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鳥羽水族館を3時間ほど堪能した後は、明日の伊勢神宮参拝に先立って二見浦海岸で「浜参宮」なる心身の禊をするため、二見興玉神社へ向かいました。<br />JR二見浦駅から二見興玉神社までは夫婦岩表参道が続いています。その参道沿いには明治~大正時代に建造された老舗旅館や土産物店などが軒を連ねており、気軽に立ち寄ってみるのも旅の慰めとなります。<br />参道沿いには特に老舗旅館が多く立ち並び、その代表格となる朝日館には昭和天皇やラストエンペラー 溥儀が宿泊された貴賓室「雲井の間」があります。<br />こうした古い建物を見ながらそぞろ歩けば、いつしか大正ロマンの世界にタイムスリップできること間違いなしです。

青嵐薫風 伊勢紀行③夫婦岩表参道

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2024/04/18 - 2024/04/19

5位(同エリア282件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

鳥羽水族館を3時間ほど堪能した後は、明日の伊勢神宮参拝に先立って二見浦海岸で「浜参宮」なる心身の禊をするため、二見興玉神社へ向かいました。
JR二見浦駅から二見興玉神社までは夫婦岩表参道が続いています。その参道沿いには明治~大正時代に建造された老舗旅館や土産物店などが軒を連ねており、気軽に立ち寄ってみるのも旅の慰めとなります。
参道沿いには特に老舗旅館が多く立ち並び、その代表格となる朝日館には昭和天皇やラストエンペラー 溥儀が宿泊された貴賓室「雲井の間」があります。
こうした古い建物を見ながらそぞろ歩けば、いつしか大正ロマンの世界にタイムスリップできること間違いなしです。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 私鉄

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  • JR参宮線 鳥羽駅<br />名古屋行 快速「みえ」で二見浦駅へ向かいます。参宮線は非電化区間であるため、	2両編成のキハ75形気動車によって運行されています。2両編成の運転時は鳥羽寄りの1号車の半分が普通車指定席です。<br />注意点は、二見浦駅が無人駅で切符の自販機も置かれていないため、JRを利用して往復する場合は往復切符を購入する必要があることです。尚、往路の切符は車掌さんと運転手さんが回収されます。今回は検札の際に車掌さんが回収されました。

    JR参宮線 鳥羽駅
    名古屋行 快速「みえ」で二見浦駅へ向かいます。参宮線は非電化区間であるため、 2両編成のキハ75形気動車によって運行されています。2両編成の運転時は鳥羽寄りの1号車の半分が普通車指定席です。
    注意点は、二見浦駅が無人駅で切符の自販機も置かれていないため、JRを利用して往復する場合は往復切符を購入する必要があることです。尚、往路の切符は車掌さんと運転手さんが回収されます。今回は検札の際に車掌さんが回収されました。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />乗車7分で二見浦駅に到着です。<br />戦前の参宮線は複線だったそうですが、現在は単線化されています。そのため、鳥羽行 快速「みえ」と名古屋行 快速「みえ」はこのようにして行き違えることになります。<br />島式1面2線のホームの有効長は長く、10輛編成の列車でも余裕で停まれそうです。かつては長い客車を連ねた列車が発着していたことが偲ばれます。

    JR参宮線 二見浦駅
    乗車7分で二見浦駅に到着です。
    戦前の参宮線は複線だったそうですが、現在は単線化されています。そのため、鳥羽行 快速「みえ」と名古屋行 快速「みえ」はこのようにして行き違えることになります。
    島式1面2線のホームの有効長は長く、10輛編成の列車でも余裕で停まれそうです。かつては長い客車を連ねた列車が発着していたことが偲ばれます。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />JR参宮線の歴史は1890(明治23)年に私鉄 参宮鉄道会社が創立されたことに始まります。1893(明治26)年に津~宮川間まで延線され、その4年後に山田(現 伊勢市)まで到達しました。東海道本線の全通(1889年)から僅か8年後という快挙です。亀山~津間は現在のJR関西本線を敷設した関西鉄道会社が敷設した線路であり、そこに連絡する形で参宮鉄道の津~山田間が敷設されました。<br />因みに関西鉄道が網島(大阪)から名古屋まで到達したのは1898(明治31)年ですから、往時の伊勢神宮への鉄路が如何に重要視されていたかが見てとれます。

    JR参宮線 二見浦駅
    JR参宮線の歴史は1890(明治23)年に私鉄 参宮鉄道会社が創立されたことに始まります。1893(明治26)年に津~宮川間まで延線され、その4年後に山田(現 伊勢市)まで到達しました。東海道本線の全通(1889年)から僅か8年後という快挙です。亀山~津間は現在のJR関西本線を敷設した関西鉄道会社が敷設した線路であり、そこに連絡する形で参宮鉄道の津~山田間が敷設されました。
    因みに関西鉄道が網島(大阪)から名古屋まで到達したのは1898(明治31)年ですから、往時の伊勢神宮への鉄路が如何に重要視されていたかが見てとれます。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />ホーム~駅舎間はこのように地下道で結ばれており、このクラスのローカル線としては比較的珍しいものです。<br /><br />1907(明治40)年、こうした私設鉄道も、日清・日露戦争を通じて軍事輸送の強化施策には抗えず、国有化されていきました。国有化以降、参宮線には、大阪や京都はもちろん、東京や宇野(四国航路の本州側ターミナル)からも直通列車が運行され、特に国家神道の華やかなりし時代は国内の最重要路線に匹敵する幹線でした。<br />その後、参宮急行電鉄(現 近鉄 山田線等)が大阪から伊勢に到達するのは1930(昭和5)年。関西急行電鉄(現 近鉄 名古屋線等)が開業して名古屋駅までレールが繋がるのは1938(昭和13)年のことでした。

    JR参宮線 二見浦駅
    ホーム~駅舎間はこのように地下道で結ばれており、このクラスのローカル線としては比較的珍しいものです。

    1907(明治40)年、こうした私設鉄道も、日清・日露戦争を通じて軍事輸送の強化施策には抗えず、国有化されていきました。国有化以降、参宮線には、大阪や京都はもちろん、東京や宇野(四国航路の本州側ターミナル)からも直通列車が運行され、特に国家神道の華やかなりし時代は国内の最重要路線に匹敵する幹線でした。
    その後、参宮急行電鉄(現 近鉄 山田線等)が大阪から伊勢に到達するのは1930(昭和5)年。関西急行電鉄(現 近鉄 名古屋線等)が開業して名古屋駅までレールが繋がるのは1938(昭和13)年のことでした。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />2011年に無人化されたため、駅舎内にある有人駅時代の切符売場にはシャッターが降ろされています。<br />

