2024/07/26 - 2024/07/26
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gianiさん
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三大バイクメーカーがいずれも浜松起源(播州のカワサキを含めて4大メーカー)、豊田佐吉も遠州生まれ、ということで製造業の聖地でもある浜松。前回は楽器を見学しましたが、今回はスズキ本社を訪れます。実は、織機メーカーとして創業したことを知らず、子供の頃に見慣れた機織り機を見て、心が躍りました。見学の目安は2時間みたいですが、6時間居座りました(笑)。スズキ本社を擁するゆえに1991年まで可美村として独立を守っていたのも、味があります。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは浜松駅
浜松駅 駅
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地下にも及ぶ近代的な駅ロータリー
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可愛い家康くん。
モザイカルチャー 出世大名家康くん 名所・史跡
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浜松から名古屋方向へ一駅乗って、下車。
高塚駅 駅
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本社に併設されたスズキ歴史館を見学します。
事前予約が必要で、飛び入りはNGです。スズキ歴史館 美術館・博物館
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まずは、開発製造からお勉強。
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企画/コンセプト
まず開発会議を開き、新商品の魅力やどんな人にどんな使い方をしてもらいたいかを話し合い、方向性(コンセプト)を考えていきます。 -
デザイン/成形
開発会議で決まったコンセプトをデザイナーが具体的なイメージに置き換え、画にします。乗った人がコンセプト通りの印象を持つようにします。次に実物の1/3~5程度の粘土模型(クレーモデル)を作ってデザイン案を選抜し、実物大の粘土模型を作って最終確認します。 -
デザイン/成形
開発会議で決まったコンセプトをデザイナーが具体的なイメージに置き換え、画にします。乗った人がコンセプト通りの印象を持つようにします。次に実物の1/3~5程度の粘土模型(クレーモデル)を作ってデザイン案を選抜し、実物大の粘土模型(写真)を作って最終確認します。 -
反対側は、後ろよりクレイをあらく盛り付けた状態/機械で削った状態/表面を滑らかに仕上げた状態です。
※二輪車/船外機はエンジンむき出しなので、ケミカルウッド(木のように削れる樹脂ブロック)を使用します。 -
色(colour)
製品のカラーデザインは、ボディ/インテリア/車名などに及びます。販売地域によってカラーも違うので、生活や文化に合わせます。
※colorとは違います。 -
走行実験
コンピュータシュミレーションを使った各種評価に基づいた各部品の設計が終わると、試作車でテストします。様々な計測機器を搭載し、エンジン性能/操縦安定性/ブレーキ性能等の細かなデータを収集します。
開発中のクルマは、デザインも機密なのでカバーを被せたりいろいろなパターンのシールを貼ったりしてクルマの細かな形が分からないようにします。 -
ベルジャン路:ヨーロッパに多い石畳の道を再現し、ガタガタ道などでの乗り心地や車の耐久性をテストします。
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低μ(ミュー)路:ツルツルした路面を濡らし、雪上や氷上などの滑りやすい状態を再現し、急ブレーキなどのテストを行います。
他にも、-20℃以下の環境での寒冷地テスト、何万回もドアの開閉め行う等の耐久テストも行われます。 -
衝突時に車内(朱)や歩行者を保護する(緑)ためのクラッシャブル構造や歩行者傷害軽減ボディなどがあります。
