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世界の各地で勃発している紛争の深刻化をはじめ国力の価値基準となる為替レートにおける「異次元」の円安進行、慢心した政権の緩みが極まった相次ぐ不祥事、元旦に発生した能登半島地震など、難局に喘ぐ世界と日本をなんとかしなければと一念発起して伊勢神宮参拝を思い立ちました。<br />今回は外宮をレポしますが、何処にでも転がっているベタな参宮記ではもどかしいので、サブテーマを「石」に設定し、メインテーマである「外宮の謎解き」と合わせて「亀石」「四至神」「お白石」「三ツ石」「ハート石」「寝地蔵石」「猿面石(兜石)」にスポットを当ててみました。特に「猿面石(兜石)」については神宮司庁発行の手引書『お伊勢まいり』で初めてその存在を知り興味を持ちました。単なるパレイドリア現象由来のものではなく、歴史的遺産と確信したからです。場所さえも不特定という暗中模索でしたが、何とか+αでレポできました。<br />尚、訳ありで外宮へは午前中、午後、夕方の3度参拝しましたので、その時の画像を順不同で紹介しています。

青嵐薫風 伊勢紀行⑦伊勢神宮 外宮(豊受大神宮)

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2024/04/18 - 2024/04/19

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

世界の各地で勃発している紛争の深刻化をはじめ国力の価値基準となる為替レートにおける「異次元」の円安進行、慢心した政権の緩みが極まった相次ぐ不祥事、元旦に発生した能登半島地震など、難局に喘ぐ世界と日本をなんとかしなければと一念発起して伊勢神宮参拝を思い立ちました。
今回は外宮をレポしますが、何処にでも転がっているベタな参宮記ではもどかしいので、サブテーマを「石」に設定し、メインテーマである「外宮の謎解き」と合わせて「亀石」「四至神」「お白石」「三ツ石」「ハート石」「寝地蔵石」「猿面石(兜石)」にスポットを当ててみました。特に「猿面石(兜石)」については神宮司庁発行の手引書『お伊勢まいり』で初めてその存在を知り興味を持ちました。単なるパレイドリア現象由来のものではなく、歴史的遺産と確信したからです。場所さえも不特定という暗中模索でしたが、何とか+αでレポできました。
尚、訳ありで外宮へは午前中、午後、夕方の3度参拝しましたので、その時の画像を順不同で紹介しています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄

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  • 近鉄 五十鈴川駅<br />五十鈴川駅は内宮参拝の最寄り駅となります。2日目は初日と一転し、雲一つない快晴に恵まれました。時なら熱中症が気がかりいですが…。<br />慣例に従い、外宮から先に参拝します。こうした習わしになっているのは、神宮で行われる祭事が外宮から始められるのと同じ理屈です。つまり、食事の神様 豊受大御神(とようけのおおみかみ)に神饌(神様の食事)を先に供えるためと説かれています。<br />一方『神道五部書』には、「外宮は神道根本神の天之御中主神や大地の神である国常立神を祀っている」と記されています。大地は物事の土台でもあり、大地の神にまず参拝して大地を耕した後、内宮に参拝して幸運の種を撒くと説くこともできます。また、天照大御神の父 伊弉諾より先に世に現れた造化三神の天之御中神と豊受大御神を同神とし、それ故に外宮は内宮より上位とする伊勢神道説もあります。伊勢神道に通じた鎌倉時代末期の天台宗学僧 慈遍著『豊葦原神風和記』には「天御中主尊は天地開いた時に生まれた神で、またの名を豊受皇太神」と記されています。<br />更に、外宮は元々地元の地主神を祀っていたため、外来の内宮に先立って祭祀が行われるとの説もあります。

    近鉄 五十鈴川駅
    五十鈴川駅は内宮参拝の最寄り駅となります。2日目は初日と一転し、雲一つない快晴に恵まれました。時なら熱中症が気がかりいですが…。
    慣例に従い、外宮から先に参拝します。こうした習わしになっているのは、神宮で行われる祭事が外宮から始められるのと同じ理屈です。つまり、食事の神様 豊受大御神(とようけのおおみかみ)に神饌(神様の食事)を先に供えるためと説かれています。
    一方『神道五部書』には、「外宮は神道根本神の天之御中主神や大地の神である国常立神を祀っている」と記されています。大地は物事の土台でもあり、大地の神にまず参拝して大地を耕した後、内宮に参拝して幸運の種を撒くと説くこともできます。また、天照大御神の父 伊弉諾より先に世に現れた造化三神の天之御中神と豊受大御神を同神とし、それ故に外宮は内宮より上位とする伊勢神道説もあります。伊勢神道に通じた鎌倉時代末期の天台宗学僧 慈遍著『豊葦原神風和記』には「天御中主尊は天地開いた時に生まれた神で、またの名を豊受皇太神」と記されています。
    更に、外宮は元々地元の地主神を祀っていたため、外来の内宮に先立って祭祀が行われるとの説もあります。

  • 近鉄 伊勢市駅<br />ここが外宮参拝の最寄り駅です。<br />1897(明治30)年に国鉄 紀勢本線参宮線の前身となる参宮鉄道の山田駅として開業しました。宇治山田市が伊勢市に改称された後、駅名を伊勢市駅に改称しています。現在の駅舎は空襲で焼けた後に再築された駅舎と同じ形を踏襲したものです。<br />近鉄利用の場合に留意する点は、最寄りの近鉄(北)改札口から出ないことです。外宮へ行く場合は、連絡橋を渡ってこちらのJR(南)改札口を利用します。一度改札を出てしまうと反対側へ回るのは大変です。尚、自動改札機はJR・近鉄切符共用です。<br />また、近鉄お得きっぷ「まわりゃんせ」には近鉄沿線フリー切符が付いています。帰路の切符がフリー切符として使える仕組みです。

    近鉄 伊勢市駅
    ここが外宮参拝の最寄り駅です。
    1897(明治30)年に国鉄 紀勢本線参宮線の前身となる参宮鉄道の山田駅として開業しました。宇治山田市が伊勢市に改称された後、駅名を伊勢市駅に改称しています。現在の駅舎は空襲で焼けた後に再築された駅舎と同じ形を踏襲したものです。
    近鉄利用の場合に留意する点は、最寄りの近鉄(北)改札口から出ないことです。外宮へ行く場合は、連絡橋を渡ってこちらのJR(南)改札口を利用します。一度改札を出てしまうと反対側へ回るのは大変です。尚、自動改札機はJR・近鉄切符共用です。
    また、近鉄お得きっぷ「まわりゃんせ」には近鉄沿線フリー切符が付いています。帰路の切符がフリー切符として使える仕組みです。

  • 外宮参道<br />伊勢市駅JR側の改札を出ると、参道入口に木製の巨大な鳥居が聳えています。そこから外宮までが「外宮参道」で、外宮までは約400m、徒歩7分ほどの距離です。1903(明治36)年から1961(昭和36)年までは、この参道を神都線と言う路面電車が走っていたそうです。<br />参道沿いには、旅館や飲食店、土産物店が軒を連ね、日暮れ時には伊勢和紙の行灯の明かりが灯されて情緒を湛えます。

    外宮参道
    伊勢市駅JR側の改札を出ると、参道入口に木製の巨大な鳥居が聳えています。そこから外宮までが「外宮参道」で、外宮までは約400m、徒歩7分ほどの距離です。1903(明治36)年から1961(昭和36)年までは、この参道を神都線と言う路面電車が走っていたそうです。
    参道沿いには、旅館や飲食店、土産物店が軒を連ね、日暮れ時には伊勢和紙の行灯の明かりが灯されて情緒を湛えます。

  • 山田館<br />創業百余年(大正時代初期の創業)のレトロな木造3層楼が目を引く旅館で、参道のランドマーク的存在としてその威容を魅せています。2棟の錣屋根の間に切妻屋根棟を挟んだリズミカルな3連屋根と玄関の唐破風がアクセントになりますが、ファサードから見たシンメトリックな外観は圧巻です。因みに、宮崎駿監督アニメ『千と千尋の神隠し』の「油屋」のモデルのひとつとも言われています。<br />深川の宮大工であり創業者でもあった初代 篠崎氏が技術と感性で創り上げたものを、1927(昭和2)年に中央の古い佇まいを残して木造3階建の現在の姿に増築して今日に至ります。<br />かつては同様の木造3層楼が駅から数十軒建ち並んでいたそうですが、太平洋戦争末期の外宮周辺への6度に及ぶ空襲で焼失し、奇跡的に山田館と外宮前のつるや旅館だけが焼失を逃れました。しかし、往時の姿を今に留めているのはこの山田館だけとなっています。

    山田館
    創業百余年(大正時代初期の創業)のレトロな木造3層楼が目を引く旅館で、参道のランドマーク的存在としてその威容を魅せています。2棟の錣屋根の間に切妻屋根棟を挟んだリズミカルな3連屋根と玄関の唐破風がアクセントになりますが、ファサードから見たシンメトリックな外観は圧巻です。因みに、宮崎駿監督アニメ『千と千尋の神隠し』の「油屋」のモデルのひとつとも言われています。
    深川の宮大工であり創業者でもあった初代 篠崎氏が技術と感性で創り上げたものを、1927(昭和2)年に中央の古い佇まいを残して木造3階建の現在の姿に増築して今日に至ります。
    かつては同様の木造3層楼が駅から数十軒建ち並んでいたそうですが、太平洋戦争末期の外宮周辺への6度に及ぶ空襲で焼失し、奇跡的に山田館と外宮前のつるや旅館だけが焼失を逃れました。しかし、往時の姿を今に留めているのはこの山田館だけとなっています。

  • 外宮 大燈籠<br />高倉山を借景にして伊勢市に鎮まる豊受大神宮は豊受大御神を祀ります。豊受大御神の名にある「受」とは「食物」を指し、内宮の天照大御神の食事を司る御饌都神として丹波国から招かれ、衣食住及び産業の守り神として崇敬されています。<br />外宮の正宮の正式名称は「豊受大神宮」と言います。史料『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、内宮鎮座から5百年後、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ「丹波国の比沼真名井原に祀られている豊受大御神を食事を司る御饌都神(みけつかみ)として迎えて欲しい」と神託が降り、478(雄略天皇22)年に外宮を高倉山の麓にある山田原に建立し、祭神に豊受大御神を迎え、米をはじめ衣食住及び産業全般の神として祀ったとのことです。以降、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿では朝と夕の2度、天照大御神を始め相殿神及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が連綿と続けられています。

    外宮 大燈籠
    高倉山を借景にして伊勢市に鎮まる豊受大神宮は豊受大御神を祀ります。豊受大御神の名にある「受」とは「食物」を指し、内宮の天照大御神の食事を司る御饌都神として丹波国から招かれ、衣食住及び産業の守り神として崇敬されています。
    外宮の正宮の正式名称は「豊受大神宮」と言います。史料『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、内宮鎮座から5百年後、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ「丹波国の比沼真名井原に祀られている豊受大御神を食事を司る御饌都神(みけつかみ)として迎えて欲しい」と神託が降り、478(雄略天皇22)年に外宮を高倉山の麓にある山田原に建立し、祭神に豊受大御神を迎え、米をはじめ衣食住及び産業全般の神として祀ったとのことです。以降、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿では朝と夕の2度、天照大御神を始め相殿神及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が連綿と続けられています。

  • 外宮の境内マップです。<br />https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

    外宮の境内マップです。
    https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

  • 火除橋(第一鳥居口御橋)<br />この橋を渡った先が神域になります。ですから、トイレはこの橋の外側にしかありません。この橋から左側通行になります。<br />正式名称は「第一鳥居口御橋」と言い、火災鎮火の用水として造られた堀川に架かる橋であり、外宮の表玄関です。江戸時代まではこの辺りまで民家が建ち並んでおり、ここでの出火が神域に及ばないようにするために石垣で固めた溝を造成したのが堀川です。<br />また、伊勢神宮の神職たちの間には「祭りに携わる者は火除橋から外に出てはいけない」というしきたりがあり、俗世間との間を分かつ橋ともされます。<br />橋の「正中」は真っ直ぐに一の鳥居へ繋がっており、その先には鬱蒼とした聖なる杜が待ち受けています。

    火除橋(第一鳥居口御橋)
    この橋を渡った先が神域になります。ですから、トイレはこの橋の外側にしかありません。この橋から左側通行になります。
    正式名称は「第一鳥居口御橋」と言い、火災鎮火の用水として造られた堀川に架かる橋であり、外宮の表玄関です。江戸時代まではこの辺りまで民家が建ち並んでおり、ここでの出火が神域に及ばないようにするために石垣で固めた溝を造成したのが堀川です。
    また、伊勢神宮の神職たちの間には「祭りに携わる者は火除橋から外に出てはいけない」というしきたりがあり、俗世間との間を分かつ橋ともされます。
    橋の「正中」は真っ直ぐに一の鳥居へ繋がっており、その先には鬱蒼とした聖なる杜が待ち受けています。

  • 勾玉池<br />火除橋を渡り、手水舎の左奥、せんぐう館の畔にある池です。この手前に休憩所(ベンチ)があります。<br />1889(明治22)年に財団法人 神苑会により造池された人工池で、池の形が勾玉の形をしていることが名の由来です。勾玉池は以前は外宮の外苑でしたが、せんぐう館建設により火除橋を渡ってから入園するようになり、結果的に外宮の内苑になっています。<br />池の畔には休憩所もあり、池に浮かぶかのような舞台が目を引きます。欄干の朱塗りの色合いが通常の神社に比べ黄色を帯びた橙色です。これは日本古来の伝統を愚直に厳守した矜持と窺えます。朱色に塗るのは神仏習合で仏教側から伝わった文化です。故に、一般的な神社で用いられる邪気を祓うための朱色と言う思想自体が神宮には存在しないのでしょう。