    JR参宮線 二見浦駅
    2011年に無人化されたため、駅舎内にある有人駅時代の切符売場にはシャッターが降ろされています。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />1993年に竣工した新駅舎のフォルムは夫婦岩をモチーフとしており、前面ガラス張りのモダンなデザインです。こうした意匠には古くから旅人を迎え入れてきた歴史ある観光地としての矜持が感じられ、微笑ましくもあります。

    JR参宮線 二見浦駅
    1993年に竣工した新駅舎のフォルムは夫婦岩をモチーフとしており、前面ガラス張りのモダンなデザインです。こうした意匠には古くから旅人を迎え入れてきた歴史ある観光地としての矜持が感じられ、微笑ましくもあります。

  • JR参宮線 二見浦駅<br />景勝地の二見浦は「ふたみがうら」と読みますが、JRの駅名は「ふたみのうら」です。<br />開業は1911(明治44)年7月。かつては東京や大阪からの直通列車も運行されていました。

    JR参宮線 二見浦駅
    景勝地の二見浦は「ふたみがうら」と読みますが、JRの駅名は「ふたみのうら」です。
    開業は1911(明治44)年7月。かつては東京や大阪からの直通列車も運行されていました。

  • 夫婦岩表参道 入口<br />伊勢神宮の神領地「二見」は古くから神宮参拝客の旅籠町として発展してきました。浜参宮と称する禊ぎの人達で賑わい、隆盛を極めた昭和時代初期の趣を今なお色濃く残す表参道の二見浦海岸沿いには、今では珍しい木造3階建の純和風旅館やこぢんまりとした土産物屋が軒を連ね、往時の繁栄ぶりを偲ばせます。

    夫婦岩表参道 入口
    伊勢神宮の神領地「二見」は古くから神宮参拝客の旅籠町として発展してきました。浜参宮と称する禊ぎの人達で賑わい、隆盛を極めた昭和時代初期の趣を今なお色濃く残す表参道の二見浦海岸沿いには、今では珍しい木造3階建の純和風旅館やこぢんまりとした土産物屋が軒を連ね、往時の繁栄ぶりを偲ばせます。

  • 参考のため、夫婦岩表参道のマップをアップしておきます。<br />「おひなさまめぐり in 二見」のマップです。

    参考のため、夫婦岩表参道のマップをアップしておきます。
    「おひなさまめぐり in 二見」のマップです。

  • 旭家 酒素饅頭製造本舗<br />1913(大正2)年創業。お酒や酒粕を一切使用せず、糀を自然発酵させた薄皮の生地に上品な甘さの北海道産小豆の自家製つぶ餡を包んだのが「酒素(さかもと)まんじゅう」です。<br />本酒素饅頭のため時間と共に皮が固くなるのが特徴で、その日のうちに食すのがベストだそうです。タイミングを逃した場合は、焼いて食べると美味しいそうです。

    旭家 酒素饅頭製造本舗
    1913(大正2)年創業。お酒や酒粕を一切使用せず、糀を自然発酵させた薄皮の生地に上品な甘さの北海道産小豆の自家製つぶ餡を包んだのが「酒素(さかもと)まんじゅう」です。
    本酒素饅頭のため時間と共に皮が固くなるのが特徴で、その日のうちに食すのがベストだそうです。タイミングを逃した場合は、焼いて食べると美味しいそうです。

  • 旭家 酒素饅頭製造本舗<br />地元では「さかまん」や「ひるかわ饅頭(創業者の名字)」と呼んで親しまれています。<br />因みに、「三重県で人気の和菓子」ランキング【2024年3月版/Googleクチコミ調べ】で1位に輝いています。地元に根付いた和菓子屋と言う立ち位置のようです。

    旭家 酒素饅頭製造本舗
    地元では「さかまん」や「ひるかわ饅頭(創業者の名字)」と呼んで親しまれています。
    因みに、「三重県で人気の和菓子」ランキング【2024年3月版/Googleクチコミ調べ】で1位に輝いています。地元に根付いた和菓子屋と言う立ち位置のようです。

  • 旭家 酒素饅頭製造本舗<br />かすれた金文字が歴史を感じさせます。

    旭家 酒素饅頭製造本舗
    かすれた金文字が歴史を感じさせます。

  • 旭家 酒素饅頭製造本舗<br />店の前にある黒板にはチョークで手書きされた酒素饅頭の説明書があります。<br />おばあちゃんの絵も味があります。

    旭家 酒素饅頭製造本舗
    店の前にある黒板にはチョークで手書きされた酒素饅頭の説明書があります。
    おばあちゃんの絵も味があります。

  • 旭家 酒素饅頭製造本舗<br />妻面にも複数の庇を設けた独特の意匠です。<br />また、妻面の2階部には外壁を30cm程張り出した「張り出し南張り囲い」と呼ばれる外囲いが設けられています。雨風の強い伊勢地方では雨が下から吹き上がってくるため、張り出させることで屋根と外壁の境目から雨が染み込むのを防ぐ知恵です。

    旭家 酒素饅頭製造本舗
    妻面にも複数の庇を設けた独特の意匠です。
    また、妻面の2階部には外壁を30cm程張り出した「張り出し南張り囲い」と呼ばれる外囲いが設けられています。雨風の強い伊勢地方では雨が下から吹き上がってくるため、張り出させることで屋根と外壁の境目から雨が染み込むのを防ぐ知恵です。

  • 御福餅本家 二見本店<br />1738(元文3)年に創業者 小橋長右衛門が宮川川畔に茶店を開設し、伊勢参宮に訪れる旅人に餡餅をお福分けしたことに始まります。店舗は1883(明治16)年にこの二見町茶屋へ移転し、この店舗は大正時代の建築となります。2024年3月31日に新二見本店が完成したため、現在は営業されていません。<br />新二見本店も参道沿いにあり、賓日館の右隣です。<br />この店舗は内宮前にある「おはらい町」の建物と同様に切妻、妻入りの町屋造です。また、1階の軒庇の垂木の先端には「軒がんぎ板」という板状の鼻隠しが垂直方向に据えられ、店先に雨や雪が入り込むのを防ぐ役割を果たしています。

    御福餅本家 二見本店
    1738(元文3)年に創業者 小橋長右衛門が宮川川畔に茶店を開設し、伊勢参宮に訪れる旅人に餡餅をお福分けしたことに始まります。店舗は1883(明治16)年にこの二見町茶屋へ移転し、この店舗は大正時代の建築となります。2024年3月31日に新二見本店が完成したため、現在は営業されていません。
    新二見本店も参道沿いにあり、賓日館の右隣です。
    この店舗は内宮前にある「おはらい町」の建物と同様に切妻、妻入りの町屋造です。また、1階の軒庇の垂木の先端には「軒がんぎ板」という板状の鼻隠しが垂直方向に据えられ、店先に雨や雪が入り込むのを防ぐ役割を果たしています。