バンパーメンバー(バンパー手前の構造物)は、低速時は衝撃を受け止め、高速時は後ろへ逃すことで客室を保護します。フロントサイドメンバー(エンジンルーム横にあるメイン骨格)とユニットを為します。フロントサイドメンバーは、衝突時に適切に潰れ(エネルギーを吸収)つつも力を後方へ逃がすことで居住空間を守ります。
バンパーアブソーバー(バンパーの内側)は、衝突時にエネルギーを吸収して歩行者の脚部を守ります。アッパークロスメンバーはヘッドライトの高さに位置し、歩行者の靭帯や股関節を保護します。 -
フロントボディサイドメンバーやエアバッグなどと連動して、力を逃がしたり突起物が刺さらないように保護したりします。
衝突吸収ボンネットはエンジンルームとの間に隙間を設けることで、歩行者の頭部を保護します。ワイパー取付部もわざと壊れやすい構造にして、歩行者の頭部がぶつかったときにワイパーが大きくずれることで力を大きく逃がします。 -
シートベルトプリテンショナーは、衝撃時にシートベルトのたるみを瞬時に巻き取ります。シートベルトフォースリミッターは、過大な力が掛かったときにはシートベルトを緩めることで胸部/内臓を保護します。
車内のルーフやピラーには衝撃吸収材構造を採用し、頭部ダメージを軽減します。ドアインパクトビームは、横からの衝撃の際にドアの変形を防ぐための支柱です。 -
開発が終わると、工場で量産(生産)することになります。
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鋳造
溶かした金属を型に流し込みます。エンジンルーム等の複雑な形をした部品を製造できます。
材料は、鉄とアルミニウムです。アルミは質量が鉄の1/3で熱伝導は3倍という性質で、エンジン部分等に用いられます。 -
鋳型製造には中子(なかこ)と呼ばれる部品と同じ形をしたものをセットして、溶湯を流し込みます。中子は砂(写真)でできていて、鋳型ができると壊して取り除きます。アルミ鋳造では、低圧鋳造/重力鋳造で用いられます。
ダイカスト鋳造は、高速高圧でアルミを注入し、短時間で大量の肉薄軽量の部品を作れます。 -
鍛造
鍛冶屋のように金属を叩いて成形します。プレス機を使って強い力で叩くことで、徐々に部品の形になります。叩くことで金属内部の隙間が無くなり、より強い金属になります。歯車など強い力が掛かる部分に用いられます。 -
金属加工
鋳造/鍛造された部品は、表面を滑らかにしたり歯車の歯を付けたりと、機械加工されます。 -
ブローチ加工
ブローチ棒と呼ばれる1mほどの棒を少しずつ押し込んでいきます。棒には数センチごとに刃がついていて、根元に近づくほど太くなります。ドーナツ状の穴に歯車を付ける際などに用いられます。 -
ホブ加工
ホブというカッターが回転すると材料も回転し、少しずつ歯が作られていきます。
ピニオン加工
歯車の歯を貫通させずに途中で止めたり、穴の内側に歯を付けるときに使う加工法です。 -
樹脂成形
プラスチックは、鋳造のように溶かして型に流し込むことで成形します。ペレットと呼ばれる粒状のものを使用し、下色も付いています。成形後、塗装も行います。 -
組立
クルマを構成する部品は車種によって違うものも多く、取り付け方も違っています。部品を取り付ける生産ラインには様々な車種が流れ、主に人の手で取り付けられます。 -
スイフトの場合、組立工程の基本単位は長さ4.6mで、作業に掛けられる時間は65秒です。
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人間にうっかりミスは付きものなので、補助機能があります。
ポカヨケAは、部品の取り違えを防ぐために、必要な部品が入っている棚をランプで知らせます。
ポカヨケBは、ボルト/ナットの締め忘れが無いよう音で知らせます。 -
機械補助
タイヤを取り付ける際は専用の機械で起こしてくれるので、持ち上げて腰を痛める心配はありません。作業者はタイヤを差し込んで専用レンチをセットするだけなので、不自然な体勢で体を痛めることもありません。 -
独自技術
助手席を取り付ける際は専用リフトを用いるのが通常ですが、スズキは持ち上げずにスライドして運んで時間や電力を削減しています。もちろん作業者が持ち上げる必要はありません。 -
ドアの取り付け
作業の邪魔になるので、初期工程で取り付けられたドアは一度外されます。別のラインでパワーウィンドウや鍵などが取り付けられて、再び戻ってきます。重量も増しているので、機械の力を借りて取り付けます。
