2024/04/18 - 2024/04/19
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montsaintmichelさん
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夫婦岩表参道の終点近くにある二見の至宝「賓日館(ひんじつかん)」をレポいたします。前編は格調高い「御殿の間」のある2階を中心に紹介いたします。
1887(明治20)年に神苑会により、参宮する賓客の休憩・宿泊施設として建造されました。英照皇太后(明治天皇の母)の行敬に間に合うよう、2ヶ月程の突貫工事で竣工した異例の格調高き館です。その後も幼少時の大正天皇が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて3週間ほど滞在されたのをはじめ、歴代諸皇族方や各界要人が宿泊されています。
近代和風建築の外観や数寄屋風書院としての趣を持つ内装だけでなく、調度品などにも気品溢れる逸品が目白押しです。例えば、伊勢市出身の彫刻家で生涯に1781体の倭姫命像を彫った板倉白龍が階段の親柱に彫った『二見カエル』や伊勢出身の画家で「鯛の左洲」と称された中村左州の能舞台 鏡板『老松』など見所が満載です。
また、庭園も国の名勝「二見浦」の一部として指定されているほどです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
賓日館
1887(明治20)年、有栖川宮熾仁親王が総裁を務め、明治の偉人 太田小三郎を代表とする神宮崇敬団体「神苑会」により、伊勢津藩の神宮防衛用の鮫川砲台跡地に、参宮する賓客の休憩・宿泊施設として建造されました。英照皇太后(明治天皇の母)の行敬に間に合うよう、2ヶ月程の突貫工事で竣工した異例の格調高き館です。 -
正門
賓日館の建造は、1882(明治15)年に二見浦が日本初の海水浴場に指定されたことと合わせ、二見が近代的な観光地に飛躍する契機になりました。その後、明治時代末期~大正時代初期と昭和時代初期の2回の大増改築を経て現在の姿となりました。
前者では玄関棟と西棟を2階建に増床する改築がなされ、「翁の間」が造られました。その理由については、改築後に国鉄参宮線の山田~鳥羽間が延伸開通して二見浦駅が開業したのを鑑みると、一般参拝客対応と窺えます。 -
正門
表看板「賓日館」は、柏木白光女史が揮毫、柏木祥道氏が刻字されたものです。
白光さんは、伝統的な書の美しさと色彩感覚や絵画的要素を融合した、「墨アート」の創始者です。書家の初代 辛島寅次郎、2代 宇都宮廣の跡を継ぎ、5歳から書の道へ入られました。毎日女流展(1988年グランプリ受賞)など多くの書道展に入賞して以後、毎日女流展審査員などを歴任されています。
1992年には成田国際空港ロビーに7mの大作『般若心経』を制作されことでも知られています。その一方、伊勢神宮や明治神宮、靖国神社などに作品を奉納された他、イラク自衛隊の看板「サマーワ宿営地」を書き話題となりました。
因みに白光さんは、書道家であると共に詩人でもあります。
「夢」という作品の中の一詩を記します。
一念の眠りの中に 千萬の夢あり
風の声を聞く 波の声を聞く
星の声を聞く 鐘の響き遙かに
ただ無心にゆだね祈る なえた心では前には進まぬ
夢に向かいいま翔く 聞こえるか無限の祈り -
1891(明治24)年に幼少時の大正天皇(明宮嘉仁親王)が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて3週間ほど滞在されたのをはじめ、その後も歴代諸皇族や各界要人が宿泊されました。その際に親王は、軍艦で鳥羽に上陸し、人力車で賓日館に入られたそうです。
因みに宿泊帳簿には、横山大観の名もあります。 -