  • 御福餅本家 二見本店<br />二見のお餅といえば「御福餅」です。<br />赤福餅と同じく柔らかい餅をこし餡でくるんだ、あんころ餅です。赤福餅と見た目は似ていますが、異なる点は表面の波模様が、赤福餅は五十鈴川の流れを表し、御福餅は二見浦の波を表していることです。<br />「御福」の名は、「天の岩戸」にて舞われて天照大御神の御心を慰めた天之鈿女命をモチーフにしたのが、ぷっくりとした頬に丸くて低い鼻、小さい目がなんとも可愛らしい「お福」であることに因みます。福すなわち幸福を招き入れるようにとの願いが込められています。現在も職人の手作業でひとつずつ作るのが拘りだそうです。

    御福餅本家 二見本店
    二見のお餅といえば「御福餅」です。
    赤福餅と同じく柔らかい餅をこし餡でくるんだ、あんころ餅です。赤福餅と見た目は似ていますが、異なる点は表面の波模様が、赤福餅は五十鈴川の流れを表し、御福餅は二見浦の波を表していることです。
    「御福」の名は、「天の岩戸」にて舞われて天照大御神の御心を慰めた天之鈿女命をモチーフにしたのが、ぷっくりとした頬に丸くて低い鼻、小さい目がなんとも可愛らしい「お福」であることに因みます。福すなわち幸福を招き入れるようにとの願いが込められています。現在も職人の手作業でひとつずつ作るのが拘りだそうです。

  • 御福餅本家 二見本店<br />この建物は今後どのように活かされていくのか気になる所です。<br />

    御福餅本家 二見本店
    この建物は今後どのように活かされていくのか気になる所です。

  • 菊一文字則宗 本店<br />打刃物専門店です。<br />明治時代から続く老舗で、包丁などの調理用から植木用、和洋裁用刃物まで幅広く販売されています。ビビッときたのが、お店の名です。司馬遼太郎著『新撰組血風録』にある、新撰組の1番隊組長 沖田総司の伝説の愛刀と同じだからです。<br />因みに「則宗」は、作刀が禁じられた明治時代以降に料理用などの刃物を製造する「株式会社 菊一文字」として創業しています。ここの店主に伺ったところ、商標は「菊一文字則宗」でも、菊一文字とは関係ないそうです。戦前までは刀剣を扱っていたそうですが、戦後は打刃物だけを扱うようになったそうです。

    菊一文字則宗 本店
    打刃物専門店です。
    明治時代から続く老舗で、包丁などの調理用から植木用、和洋裁用刃物まで幅広く販売されています。ビビッときたのが、お店の名です。司馬遼太郎著『新撰組血風録』にある、新撰組の1番隊組長 沖田総司の伝説の愛刀と同じだからです。
    因みに「則宗」は、作刀が禁じられた明治時代以降に料理用などの刃物を製造する「株式会社 菊一文字」として創業しています。ここの店主に伺ったところ、商標は「菊一文字則宗」でも、菊一文字とは関係ないそうです。戦前までは刀剣を扱っていたそうですが、戦後は打刃物だけを扱うようになったそうです。

  • 菊一文字則宗 本店<br />『新撰組血風録』の一部をかいつまんで紹介しておきます。<br />沖田総司は日頃懇意にしていた刀屋 播磨屋道伯の自慢の一太刀を鑑賞。その刀は二尺四寸二分、細身で腰反りが高く、刃文は一文字丁字。乱れは八重桜の花びらを置き並べて露を含ませたように美しかった。総司は一目で銘が菊一文字則宗であることに気が付くも、手を出せる品物ではなく諦めます。実際に百両の買い手がつきましたが、道伯は断っていたのです。そして道伯は、総司の差料の研ぎが終わるまで、その名刀を貸し出します。<br />土方歳三が総司のために菊一文字則宗を購入しようとするも、道伯に1万両という値を付けられます。返答に窮した歳三でしたが、道伯はとても総司を気に入っており、総司が腰に差すのであれば譲り渡すとの旨を告げます。<br />総司はその名刀ぶりに人を斬るのに使えず、刺客と出会った時には刀を抜かずに逃げたそうです。ただ一度だけ刀を抜いたことがあり、それが新撰組一番隊の隊士 日野助次郎が陸援隊の隊士 戸沢鷲郎に斬り殺された後です。待ち伏せした総司は刀を抜き、鷲郎を一刀のもとに斬り伏せたのでした。

    菊一文字則宗 本店
    『新撰組血風録』の一部をかいつまんで紹介しておきます。
    沖田総司は日頃懇意にしていた刀屋 播磨屋道伯の自慢の一太刀を鑑賞。その刀は二尺四寸二分、細身で腰反りが高く、刃文は一文字丁字。乱れは八重桜の花びらを置き並べて露を含ませたように美しかった。総司は一目で銘が菊一文字則宗であることに気が付くも、手を出せる品物ではなく諦めます。実際に百両の買い手がつきましたが、道伯は断っていたのです。そして道伯は、総司の差料の研ぎが終わるまで、その名刀を貸し出します。
    土方歳三が総司のために菊一文字則宗を購入しようとするも、道伯に1万両という値を付けられます。返答に窮した歳三でしたが、道伯はとても総司を気に入っており、総司が腰に差すのであれば譲り渡すとの旨を告げます。
    総司はその名刀ぶりに人を斬るのに使えず、刺客と出会った時には刀を抜かずに逃げたそうです。ただ一度だけ刀を抜いたことがあり、それが新撰組一番隊の隊士 日野助次郎が陸援隊の隊士 戸沢鷲郎に斬り殺された後です。待ち伏せした総司は刀を抜き、鷲郎を一刀のもとに斬り伏せたのでした。

  • 赤福 二見支店<br />赤福は創業1707(宝永4)年の老舗和菓子屋です。初代 浜田治兵衛が五十鈴川川畔に伊勢神宮参拝客をもてなすために開いた餅屋がその始まりです。<br />赤福の歴史を語る上で欠かせないのが、赤福「中興の祖」と称された8代目当主 濱田ますさんです。小豆や餅米、砂糖が統制品だった終戦前後の5年間、赤福餅の販売を中止しました。「ヤミの原材料で餅をつくったら、赤福でなくなる。『これが赤福か』と笑われる」と商人としての気概から店を閉じました。<br />1975(昭和59)年、そのますさんをモデルにしたTVドラマ『赤福のれん』が全国ネットで放映され、老舗の暖簾を守り続けるひたむきな姿が大反響を呼び、赤福餅が全国ブランドに伸し上るきっかけとなりました。

