2022/05/21 - 2022/05/21
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gianiさん
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1611年に竣工した松江城天守閣。
明治期の廃城令では市民のカンパによるナショナルトラストで解体の危機を免れ、12城しかない現存天守という狭き門を潜ります。
2015年には重文八城から、国宝四城へシフトしました。
現在の国宝五城の中でも、一番魅力的な天守だと個人的には思います。
城とセットで建設された計画都市松江の魅力と足跡を辿ります。
同じ島根でも、枯れた石見と違い、出雲には華があります(隠岐は未踏破)。
- 旅行の満足度
- 5.0
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松江城の入口に立つ堀尾吉晴。
松江の町と城をゼロから建設しました。堀尾吉晴公の像 名所・史跡
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松江城天守閣(国宝)
封建時代に建てられた現存12天守閣の一つで、
平成27年(2015年)に国宝に昇格した天守閣です。
見た目地味ですが、実は3番目の高さと2番目の広さを誇ります。
では、附櫓から潜入します!
横に突き出たこの建物が、天守の防衛力を格段にアップさせています。松江城 名所・史跡
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外見4層、内部は地上5階地下1階の構造。
地下で支える木枠は、がっしりとしています。
上に見えるお札(2012年発見 複製)は、国宝指定の決め手の一つになりました。
お札には慶長16年(1611年)と書かれ、柱とお札の釘穴の形が一致したことから、原始の姿をとどめた価値ある建築だと証明されました。 -
拡大
土台は石です。 -
地下には井戸も。
標高29mの亀田山の上に立ちますが、水源も確保しています。 -
鯱(しゃち)
現存する天守閣用のしゃちほことしては、最大のもの。
反った体勢でも、全高208cmの巨漢。
昭和25年の解体修理で現役引退。現在は天守地下に潜伏して、見学者の目を癒しています。 -
桐材でできた階段を上ります。防火防腐に優れた建築資材です。
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階段を上がって、1階へ到着しました。
開口部は水平の引き戸をスライドさせて開け閉めできました。 -
天守最大柱
天守閣は308本の柱で支えられていますが、東西に1本ずつの最大柱は天守最大のもので、地階と1階を貫いています。少し上の地階の写真の部分から貫いています。地下の部分に、例のお札が貼ってあることからも最大柱の重要性が分かります。 -
天守の屋根を飾った鬼瓦
実際は吉祥文様や家紋をモチーフにするのが一般ですが、
松江城は鬼をモチーフにしています。 -
昭和25年の解体修理で世代交代した1階の柱。
堀尾家の家紋と「富」の字が刻まれているのが分かりますか?
松江城築城当時の建材で、かつ富田城から流用したことがわかります。 -
1階の様子。
続いて、2階へ上がります。 -
石落とし
石垣をよじ登る敵を倒すために、ここから石などを落とします。
石垣にへばり付く敵を駆除できます。2階にしかない防衛施設です。 -
松平直政
1633年の堀尾氏断絶、京極氏による4年間のリリーフ後、
1638年から幕末まで治めた松平家初代藩主。
大坂冬の陣で弱冠14歳でデビューし、真田丸へ勇猛果敢に斬り込む。真田幸村があっぱれと軍扇を投げ与えた武勇伝が残る。上記の有名なシーンをモチーフにした像。 -
通し柱
国宝指定の決め手になったもうひとつの要素。
天守全体を貫く心柱を中心に支える従来の構造ではなく、
わずか2階分だけ支える96本の柱を、各階に相互かつ均一に配置した「互入り式」と、
上層の荷重を下層の柱が直接受けず梁を通して横方向にずらしながら伝える工法が独創かつ画期的です。
江戸時代が始まって、全国で築城ラッシュになり、巨木が不足したことが背景にあります。 -
写真は、2階と3階の境界線。
通し柱は床や天井に邪魔されて「通し」の姿が分からないが、
ここは唯一、上下階を貫いている様子を目視できるスポット。 -
狭間
敵を攻撃するための穴。矢狭間と鉄砲狭間があり、各階にあります。
天守閣というと、お殿様の住居スペースというイメージですが、現実は最期に立て籠もる軍事施設でした。上下移動が不便な天守閣ではなく、御殿で生活しました。 -
