2022/03/27 - 2022/03/28
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
佐賀県第二の都市唐津。
博多天神から1時間の移動で到着します。
有史以来、大陸との交流の最前線だった玄界灘沿岸。
朝鮮出兵の拠点となった名護屋城、
高度に洗練された組織的捕鯨で繁栄を極めた呼子(よぶこ)、
要所として代々譜代が統治した藩庁唐津。
移動は、唐津から各地を結ぶ昭和バスで完結します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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唐津の町のシンボル唐津城
標高43mの本丸に5層の天守閣。鉄筋コンクリート造りの天守閣が建っています。昭和41年に鉄筋コンクリート造で再建。
内部は博物館になっています。唐津城 名所・史跡
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本丸からの眺め
日本三大松原の一つ虹の松原が広がります。
寺沢広高が植林しました。 -
反対側、二の丸側の眺め。
こちらも松原が広がります。
天守を中心に左右に松原が扇状に広がる姿は鶴が翼を広げる様子に例えられ、舞鶴城と呼ばれています。 -
寺沢氏
1595年に豊臣秀吉の家臣寺沢広高が唐津に封ぜられる。関ヶ原では東軍に与し、1608年に唐津城を完成させる。皮肉にも、関ヶ原の恩賞として加増された肥後国天草郡4万3千石の領地が後に禍となる。
息子堅高の治世に島原天草の乱が起き、天草領を没収される。間接的に乱の責任を問われて、江戸城出仕を許されなかったために1647年に自害。家系は断絶し、改易。 -
大久保氏(1649-78年)
唐津は約1年の天領を経て、1649年に譜代の大久保氏が入府します。
1674年には転村庄屋制度(庄屋が転勤する制度)を導入し、幕末まで継承されます。
大久保氏は下野国で宇都宮姓を名乗っていましたが、新田義貞に与して三河へ移動しています。小田原→明石→唐津→佐倉→小田原と転封を繰り返します。 -
松平(大給)氏
1678-91年のショートリリーフ。
徳川家康の血をひいた親藩。 -
土井氏(1691-1762年)
譜代で、佐倉→古河→鳥羽→唐津→古河と転封。
学問を奨励し、藩校だけでなく、村毎の私塾も30を数えた。 -
水野氏(1762-1817年)
唐津出身で一番の有名人水野忠邦は、
政界(江戸)に遠い唐津に見切りをつけ、減封を条件に浜松移転を決意。
老中首座に就任し、天保の改革に着手。
※水野忠政の娘(於大)と松平広忠の間に生まれた子供が、後の徳川家康。 -
小笠原氏(1817-71年)
譜代。廃藩置県まで統治。戊辰戦争では、幕府側に付く。
寺沢氏断絶以降、唐津藩は親藩・譜代で固められ、いずれの家系も老中を輩出します。 -
唐津城および城下町の図(名護屋城博物館より)。
町全体が堀で守られていますね。 -
もう一度、本丸からの眺め。
一級河川にも指定されている松浦川の河口部を流路変更して、
水城的防衛を施しています。 -
二の丸の中央を貫く堀。右側は城主の御殿および政庁、左側が重臣の邸宅です。
右側は、現在早稲田系列の学校が建ちます。唐津城 - 二の門堀 名所・史跡
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肥後堀
正面が市役所庁舎。
築城の際は西国大名が助力し、肥後・佐賀・柳河・薩摩の名前の付いた堀があります。肥後堀 名所・史跡
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唐津一帯にチェーンするスーパーの本店。
城の別称である舞鶴は、今もお馴染みです。 -
続いては、
近現代の唐津および佐賀県北部を牽引した旧唐津銀行の本店を訪れます。
明治45年築。
当時の地銀本店の中でも、圧倒的な豪華さです。旧唐津銀行 名所・史跡
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唐津出身で、東京駅赤レンガ駅舎で有名な辰野金吾の設計事務所へ依頼。
愛弟子の田中実が設計しました。 -
平成9年まで、佐賀銀行唐津支店として実際に営業していました。
寄贈された唐津市が15年かけてメンテナンスし、開放されています。 -
窓口部分は2階まで吹き抜けになっています。
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往時の対面窓口。
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明治維新後の佐賀県北半分を牽引したのは、唐津炭田でした。
炭田と時を同じくして1885年に唐津銀行が設立。北部の銀行を吸収して佐賀中央銀行に改称。県下最大の銀行として地域経済を牽引しますが、採炭量の減少に伴う地域経済の斜陽化に直面し、1955年に南部の佐賀興業銀行と合併し、佐賀銀行が誕生します。
※市内には、肥前の炭鉱王と呼ばれた高取伊好宅も公開されています。 -
一方の佐賀興業銀行は、1882年に当時の経済を牽引した陶磁器の伊万里で設立。有田銀行等を吸収します。1955年に佐賀中央銀行を合併して現在に至ります。
