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謎多き伊勢神宮を訪ねるのは今回で3度目になります。最初は小学校の修学旅行でしたが、ほとんど記憶にありません。2度目は大学時代にサークル(ワンダーフォーゲル部)仲間で「夜行軍」と称したロード・ワンデリングを企画し、そのゴールが内宮でした。大学のある津市を17時に出立し、内宮まで約60kmを踏破して翌朝5時に早朝参拝した覚えがあります。<br />「お伊勢さん」や「大神宮さん」と呼ばれる伊勢神宮の正式名称は「神宮」と称します。「神宮」とは天皇や皇室の祖先神や大和平定に功績のある神を祭神とする神社の一部に使われている社号です。伊勢神宮には、皇祖神なる天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住を始め産業の守護神なる豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)を始め、月の神様である月読・月夜見宮などの14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、これら125宮社を総じて「神宮」と言います。<br />参宮記のメインテーマは内宮の謎解きですが、サブテーマは外宮同様に「石」にスポットを当てました。

青嵐薫風 伊勢紀行⑧伊勢神宮 内宮(皇大神宮)前編

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2024/04/18 - 2024/04/19

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

謎多き伊勢神宮を訪ねるのは今回で3度目になります。最初は小学校の修学旅行でしたが、ほとんど記憶にありません。2度目は大学時代にサークル(ワンダーフォーゲル部)仲間で「夜行軍」と称したロード・ワンデリングを企画し、そのゴールが内宮でした。大学のある津市を17時に出立し、内宮まで約60kmを踏破して翌朝5時に早朝参拝した覚えがあります。
「お伊勢さん」や「大神宮さん」と呼ばれる伊勢神宮の正式名称は「神宮」と称します。「神宮」とは天皇や皇室の祖先神や大和平定に功績のある神を祭神とする神社の一部に使われている社号です。伊勢神宮には、皇祖神なる天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住を始め産業の守護神なる豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)を始め、月の神様である月読・月夜見宮などの14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、これら125宮社を総じて「神宮」と言います。
参宮記のメインテーマは内宮の謎解きですが、サブテーマは外宮同様に「石」にスポットを当てました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
  • 橋詰(はしづめ)さんの松<br />大鳥居の手前に聳えるのが「橋詰さんの松」です。かつてここにあった、宇治橋を守る「饗土橋姫(あえどはしひめ)神社」の名残です。因みに、古くは松ではなく2本の桜木だったそうです。<br />神域拡大の都合で1915(大正4)年に宇治橋前が公園化され、この神社は100mほど西側へ移築されました。饗土橋姫神社については、後編でレポいたします。

    橋詰(はしづめ)さんの松
    大鳥居の手前に聳えるのが「橋詰さんの松」です。かつてここにあった、宇治橋を守る「饗土橋姫(あえどはしひめ)神社」の名残です。因みに、古くは松ではなく2本の桜木だったそうです。
    神域拡大の都合で1915(大正4)年に宇治橋前が公園化され、この神社は100mほど西側へ移築されました。饗土橋姫神社については、後編でレポいたします。

  • 大鳥居<br />宇治橋正面に立つ凛然とした大鳥居を眺めると自然と背筋が伸び、身も心も正して清浄な神域に入る覚悟のようなものが漲ってきます。<br />宇治橋の内外には高さ7.44mある大鳥居が建てられており、内側の鳥居には内宮の旧正殿の棟持柱が、外側(入口側)には外宮の旧正殿の棟持柱がリサイクルされています。更に20年経つと、内側の鳥居は鈴鹿峠の麓にある「関の追分」、外側は桑名の「七里の渡し」の鳥居となり、正殿の棟持柱となって以来、60年の勤めを果たします。「関の追分」においては、その後も氏神 春日神社の御手洗の柱や屋根の修繕に用いられます。

    大鳥居
    宇治橋正面に立つ凛然とした大鳥居を眺めると自然と背筋が伸び、身も心も正して清浄な神域に入る覚悟のようなものが漲ってきます。
    宇治橋の内外には高さ7.44mある大鳥居が建てられており、内側の鳥居には内宮の旧正殿の棟持柱が、外側(入口側)には外宮の旧正殿の棟持柱がリサイクルされています。更に20年経つと、内側の鳥居は鈴鹿峠の麓にある「関の追分」、外側は桑名の「七里の渡し」の鳥居となり、正殿の棟持柱となって以来、60年の勤めを果たします。「関の追分」においては、その後も氏神 春日神社の御手洗の柱や屋根の修繕に用いられます。

  • 大鳥居<br />伊勢神宮の鳥居には例外なく榊が飾られていると聞きましたが、ここには見当たりません。その理由は、この鳥居のある場所は神域ではないためです。大正~昭和時代にかけて国道1号線は宇治橋前のロータリーの位置が終点であり、現在の鳥居も宇治橋の場所も国道1号線の一部でした。現在はこの鳥居が入口になっていますが、本来の入口はもう少し奥まった所にあり、そこまでが国道1号線でした。

    大鳥居
    伊勢神宮の鳥居には例外なく榊が飾られていると聞きましたが、ここには見当たりません。その理由は、この鳥居のある場所は神域ではないためです。大正~昭和時代にかけて国道1号線は宇治橋前のロータリーの位置が終点であり、現在の鳥居も宇治橋の場所も国道1号線の一部でした。現在はこの鳥居が入口になっていますが、本来の入口はもう少し奥まった所にあり、そこまでが国道1号線でした。

  • 宇治橋<br />この画像は宇治橋を渡り、すぐ左折したところにあるスペースから写したものです。こんなベストビュー・スポットなのに案外知られていないようです。<br /><br />五十鈴川に架かる宇治橋は、内宮への入口であり、俗界と聖界を結ぶ架け橋です。右側通行でこの橋を渡ると、その先が玉砂利の敷かれた神苑です。内宮参拝は、まず宇治橋の手前にある大鳥居で一礼し、緑豊かな神路山や島路山の四季の移ろいを肌身で感じながら宇治橋を渡ることから始まります。<br />宇治橋の起源は詳らかではありませんが、五十鈴川に架かる「長橋」の初見は坂十仏著『伊勢太神宮参詣記』(1342年)とされ 、それ以前に橋が架けられていたようです。『河崎氏年代記』によると、現在の形状に似た大橋を室町時代の1434(永享6)年に足利義教が寄進し、参宮したと伝えます。その橋は後に洪水で流失し、後に慶光院という号を授かった「名も無き尼寺」が1505(永正2)年に現在地に再建しました。因みに宇治橋は橋姫という橋の神様に守られていると伝わります。

    宇治橋
    この画像は宇治橋を渡り、すぐ左折したところにあるスペースから写したものです。こんなベストビュー・スポットなのに案外知られていないようです。

    五十鈴川に架かる宇治橋は、内宮への入口であり、俗界と聖界を結ぶ架け橋です。右側通行でこの橋を渡ると、その先が玉砂利の敷かれた神苑です。内宮参拝は、まず宇治橋の手前にある大鳥居で一礼し、緑豊かな神路山や島路山の四季の移ろいを肌身で感じながら宇治橋を渡ることから始まります。
    宇治橋の起源は詳らかではありませんが、五十鈴川に架かる「長橋」の初見は坂十仏著『伊勢太神宮参詣記』(1342年)とされ 、それ以前に橋が架けられていたようです。『河崎氏年代記』によると、現在の形状に似た大橋を室町時代の1434(永享6)年に足利義教が寄進し、参宮したと伝えます。その橋は後に洪水で流失し、後に慶光院という号を授かった「名も無き尼寺」が1505(永正2)年に現在地に再建しました。因みに宇治橋は橋姫という橋の神様に守られていると伝わります。

  • 宇治橋<br />宇治橋の名の由来はこの周辺の地名「宇治」に因みます。通説では山河に囲まれた地形の内側「うち(内)」が「宇治」の語源です。「うち」の発音が転訛して「うじ」になったとされます。 <br />因みに京都の宇治は、兄に天皇の位を譲るために自刃した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に由来するとの説があります。しかし近年は、伊勢の宇治と同様に四方を山と巨椋池に囲まれた「内」なる地形に由来するとの説が有力になってきています。

    宇治橋
    宇治橋の名の由来はこの周辺の地名「宇治」に因みます。通説では山河に囲まれた地形の内側「うち(内)」が「宇治」の語源です。「うち」の発音が転訛して「うじ」になったとされます。
    因みに京都の宇治は、兄に天皇の位を譲るために自刃した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に由来するとの説があります。しかし近年は、伊勢の宇治と同様に四方を山と巨椋池に囲まれた「内」なる地形に由来するとの説が有力になってきています。

  • 宇治橋<br />全長101.8m、幅員8.4m、欄干の上に16基の青銅製擬宝珠を据えた純日本風の反り橋です。踏板や欄干は檜材、橋脚には水に強い欅材(39本)を用いています。<br />尚、渡り始めの3枚目の踏板をこのように足が収まるように踏むと「金運が上がる」との迷信があります。「お金」は「お足」とも言い、「足が入る=お金が入る」という願掛けだそうです。

    宇治橋
    全長101.8m、幅員8.4m、欄干の上に16基の青銅製擬宝珠を据えた純日本風の反り橋です。踏板や欄干は檜材、橋脚には水に強い欅材(39本)を用いています。
    尚、渡り始めの3枚目の踏板をこのように足が収まるように踏むと「金運が上がる」との迷信があります。「お金」は「お足」とも言い、「足が入る=お金が入る」という願掛けだそうです。

  • 宇治橋<br />橋の主要部には和船の技術が用いられており、欄干部分は宮大工、橋板部分などは大湊(伊勢市)の船大工が担当します。踏板には厚さ15cmの板が616枚も敷かれていますが、僅かな隙間も見られません。これは「摺り合わせ」と呼ばれる船大工の技工のなせる業です。合わせ目の両面に鋸でギザギザを付け、これを叩いて密着させると膨張して固着し、雨水も通さなくなります。<br />尚、中央にある突起板は、神様の通り道「正中」を表すものではなく、幅員が広いため中央で踏板を接ぎ、それを押さえるための部材「中伏板(なかぶせいた)」です。

    宇治橋
    橋の主要部には和船の技術が用いられており、欄干部分は宮大工、橋板部分などは大湊(伊勢市)の船大工が担当します。踏板には厚さ15cmの板が616枚も敷かれていますが、僅かな隙間も見られません。これは「摺り合わせ」と呼ばれる船大工の技工のなせる業です。合わせ目の両面に鋸でギザギザを付け、これを叩いて密着させると膨張して固着し、雨水も通さなくなります。
    尚、中央にある突起板は、神様の通り道「正中」を表すものではなく、幅員が広いため中央で踏板を接ぎ、それを押さえるための部材「中伏板(なかぶせいた)」です。