    勾玉池
    火除橋を渡り、手水舎の左奥、せんぐう館の畔にある池です。この手前に休憩所(ベンチ)があります。
    1889(明治22)年に財団法人 神苑会により造池された人工池で、池の形が勾玉の形をしていることが名の由来です。勾玉池は以前は外宮の外苑でしたが、せんぐう館建設により火除橋を渡ってから入園するようになり、結果的に外宮の内苑になっています。
    池の畔には休憩所もあり、池に浮かぶかのような舞台が目を引きます。欄干の朱塗りの色合いが通常の神社に比べ黄色を帯びた橙色です。これは日本古来の伝統を愚直に厳守した矜持と窺えます。朱色に塗るのは神仏習合で仏教側から伝わった文化です。故に、一般的な神社で用いられる邪気を祓うための朱色と言う思想自体が神宮には存在しないのでしょう。

  • 手水舎<br />手水を終えると気が緩んで無意識に第一鳥居の方へ歩を進めたくなりますが、手水舎の対面にある最初の見所をスキップしないようにしてください。

    手水舎
    手水を終えると気が緩んで無意識に第一鳥居の方へ歩を進めたくなりますが、手水舎の対面にある最初の見所をスキップしないようにしてください。

  • 清盛楠<br />第一鳥居の手前、手水舎の向かい側にある大楠には、平清盛が勅使として参向した折、冠に触れた西側の枝を切るよう命じたとの伝承があります。それ故、「清盛楠」と呼ばれます。因みに平清盛は、勅使として3度も参向しています。<br />一方『宇治山田市史』には、清盛が命じたのではなく、息子 重盛が腹を立て、清盛に代わり伐採を命じたとの記述があります。どちらが正しいかは不明ですが、神域の木をみだりに切るのはご法度という不文律を押して切らせた傲慢な平家の代表としては、やはり清盛が相応しいとの思いで伝承されてきたのでしょう。<br />更には、平安時代後期の外宮権禰宜 度会光倫が源頼朝とよしみを通じていたとの説もあり、往時の政治情勢を踏まえた創作話とも伝えます。

    清盛楠
    第一鳥居の手前、手水舎の向かい側にある大楠には、平清盛が勅使として参向した折、冠に触れた西側の枝を切るよう命じたとの伝承があります。それ故、「清盛楠」と呼ばれます。因みに平清盛は、勅使として3度も参向しています。
    一方『宇治山田市史』には、清盛が命じたのではなく、息子 重盛が腹を立て、清盛に代わり伐採を命じたとの記述があります。どちらが正しいかは不明ですが、神域の木をみだりに切るのはご法度という不文律を押して切らせた傲慢な平家の代表としては、やはり清盛が相応しいとの思いで伝承されてきたのでしょう。
    更には、平安時代後期の外宮権禰宜 度会光倫が源頼朝とよしみを通じていたとの説もあり、往時の政治情勢を踏まえた創作話とも伝えます。

  • 清盛楠<br />三重県津市は「伊勢平氏の生誕地」として知られ、その代表格が平清盛です。伊勢産徳利「粗末な瓶子(すがめ)」と伊勢平氏として初めて殿上人となった忠盛の「斜視(すがめ)」を重ね、「伊勢瓶子(へいじ)は素瓶なりけり」と公卿が揶揄する様を描いた『平家物語』の冒頭の逸話は、嘲笑った貴族のその後の没落を暗示しており印象的です。忠盛は、武力や財力以外にも和歌など宮廷教養も身に付け、着実に宮廷における平氏の地位を高めました。そして、忠盛の子 清盛は太政大臣にまで昇り詰めました。<br />一方、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた源頼朝も伊勢神宮には並々ならぬ崇敬を寄せていました。1182(養和2)年には願文を捧げ、神馬10頭、金100両、神領などを奉納しました。この時代には、神宮は古来伝統の「私幣禁断」の建て前を見直さざるを得ない状況でした。律令制度の崩壊と共に各地の御薗や御厨を守るため、地方の武士勢力の支援が不可欠だったからです。<br />更には、室町幕府を開いた足利尊氏も臣下を神宮に遣わし、神馬を奉納しています。また3代将軍 義満は、1393(明徳4)年に歴代将軍として初めて参宮し、その後10回も参宮しています。

    清盛楠
    三重県津市は「伊勢平氏の生誕地」として知られ、その代表格が平清盛です。伊勢産徳利「粗末な瓶子(すがめ)」と伊勢平氏として初めて殿上人となった忠盛の「斜視(すがめ)」を重ね、「伊勢瓶子(へいじ)は素瓶なりけり」と公卿が揶揄する様を描いた『平家物語』の冒頭の逸話は、嘲笑った貴族のその後の没落を暗示しており印象的です。忠盛は、武力や財力以外にも和歌など宮廷教養も身に付け、着実に宮廷における平氏の地位を高めました。そして、忠盛の子 清盛は太政大臣にまで昇り詰めました。
    一方、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた源頼朝も伊勢神宮には並々ならぬ崇敬を寄せていました。1182(養和2)年には願文を捧げ、神馬10頭、金100両、神領などを奉納しました。この時代には、神宮は古来伝統の「私幣禁断」の建て前を見直さざるを得ない状況でした。律令制度の崩壊と共に各地の御薗や御厨を守るため、地方の武士勢力の支援が不可欠だったからです。
    更には、室町幕府を開いた足利尊氏も臣下を神宮に遣わし、神馬を奉納しています。また3代将軍 義満は、1393(明徳4)年に歴代将軍として初めて参宮し、その後10回も参宮しています。

  • 清盛楠<br />諸説紛々の中、現在では樹齢約900年超の大木として何事もなかったかのように表参道に威風堂々と屹立しています。元々は1株だったそうですが、落雷や1959(昭和34)年の伊勢湾台風で割れ、その後中央部が枯損して2株に分かれたそうです。幹周9m、樹高10mあります。

    清盛楠
    諸説紛々の中、現在では樹齢約900年超の大木として何事もなかったかのように表参道に威風堂々と屹立しています。元々は1株だったそうですが、落雷や1959(昭和34)年の伊勢湾台風で割れ、その後中央部が枯損して2株に分かれたそうです。幹周9m、樹高10mあります。

  • 第一鳥居<br />檜造のシンプルな伊勢鳥居には奉飾御榊(かざりさかき)が設えられています。伊勢神宮では神聖な場所を示すのに注連縄ではなく榊を用います。「榊」の語源には、四季を通じて青々としている常緑樹であり、その生命力の強さから「栄える木」、あるいは神と人との境界を示す「境の木」、神聖な木を意味する「賢木」が転じたなど諸説あります。

    第一鳥居
    檜造のシンプルな伊勢鳥居には奉飾御榊(かざりさかき)が設えられています。伊勢神宮では神聖な場所を示すのに注連縄ではなく榊を用います。「榊」の語源には、四季を通じて青々としている常緑樹であり、その生命力の強さから「栄える木」、あるいは神と人との境界を示す「境の木」、神聖な木を意味する「賢木」が転じたなど諸説あります。

  • 第一鳥居<br />使用する榊は、年間2万本とのことです。<br />『古事記』には伊勢神宮にまつわる榊の話が記されています。<br />伊勢神宮建立の際、天照大御神の命に従い、榊の木を伐採して神殿を建てることになった。しかしその榊の木は神聖な木として崇められていたため、神々は木の霊を憐れみ、代わりに肥えた土地に神殿を建てるよう命じたというエピソードです。<br />また『記紀』には、天岩戸隠れの際、天香山の五百津真賢木(真榊)を根ごと用いて天照大御神にお戻り戴く神事が行われたと記されています。<br />因みに榊を飾る位置は、外宮の方が内宮よりも僅かに高い所です。神様に上から見守っていただくため目線より高い位置に備えることは知っていましたが、高さも内宮と競っていたとは…。これには何か意味がありそうです。

    第一鳥居
    使用する榊は、年間2万本とのことです。
    『古事記』には伊勢神宮にまつわる榊の話が記されています。
    伊勢神宮建立の際、天照大御神の命に従い、榊の木を伐採して神殿を建てることになった。しかしその榊の木は神聖な木として崇められていたため、神々は木の霊を憐れみ、代わりに肥えた土地に神殿を建てるよう命じたというエピソードです。
    また『記紀』には、天岩戸隠れの際、天香山の五百津真賢木(真榊)を根ごと用いて天照大御神にお戻り戴く神事が行われたと記されています。
    因みに榊を飾る位置は、外宮の方が内宮よりも僅かに高い所です。神様に上から見守っていただくため目線より高い位置に備えることは知っていましたが、高さも内宮と競っていたとは…。これには何か意味がありそうです。

  • 表参道<br />第一鳥居を潜り、ザクザクと玉砂利を踏みしめて緑に包まれた参道を進むと、自然に背筋が伸び清々しい気持ちになります。

    表参道
    第一鳥居を潜り、ザクザクと玉砂利を踏みしめて緑に包まれた参道を進むと、自然に背筋が伸び清々しい気持ちになります。

  • 斎館<br />門の隅から左側に見える斎館は祭典時に神職が籠られる場所です。祭祀を行う際、それに携わる全神職がここに参籠して忌み慎む「潔斎(=お清め)」を行います。籠られた神職は、日に何度も風呂に入り、食事は火鑽具(ひきりぐ)で起こした忌火で調理します。因みに伊勢神宮では年間1500回もの祭事が行われます。<br />斎館の奥に併設されているのが行在所(あんざいしょ)で、天皇陛下や皇族方が参拝時に宿泊やお休みになる所です。また、潔斎もこちらで行われます。

    斎館
    門の隅から左側に見える斎館は祭典時に神職が籠られる場所です。祭祀を行う際、それに携わる全神職がここに参籠して忌み慎む「潔斎(=お清め)」を行います。籠られた神職は、日に何度も風呂に入り、食事は火鑽具(ひきりぐ)で起こした忌火で調理します。因みに伊勢神宮では年間1500回もの祭事が行われます。
    斎館の奥に併設されているのが行在所(あんざいしょ)で、天皇陛下や皇族方が参拝時に宿泊やお休みになる所です。また、潔斎もこちらで行われます。

  • 祓所(はらえど)<br />斎館の先の左手に縄で囲われたスペースがあります。<br />奉幣祭の時、こちらでお祓いの行事が行われます。<br />因みに奉幣とは、幣帛(へいはく)をお供えすることです。幣帛は天皇陛下が神様に供えられる絹の反物のことです。

    祓所(はらえど)
    斎館の先の左手に縄で囲われたスペースがあります。
    奉幣祭の時、こちらでお祓いの行事が行われます。
    因みに奉幣とは、幣帛(へいはく)をお供えすることです。幣帛は天皇陛下が神様に供えられる絹の反物のことです。

  • 第二鳥居<br />内宮の名称は、朝廷を「内裏」と呼ぶように「内」は天皇を意味し、皇大神宮の祭神 天照大御神が皇室の祖先神であることから「内」なる「宮」に因みます。一方、内裏の外にある離宮を「外」と呼び、内宮に対して外宮としたとするのが通説です。内宮と外宮はそれぞれ宇治地区と山田地区に鎮座する独立した神宮ですが、両正宮を総称して、かつては「二所大神宮」とも呼ばれました。<br />道教の経典『真誥』には地形的関係から「内宮(洞中)」「外宮(山上)」とする用例が見られますが、これがルーツではないように窺えます。

    第二鳥居
    内宮の名称は、朝廷を「内裏」と呼ぶように「内」は天皇を意味し、皇大神宮の祭神 天照大御神が皇室の祖先神であることから「内」なる「宮」に因みます。一方、内裏の外にある離宮を「外」と呼び、内宮に対して外宮としたとするのが通説です。内宮と外宮はそれぞれ宇治地区と山田地区に鎮座する独立した神宮ですが、両正宮を総称して、かつては「二所大神宮」とも呼ばれました。
    道教の経典『真誥』には地形的関係から「内宮(洞中)」「外宮(山上)」とする用例が見られますが、これがルーツではないように窺えます。

  • 神楽殿<br />天皇以外の供物は捧げられない決まりでしたが、明治時代に供物を捧げたいという人々の願いに応える形で建造されたのが神楽殿です。<br />現在の銅板葺、入母屋造の神楽殿は2000年に落慶した総檜造の御殿です。<br />神楽殿は内宮にもありますが、外宮の方が少しだけ規模が小さくなっています。<br />お神札授与所ではお神札やお守りなどを授与していただけます。御朱印もこちらでいただけます。<br />神宮には「おみくじ」はありません。おみくじは身近な神社で引くものであり、「一生に一度」のお伊勢参りであれば「大吉」以外ありません。それ故、おみくじを引く意味がなかったと考えられています。<br />また、神社を象徴する狛犬も安置されていません。狛犬は中国大陸から伝来したものであり、伝来以前からの日本古来の伝統を愚直に厳守しているのが神宮です。

    神楽殿
    天皇以外の供物は捧げられない決まりでしたが、明治時代に供物を捧げたいという人々の願いに応える形で建造されたのが神楽殿です。
    現在の銅板葺、入母屋造の神楽殿は2000年に落慶した総檜造の御殿です。
    神楽殿は内宮にもありますが、外宮の方が少しだけ規模が小さくなっています。
    お神札授与所ではお神札やお守りなどを授与していただけます。御朱印もこちらでいただけます。
    神宮には「おみくじ」はありません。おみくじは身近な神社で引くものであり、「一生に一度」のお伊勢参りであれば「大吉」以外ありません。それ故、おみくじを引く意味がなかったと考えられています。
    また、神社を象徴する狛犬も安置されていません。狛犬は中国大陸から伝来したものであり、伝来以前からの日本古来の伝統を愚直に厳守しているのが神宮です。

  • 神楽殿<br />祭神 豊受大御神には「天女説」もあります。伊勢神宮には北辰・北斗信仰が秘されているとの学説もあり、天照大御神が北極星信仰と習合し、それを補佐する北斗七星の神(輔星を加えて8人の天女)として豊受大御神を迎えたとしています。8世紀の編纂『丹波国風土記逸文』にある「奈具社縁起」には次の逸話が記されています。<br />丹波郡比治里の真奈井で8人の天女が水浴をしていた時、1人の天女が老夫婦に羽衣を隠されて天に戻れなくなった。その名を「豊宇賀能売(とようかのめのみこと)」と言い、仕方なく老夫婦と暮らすことになった。天女は万病に効く霊酒の作り方を教え、老夫婦は巨万の富を得た。すると天女が邪魔になり、追い出してしまった。天女は各地を転々とした後、「我が心なぐしくなりぬ(私の心がここで慰められそう)」という安住の地に辿り着いた。こうした経緯からその土地は奈具(なぐ)と名付けられた。天女は没後に奈具神社に祀られた、と伝えます。<br />奈具神社の神様は古くから農耕の神として祀られており、祭神 豊宇賀能売は豊受大御神と同一神と比定されています。