完成車は最後に検査を経て、合格するとモータープルで出荷を待ちます。 -
本社
浜松の中心地に位置しますが、1991年に浜松市に編入されるまで可美村でした。財政面で潤沢ゆえの歴史は、四方を広島市に囲まれつつも今も合併を拒む府中町(マツダ本社)と同じ理由です。従業員数1万、敷地18haで敷地の殆どを建物が占めているのが特徴。東西に長い敷地は、北が新幹線南が東海道線に挟まれています。2018年まで工場も併設されていました。 -
湖西工場(1970-)
敷地1.2平方キロメートル、従業員数4500名。浜松市に隣接。
スズキには小少軽短美という哲学があり、コンパクト/省エネ/軽量/最短/整理整頓安全清潔な環境を意味します。 -
相良工場(1992-)
敷地面積2平方キロメートル、従業員数1700名、軽以外の四輪車を製造しています。 -
磐田工場(1967-)
敷地30ha,従業員数900名。キャリー/エブリイ(軽トラ/軽ワゴン)を製造しています。 -
浜松工場
敷地18ha,従業員数400名。二輪車を製造しています。 -
大須賀工場(1970-)
敷地15ha,従業員400名。主に鋳造部品を製造しています。
他には、東京支店/横浜研究所/北海道に耐寒試験場があります。スズキは、徹底して遠州(静岡県西部市外局番053)に立地している点で、地元に根付く企業と言えます。
生産台数は、自動車340万/二輪170万台(年)です。
続いて遠州の製造業が展示されます。 -
製造業の六大偉人
生年順に、山葉寅楠(1851-1916)/豊田佐吉(1867-1930)/河合小市(1886-1955)。
紀州出身の山葉は、医療機器の修理技師として浜松に駐在中に、小学校からオルガンの修理を依頼されます。偶然の経験で、自分なら1/10の費用でオルガンを製造できる!国産化すればお国のためにもなる!と一念発起。これがヤマハのはじまりです。
豊田(とよだ)は、当時の日本を支えた織物業において画期的な自動織機を発明、実は遠州湖西市出身です。自動車部門を創設して、自動織機の特許等を売却したのは長男の喜一郎です。
河合は11歳で山葉寅楠の下で働き始め、十代にして画期的な発明をし41歳で独立。全国の小学校にピアノを普及させるべく安価なモデル昭和型をリリース。 -
生年順に、鈴木道雄(1887-1982)/高柳健次郎(1899-1990)/本田宗一郎(1906-1991)。
鈴木は織機でデビューし、豊田の汎用的な技術に対し、鈴木は特殊領域で成長します。自動車開発の夢を1954年に実現させます。
高柳は、大正時代に世界で初めてテレビ実験に成功し、当時まだ27歳でした。
本田は自動車修理工から身を起こし、二輪/四輪車製造に進出します。 -
遠州のモノづくりの系譜
綿花栽培が盛んな地域で、明所の殖産興業では綿織物業が発達。織機の発明の風土が形成されます。浜松は城下町として大工/家具/鍛冶職人等が多く存在し、大勢の熟練工が工場を支えます。
ドイツのマイスター制度に倣って、政府は1922年に浜松高等工業高校(静大工学部の前身)を開校し、高?/堀内平八郎等の優秀な技術者/発明家を輩出、光学/電子楽器/輸送機械等で貢献します。高?の弟子の堀内は、浜松ホトニクスを設立し、小柴昌俊のノーベル賞受賞にも貢献します。
1912年設立の鉄道院浜松工場(現JR東海浜松工場)は、機関車製造/修理の一大拠点で、新幹線工場の総本山です。工作/輸送/一般機械製造のノウハウを民間にリリースします。 -
航空写真
湖は佐鳴湖、下に新幹線と東海道線が走ります。線路沿いの右端に浜松駅、真ん中に広大なJR浜松工場、右下にスズキ本社。写真のほぼ中央には浜松城。右端には、天竜川の本流だった馬込川。 -
市街の北には、旧陸軍時代から続く空自浜松飛行場および基地。
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遠州の真ん中を走る天竜川。
床面には、遠州全体の航空写真が。民家1軒1軒の屋根も、くっきりと写ります。 -
上階へ移動して、スズキ社史を見学します。
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まずは鈴木道雄の出生から創業、終戦までを見ていきます。