  • 宇治橋 木除杭<br />宇治橋の10m程上流には「木除杭」と称される木杭が8本立っています。これは、増水などで流木が橋脚を直撃しないようにブロックしたり、流木の流れる方向を変えたりする役割の杭です。木除杭の2本は、増水時に備えて河原に建てられているほどです。<br />古来、伊勢は水源に恵まれて農耕が盛んな地域でした。その反面、河川の氾濫も頻発していました。この木除杭は、そうした昔を偲ばせる遺構であり、先人たちが築いた知恵の結晶と言えます。

    宇治橋 木除杭
    宇治橋の10m程上流には「木除杭」と称される木杭が8本立っています。これは、増水などで流木が橋脚を直撃しないようにブロックしたり、流木の流れる方向を変えたりする役割の杭です。木除杭の2本は、増水時に備えて河原に建てられているほどです。
    古来、伊勢は水源に恵まれて農耕が盛んな地域でした。その反面、河川の氾濫も頻発していました。この木除杭は、そうした昔を偲ばせる遺構であり、先人たちが築いた知恵の結晶と言えます。

  • 宇治橋 <br />かつては傷みが激しくなると修繕や架け替えが行われてきましたが、1889(明治22)年の第56回式年遷宮から遷宮に併せて架け替えるようになり、現在の宇治橋は2009年11月3日に渡始式が行われました。20年間で1億人以上の参拝者が渡ったことで、厚さ15cmの橋板は6cmも磨り減っていたそうです。<br />因みに、鎌倉~室町時代の架け替えは僧侶や仏教徒が中心となって行われていたそうです。戦乱の世ですから浄財など望む余地もなく、惨状を見兼ねた「勧請聖」と呼ばれる旅の僧侶たちが神官に代わって全国を奔走して浄財を集めたそうです。<br />江戸時代になると、伊勢は神宮を中心に神道や仏教、陰陽道などが集まる宗教都市となりました。しかし、神仏習合が極まったこの時代でさえ坊主と穢れを嫌い、僧形のままでは宇治橋を渡ることすら許さず、島路川対岸の「僧尼拝所」で参拝を強いたそうです。まるでそれまでの僧侶から受けた恩義を忘れたかのようにです。

    宇治橋
    かつては傷みが激しくなると修繕や架け替えが行われてきましたが、1889(明治22)年の第56回式年遷宮から遷宮に併せて架け替えるようになり、現在の宇治橋は2009年11月3日に渡始式が行われました。20年間で1億人以上の参拝者が渡ったことで、厚さ15cmの橋板は6cmも磨り減っていたそうです。
    因みに、鎌倉~室町時代の架け替えは僧侶や仏教徒が中心となって行われていたそうです。戦乱の世ですから浄財など望む余地もなく、惨状を見兼ねた「勧請聖」と呼ばれる旅の僧侶たちが神官に代わって全国を奔走して浄財を集めたそうです。
    江戸時代になると、伊勢は神宮を中心に神道や仏教、陰陽道などが集まる宗教都市となりました。しかし、神仏習合が極まったこの時代でさえ坊主と穢れを嫌い、僧形のままでは宇治橋を渡ることすら許さず、島路川対岸の「僧尼拝所」で参拝を強いたそうです。まるでそれまでの僧侶から受けた恩義を忘れたかのようにです。

  • 五十鈴川<br />流域10km程の一級河川です。右手に見える神路(かみじ)山を水源とする神路川と、左奥にある島路(しまじ)山(外宮の御神域)を水源とする島路川の流れが合流して五十鈴川となり、二見浦から伊勢湾へと注ぎます。

    五十鈴川
    流域10km程の一級河川です。右手に見える神路(かみじ)山を水源とする神路川と、左奥にある島路(しまじ)山(外宮の御神域)を水源とする島路川の流れが合流して五十鈴川となり、二見浦から伊勢湾へと注ぎます。

  • 宇治橋 大鳥居<br />檜造の神明鳥居の変形である伊勢鳥居です。笠木の断面が五角形をしており、南東方向を向いて屹立しています。南向きが一般的ですが、冬至の日の出の方角に向けられています。その理由は内宮の祭神が天照大御神だからです。大御神は太陽神でもあり、昼の時間が一番短くなる冬至は太陽が生まれ変わって再生する日と考えられているからです。<br />余談ですが、鳥居を潜る時にどちらの足から入ればよいか迷いませんか?<br />実はこれにもしきたりがあり、正宮のある位置に対して遠い方の足から入るそうです。神様の領域に遠い足から進むのが、神職の世界の決まり事です。従って、宇治橋の鳥居では左足から入ることになります。

    宇治橋 大鳥居
    檜造の神明鳥居の変形である伊勢鳥居です。笠木の断面が五角形をしており、南東方向を向いて屹立しています。南向きが一般的ですが、冬至の日の出の方角に向けられています。その理由は内宮の祭神が天照大御神だからです。大御神は太陽神でもあり、昼の時間が一番短くなる冬至は太陽が生まれ変わって再生する日と考えられているからです。
    余談ですが、鳥居を潜る時にどちらの足から入ればよいか迷いませんか?
    実はこれにもしきたりがあり、正宮のある位置に対して遠い方の足から入るそうです。神様の領域に遠い足から進むのが、神職の世界の決まり事です。従って、宇治橋の鳥居では左足から入ることになります。

  • 内宮の境内マップです。<br />https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

    内宮の境内マップです。
    https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

  • 内宮神苑<br />宇治橋の先を右折すると神苑にある玉砂利の参道に出ます。ここでサブテーマの「石」が登場します。参道にはライン取りされたように「見切り石」が左右に連なっています。現在は幅の広い参道となっていますが、実は明治時代中期までは見切り石の内側だけが参道でした。見切り石の外側には神職を始め御師などの屋敷が軒を連ねており、見切り石は結界石の類と思われます。<br />屋敷は万治年間(1658~61年)と天保年間(1830~44年)、1889(明治22)年の3度に亘って撤去させられたそうです。そのため、神楽殿の奥には中世以前の大木が残され、火除橋~神楽殿までは江戸時代の植林、宇治橋~火除橋までは明治時代の植林となっています。

    内宮神苑
    宇治橋の先を右折すると神苑にある玉砂利の参道に出ます。ここでサブテーマの「石」が登場します。参道にはライン取りされたように「見切り石」が左右に連なっています。現在は幅の広い参道となっていますが、実は明治時代中期までは見切り石の内側だけが参道でした。見切り石の外側には神職を始め御師などの屋敷が軒を連ねており、見切り石は結界石の類と思われます。
    屋敷は万治年間(1658~61年)と天保年間(1830~44年)、1889(明治22)年の3度に亘って撤去させられたそうです。そのため、神楽殿の奥には中世以前の大木が残され、火除橋~神楽殿までは江戸時代の植林、宇治橋~火除橋までは明治時代の植林となっています。

  • 内宮神苑<br />丁寧に手入れされた芝生に松が植えられた、和洋折衷の庭園です。名古屋市の篤志家が献納された富士山の初期噴火の際の溶岩「富士溶岩石」も置かれています。<br />1889(明治22)年に神域拡大のために御師らの屋敷は撤去させられ、有栖川宮威仁親王を総裁とした神苑会により「フランス式庭園」の神苑が造営されました。これは「古代の伝統への回帰」と「西欧化」を希求した明治政府の神宮像を反映したものでした。現在の伊勢神宮の多くは明治時代以降の国家神道下で整備されたものであり、また皇祖神を祀る神宮が神社の総本山となりました。江戸時代の「おかげまいり」の頃の庶民化とは真逆の方向性です。

    内宮神苑
    丁寧に手入れされた芝生に松が植えられた、和洋折衷の庭園です。名古屋市の篤志家が献納された富士山の初期噴火の際の溶岩「富士溶岩石」も置かれています。
    1889(明治22)年に神域拡大のために御師らの屋敷は撤去させられ、有栖川宮威仁親王を総裁とした神苑会により「フランス式庭園」の神苑が造営されました。これは「古代の伝統への回帰」と「西欧化」を希求した明治政府の神宮像を反映したものでした。現在の伊勢神宮の多くは明治時代以降の国家神道下で整備されたものであり、また皇祖神を祀る神宮が神社の総本山となりました。江戸時代の「おかげまいり」の頃の庶民化とは真逆の方向性です。

  • 内宮神苑<br />『教育勅語』の一節には「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあります。『日本書記』に登場する「天壌無窮の神勅」をベースにしたものであり、天照大御神が孫の瓊瓊杵尊に「天の国(高天原)から地上に降りて日本を永遠に支配すべし」と命じた神話です。<br />伊勢神宮が天皇統治という国家神道に体裁よく利用されたのも事実です。例えば、神苑には終戦まで日清・日露戦争で鹵獲したカノン砲などが奉納され、戦利兵器の陳列場の趣きでした。まさに「軍神」としての内宮を象徴しており、参宮者に戦勝を実感させて国威発揚を煽る舞台装置でもあった黒い歴史です。また戦時には神苑に高射砲陣地が築かれ、日本が侵略した地域に建てられた神社にも大日本帝国統治の象徴として神明造が採用されるに至りました。終戦後、これらの戦利兵器は時局の変化に鑑みて処分されました。GHQを含め海外の目には国家神道が日本人を戦争に駆り立てたと映っていたためです。大砲などはガスバーナで切断解体し、鉄屑として搬出されました。<br />しかし、現在も日本会議や神道政治連盟国会議員懇談会に「お札」の売上の半分が流れているとの噂もあります。旧統一教会の件とも重なり、某党にとって「政教分離」は建前でしかないようです。

    内宮神苑
    『教育勅語』の一節には「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあります。『日本書記』に登場する「天壌無窮の神勅」をベースにしたものであり、天照大御神が孫の瓊瓊杵尊に「天の国(高天原)から地上に降りて日本を永遠に支配すべし」と命じた神話です。
    伊勢神宮が天皇統治という国家神道に体裁よく利用されたのも事実です。例えば、神苑には終戦まで日清・日露戦争で鹵獲したカノン砲などが奉納され、戦利兵器の陳列場の趣きでした。まさに「軍神」としての内宮を象徴しており、参宮者に戦勝を実感させて国威発揚を煽る舞台装置でもあった黒い歴史です。また戦時には神苑に高射砲陣地が築かれ、日本が侵略した地域に建てられた神社にも大日本帝国統治の象徴として神明造が採用されるに至りました。終戦後、これらの戦利兵器は時局の変化に鑑みて処分されました。GHQを含め海外の目には国家神道が日本人を戦争に駆り立てたと映っていたためです。大砲などはガスバーナで切断解体し、鉄屑として搬出されました。
    しかし、現在も日本会議や神道政治連盟国会議員懇談会に「お札」の売上の半分が流れているとの噂もあります。旧統一教会の件とも重なり、某党にとって「政教分離」は建前でしかないようです。