    神楽殿
    祭神 豊受大御神には「天女説」もあります。伊勢神宮には北辰・北斗信仰が秘されているとの学説もあり、天照大御神が北極星信仰と習合し、それを補佐する北斗七星の神(輔星を加えて8人の天女)として豊受大御神を迎えたとしています。8世紀の編纂『丹波国風土記逸文』にある「奈具社縁起」には次の逸話が記されています。
    丹波郡比治里の真奈井で8人の天女が水浴をしていた時、1人の天女が老夫婦に羽衣を隠されて天に戻れなくなった。その名を「豊宇賀能売(とようかのめのみこと)」と言い、仕方なく老夫婦と暮らすことになった。天女は万病に効く霊酒の作り方を教え、老夫婦は巨万の富を得た。すると天女が邪魔になり、追い出してしまった。天女は各地を転々とした後、「我が心なぐしくなりぬ(私の心がここで慰められそう)」という安住の地に辿り着いた。こうした経緯からその土地は奈具(なぐ)と名付けられた。天女は没後に奈具神社に祀られた、と伝えます。
    奈具神社の神様は古くから農耕の神として祀られており、祭神 豊宇賀能売は豊受大御神と同一神と比定されています。

  • 神楽殿<br />天へ戻った7天女たちは「北斗七星」を想起させます。疑問なのは残された天女の存在です。実は「北斗七星」の第6星の外側には「輔星」と呼ぶ小さな星があります。この4等星アルコルは和名を「添え星」と言い、これを加えると8星になります。しかしこの説に従うと、豊受大御神は「北斗七星」に付随する些細な存在となり、伊勢神道などが説く最高神には程遠い存在です。<br />調べてみると「輔星」は単なる助星ではありませんでした。地軸は公転面に対し約66・6度傾いていますが、それがポール・シフトにより逆方向に振れた時、この輔星が北極星となります。つまり豊受大御神は、釈迦涅槃の56億7000万年後に兜率天からこの世に降臨する未来仏としての弥勒菩薩的存在だとも言えるのです。

    神楽殿
    天へ戻った7天女たちは「北斗七星」を想起させます。疑問なのは残された天女の存在です。実は「北斗七星」の第6星の外側には「輔星」と呼ぶ小さな星があります。この4等星アルコルは和名を「添え星」と言い、これを加えると8星になります。しかしこの説に従うと、豊受大御神は「北斗七星」に付随する些細な存在となり、伊勢神道などが説く最高神には程遠い存在です。
    調べてみると「輔星」は単なる助星ではありませんでした。地軸は公転面に対し約66・6度傾いていますが、それがポール・シフトにより逆方向に振れた時、この輔星が北極星となります。つまり豊受大御神は、釈迦涅槃の56億7000万年後に兜率天からこの世に降臨する未来仏としての弥勒菩薩的存在だとも言えるのです。

  • 九丈殿<br />裏参道を挟んで神楽殿の向かい側にあり、切妻造、二重板葺で、屋根の棟から軒先まで1枚板で葺かれています。建物正面の長さ(一丈=約3m)から九丈殿と呼ばれます。<br />神宮では基本的に屋外で祭祀を行い、庭上祭祀(ていじょうさいし)と言います。九丈殿や五丈殿は祭祀の際に使われる床や壁のない建物であり、九丈殿は外宮にある摂社・末社・所管社の「遙祀(離れた場所から祀ること)」を行います。

    九丈殿
    裏参道を挟んで神楽殿の向かい側にあり、切妻造、二重板葺で、屋根の棟から軒先まで1枚板で葺かれています。建物正面の長さ(一丈=約3m)から九丈殿と呼ばれます。
    神宮では基本的に屋外で祭祀を行い、庭上祭祀(ていじょうさいし)と言います。九丈殿や五丈殿は祭祀の際に使われる床や壁のない建物であり、九丈殿は外宮にある摂社・末社・所管社の「遙祀(離れた場所から祀ること)」を行います。

  • 五丈殿<br />庭上祭祀は天気によって神事の進行と場所が異なり、雨が降っていない日は「晴儀」、雨の日は「雨儀」と呼ばれ、雨儀は屋根のある建物の中で行われます。雨天時は、先ほど紹介した祓所に代わってここで神饌などを祓い清める修祓が行われます。<br />また、遷宮諸祭の「饗膳の儀(儀式としての祝宴)」もここで行われます。

    五丈殿
    庭上祭祀は天気によって神事の進行と場所が異なり、雨が降っていない日は「晴儀」、雨の日は「雨儀」と呼ばれ、雨儀は屋根のある建物の中で行われます。雨天時は、先ほど紹介した祓所に代わってここで神饌などを祓い清める修祓が行われます。
    また、遷宮諸祭の「饗膳の儀(儀式としての祝宴)」もここで行われます。

  • 四至神(みやのめぐりのかみ)<br />九丈殿と五丈殿のある「大庭」広場に佇み、一段高い石畳の上に石神として祀られています。石畳中央には神の依り代となる1本の「榊」が植えられ、そこに3つの丸石が並ぶ簡素な佇まいですが、伊勢神宮125社の1社(所管社)に数えられます。神社には「人のための神社」と「神のための神社」があり、こちらは後者になり、豊受大神の守護神です。

    四至神(みやのめぐりのかみ)
    九丈殿と五丈殿のある「大庭」広場に佇み、一段高い石畳の上に石神として祀られています。石畳中央には神の依り代となる1本の「榊」が植えられ、そこに3つの丸石が並ぶ簡素な佇まいですが、伊勢神宮125社の1社(所管社)に数えられます。神社には「人のための神社」と「神のための神社」があり、こちらは後者になり、豊受大神の守護神です。

  • 四至神<br />古代の祭祀場である磐座のミニチュア版を彷彿とさせますが、神道における日本最古の祭祀形態である「神籬(ひもろぎ=神の依り代)」に近い形態と思われます。神籬は神祭の時のみ臨時に設置されますが、四至神は神籬が常設されてひとつの神社という位置付けです。

    四至神
    古代の祭祀場である磐座のミニチュア版を彷彿とさせますが、神道における日本最古の祭祀形態である「神籬(ひもろぎ=神の依り代)」に近い形態と思われます。神籬は神祭の時のみ臨時に設置されますが、四至神は神籬が常設されてひとつの神社という位置付けです。

  • 四至神<br />四至とは神域の四方(東西南北)の境界を表し、その四方を守る神様が四至神です。神宮を邪悪なものから守るための守護神であり、元々は神域の各所に祀られていましたが、それらを明治時代に1ヶ所に纏めたものです。往時の名残は内宮の風日祈宮で垣間見ることができます。<br />創建年代は不詳です。804(延暦23)年に成立した『延暦儀式帳』に「宮廻神200余座については年に3度祀る」との旨が記されているのが最古の記録ですが、祭祀を何処で執り行ったのかは判っていません。

    四至神
    四至とは神域の四方(東西南北)の境界を表し、その四方を守る神様が四至神です。神宮を邪悪なものから守るための守護神であり、元々は神域の各所に祀られていましたが、それらを明治時代に1ヶ所に纏めたものです。往時の名残は内宮の風日祈宮で垣間見ることができます。
    創建年代は不詳です。804(延暦23)年に成立した『延暦儀式帳』に「宮廻神200余座については年に3度祀る」との旨が記されているのが最古の記録ですが、祭祀を何処で執り行ったのかは判っていません。

  • 古殿地 <br />ここは前回の式年遷宮まで社殿が建っていた跡地です。尚、式年遷宮の諸祭が始まってから遷御までの間は、同じ敷地でも「新御敷地」と呼称されます。<br />古殿地には覆屋が設けられ、正殿中央の床下の神聖なる柱「心御柱(しんのみはしら)」が納められています。804(延暦23)年撰の『皇太神宮儀式帳』にその名が記され、『神道五部書』では「天斎柱・天御柱・忌柱・天御量柱」と称します。もし顛倒など異状が発生した場合、上奏し仮殿遷宮を行いそれを改めるとしており、現在でも秘儀中の秘儀とされます。「心御柱奉建」は、深夜の暗闇の中、人目につかないよう厳かに行われる秘祭です。形式的な非公開ではなく、公にできない内容や事実が隠されているそうです。因みに明治時代以前は三節祭にて心御柱に「由貴大御饌」を供していたことから、心御柱こそ本来のご神体との説もあります。

    古殿地 
    ここは前回の式年遷宮まで社殿が建っていた跡地です。尚、式年遷宮の諸祭が始まってから遷御までの間は、同じ敷地でも「新御敷地」と呼称されます。
    古殿地には覆屋が設けられ、正殿中央の床下の神聖なる柱「心御柱(しんのみはしら)」が納められています。804(延暦23)年撰の『皇太神宮儀式帳』にその名が記され、『神道五部書』では「天斎柱・天御柱・忌柱・天御量柱」と称します。もし顛倒など異状が発生した場合、上奏し仮殿遷宮を行いそれを改めるとしており、現在でも秘儀中の秘儀とされます。「心御柱奉建」は、深夜の暗闇の中、人目につかないよう厳かに行われる秘祭です。形式的な非公開ではなく、公にできない内容や事実が隠されているそうです。因みに明治時代以前は三節祭にて心御柱に「由貴大御饌」を供していたことから、心御柱こそ本来のご神体との説もあります。

  • 古殿地<br />こうして見ると、正殿の位置は敷地のかなり奥まった所にあることが判ります。<br />40年に亘る役目を終えた心御柱のその後については、鎌倉時代後期の『太神宮両宮之御事』は「古い柱は荒祭宮(内宮)の前にある谷に葬送の儀式によって送る。この谷を地極谷という。人は知らない秘事である」と語ります。つまり「天皇の玉体」と同等に葬送儀礼に則り取り扱われていることが窺えます。<br />尚、内宮の正宮では立ち入り禁止になっていて古殿地は見ることができません。

    古殿地
    こうして見ると、正殿の位置は敷地のかなり奥まった所にあることが判ります。
    40年に亘る役目を終えた心御柱のその後については、鎌倉時代後期の『太神宮両宮之御事』は「古い柱は荒祭宮(内宮)の前にある谷に葬送の儀式によって送る。この谷を地極谷という。人は知らない秘事である」と語ります。つまり「天皇の玉体」と同等に葬送儀礼に則り取り扱われていることが窺えます。
    尚、内宮の正宮では立ち入り禁止になっていて古殿地は見ることができません。

  • 古殿地<br />中沢新一著『アースダイバー 神社編』には、次のようなセンセーショナルな記述があります。<br />「伊勢神宮でもっとも重要な神祭である三節祭に、この斎王は参加せず、かわって土地の豪族から選ばれた少女が『斎女』として、この深夜の床下の秘儀を、一人で執り行うことが定められていた。『心の御柱』が性的なシンボル、しかも男性シンボルであることは、神宮内では古来なかば公然の秘密であったらしい。この柱にたいして、大物忌とも呼ばれた少女が、真夜中に奉仕をおこなうのである。ことの意味はほとんど明白である」。<br />パンドラの箱を開けてしまったような気分にさせられる内容ですが、厳密な考証を経たものではなく、あくまでも著者の主観論に過ぎないことを申し添えておきます。

    古殿地
    中沢新一著『アースダイバー 神社編』には、次のようなセンセーショナルな記述があります。
    「伊勢神宮でもっとも重要な神祭である三節祭に、この斎王は参加せず、かわって土地の豪族から選ばれた少女が『斎女』として、この深夜の床下の秘儀を、一人で執り行うことが定められていた。『心の御柱』が性的なシンボル、しかも男性シンボルであることは、神宮内では古来なかば公然の秘密であったらしい。この柱にたいして、大物忌とも呼ばれた少女が、真夜中に奉仕をおこなうのである。ことの意味はほとんど明白である」。
    パンドラの箱を開けてしまったような気分にさせられる内容ですが、厳密な考証を経たものではなく、あくまでも著者の主観論に過ぎないことを申し添えておきます。

  • 古殿地<br />心御柱は、長さ5尺(約1.5m:景行天皇の身長に由来)かつ直径4寸の檜の柱であり、その2尺分は地中に埋められています。柱頭は社殿を支持することもなく8枚の榊の葉を付け、建築上は社殿とは無関係の「杭」と思しきものだそうです。これを「柱」と称するのは「天と地」を繋ぐ宇宙的発想ゆえと神宮は説明されています。判り難い表現ですが、神霊がこの柱を伝って天と地を往来する媒体、つまり神霊の依り代ということです。因みに『日本書紀』は、生まれたばかりの天照大御神と月読尊が天柱によって天上へ昇ったと記しています。<br />『古事記』の「国生み神話」にあるように、伊邪那岐と伊邪那美が「天御柱」の周囲を回って島々と神々を生んだのを重ね合わせれば、「御柱」の聖なる機能を擬人化した表現と言えます。御柱の垂直線は男神、地面の水平線は女神を表し、この縦と横の線の交わりは万物の生成と豊穣を象徴するとも考えられます。神様を「1柱」「2柱」と数える民俗思想を象徴するのが心御柱なのかもしれません。