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1887年に綿農家の次男として生まれた道雄は、14歳の時に念願の大工に弟子入りします。7年の奉公中に日露戦争が勃発し建設業は停滞、足踏織機の制作にシフトし、大工の棟梁になる夢は潰えます。
1908年に修業を終えた道雄は、伯父に借りた土地へ実家の蚕室を移築して織機制作を始めます(写真)。母へ贈った鉄木混材の織機は、村中で評判になり大勢の顧客が付きます。従業員を雇い、翌1909(M41)年10月には鈴木式織機制作所を設立します。 -
杼箱上下器(1912 T1)
格子柄を自由に織ることのできる装置で、紡績実用新案26199号として取得します。生涯に120を超える公式発明の第一歩です。翌年には力織機(人力ではなく機械の力で動かす)に参入し、職工も50名以上抱えます。
※横糸を入れる杼(ひ shuttle)は縦糸と横糸を何度も往復するので、ここから転じてシャトルバス/シャトル輸送という表現が派生しました。 -
第一次世界大戦後の不況もものとせず、1920年には鈴木式織機株式会社を設立。
1929年にはサロン織機を世に出し、輸出を伸ばします(SUZUKIロゴ使用)。4挺杼織機カード節約装置の発明で、サロン(インドネシアの民族衣装で巻き布的で格子柄)を織るのに適していました。 -
1929年にはサロン織機を世に出し、輸出を伸ばします(SUZUKIロゴ使用)。4挺杼織機カード節約装置の発明で、サロン(インドネシアの民族衣装で巻き布的で格子柄)を織るのに適していました。従来の1/3に圧縮されたプログラムで複雑な柄を織れ、大量の不良品もなくなりました。この特許は、道雄が戦後に叙勲される主要な功績となります。
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洋装の普及で幅広布のニーズが高まり、60インチ(152cm)幅に対応した自動織機も出ます。和装(着物)の反物の幅は40cm未満です。日中戦争勃発(1937年)以降は、軍需にも対応します。鉄部品の自社製造のノウハウから、電気炉も持っていました。1939年には、現本社敷地に高塚工場が竣工します。
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東海地震と空襲で設備の95%を無くす中、1945年9月に高塚工場に本社を移転。現在に至ります。AA4片側四艇杼自動織機は、鈴木式織機の集大成となります。
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織機の背後
織物の縦糸は、入念な下準備で織機へ送られます。基本となるのがクリール(creel)で、写真のものは縦糸200本分(布幅5cm相当)で、120cm幅なら4800本分が必要です。端から順にセットして糸の色を変えることで布に(単調な)模様が生まれます。 -
縦糸の準備1
工場から出荷された糸はチーズと呼ばれる写真下の状態で、織場の勝手に合わせて綛(かせ 写真上)状態に巻き上げます。それが綛上機です。 -
下準備2
綛から縦糸をクリールに装着するボビンに巻きなおします。これがボビン巻返機です。
サロン織機のヒットで、1936年にはこうした準備機の製造も行い、総合メーカーへ成長します。 -
余談
横糸は綛から管(くだ)に巻かれ、管は杼に装着します。 -
綾取機
女児の遊びの綾取りと同じ語源で、綾は線が斜めに交わる状態を表します。ボビンから延びた糸をクロスさせることで、糸の序列(反物の端からの順番)を固定し、縦糸が乱れて絡まらないようにします。 -
綾取り機を経て、M型部分整経機を通って同じ密度と張力に調整します。経は経糸(たていと)を表します。
写真手前のリーディング経通機では、綜絖(そうこう)部分で経糸を上下させて横糸が入る隙間を確保します。筬(おさ)は見かけも役割も櫛のようで、1cm幅に40本の縦糸が密集するなかで互いに絡まらないようにガイドします。
縦糸一本一本を通す経糸準備を終えて、ようやく織始めです。 -
シャガード機
模様をプログラムした紋紙で、縦糸を上下させる綜絖を自動的に制御するシステムで、複雑な模様を織れます。1801年にフランスで発明されました。 -
穿孔機(パンチングマシーン)
紋紙に穴を開ける機械です。現在はコンピュータプログラムが普及し、絶滅しています。
1961年に繊維機械部門を分離して、鈴木式織機株式会社を設立します。 -
自動車開発