  • 火除橋<br />外宮同様に火除橋を渡った先が神域になります。この橋を渡ってすぐの右手に手水舎があります。<br /><br />天皇が祭事をする朝廷を「内裏」や「大内」と言い、「内」は天皇を意味します。天照大御神が皇祖神であることから「内」なる「宮」と呼びます。内宮のご神体には「三種の神器」のうちで最も神聖な「八咫鏡」を天照大御神のご神体として祀ります。因みに「三種の神器」は、先住の大和や出雲と帰化系の3つの民族を差別なく統治する天皇」を表すものとされます。<br />元々八咫鏡は宮中で祀られていましたが、第10代 崇神天皇の代、疫病が流行って国民の半数が亡くなる国難に直面。それを八咫鏡の祟りと怯え、神威を畏れた天皇は鏡を皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)に遷しました。すると平穏を取り戻したと伝えます。<br />また第11代 垂仁天皇の代、鏡をより良い地に遷すこととなり、鏡を託された皇女 倭姫命は大和から伊賀→近江→美濃を辿りました。その後、伊勢へ着いた時、天照大御神が「この国にとどまりたい」と伝え、五十鈴川の畔に祠を建てたのが伊勢神宮 内宮の創始と伝えます。最終的に伊勢が選ばれた理由には諸説あり、そのひとつが「伊勢は海・山の幸に恵まれた『うまし国』」との説です。その他、「平和で災害のない美しい国」との説もあります。『日本書紀』の記述を素直に読むと、垂仁天皇は紀元前後の天皇ゆえ内宮はその頃の創始となりますが、流石にこの年代を鵜呑みにするには難があります。一説には早くとも3世紀末の創始ともされます。

    火除橋
    外宮同様に火除橋を渡った先が神域になります。この橋を渡ってすぐの右手に手水舎があります。

    天皇が祭事をする朝廷を「内裏」や「大内」と言い、「内」は天皇を意味します。天照大御神が皇祖神であることから「内」なる「宮」と呼びます。内宮のご神体には「三種の神器」のうちで最も神聖な「八咫鏡」を天照大御神のご神体として祀ります。因みに「三種の神器」は、先住の大和や出雲と帰化系の3つの民族を差別なく統治する天皇」を表すものとされます。
    元々八咫鏡は宮中で祀られていましたが、第10代 崇神天皇の代、疫病が流行って国民の半数が亡くなる国難に直面。それを八咫鏡の祟りと怯え、神威を畏れた天皇は鏡を皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)に遷しました。すると平穏を取り戻したと伝えます。
    また第11代 垂仁天皇の代、鏡をより良い地に遷すこととなり、鏡を託された皇女 倭姫命は大和から伊賀→近江→美濃を辿りました。その後、伊勢へ着いた時、天照大御神が「この国にとどまりたい」と伝え、五十鈴川の畔に祠を建てたのが伊勢神宮 内宮の創始と伝えます。最終的に伊勢が選ばれた理由には諸説あり、そのひとつが「伊勢は海・山の幸に恵まれた『うまし国』」との説です。その他、「平和で災害のない美しい国」との説もあります。『日本書紀』の記述を素直に読むと、垂仁天皇は紀元前後の天皇ゆえ内宮はその頃の創始となりますが、流石にこの年代を鵜呑みにするには難があります。一説には早くとも3世紀末の創始ともされます。

  • 第一鳥居<br />『古事記』によると、「八咫鏡」とは、天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗黒と化した時、天岩戸から大御神をおびき出すために伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が制作した別名「真経津(まふつ)鏡」と呼ばれる神鏡です。<br />大御神は「この鏡こそは、ひたすら私の魂として、私自身を祀るように心身を清浄にしてお仕えせよ」と邇邇芸命に命じたと言います。八咫鏡は、天皇即位式で使われますが、「神聖不可侵」故に天皇すら目にすることは許されず、その神秘性から多くの伝説があります。<br />そのひとつが、明治時代の文部大臣 森有礼と元海軍将校 矢野祐太郎による「鏡の裏には古代ヘブライ語が記してある」との証言です。旧約聖書『出エジプト記』で神がモーセに告げた「我は在りて有るもの」と刻まれていたとの由。この「神鏡ヘブル文字説」通りであれば、日本人は歴史の表舞台から消えたイスラエルの北王国(十部族)の生き残りかもしれません。また、かつて伊勢参道にあった石燈籠には天皇家の菊花紋の下にユダヤ教のシンボル「六芒星」が彫られていることも有名でした。これについては、後でもう少し詳しく説明いたします。

    第一鳥居
    『古事記』によると、「八咫鏡」とは、天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗黒と化した時、天岩戸から大御神をおびき出すために伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が制作した別名「真経津(まふつ)鏡」と呼ばれる神鏡です。
    大御神は「この鏡こそは、ひたすら私の魂として、私自身を祀るように心身を清浄にしてお仕えせよ」と邇邇芸命に命じたと言います。八咫鏡は、天皇即位式で使われますが、「神聖不可侵」故に天皇すら目にすることは許されず、その神秘性から多くの伝説があります。
    そのひとつが、明治時代の文部大臣 森有礼と元海軍将校 矢野祐太郎による「鏡の裏には古代ヘブライ語が記してある」との証言です。旧約聖書『出エジプト記』で神がモーセに告げた「我は在りて有るもの」と刻まれていたとの由。この「神鏡ヘブル文字説」通りであれば、日本人は歴史の表舞台から消えたイスラエルの北王国(十部族)の生き残りかもしれません。また、かつて伊勢参道にあった石燈籠には天皇家の菊花紋の下にユダヤ教のシンボル「六芒星」が彫られていることも有名でした。これについては、後でもう少し詳しく説明いたします。

  • 第一鳥居<br />八咫鏡には「見た者を呪い殺す」との伝説もあり、それを裏付けるのが森有礼暗殺事件です。<br />1887(明治20)年の新聞記事は次のように語ります。<br />「とある大臣が伊勢神宮を訪れた際、土足厳禁の拝殿に靴のまま上がり、目隠しの御簾をステッキで払い上げて中を覗く振る舞いに及んだ」。これは神をも畏れぬ暴挙であり、神宮への不敬は皇室に対する不敬と同義です。<br />結局「伊勢神宮不敬犯」の実名は明かされませんでしたが、人々の脳裏には日本伝統文化を劣悪なものと嫌悪した欧米かぶれの森有礼の顔が浮かんだようです。そして1887(明治22)年、森は国粋主義者 西野文太郎により暗殺されました。出刃包丁で刺されて出血多量で翌日死亡。西野はその場で護衛により斬殺。報道当時、西野は伊勢神宮造営係を務めており、境内を穢す振る舞いに憤慨したのが犯行動機と推測されますが、少なくない国民が心の中で喝采を送ったと言います。ただし、森の秘書官は報道を「事実無根」と論破しており、森が不敬を働いた輩かどうかは謎のままです。

    第一鳥居
    八咫鏡には「見た者を呪い殺す」との伝説もあり、それを裏付けるのが森有礼暗殺事件です。
    1887(明治20)年の新聞記事は次のように語ります。
    「とある大臣が伊勢神宮を訪れた際、土足厳禁の拝殿に靴のまま上がり、目隠しの御簾をステッキで払い上げて中を覗く振る舞いに及んだ」。これは神をも畏れぬ暴挙であり、神宮への不敬は皇室に対する不敬と同義です。
    結局「伊勢神宮不敬犯」の実名は明かされませんでしたが、人々の脳裏には日本伝統文化を劣悪なものと嫌悪した欧米かぶれの森有礼の顔が浮かんだようです。そして1887(明治22)年、森は国粋主義者 西野文太郎により暗殺されました。出刃包丁で刺されて出血多量で翌日死亡。西野はその場で護衛により斬殺。報道当時、西野は伊勢神宮造営係を務めており、境内を穢す振る舞いに憤慨したのが犯行動機と推測されますが、少なくない国民が心の中で喝采を送ったと言います。ただし、森の秘書官は報道を「事実無根」と論破しており、森が不敬を働いた輩かどうかは謎のままです。

  • 御手洗場<br />参道の右手にある緩やかな斜面を下ると、1692(元禄5)年に徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院が寄進した玉石(石畳)を敷き詰めた御手洗場に出ます。<br />ここで手水舎と同じようにお清めができます。

    御手洗場
    参道の右手にある緩やかな斜面を下ると、1692(元禄5)年に徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院が寄進した玉石(石畳)を敷き詰めた御手洗場に出ます。
    ここで手水舎と同じようにお清めができます。

  • 御手洗場<br />五十鈴川の流れは清らかさの象徴とされ、瀬音が美しい鈴の音を彷彿とさせることが「五十鈴川」の名の由来ともされます。国学者 本居宣長も鈴を鳴らして心を鎮め、研究に励んだそうです。その書斎は「鈴屋」と呼ばれていたそうです。

    御手洗場
    五十鈴川の流れは清らかさの象徴とされ、瀬音が美しい鈴の音を彷彿とさせることが「五十鈴川」の名の由来ともされます。国学者 本居宣長も鈴を鳴らして心を鎮め、研究に励んだそうです。その書斎は「鈴屋」と呼ばれていたそうです。

  • 御手洗場<br />五十鈴川は「御裳濯(みもすそ)川」とも呼ばれ、それは大和国から天照大御神の鎮座地を探して辿り着いた倭姫命がこの川で御裳の裾を濯いだとの故事に因みます。<br />西行『山家集』86番 は<br />「初春を くまなく照らす かげを見て 月にまづ知る 御裳濯の岸」と詠んでいます。<br />また五十鈴川の水面を掃くように吹いてくる風は「松風」とも「神風」とも称され、西行もその「松風」を詠んだ自歌合を内宮に奉納しています。<br />「深く入りて 神路のおくを 尋ぬれば また上もなき 峰の松風」(『御裳濯河歌合)』<br />「国民(くにたみ)も 常に心を 洗はなむ みもすそ川の 清き流れに」明治天皇御製<br />因みに土用の丑の日と八朔(8月1日)に参拝し、五十鈴川の清水を神棚に奉ると、1年間無病息災で過ごせるとの民間信仰があります。

    御手洗場
    五十鈴川は「御裳濯(みもすそ)川」とも呼ばれ、それは大和国から天照大御神の鎮座地を探して辿り着いた倭姫命がこの川で御裳の裾を濯いだとの故事に因みます。
    西行『山家集』86番 は
    「初春を くまなく照らす かげを見て 月にまづ知る 御裳濯の岸」と詠んでいます。
    また五十鈴川の水面を掃くように吹いてくる風は「松風」とも「神風」とも称され、西行もその「松風」を詠んだ自歌合を内宮に奉納しています。
    「深く入りて 神路のおくを 尋ぬれば また上もなき 峰の松風」(『御裳濯河歌合)』
    「国民(くにたみ)も 常に心を 洗はなむ みもすそ川の 清き流れに」明治天皇御製
    因みに土用の丑の日と八朔(8月1日)に参拝し、五十鈴川の清水を神棚に奉ると、1年間無病息災で過ごせるとの民間信仰があります。