    古殿地
    心御柱は、長さ5尺(約1.5m:景行天皇の身長に由来)かつ直径4寸の檜の柱であり、その2尺分は地中に埋められています。柱頭は社殿を支持することもなく8枚の榊の葉を付け、建築上は社殿とは無関係の「杭」と思しきものだそうです。これを「柱」と称するのは「天と地」を繋ぐ宇宙的発想ゆえと神宮は説明されています。判り難い表現ですが、神霊がこの柱を伝って天と地を往来する媒体、つまり神霊の依り代ということです。因みに『日本書紀』は、生まれたばかりの天照大御神と月読尊が天柱によって天上へ昇ったと記しています。
    『古事記』の「国生み神話」にあるように、伊邪那岐と伊邪那美が「天御柱」の周囲を回って島々と神々を生んだのを重ね合わせれば、「御柱」の聖なる機能を擬人化した表現と言えます。御柱の垂直線は男神、地面の水平線は女神を表し、この縦と横の線の交わりは万物の生成と豊穣を象徴するとも考えられます。神様を「1柱」「2柱」と数える民俗思想を象徴するのが心御柱なのかもしれません。

  • 古殿地<br />もう一つ奇妙なのは、三節祭の大物忌で「心御柱に食事を供し、自らも食す」という神儀です。心御柱の周囲には850枚の天平瓮(あめのひらか:古代の平状土器)が円周状に積み上げられているそうです。実は、これは神武天皇の行為を模したものです。『日本書紀』によると、神武東征で大和侵攻の際、天香山の埴土で焼いた80枚の天平瓮を神に捧げ、神に食事を供し、自らも食すことで、神武天皇は勝利を確信したと言います。

    古殿地
    もう一つ奇妙なのは、三節祭の大物忌で「心御柱に食事を供し、自らも食す」という神儀です。心御柱の周囲には850枚の天平瓮(あめのひらか:古代の平状土器)が円周状に積み上げられているそうです。実は、これは神武天皇の行為を模したものです。『日本書紀』によると、神武東征で大和侵攻の際、天香山の埴土で焼いた80枚の天平瓮を神に捧げ、神に食事を供し、自らも食すことで、神武天皇は勝利を確信したと言います。

  • 神宮杉<br />古殿地に敷き詰められた白い石は、伊勢市民が宮川から拾い集め、お清めをして奉献車に乗せて運び込まれます。白い石を敷き詰める行事は「お白石持(おしらいしもち)行事」と言います。<br />お白石持の歴史は、今から560年以上前に遡るとされ、古文書には1462(寛正3)年の内宮の第40回式年遷宮から始まったと記されています。1993年の「お白石持行事」では、のべ20万人が参加して奉献されました。<br />この白石は「石英系白石」と称されるものです。 宮川流域で見られる白石で、少し透明感のある石肌を持つのが特徴です。白石の大部分は、三波川帯泥質岩中の石英脈を母岩とした石英岩であり、その形成年代は後期白亜紀とされます。また、白石のうちの若干量は三波川帯のメタチャートであり、その形成年代は中期三畳紀~後期白亜紀のいずれかの時代と考えられています。

    神宮杉
    古殿地に敷き詰められた白い石は、伊勢市民が宮川から拾い集め、お清めをして奉献車に乗せて運び込まれます。白い石を敷き詰める行事は「お白石持(おしらいしもち)行事」と言います。
    お白石持の歴史は、今から560年以上前に遡るとされ、古文書には1462(寛正3)年の内宮の第40回式年遷宮から始まったと記されています。1993年の「お白石持行事」では、のべ20万人が参加して奉献されました。
    この白石は「石英系白石」と称されるものです。 宮川流域で見られる白石で、少し透明感のある石肌を持つのが特徴です。白石の大部分は、三波川帯泥質岩中の石英脈を母岩とした石英岩であり、その形成年代は後期白亜紀とされます。また、白石のうちの若干量は三波川帯のメタチャートであり、その形成年代は中期三畳紀~後期白亜紀のいずれかの時代と考えられています。

  • 正宮<br />正宮は正殿を中心に瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重の垣根が巡らされています。出雲大社の大社造と共に日本最古の建築様式を伝える唯一神明造の社殿は、切妻造、平入の高床式穀倉形式から宮殿形式に発展したものとされます。丸太の掘立式で礎石を用いないことや妻面に棟持柱があるのが特徴です。屋根は萱葺、その姿は簡素かつ直線的で、素木の美しさと荘厳さが際立ちます。<br />屋根には、鰹木が9本、外削ぎの千木には2ヶ所の風穴が開けられています。これは男神を祀る象徴になりますが、豊受大御神は女神です。この矛盾については、祭神が天之御中主神だからの他、天武天皇だから、あるいは天照大御神の弟神である月讀命だからなど諸説あります。天武天皇~持統天皇の時代に現在の規模になったとされ、式年遷宮もその頃から行われています。<br />尚、蕃塀から先での撮影は禁止です。写真を撮る場合は蕃塀の外から行います。ですから、真正面から撮影することは叶いません。

    正宮
    正宮は正殿を中心に瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重の垣根が巡らされています。出雲大社の大社造と共に日本最古の建築様式を伝える唯一神明造の社殿は、切妻造、平入の高床式穀倉形式から宮殿形式に発展したものとされます。丸太の掘立式で礎石を用いないことや妻面に棟持柱があるのが特徴です。屋根は萱葺、その姿は簡素かつ直線的で、素木の美しさと荘厳さが際立ちます。
    屋根には、鰹木が9本、外削ぎの千木には2ヶ所の風穴が開けられています。これは男神を祀る象徴になりますが、豊受大御神は女神です。この矛盾については、祭神が天之御中主神だからの他、天武天皇だから、あるいは天照大御神の弟神である月讀命だからなど諸説あります。天武天皇~持統天皇の時代に現在の規模になったとされ、式年遷宮もその頃から行われています。
    尚、蕃塀から先での撮影は禁止です。写真を撮る場合は蕃塀の外から行います。ですから、真正面から撮影することは叶いません。

  • 正宮<br />一般の参拝が許されるのは白い御幌が掛かった外から2番目の外玉垣南御門の前までです。<br />内宮の正宮とほぼ同じ造りですが、最大の違いは御饌殿があることです。また東宝殿と西宝殿が手前にあるのも外宮の特徴です。更には、大きさの点では、内宮正殿の正面幅は11.2mに対し外宮正殿は10.2mと、外宮の方が1m狭くなっています。一方、奥行きに関しては、内宮が5.5mに対し外宮は5.8mあり、外宮の方が37cm長くなっています。<br />驚いたのは「私幣禁断」であるにも拘らず、お賽銭箱はないものの、外玉垣南御門前には白い布が地面すれすれに張られ、そこにお賽銭を納める形式になっていることです。正宮は本来「神のための神社」であり、「人のための神社」でもないのにお賽銭とは…。

    正宮
    一般の参拝が許されるのは白い御幌が掛かった外から2番目の外玉垣南御門の前までです。
    内宮の正宮とほぼ同じ造りですが、最大の違いは御饌殿があることです。また東宝殿と西宝殿が手前にあるのも外宮の特徴です。更には、大きさの点では、内宮正殿の正面幅は11.2mに対し外宮正殿は10.2mと、外宮の方が1m狭くなっています。一方、奥行きに関しては、内宮が5.5mに対し外宮は5.8mあり、外宮の方が37cm長くなっています。
    驚いたのは「私幣禁断」であるにも拘らず、お賽銭箱はないものの、外玉垣南御門前には白い布が地面すれすれに張られ、そこにお賽銭を納める形式になっていることです。正宮は本来「神のための神社」であり、「人のための神社」でもないのにお賽銭とは…。

  • 正宮<br />『日本書紀』には外宮に関する記述は見られず、また『古事記』の記述は後世に加筆されたものと解釈するのが通説です。外宮の史料『止由気宮儀式帳』(古代には「豊受」を「止由気」と表記)には「豊受大神は雄略天皇の時代に丹波国から迎えられた」と記されています。第21代 雄略天皇は5世紀の天皇であり、倭の五王のうちの「武」に当たる天皇とされ、現時点で実在が判っている最初の天皇とされます。

    正宮
    『日本書紀』には外宮に関する記述は見られず、また『古事記』の記述は後世に加筆されたものと解釈するのが通説です。外宮の史料『止由気宮儀式帳』(古代には「豊受」を「止由気」と表記)には「豊受大神は雄略天皇の時代に丹波国から迎えられた」と記されています。第21代 雄略天皇は5世紀の天皇であり、倭の五王のうちの「武」に当たる天皇とされ、現時点で実在が判っている最初の天皇とされます。

  • 正宮<br />建築や祭祀に施された日本人の美意識の琴線に触れる仕掛けには脱帽です。例えば、「引き算の美学」や「隠す」といった造作や、松岡正剛氏が説く「アワセ・キソイ・ソロイ」の手法などです。つまり、受け取り手の想像力に働きかける技法です。前者は枯山水庭園、後者は屏風絵などに代表されるものですが、神宮においては心御柱覆屋のみが残された古殿地や4重板垣により秘匿された正殿などに顕著です。また、式年遷宮で最も重要な「遷御の儀」も深夜の暗闇の中、その祭儀の全てが秘匿された状態で執行されます。

    正宮
    建築や祭祀に施された日本人の美意識の琴線に触れる仕掛けには脱帽です。例えば、「引き算の美学」や「隠す」といった造作や、松岡正剛氏が説く「アワセ・キソイ・ソロイ」の手法などです。つまり、受け取り手の想像力に働きかける技法です。前者は枯山水庭園、後者は屏風絵などに代表されるものですが、神宮においては心御柱覆屋のみが残された古殿地や4重板垣により秘匿された正殿などに顕著です。また、式年遷宮で最も重要な「遷御の儀」も深夜の暗闇の中、その祭儀の全てが秘匿された状態で執行されます。

  • 正宮<br />正殿の妻飾に刻まれている鏡形木(丁字形の束柱)の半弧文様も、弥生時代の銅鏡や土器に見られる直弧文(木葉文)に酷似しているそうです。因みに豊受大御神のご神体は明らかにされていませんが、天鏡尊が鋳造した「白銅鏡」と伝わります。他にも太陽と月を対比させた「月天に従り顕現するところの明鏡」など諸説ありますが、「鏡」であることは確かなようです。<br />一説には、ご神体に鏡を祀るのは中国の神仙道教の影響を受けたものとされます。鏡が神秘的な霊力を持つとする思想は、道教思想として紀元前から成立しているそうです。それが古代のある時期に日本へ渡来したと言うことです。因みにそれ以前のご神体は鏡ではなく、例えば大神神社では今でもご神体は三輪山そのものです。

    正宮
    正殿の妻飾に刻まれている鏡形木(丁字形の束柱)の半弧文様も、弥生時代の銅鏡や土器に見られる直弧文(木葉文)に酷似しているそうです。因みに豊受大御神のご神体は明らかにされていませんが、天鏡尊が鋳造した「白銅鏡」と伝わります。他にも太陽と月を対比させた「月天に従り顕現するところの明鏡」など諸説ありますが、「鏡」であることは確かなようです。
    一説には、ご神体に鏡を祀るのは中国の神仙道教の影響を受けたものとされます。鏡が神秘的な霊力を持つとする思想は、道教思想として紀元前から成立しているそうです。それが古代のある時期に日本へ渡来したと言うことです。因みにそれ以前のご神体は鏡ではなく、例えば大神神社では今でもご神体は三輪山そのものです。

  • 正宮<br />相殿神には『神道五部書』に記された「御伴神(みとものかみ)3座」を祀りますが、祭神名は非公開です。一説には天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)の3座とされます。<br />天津彦彦火瓊瓊杵尊は天照大御神の孫です。「天孫降臨神話」の主役であり、木花咲耶姫の夫神でもあります。他の2柱は天孫降臨に随伴した祭祀集団における代表的な神です。天児屋根命は天照大御神が「天岩戸」に隠れた時に祝詞を奏した神です。太玉命は「天孫降臨」と「天岩戸」に関わった神です。

    正宮
    相殿神には『神道五部書』に記された「御伴神(みとものかみ)3座」を祀りますが、祭神名は非公開です。一説には天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)の3座とされます。
    天津彦彦火瓊瓊杵尊は天照大御神の孫です。「天孫降臨神話」の主役であり、木花咲耶姫の夫神でもあります。他の2柱は天孫降臨に随伴した祭祀集団における代表的な神です。天児屋根命は天照大御神が「天岩戸」に隠れた時に祝詞を奏した神です。太玉命は「天孫降臨」と「天岩戸」に関わった神です。

  • 正宮<br />伊勢神宮の建築的価値を発見したのはドイツの近代建築の巨匠 ブルーノ・タウトでした。1933(昭和8)年に神宮を訪れた際、その素晴らしさを世界へ発信しました。「伊勢は世界建築の王座である。芳香高い美しい檜、屋根の萱、これらの単純な材料で、他の追随を許さぬまでによく構造と融合している。しかも形成が確立した年代は正確に分からず、最初に造った人の名も伝わらない。おそらく天から降ってきたのだろう」と述べています。シンプルかつ質素な造りの中に日本建築の美の極致を見たのでしょう。また、「特に外宮が素晴らしい」と外宮を絶賛していrのは興味深いところです。<br />何故、日本建築家は神宮を評価しなかったのでしょうか?その答えは日本初の建築史家 伊東忠太著『名建築論』にあります。「昔ながらの簡素なる檜造茅葺屋根に千木高しり、勝男木駢(なら)ぶ形式であるので、明治初年西洋の建築学を標準とした時代には、これを以て原始的南洋的の低級建築なりとし、建築学上無価値なるものとして顧みられなかった」。

    正宮
    伊勢神宮の建築的価値を発見したのはドイツの近代建築の巨匠 ブルーノ・タウトでした。1933(昭和8)年に神宮を訪れた際、その素晴らしさを世界へ発信しました。「伊勢は世界建築の王座である。芳香高い美しい檜、屋根の萱、これらの単純な材料で、他の追随を許さぬまでによく構造と融合している。しかも形成が確立した年代は正確に分からず、最初に造った人の名も伝わらない。おそらく天から降ってきたのだろう」と述べています。シンプルかつ質素な造りの中に日本建築の美の極致を見たのでしょう。また、「特に外宮が素晴らしい」と外宮を絶賛していrのは興味深いところです。
    何故、日本建築家は神宮を評価しなかったのでしょうか?その答えは日本初の建築史家 伊東忠太著『名建築論』にあります。「昔ながらの簡素なる檜造茅葺屋根に千木高しり、勝男木駢(なら)ぶ形式であるので、明治初年西洋の建築学を標準とした時代には、これを以て原始的南洋的の低級建築なりとし、建築学上無価値なるものとして顧みられなかった」。