    赤福 二見支店
    赤福は創業1707(宝永4)年の老舗和菓子屋です。初代 浜田治兵衛が五十鈴川川畔に伊勢神宮参拝客をもてなすために開いた餅屋がその始まりです。
    赤福の歴史を語る上で欠かせないのが、赤福「中興の祖」と称された8代目当主 濱田ますさんです。小豆や餅米、砂糖が統制品だった終戦前後の5年間、赤福餅の販売を中止しました。「ヤミの原材料で餅をつくったら、赤福でなくなる。『これが赤福か』と笑われる」と商人としての気概から店を閉じました。
    1975(昭和59)年、そのますさんをモデルにしたTVドラマ『赤福のれん』が全国ネットで放映され、老舗の暖簾を守り続けるひたむきな姿が大反響を呼び、赤福餅が全国ブランドに伸し上るきっかけとなりました。

  • 赤福 二見支店<br />創業300周年に当たる2007年、赤福の暖簾はズタズタに傷付けられました。10代目当主 濱田益嗣氏は商人としての気概を学ぶことなく、大量生産・広域販売に経営路線を転じ、名古屋と大阪に製造工場を建てました。その結果、製造年月日表示の改竄などの食品衛生法違反で3ヶ月の営業禁止に処せられたのは記憶に新しいところです。益嗣氏は会長を引責辞任し、社長 典保氏(長男)は再建のため続投することになり、近代的な企業経営への転換を目指しました。<br />しかしその後に益嗣氏が断行したクーデターを、マスコミは「赤福のお家騒動」と大々的に報じました。2014年、益嗣氏の妻 勝子さんが代表取締役社母兼社長に就任し、益嗣氏が経営の実権を再び握ったのです。そして2017年に益嗣氏は代表取締役会長に返り咲きましたが、2020年に指定暴力団と12年間に亘り関係を持ったことで、会長及び関連会社の全役職を引責辞任しました。家業経営を守るための「我執」との見方もありますが、大量生産に舵を切ったのは益嗣氏であり、個人的には「天上天下唯我独尊」を全うし、「裸の王様」だったのではないかと思います。尚、現在の社長は勝子さんが務めています。<br />このようにますさん没後に勃発した数々の不祥事は赤福の名の由来となる「赤心慶福」に逆行するものでした。本来なら「暖簾を下す」ことにもなり兼ねない危機的状況を支えたのが従業員だったのでしょう。はたして12代目当主は、ますさんの「赤心」に回帰できるものやら…。

    赤福 二見支店
    創業300周年に当たる2007年、赤福の暖簾はズタズタに傷付けられました。10代目当主 濱田益嗣氏は商人としての気概を学ぶことなく、大量生産・広域販売に経営路線を転じ、名古屋と大阪に製造工場を建てました。その結果、製造年月日表示の改竄などの食品衛生法違反で3ヶ月の営業禁止に処せられたのは記憶に新しいところです。益嗣氏は会長を引責辞任し、社長 典保氏(長男)は再建のため続投することになり、近代的な企業経営への転換を目指しました。
    しかしその後に益嗣氏が断行したクーデターを、マスコミは「赤福のお家騒動」と大々的に報じました。2014年、益嗣氏の妻 勝子さんが代表取締役社母兼社長に就任し、益嗣氏が経営の実権を再び握ったのです。そして2017年に益嗣氏は代表取締役会長に返り咲きましたが、2020年に指定暴力団と12年間に亘り関係を持ったことで、会長及び関連会社の全役職を引責辞任しました。家業経営を守るための「我執」との見方もありますが、大量生産に舵を切ったのは益嗣氏であり、個人的には「天上天下唯我独尊」を全うし、「裸の王様」だったのではないかと思います。尚、現在の社長は勝子さんが務めています。
    このようにますさん没後に勃発した数々の不祥事は赤福の名の由来となる「赤心慶福」に逆行するものでした。本来なら「暖簾を下す」ことにもなり兼ねない危機的状況を支えたのが従業員だったのでしょう。はたして12代目当主は、ますさんの「赤心」に回帰できるものやら…。

  • 朝日館<br />二見浦は古くから「禊浜・清渚」と呼ばれ、伊勢神宮に参拝する前にここで身を清める慣わし(浜参宮)があり、参宮客で賑わいました。海岸線沿いは「江村(えむら)の出茶屋」や「立石茶屋」と呼ばれ、多くの茶屋や旅籠が軒を連ねていました。その後、立石茶屋には旅館を中心に町が形成され、現在の夫婦岩表参道になりました。現在でも表参道沿いには木造の老舗旅館や土産物店が立ち並び、暫しのタイムスリップを愉しむことができます。

    朝日館
    二見浦は古くから「禊浜・清渚」と呼ばれ、伊勢神宮に参拝する前にここで身を清める慣わし(浜参宮)があり、参宮客で賑わいました。海岸線沿いは「江村(えむら)の出茶屋」や「立石茶屋」と呼ばれ、多くの茶屋や旅籠が軒を連ねていました。その後、立石茶屋には旅館を中心に町が形成され、現在の夫婦岩表参道になりました。現在でも表参道沿いには木造の老舗旅館や土産物店が立ち並び、暫しのタイムスリップを愉しむことができます。

  • 朝日館<br />品よく鄙びた車寄せが往時の品格を黙して語ります。<br />創業300年を超える老舗旅館です。江戸時代は「角屋六郎右衛門」と称する本陣であり、老中 水野忠邦らが宿泊した記録があります。このように朝日館は賓日館と共に二見浦における貴賓の宿として利用されてきました。

    朝日館
    品よく鄙びた車寄せが往時の品格を黙して語ります。
    創業300年を超える老舗旅館です。江戸時代は「角屋六郎右衛門」と称する本陣であり、老中 水野忠邦らが宿泊した記録があります。このように朝日館は賓日館と共に二見浦における貴賓の宿として利用されてきました。

  • 朝日館(清風荘)<br />この棟はかつては貴賓用で「清風荘」と命名されています。1951(昭和26)年に昭和天皇、その他にも中国のラストエンペラー 溥儀が宿泊された貴賓室「雲井の間」があり、随所に歴史が感じられます。<br />1946(昭和21)年にはGHQが神宮を視察することになり、ウィリアム・K・バンス宗教課長一行が宿泊しています。内宮前の「すし久」での接待を受けた後、この旅館で芸者たちとダンスなどをして騒いだそうです。

    朝日館(清風荘)
    この棟はかつては貴賓用で「清風荘」と命名されています。1951(昭和26)年に昭和天皇、その他にも中国のラストエンペラー 溥儀が宿泊された貴賓室「雲井の間」があり、随所に歴史が感じられます。
    1946(昭和21)年にはGHQが神宮を視察することになり、ウィリアム・K・バンス宗教課長一行が宿泊しています。内宮前の「すし久」での接待を受けた後、この旅館で芸者たちとダンスなどをして騒いだそうです。