  • 御手洗場<br />五十鈴川の水の清らかさは喩えようがありません。特にグラデーションの美しさには息を飲みます。<br />敢えて喩えれば、「湧水の郷」として知られている長野県安曇野市にある「大王わさび農場」を流れる蓼川の透明度でしょうか…。北アルプスの雪解け水が伏流水となり、湧水となったものです。このように水が青く見えるのは、高い透明度と水以外の着色性溶質および懸濁物が極めて低濃度であるため、青い液体という水の本来の性質が際立つためです。

    御手洗場
    五十鈴川の水の清らかさは喩えようがありません。特にグラデーションの美しさには息を飲みます。
    敢えて喩えれば、「湧水の郷」として知られている長野県安曇野市にある「大王わさび農場」を流れる蓼川の透明度でしょうか…。北アルプスの雪解け水が伏流水となり、湧水となったものです。このように水が青く見えるのは、高い透明度と水以外の着色性溶質および懸濁物が極めて低濃度であるため、青い液体という水の本来の性質が際立つためです。

  • 瀧祭神<br />御垣と御門のみで社殿はなく、囲みの中の石畳の中央には五十鈴川の守護神とされる「石神」1体が祀られています。また、ご神体は五十鈴川であり、河川の氾濫が多かった五十鈴川の治水鎮守の神とされます。<br />鎌倉時代は対岸に祀られており、この神こそ天照大御神の前身とされていたそうです。所管社でありながら別宮と同等の祭祀が捧げられる特別な神ですが、その理由は不明です。祭神 瀧祭大神は、神宮の造営以前からこの地に鎮座しており、斎王が使える瀧祭大神(伊勢大神)こそが神宮の本来の祭神(蛇神)との説もあります。

    瀧祭神
    御垣と御門のみで社殿はなく、囲みの中の石畳の中央には五十鈴川の守護神とされる「石神」1体が祀られています。また、ご神体は五十鈴川であり、河川の氾濫が多かった五十鈴川の治水鎮守の神とされます。
    鎌倉時代は対岸に祀られており、この神こそ天照大御神の前身とされていたそうです。所管社でありながら別宮と同等の祭祀が捧げられる特別な神ですが、その理由は不明です。祭神 瀧祭大神は、神宮の造営以前からこの地に鎮座しており、斎王が使える瀧祭大神(伊勢大神)こそが神宮の本来の祭神(蛇神)との説もあります。

  • 瀧祭神<br />地元では「おとりつぎさん」として親しまれ、正宮に詣でる前に瀧祭神に参拝すると、こっそり天照大御神に願い事を取り次いでくれるとの俗信があります。瀧祭神も基本的には個人的な願掛けはご法度のはずですが、まず神に感謝の意を表した後に願掛けをすると願い事を聞いてくれるそうです。その証拠に、神前にはお賽銭箱が置かれています。これは「人のための神社」である証左です。<br />因みに伊勢神宮で個人的な願掛けがご法度の理由は、「私幣禁断」制度があり、天皇陛下以外の奉納や願掛けが禁じられているからです。「幣」は「ぬさ」とも読まれ、かつては「紙・麻・木綿」を指しましたが、現代では「紙幣」と言うことのようです。

    瀧祭神
    地元では「おとりつぎさん」として親しまれ、正宮に詣でる前に瀧祭神に参拝すると、こっそり天照大御神に願い事を取り次いでくれるとの俗信があります。瀧祭神も基本的には個人的な願掛けはご法度のはずですが、まず神に感謝の意を表した後に願掛けをすると願い事を聞いてくれるそうです。その証拠に、神前にはお賽銭箱が置かれています。これは「人のための神社」である証左です。
    因みに伊勢神宮で個人的な願掛けがご法度の理由は、「私幣禁断」制度があり、天皇陛下以外の奉納や願掛けが禁じられているからです。「幣」は「ぬさ」とも読まれ、かつては「紙・麻・木綿」を指しましたが、現代では「紙幣」と言うことのようです。

  • 瀧祭神<br />古来、石畳の上に石神を祀る祭祀形式を踏襲しています。<br />足利尊氏の侍医 坂十仏が1342年に著した『伊勢太神宮参詣記』には「神体は水底に御座あり、すなわち竜宮である」と記されています。また、醍醐寺の僧 通海が外宮神官から聞いた話として、「神宮の神は蛇の姿で斎王の元に通い、その時には斎王の寝具の下に蛇の鱗が一枚落ちている」とも記しています。<br />更には、元伊勢内宮に天龍・八岐龍神社という祠があり、八岐大蛇を龍と呼ぶように竜が蛇を指すことから、滝祭神も蛇(竜)神と考えられています。こうしたことから、内宮の祭神 天照大御神は、実は蛇体の神と認識されていたとも窺えます。

    瀧祭神
    古来、石畳の上に石神を祀る祭祀形式を踏襲しています。
    足利尊氏の侍医 坂十仏が1342年に著した『伊勢太神宮参詣記』には「神体は水底に御座あり、すなわち竜宮である」と記されています。また、醍醐寺の僧 通海が外宮神官から聞いた話として、「神宮の神は蛇の姿で斎王の元に通い、その時には斎王の寝具の下に蛇の鱗が一枚落ちている」とも記しています。
    更には、元伊勢内宮に天龍・八岐龍神社という祠があり、八岐大蛇を龍と呼ぶように竜が蛇を指すことから、滝祭神も蛇(竜)神と考えられています。こうしたことから、内宮の祭神 天照大御神は、実は蛇体の神と認識されていたとも窺えます。

  • 瀧祭神<br />民俗学者 井上頼寿は「滝祭りの神はもと竜であって、たくさんの人をのんだが、後これを悔いあらためて、御手洗のところにいて人々の唾を飲んで修養しているのだ、という伝えもあるそうです。つまり、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿であらわれるカミと思われていた」と説いています。<br />三輪山の大神神社の祭神 大物主神の「蛇神」伝承を彷彿とさせる逸話であり、大物主神のご神体も八咫鏡という共通点があるのも言い得て妙です。世阿弥作の能『三輪』では「伊勢と三輪の神。一体分身のおん事」と謡われているほどです。石畳の上に鎮座するピラミッド状の「石神」が、とぐろを巻いて鎌首をもたげた蛇の姿を彷彿とさせるのは、こうした伝承のなせる業なのでしょう。

    瀧祭神
    民俗学者 井上頼寿は「滝祭りの神はもと竜であって、たくさんの人をのんだが、後これを悔いあらためて、御手洗のところにいて人々の唾を飲んで修養しているのだ、という伝えもあるそうです。つまり、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿であらわれるカミと思われていた」と説いています。
    三輪山の大神神社の祭神 大物主神の「蛇神」伝承を彷彿とさせる逸話であり、大物主神のご神体も八咫鏡という共通点があるのも言い得て妙です。世阿弥作の能『三輪』では「伊勢と三輪の神。一体分身のおん事」と謡われているほどです。石畳の上に鎮座するピラミッド状の「石神」が、とぐろを巻いて鎌首をもたげた蛇の姿を彷彿とさせるのは、こうした伝承のなせる業なのでしょう。

  • 神楽殿<br />神に捧げる神楽を奉納するのが神楽殿であり、神に供物を捧げる御饌殿の役割も担います。ここで祈祷の受付やお札、お守り、ご朱印などの授与をしていただけます。<br />ここも後編で詳しくレポいたします。<br />

    神楽殿
    神に捧げる神楽を奉納するのが神楽殿であり、神に供物を捧げる御饌殿の役割も担います。ここで祈祷の受付やお札、お守り、ご朱印などの授与をしていただけます。
    ここも後編で詳しくレポいたします。

  • 四至神(みやのめぐりのかみ)<br />内宮の所管社であり、神域の守護神として四至(神域の四方の境界)を守る神様です。社殿や御垣はなく、小さな石段が2段あり、古代の祭祀場である磐座の形態を継承して石畳の上に「石神」1体が祀られています。一見ただの石段にしか見えませんが、社殿を持たない神社という取り扱いです。元々は境内に数十箇所以上も存在していましたが、近世に統合されてこの地に纏められました。<br />また、内宮第一の摂社であり桜の名所としても知られる「朝熊神社」の遥拝所でもあったそうです。

    四至神(みやのめぐりのかみ)
    内宮の所管社であり、神域の守護神として四至(神域の四方の境界)を守る神様です。社殿や御垣はなく、小さな石段が2段あり、古代の祭祀場である磐座の形態を継承して石畳の上に「石神」1体が祀られています。一見ただの石段にしか見えませんが、社殿を持たない神社という取り扱いです。元々は境内に数十箇所以上も存在していましたが、近世に統合されてこの地に纏められました。
    また、内宮第一の摂社であり桜の名所としても知られる「朝熊神社」の遥拝所でもあったそうです。

  • 四至神<br />江戸時代までは、神の依り代として1本の桜木(桜大刀自神:さくらおおとじのかみ)が祀られており、「桜宮」と呼ばれていました。この桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされます。木華咲耶姫は「日本神話」に登場する女神です。絶世の美女と謳われ、桜の語源とも伝えます。富士山の上空から桜の種を蒔いたという逸話があり、「さくや→さくら」に転化したと伝えます。<br />また、作者不明ではあるものの、平安時代初期に書かれた『竹取物語』のかぐや姫のモデルとも伝わります。富士山周辺には、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという伝承が残ることから、かぐや姫と木華咲耶姫は共に富士山の女神として知られています。

    四至神
    江戸時代までは、神の依り代として1本の桜木(桜大刀自神:さくらおおとじのかみ)が祀られており、「桜宮」と呼ばれていました。この桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされます。木華咲耶姫は「日本神話」に登場する女神です。絶世の美女と謳われ、桜の語源とも伝えます。富士山の上空から桜の種を蒔いたという逸話があり、「さくや→さくら」に転化したと伝えます。
    また、作者不明ではあるものの、平安時代初期に書かれた『竹取物語』のかぐや姫のモデルとも伝わります。富士山周辺には、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという伝承が残ることから、かぐや姫と木華咲耶姫は共に富士山の女神として知られています。