しかし1911(明治44)年に神苑会が事業計画を完了し解散したため、右隣(現 御福餅 二見支店)にあった旅館「二見館(三重県初の政府登録国際観光ホテル)」に払い下げられ、二見館別館として1999年まで運用されました。
1985年には「御殿の間」で将棋の王将戦第3局が行われ、米長邦雄王将と中原誠王座が火花を散らしました。しかし、その後二見浦を通らない近鉄 鳥羽線がアクセスの主流になると二見館も廃業し、2003年に賓日館は二見町に寄贈され、現在はNPO法人 二見浦・賓日館の会が維持管理しています。尚、2010年に重文に指定されています。 -
「賓日館」とは「賓客の泊まる日の昇る館」という意味で、命名も有栖川宮親王です。尚、「二見浦・賓日館の会」に確認したところ、創建時の設計者と棟梁は不思議なことに不明だそうです。
1930(昭和5)年には一般客用キャパを更に拡大するために2度目の増改築に着手。設計監督は前年の伊勢神宮 式年遷宮で主任技師を務めた建築家 大江新太郎と造神宮技師 塩野庄四郎が担いました。この大改修は6年もの歳月を要し、「大広間」を新設してほぼ現在の姿となりました。
因みに大江新太郎は、日光東照宮の修復や明治神宮の造営を行ったことで知られます。また塩野庄四郎は、仁和寺「宸殿」の再建プロジェクトに京都府技師として関与しています。
旧賓日館は、明治~昭和時代前期の建築技術や意匠の進展をよく示す大規模近代和風建築として高い価値があり、現在は資料館として一般公開されています。 -
建物も庭園も、当代一流の洗練されたデザインは見所満載です。
「御殿の間」や「大広間」などの書院造を基調とした格調高い部屋が並ぶ他、階段や欄間に施された職人の精緻な造作や屋久杉、桜、サルスベリ、竹など吟味された銘木が彩る数寄屋風書院としての趣を併せ持ちます。和風の妙味や贅が尽くされた近代和風建築の白眉と言えます。 -
玄関
唐破風造の車寄や正面左右に入母屋破風を配した複雑な屋根構成の外部意匠にも職人の技量の高さが窺えます。
玄関棟の屋根は昭和時代の大改修時に入母屋屋根から現在の車寄唐風造銅板葺に改められました。 -
玄関
「蘇民将来子孫家門」と書かれた魔除けの門符が貼られた虹梁は中央部から振分けの返し杢(木目)を挽いた珍しい意匠です。
因みに伊勢志摩地方では、注連縄を1年を通して飾る風習があるそうです。 -
玄関
上がり框は檜材、式台は欅材の一枚板、天井は屋久杉材の一枚板で、釘を一切使わずに設えてあるため現在もひび割れひとつ見られません。
玄関周りの木材の木目には統一感を持たせ、目線から遠く高い場所にある木材は粗い木目、目線に近く低い位置にある木材は細かい木目にしています。 -
玄関
透明ガラスは表面を削って模様を彫った菱形模様の「切子ガラス」になっています。 -
玄関
脇にある菱形をモチーフにした意匠も気品に満ちています。
枠は高貴な漆塗りです。
玄関だけでも見所がありすぎて困惑します。 -
参考のため、賓日館でいただいたリーフレットにある間取りをアップしておきます。
上方が北、つまり二見浦海岸方向です。
こちらが1階です。
玄関の左側が通用口になり、事務所が受付になります。 -
同じく、こちらが2階です。
順路は玄関エントランスホールからすぐに階段を上って2階へ進みます。 -
通用口
通用口へ上がると「端午の節句飾り」が絢爛豪華で目を引きますが、今回は時間との兼ね合いもあり節句飾りにはスポットを当てないよう努めました。
五月人形や鎧兜、鯉のぼりを中心とした飾り付けがなされていますが、子ども用の手製の陣羽織も用意されており、希望者は無料で着用して記念撮影ができます。
尚、入館料は大人1名 310円ですが、近鉄お得きっぷ「まわりゃんせ」のパスポートを提示すれば入館できます。 -
玄関
内部から見る「切子ガラス」です。