  • 朝日館(別館)<br />町家のように表側が道路に接する旅館が多い中、賓日館と同じように塀に囲まれた庭付の邸宅風旅館です。<br />格式の高さが見て取れます。<br />

    朝日館(別館)
    町家のように表側が道路に接する旅館が多い中、賓日館と同じように塀に囲まれた庭付の邸宅風旅館です。
    格式の高さが見て取れます。

  • 朝日館(別館)<br />裏手は二見浦公園の松林の間から二見浦海岸が見渡せます。

    朝日館(別館)
    裏手は二見浦公園の松林の間から二見浦海岸が見渡せます。

  • 西行の歌碑<br />旅館「朝日館」の裏手になる二見浦海岸線沿いに佇みます。<br />平安時代末期の歌人 西行は伊勢に幾度も足を運びました。また晩年の1180(治承4)年から6年間は、二見の安養山に草庵を結び『二見浦百首』を勧進しました。近年の安養寺跡の発掘調査では、西行の草庵の可能性がある遺構や遺物が発見されています。出家後間もなく伊勢を訪れ、晩年には伊勢の地に庵を結んだことから、僧侶であり歌人であった西行にとって伊勢はよほど愛着のある場所だったと窺えます。<br />「浪越すと 二見の松の 見えつるは  梢にかかる 霞なりけり」<br />(二見の松が二重に見える。波の飛沫のせいかと思ったが、実は梢に霞がかかっていたせいである。)<br />こよなく愛した二見の海辺の松にかかる霞を見て、春の到来したことを喜んで詠んだ歌です。

    西行の歌碑
    旅館「朝日館」の裏手になる二見浦海岸線沿いに佇みます。
    平安時代末期の歌人 西行は伊勢に幾度も足を運びました。また晩年の1180(治承4)年から6年間は、二見の安養山に草庵を結び『二見浦百首』を勧進しました。近年の安養寺跡の発掘調査では、西行の草庵の可能性がある遺構や遺物が発見されています。出家後間もなく伊勢を訪れ、晩年には伊勢の地に庵を結んだことから、僧侶であり歌人であった西行にとって伊勢はよほど愛着のある場所だったと窺えます。
    「浪越すと 二見の松の 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり」
    (二見の松が二重に見える。波の飛沫のせいかと思ったが、実は梢に霞がかかっていたせいである。)
    こよなく愛した二見の海辺の松にかかる霞を見て、春の到来したことを喜んで詠んだ歌です。

  • 西行の歌碑<br />西行が二見浦を詠んだ面白い歌があります。<br />「今ぞ知る 二見浦の 蛤を 貝合わせとて おほふなりけり」(『山家集』)<br />高貴な女性達が二見浦で蛤を採っている。貧しい海人ならいざ知らず、そんな人達が仏教が禁じる殺生を行うとは情けないことだと西行が説教した時、「都では貝合わせの遊戯が流行っており、その為に拾っている」と聞き及んで自己の勇み足を詠んだ歌です。「今ぞ知る」からは、食用にするために生きた貝を採集していると勘違いして説教した自分の知見の浅さを忸怩たる思いで反省する様子が窺え微笑ましくなります。

    西行の歌碑
    西行が二見浦を詠んだ面白い歌があります。
    「今ぞ知る 二見浦の 蛤を 貝合わせとて おほふなりけり」(『山家集』)
    高貴な女性達が二見浦で蛤を採っている。貧しい海人ならいざ知らず、そんな人達が仏教が禁じる殺生を行うとは情けないことだと西行が説教した時、「都では貝合わせの遊戯が流行っており、その為に拾っている」と聞き及んで自己の勇み足を詠んだ歌です。「今ぞ知る」からは、食用にするために生きた貝を採集していると勘違いして説教した自分の知見の浅さを忸怩たる思いで反省する様子が窺え微笑ましくなります。

  • 旧浜松旅館<br />参道の右手にある旧浜松旅館です。<br />毎年、桃の節句の頃(2月上旬~3月上旬)には、「おひなさまめぐり in 二見」において雛人形が飾られ、その時には往時の賑わいを偲ばせます。

    旧浜松旅館
    参道の右手にある旧浜松旅館です。
    毎年、桃の節句の頃(2月上旬~3月上旬)には、「おひなさまめぐり in 二見」において雛人形が飾られ、その時には往時の賑わいを偲ばせます。

  • 戦後の昭和20年代に建てられた木造3階建の旅館建築としては末期に当たる建物とされます。

    戦後の昭和20年代に建てられた木造3階建の旅館建築としては末期に当たる建物とされます。

  • 旧見濱屋旅館<br />現在、旅館は営業されていないようです。

    旧見濱屋旅館
    現在、旅館は営業されていないようです。

  • 西修商店<br />主に貝殻と伊勢の木工玩具、鉱物、陶器の蛙などを販売しています。特に貝殻と鉱物は他店にない品揃えを誇ります。1個50円から小売りしており、その種類の豊富さに圧倒されます。貝殻を手に取って見ていると童心に帰った気がしてきます。<br />かつては修学旅行で二見を訪れた子どもたちがこぞって来店した定番のお土産屋さんでした。

    西修商店
    主に貝殻と伊勢の木工玩具、鉱物、陶器の蛙などを販売しています。特に貝殻と鉱物は他店にない品揃えを誇ります。1個50円から小売りしており、その種類の豊富さに圧倒されます。貝殻を手に取って見ていると童心に帰った気がしてきます。
    かつては修学旅行で二見を訪れた子どもたちがこぞって来店した定番のお土産屋さんでした。

  • ブージィー&エルカ<br />夫婦岩近くにある二見興玉神社のご祭神は猿田彦大神(道開きの神、交通安全の神様)であり、蛙はそのお使いとされることから「蛙」は二見浦のシンボル的存在です。<br />二見に来て「無事帰る」の語呂合わせから命名された「ゆるキャラ」のブージィーくんとエルカちゃんは「おひなさまめぐり in 二見」のマスコットでもあります。

    ブージィー&エルカ
    夫婦岩近くにある二見興玉神社のご祭神は猿田彦大神(道開きの神、交通安全の神様)であり、蛙はそのお使いとされることから「蛙」は二見浦のシンボル的存在です。
    二見に来て「無事帰る」の語呂合わせから命名された「ゆるキャラ」のブージィーくんとエルカちゃんは「おひなさまめぐり in 二見」のマスコットでもあります。