  • 神宮杉の参道<br />『太神宮諸雑事記』によると、式年遷宮が始まったのは持統天皇の代になる690年に内宮、その2年後に外宮の遷宮がなされ、その後は20年毎に行われるようになりました。<br />20年毎に行われるのにはそれなり理由があります。<br />遷宮自体の理由は、社殿や萱葺屋根の尊厳を保つためや、宮大工や神宝の調製などの伝統技術を継承するためなど、多岐に亘ります。しかし、何故20年毎かという定説はありません。「神社建築は寺社建築と違い新しいものを尊ぶため、祭事の際、神の降臨に当たっては常に新しい神社である必要があった」とされます。これが「常若(とこわか)」の思想です。平たく言えば「いつまでも若々しく、持続可能なこと」です。<br />20年というスパンは、建物の若さを保ったり、職人の技を継承したり、区切りとするのに合理的な歳月とも考えられます。因みに『万葉集』を代表とする勅撰和歌集が20巻で構成されているのは、一区切りという意味合いがあるそうです。<br />ギリシアのパルテノン神殿は永遠を求めて堅牢な石造を選びましたが、今では廃墟と化しているのとは対照的です。地球環境を持続可能なものにするならば、SDGsという外来の言葉より、より本質的なのが「常若」の思想と言えます。

    神宮杉の参道
    『太神宮諸雑事記』によると、式年遷宮が始まったのは持統天皇の代になる690年に内宮、その2年後に外宮の遷宮がなされ、その後は20年毎に行われるようになりました。
    20年毎に行われるのにはそれなり理由があります。
    遷宮自体の理由は、社殿や萱葺屋根の尊厳を保つためや、宮大工や神宝の調製などの伝統技術を継承するためなど、多岐に亘ります。しかし、何故20年毎かという定説はありません。「神社建築は寺社建築と違い新しいものを尊ぶため、祭事の際、神の降臨に当たっては常に新しい神社である必要があった」とされます。これが「常若(とこわか)」の思想です。平たく言えば「いつまでも若々しく、持続可能なこと」です。
    20年というスパンは、建物の若さを保ったり、職人の技を継承したり、区切りとするのに合理的な歳月とも考えられます。因みに『万葉集』を代表とする勅撰和歌集が20巻で構成されているのは、一区切りという意味合いがあるそうです。
    ギリシアのパルテノン神殿は永遠を求めて堅牢な石造を選びましたが、今では廃墟と化しているのとは対照的です。地球環境を持続可能なものにするならば、SDGsという外来の言葉より、より本質的なのが「常若」の思想と言えます。

  • 御贄調舎(みにえちょうしゃ)<br />参道の突き当りの左手上方に正宮が見えてくるため、右手にある御贄調舎を見落としがちです。蕃塀もその片棒を担いでいます。因みに蕃塀は、邪気や穢れなど不浄なものが正宮に入るのを防ぐためのものです。<br />祭事の際、外宮から豊受大御神をここへ招き、天照大御神に供える神饌の中で最も大切な御贄(鰒:アワビ)を調理する神事(権禰宜が神聖かつ清浄な箸と忌刀で3度切り込んで塩で和える)が行われる場所です。<br />アワビだけが特別扱いされる理由は『倭姫命世紀』に記されています。かつて伊勢神宮を開いた倭姫命が天照大御神に献上する神饌を求めて志摩国を舟で巡った際、鳥羽市国崎の鎧崎に寄ったところ、お弁(湯貴潜女 :ゆきのかづきめ)という伝説の海女からアワビを献上され、以後、国崎の鮑を「熨斗鮑」と呼び、毎年献上するようになったからです。どうやら神様は想定外にグルメだったようです。因みに伊勢神宮では、『延喜式』などの古式に則り、アワビを「鮑」ではなく「鰒」と表記します。

    御贄調舎(みにえちょうしゃ)
    参道の突き当りの左手上方に正宮が見えてくるため、右手にある御贄調舎を見落としがちです。蕃塀もその片棒を担いでいます。因みに蕃塀は、邪気や穢れなど不浄なものが正宮に入るのを防ぐためのものです。
    祭事の際、外宮から豊受大御神をここへ招き、天照大御神に供える神饌の中で最も大切な御贄(鰒:アワビ)を調理する神事(権禰宜が神聖かつ清浄な箸と忌刀で3度切り込んで塩で和える)が行われる場所です。
    アワビだけが特別扱いされる理由は『倭姫命世紀』に記されています。かつて伊勢神宮を開いた倭姫命が天照大御神に献上する神饌を求めて志摩国を舟で巡った際、鳥羽市国崎の鎧崎に寄ったところ、お弁(湯貴潜女 :ゆきのかづきめ)という伝説の海女からアワビを献上され、以後、国崎の鮑を「熨斗鮑」と呼び、毎年献上するようになったからです。どうやら神様は想定外にグルメだったようです。因みに伊勢神宮では、『延喜式』などの古式に則り、アワビを「鮑」ではなく「鰒」と表記します。

  • 御贄調舎<br />正面奥には「石神」を祀る石積みがあります。瀧祭神ほどではありませんが、同じようにとぐろを巻いた「石神」です。<br />石積みは祭事の際に食物の神である豊受大御神の依り代となる「神座(石畳)」です。明治時代以後の設置とされ、かつては正宮正面の五十鈴川の中洲に黒木の橋を架けて行われていたそうです。五十鈴川が古くから如何にこの地で神聖視されてきたかが窺える話です。川由来ですから、こちらも「龍神」と窺えます。

    御贄調舎
    正面奥には「石神」を祀る石積みがあります。瀧祭神ほどではありませんが、同じようにとぐろを巻いた「石神」です。
    石積みは祭事の際に食物の神である豊受大御神の依り代となる「神座(石畳)」です。明治時代以後の設置とされ、かつては正宮正面の五十鈴川の中洲に黒木の橋を架けて行われていたそうです。五十鈴川が古くから如何にこの地で神聖視されてきたかが窺える話です。川由来ですから、こちらも「龍神」と窺えます。

  • 正宮<br />内宮の正式名称は「皇大神宮」と称し、祭神は皇祖神であり国民の総氏神でもある「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)=天照大御神」です。<br />また同じ御殿に祀られる相殿神は、東側(左方)に弓をご神体とする「天手力男神(あめのたぢからおのかみ)」と西側(右方)に剣をご神体とする「万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)」の2柱です。<br />正殿は4重(板垣・外玉垣・内玉垣・端垣))の垣根で囲んで保護されており、一般人は板垣南御門の奥にある萱葺屋根の建物「外玉垣南御門」の手前で参拝します。掛けられている絹製の白布は「御幌(みとばり)」と言い、門を開いた時に正面が直接見えないように目隠しするものです。尚、石段下から先の写真撮影は禁じられています。

    正宮
    内宮の正式名称は「皇大神宮」と称し、祭神は皇祖神であり国民の総氏神でもある「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)=天照大御神」です。
    また同じ御殿に祀られる相殿神は、東側(左方)に弓をご神体とする「天手力男神(あめのたぢからおのかみ)」と西側(右方)に剣をご神体とする「万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)」の2柱です。
    正殿は4重(板垣・外玉垣・内玉垣・端垣))の垣根で囲んで保護されており、一般人は板垣南御門の奥にある萱葺屋根の建物「外玉垣南御門」の手前で参拝します。掛けられている絹製の白布は「御幌(みとばり)」と言い、門を開いた時に正面が直接見えないように目隠しするものです。尚、石段下から先の写真撮影は禁じられています。

  • 正宮<br />天手力男神は、天岩戸に籠った天照大御神を外の世界に引きずり出した神です。相殿神としては格が低いように思えますが、天照大御神が再び天岩戸に籠らないように見守っているとも窺えます。一方、東大寺大仏のメッキに使われた「伊勢水銀」採掘の従事者たちが祀っていた神との説もあります。つまり、古代伊勢の「地場産業の神」を相殿していると考えれば腑に落ちます。<br />万幡豊秋津姫命は、天孫降臨した瓊瓊杵尊の母であり、天照大御神の義理の娘(息子の嫁)です。また、天照大御神との誓約に勝利した素戔嗚尊が高天原に居座り、その暴挙により亡くなった神様でもあります。素戔嗚尊が神聖な布を織る機屋に皮を剥いだ馬を投げ入れたため、それに驚いて梭(ひ:横糸を通すための道具)が女陰に刺さり亡くなったと伝えます。名の「万幡」は多くの織物、「豊秋津」は穀物が豊かに実る秋を意味します。故に、「機織」や「農業」に関わる氏族が祀っていた神と窺えます。

    正宮
    天手力男神は、天岩戸に籠った天照大御神を外の世界に引きずり出した神です。相殿神としては格が低いように思えますが、天照大御神が再び天岩戸に籠らないように見守っているとも窺えます。一方、東大寺大仏のメッキに使われた「伊勢水銀」採掘の従事者たちが祀っていた神との説もあります。つまり、古代伊勢の「地場産業の神」を相殿していると考えれば腑に落ちます。
    万幡豊秋津姫命は、天孫降臨した瓊瓊杵尊の母であり、天照大御神の義理の娘(息子の嫁)です。また、天照大御神との誓約に勝利した素戔嗚尊が高天原に居座り、その暴挙により亡くなった神様でもあります。素戔嗚尊が神聖な布を織る機屋に皮を剥いだ馬を投げ入れたため、それに驚いて梭(ひ:横糸を通すための道具)が女陰に刺さり亡くなったと伝えます。名の「万幡」は多くの織物、「豊秋津」は穀物が豊かに実る秋を意味します。故に、「機織」や「農業」に関わる氏族が祀っていた神と窺えます。

  • 正宮 板垣南御門(鳥居)<br />外宮も内宮も板垣南御門となる御垣の付いた鳥居だけは「伊勢鳥居」ではありません。笠木の下にそれより幅の広い「島木」があるのが特徴で、双方の断面が五角形です。この島木は通常神明鳥居系にはありません。また柱が円柱のため、「伊勢鳥居」の変形とされる「外宮宗(げくうそう)鳥居」とされます。

    正宮 板垣南御門(鳥居)
    外宮も内宮も板垣南御門となる御垣の付いた鳥居だけは「伊勢鳥居」ではありません。笠木の下にそれより幅の広い「島木」があるのが特徴で、双方の断面が五角形です。この島木は通常神明鳥居系にはありません。また柱が円柱のため、「伊勢鳥居」の変形とされる「外宮宗(げくうそう)鳥居」とされます。