何度見ても素晴らしいの一言に尽きます。 -
エントランスホール
通用口(事務所)の方を振り返ると、鴨居の上に素朴な欄間が飾られています。
小さな欄間ですが、杉の木を5枚の扇面に見立て、その扇面に二見の代表的な風景や歌枕を透かし彫りしています。 -
エントランスホール 二見蛙
扇の右隅に佇むのは猿田彦大神のお使いとされる2匹の「二見蛙」です。
「無事かえる」の語呂合わせでも知られていますが、二見を語るには「蛙」がキーになります。これについては二見興玉神社編で詳しく紹介したいと思います。 -
エントランスホール 御塩
鎌倉時代に書かれた『倭姫命世記』には、「伊勢の神様 佐見都日女命(さみつひめのみこと)が天照大御神の鎮座地を求めて旅をしている倭姫命に堅塩を献上した」と記されています。伊勢神宮の御塩は今でも御塩浜にて入浜式製法で作られており、扇面には御塩殿の御塩を焚く鉄の平釜が置かれた「御塩焼所」が描かれています。
因みに南伊勢町には平家の落人が住み着き、濃い塩水を煮つめる煎熬(せんごう)法による塩製造で生計を立てていた八ツ竈(現在は七ツ竈)と呼ばれる集落があり、平家の人々を受け入れてきたと伝えられています。 -
エントランスホール 蛤
平安時代末期には「蛤」は「二見」を表しました。後朱雀天皇の長女 良子(ながこ)内親王の『斎王貝合日記』(1040年)には貝覆いについての記述があります。それによると、平安時代末期から行われている貝覆いの貝は、女性の掌中に握るのに適した大きさの伊勢国二見産の蛤を用いていたようです。因みに公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后 藤原育子の立后の後に催された貝合わせです。
また江戸時代の学者 伊勢貞丈は『二見の浦』にて、貝覆いは六条院・高倉院の頃に始まったとしています。この時代は平清盛や後白河法皇の世であり、後白河院寵姫 平滋子なども貝覆いで遊んでいたようです。滋子に仕えていた建春門院中納言の日記『たまきはる』には、貝覆いや貝桶についての記述があります。 -
エントランスホール 音無山
夫婦岩表参道の南方、立石岬から海岸線に沿って南西に連なる標高120mの低山が「音無山」です。名の由来は倭姫命の遷幸にまつわる逸話に因みます。遷幸の際、接待役の佐見津日女命は耳が不自由で、倭姫命の質問に何の音沙汰もなかったことから、佐見津日女命の住家近くの山を「音無山」と呼ぶようになったそうです。
音無山には、源義経の四天王として仕え源平合戦で戦功を上げた伊勢三郎(義盛)の居城があり、周囲を見渡したという「物見の松」があったとも伝わります。三郎は義経の没落と共に鈴鹿山に追われて自刃したとも、鎌倉方に発見されて斬首されたとも伝わります。因みに『吾妻鏡』によると、壇ノ浦の戦いで平家の総大将 平宗盛とその息子 清宗を捕らえたのが伊勢三郎です。また、『愚管抄』では粟津の戦いで木曾義仲を討ち取ったとしています。 -
エントランスホール 片葉の葦(葉が片方にだけ生えています)
難波国では「葦」と言いますが、伊勢国では万葉の歌枕にもあるように「伊勢の浜荻」と言います。
「神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に」(『万葉集』)
この歌は、碁檀越(ごのだんをち)が伊勢国に出向いた時、家に残った妻が旅先の夫を案じて詠んだ一首です。
三重県菰野町にある井手神社は伊勢神宮と縁が深く、「片葉の葦」の由来にまつわる逸話が残されています。昔、井手神社付近は沼地で、村民の憩いの場だった。冬には雁が渡来し、村民はその鳴き声を聞くと正月の準備を始めた。春になると雁は北国へ戻って行くが、ふと心配になった。もとより遠く、道に迷うこともあるからだ。雁たちはお宮の神様に「葦の葉を私共に一枚ずつください」と願った。神様が理由を尋ねると、「北国へ帰る途中、疲れたら葦の葉を海に浮かべて羽根を休めたい」と答えた。神様はその理由に納得し願いを了承したが、ひとつだけ条件を付けた。「葦の葉を全部とるのはならん。枯らすのはならんから、片側の葉だけは残しておくように」。その言い付けを守って雁たちは葦の葉をもらい受け、北国に帰って行ったという。 -