後藤又兵衛所用の甲冑。
なぜに松江に?と感じるが、動乱期に為政者が変遷した事情から、松江藩の家臣団の出身地が多彩だったことの物証。 -
4階へ上がる階段には、再び引き戸が登場。
ここから上は、お殿様のプライベート空間です。という意味があります。 -
最上階(5階)。
望楼と呼ばれ、城主が息抜きに訪れました。
見栄えも重視したインテリアで、栗材を多用しています。
望楼を訪れることは「登城する」と表現するそうです。 -
南側の眺望。
真下は本丸で、その先は二の丸上、その先は市街と宍道湖。 -
本丸から二の丸上へ下ります。
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二の丸上には、城主の御殿等がありました。
廃城後は、明治36年に興雲閣が建設されました。興雲閣 美術館・博物館
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2階は、大広間一部屋だけです。
木造建築なのに、柱が一本もありません。
松江市の産業見本市会場として建設されました。 -
明治天皇が宿泊する前提だったので、内装も凝っています。
迎賓館としても用いられました。 -
二の丸下へ来ました。お城のほとんどの部分を占め、公園として一般開放されています。
松江城山公園 花見
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馬溜
大手門の入口に面した一辺46mの正方形スペース。
広いスペースは、人や馬を終結させるのに最適。というか、
有事は上から敵を狙い撃ちできるパニック地点です。 -
本丸と二の丸は内堀に囲まれています。
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南側の三の丸は内堀で切り離されています。
現在は、島根県庁、県立博物館、警察本部等の官公庁が建ちます。県庁横には、松平直政の初陣姿が。松平直政公 騎馬像 名所・史跡
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お城の東向い、家老屋敷跡に建つ博物館。
松江のなりたちと松江藩の歴史を学べます。松江歴史館 美術館・博物館
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ロケーション
松江は、西の宍道湖と東の中海を結ぶ大橋川沿いに建設されました。
戦国時代は、大橋川南岸の白潟集落が港町として栄え、その名は中国にも知られました。現在天満宮があります。
地名に含まれる「潟」からわかるように、湿地帯でした。
尼子氏や毛利氏は、富田城を出雲統治の拠点としていました。白潟天満宮 寺・神社・教会
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堀尾吉晴
堀尾忠氏は、関ヶ原の恩賞として出雲国を賜り富田入城。藩庁として松江開発を決意するも着工前に死亡。計画には反対していた父親の吉晴が遺志を継ぎます。
※元々は織田家の家臣でしたが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉秀吉)付になり、秀吉死後は真っ先に家康に接近しました。 -
1620年の地図
上の開発前の光景と比較すると、中央の亀田山に築城かつ堀を整備した土で、城の左右を干拓しています。
大橋川には橋が架かり、中州も商人町として城下町に組み込まれます。現在は中洲の埋立が進み。中州南側の水路は白潟天満宮に因んで天神川と呼ばれています。 -
松江大橋がかかっています。
手前が宍道湖、左端にお城がちらっと見えます。
20世紀に入るまで300年以上も、大橋川に架かる唯一の橋でした。 -
現在の松江大橋。
地元では、シンプルに大橋と呼ばれます。
川の名前の由来となったスポットです。松江大橋 名所・史跡
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橋の南西詰には、供養塔が。
架橋工事が上手くいかず、人柱を立てることに。
働き者の源助は、妻の出したお茶に手を付けずに仕事へ出掛けたのが災いして、当たりくじを引きました。素直に一服してから家を出ればタイミングがずれて、、、というタラレバ話です。
堀尾吉晴の都市計画には、人柱の話が多いです。城の鬼門に面した石垣が上手く積めないので、城下の盆踊り大会で一番踊りが上手くて美しい娘を捕まえて人柱にしたら、城下で盆踊り大会が開催されるたびに天守閣が振動するので城下では盆踊りをしなくなったという話も。こちらの人柱は、史実か疑わしいのですが。源助供養碑 名所・史跡
