景色
1950年には国鉄気賀口まで電化されました。
敗戦跡の遊歩道は続き、次のトンネルに入ります。 -
浜松城の南側を姫街道に沿って走りました。中部学園を越えると、
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亀山トンネルです。姫街道を潜ります。
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電化の翌年には気動車が導入され、無煙化が達成されました。
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絵になります。
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トンネルで犀ヶ崖を抜けます。
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遊歩道は続きますが、
一旦離れて犀ヶ崖古戦場を目指します。犀ケ崖古戦場 名所・史跡
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犀ヶ崖古戦場
武田軍を犀ヶ崖(全長2km深さ40m幅50m)へ突き落して、多数の死者が出た古戦場です。 -
現在は、全長116m深さ13m幅30mまで縮小していますが、十分に迫力があります。
当時は入り組んだ複雑な地形でした。市立の資料館があるので、入ってみます。 -
位置関係
浜松城から姫街道を進むと、犀ヶ崖があります。三方ヶ原台地の縁です。犀(さい)は西の端を意味する単語で、引馬宿の西の端に位置し墓場として利用され、死後の世界の入口と認識されていました。 -
鳥観図
引間宿の西方に浜松城があり、姫街道は三方ヶ原台地のなだらかな面を選んで通っています。犀ヶ崖まで来ると平野部との比高差は大きくなり、急崖となっています。 -
三方ヶ原の戦い
京都上洛をするために、武田信玄は諏訪大社から天竜川沿いに東海道へ下る進路を選択します。遠江国の家康は警戒しますが、信玄は浜名湖北部へ向かい、浜松を素通りします。血気はやる31歳の家康には馬鹿にされたと感じ、城を出て武田軍と対峙します。武田軍にコテンパンにやられた家康は、命からがら浜松城に帰ります。既に日が暮れていました。武田軍別動隊は、犀ヶ崖付近に陣を張ってけん制します。 -
秋葉街道
塩の道とも呼ばれ、諏訪大社から天竜川沿いに開けたライフライン。江戸時代の旧道は、市街では細い道になっています。今川時代の引間宿も秋葉街道沿いに発達し、浜松城移転に伴って、街道筋も移動したようです。 -
夏目吉信の顕彰碑
1563年の三河一向一揆で家康に反逆するも死を免れます。深い恩を感じた吉信は、三方ヶ原で「我こそは家康なり」と言って身代わりとなり討死しました。 -
本田忠真の碑
浜松城へ撤退する際にしんがりを務め、討死しました。四天王本田忠勝の叔父に当たります。 -
反撃
武田軍に一矢報いるために、一計を案じます。城に隣接する普済寺に火を放ち、武田陣の背後から鉄砲を撃ち込んで信長の援軍が来たと見せかけます。地理に疎く不意を突かれた武田軍は暗闇の中で混乱し、次々と崖に落ち込みます。
生涯唯一の負け戦から家康は多くを学び、一方で武田に果敢に立ち向かったことで名を挙げました。 -
伝承では、犀ヶ崖に白い布を張って、橋のように見せかけておびき寄せたとされます(布橋伝説)。周囲の地名として現在も残っています。
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遠州大念仏
闘いから2年ほど過ぎると、谷底から夜更けに人馬のうめき声が聞こえたり、イナゴの大群に農作物が襲われる等の出来事が続き、犀ヶ崖の祟りと恐れられます。家康は三河から僧侶を招いて、七日七晩太鼓や鐘を叩いて鎮めます。家康は念仏踊りを奨励し、現在まで継承されます。 -
普済寺
家康が放火して、浜松城炎上のように見せかけたお寺です。 -
家康の正妻で今川義元の娘築山殿の墓所があります。
西来院 寺・神社・教会
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宗源院
宗源院 寺・神社・教会
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三方ヶ原の戦いで戦死した忠臣の墓や、浜松藩主の墓があります。
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馬込川
かつて天竜川の本流でした。 -
馬込川を渡ると、餃子の有名店。
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ちょっとガッツリ感があって良かったです。
最後に浜松市楽器博物館を訪れます。福みつ グルメ・レストラン
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世界中の楽器が集まっています。凄い中身です。
浜松市楽器博物館 美術館・博物館
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YAMAHA/KAWAIの企業城下町なので、鍵盤楽器が特に強いです。
まずは、ピアノ登場前の鍵盤楽器を見てみます。 -
チェンバロ