  • 多市屋<br />夫婦岩表参道の中程にあり、1877(明治10)年創業の夫婦で営む老舗食堂です。<br />目の前の二見海岸では、かつてはアサリ貝がよく採れました。そのため貝類を使った「貝飯(かいめし)=貝の炊き込みご飯」が二見の郷土食となっています。<br />伊勢の旬な素材をふんだんに使ったメニューの中でも、ここでしか味わえない「サザエの貝飯」がお勧めです。

    多市屋
    夫婦岩表参道の中程にあり、1877(明治10)年創業の夫婦で営む老舗食堂です。
    目の前の二見海岸では、かつてはアサリ貝がよく採れました。そのため貝類を使った「貝飯(かいめし)=貝の炊き込みご飯」が二見の郷土食となっています。
    伊勢の旬な素材をふんだんに使ったメニューの中でも、ここでしか味わえない「サザエの貝飯」がお勧めです。

  • いろは館<br />大正時代創業の建物ですが、現在は麻野館の別館という位置付けです。<br />この大きさで総2階造というダイナミックな建築には圧倒されます。<br />56畳の折上格天井の大広間を誇り、今でも修学旅行の生徒さんたちは枕投げなどをしているのでしょうか?

    いろは館
    大正時代創業の建物ですが、現在は麻野館の別館という位置付けです。
    この大きさで総2階造というダイナミックな建築には圧倒されます。
    56畳の折上格天井の大広間を誇り、今でも修学旅行の生徒さんたちは枕投げなどをしているのでしょうか?

  • いろは館<br />意外なのは玄関に巨大な鉄製オブジェが置かれていることです。<br />20世紀フォックス所属の「プレデター」と「エイリアン」を彷彿とさせるインパクトのあるリアルなスクラップアートです。<br />旅館の方に一言声を掛ければ、玄関に入って写真を撮らせていただけます。

    いろは館
    意外なのは玄関に巨大な鉄製オブジェが置かれていることです。
    20世紀フォックス所属の「プレデター」と「エイリアン」を彷彿とさせるインパクトのあるリアルなスクラップアートです。
    旅館の方に一言声を掛ければ、玄関に入って写真を撮らせていただけます。

  • いろは館<br />タイのアーティスト Rungroja Saengwongpaisarn氏の作品だそうです。<br />バネやバイクのチェーン、テーパローラベアリング、HONDAのロゴが入ったバイク部品などが使われています。ディテールに迫ってみるのも面白いかもしれません。

    いろは館
    タイのアーティスト Rungroja Saengwongpaisarn氏の作品だそうです。
    バネやバイクのチェーン、テーパローラベアリング、HONDAのロゴが入ったバイク部品などが使われています。ディテールに迫ってみるのも面白いかもしれません。

  • いろは館<br />「おひなさまめぐり」で戸を開けた途端、こんなオブジェに遭遇したら度肝を抜かれること間違いなし!?<br />足元には小型のエイリアンも配され、映画『エイリアン2』の世界観を再現しています。

    いろは館
    「おひなさまめぐり」で戸を開けた途端、こんなオブジェに遭遇したら度肝を抜かれること間違いなし!?
    足元には小型のエイリアンも配され、映画『エイリアン2』の世界観を再現しています。

  • いろは館<br />スクラップアートとは言え、精巧に制作された作品ですので一見の価値があります。

    いろは館
    スクラップアートとは言え、精巧に制作された作品ですので一見の価値があります。

  • いろは館<br />「プレデター」・「エイリアン」と旅館の外観とのギャップにたじろぎながら退散します。

    いろは館
    「プレデター」・「エイリアン」と旅館の外観とのギャップにたじろぎながら退散します。

  • 植松錦波軒<br />食料品卸売や土産品のお店です。<br />阪本徳次郎編『二見名勝誌』(1920年出版)にも登場する老舗です。<br />

    植松錦波軒
    食料品卸売や土産品のお店です。
    阪本徳次郎編『二見名勝誌』(1920年出版)にも登場する老舗です。

  • 植松錦波軒<br />軒にも注目です。<br />「カエル」と「ネコ」、「鬼」が飾られ、遊び心満点です。

    植松錦波軒
    軒にも注目です。
    「カエル」と「ネコ」、「鬼」が飾られ、遊び心満点です。

  • 松阪屋吸霞園<br />いろは館と麻野館の間に挟まれています。<br />外観上、一部の和館を残して建て替えてたように窺えます。<br />和館は他の旅館と同様に入母屋造、妻入の古色蒼然たる建物です。

    松阪屋吸霞園
    いろは館と麻野館の間に挟まれています。
    外観上、一部の和館を残して建て替えてたように窺えます。
    和館は他の旅館と同様に入母屋造、妻入の古色蒼然たる建物です。

  • 麻野館<br />1893(明治26)年創業当初からの建物に大正~昭和時代初期にかけて増改築を加えた、木造、一部3階建ての威風堂々とした旅館です。

    麻野館
    1893(明治26)年創業当初からの建物に大正~昭和時代初期にかけて増改築を加えた、木造、一部3階建ての威風堂々とした旅館です。

  • 麻野館<br />床板から音が鳴る「鴬張りの廊下」も名物のひとつです。因みに、明治20年創建の重文「賓日館」と同じ建築家によって建設されたそうですが、その建築家の名前を確認したところ、不明だそうです。そんなこともあるのでしょう。<br />2014(平成26)年に玄関棟・広間棟・土蔵が国登録有形文化財となっています。

    麻野館
    床板から音が鳴る「鴬張りの廊下」も名物のひとつです。因みに、明治20年創建の重文「賓日館」と同じ建築家によって建設されたそうですが、その建築家の名前を確認したところ、不明だそうです。そんなこともあるのでしょう。
    2014(平成26)年に玄関棟・広間棟・土蔵が国登録有形文化財となっています。

  • 麻野館<br />鬼瓦の紋は「三つ柏」のバリエーションのようです。<br />このように2枚の葉が垂れ下がってるのは初見です。<br />「三つ柏」の家紋としての使用家は、神宮では伊勢神宮の久志本氏、吉田神道のト部氏、熱海新宮の千秋氏、吉備津宮の大森氏、宗像神社の宗像氏などがあります。<br />家紋としては信仰的な意義で神職の関係者に用いられ、また柏の葉は新芽が出る翌年まで古い葉が落ちない特性があることから、「代が途切れない」として公家・武家に愛されました。

    麻野館
    鬼瓦の紋は「三つ柏」のバリエーションのようです。
    このように2枚の葉が垂れ下がってるのは初見です。
    「三つ柏」の家紋としての使用家は、神宮では伊勢神宮の久志本氏、吉田神道のト部氏、熱海新宮の千秋氏、吉備津宮の大森氏、宗像神社の宗像氏などがあります。
    家紋としては信仰的な意義で神職の関係者に用いられ、また柏の葉は新芽が出る翌年まで古い葉が落ちない特性があることから、「代が途切れない」として公家・武家に愛されました。