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渡海場
大橋川で隔てられた南北の町を結ぶ大橋付近は「渡海場」と呼ばれ、東西の宍道湖・中海を結ぶ大橋川と相まって、物流の十字路でした。渡海場に属さない船はここで一度荷下ろしすることが義務付けられ、その結果物流拠点として大いに繁栄しました。
ここは水運の便が悪いと、築城の名手堀尾吉晴は息子の計画を反対したのですが、、、弘法も筆の誤りでした。 -
治水
松江の町は湿地帯を埋め立てたので、宍道湖の水をいかにスムーズに日本海へ流すかが課題でした。宍道湖の水の出口はただ一つ、埋立で狭められた大橋川を経由して中海へ流れ、境港の地峡を抜けて日本海に達する(途中に2つのボトルネック)ので、大雨が降ると湖水が滞留して町が浸水するリスクと戦っていました。
そこで、清原太兵衛は1785-87年にかけて延べ7万人を動員して佐陀川を開削し、宍道湖の水を直接日本海へ排水する水路を建設しました。 -
領主の変遷
1633年に尾張出身の堀尾家断絶、島原の乱の起きた1637年に近江出身の京極家断絶、越前・信濃の松平家が異動して明治まで233年間統治します。幸い、いずれも加増栄転だったために家臣が不足し、遺臣は新しい領主に再雇用されました。結果的に、多彩な出身地が家臣団の特徴になります。 -
松平直政
父は結城秀康、祖父は徳川家康。2000両の軍資金を借金して、14歳で大坂冬の陣に臨む。真田幸村の前で武勇を示し、彼から賜った軍扇(写真 複製)は家宝になる。祖父へのアピールは功を奏し、越前大野・信州松本の藩主を経て、1638年に松江藩主。遂に国持ち大名になり、松江から中国地方の外様大名に睨みを効かせました。 -
18世紀の藩政改革
全国で天災に伴う飢饉や、武士の通貨であるコメの価格下落を経験し、各藩受難の時代。延享の改革で藩士の給料半額カットから始まり、中興の祖とされる第7代治郷の「御立派(おたては)改革」(明和の改革)を経て、約80年で49万両の借金(藩予算4年分の規模の額)を完済しました。 -
木実方(このみかた)
1749年に設立された和蝋製造にかかわる役所。櫨(はぜのき)の果実から採れる和蝋は和蝋燭の原料となり、出雲産は高品質で粘り気もある高級品だった。藩は植樹70万本を目標に、蝋を藩専売とした。 -
釜甑方(ふそうかた)
1756年に設置された鋳物鋳造に関わる行政機関。大古から出雲の製鉄は有名でしたが、原料の鉄を輸出して付加価値の高い鉄製品を輸入する有様でした。
そこで藩は鋳造技術を学び、鋳物製造を普及させました。この技術は幕末には最先端(反射炉・大砲製造)を行くまで進化し、佐幕派の軍備近代化、長州征伐に貢献しました。 -
人参方
1809年に設立。幕府から御種(おたね)人参栽培製造のノウハウを教わり、藩内で栽培開始。
1818年には国内のみならず、長崎経由で清国に輸出するまでになった。
※いわゆる高麗人参のことで、日頃食べている「ニンジン」とは全くの別物。 -
木綿
貴重品は藩が生産販売を独占したが、生活必需品の木綿は生産流通を、その道に長けた民間に委ねた。取引の場としての木綿市のみ藩が関与することで、全国に輸出する雲州木綿のブランド(品質・信用)を管理した。平田を中心に、染め・織りといった付加価値が磨かれた。 -
藩札
藩が発行した領内限定で通用する紙幣。貴金属製の貨幣は、それ自体が価値を保障したが、藩札は、それ自体はただの紙切れ(日本銀行券と同じ)。
本来は貨幣不足を補って流通を円滑にさせるツールだったが、藩の財政赤字を補填するために発行するのがトレンドとなった。実際は、借金の垂れ流しなので、明和の改革で藩札の発行は禁止された。返済能力のない藩が紙幣を印刷しても領民は誰も受け取らないので、写真の藩札も、豪商新屋伝兵衛が札元(保証人)になることで、辛うじて信用創造している。 -
北前船
1671年に庄内酒田から下関を経由して大坂へ通じる西回り航路が整備され、寄港地は交易で大いに繁栄しました。松江藩は日本海に面した美保関と宇龍、佐陀川の出口の加賀湊が大いに繁栄しました。松江は、佐陀川運河を通して北前船と至近距離で接続する水運都市でした。 -
おまけ
筋違橋
外堀に架かる橋。道路がクランク状になっているので、敵は一気に橋を渡ることができず、右折左折を繰り返すうちに敵にやられるor侵攻が大いに遅れるという構造。 -
四十間堀川
お城の西側に外堀が残っています。40間=約70m
https://4travel.jp/travelogue/11756237
続編↑
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