  • 三ツ石<br />外宮の正宮前、別宮遙拝所の西南には3個の丸石を纏めた石積みがあり、注連縄で結界が張られています。正式名称は「川原祓所」と言い、ここの前で式年遷宮の川原大祓が行われ、神職が身を浄める聖なる場所です。<br />かつてはこの辺りに宮川の支流があったそうですが、戦国時代の1498年、数万人の死者を出した明大地震により地形が変動して支流の流れが変わったそうです。名称に 「川原」 とあるのはその名残りです。<br />江戸時代初期の外宮神職 河崎(度会)延貞著『神境紀談』には、三ツ石についての記述があります。「中御池の前に石を鼎足の如くに三箇居置を三石という。月次、神嘗祭又は遷宮の時、御巫内人川原禊をこの三石に著きて勤るなり」とあり、祭祀を行う場所の目印と解釈されています。

    三ツ石
    外宮の正宮前、別宮遙拝所の西南には3個の丸石を纏めた石積みがあり、注連縄で結界が張られています。正式名称は「川原祓所」と言い、ここの前で式年遷宮の川原大祓が行われ、神職が身を浄める聖なる場所です。
    かつてはこの辺りに宮川の支流があったそうですが、戦国時代の1498年、数万人の死者を出した明大地震により地形が変動して支流の流れが変わったそうです。名称に 「川原」 とあるのはその名残りです。
    江戸時代初期の外宮神職 河崎(度会)延貞著『神境紀談』には、三ツ石についての記述があります。「中御池の前に石を鼎足の如くに三箇居置を三石という。月次、神嘗祭又は遷宮の時、御巫内人川原禊をこの三石に著きて勤るなり」とあり、祭祀を行う場所の目印と解釈されています。

  • 三ツ石<br />1967(昭和42)年に佐藤栄作首相が参宮して以来、現職内閣総理大臣が農林水産大臣らを伴って1月4日に参宮するのが慣例となっていましたが、ここはパワースポットと勘違いして大恥をかいた当時の麻生総理大臣が手をかざした場所として知られています。神道においてはそのような行為は「不敬」とされ、ご法度です。伊勢神宮HPでも手をかざしたりしないよう注意喚起されています。<br />因みに首相の参宮は、憲法20条「政教分離の原則」と相容れないのは明白です。第2次安倍政権発足後、神道や特定の宗教団体を極端に重視する行動を繰り返していたことは記憶に新しいと思います。特に伊勢神宮は侵略戦争推進の役割を果たした国家神道(神道の国教化)の頂点に位置付けられた黒い歴史があるため、首相クラスが軽々に参宮するのは外交上いかがなものでしょうか?

    三ツ石
    1967(昭和42)年に佐藤栄作首相が参宮して以来、現職内閣総理大臣が農林水産大臣らを伴って1月4日に参宮するのが慣例となっていましたが、ここはパワースポットと勘違いして大恥をかいた当時の麻生総理大臣が手をかざした場所として知られています。神道においてはそのような行為は「不敬」とされ、ご法度です。伊勢神宮HPでも手をかざしたりしないよう注意喚起されています。
    因みに首相の参宮は、憲法20条「政教分離の原則」と相容れないのは明白です。第2次安倍政権発足後、神道や特定の宗教団体を極端に重視する行動を繰り返していたことは記憶に新しいと思います。特に伊勢神宮は侵略戦争推進の役割を果たした国家神道(神道の国教化)の頂点に位置付けられた黒い歴史があるため、首相クラスが軽々に参宮するのは外交上いかがなものでしょうか?

  • 亀石<br />別宮エリアへ入る時に渡る御池に架けられた1枚ものの巨大な石造の橋です。通称「亀石」と呼ばれ、今にも池へダイブしそうな亀の姿を彷彿とさせます。しかもこの姿は海亀のようでもあります。<br />この亀石は、謂れある名石とされ、三重県最大の横穴式古墳「高倉山古墳(6世紀頃の成立)」の入口にあった巨岩と伝わる高貴な石です。一方、形状が扁平なことから、古墳の岩扉との説もあります。<br />因みに高倉山古墳の石室の規模は、飛鳥の石舞台と同程度とされます。石室は、1499(明応5)年以前にすでに開口しており、江戸時代末期までは天照大御神が隠れた「天岩戸」と謳われて参宮者が詣でたそうです。明治維新以降は「禁足地」となり、学者以外は立入禁止です。

    亀石
    別宮エリアへ入る時に渡る御池に架けられた1枚ものの巨大な石造の橋です。通称「亀石」と呼ばれ、今にも池へダイブしそうな亀の姿を彷彿とさせます。しかもこの姿は海亀のようでもあります。
    この亀石は、謂れある名石とされ、三重県最大の横穴式古墳「高倉山古墳(6世紀頃の成立)」の入口にあった巨岩と伝わる高貴な石です。一方、形状が扁平なことから、古墳の岩扉との説もあります。
    因みに高倉山古墳の石室の規模は、飛鳥の石舞台と同程度とされます。石室は、1499(明応5)年以前にすでに開口しており、江戸時代末期までは天照大御神が隠れた「天岩戸」と謳われて参宮者が詣でたそうです。明治維新以降は「禁足地」となり、学者以外は立入禁止です。

  • 亀石<br />『伊勢国風土記』によると、度会氏は初代天皇 神武天皇の御代に伊勢を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の末裔のようです。また『先代旧事本義』には、「饒速日命に供奉して大和に舞い降りた人々の中に度会氏の祖 天村雲命がいた」と記されています。<br />更には、高倉山古墳の被葬者は土着のドンであった度会氏に繋がる人物とする説が有力です。これらの事情から察すると、外宮の前身は土着の度会氏が祖先の古墳を奥宮として祭祀を営んだ聖地だったと推測できます。それが何らかの事情により伊勢神宮に取り込まれたのかもしれません。

    亀石
    『伊勢国風土記』によると、度会氏は初代天皇 神武天皇の御代に伊勢を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の末裔のようです。また『先代旧事本義』には、「饒速日命に供奉して大和に舞い降りた人々の中に度会氏の祖 天村雲命がいた」と記されています。
    更には、高倉山古墳の被葬者は土着のドンであった度会氏に繋がる人物とする説が有力です。これらの事情から察すると、外宮の前身は土着の度会氏が祖先の古墳を奥宮として祭祀を営んだ聖地だったと推測できます。それが何らかの事情により伊勢神宮に取り込まれたのかもしれません。

  • 亀石<br />内宮は右側通行で外宮は左側通行が決まり事ですが、その理由は古文書にも記されていません。神宮では、参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと説かれています。<br />この説明では消化不良は否めませんが、御?洗場が内宮は右側、外宮は左側にあったという説明の方が判り易いかもしれません。個人的には、お互いの対抗意識が働き、違いを無理やり打ち出していったものと思えてなりません。

    亀石
    内宮は右側通行で外宮は左側通行が決まり事ですが、その理由は古文書にも記されていません。神宮では、参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと説かれています。
    この説明では消化不良は否めませんが、御?洗場が内宮は右側、外宮は左側にあったという説明の方が判り易いかもしれません。個人的には、お互いの対抗意識が働き、違いを無理やり打ち出していったものと思えてなりません。

  • 亀石<br />亀石には精密な盃状穴が無数に穿たれています。ウィキペディアには「盃状穴とは岩石や石の構造物等に彫られている盃状の穴を言います。世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。(中略)日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。古墳時代には古墳の棺に彫られた」と記されています。欧州から朝鮮半島を経て日本に伝来し、その目的は古墳時代の呪術や土俗信仰に発し、江戸時代にはお百度石を踏むのと同じく祈願の作法のひとつでした。<br />水滴が穿った穴とか、藁草履に付いた砂利をこすり落としたために穴が開いたなどの説もありますが、とてもそのレベルで説明できるものでないのは確かです。

    亀石
    亀石には精密な盃状穴が無数に穿たれています。ウィキペディアには「盃状穴とは岩石や石の構造物等に彫られている盃状の穴を言います。世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。(中略)日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。古墳時代には古墳の棺に彫られた」と記されています。欧州から朝鮮半島を経て日本に伝来し、その目的は古墳時代の呪術や土俗信仰に発し、江戸時代にはお百度石を踏むのと同じく祈願の作法のひとつでした。
    水滴が穿った穴とか、藁草履に付いた砂利をこすり落としたために穴が開いたなどの説もありますが、とてもそのレベルで説明できるものでないのは確かです。

  • 亀石<br />元伊勢外宮の岩にも盃状穴があり、参拝者に踏まれるという形態はここと同じです。これに似たコンセプトのものに、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会のお墓が挙げられます。教会の通路の床下にお墓が埋められており、その上を人が自由に歩いて通ります。踏まれれば踏まれる程、生前に犯した罪が消えるという思想のものです。

    亀石
    元伊勢外宮の岩にも盃状穴があり、参拝者に踏まれるという形態はここと同じです。これに似たコンセプトのものに、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会のお墓が挙げられます。教会の通路の床下にお墓が埋められており、その上を人が自由に歩いて通ります。踏まれれば踏まれる程、生前に犯した罪が消えるという思想のものです。

  • 御池<br />正宮の正面に広がる池は、正式には「中の御池(なかのごいけ)」と称します。<br />昔は外宮にも宮川へ流れる支流「豊川」がありましたが、1707年の宝永地震による地表面の隆起で埋まり、細長い3つの池になりました。<br />江戸時代には、この御池前に参拝者専用の御手洗場があったそうです。因みに宮川は三重と奈良、和歌山県の県境にある日本有数の多雨地帯である大台山系を水源とし、大内山川などの支流と合流して伊勢湾へと注ぎます。延長は約91kmあり、三重県下では最大の河川です。「豊受宮の禊川」が縮まって「豊宮川」、更に縮まり「宮川」となったと伝えます。

    御池
    正宮の正面に広がる池は、正式には「中の御池(なかのごいけ)」と称します。
    昔は外宮にも宮川へ流れる支流「豊川」がありましたが、1707年の宝永地震による地表面の隆起で埋まり、細長い3つの池になりました。
    江戸時代には、この御池前に参拝者専用の御手洗場があったそうです。因みに宮川は三重と奈良、和歌山県の県境にある日本有数の多雨地帯である大台山系を水源とし、大内山川などの支流と合流して伊勢湾へと注ぎます。延長は約91kmあり、三重県下では最大の河川です。「豊受宮の禊川」が縮まって「豊宮川」、更に縮まり「宮川」となったと伝えます。

  • 多賀宮への参道<br />正宮に次ぐお宮を別宮と言い、外宮域内には多賀宮、土宮、風宮が鎮座しています。参拝する順番は、正宮参拝後、多賀宮→土宮→風宮と参拝するのが習わしです。<br />多賀宮は外宮第一の別宮で、正宮の南方にある檜尾山山麓に鎮まります。この参道の突き当りにある石段を98段登った高所にあることから、古くは「高宮」と称され、縁起の良い字を当てて「多賀宮」としたと伝わります。<br />正宮では神恩感謝をお参りするのに対し、多賀宮では何か事を起こそうとしている時に願い事をする習わしがあり、地元では「あらたかさん」と呼んでいます。開運や厄除け、商売繁盛にご利益が多賀宮あるとされます。

    多賀宮への参道
    正宮に次ぐお宮を別宮と言い、外宮域内には多賀宮、土宮、風宮が鎮座しています。参拝する順番は、正宮参拝後、多賀宮→土宮→風宮と参拝するのが習わしです。
    多賀宮は外宮第一の別宮で、正宮の南方にある檜尾山山麓に鎮まります。この参道の突き当りにある石段を98段登った高所にあることから、古くは「高宮」と称され、縁起の良い字を当てて「多賀宮」としたと伝わります。
    正宮では神恩感謝をお参りするのに対し、多賀宮では何か事を起こそうとしている時に願い事をする習わしがあり、地元では「あらたかさん」と呼んでいます。開運や厄除け、商売繁盛にご利益が多賀宮あるとされます。

  • ハート石<br />「亀石橋」を渡って少し先にある左手の石垣に注目です。左手の奥に見えるのは風宮とその古殿地の覆屋ですが、その手前の石垣にしっくりと「ハート石」が収まっています。<br />

    ハート石
    「亀石橋」を渡って少し先にある左手の石垣に注目です。左手の奥に見えるのは風宮とその古殿地の覆屋ですが、その手前の石垣にしっくりと「ハート石」が収まっています。

  • ハート石<br />「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど江戸時代の庶民にとっては憧れの旅でした。それは、伊勢参りは「抜け参り」も呼ばれ、奉公人が主人に無断で抜け出しても「お伊勢参りなら仕方がない、お咎めなし!」とされていたからです。庶民が勝手に旅行するのは厳しかった時代ですが、この伊勢参りだけはフリーパスでした。

    ハート石
    「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど江戸時代の庶民にとっては憧れの旅でした。それは、伊勢参りは「抜け参り」も呼ばれ、奉公人が主人に無断で抜け出しても「お伊勢参りなら仕方がない、お咎めなし!」とされていたからです。庶民が勝手に旅行するのは厳しかった時代ですが、この伊勢参りだけはフリーパスでした。

  • 多賀宮への石段<br />この石段が整備されたのは明治時代以降です。『伊勢参宮名所図会』(1797年刊行)には「下部坂(おりべざか)と呼ばれ、全て石段で整備されていた訳でなく、未整備の箇所は『聖徳太子の神鏡・神牙を納めた秘密の場所』と言われたり、赤黒い小石を『袖摺石』、青黒い大石を『袖引石』と称し人の踏まない石だった」とあります。また良遍著『神代巻私見聞』(1424年)には、「下部坂には弘法大師御神体、聖徳太子の神体、日本姫の皇女の神体、三面の鏡これ在り」と記され、空海と聖徳太子に倭姫が加わっています。<br />しかし明治維新以後に神宮も様変わりし、神事を代々行ってきた神官制度は解体され、由緒不明の行事は廃止、由緒不明の石神も合祀または廃棄されたそうです。神宮から仏教にまつわるものを抹消しようとしたのでしょう。