エントランスホール
今はなきANSONIA&CO.製の大きな振り子時計のガラス面には「日本赤十字社三重支部山田病院 寄贈」と金泥で書かれています。
因みにアンソニア社は米国の時計メーカで、1854~1929年の期間存在した会社です。往時の日本にも輸入され、多くの日本の時計メーカのロールモデルとなったのがアンソニア社製の振り子時計でした。
時計の上部には木彫りの鳥が大らかに羽を広げています。 -
エントランスホール
ガラス越しに中庭が見通せます。
中央にぽっかりと空いた空間は採光にも一役買っています。 -
階段
資料室へ向かう廊下と通用口との間に2階へ向かう年季の入った階段があります。
古そうに見えますが、特に軋んで音がするわけでもなく、意外に頑丈なようです。 -
階段の親柱
親柱を彩る「二見カエル」は、神都の歴史を刻んだ彫刻家 板倉白龍による、ほのぼのとした愛嬌溢れる作品です。
「昭和11年初秋」の刻銘から、昭和時代初期の増改築の終盤に設置されたものと窺えます。 -
階段の親柱
蛙の彫刻は、別ピースで彫り上げて後付けしたものではなく、楠の親柱そのものに彫られた一刀彫です。
しがみつく子蛙の姿には逞しい生命力を感じさせられます。
往時から「二見カエル」のご利益は有名だったものと窺えます。 -
階段の腰板
壁には洗濯板を彷彿とさせる平板を意図的にギザギザに加工した腰板が貼られています。
これも魅せるための意匠のひとつです。 -
階段
天面にかわいらしい千鳥の透かしが入れられた照明器具です。
千鳥は二見館時代のトレードマークだったそうです。 -
階段の踊り場 寄木張りの床
踊り場にある寄木細工「寄木張りの床」にも注目です。
床面積の割に寄木細工に使われているひとつ一つのピースが小さく、職人の巧妙な技量が遺憾なく発揮された作品です。
思わず見入ってしまいます。 -
階段の親柱
板倉白龍は、著名な伊勢市出身の彫刻家 橋本平八の弟子で、生涯に1781体の倭姫命像を彫ったことで知られています。 -
2階 回廊
階段を上ると八角形の渋い意匠が目に飛び込んできます。
枠には高貴な漆塗りが施されています。 -
2階 回廊
何か意味ありげな、見たことのない意匠の欄間です。
この欄間を区切りに、この先(手前が御殿の間)は違う空間になるという結界のようなものと窺えます。
回廊の鴨居にはここに宿泊された歴代皇族方の名札が整然と掲げられています。
因みに『大正天皇実録』には、明宮嘉仁親王の滞在について次のように記されています。
「御淹留中の御日課は海水浴を主とし、毎朝凡そ二時間御学習後、之を行はせらる。其の他、水泳・武術・幻灯等御見学の事屡あり。海水浴は午前十時及び午後二時前後を期し約三十分を限度とせらる。此の地は遠浅にして且つ広闊なるを以て活潑に御運動あり、遂には浮袋等を用ひず浮游あらせらるるに至れり。」 -
2階 回廊
中庭の風景がよいアクセントになります。 -
2階 御殿の間
皇族滞在の部屋「御殿の間」は、創建時の姿を今に留め、伊勢の神域に相応しい凛然とした佇まいを魅せています。あたかも「有職故実」の世界観を誇示するかのようです。
手前の12畳の「次の間」と主室との室境にある欄間は細い縦格子が美しい「筬欄間(おさらんま)」です。尚、主室には立ち入ることはできません。 -
2階 御殿の間(次の間)
小松宮彰仁親王の書「壽修(じゅしゅう)」
「壽修」は、中国の古典『孟子』の「盡心章句上」の一節にある「殀寿(ようじゅ)貳(たが)はず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以なり」からの引用です。