見た目は小型のグランドピアノですが、キーを押すと弦を弾いて音が出るので、発音原理としては弦楽器と同じです。弓を使う弦楽器のピッチカートやギターの発音と同じ方法です。写真はブランシェ2世による1762年の作品。 -
16-18世紀が全盛期で、バロック期の王侯貴族を魅了し、宮廷音楽会やサロンといった封建的環境で演奏されました。黒鍵と白鍵が今と逆なのは、貴婦人の白い手が際立つための配慮です。
ブランシェ一族は、チェンバロのみならずピアノ製作者としても著名です。 -
貴族文化の中枢だけあって、楽器は高額です。木材も最高級、演奏に関係ない装飾も凝っています。
チェンバロのアクションは、キーを押すとシーソーのように棒が上昇し、先端の爪状の部分が弦を弾くことで音が生じます。 -
クラヴィコード
アクションは、キーを押すとシーソーのように棒が上昇し、先端の真鍮片弦を打つことで音が生じます。発音原理としては打楽器と一緒で、ピアノも同じです。音の強弱がコントロールできることと、安価で調律が安定しているので普及しました。 -
ピアノの誕生
1700年頃フィレンツェのクリストフォリが発明しました。ハンマーで弦を打つアクションで、エスケープメント機能(ハンマーが弦に接地し続けると発音が直ぐに消えてしまうので、打ったら直ぐに離れる仕組み)を持ち合わせていたのが画期的です。1711年に論文で紹介され、1725年にドイツ語訳されたことで広く広まりました。 -
カワイが復元したクリストフォリのピアノ(1720年製)
最初のピアノは、チェンバロを改造したものでした。gravicembalo col piano e forte(弱音と強音が出せる大きなチェンバロ)と命名されます。piano=弱く/forte=強くという副詞で、ピアノフォルテが短縮されてピアノになります。
余談:ヤマハはスタインウェイのピアノを完全にコピーし、同じ音色のピアノを製作する技術を持っていますが、製品化していません。ヤマハ製品が安いのは技術力の差ではないので、悪しからず。 -
音域の移り変わり
上の写真で分かる通り、最初は4オクターブ強(54鍵)でしたが、現在は88鍵(7オクターブ強)です。初期のピアノでも他楽器に比べると音域が広く、重音も可能ですが、それでも進化して7オクターブも出るオバケ楽器へ変遷します。 -
演奏環境の移り変わり
封建的な宮廷から市民革命を経てサロンへ移り、大衆化でコンサートホールへと変遷します。内輪な環境から大音量を必要とする環境へ変化することで、ピアノの音量は進化しました。 -
ピアノの系統
大きくウィーン系とイギリス系に分かれます。特徴としては、イギリス式アクションは突上げ式のために、力強く重厚な音で残響も良いことです。一方のウィーン式アクションは跳ね上げ式で、柔らかく軽い音で音の消滅が早いことです。イギリス系は産業革命により大量生産され、ウィーン系は手工業でした。ウィーン系は低/中/高音域で音色が違うなど、均一性とは遠い個性を持ちます。 -
ベートーベンのピアノソナタ全集を見ると、時代の変遷に伴って表現が拡大(音域/強弱)していくのが分かります。第8番悲愴(1798年)はワルター製の61鍵、第21番ワルトシュタイン(1804年)はエラール製の68鍵、29番ハンマークラヴィーア(1818年)はブロードウッド製の73鍵で作曲されました。上記のピアノでの演奏を聴いたことがありますが、それぞれのピアノの音色を考えて、ぴったりの曲を作ったように感じられます。
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J.A.シュタイン(1728‐92)
ウィーン系の礎を築いた人物。彼はウィーン式アクションを完成します。鍵盤に直接ハンマーを付けた至極シンプルな構造を生み出し、軽いタッチで指先の感覚で微妙なタッチを演奏に反映できるので、作曲家好みのピアノです。そのかわり運動性が犠牲になります。 -
アントン・ワルター(1751-1826)
18世紀末に最も人気を博したピアノ製作者で、次点はナネッテ・シュトライヒャー(後述)。ベートーヴェン等の作曲家が好んで使用します。フォルテピアノの復元作のモデルとなることが多い典型的なウィーン系音色を持ちます。 -
シュトライヒャー一族
シュタインのピアノ製作を引き継いだ工房(1794-1896)。J.A.シュトライヒャーの妻ナネッテは、J.A.シュタインの娘です。ヨハンとナネッテは、難聴のベートーベンのために特別なピアノを度々作成しています。手工業的性格のウィーン系の真骨頂です。 -
仕事上の関係にとどまらず、ナネッテ(1769-1833)はベートーベン(1770-1827)の年金を管理するなど、生涯に渉る親交がありました。
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コンラート・グラーフ(1782-1851)
ベートーベン/シューマン夫妻等様々な作曲家と交友を持ちます。1825年頃に大量生産を実現し、中産階級にも手が届く商品になります。3つの工場を持ち、製造を8つの部門に細分化しました。シュタイン工房に事業を売却します。 -
下方打弦式アクション
1823年にナネッテの息子J.B.シュトライヒャーが考案。跳ね上げ/突上げ式とは異なり、上から下方向へハンマーを叩いて打弦を安定させます。
第二響板
ピアノに蓋を被せるようにセットして、独特の音の響きを出します。19世紀前半に好まれました。音量が大きく犠牲になります。
これらは作曲家の音質/音色至上主義を反映し、音量が犠牲になるウィーン系の典型で、次に紹介するイギリス系に駆逐されていきます。 -