  • かどふさ物産店<br />麻野館の先にある古民家の雰囲気を湛える雑貨店です。<br />店内には伊勢志摩の特産品や雑貨が並ぶ他、喫茶コーナーもあり、猿田彦珈琲と店主の二見に関するディープな蘊蓄が名物です。

    かどふさ物産店
    麻野館の先にある古民家の雰囲気を湛える雑貨店です。
    店内には伊勢志摩の特産品や雑貨が並ぶ他、喫茶コーナーもあり、猿田彦珈琲と店主の二見に関するディープな蘊蓄が名物です。

  • かどふさ物産店<br />余談ですが、猿田彦珈琲の名前は伊勢 猿田彦神社に因むそうです。<br />コーヒーショップのロゴマークのデザインをヒロ杉山さんに頼んだところ、ロゴと共に「猿田彦」というネーミングも提案されたそうです。その後、猿田彦珈琲という名で営業をしていたところ、猿田彦神社の宮司さんがショップを訪れ、「よかったら一緒にやりませんか?」と声をかけてくださり、神社公認となったそうです。その後、「みちひらきブレンドドリップバッグ」が猿田彦神社の婚礼の引出もののひとつとなったそうです。

    かどふさ物産店
    余談ですが、猿田彦珈琲の名前は伊勢 猿田彦神社に因むそうです。
    コーヒーショップのロゴマークのデザインをヒロ杉山さんに頼んだところ、ロゴと共に「猿田彦」というネーミングも提案されたそうです。その後、猿田彦珈琲という名で営業をしていたところ、猿田彦神社の宮司さんがショップを訪れ、「よかったら一緒にやりませんか?」と声をかけてくださり、神社公認となったそうです。その後、「みちひらきブレンドドリップバッグ」が猿田彦神社の婚礼の引出もののひとつとなったそうです。

  • かどふさ物産店<br />2021年には超大型リゾート施設「VISON(ヴィソン)」に三重県初のチェーン店「猿田彦珈琲 伊勢国 多気店」がオープンしました。<br />因みに、待望の大阪1号店となる「猿田彦珈琲 大阪駅 イノゲート」は2024年夏にオープンします。乞うご期待!

    かどふさ物産店
    2021年には超大型リゾート施設「VISON(ヴィソン)」に三重県初のチェーン店「猿田彦珈琲 伊勢国 多気店」がオープンしました。
    因みに、待望の大阪1号店となる「猿田彦珈琲 大阪駅 イノゲート」は2024年夏にオープンします。乞うご期待!

  • 角谷物産店<br />雰囲気的に営業されていないように窺えます。

    角谷物産店
    雰囲気的に営業されていないように窺えます。

  • 五十鈴勢語庵<br />大正15年創業の老舗です。創業時はお土産物を中心に取り扱う店舗でしたが、昭和時代に和菓子も始めたそうです。<br />現在は看板商品「岩戸の塩ようかん」の製造に専念されています。

    五十鈴勢語庵
    大正15年創業の老舗です。創業時はお土産物を中心に取り扱う店舗でしたが、昭和時代に和菓子も始めたそうです。
    現在は看板商品「岩戸の塩ようかん」の製造に専念されています。

  • 五十鈴勢語庵<br />「岩戸の塩ようかん」は、まろやかな「岩戸の塩」を満喫できるように「伊勢二見らしい和菓子」として、2代目が考案したそうです。モットーは「正直なものづくり」。これからも「岩戸の塩ようかん」の味を守り続け、五十鈴勢語庵の歴史を紡ぎ続けていくことでしょう。

    五十鈴勢語庵
    「岩戸の塩ようかん」は、まろやかな「岩戸の塩」を満喫できるように「伊勢二見らしい和菓子」として、2代目が考案したそうです。モットーは「正直なものづくり」。これからも「岩戸の塩ようかん」の味を守り続け、五十鈴勢語庵の歴史を紡ぎ続けていくことでしょう。

  • 五十鈴勢語庵<br />二見神前海岸の淡水と海水の交じりあったところで、塩水を汲み炊き上げた「二見岩戸の塩」。塩ようかんは厳選された上質の小豆にその岩戸の塩を使い、余分な添加物を加えずにじっくり練り上げた羊羹です。

    五十鈴勢語庵
    二見神前海岸の淡水と海水の交じりあったところで、塩水を汲み炊き上げた「二見岩戸の塩」。塩ようかんは厳選された上質の小豆にその岩戸の塩を使い、余分な添加物を加えずにじっくり練り上げた羊羹です。

  • 大田館<br />ここも大正時代創業の老舗の宿です。<br />

    大田館
    ここも大正時代創業の老舗の宿です。

  • 浜千代館<br />1889(明治22)年創業の老舗旅館です。<br />キャッチフレーズが「ジャズが流れる浜辺のお宿」とあり、少し調べてみました。1998年から月に1回、館内でジャズライブを開かれているようです。個人レベルで出来る「町おこし」を目指し、本格的なジャズライブを催していたことから進化した、アットホームなおもてなしライブ(荷物にならないお土産)だそうです。因みにヴォーカルは、ジャズシンガーでもある若女将さんです!

    浜千代館
    1889(明治22)年創業の老舗旅館です。
    キャッチフレーズが「ジャズが流れる浜辺のお宿」とあり、少し調べてみました。1998年から月に1回、館内でジャズライブを開かれているようです。個人レベルで出来る「町おこし」を目指し、本格的なジャズライブを催していたことから進化した、アットホームなおもてなしライブ(荷物にならないお土産)だそうです。因みにヴォーカルは、ジャズシンガーでもある若女将さんです!

  • 浜千代館<br />2009年のリニューアルで『恋語りの間』と命名された2階には「黒潮」「金波」「銀波」「曙」とネーミングされた部屋があります。2012年には3階を『恋実りの間』にリニューアルして「高砂」「福寿」「寿」「相生」という部屋に改名。これらの名称は全て結婚式やお祝い事に用いられるおめでたい言葉です。<br />2階『恋語りの間』の上階を「恋が成就する」、「結婚できる」、「プロポーズする」ための部屋にしたいとの思いからだそうです。

    浜千代館
    2009年のリニューアルで『恋語りの間』と命名された2階には「黒潮」「金波」「銀波」「曙」とネーミングされた部屋があります。2012年には3階を『恋実りの間』にリニューアルして「高砂」「福寿」「寿」「相生」という部屋に改名。これらの名称は全て結婚式やお祝い事に用いられるおめでたい言葉です。
    2階『恋語りの間』の上階を「恋が成就する」、「結婚できる」、「プロポーズする」ための部屋にしたいとの思いからだそうです。