    多賀宮への石段
    この石段が整備されたのは明治時代以降です。『伊勢参宮名所図会』(1797年刊行)には「下部坂(おりべざか)と呼ばれ、全て石段で整備されていた訳でなく、未整備の箇所は『聖徳太子の神鏡・神牙を納めた秘密の場所』と言われたり、赤黒い小石を『袖摺石』、青黒い大石を『袖引石』と称し人の踏まない石だった」とあります。また良遍著『神代巻私見聞』(1424年)には、「下部坂には弘法大師御神体、聖徳太子の神体、日本姫の皇女の神体、三面の鏡これ在り」と記され、空海と聖徳太子に倭姫が加わっています。
    しかし明治維新以後に神宮も様変わりし、神事を代々行ってきた神官制度は解体され、由緒不明の行事は廃止、由緒不明の石神も合祀または廃棄されたそうです。神宮から仏教にまつわるものを抹消しようとしたのでしょう。

  • 下部坂<br />98段ある石段を92段昇った所で緩い坂道になります。<br />伝承によると度会(檜垣)常昌神主はこの下部坂で昇天し、その際に冠の縷(えい:=ひも)が近くの丘へ飛び落ちたと伝えます。以来その地(宇治山田高校のグランドの隅)を「飛社」と称し、石畳を設け常昌神主の霊を祀っているそうです。現在は檜垣常昌神主顕彰碑が建てられています。<br />常昌神主は、勤皇の志篤く、建武中興に当たり後醍醐天皇の勅命を受けて討幕の御祈禱を修し、その功により1330(元徳2)年に神宮祠官として初めて従三位に叙せられました。

    下部坂
    98段ある石段を92段昇った所で緩い坂道になります。
    伝承によると度会(檜垣)常昌神主はこの下部坂で昇天し、その際に冠の縷(えい:=ひも)が近くの丘へ飛び落ちたと伝えます。以来その地(宇治山田高校のグランドの隅)を「飛社」と称し、石畳を設け常昌神主の霊を祀っているそうです。現在は檜垣常昌神主顕彰碑が建てられています。
    常昌神主は、勤皇の志篤く、建武中興に当たり後醍醐天皇の勅命を受けて討幕の御祈禱を修し、その功により1330(元徳2)年に神宮祠官として初めて従三位に叙せられました。

  • 寝地蔵石<br />多賀宮へ向かう石段を登り切ったなだらかな坂道に迫り出すように横たわっています。多賀宮が右手上部に見えてくるため視線を上げてしまって見落とすことが多いのですが、ひとつ前の画像にもしっかり写っています。<br />多賀宮手前の崖側にある柵下にあり、「寝地蔵石」と呼称されています。見る方向や角度により地蔵尊の表情が微妙に変化し、眠っているように見えたり、微笑んでいるように見えたりもします。

    寝地蔵石
    多賀宮へ向かう石段を登り切ったなだらかな坂道に迫り出すように横たわっています。多賀宮が右手上部に見えてくるため視線を上げてしまって見落とすことが多いのですが、ひとつ前の画像にもしっかり写っています。
    多賀宮手前の崖側にある柵下にあり、「寝地蔵石」と呼称されています。見る方向や角度により地蔵尊の表情が微妙に変化し、眠っているように見えたり、微笑んでいるように見えたりもします。

  • 寝地蔵石<br />伊勢神宮を代表するパワースポットとも称され、この寝地蔵石を拝んだ者には吉兆が舞い込むと言う俗信があります。これを1回だけ踏み、多賀宮で参拝すると願いが叶うと伝わります。ただし、帰路で踏んでしまうと願い事を持って帰ることになるので足元に要注意です。<br />因みに1688(元禄元)年、釈迦如来入滅の日の陰暦2月15日に芭蕉が外宮を参拝したとの説もあります。その根拠が外宮で「釈迦の涅槃像」に驚き拝んで詠んだ句があることです。芭蕉は外宮の神垣の辺りは最も仏事を忌む場所と考えていたようです。<br />「神垣や おもひもかけず ねはんぞう」(紀行文『笈の小文』)<br />釈迦の涅槃像=芭蕉の涅槃像=寝地蔵石と繋がるか否かは不明ですが、多賀宮参拝の折には坂道の途中で立ち止まって寝地蔵尊のパワーを充電してください!<br />因みに、この句には本歌があります。<br />「神垣の あたりと思えど 木綿襷(ゆうたすき) 思ひもかけぬ 鐘(しょう)の音かな」(六条右大臣北の方、『金葉和歌集』)

    寝地蔵石
    伊勢神宮を代表するパワースポットとも称され、この寝地蔵石を拝んだ者には吉兆が舞い込むと言う俗信があります。これを1回だけ踏み、多賀宮で参拝すると願いが叶うと伝わります。ただし、帰路で踏んでしまうと願い事を持って帰ることになるので足元に要注意です。
    因みに1688(元禄元)年、釈迦如来入滅の日の陰暦2月15日に芭蕉が外宮を参拝したとの説もあります。その根拠が外宮で「釈迦の涅槃像」に驚き拝んで詠んだ句があることです。芭蕉は外宮の神垣の辺りは最も仏事を忌む場所と考えていたようです。
    「神垣や おもひもかけず ねはんぞう」(紀行文『笈の小文』)
    釈迦の涅槃像=芭蕉の涅槃像=寝地蔵石と繋がるか否かは不明ですが、多賀宮参拝の折には坂道の途中で立ち止まって寝地蔵尊のパワーを充電してください!
    因みに、この句には本歌があります。
    「神垣の あたりと思えど 木綿襷(ゆうたすき) 思ひもかけぬ 鐘(しょう)の音かな」(六条右大臣北の方、『金葉和歌集』)

  • 寝地蔵石<br />南北朝時代の『伊勢両神宮曼荼羅』には、外宮御池の畔に立つ「五百枝杉」に雲に乗った空海が飛来影向する姿が描かれています。この時代には、伊勢神宮が空海の真言密教の聖地ともされ、天照大御神と空海、大日如来を同体と見る向きもあったようです。ただし内宮には描かれておらず、内宮の「天照」を大日如来、外宮の「豊受」を空海と捉えたものと考えられるそうです。<br />一方、『神性東通記』には、「空海入定後、奥の院の廟に納める儀式の際、三十二神が現れ連れ去った。探してみると、神託あって多賀社の下坂部に神鏡として顕われことがわかった」とあります。

    寝地蔵石
    南北朝時代の『伊勢両神宮曼荼羅』には、外宮御池の畔に立つ「五百枝杉」に雲に乗った空海が飛来影向する姿が描かれています。この時代には、伊勢神宮が空海の真言密教の聖地ともされ、天照大御神と空海、大日如来を同体と見る向きもあったようです。ただし内宮には描かれておらず、内宮の「天照」を大日如来、外宮の「豊受」を空海と捉えたものと考えられるそうです。
    一方、『神性東通記』には、「空海入定後、奥の院の廟に納める儀式の際、三十二神が現れ連れ去った。探してみると、神託あって多賀社の下坂部に神鏡として顕われことがわかった」とあります。

  • 寝地蔵石<br />芭蕉は俗人でしたが、剃髪をし頭陀袋を下げた法躰人(僧侶)を彷彿とさせる外見であったが故、唯一神道を主張する伊勢神宮では神前に近付く事は許されませんでした。それなのに何故6回も伊勢参宮を行ったのでしょうか?<br />芭蕉の神宮への信仰心の篤さ故でしょうが、その最大の理由は尊敬する西行や俳諧の租 荒木田守武神主ゆかりの地である伊勢は芭蕉の憧れの地だったからです。<br />「何ごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(『山家集』)<br />と西行が伊勢神宮に参拝した時の言葉にならない感動を詠んでいます。また泉鏡花著『伊勢之巻』からは、往時の伊勢の人たちからこの歌が愛されていたことが窺えます。西行は1180(治承4)年に安養山に草庵を結び、後に神路山山麓にて約6年間も逗留しました。伊勢逗留中に西行は25首詠み、芭蕉もそれに感化されて伊勢逗留中に24句詠みました。そのうち7句が西行に因む詠句であることからも、芭蕉が西行の足跡を追って旅に出た心情が判る気がします。<br />西行の歌を本歌取りした芭蕉の句が次のものです。西行の歌を俳諧化することに主眼を置き、西行の歌を「花」に仮託しデフォルメした句です。<br />前詞:西行のなみだをしたひ、 増賀の信(まこと)をかなしむ<br />「何の木の 花ともしらず 匂ひかな」<br />芭蕉は伊勢神宮に参り、西行の泪に思いを馳せながら、心が洗われるような神々しさを花(桜)の匂いで表現した句です。<br />因みにこの寝地蔵石のある場所は、ここから内宮の正宮を拝む遥拝所跡と伝わります。なるほど僧侶と見做された芭蕉も真言僧の西行もここまでは立ち入りが許され、ここから内宮を遥拝したのでしょう。

    寝地蔵石
    芭蕉は俗人でしたが、剃髪をし頭陀袋を下げた法躰人(僧侶)を彷彿とさせる外見であったが故、唯一神道を主張する伊勢神宮では神前に近付く事は許されませんでした。それなのに何故6回も伊勢参宮を行ったのでしょうか?
    芭蕉の神宮への信仰心の篤さ故でしょうが、その最大の理由は尊敬する西行や俳諧の租 荒木田守武神主ゆかりの地である伊勢は芭蕉の憧れの地だったからです。
    「何ごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(『山家集』)
    と西行が伊勢神宮に参拝した時の言葉にならない感動を詠んでいます。また泉鏡花著『伊勢之巻』からは、往時の伊勢の人たちからこの歌が愛されていたことが窺えます。西行は1180(治承4)年に安養山に草庵を結び、後に神路山山麓にて約6年間も逗留しました。伊勢逗留中に西行は25首詠み、芭蕉もそれに感化されて伊勢逗留中に24句詠みました。そのうち7句が西行に因む詠句であることからも、芭蕉が西行の足跡を追って旅に出た心情が判る気がします。
    西行の歌を本歌取りした芭蕉の句が次のものです。西行の歌を俳諧化することに主眼を置き、西行の歌を「花」に仮託しデフォルメした句です。
    前詞:西行のなみだをしたひ、 増賀の信(まこと)をかなしむ
    「何の木の 花ともしらず 匂ひかな」
    芭蕉は伊勢神宮に参り、西行の泪に思いを馳せながら、心が洗われるような神々しさを花(桜)の匂いで表現した句です。
    因みにこの寝地蔵石のある場所は、ここから内宮の正宮を拝む遥拝所跡と伝わります。なるほど僧侶と見做された芭蕉も真言僧の西行もここまでは立ち入りが許され、ここから内宮を遥拝したのでしょう。

  • 多賀宮<br />最後の6段の石段を昇ると多賀宮に到着です。<br />社殿の規模は他の別宮より大きく、正宮に次ぐ大きさを誇ります。祭神には豊受大御神の荒御魂を祀ります。神様の御魂の穏やかな働きを「和御魂」と称するのに対し、荒々しく格別に顕著な神威を顕される御魂の働きを「荒御魂」と称します。

    多賀宮
    最後の6段の石段を昇ると多賀宮に到着です。
    社殿の規模は他の別宮より大きく、正宮に次ぐ大きさを誇ります。祭神には豊受大御神の荒御魂を祀ります。神様の御魂の穏やかな働きを「和御魂」と称するのに対し、荒々しく格別に顕著な神威を顕される御魂の働きを「荒御魂」と称します。

  • 多賀宮<br />一方、神宮に伝わる古文書『大祓詞』によると、「神直毘神」と「伊吹戸主神」を祀るともあり、『倭姫命世記』には「豊受大御神の荒御魂」の別称としてこの2柱の名があります。因みに伊吹戸主神は黄泉から戻ってきた伊弉諾尊の禊で誕生したとされる神で、祓戸四神(総称して祓戸大神)の一柱です。神直日神は『古事記』にその名があり、同禊で大直日神と共に誕生したとされ、伊吹戸主神と同神とされる伝承があります。

    多賀宮
    一方、神宮に伝わる古文書『大祓詞』によると、「神直毘神」と「伊吹戸主神」を祀るともあり、『倭姫命世記』には「豊受大御神の荒御魂」の別称としてこの2柱の名があります。因みに伊吹戸主神は黄泉から戻ってきた伊弉諾尊の禊で誕生したとされる神で、祓戸四神(総称して祓戸大神)の一柱です。神直日神は『古事記』にその名があり、同禊で大直日神と共に誕生したとされ、伊吹戸主神と同神とされる伝承があります。

  • 多賀宮<br />社殿は正宮に準じた外削ぎの千木と5本で奇数の鰹木を持つ萱葺、神明造です。奇妙なのは、他の別宮には社殿前に鳥居があるのに、この多賀宮には鳥居がないことです。これは「伊勢神宮の七不思議」のひとつですが、その理由には「和御魂と荒御魂を祀る社は、本来は一体の関係にある」、つまり「正宮と多賀宮は一体であり、鳥居はひとつ」と考えるそうです。<br />一方、小高い場所に建つことから、当初は参拝を受ける社殿ではなく、神の降臨を祈った祭祀の場だったとも考えられています。

    多賀宮
    社殿は正宮に準じた外削ぎの千木と5本で奇数の鰹木を持つ萱葺、神明造です。奇妙なのは、他の別宮には社殿前に鳥居があるのに、この多賀宮には鳥居がないことです。これは「伊勢神宮の七不思議」のひとつですが、その理由には「和御魂と荒御魂を祀る社は、本来は一体の関係にある」、つまり「正宮と多賀宮は一体であり、鳥居はひとつ」と考えるそうです。
    一方、小高い場所に建つことから、当初は参拝を受ける社殿ではなく、神の降臨を祈った祭祀の場だったとも考えられています。