ジョン・ブロードウッド(1732-1812)
イギリス式アクションの開発に関わったとされます。物理学や音響学の学者の意見を取り入れ、18世紀末に音質が均一でダイナミックな音質を兼ね備えたピアノづくりを実現します。
それまで手や膝で操作していたペダルを改良し、足元で操作するようにしました。息子のジェームズが工房を継いだ際に、Broadwood& Sonsに改められ現在に至ります。 -
写真は、ワルター製の膝ペダル。足で操作するのとは違って、使いづらいです。楽章全体に効果を出すように作曲する等、融通は効き辛いです。
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イギリス式アクション
鍵盤とは別に取り付けられたハンマーが、突上げて弦を打つ構造。鍵盤を押した力を機械構造で増幅するのでかなり大きなハンマーを設置でき、重厚かつ大音量になります。。鍵盤を押し続けるのに要する力はウィーン系の4倍程度で(現在のピアノと同じ)、1770年代に確立されます。 -
セバスチャン・エラール(1752-1831)
数々の発明をした中で、ダブルエスケープメントアクションは画期的でした。
エラール社は1959年にガヴォーに吸収されます。 -
ダブルエスケープメント
1821年にエラール社が特許を取得。鍵盤を完全に戻さなくても再度打弦できる装置。連打(同じ鍵を立て続けに叩く)の精度が高まり、超絶技巧を用いた楽曲の演奏が可能になりました(毎秒15回まで可能)。リストがデビューできたのも、エラール社のピアノあってのことでした。 -
プレイエル
パリで1807年にプレイエル商会を設立、ショパンが愛用します。イギリス系でありながら音色重視で、繊細な音楽表現を追求します。1961年にガヴォー・エラールに吸収。現在は生産終了。プレイエル/エラール/ガヴォーはフランスの三大ピアノメーカーで中道路線を歩みますが、現在は生産終了しています。 -
ジャン・アンリ・パープ(1789-1875)
プレイエルの工場長を務めて1817年に独立、フェルトで巻いたハンマー(1826)や硬化鋼の弦(1828年 cf.ピアノ線)/交差弦を初めて用います。弟子にはC.ヘビシュタインがいます。 -
ハンマー素材/大きさ
より良い音を求めて羊皮紙/革/木などが使用されましたが、1826年にフェルトが用いられ、現在に至ります。耐久性/コストの面でも優れています。写真は上より、革/フェルトの表面に革を巻いたもの/フェルトと変遷しています。
音量/音域の増加に伴って、強い張力で張られた太い弦を叩くためにハンマーも大きくタフなものに変化しています。 -
モダンピアノ
20世紀に規格化されたピアノをモダンピアノ、それ以前のものをフォルテピアノと区別します。88鍵/金属フレーム/交差方式の弦/ダブルエスケープメントアクションなどです。 -
弦の違い
張力:760㎏→20t
素材:真鍮→鋼鉄(ピアノ線)
方法:平行→交差(省スペース化) -
スタインウェイ&サンズ
ドイツからアメリカへ移住したヘンリー・スタインウェイ(1797-1871)が1836年に創業、1850年にアメリカ移住し、1853年にSteinway &Sonsを設立(ドイツに残った長男とアメリカの弟たち)。ドイツのハンブルク工場/ニューヨークのクイーンズ工場より成るも、個性が強いので生産工場も明記します。写真は1911年製のスタインウェイ(ハンブルク)。1884年発売のD-274は、現在コンサートグランドピアノの9割を席巻します。 -
ベーゼンドルファー
ウィーン系の雄ブロートマンの事業を引き継いだイグナーツ・ベーゼンドルファー(1796-1859)が1828年に設立。演奏中にピアノが壊れることが日常だったリストの演奏に耐えたことで、名声を博します。ウィーン系のスピリッツを継承し、2008年よりヤマハの子会社になっています。
スタインウェイ(ニューヨーク)/ベーゼンドルファー(ウィーン)/ベヒシュタイン(ベルリン)が三大ピアノメーカーとされます。以上が、グランドピアノです。 -
スクエアピアノ
18世紀中ごろに誕生し、小型/軽量/安価の3拍子で中流階級に普及します。J.C.バッハ/クレメンティといった作曲家に愛されます。ピアノの音域拡大/音量増大に伴い、アップライトピアノに代わっていきます。写真は、ウィーン系の開拓者J.ツンペによる1770年製のもの。 -
アップライトピアノ
響板と弦を縦にすることで、省スペース/低価格を実現。市民(中流)階級へのピアノ普及に貢献します。日本の家庭にあるピアノと言えば、これです。写真はエラール社のもので、19世紀は高級家具のように重宝されていたことが分かります。燭台が付いているのも時代を感じます。 -
自動ピアノ
コンプレッサーで空気を吸い込み、記録用ロール紙の穴から空気が入ると該当する鍵が押し下げられて、音が出ます。1920年代アメリカのホテルのロビーや豪邸で活躍しましたが、ラジオやレコードの普及に伴い、1930年代には姿を消します。 -
おまけ
お経を唱える際に使用される木魚も楽器の仲間みたいです。和楽器も、充実しています。
次はスズキ博物館を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11917061
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