  • 正宮<br />正宮は公の祈願を行う場所であり、感謝の気持ちを伝えるのが古来の慣わしです。しかし、個人的な願い事がご法度という訳ではありません。まず感謝をし、次に願い事をすれば良いとも言われます。<br />確かに伊勢神宮は元々個人的な願い事を禁じる「私幣禁断」であり、神宮の存在理由は国家平安や皇室繁栄を祈るためでした。この禁を破れば島流しとなりました。<br />つまり、古代伊勢神宮は、天皇と一体化され、特別な意味があったからです。<br />しかし時代が下るに連れ、そのルールは緩められてきました。中世には、御師と呼ばれる神官が伊勢信仰を広めるために全国を奔走しました。その際、個人の祈祷を受付けたり、お札「神宮大麻」を配るようになりました。つまり、神官自らが「私幣禁断」を解禁し、その結果、江戸時代には空前の「おかげ参りブーム」が巻き起こりました。その後、再び「私幣禁断」を明確に示してもいませんし、現在は白い布が敷かれ、お賽銭を甘んじて受けているほどです。因みに白い布が敷いてある理由は、神殿を傷付けないためのものであり、本来はお賽銭を受けるためのものではないそうです。「世界平和」を祈願するにしても、白い布があると神社の初詣を思い出して条件反射的にお賽銭を投じるのが人の性なのかもしれません。想定外のことで、すぐに小銭がなくなってしまい、相方から寸食した次第です。小銭の準備は潤沢にしておいてください、

    正宮
    正宮は公の祈願を行う場所であり、感謝の気持ちを伝えるのが古来の慣わしです。しかし、個人的な願い事がご法度という訳ではありません。まず感謝をし、次に願い事をすれば良いとも言われます。
    確かに伊勢神宮は元々個人的な願い事を禁じる「私幣禁断」であり、神宮の存在理由は国家平安や皇室繁栄を祈るためでした。この禁を破れば島流しとなりました。
    つまり、古代伊勢神宮は、天皇と一体化され、特別な意味があったからです。
    しかし時代が下るに連れ、そのルールは緩められてきました。中世には、御師と呼ばれる神官が伊勢信仰を広めるために全国を奔走しました。その際、個人の祈祷を受付けたり、お札「神宮大麻」を配るようになりました。つまり、神官自らが「私幣禁断」を解禁し、その結果、江戸時代には空前の「おかげ参りブーム」が巻き起こりました。その後、再び「私幣禁断」を明確に示してもいませんし、現在は白い布が敷かれ、お賽銭を甘んじて受けているほどです。因みに白い布が敷いてある理由は、神殿を傷付けないためのものであり、本来はお賽銭を受けるためのものではないそうです。「世界平和」を祈願するにしても、白い布があると神社の初詣を思い出して条件反射的にお賽銭を投じるのが人の性なのかもしれません。想定外のことで、すぐに小銭がなくなってしまい、相方から寸食した次第です。小銭の準備は潤沢にしておいてください、

  • 正宮<br />石段に用いられている石は希少な「みかほ石(伊勢青石)」です。伊勢周辺の御荷鉾(みかぼ)古成層に属す「御荷鉾層」や「秩父帯付加複合体」から産出された、海底火山噴出物からなる緑色片岩類斜長岩で、青緑色の優雅な色合いが特徴です。<br />この石段を見上げているだけでうっとりさせられます。

    正宮
    石段に用いられている石は希少な「みかほ石(伊勢青石)」です。伊勢周辺の御荷鉾(みかぼ)古成層に属す「御荷鉾層」や「秩父帯付加複合体」から産出された、海底火山噴出物からなる緑色片岩類斜長岩で、青緑色の優雅な色合いが特徴です。
    この石段を見上げているだけでうっとりさせられます。

  • 正宮<br />正殿の高欄には彩色された「五色の居玉(すえたま:擬宝珠に似たもの)」があります。それは木製に漆を施したものだそうです。通常は金属製になるはずですが、全て国内の材料で遷宮を整えるのが伊勢神宮の基本ポリシーだそうです。創建当時は金属や宝石など色の付いた材料が国内に存在しなかったため、そのように作られたそうです。<br />因みに「五色」は、古代中国に成立した「五行説(思想)」に由来します。五行の色は「木(青)・火(赤)・土(黄)・金(白)・水(黒)」を象徴しています。色の配置にも意味がありそうですが、これについては不明だそうです。<br />また、正殿の正面中央に1か所観音開きの御扉が設けられています。この御扉は人の出入りのためでなく、神様が使われるものだそうです。また御扉には通常1枚板が用いられるため、樹齢400年以上の檜が必要になります。

    正宮
    正殿の高欄には彩色された「五色の居玉(すえたま:擬宝珠に似たもの)」があります。それは木製に漆を施したものだそうです。通常は金属製になるはずですが、全て国内の材料で遷宮を整えるのが伊勢神宮の基本ポリシーだそうです。創建当時は金属や宝石など色の付いた材料が国内に存在しなかったため、そのように作られたそうです。
    因みに「五色」は、古代中国に成立した「五行説(思想)」に由来します。五行の色は「木(青)・火(赤)・土(黄)・金(白)・水(黒)」を象徴しています。色の配置にも意味がありそうですが、これについては不明だそうです。
    また、正殿の正面中央に1か所観音開きの御扉が設けられています。この御扉は人の出入りのためでなく、神様が使われるものだそうです。また御扉には通常1枚板が用いられるため、樹齢400年以上の檜が必要になります。

  • 籾だね石(表参道横の板垣西南角の大石)<br />籾だね石と称される大石は正宮の周りに2ヶ所にあり、有名なのがこちらです。しかし、WEBにある説明文にはテレコになっているものが散見されます。<br />正宮に向かう石段手前の左隅に、「籾だね石」と称される高さ4m程の巨大な苔生した岩があります。1769(明和6)年の第50回式年遷宮に際し、上二郷(現 今在家町、中之切町)による石曳により献納された大石です。その根拠となるのが、宇治会合所(自治組織)から上二郷に加えて四郷も準備をするようにとの文書、上二郷が曳いた石の石積に関する楠部の村人の請負文書、石垣の仕様を示す絵図、石曳きに関する日記などの文書です。よく見ると籾の形をしているようにも…。

    籾だね石(表参道横の板垣西南角の大石)
    籾だね石と称される大石は正宮の周りに2ヶ所にあり、有名なのがこちらです。しかし、WEBにある説明文にはテレコになっているものが散見されます。
    正宮に向かう石段手前の左隅に、「籾だね石」と称される高さ4m程の巨大な苔生した岩があります。1769(明和6)年の第50回式年遷宮に際し、上二郷(現 今在家町、中之切町)による石曳により献納された大石です。その根拠となるのが、宇治会合所(自治組織)から上二郷に加えて四郷も準備をするようにとの文書、上二郷が曳いた石の石積に関する楠部の村人の請負文書、石垣の仕様を示す絵図、石曳きに関する日記などの文書です。よく見ると籾の形をしているようにも…。

  • 籾だね石<br />籾だね石のスケール感が判るように通りがかりの人物を入れてみました。<br /><br />伊勢神宮を参拝した歴史上の人物には平清盛や足利義満、織田信長、豊臣秀吉などが挙げられます。清盛は3回、義満は11回、信長は1回参拝。秀吉は日吉丸と名乗った幼少期に蜂須賀小六のお供をして以来、度々参宮しています。また徳川歴代将軍は自身での参宮はなかったようですが、毎年家臣に代理参宮させ、太刀や馬などを多数奉納しています。<br />興味深いのは義満が参宮時に願文を捧げていることです。「役夫工」、つまり遷宮費用を各地から取り立てる旨を約束しています。本来は天皇の約束事項であり、義満が皇位を掴もうとした企みが「心中諸願成就」と認めた文面から読み取れます。因みに義満の後継の義持は16回も参宮し、その後に守護大名らが競うように参宮しました。将軍の参宮の意義を挙げれば、参宮がトレンドになるきっかけを作ったことです。しかも武士から町民、農民まで裾野を広げました。<br />鎌倉時代は源頼朝以下、参宮は皆無です。これは元々伊勢神宮が世に開かれた存在ではなく、天皇が勅使を派遣する神社だったからであり、この時代は天皇の権力は自他共に認めるものでした。

    籾だね石
    籾だね石のスケール感が判るように通りがかりの人物を入れてみました。

    伊勢神宮を参拝した歴史上の人物には平清盛や足利義満、織田信長、豊臣秀吉などが挙げられます。清盛は3回、義満は11回、信長は1回参拝。秀吉は日吉丸と名乗った幼少期に蜂須賀小六のお供をして以来、度々参宮しています。また徳川歴代将軍は自身での参宮はなかったようですが、毎年家臣に代理参宮させ、太刀や馬などを多数奉納しています。
    興味深いのは義満が参宮時に願文を捧げていることです。「役夫工」、つまり遷宮費用を各地から取り立てる旨を約束しています。本来は天皇の約束事項であり、義満が皇位を掴もうとした企みが「心中諸願成就」と認めた文面から読み取れます。因みに義満の後継の義持は16回も参宮し、その後に守護大名らが競うように参宮しました。将軍の参宮の意義を挙げれば、参宮がトレンドになるきっかけを作ったことです。しかも武士から町民、農民まで裾野を広げました。
    鎌倉時代は源頼朝以下、参宮は皆無です。これは元々伊勢神宮が世に開かれた存在ではなく、天皇が勅使を派遣する神社だったからであり、この時代は天皇の権力は自他共に認めるものでした。

  • 西御敷地板垣西御門<br />正宮の左横となる板垣と西御門です。<br />名称には板垣とありますが、板垣どころか重厚な塀です。<br />

    西御敷地板垣西御門
    正宮の左横となる板垣と西御門です。
    名称には板垣とありますが、板垣どころか重厚な塀です。

  • 籾だね石(西御敷地板垣西御門の北側の大石)<br />板垣西御門付近の石垣から飛び出している大石です。<br />この岩は1789(寛政元)年に行われた第51回内宮式年遷宮の際に楠部郷(現 伊勢市楠部町)の里人が奉納したものだそうです。<br />この籾だね石は城郭の石垣に見られる「鏡石(かがみいし)」なる巨石を彷彿とさせます。鏡石は、領主の威厳や格式を大きさで表した時代に、石垣に大石が用いれらたものです。本来、鏡石は災いなどの悪気を大鏡のような石で払い除けるために置かれたのが始まりとされます。

    籾だね石(西御敷地板垣西御門の北側の大石)
    板垣西御門付近の石垣から飛び出している大石です。
    この岩は1789(寛政元)年に行われた第51回内宮式年遷宮の際に楠部郷(現 伊勢市楠部町)の里人が奉納したものだそうです。
    この籾だね石は城郭の石垣に見られる「鏡石(かがみいし)」なる巨石を彷彿とさせます。鏡石は、領主の威厳や格式を大きさで表した時代に、石垣に大石が用いれらたものです。本来、鏡石は災いなどの悪気を大鏡のような石で払い除けるために置かれたのが始まりとされます。

  • 籾だね石<br />この岩には秘話が語り継がれています。江戸四大飢饉のひとつに数えられる天明の大飢饉で食糧難に見舞われ、ご加護にすがるために楠部村の住民が五十鈴川の上流から長い月日をかけてこの神岩を運んで奉納しました。しかし途中で食べるものがなくなり、翌年分の籾種まで食い尽くして岩を運んだことに因み「籾だね石」と呼ばれるようになったそうです。