1934年に史上最高の利益を上げると、道雄はインドのタタ財閥を視察し、織機が半永久的に使用できることを痛感し、新たな事業を模索します。
1930年改正の自動車取締令(道路交通法の前身)で国産自動車が外車を駆逐するのをみた1936年に、オートバイエンジンの研究を命じます。38年に試作成功、39年には自動車試作に至りますが、戦争で中断を余儀なくします。
※豊田家を追走している感じですが、織機時代も自動車時代も豊田と商圏が違ったためか、様々なアドバイスや援助を貰っています。 -
敗戦後
敗戦後は造れるものなら何でも作る状況で、オルガンやハーモニカも製造しました。本業の織機も不振で1950年の労働争議で資金繰りが悪化し、豊田自動織機からの融資で何とか持ちこたえます。道雄は四輪/長女婿の修三は二輪開発に邁進します。
スチュワーデス物語の「やるっきゃない!」の先陣を切る名文句が口から出ます。 -
パワーフリーE2号(1952)
1952年に当時の開発チームを中核にパワーフリー号(E1~3)をリリース。自転車ペダルが重たくないなど、細部への配慮が輝きます。36㏄1気筒1ps、定価25000円(大卒初任給数か月分)。エンジンは2段変速。 -
ダイヤモンドフリーDF号(1953年)
58㏄2ps、富士登山レースでの優勝や、3000km耐久テストを潜り抜け、月産6000台のヒット商品となります。時代は自転車補助エンジンを求めていました。当時は、発動機部門でした。 -
コレダCO(1954)
初のオートバイ、コレダブランドの初めです。90㏄2ps、4サイクル。国産量産車として初めてスピードメータを装着。二輪事業は、婿養子の俊三(後の2代目社長)がリードします。スズキはオーナー企業ですが、跡継ぎは代々優秀な人物を婿養子に取る江戸時代商人の知恵を反映した、典型的商人的経営です。 -
コレダCOX(1955)
道路交通法改正で誕生した第2種原付に対応。123㏄4ps。スズキの主力製品になります。 -
スズライトSS(セダン 1955年)
1954年に3名のスタッフで再開した4輪部門ですが、1954年には社名を鈴木自動車工業株式会社に改め、1955年に初の量産車スズライトをリリースします。自動車≒トラック/バスの日本社会で、しかも唯一の軽自動車規格。すべてが革命的でした。 -
スズライトSL(ライトバン 1955年)
当時、自家用車には15%の物品税(消費税導入と同時に廃止)が課税されたので、後部座席を折畳式にして貨物車(商用車)扱いにして課税を免れ、低価格で提供しました。359㏄/15ps。バイクメーカーらしく四輪車に2サイクルエンジンを搭載したり、FF駆動(前エンジン/前輪駆動)を採用したのも日本初です。ただ、初代車は商業的に成功しませんでした。 -
スズライトSD(デリバリーバン 1955年)
貨物室の割合の高い車種。不振でSS/SDは1957年に生産停止になります。 -
2代目スズライト(1959-1962)
前年に史上の名車スバル360が参戦し、背水の陣でのリリース。初代車も豆に改良を重ねた結果もあって、広い車内と加速性の良さが評価され、スバル360に及ばぬものの月産1000台をキープしたヒット車です。 -
当時の広告
原付免許で運転できたのが、軽自動車(360㏄)の魅力です。1973年9月までは車検も不要でした。 -
スズライトキャリイFB(1961)
セミキャブタイプの軽トラがついに誕生。現在まで続く車名は、スズライトから派生しました。当時はオート三輪全盛の軽トラに4輪で殴り込みをかけます。
豊川(三河)に軽自動車用の工場が建設されました。 -
スズライトフロンテ(1962-67)
スズライトの発展型後継車で出力は21psにアップし、1964年の第1回日本グランプリの軽部門ではワンツーフィニッシュを飾ります。写真は65年型のFEAⅡ(22ps)。 -
豊川工場
実は遠州以外にも工場がありました。1959年の伊勢湾台風で既存施設が甚大な損害を受け、1961年に建設され生産ラインは建設中から稼働する荒業をこなします。2018年に操業停止。 -
フロンテ360(1967-70)
スズライトフロンテが発展解消して誕生した車種。LC10は名車の部類に属します。コークボトルラインと呼ばれる形状はスポーティさを表すデザインです。優れた冷却機能等でパワーと安定性を演出し、車内は4名が快適に過ごせるスペースを実現、1968年には、イタリアでのテストで750kmの行程を平均122km/hで完走します。 -