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カウンター向かいの行員が仕事するスペース。
この建物が竣工した当時の唐津は炭坑も順調で、県下最大の貿易港を抱える稼ぎ頭。潤沢な資金の元で辰野に発注しました。 -
銀行の要である金庫。
今でもお馴染みのクマヒラ製です。 -
金庫の扉は頑丈で分厚いです。
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2階は応接室や役員会議室等があります。
豪華絢爛。 -
建築家辰野金吾の足跡が辿れる展示が。
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シャンデリアにズーム
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電燈のスイッチ。
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唐津市街最後の画像は、城の防衛の要である松浦川河口部。
スケールの大きさを体感してください。 -
翌日は、唐津市に編入された旧呼子町へ。
レトロな漁師町です。福岡から終始、昭和バスでの移動です。 -
周囲の離島への航路が一手に集まります。
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ひなびた漁村の光景が広がりますが、
捕鯨基地として唐津藩で一番の稼ぎ頭であり、昭和初期まで大いに繁栄しました。 -
鯨組とは、高度なチームワークを駆使して鯨を取る組織のことで、紀州熊野で16世紀に確立。銛突きや網取りといった技術も編み出されました。1594年に後の初代藩主となる寺沢広高が、熊野から漁夫を招へいして、銛突き漁法を伝えます。
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本場紀州でノウハウを学んできた中尾甚六は、1711年に呼子で鯨組を組織。紀州で学んだ最先端技術[網取り漁法]を用いて、大型のザトウクジラも捕獲するようになる。
以後、中尾家の当主は代々甚六を襲名する。3代目で隆盛を極め、「鯨一頭捕れば、七つの浦が賑わう」、「中尾様には到底及ばないが、せめて殿様くらいにはなりたい」という俗諺が残されています。 -
現在の屋敷は、1783年築。
内部は捕鯨に関する博物館となっており、非常に充実した内容。
鯨のあご骨や雄の性器の展示は、規格外の大きさに圧倒されます。
内部は撮影禁止です。 -
捕鯨基地および水揚げされた鯨の解体作業は沖合の小川島で行われ、
本土の中尾家屋敷に運び込まれました。 -
明治以降は、火薬で大型の銛を発射する西洋式捕鯨法が導入され、漁獲高が飛躍的に向上します。明治中期の山下家は、今の朝市の会場すべての土地を占有し、新屋敷を建てていました。しかし、ニッスイなどの大資本による遠洋捕鯨に圧倒され、玄界灘で細々と行われます。
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通り沿いには、谷口家など情緒ある商家が何軒か残っています。
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西へ移動します。
お店の駐車場に、堂々と耕作用機械が駐車。
長閑です。 -
呼子の隣りの浦は、イカの活け造りのお店が並ぶエリア。
元祖のお店で体験。
甘いです。刺身を食べ終えると皿を下げます。お魚処 玄海 グルメ・レストラン
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刺身で食べられない部分は、調理法を選択できます。
迷わずに天ぷらを選択。絶品です。
しかも、デザートは加部島産の希少品「甘夏かあちゃん」(ゼリー)まで付きました。 -
加部島へは、呼子大橋で繋がっています。
麓の弁財天まで遊歩道が続きます。
加部島の沖には、捕鯨基地だった小川島が浮かびます。 -
名護屋浦に架かる名護屋大橋を渡って、名護屋城を目指します。
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名護屋城は、秀吉の朝鮮出兵の国内最前線として築城。
お城の周囲には諸大名が102もの陣を敷きました。
名護屋大橋を渡ると、すぐ右に初代唐津藩主になった寺沢広高の陣跡があります。 -
沿道には、イカ一夜干し手製の製造機が林立。見ていて楽しいです。
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名護屋城址
旧内務省が国の史跡に指定しました。名護屋城跡 名所・史跡
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堅牢な城で、歩くと疲れます。
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本丸跡。立派な天守閣が建っていました。
名護屋城本丸跡 名所・史跡
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城址の広大な敷地には、県立博物館もあります。