    籾だね石
    この岩には秘話が語り継がれています。江戸四大飢饉のひとつに数えられる天明の大飢饉で食糧難に見舞われ、ご加護にすがるために楠部村の住民が五十鈴川の上流から長い月日をかけてこの神岩を運んで奉納しました。しかし途中で食べるものがなくなり、翌年分の籾種まで食い尽くして岩を運んだことに因み「籾だね石」と呼ばれるようになったそうです。

  • 神宮杉 <br />伊勢神宮の神域内に保護されている樹齢300年以上の大杉を神宮杉と称します。神域内では神宮杉と呼ばれますが、台風等により倒れた時に「御山杉」と名を改められます。<br />神宮杉には幹が「こも巻き」のように竹で保護されているものがあります。これは害虫駆除が目的ではなく、かつて参拝記念に杉の皮を持ち帰ったり、根を触るなどの行為が横行したため、そうした行為から杉を保護するためのものです。<br />因みに神宮杉は「三重県の木」でもあります。

    神宮杉 
    伊勢神宮の神域内に保護されている樹齢300年以上の大杉を神宮杉と称します。神域内では神宮杉と呼ばれますが、台風等により倒れた時に「御山杉」と名を改められます。
    神宮杉には幹が「こも巻き」のように竹で保護されているものがあります。これは害虫駆除が目的ではなく、かつて参拝記念に杉の皮を持ち帰ったり、根を触るなどの行為が横行したため、そうした行為から杉を保護するためのものです。
    因みに神宮杉は「三重県の木」でもあります。

  • 御稲御倉(みしねのみくら)<br />正殿を見ることは叶いませんが、ここでは正殿と同じ弥生時代の穀倉に由来する「唯一神明造」の原型に最も近い構造を間近で拝せます。千木・鰹木を備えた萱葺の切妻造で、弥生時代の高床式倉庫を彷彿とさせます。高床式倉庫との違いは「ネズミ返し」がないことくらいです。柱は全て円柱、両妻面には棟持柱と呼ばれる象徴的な柱を建て、木材は白木の檜です。流石に「心の御柱」は建てられていませんが…。

    御稲御倉(みしねのみくら)
    正殿を見ることは叶いませんが、ここでは正殿と同じ弥生時代の穀倉に由来する「唯一神明造」の原型に最も近い構造を間近で拝せます。千木・鰹木を備えた萱葺の切妻造で、弥生時代の高床式倉庫を彷彿とさせます。高床式倉庫との違いは「ネズミ返し」がないことくらいです。柱は全て円柱、両妻面には棟持柱と呼ばれる象徴的な柱を建て、木材は白木の檜です。流石に「心の御柱」は建てられていませんが…。

  • 御稲御倉<br />古より倉として存在し、調御倉・御塩御倉・鋪設御倉・御稲御倉の4棟で1組とされ、内宮板垣外の西方にありましたが、平安時代中期に外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に遷されました。しかし式年遷宮の度に遷す煩わしさもあり、中世末期には4棟とも廃絶されました。その後、天正年間(1573~92年)に4棟の内の御稲御倉のみ復興され、1889(明治22年)にこの地に遷座しました。

    御稲御倉
    古より倉として存在し、調御倉・御塩御倉・鋪設御倉・御稲御倉の4棟で1組とされ、内宮板垣外の西方にありましたが、平安時代中期に外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に遷されました。しかし式年遷宮の度に遷す煩わしさもあり、中世末期には4棟とも廃絶されました。その後、天正年間(1573~92年)に4棟の内の御稲御倉のみ復興され、1889(明治22年)にこの地に遷座しました。

  • 御稲御倉<br />祭神には御稲御倉守護神「御稲御倉神」を祀ります。鎌倉時代の『神名秘書』では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と記され、共に聞き慣れない名ですが意外に身近な存在です。稲に宿る神秘な霊であり、伏見稲荷大社の主祭神「お稲荷さん」と同体とされます。<br />倭姫命が定めた神宮神田で収穫された抜穂(ぬいぼ)の御稲が籾の状態でここへ納められ、三節祭の際に大御饌として神前に供えられます。因みに抜穂というのは、実った稲の穂の部分を抜き取ったものです。鎌が存在しなかった弥生時代には、そうして稲を収穫していました。禰宜を務めていた矢野憲一著『伊勢神宮  知られざる杜のうち』によると、「扉を開いた瞬間、生温かい懐かしいお米の香りの風というか『氣』が一瞬吹き寄せる。いつも私は思わずひれ伏した」と吐露されています。<br />尚、式年遷宮のため伐採された心御柱もひとまずここに納められます。その心御柱は、深夜にここから運び出して新正殿の床下に建て、忌物と神饌を供えます。

    御稲御倉
    祭神には御稲御倉守護神「御稲御倉神」を祀ります。鎌倉時代の『神名秘書』では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と記され、共に聞き慣れない名ですが意外に身近な存在です。稲に宿る神秘な霊であり、伏見稲荷大社の主祭神「お稲荷さん」と同体とされます。
    倭姫命が定めた神宮神田で収穫された抜穂(ぬいぼ)の御稲が籾の状態でここへ納められ、三節祭の際に大御饌として神前に供えられます。因みに抜穂というのは、実った稲の穂の部分を抜き取ったものです。鎌が存在しなかった弥生時代には、そうして稲を収穫していました。禰宜を務めていた矢野憲一著『伊勢神宮 知られざる杜のうち』によると、「扉を開いた瞬間、生温かい懐かしいお米の香りの風というか『氣』が一瞬吹き寄せる。いつも私は思わずひれ伏した」と吐露されています。
    尚、式年遷宮のため伐採された心御柱もひとまずここに納められます。その心御柱は、深夜にここから運び出して新正殿の床下に建て、忌物と神饌を供えます。

  • 外幣殿<br />正宮瑞垣内には東宝殿・西宝殿という神々に奉納された幣帛や神宝を納める宝物殿があります。仮にそれらを「内」の幣帛殿とすれば、ここは「外」の幣帛殿に相当します。<br />

    外幣殿
    正宮瑞垣内には東宝殿・西宝殿という神々に奉納された幣帛や神宝を納める宝物殿があります。仮にそれらを「内」の幣帛殿とすれば、ここは「外」の幣帛殿に相当します。

  • 外幣殿<br />外宮では正宮の御垣内にあるため目にすることは叶いませんが、内宮ではこのように御垣外にあります。<br />但しそれぞれの構造は、同じように見えても少しずつ違いがあるようです。<br />

    外幣殿
    外宮では正宮の御垣内にあるため目にすることは叶いませんが、内宮ではこのように御垣外にあります。
    但しそれぞれの構造は、同じように見えても少しずつ違いがあるようです。

  • 外幣殿<br />古くは皇后陛下・皇太子殿下の幣帛や古神宝類を納めていましたが、現在は式年遷宮で撤下された神宝が納められています。古神宝とは、かつて神様のために捧げられた生活道具(織り機、手箱、枕、食器、刀、馬具、衣服、鏡、玉、楽器、文具など)を指します。<br />特別に皇后陛下・皇太子殿下の幣帛をここに納めるようになったのは、「内宮正殿の氏子は唯一天皇陛下だけ」と言う暗黙のアピールなのかもしれません。

    外幣殿
    古くは皇后陛下・皇太子殿下の幣帛や古神宝類を納めていましたが、現在は式年遷宮で撤下された神宝が納められています。古神宝とは、かつて神様のために捧げられた生活道具(織り機、手箱、枕、食器、刀、馬具、衣服、鏡、玉、楽器、文具など)を指します。
    特別に皇后陛下・皇太子殿下の幣帛をここに納めるようになったのは、「内宮正殿の氏子は唯一天皇陛下だけ」と言う暗黙のアピールなのかもしれません。

  • 板垣北御門<br />正宮の真裏に当たります。<br />ここを左折し、石段を下ります。

    板垣北御門
    正宮の真裏に当たります。
    ここを左折し、石段を下ります。

  • 踏まぬ石<br />板垣北御門から荒祭神へ向かう途中に、江戸時代に造られ、明治時代に少しだけ位置を変えたと伝わる下りの石段があります。「踏まぬ石」は55段ある石段を41段降りた中央にあります。4ピースに割れた石で、その割れ目が「天」という文字に見えるそうですが、当方には「人」のイメージしか湧きません。宇宙(天)から降ってきた隕石と伝わり、踏むのはご法度の特異な石です。実際は地球に存在する堆積岩ですが、この段だけに意図的に踏み面にはみ出すように埋め込まれた奇妙な石です。因みにこの石は、神職が時々盛塩でお清めし、その後、聖水を注がれておられるそうです。

    踏まぬ石
    板垣北御門から荒祭神へ向かう途中に、江戸時代に造られ、明治時代に少しだけ位置を変えたと伝わる下りの石段があります。「踏まぬ石」は55段ある石段を41段降りた中央にあります。4ピースに割れた石で、その割れ目が「天」という文字に見えるそうですが、当方には「人」のイメージしか湧きません。宇宙(天)から降ってきた隕石と伝わり、踏むのはご法度の特異な石です。実際は地球に存在する堆積岩ですが、この段だけに意図的に踏み面にはみ出すように埋め込まれた奇妙な石です。因みにこの石は、神職が時々盛塩でお清めし、その後、聖水を注がれておられるそうです。

  • 踏まぬ石<br />矢野憲一著『荒御魂をまつる荒祭宮と多賀宮』によると、「踏まぬ石」の話は江戸時代の書物にも見られ、「天明年間の頃、荒祭宮に石段が設置された」と記されています。うっかり踏んだ人が骨折したとか、足の病気を患ったなどの不吉な噂が伝わります。<br />因みにこの踏まぬ石を意図的に踏んだ歴史上の有名人が、豊臣秀吉だそうです。何時頃踏んだのか不明ですが、晩年だったことは想像に難くありません。迷信はともかく、足元を疎かにしないようにとの啓示の意味があるのかもしれません。

    踏まぬ石
    矢野憲一著『荒御魂をまつる荒祭宮と多賀宮』によると、「踏まぬ石」の話は江戸時代の書物にも見られ、「天明年間の頃、荒祭宮に石段が設置された」と記されています。うっかり踏んだ人が骨折したとか、足の病気を患ったなどの不吉な噂が伝わります。
    因みにこの踏まぬ石を意図的に踏んだ歴史上の有名人が、豊臣秀吉だそうです。何時頃踏んだのか不明ですが、晩年だったことは想像に難くありません。迷信はともかく、足元を疎かにしないようにとの啓示の意味があるのかもしれません。

  • 踏まぬ石<br />この画像のように下からだと踏み面からの凸部と判りますが、上から見ると平坦にしか見えません。<br />内宮では、人は右側通行で中央(正中)は神様の通り道です。だから中央にあるこの石を人が踏むことはないはずです。故に「踏まぬ石」と名付けられたそうです。一方、石段の中央に不自然に置かれた石ゆえ、一説には御神宝など貴重な宝物を埋納した場所を示す暗号とも伝わります。興味のある方は、「踏まぬ石」コードに挑戦されてはいかがでしょうか?