要約すれば「人の寿命は天命によって定められている。それ故、生きている間は我が身の修養(勉強)に努めて天命を待つのが人としての本分である」となります。因みにこの一節は、「立命館」大学の名の由来でもあります。また仏教用語としては、「長寿を祝すおめでたい言葉 」としても用いられます。 -
2階 御殿の間(次の間)
主室との境界にある襖は西陣織で花菱紋を描いています。
引手金具も豪華絢爛です。 -
2階 御殿の間
主室15畳の天井は希少な「二重格天井」です。
格縁と呼ばれる角材を正方形の升目に組んだ格天井は寺院など格式の高い建物で見られる意匠ですが、それを二重にし、更に輪島塗を施して一層の格式を持たせています。 -
2階 御殿の間
床脇の左側には付書院も設けられています。 -
2階 御殿の間
天井を見上げているだけでうっとりさせられます。 -
2階 御殿の間
全ての壁には花菱模様が散らされています。 -
2階 御殿の間 床間
床框(とこがまち:床間の前端の化粧横木)にも「花菱紋」の螺鈿細工を施した輪島塗の丁寧な造作がなされており、僅か2ヶ月という短い工期で皇族を迎え入れたとは吃驚です。
こうした細部にまで行き渡った豪華絢爛な意匠は見応えがあります。 -
2階 御殿の間 違い棚
違い棚にも素朴な筬欄間風の明り取りを配する気遣いです。 -
2階 御殿の間 違い棚
下方には観音開きのボックスのようなものがあります。
その装飾も煌びやかで、今で言う、ホテルの部屋にある「金庫」を彷彿とさせます。 -
2階 御殿の間 天袋
付書院側にある天袋の引戸をズームアップ。 -
2階 御殿の間 主室
畳の縁の模様が隣同士ピタリと合致しています。
また縁の模様にも位があり、これは高貴な人用の模様だそうです。 -
2階 御殿の間 広縁
サンルームを彷彿とさせる広縁には、瀟洒な佇まいの部屋にも見劣りしない古風な「洋式椅子」がご主人たちの帰りを寡黙に待ち続けています。
庭園を眺められるテーブル席の椅子には女性用と男性用があります。女性用は少し高くなっており、男性と目線を合わせて会話ができるように配慮させています。こうした細やかな気配りにも、匠たちのおもてなしの心が感じられます。 -
2階 御殿の間 広縁
眼下には二見浦の松林を借景とした広い庭園が一望できます。
ここの庭園は国の名勝「二見浦」の一部として指定されているほどです。敷地の北東部に造営された庭園は、小規模ながら白砂敷きの苑路に沿う回遊式になっています。枯池には後の大正天皇が腰掛けたという池に浮かぶ舟を模した舟形石や、大小2つの水琴窟なども設え、日本建築の構造美だけでなく、日本庭園の琴線に触れる景観も堪能できます。実は庭園はこの位置からから眺めるとベストビューになるように植栽や石の配置などが工夫されています。 -
2階 御殿の間 主室
東側の広縁から見た主室です。 -
2階 御殿の間 付書院
明り取りを兼ねた透かし彫りが見事です。
こちらも花菱模様と言う徹底ぶりです。 -
2階 御殿の間 広縁南端 化粧屋根裏
二見浦を望む北面及び庭園を望む東面の矩折れに広縁を廻らし、その天井は比較的脂質の少ない屋久杉を用いています。
また広縁南端の化粧屋根裏をこうした「寄木張りの天井」とするなど、凝った意匠には目を瞠ります。天井に「寄木張り」があるのは初見です。
(STAFF ONLYと書かれていますが、立ち入らずに覗くことができます。) -
2階 御殿の間 広縁南端 長押
見惚れるような連続する節目の造形美が詫び寂を湛えた長押です。
また、天井の一部は杉皮の矢羽根網代です。
矢羽根文様には魔除けの意味があり、矢は古くから正月の破魔弓や建物の上棟の時の邪気払いに用いられてきました。的を射止める矢は幸運をもたらす縁起のいい文様でもあります。 -