朝鮮出兵を含めた、朝鮮半島を経由した大陸との交流の歴史を扱います。佐賀県立名護屋城博物館 美術館・博物館
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朝鮮半島との交流は、有史以来(=旧石器時代)続いています。
大陸の先端技術や文化を絶えず取り入れてきました。
例えば、弥生時代には青銅、鉄、稲作が伝来しました。 -
倭の国を統一したヤマト政権が樹立した古墳時代には、馬も伝来します。
写真は、古墳から発掘された馬冑。馬と戦争は切っても切れない縁です。 -
古墳時代
大陸との交友は、外交関係にも及んでいた。
朝鮮半島では、高句麗と百済・加耶の三国が割拠し、新興の新羅も登場。ヤマト政権は、百済・加耶との関係を深めた。ヤマトは高句麗と対立していたために、中国の南朝とも外交関係を結んだ。中国の歴史書には、倭国(ヤマト政権)の五代の王(讃・珍・済・興・武)が5世紀初頭~末まで、宋などの諸帝国に遣使入貢し官職を授与されたことが記されている。
※倭の五王がどの天皇に該当するかは、定まっていない。 -
元寇(1274・1291)
蒙古襲来は突然に、、、というわけではなかった。
蒙古は、まず陸続きの朝鮮半島に侵攻する(1231年)。高麗王朝は江華島へ遷都する等して抵抗を続けるが、1270年に降伏。翌年には三別抄が南部の珍島で蜂起し、日本にも支援を求めたが、1273年に済州島で滅亡する。
朝廷や幕府は三別抄の訴えの真意を理解できず、1274年の文永の役まで何の対応もしなかった。写真右上の「高麗牒状不審条々(1271)」は、朝廷が審議した際に、不審に感じた点を書き並べた文書。 -
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
秀吉は九州を平定した1587年に、宗氏を外交使節として朝鮮に派遣している。宗氏は対馬の領主で、その当時朝鮮との関係を独占していた。時には偽使を送ってまでして、関係を保とうとする。一方の国内では、毎年1万石の米を朝鮮から貢がれていると嘯き、秀吉を含め人々は朝鮮は対馬の属国であると認識(誤解)していた。宗氏は朝鮮側に、秀吉は友好的平和的だと嘘の説明を繰り返していた。
写真は、1590年の朝鮮通信使が持参した、朝鮮国王から太閤秀吉宛ての国書。為政以徳という国王の印影は宗氏が偽造していた印と一致するため、宗氏がすり替えた偽物だと分かる。内容も日本統一を祝うもので、秀吉を喜ばせるものに改変されている。 -
出兵に先立ち、1591年8月に名護屋城建設に着手。400m四方以上の面積のある巨大な城は、突貫工事で僅か8か月で完成させます。
そして、1592年には1年にわたる文禄の役が始まり、松浦古事記によれば20万の軍勢を朝鮮へ派兵、名護屋には10万の兵が防備に当たりました。
上陸後は破竹の勢いで、一か月も経たずに首都ソウルを制圧、平壌も制圧します。明(中国)の援軍によって硬直して休戦。交渉は日・明間で行われ、日本は釜山周辺まで撤退することで合意します。 -
現地では、虎狩りも行われました。
写真は、黒田官兵衛の家臣後藤又兵衛・菅政利によるもの。
秀吉は滋養のために虎の肉と肝を所望していました。 -
鍋島直茂宛ての豊臣秀吉朱印状(文禄4年4月2日付)
佐賀県だけに、後の佐賀藩初代藩主の史料(複製)も展示しています。
戦地にいる直茂へ、虎の皮と肉・肝が届いたことに感謝する内容。4年間の休戦期間も大勢が大陸に釘付けになりました。余談ですが、虎狩りで多くの死傷者が出たので、4月末に虎狩り中止令が出されます。 -
現場の小西行長や宗氏による偽装工作を含めた必死の交渉も功を奏さず、決裂。1597年に戦闘が再開(慶長の役)されます。今回は明も10万の兵を派遣して本腰です。秀吉の死後、家康の音頭で終了します。
写真は、1595年に明の皇帝神宗からの国書。中華思想に則って秀吉を日本国王と認めると同時に、大陸からの完全撤退を要求しています。 -
手前:安宅船(あたけぶね)。日本水軍が使用。
奥 :亀甲船。朝鮮水軍が使用。
文禄の役に際し、秀吉は諸大名に10万石に1艘の割合で安宅船を供出させた。有力大名が出征で国力を疲弊させる中、名護屋に留まった徳川家康だけが勢力を温存しました。 -
秀吉の朝鮮出兵は大きな不信感を与え、徳川政権は朝鮮との国交回復に着手するも失敗します。宗氏を通すことで、ようやく1607年に国交回復。朝鮮通信使も再開されました。
写真は、江戸時代で第10回(1748年)の通信使の様子。 -
朱子学
仏教を国教とした高麗に対し、李氏朝鮮は朱子学(儒教学問の一派)を国教とし、その影響は今の韓国社会にも色濃く反映されている。朝鮮出兵から帰還する際に、朱子学者も連行された。朱子学は君臣上下の身分秩序を重んじるため、幕府や各藩から手厚い保護を受けた。 -
活字印刷
日本に連行された人には、印刷技術者や印刷道具も含まれた。彼らは、高麗王朝の時代から金属活字による印刷文化を有していた。 -
徳川家康は朝鮮の銅活字を手本に伏見版木活字(写真)や駿河版活字を造らせたが、木版印刷ほど普及しなかった。
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おしまい。
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