    踏まぬ石
    この画像のように下からだと踏み面からの凸部と判りますが、上から見ると平坦にしか見えません。
    内宮では、人は右側通行で中央(正中)は神様の通り道です。だから中央にあるこの石を人が踏むことはないはずです。故に「踏まぬ石」と名付けられたそうです。一方、石段の中央に不自然に置かれた石ゆえ、一説には御神宝など貴重な宝物を埋納した場所を示す暗号とも伝わります。興味のある方は、「踏まぬ石」コードに挑戦されてはいかがでしょうか?

  • 石段 踏まぬ石<br />明治明治時代には内務大臣の監督の下に「造神宮使庁」という役所が設けられるなど、政府の庇護を受けていた伊勢神宮ですが、終戦後、その位置付けは様変わりしました。1953(昭和28)年に神道への国家支援の廃止など政教分離を果たすためにGHQが発した「神道指令」により、伊勢神宮は一宗教法人となりました。この時の参拝者は戦前のピーク時の1/8に激減しています。<br />しかし、現在も皇室の御祖神を祀っていることに変わりはありません。また斎王制度は廃絶したものの、祭主はまだ残されており、天皇陛下の妹 黒田清子さんが担われています。また、祭主を支えるのが大宮司であり、これは伊勢神宮にしかない職種です。大宮司には旧皇族か華族の出身者が就任することになっており、現在は旧皇族出身の元商社マン 久邇朝尊さんが就任されています。

    石段 踏まぬ石
    明治明治時代には内務大臣の監督の下に「造神宮使庁」という役所が設けられるなど、政府の庇護を受けていた伊勢神宮ですが、終戦後、その位置付けは様変わりしました。1953(昭和28)年に神道への国家支援の廃止など政教分離を果たすためにGHQが発した「神道指令」により、伊勢神宮は一宗教法人となりました。この時の参拝者は戦前のピーク時の1/8に激減しています。
    しかし、現在も皇室の御祖神を祀っていることに変わりはありません。また斎王制度は廃絶したものの、祭主はまだ残されており、天皇陛下の妹 黒田清子さんが担われています。また、祭主を支えるのが大宮司であり、これは伊勢神宮にしかない職種です。大宮司には旧皇族か華族の出身者が就任することになっており、現在は旧皇族出身の元商社マン 久邇朝尊さんが就任されています。

  • 荒祭宮<br />正宮に次ぐお宮を別宮と称し、内宮域内には「荒祭宮」と「風日祈宮」の2所の別宮と10所の所管社が鎮座しています。<br />内宮の第一境内別宮であり、正宮に次ぐ規模を誇ります。尚、荒祭宮への参拝は正宮参拝後が正しいとされます。<br />『神宮雑例集』(1210年)によると、創建は垂仁天皇26年(紀元前4年)であり、内宮正殿と同時に建てられています。社殿は内宮に準じた内削ぎの千木と6本の鰹木を持つ萱葺の神明造です。祭神には天照大御神荒御魂を祀り、ご神体は鏡です。神様の御魂の穏やかな働きを「和御魂」と称するのに対し、荒々しく格別に顕著な神威を現わす御魂の働きを「荒御魂」と称します。荒御魂は積極的かつ活動的な神霊であり、古来困り事があれば助けてくださる、長生きさせてくださると伊勢の人々の信仰を集めてきました。開運や出世、健康祈願、子孫繁栄、魔除け、厄除けのご利益があるそうですが、お願い事をする前に神様への感謝を伝えることを忘れないでください。

    荒祭宮
    正宮に次ぐお宮を別宮と称し、内宮域内には「荒祭宮」と「風日祈宮」の2所の別宮と10所の所管社が鎮座しています。
    内宮の第一境内別宮であり、正宮に次ぐ規模を誇ります。尚、荒祭宮への参拝は正宮参拝後が正しいとされます。
    『神宮雑例集』(1210年)によると、創建は垂仁天皇26年(紀元前4年)であり、内宮正殿と同時に建てられています。社殿は内宮に準じた内削ぎの千木と6本の鰹木を持つ萱葺の神明造です。祭神には天照大御神荒御魂を祀り、ご神体は鏡です。神様の御魂の穏やかな働きを「和御魂」と称するのに対し、荒々しく格別に顕著な神威を現わす御魂の働きを「荒御魂」と称します。荒御魂は積極的かつ活動的な神霊であり、古来困り事があれば助けてくださる、長生きさせてくださると伊勢の人々の信仰を集めてきました。開運や出世、健康祈願、子孫繁栄、魔除け、厄除けのご利益があるそうですが、お願い事をする前に神様への感謝を伝えることを忘れないでください。

  • 荒祭宮<br />社殿の前に設けられている屋根は、幄舎(あくしゃ)と言い、「日除け、雨除け」の役割を果たします。ただし、天皇陛下などの参拝時や儀式の際にしか使われません。神宮の祭祀は社殿の前庭で斎行するのが基本であり、幌舎は雨天の際に濡れないようにと人の都合で後世に造られたものです。<br />空海著『中臣祓訓解』や『倭姫命世記』、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』、『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮の祭神 天照大御神荒御魂の別名に瀬織津姫と八十禍津日神を記しています。また『記紀』の原典とされる『ホツマツタヱ』は、アマテル大御神(男神)は13人の妃を持ち、その正妃が瀬織津姫と伝えます。つまり、瀬織津姫は天照大御神が女神化される前から存在した神様です。<br />これらから荒祭宮で個人的なお願いができる理由が浮かんできます。アマテル大御神は国を治めるため近隣諸国への行幸が絶えず、その不在がちなアマテルの代わりに民衆の陳情を聴き、それに相応しい采配を振るったのが瀬織津姫だったからです。

    荒祭宮
    社殿の前に設けられている屋根は、幄舎(あくしゃ)と言い、「日除け、雨除け」の役割を果たします。ただし、天皇陛下などの参拝時や儀式の際にしか使われません。神宮の祭祀は社殿の前庭で斎行するのが基本であり、幌舎は雨天の際に濡れないようにと人の都合で後世に造られたものです。
    空海著『中臣祓訓解』や『倭姫命世記』、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』、『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮の祭神 天照大御神荒御魂の別名に瀬織津姫と八十禍津日神を記しています。また『記紀』の原典とされる『ホツマツタヱ』は、アマテル大御神(男神)は13人の妃を持ち、その正妃が瀬織津姫と伝えます。つまり、瀬織津姫は天照大御神が女神化される前から存在した神様です。
    これらから荒祭宮で個人的なお願いができる理由が浮かんできます。アマテル大御神は国を治めるため近隣諸国への行幸が絶えず、その不在がちなアマテルの代わりに民衆の陳情を聴き、それに相応しい采配を振るったのが瀬織津姫だったからです。

  • 荒祭宮<br />式年遷宮は室町時代に約130年間実施されなかった時期があります。<br />その理由は、戦乱で幕府が弱体化したことや、全国から檜材などの費用を徴収する役夫工米(臨時の税米)の制度が崩壊したなどが挙げられます。<br />そんな折、名も無き尼寺(後に慶光院の号を勅賜)に住み、諸国を勧進して歩いた清順尼と周養尼の尽力により、民衆や大名などから寄付が集まり、1563年に外宮で129年ぶりに遷宮が復活。しかし内宮遷宮については目途が立ちませんでした。なんとか遷宮をと願った人々が頼ったのが織田信長でした。信長を訪れ、千貫の寄付を請いました。すると信長は「千貫では不足するだろうから、三千貫出す。更に必要なら資金援助する」と申し出たと伝えます。<br />こうして信長のおかげで復活するはずだった内宮の式年遷宮ですが、その4ヶ月後の1582年6月に「本能寺の変」で信長が討たれたため、遷宮が頓挫するという憂き目に遭ったそうです。

    荒祭宮
    式年遷宮は室町時代に約130年間実施されなかった時期があります。
    その理由は、戦乱で幕府が弱体化したことや、全国から檜材などの費用を徴収する役夫工米(臨時の税米)の制度が崩壊したなどが挙げられます。
    そんな折、名も無き尼寺(後に慶光院の号を勅賜)に住み、諸国を勧進して歩いた清順尼と周養尼の尽力により、民衆や大名などから寄付が集まり、1563年に外宮で129年ぶりに遷宮が復活。しかし内宮遷宮については目途が立ちませんでした。なんとか遷宮をと願った人々が頼ったのが織田信長でした。信長を訪れ、千貫の寄付を請いました。すると信長は「千貫では不足するだろうから、三千貫出す。更に必要なら資金援助する」と申し出たと伝えます。
    こうして信長のおかげで復活するはずだった内宮の式年遷宮ですが、その4ヶ月後の1582年6月に「本能寺の変」で信長が討たれたため、遷宮が頓挫するという憂き目に遭ったそうです。

  • 荒祭宮<br />その後、手を差し伸べたのが豊臣秀吉でした。秀吉は1584年に遷宮費用を献納し、その翌年に123年ぶりに内宮の遷宮が復活。この年から内宮・外宮の遷宮は同時進行されるようになりました。<br />因みに、秀吉は豊受大御神を篤く崇拝していたそうです。「伊勢稲荷」は外宮の豊受大御神を指すそうですが、それを裏付けるかのように、神戸市にある豊国稲荷神社では豊臣秀吉をご神体とした豊国大神を主祭神、そして相殿として豊受大神と稲倉魂大神を祀ります。<br />因みに吝嗇家の徳川家康は、米6万俵の寄進に留めています。但し、その後江戸幕府は13回に及ぶ遷宮を公儀で行っています。 <br /><br />この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑨伊勢神宮 内宮(皇大神宮)後編でお届けします。

    荒祭宮
    その後、手を差し伸べたのが豊臣秀吉でした。秀吉は1584年に遷宮費用を献納し、その翌年に123年ぶりに内宮の遷宮が復活。この年から内宮・外宮の遷宮は同時進行されるようになりました。
    因みに、秀吉は豊受大御神を篤く崇拝していたそうです。「伊勢稲荷」は外宮の豊受大御神を指すそうですが、それを裏付けるかのように、神戸市にある豊国稲荷神社では豊臣秀吉をご神体とした豊国大神を主祭神、そして相殿として豊受大神と稲倉魂大神を祀ります。
    因みに吝嗇家の徳川家康は、米6万俵の寄進に留めています。但し、その後江戸幕府は13回に及ぶ遷宮を公儀で行っています。

    この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑨伊勢神宮 内宮(皇大神宮)後編でお届けします。

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