2階 千鳥の間
「御殿の間」の隣にある昭和時代初期の大改築の際に設けられた12畳と10畳の「千鳥の間」は、お供の者や護衛の控の間です。
名の通り、可愛らしい千鳥をモチーフにした意匠が随所にあしらわれています。
「千鳥」は二見館時代のトレードマークでもあったそうです。 -
2階 千鳥の間
広縁の硝子戸の型押し硝子の模様にも花菱がアレンジされています。 -
2階 千鳥の間
欄間に描かれた15羽の「千鳥」の群れは、丸々として「ヒヨコ」を彷彿とさせ、モフモフ感が愛くるしさを醸します。
これは伊勢出身の画家 中村左州の作品です。 -
2階 千鳥の間
「千鳥」は縁起の良い吉祥紋様のひとつです。
その理由は、語呂合わせで「千鳥」→「千取り」→「千の福を取る」となり、勝負運が強くなるとされます。因みに徳川家では、この縁起を担いで欄間には千鳥の形がくり抜かれていたそうです。吉兆意匠である他、通風の改善や陽光により畳に千鳥が映し出す風流を味わう素材でもあったようです。 -
2階 千鳥の間
千鳥の裏面には二見浦に因んだ「栄螺」や「ヒトデ」など磯の生物が描かれていますが、肉眼でも判り難い状態になっているのは残念です。 -
2階 千鳥の間 日下部鳴鶴の書
海の景色を讃える内容のようですが、当方には解読不能です。
鳴鶴は、太政官大書記官として大久保利通に仕えましたが、1878年の大久保暗殺後、職を辞して書道に専念。中国の漢や魏、六朝時代の力強い書を学んで会得し、伝統の和様感覚とは異なる新感覚の書風を確立し、「鳴鶴流」として一世を風靡しました。鳴鶴の最高傑作と名高いのが青山霊園にある「大久保公神道碑」です。 -
2階 千鳥の間
賓日館は基本的に国産建材のみを使用していますが、ここの床框は例外で、東南アジア原産の鉄刀木(タガヤサン)を用いています。
修繕の際、傷に強いこの建材に変えたものと考えられています。 -
2階 千鳥の間
テーブルにも千鳥の絵があしらわれています。 -
2階 千鳥の間
釘隠しは花菱を象っています。 -
2階 千鳥の間
千鳥の間で見かけた引戸金具です。
千鳥の形のものもあります。 -
2階 翁の間 巌谷一六の書(明治の三筆)「洗心亭」
まさかドイツの建築家ブルーノ・タウトとエリカ・ヴィティヒが日本に亡命して住んでいた少林山達磨寺「洗心亭」のことではないと思いますが…。
禅語で『洗心』とは「心には色々な垢がついているから、いつも洗う事を忘れないでいよう」と言う意味です。この賓日館が心の垢を綺麗に洗い落としてくれる小道具でもあると賛美されているのでしょう。
一六は「幕末の3筆」のひとりである巻菱湖の菱湖流を学びました。菱湖流の典型は将棋の駒の文字です。数ある将棋の駒の中でも羽生善治氏はじめ強い棋士に人気が高い書体だそうです。また、明治時代の教科書や書写の手本なども多くが菱湖流でした。後に一六は北魏の楷書に魅せられ、自らの書風にもそれを取り込んだのが特徴です。 -
2階 翁の間
西端にある「翁の間」は、大正時代初期に増築された部屋で、北側の48畳の本間と南側の20畳の次の間から成ります。当初は大広間と呼ばれ宴会などに用いられましたが、昭和時代の増改築で更に広い「大広間」が新設されて以降は「中広間」と呼ばれ、会議室や資料展示室などに用いられました。
ここも格式ある格天井で、贅沢な欅の一枚板を何枚も用い、木目が縦横交互になるようにビジュアル的に細工されているのが特徴です。 -
2階 翁の間
障子を開けると中庭が見通せます。
欄間の格子も繊細で上質な雰囲気が漂います。 -
2階 翁の間 床脇
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2階 翁の間 床間
床柱は絞りの杉材を用い、床脇との壁は扇型にくり抜かれ、典雅な明り取りになっています。 -
2階 翁の間 床間