  • 多賀宮<br />今から約1500年前、 雄略天皇22年に天照大御神の神勅によって豊受大御神が丹波国から御饌都神として迎えた豊受大神宮と同時に創建されたと伝えます。外宮には多賀宮、土宮、風宮、月夜見宮(外宮域外)の4別宮がありますが、多賀宮だけは804(延暦23)年の『止由気宮儀式帳』や『延喜神名式』に「高宮一院等由気太神之荒御玉神也」と記されており、他の別宮が後年に宮号宣下されたのに比べ、別宮として格別な待遇を受けていたことが窺えます。<br />現在でも、祭祀の際に勅使が参行するのは外宮では正宮とこの多賀宮のみです。また式年遷宮では、別宮の中では内宮の荒祭宮に次いで遷御が行われます。

    多賀宮
    今から約1500年前、 雄略天皇22年に天照大御神の神勅によって豊受大御神が丹波国から御饌都神として迎えた豊受大神宮と同時に創建されたと伝えます。外宮には多賀宮、土宮、風宮、月夜見宮(外宮域外)の4別宮がありますが、多賀宮だけは804(延暦23)年の『止由気宮儀式帳』や『延喜神名式』に「高宮一院等由気太神之荒御玉神也」と記されており、他の別宮が後年に宮号宣下されたのに比べ、別宮として格別な待遇を受けていたことが窺えます。
    現在でも、祭祀の際に勅使が参行するのは外宮では正宮とこの多賀宮のみです。また式年遷宮では、別宮の中では内宮の荒祭宮に次いで遷御が行われます。

  • 下御井神社<br />多賀宮へ向かう石段の西側にある沢の奥に潜んでいます。ここを参拝される方は少ないと思っていたのですが、想定を覆されました。<br />外宮の所管社のひとつで、内部に井戸があります。別名「少宮(わかみや)」と呼ばれ、祭神には下御井鎮守神を祀ります。板垣が巡らされた内側に社殿がない井桁式「覆屋」です。<br />因みに『日本書紀』によると、「日の少宮」は国生みの仕事を終えた伊弉諾尊が赴いた場所です。死後の霊魂は消え去ることなく常に祀り続けられ、その終の棲家が 「日少宮」でした。

    下御井神社
    多賀宮へ向かう石段の西側にある沢の奥に潜んでいます。ここを参拝される方は少ないと思っていたのですが、想定を覆されました。
    外宮の所管社のひとつで、内部に井戸があります。別名「少宮(わかみや)」と呼ばれ、祭神には下御井鎮守神を祀ります。板垣が巡らされた内側に社殿がない井桁式「覆屋」です。
    因みに『日本書紀』によると、「日の少宮」は国生みの仕事を終えた伊弉諾尊が赴いた場所です。死後の霊魂は消え去ることなく常に祀り続けられ、その終の棲家が 「日少宮」でした。

  • 下御井神社<br />伊勢神宮の所管社には通常お賽銭箱が置かれていませんが、ここは珍しくお賽銭箱が置かれています。<br />それは、この神社が神宮内では希少な「人のための神社」だからです。<br />

    下御井神社
    伊勢神宮の所管社には通常お賽銭箱が置かれていませんが、ここは珍しくお賽銭箱が置かれています。
    それは、この神社が神宮内では希少な「人のための神社」だからです。

  • 下御井神社<br />上御井神社の水が枯れた時には代わりにここの井戸水が使われますが、古くは多賀宮御用達の井戸だったそうです。多賀宮には明治時代まで専用の忌火屋殿が存在したそうです。正宮に対し多賀宮は位が下がり、各々の井戸が上下に分けられているのも腑に落ちます。『太神宮諸雑事記』には、1050(永承5)年に上御井の水が涸れ、土宮の前の水、すなわち下御井の水を汲んだと記されています。

    下御井神社
    上御井神社の水が枯れた時には代わりにここの井戸水が使われますが、古くは多賀宮御用達の井戸だったそうです。多賀宮には明治時代まで専用の忌火屋殿が存在したそうです。正宮に対し多賀宮は位が下がり、各々の井戸が上下に分けられているのも腑に落ちます。『太神宮諸雑事記』には、1050(永承5)年に上御井の水が涸れ、土宮の前の水、すなわち下御井の水を汲んだと記されています。

  • 風宮<br />祭神は、風雨を司る神 級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)で、内宮別宮の風日祈宮の祭神と同じです。雨風は農作物に多大な影響を及ぼすことから、古より正宮に準じて丁重に祀られています。<br />風宮は古くは「風社(かぜやしろ)」と称し、社格は末社でした。しかし『止由気宮儀式帳』や『延喜神名式』には記載がなく、997(長徳3)年の『長徳検録』に「風社在高宮道棒本」と初見され、往時は多賀宮へ続く参道沿いの杉の下にある小社だったと考えられています。尚、社殿の形式は土宮と同じです。

    風宮
    祭神は、風雨を司る神 級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)で、内宮別宮の風日祈宮の祭神と同じです。雨風は農作物に多大な影響を及ぼすことから、古より正宮に準じて丁重に祀られています。
    風宮は古くは「風社(かぜやしろ)」と称し、社格は末社でした。しかし『止由気宮儀式帳』や『延喜神名式』には記載がなく、997(長徳3)年の『長徳検録』に「風社在高宮道棒本」と初見され、往時は多賀宮へ続く参道沿いの杉の下にある小社だったと考えられています。尚、社殿の形式は土宮と同じです。

  • 風宮<br />鎌倉時代の1281(弘安4)年、蒙古襲来(元寇)の際に朝廷から伊勢神宮に送られた勅旨により祈祷を行ったところ、暴風雨が起こり元軍10万の兵を撤退させました。このことから、神風を起こして未曽有の国難を救った神様として1293(正応6)年に別宮に昇格しました。その詳細は『増鏡』に次のように記されています。「さて為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る道より申しおくりける。勅をして祈るしるしの神風に寄せくる浪ぞかつくだけつる」。尚、内宮にある風日祈宮も同様に「風神社」と称された末社から別宮に昇格しています。<br />1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、大木が倒れて風宮の屋根が被害に遭いました。しかし他の社殿には被害がなく、風宮が被害を一身に受けて伊勢神宮を護ったと言われています。<br />一方、黒船来航など再び国難に襲われた幕末の1863(文久3)年には、朝廷主導で生麦事件を発端とした英国軍艦を追い払うための攘夷祈願が15日間に亘って風宮で行われました。そのご利益の有無は歴史が物語っています。幕府が生麦事件の賠償金10万ポンドを支払う一方、薩英戦争の開戦時には台風による暴風雨で視界不良となったものの、薩摩藩の天祐丸や青鷹丸、白鳳丸が拿捕されるに至りました。結果として薩摩藩も和解交渉に応じたのですが、ここでも風神が暴風雨をもたらしたのは事実です。

    風宮
    鎌倉時代の1281(弘安4)年、蒙古襲来(元寇)の際に朝廷から伊勢神宮に送られた勅旨により祈祷を行ったところ、暴風雨が起こり元軍10万の兵を撤退させました。このことから、神風を起こして未曽有の国難を救った神様として1293(正応6)年に別宮に昇格しました。その詳細は『増鏡』に次のように記されています。「さて為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る道より申しおくりける。勅をして祈るしるしの神風に寄せくる浪ぞかつくだけつる」。尚、内宮にある風日祈宮も同様に「風神社」と称された末社から別宮に昇格しています。
    1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、大木が倒れて風宮の屋根が被害に遭いました。しかし他の社殿には被害がなく、風宮が被害を一身に受けて伊勢神宮を護ったと言われています。
    一方、黒船来航など再び国難に襲われた幕末の1863(文久3)年には、朝廷主導で生麦事件を発端とした英国軍艦を追い払うための攘夷祈願が15日間に亘って風宮で行われました。そのご利益の有無は歴史が物語っています。幕府が生麦事件の賠償金10万ポンドを支払う一方、薩英戦争の開戦時には台風による暴風雨で視界不良となったものの、薩摩藩の天祐丸や青鷹丸、白鳳丸が拿捕されるに至りました。結果として薩摩藩も和解交渉に応じたのですが、ここでも風神が暴風雨をもたらしたのは事実です。

  • 風宮<br />古代~中世には、怪異現象は神がもたらす啓示とされました。神宮も例外ではなく、平安時代以降、諸神社で怪異が頻発し大災厄の予兆と騒がれました。王権と密接な神宮では怪異現象には特に注意が払われましたが、その現象には人為的なものも多々あったようです。<br />神宮での怪異の例を挙げると、鎌倉時代の元寇の際、両宮の風社に鳴動があり、正殿からの赤雲を伴って西方へ渡ったとし、蒙古襲来に神宮が神威を現わしたことを誇張しています。また、南北朝時代の足利政権の内紛による観応の擾乱の際には、外宮宝殿や内宮荒祭宮、外宮正殿が鳴動し、王権擁護の神威を伝えています。<br />実は神宮では、国家存亡の危機が発生したタイミングで怪異現象が頻発していました。つまり、怪異と国家の動揺とを恣意的に結び付けようとする背景が存在した証左です。神宮の祢宜は、怪異を定期的に報告することで、銀宮が王権にとって重要な存在であることを再認識させようと画策したとも考えられます。風宮などの別宮への昇格はこうした行為の賜物だったのでしょう。

    風宮
    古代~中世には、怪異現象は神がもたらす啓示とされました。神宮も例外ではなく、平安時代以降、諸神社で怪異が頻発し大災厄の予兆と騒がれました。王権と密接な神宮では怪異現象には特に注意が払われましたが、その現象には人為的なものも多々あったようです。
    神宮での怪異の例を挙げると、鎌倉時代の元寇の際、両宮の風社に鳴動があり、正殿からの赤雲を伴って西方へ渡ったとし、蒙古襲来に神宮が神威を現わしたことを誇張しています。また、南北朝時代の足利政権の内紛による観応の擾乱の際には、外宮宝殿や内宮荒祭宮、外宮正殿が鳴動し、王権擁護の神威を伝えています。
    実は神宮では、国家存亡の危機が発生したタイミングで怪異現象が頻発していました。つまり、怪異と国家の動揺とを恣意的に結び付けようとする背景が存在した証左です。神宮の祢宜は、怪異を定期的に報告することで、銀宮が王権にとって重要な存在であることを再認識させようと画策したとも考えられます。風宮などの別宮への昇格はこうした行為の賜物だったのでしょう。

  • 土宮<br />多賀宮の下方に鎮座しています。<br />祭神には外宮一帯の山田地区の地主神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀ります。外宮が鎮座する以前からの土着神です。<br />『止由気宮儀式帳』には「大宮地神」と記され、997(長徳3)年の『長徳検録』には外宮所管の田社32前の1座として「土御祖神社」とあります。 因みに田社は、現在の末社に相当します。しかし度々氾濫する宮川の洪水を防ぐため、1128(大治3)年に治水や堤防の守護神として2階級特進して別宮に昇格しました。往時は治水技術も発達しておらず、河川氾濫による甚大な被害が相次ぎ、地域住民の治水への感心は高く、土地の守護を司る大土乃御祖神に対する祈りが切実なものだったことは想像に難くありません。<br />1285(弘安8)年に度会行忠が記した『神名秘書』には、大土乃御祖神の他、山田原地主の大歳神、宇迦之御魂神を土宮3座と記しています。また、ご神体は大歳神と土御祖神が「鏡」、宇迦魂神が「宝壺」としています。尚、大歳神は、穀物の守護神であり、素戔嗚尊の子です。また宇迦之御魂神は、食物神であり、全国の稲荷神社で祀られている神様です。ここに外宮と稲荷の関係が垣間見られます。

    土宮
    多賀宮の下方に鎮座しています。
    祭神には外宮一帯の山田地区の地主神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀ります。外宮が鎮座する以前からの土着神です。
    『止由気宮儀式帳』には「大宮地神」と記され、997(長徳3)年の『長徳検録』には外宮所管の田社32前の1座として「土御祖神社」とあります。 因みに田社は、現在の末社に相当します。しかし度々氾濫する宮川の洪水を防ぐため、1128(大治3)年に治水や堤防の守護神として2階級特進して別宮に昇格しました。往時は治水技術も発達しておらず、河川氾濫による甚大な被害が相次ぎ、地域住民の治水への感心は高く、土地の守護を司る大土乃御祖神に対する祈りが切実なものだったことは想像に難くありません。
    1285(弘安8)年に度会行忠が記した『神名秘書』には、大土乃御祖神の他、山田原地主の大歳神、宇迦之御魂神を土宮3座と記しています。また、ご神体は大歳神と土御祖神が「鏡」、宇迦魂神が「宝壺」としています。尚、大歳神は、穀物の守護神であり、素戔嗚尊の子です。また宇迦之御魂神は、食物神であり、全国の稲荷神社で祀られている神様です。ここに外宮と稲荷の関係が垣間見られます。

  • 土宮<br />社殿は外削ぎの千木と5本で奇数の鰹木を持つ萱葺、神明造です。特徴的なのは、他の宮社は全て南向きですが、ここだけは東向きです。その理由は不明とされますが、個人的には土宮が氾濫を防いでいる宮川に睨みを利かす配置と思います。神宮のお宮が南向きの理由は、中国古来の考え方である「君子(天子)は北を背にして南を向いて政務を執行する」に因むそうです。過去には南向きに改修する議論もなされたそうですが、正宮の創建以前からの形式を尊重し、東向きのままとなったそうです。

    土宮
    社殿は外削ぎの千木と5本で奇数の鰹木を持つ萱葺、神明造です。特徴的なのは、他の宮社は全て南向きですが、ここだけは東向きです。その理由は不明とされますが、個人的には土宮が氾濫を防いでいる宮川に睨みを利かす配置と思います。神宮のお宮が南向きの理由は、中国古来の考え方である「君子(天子)は北を背にして南を向いて政務を執行する」に因むそうです。過去には南向きに改修する議論もなされたそうですが、正宮の創建以前からの形式を尊重し、東向きのままとなったそうです。