RR(後部エンジン/後部駆動)の配置となっています。月産8000台をキープし、各社は打倒フロンテを合言葉に開発/販売に励みます。3気筒によって36馬力を実現しています。1970年の排ガス規制で生産終了。
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LC10型2サイクル3気筒エンジン
愚行として誰もが挑戦しなかった3気筒エンジンを初めて実用化させた名器です。この成功で、軽の業界は3気筒エンジンが標準となりました。同じ排気量の4気筒に比べて冷却損失やメカロスが少なく燃費が良い、2気筒に比べてトルク変動が小さい長所があります。各気筒のバランスがとりにくく振動が大きいという難所を、二輪車部門で培ったノウハウを用いて克服します。 -
フロンテ800(1965-69)
軽自動車の枠を超えた車種。洗練されたスタイルと性能も魅力ですが、ファミリア/パプリカ等4社との競合に敗れ、小型普通自動車枠への挑戦は1983年まで休止します。 -
とにかく美しいです。1965年のモーターショーでは好評だったのですが、マーケティングは難しいです。
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1969年に行われたインドでの学術調査に使用されたフロンテ360は、インド市民に大きなインパクトを与えます。殊に当時の首相(インディラ・ガンジー ネルーの娘)の長男ラジブ・ガンジーと次男のサンジャイ・ガンジーが試乗したことは、後々大きな成果を生み出します。サンジャイは国民車構想を実現すべく、1971年にマルチ社を立ち上げ、ラジブは1984年にインド首相となります。
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フロンテ71(1970-75)
スティグレイルックのボディスタイルで、空気抵抗が少なく高速走行安定性を発揮します。 -
フロンテクーペ(1971-75)
スポーツカーに近い性能を持ちます。ふたりだけのクーペというキャッチコピー通り、2シーターでデビューするも不振で1年で終了。4シーター(写真)で継続。名車です。デザインは、後継のセルボそのもの。 -
LS20(1973-79)
スズライトバン→フロンテバンの後継車。後部に貨物室があるために、RRのフロンテとは別設計。79年にアルトが後継。 -
LC20(1973-75)
LC10の後継車。4ドアにしてファミリー層を意識しています。1977年の軽自動車規格改正で、エンジンは539CCになっています。 -
フロンテ7-S(1976)
法改正の備えて、排気量を443ccに増強したもの。スズキのエンジンが排ガス規制をクリアできず、鈴木俊三社長の娘婿修氏が、豊田英二社長に頭を下げて(子会社のダイハツから)エンジンを供給してもらった過去があります。公式HPの沿革では「苦境に陥る」と表記されています。 -
初代ジムニー(1970)
鈴木修が東京支店勤務時に、町工場から製造権を買い取り、キャリイのエンジンを積んで製品化。頑丈なフレームや四輪駆動/ミッドシップエンジンなど本格的な内容で、ジープのミニという意味でジムニーと命名。大方の予想に反しヒット商品となり、後に修は4代目社長に就任します。 -
キャリーバン(1970)
スズキは1968年から電気自動車開発を始め、湯浅電池(現GSユアサ)と共同で製作した車両は、大阪万博会場で使用されます。1978年には製品を市場にリリースしています。ほかにも、1979年にはセルボの水素自動車を製作しています。
二輪車に話題を移します。 -
T20(1965)
世界一速いクウォーター車(250㏄)を目指して開発されたスーパースポーツ車。市販車初の6段ギア/CCIS(潤滑油分離供給方式)など世界戦略車です。同年のマン島レースで優勝(50㏄部門)したノウハウが、以降に生かされています。 -
T500(1968)
最高速度181km/hと加速性能の良さで、GTシリーズの前哨モデル。2サイクル=スズキを確固たるものにした名車。 -
GT750(1971)
スズキ初のナナハン(750㏄)で、通称ジーナナ。フロンテ800で培われた2ストローク並列3気筒エンジンを搭載。白バイにも使用された名車。水冷式なので、アメリカでは水牛(ウォーターバッファロー)と呼ばれる。 -