床間の天井は杉柾石畳網代です。 -
2階 翁の間 床間
大広間には敵いませんが、端から端まで見渡すと壮大な気分になれます。 -
2階 翁の間
東側廊下の中庭に面した窓の下方部は「無双連子窓(無双窓)」を採用しています。板を等間隔に格子状に打付けた連子を前後2つ並べ、外側は固定ですが、内側はスライドできます。また連子を斜めに倒すこともでき、隙間が三角形や逆三角形になる優れた構造です。これは意匠だけでなく、通風の改善にも役立つ実用的なデザインです。 -
2階 渡り廊下
廊下の見付部分には割竹が円弧状に隙間なく貼られた出っ張りがあります。
そして足元は、ここだけ寄木張りの床になっています。
この右横がかつてのトイレだったようですので、手洗い場だったのかもしれません。 -
2階 渡り廊下
ふと見上げると船底天井です。 -
2階 渡り廊下
渡り廊下からは中庭が俯瞰できます。 -
2階 渡り廊下
鬼瓦は波に漂うカモメでしょうか? -
2階 回廊
窓に施された格子の意匠にも創意工夫がなされています。 -
2階 大広間
畳敷きの広縁と大広間との境目はシックな筬欄間で区切られています。
広縁の天井は、巨大な屋久杉の一枚板の羅列と傾斜のある船底天井を半々で分ける凝り様です。
また、広縁にシャンデリアと言う異色の取り合わせも奇抜です。 -
2階 大広間
明治時代の品格と昭和時代の職人技が織りなす至高の建築空間です。 -
2階 大広間
「大広間」は、昭和時代の大増改築で増設された、代表的書院造の120畳ある広間です。桃山式折上格天井が最大の売りで、格天井の中央部を一段高くした重厚な造りの折上格天井にゴージャスなシャンデリアが良いアクセントになっており、伝統的な和建築と洋の絢爛さを秘めたシャンデリアの取り合わせが独特の雰囲気を醸しています。社寺の折上格天井の設計では、格縁や亀の尾の寸法や納めよりも「埋め込みもの(音響・ 照明・空調)」の制約による割付で腐心しますが、ここではシャンデリアにより意外にあっさりと解決できているのが印象的です。
奥の床間にある大屏風は中村左州筆『大名行列図』です。 -
2階 大広間
木造家屋でありながら、これほど広くかつ支持する柱が一本もない不思議な空間です。地震が多い日本で大丈夫なのかと訝られるかもしれませんが、実はトラス構造という西洋技術を用いているそうです。この周辺では古くから造船業が営まれており、その技術が応用されているようです。 -
2階 大広間
天井の格間にある花模様は、型押しした紙に彩色し金箔を施したもので、妖艶なシャンデリアの灯りに照らされて艶めかしくも華やかに光り輝いています。見る角度によっては金箔が浮き出して見えます。
尚、格縁には木曽檜が用いられています。 -
2階 大広間
元々は鉄製の重厚感あるシャンデリアだったそうです。しかし太平洋戦争で金属供出され、現在のものは1967(昭和44)年に二見館の息子さんが結婚される際に寄贈されたオーダーメイドのものです。 -
2階 大広間
舞台の対面にある床間には、螺鈿細工が施された輪島塗の4間幅の床框や樹齢千年以上の屋久杉の一枚板が使われた天井板、中央から左右対称の木目になっている落とし掛けなど、細部まで拘った意匠が盛られています。 -
2階 大広間
違い棚や棚板には大きな木目のある欅が使われています。 -
2階 大広間
床は面白い木目調の板です。 -
2階 大広間
床脇の天袋の繊細な飾り金物には「花菱」が躍ります。 -
2階 大広間
天袋の引戸金具も花菱をアレンジしたシックなデザインでまとめています。 -
2階 大広間
こちらにもボックスらしきものがあり、これも観音開きです。 -
2階 大広間
引手金具は猪の目を基調にして花菱をアレンジしています。 -
2階 大広間
違い棚の装飾と透かし彫りです。 -
2階 大広間
明かり欄間には透かし彫りの「鳳凰」が飛翔しています。 -