  • 浜千代館<br />鬼瓦の紋は「三つ細蔓柏」です。<br />柏紋の一つで三柏の間に三本の蔓が生えてるものを蔓柏と言います。<br />七福神の一柱でもある恵比寿様の神紋としても有名です。元禄期に四宮源八郎という歌舞伎役者が顔見世興行の恵比寿役で大当たりし、その人気にあやかり浅草の仏師が木彫りの恵比寿様に神紋を彫って販売したところ、飛ぶように売れたとのエピソードがあります。

    浜千代館
    鬼瓦の紋は「三つ細蔓柏」です。
    柏紋の一つで三柏の間に三本の蔓が生えてるものを蔓柏と言います。
    七福神の一柱でもある恵比寿様の神紋としても有名です。元禄期に四宮源八郎という歌舞伎役者が顔見世興行の恵比寿役で大当たりし、その人気にあやかり浅草の仏師が木彫りの恵比寿様に神紋を彫って販売したところ、飛ぶように売れたとのエピソードがあります。

  • 御福餅本家 二見新本店<br />看板商品「御福餅」の製造拡大を目指し、二見町茶屋に店舗併設の新工場が二見館本館跡地にオープンしました。和風スイーツが楽しめる「甘味処」も併設され、観光客の受け入れに備えたものです。<br />鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造の3階建ですが、国の名勝地区に相応しい外観となるよう、入母屋屋根や横長の板を重ねた下見板張りの壁面など伝統的な建築様式を取り入れています。

    御福餅本家 二見新本店
    看板商品「御福餅」の製造拡大を目指し、二見町茶屋に店舗併設の新工場が二見館本館跡地にオープンしました。和風スイーツが楽しめる「甘味処」も併設され、観光客の受け入れに備えたものです。
    鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造の3階建ですが、国の名勝地区に相応しい外観となるよう、入母屋屋根や横長の板を重ねた下見板張りの壁面など伝統的な建築様式を取り入れています。

  • 松尾芭蕉の句碑(二見館跡地前)<br />西行を慕って鴨長明など文人墨客の伊勢への往来が盛んになり、芭蕉もこの地を訪れて句を詠みました。『おくの細道』を終えて故郷 伊賀上野への帰途、芭蕉は大垣から伊勢神宮を目指し、西行を偲んで二見浦へ足を運びました。<br />『泊船集』には「二見の圖を拝み侍りて」と前書きし、<br />「うたがふな 潮の花も 浦の春」と詠みました。<br />(二見の春は他と違って夫婦岩に砕け散る波の花でその訪れを知ることができる。それは疑いようもない事実である。) <br />芭蕉が二見浦を訪れたのは1689(元禄2)年、46歳の時でした。「うたがふな」「うしほ」「うら」と「う」で韻を踏んでリズムに工夫を凝らした興味深い句です。

    松尾芭蕉の句碑(二見館跡地前)
    西行を慕って鴨長明など文人墨客の伊勢への往来が盛んになり、芭蕉もこの地を訪れて句を詠みました。『おくの細道』を終えて故郷 伊賀上野への帰途、芭蕉は大垣から伊勢神宮を目指し、西行を偲んで二見浦へ足を運びました。
    『泊船集』には「二見の圖を拝み侍りて」と前書きし、
    「うたがふな 潮の花も 浦の春」と詠みました。
    (二見の春は他と違って夫婦岩に砕け散る波の花でその訪れを知ることができる。それは疑いようもない事実である。) 
    芭蕉が二見浦を訪れたのは1689(元禄2)年、46歳の時でした。「うたがふな」「うしほ」「うら」と「う」で韻を踏んでリズムに工夫を凝らした興味深い句です。

  • 本居宣長の歌碑<br />何故か歌碑に向かって、カバの遊具が口をあんぐりと開けています。<br />特段の意図はないと思われますが…。

    本居宣長の歌碑
    何故か歌碑に向かって、カバの遊具が口をあんぐりと開けています。
    特段の意図はないと思われますが…。

  • 本居宣長の歌碑<br />1987年に建立された歌碑です。<br />「かはらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契りは」<br />夫婦の契りは二見浦の夫婦岩のように堅固で変わるものではない、と悟ったという意味です。<br />1800(寛政12)年に二見浦の絵の賛として詠まれた歌です。二見浦と言えば日の出が定番ですが、これを有名にするのに一役も二役も買ったのがこの歌でした。<br />宣長は伊勢松坂の豪商 小津家の出身であり、二見浦には何度も訪れているそうです。自宅の鈴屋にて門人を集めて講義をしたことから、鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれました。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に「国学の四大人」のひとりとされます。

    本居宣長の歌碑
    1987年に建立された歌碑です。
    「かはらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契りは」
    夫婦の契りは二見浦の夫婦岩のように堅固で変わるものではない、と悟ったという意味です。
    1800(寛政12)年に二見浦の絵の賛として詠まれた歌です。二見浦と言えば日の出が定番ですが、これを有名にするのに一役も二役も買ったのがこの歌でした。
    宣長は伊勢松坂の豪商 小津家の出身であり、二見浦には何度も訪れているそうです。自宅の鈴屋にて門人を集めて講義をしたことから、鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれました。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に「国学の四大人」のひとりとされます。

  • 岩戸館<br />みそぎの町二見浦の「塩結びの宿」というキャッチフレーズです。<br />先代の女将が体を壊した家族の体質改善のために、二見の海水で塩作りをしたことで誕生したのが「岩戸の塩」です。この塩を使い、心と体に優しい素朴な料理を提供されています。「岩戸の塩」は癌と認知症に効果てきめんだそうです。また、万病の元である低体温症や女性の鉄・亜鉛不足にも効用があるそうです。岩戸の塩のにがりが入った「塩の湯」は旅館の名物だそうです。<br />因みにここは、小学校の修学旅行で宿泊した思い出の旅館です。<br />往時は木造でした。<br /><br />この続きは青嵐薫風 伊勢紀行④賓日館(前編)でお届けします。

    岩戸館
    みそぎの町二見浦の「塩結びの宿」というキャッチフレーズです。
    先代の女将が体を壊した家族の体質改善のために、二見の海水で塩作りをしたことで誕生したのが「岩戸の塩」です。この塩を使い、心と体に優しい素朴な料理を提供されています。「岩戸の塩」は癌と認知症に効果てきめんだそうです。また、万病の元である低体温症や女性の鉄・亜鉛不足にも効用があるそうです。岩戸の塩のにがりが入った「塩の湯」は旅館の名物だそうです。
    因みにここは、小学校の修学旅行で宿泊した思い出の旅館です。
    往時は木造でした。

    この続きは青嵐薫風 伊勢紀行④賓日館(前編)でお届けします。

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