1970年前後は、ブームに沿ってモトクロスのハスラー、オフロードのバンバンなどがリリースされます。ハスラーは自動車として賦活しています。
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1965年には、船外機にも参入します。1974年には電動車いすにも参入し、二輪/四輪と併せて、スズキの4代部門となっています。
鈴木道雄の三女の婿實治郎(三代目社長)時代には、住宅部門参入や1975年にパキスタンでジムニーを生産する等の出来事がありました。2代目/3代目社長は、旧制浜松高等工業高校卒です。 -
現地生産
1968年にタイで二輪車の製造を始めています。自動車では、1976年にインドネシアで生産を開始し、現在は四輪/二輪共にアジア拠点となっています。 -
1978年に中興の祖とされる鈴木修(俊三の婿)が4代目社長になると、大躍進を迎えます。
常識を打ち破る半生が、以後も炸裂します。 -
初代アルト(1979)
フロンテの3ドアバージョンです。厚化粧の無駄と、飾りは一切捨てよ。という号令の下で、徐々に高級化していた軽自動車と決別し、定価47万円のアルトがデビュー。空前の大ヒットで、軽自動車の時代は終わったという世論を一蹴し、他社も追随します。主に主婦が利用するセカンドカーというマーケットを開拓します。 -
開発には綿密な市場調査が行われ、軽の乗車人数は一人か二人がほとんどという結果に基づき、前部座席の居住性を確保すれば十分という方針でコストを削減かつバン形式(商用車)にして物品税を回避します。中古車市場の調査では40万円台が一番売れていることが分かり、定価を45万円に設定して開発されました。全国統一価格というのも斬新でした。他の車種が70万円を超える中で、目論見は的中します。
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フロンテ(1979-84)
スズライトフロンテから数えて6代目のモデル。アルトの開発優先のために発売が1年先延ばしにされ、結果的にアルトの乗用車版という廉価路線です。エンジンは4サイクルも用意されます。 -
ジムニーは街乗りの快適性を加え、セルボではマイティボーイといったオシャレと配達時の積込積み下ろしの楽さを考えた作品など、歴史的なモデルが登場します。
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2代目アルト(1984-88)
4サイクルエンジン一本のラインナップで、騒音/振動の少ないエンジンのダブルマウントを採用。
女性使用車(女性を意識した様々なオプション)が目玉で、写真は(小林)麻美スペシャル仕様。回転ドライバーズシートは、スカート/着物着用者に便利な機能です。カローラを抜いて、ベストセラーカーとなり黄金時代を築きます。 -
初代カルタス(1983-88 写真左)
フロンテ800後のブランクを経て、スズキ初のリッターカー(1000㏄車)が誕生。2度のオイルショックで小型乗用車もエコが重視され、北米/豪州といった英語圏輸出を念頭にデビュー。国内ではシャレードやマーチと競合し「俺タチ、カルタス」と舘ひろしが宣伝しました。写真で分かるように2代目アルトやフロンテと共通する部分が多いです。 -
南アジア進出
鈴木修の「一番になる」という理念は、トヨタ/日産等がひしめく日本では後発で不可能、ならば外国で1番になれば良いということになります。1982年にパキスタンのカラチに現地法人の工場が稼働し、現在は四輪13万台/二輪3万台を年間生産しています。 -
インド進出
世界第2位の人口を擁し、いずれは中国を抜いて1位になるインドで現地生産を始めたのは、1983年です。国民車構想を実現すべくサンジャイ・ガンジーが立ち上げたマルチ社はスズキとの合弁企業となり、2002年にはスズキの子会社となります。現在5つの工場で23000人以上が働き、人数/販売台数共に国内を上回ります。伸びしろの大きいマーケットで日本車=スズキと認知されています。 -
マルチ800(1987年型)
フロンテをベースに800CCのエンジンを搭載、インド/パキスタン市場に投入。中国では、奥択(アルト)として販売。
1999年に商号をスズキ株式会社へ変更します。 -
2代目カルタス(1989-)
国内のみならず、マジャール・スズキ(ハンガリー 1993年に現地工場稼働)、インド/中国でも生産されます。ハッチバックは、スイフト(後述)に発展します。 -