2階 大広間 床脇
床脇正面の明り取り「床脇障子」の細かい技工が秀逸です。また、障子、欄間、明り取りの意匠には破綻のない統一感を持たせてあります。
伊勢に伝わる「組子」は、室町時代の書院造と共に発展した工芸で、窓や障子、欄間などに釘を一切使わずに細く小さい木片を組み合わせて緻密な幾何学紋様を作り出す木工の伝統技法です。細工を通して入り込む光が、組子の影を絵画のように描き出す光景は息を呑むほどです。 -
2階 大広間 床脇
かつて宴席で酔った客がこの床脇障子を破ってしまい、修理のできる技術を持った職人を探すのに苦労されたそうです。
切り株の花瓶にさしてあるのは紅白の「餅花」です。餅花の起源は不明とされていますが、江戸時代には盛んに飾られていたそうです。養蚕農家が繭玉を木の枝に付け正月飾りにした、鏡餅を八百万の神に供える代わりに小さな餅を枝に沢山付けた、など諸説あります。 -
2階 大広間 床脇
床脇の明り取りの細工や装飾金具にも目を瞠ります。 -
2階 大広間 床脇
賓日館には多彩な網代を用いた天井が随所に見られ、それらは床間や床脇に多く、それ故に目に触れる機会が少ないのは忸怩たる思いです。
床間の造作に負けない気品ある工芸作品であり、素材は杉柾が主流です。
見学の際には「天井」をキーワードに加えてください。 -
2階 大広間
広縁から見下ろせば、庭園の手入れの行き届いた黒松などが典雅な姿を魅せています。 -
2階 大広間
扁額「春長有国酒」は中国の古詩からの引用です。
文字は右から左へ読み「酒国長春に有り=お酒のある国は長い春のように美しい」という意味です。 -
2階 大広間 能舞台
本格的な能舞台も見所です。
能舞台には数々の音響上の仕掛けがなされ、床下に6つの大きな甕を設置して足拍子の音だけが反響するようになっています。また床板には檜材、天井板には反響音を柔らかくするために桐材を用いています。 -
2階 大広間 能舞台
背景の絵は日本画家で「鯛の左洲」として知られる中村左洲筆の鏡板絵『老松』(昭和10年作)です。客席となる畳に座った時の目線で見ると、枝が舞台から浮き出すように描かれています。
鏡板に描かれた松は、舞台正面の先にあると仮想される「影向の松」が舞台側に写されたものとされます。影向とは神仏が姿を現すことで、影向の松は神仏が現れる際の依り代です。それ故、舞台背後の板絵は影向の松が鏡に写ったとの見立てから「鏡板」と呼ばれます。松はどことなく寿の字を彷彿とさせますが、鏡板絵は鏡に写されたものとの想定ゆえ、寿の字を逆さまにした形をしています。つまり、神仏に守られながら能を舞うという舞台装置になっています。 -
2階 大広間
左洲は1873(明治 6)年に二見町で出生。本名は作十。11歳で父を亡くし、生業の漁業に従事する傍ら18歳で磯部百鱗に師事し、温雅な写実表現を基調とする四条丸山派を学びました。山水や魚の絵を能くし、終生二見の地にあって多くの作品を残しました。1917(大正6)年の第11回文展では、入選した『群れる鯛』 が御木本幸吉(真珠王で現 ミキモト創業者)の眼に留まり、 買い上げられたという逸話があります。巽画会会員。岐阜絵画展一等賞受賞。文展入選。1953(昭和28)年歿、享年81才。 -
2階 大広間
舞台と両脇の鴨居の上部に設えられた花形の枠には、中村左洲が描いた気品溢れる鳳凰や菊花が描かれています。
明り取りの透かし彫りも鳳凰です。 -
2階 階段
手摺りの格子板には毬を彷彿とさせる「壺々透し」が施されています。
シンプルな意匠ですが、手の込んだものであることは一目瞭然です。
この階段から降り、1階を彷徨します。
この続きは青嵐薫風 伊勢紀行⑤賓日館(後編)でお届けします。
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