3代目アルト(1990)
1990年に軽自動車規格が改正され、660㏄になっています。スライドスリムドア/回転ドライバーズシート等女性のシティユースを意識します。フロンテ(5ドア/5ナンバー)はアルトに統合されます。 -
初代ワゴンR(1993)
70%の部品を他車と共通化する合理主義の中で、常識を超えた広い居住空間/多用途性/乗降のしやすさ/運転のしやすさを実現した、言わずと知れたスズキ史上最大のヒット作が鈴木修政権下で誕生します。
ほかにもカプチーノ/Keiといった車種がデビューします。91年に売上が1兆円を超え、96年には中国での生産を開始します。 -
スイフト(2004)
2000年に戸田昌男、2003年に津田紘が6代目社長に就任します。彼らは創業家以外の出身です。
スイフトは、日本/欧州/インド/中国の4拠点で、同一品質/同一性能/同時生産するスズキの世界戦略車です。欧州の石畳で走行性能を鍛え上げた世界品質/世界仕様のコンパクトカーです。軽自動車生産の足を引っ張るほどの売れ行きになります。 -
鈴木修の娘婿(次期社長候補)死去に伴い、2007年に鈴木修が7代目社長に就任、
2013年にKeiの血を引き継ぐクロスオーバー車ハスラーを世に出して、大ヒットさせます。2015年に修の実子、俊宏が8代目社長になります。
続く二輪は、GSX世代に突入します。 -
GSX1100S”KATANA”(1981~2000)
中興の祖、鈴木修体制でデビュー。前年のモーターショーで「ケルンの衝撃」と呼ばれた世界の名車。日本刀をモチーフとしたフォルムで、スペックの高さと相まって、モデルチェンジせずに再生産を繰り返し、欧州でSUZUKIブランドを確立させます。94年に国内業界の排気量自主規制(750㏄以下)が撤廃され、逆輸入されなくなります。 -
GSX400FSインパルス(1982)
2008年まで続いたインパルスシリーズの初代。高出力低燃費を実現した、まさに衝撃的なモデル。 -
GSX1300R初代隼(1999-2007)
ホンダの名車CBR1100XXブラックバードを追い抜いて、20世紀最速車両(312km/h)になります。圧倒的性能に相反する扱いやすさも魅力の名車です。隼は、2022年にモデルチェンジした3代目に突入しています。 -
チョイノリ(2003-07)
売上2兆円達成、津田体制1年目に登場した、中国製品を下回る59800円の廉価製品。原付の移動距離は2km以下という市場調査に基づき、引き算ではなく積上方式で設計。排ガス規制強化に耐えきれず、生産停止。 -
GSF1200Pバンディット(2004)
Pはポリスの頭文字で、1200Sをベースにした白バイ仕様。車名は警察に似つかわしくない、山賊やならず者を意味するバンディットで、生産終了後はソリオの派生車名に採用されます。白バイなので、歩道橋の階段も平気で登っていきます。 -
GSX-RR
RRはレース用車両で、チームスズキエクスターが使用します。写真は2019年にイギリスGPで優勝した車両。タイヤには走行の跡が刻まれています。汎用はGSX-R1000シリーズとして、2001年から販売されています。同僚の60代主婦のお姉さまも、普通に乗りこなしています。 -
ショップでは、鈴木式織機で織った前掛けが!買おうか迷いました。
スズキの歴代社長の最終学歴は、小学校/浜松高等工業(静大工学部も含む)3名/室蘭工大/東京理科大大学院と典型的な製造畑出身で、修が中大法学部卒の通産官僚、豊田家とは対照的です。 -
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エブリイ(軽ワゴン)の西川きよしが懐かしいです。80年代半ばはフランス人女性と石畳の道路を多用し、「街はアルトで行こう」等おしゃれなイメージと歴代のアルトガールが印象的です。
比較的最近では、波留/広瀬すずさん等、給与所得層の女性をターゲットにしたタレント起用、あとフランスのエスプリを受け継ぐラパンあたりが好みです。 -
おまけ
浜松餃子の中でも、お気に入りはむつぎく。基本はこの店、もう一食機会があればほかの有名店を攻めますが、ここの餃子は優しく飽きの来ない味。かといって物足りなさはなく、満足の一皿です。
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