  • 土宮<br />何故、神宮をこのような洪水多発地帯に立地させたのかも謎のひとつです。<br />その理由には諸説ありますが、勝部昭著『出雲国風土記と古代遺跡』にある「荒神谷遺跡の青銅器の埋納と、神宮の武具や楽器などの神宝の埋納の類似性」の指摘には目から鱗です。つまり、両者とも河川氾濫に悩まされながらも、農産物に不可欠な水を確保するため、神に青銅器や神宝を捧げて願いの代償としたとの説です。1700点もの神宮の神宝が、遷宮後に土中に埋納されたり焼納されていたのは事実です。

    土宮
    何故、神宮をこのような洪水多発地帯に立地させたのかも謎のひとつです。
    その理由には諸説ありますが、勝部昭著『出雲国風土記と古代遺跡』にある「荒神谷遺跡の青銅器の埋納と、神宮の武具や楽器などの神宝の埋納の類似性」の指摘には目から鱗です。つまり、両者とも河川氾濫に悩まされながらも、農産物に不可欠な水を確保するため、神に青銅器や神宝を捧げて願いの代償としたとの説です。1700点もの神宮の神宝が、遷宮後に土中に埋納されたり焼納されていたのは事実です。

  • 御饌殿(みけどの)<br />こちらが元々の表道でしたが、今は裏参道と呼ばれています。 <br />神様の食堂「御饌殿」は裏参道から正宮の瑞垣越しに屋根の一部が見られます。この御饌殿の日課が日別朝夕大御饌祭です。内宮に祀られている天照大御神などの神々が毎日ここに集い食事を摂られます。この祭事は豊受大神宮(外宮)の鎮座に由来し、1500年欠かさず続いているとされます。

    御饌殿(みけどの)
    こちらが元々の表道でしたが、今は裏参道と呼ばれています。 
    神様の食堂「御饌殿」は裏参道から正宮の瑞垣越しに屋根の一部が見られます。この御饌殿の日課が日別朝夕大御饌祭です。内宮に祀られている天照大御神などの神々が毎日ここに集い食事を摂られます。この祭事は豊受大神宮(外宮)の鎮座に由来し、1500年欠かさず続いているとされます。

  • 御饌殿<br />ここからの外観では判り難いのですが、神明造ですが板校倉造でもあります。四隅に柱を用いずに井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる横板壁を組み合わせた構造をし、弥生時代の穀倉建築様式を踏襲したものだそうです。饅頭などを蒸す蒸籠という器や戦陣で組立てる櫓に似た建築構造です。古においては、内宮・外宮の正殿などもこの型式だったとも考えられています。<br />板垣で下方は見えませんが、1本の丸太に階段状の刻みを付けた「刻御階(きざみぎょかい)」で昇降するようになっており、南と北側に扉があるそうです。

    御饌殿
    ここからの外観では判り難いのですが、神明造ですが板校倉造でもあります。四隅に柱を用いずに井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる横板壁を組み合わせた構造をし、弥生時代の穀倉建築様式を踏襲したものだそうです。饅頭などを蒸す蒸籠という器や戦陣で組立てる櫓に似た建築構造です。古においては、内宮・外宮の正殿などもこの型式だったとも考えられています。
    板垣で下方は見えませんが、1本の丸太に階段状の刻みを付けた「刻御階(きざみぎょかい)」で昇降するようになっており、南と北側に扉があるそうです。

  • 御饌殿<br />午後3時過ぎに訪れた時の画像です。「日別朝夕大御饌祭」で御饌殿にお供えする御饌を運ばれている所です。春夏(4~9月)は8時と16時のはずですが、イレギュラーもあるようです。禰宜1名、権禰宜1名、宮掌1名、出仕2名によって奉仕されます。御饌殿では禰宜が南北の扉を開き、天照大御神は東の座に西向きに、豊受大御神は西の座に東向きに相対し、その御前に神饌をお供えします。<br /><br />平安時代の編述『太神宮諸雑事記』によると、かつては外宮→内宮へ徒歩で御饌を運んでいたようです。しかし729(神亀6)年、その途中で参道に死体が散乱しているのに遭遇。迂回路もなく目を逸らして走り抜けたが、程なく聖武天皇が罹患し、神祇官陰陽寮の占いで死穢の不浄による祟りと判った。その対策として外宮に御饌殿を新設し、そこへ内宮の神々に参集いただく次第となったと記しています。つまり御饌殿の創建は729年であり、それ以前は忌火屋殿のような所で調理して内宮まで運んでいたと推察されます。

    御饌殿
    午後3時過ぎに訪れた時の画像です。「日別朝夕大御饌祭」で御饌殿にお供えする御饌を運ばれている所です。春夏(4~9月)は8時と16時のはずですが、イレギュラーもあるようです。禰宜1名、権禰宜1名、宮掌1名、出仕2名によって奉仕されます。御饌殿では禰宜が南北の扉を開き、天照大御神は東の座に西向きに、豊受大御神は西の座に東向きに相対し、その御前に神饌をお供えします。

    平安時代の編述『太神宮諸雑事記』によると、かつては外宮→内宮へ徒歩で御饌を運んでいたようです。しかし729(神亀6)年、その途中で参道に死体が散乱しているのに遭遇。迂回路もなく目を逸らして走り抜けたが、程なく聖武天皇が罹患し、神祇官陰陽寮の占いで死穢の不浄による祟りと判った。その対策として外宮に御饌殿を新設し、そこへ内宮の神々に参集いただく次第となったと記しています。つまり御饌殿の創建は729年であり、それ以前は忌火屋殿のような所で調理して内宮まで運んでいたと推察されます。

  • 御饌殿<br />夕刻に訪れた時の画像です。燈籠に明かりが点され幽玄な世界観を醸しています。<br /><br />鎌倉時代初期の編述『神宮雑例集』によると、「倭姫命が内宮を創建した時に内宮に御饌殿を造立し、そこで抜穂の稲を炊しいだ御饌を供えた。外宮の鎮座後は外宮に御饌殿が造られ、そこへ供進することになった」と記しています。現在では本説を正とし、729年創立という伝承は神宮では採用していません。内宮の御饌殿はその際に廃棄されたのか、現在は存在しません。

    御饌殿
    夕刻に訪れた時の画像です。燈籠に明かりが点され幽玄な世界観を醸しています。

    鎌倉時代初期の編述『神宮雑例集』によると、「倭姫命が内宮を創建した時に内宮に御饌殿を造立し、そこで抜穂の稲を炊しいだ御饌を供えた。外宮の鎮座後は外宮に御饌殿が造られ、そこへ供進することになった」と記しています。現在では本説を正とし、729年創立という伝承は神宮では採用していません。内宮の御饌殿はその際に廃棄されたのか、現在は存在しません。

  • 忌火屋殿(いみびやでん)<br />二重板葺、切妻造の建物で、日別朝夕大御饌祭の神饌を調理する場所です。神饌は特別に起こした火で調理するしきたりがあり、その聖なる火を清浄な火という意味で「忌火」と称します。忌火は神職が古式を守って檜(火の木)の板とヤマビワの心棒を擦り合わせる舞錐式発火法で起こします。<br />神饌が揃った後、忌火屋殿前にある「祓所」でお清めをし、正宮裏手の「御饌殿」に運び入れます。こうして天照大御神はじめ神々に神饌が捧げられ、「国安かれ、民安かれ」という祈りが届けられます。因みに供えられた神饌は、神職たちが有り難くいただくためフードロスにはならないそうです。<br />「忌」の文字にはドキッとさせられますが、古来「忌」は「神聖な物」や「神聖な場所」など「清浄」を意味する言葉だったそうです。

    忌火屋殿(いみびやでん)
    二重板葺、切妻造の建物で、日別朝夕大御饌祭の神饌を調理する場所です。神饌は特別に起こした火で調理するしきたりがあり、その聖なる火を清浄な火という意味で「忌火」と称します。忌火は神職が古式を守って檜(火の木)の板とヤマビワの心棒を擦り合わせる舞錐式発火法で起こします。
    神饌が揃った後、忌火屋殿前にある「祓所」でお清めをし、正宮裏手の「御饌殿」に運び入れます。こうして天照大御神はじめ神々に神饌が捧げられ、「国安かれ、民安かれ」という祈りが届けられます。因みに供えられた神饌は、神職たちが有り難くいただくためフードロスにはならないそうです。
    「忌」の文字にはドキッとさせられますが、古来「忌」は「神聖な物」や「神聖な場所」など「清浄」を意味する言葉だったそうです。

  • 御酒殿神(みさかどののかみ)<br />祭神は御酒殿の守護神を祀ります。<br />古くは諸神に供える神酒の醸造所でしたが、現在は三節祭に供える神酒を一時的に納め、これを奉下して神前に供えます。また、麹の保管庫でもあります。<br />因みに神酒は、忌火屋殿で約10日間かけて醸造されます。その方法は古式に則り、蒸した米と麹を放置して自然発酵させると、白く濁った「どぶろく」ができあがります。

    御酒殿神(みさかどののかみ)
    祭神は御酒殿の守護神を祀ります。
    古くは諸神に供える神酒の醸造所でしたが、現在は三節祭に供える神酒を一時的に納め、これを奉下して神前に供えます。また、麹の保管庫でもあります。
    因みに神酒は、忌火屋殿で約10日間かけて醸造されます。その方法は古式に則り、蒸した米と麹を放置して自然発酵させると、白く濁った「どぶろく」ができあがります。

  • 北御門口鳥居(きたみかどぐちとりい)<br />裏参道にある第一鳥居です。<br />その先の左手に「御厩」があります。

    北御門口鳥居(きたみかどぐちとりい)
    裏参道にある第一鳥居です。
    その先の左手に「御厩」があります。

  • 火除橋(北御門口御橋)<br />この橋を渡ればゴールとの思いから気が逸るのは人の性ですが、その気持ちを押し留めて最後の見所をスキップしないようにしてください。<br />注目は橋の手前の右手にある石積みです。

    火除橋(北御門口御橋)
    この橋を渡ればゴールとの思いから気が逸るのは人の性ですが、その気持ちを押し留めて最後の見所をスキップしないようにしてください。
    注目は橋の手前の右手にある石積みです。

  • 石積み<br />何の変哲もない年季の入った苔生した石積みにしか見えませんが、実はそうではありません。<br />ここには外宮と内宮の宗教抗争の事実を立証する歴史遺産が眠っています。<br />

    石積み
    何の変哲もない年季の入った苔生した石積みにしか見えませんが、実はそうではありません。
    ここには外宮と内宮の宗教抗争の事実を立証する歴史遺産が眠っています。

  • 猿面石(兜石)<br />石積みの中央部に載せられた丸い石に注目です。<br />「猿の顔」を彷彿とさせる風変わりな石です。神宮司庁発行の手引書『お伊勢まいり』には「猿面石といわれる珍石」と紹介されています。今日では「猿面石」と呼ばれますが、江戸時代には「兜石」と呼称されていたそうです。<br />ただし、このように正面から見ると「猿の顔」はイメージできません。しかし、斜め横から見れば頷けます。

    猿面石(兜石)
    石積みの中央部に載せられた丸い石に注目です。
    「猿の顔」を彷彿とさせる風変わりな石です。神宮司庁発行の手引書『お伊勢まいり』には「猿面石といわれる珍石」と紹介されています。今日では「猿面石」と呼ばれますが、江戸時代には「兜石」と呼称されていたそうです。
    ただし、このように正面から見ると「猿の顔」はイメージできません。しかし、斜め横から見れば頷けます。

  • 猿面石(兜石)<br />江戸時代中期に加藤忠告が著した伊勢の地誌『宮川夜話草』には「石垣東の端に兜石」と記されています。その一節を要約すると次のようになります。<br />「昔、出陣の時には神前を拝し、必ず兜石を撫でたとの言伝えがある。また古記を精査したところ、この周囲の石垣は近世初期には築石されていたと考えられる。『出陣の時』とあるのは、外宮門前町の山田と内宮門前町である宇治との長年に亘る確執、つまり1486(文明18)年の内宮と外宮による宗教戦争を指すものと思われ、兜石は中世にはすでに存在していたようだ」。<br />因みに『宇治山田市史』によると、山田の大将 村山武則は奮闘したものの、腹背の包囲に術尽き、勝算のないのを悟って外宮へ逃げ込み、正殿に火をかけて自刃しています。一方、この事態を招いた内宮一祢宜 荒木田氏経は責任を取り自ら食を断って果てています。<br />外宮に仕える神役人が外宮正殿を灰燼に化したという顛末にはやるせないものがありますが、伊勢神宮に仕える神役人同志でこうした凄惨な争いを繰り返してきたのは事実のようです。

    猿面石(兜石)
    江戸時代中期に加藤忠告が著した伊勢の地誌『宮川夜話草』には「石垣東の端に兜石」と記されています。その一節を要約すると次のようになります。
    「昔、出陣の時には神前を拝し、必ず兜石を撫でたとの言伝えがある。また古記を精査したところ、この周囲の石垣は近世初期には築石されていたと考えられる。『出陣の時』とあるのは、外宮門前町の山田と内宮門前町である宇治との長年に亘る確執、つまり1486(文明18)年の内宮と外宮による宗教戦争を指すものと思われ、兜石は中世にはすでに存在していたようだ」。
    因みに『宇治山田市史』によると、山田の大将 村山武則は奮闘したものの、腹背の包囲に術尽き、勝算のないのを悟って外宮へ逃げ込み、正殿に火をかけて自刃しています。一方、この事態を招いた内宮一祢宜 荒木田氏経は責任を取り自ら食を断って果てています。
    外宮に仕える神役人が外宮正殿を灰燼に化したという顛末にはやるせないものがありますが、伊勢神宮に仕える神役人同志でこうした凄惨な争いを繰り返してきたのは事実のようです。

  • 猿面石(兜石)<br />反対側から見ると、どことなく「熊のプーさん」を彷彿とさせます。<br />「猿面石」と呼ばれるようになったのは近年のことだそうですから、歴史的には「兜石」とする方が真実味がありそうです。所詮、パレイドリア現象でしかないのですから…。<br />視覚による錯覚で、抽象的な形状や模様から脳がその意味を読み取って具体的な形象や対象として認知してしまう現象をパレイドリアと言います。特に、目や口、鼻の位置関係があれば人や動物と認識してしまうのです。

    猿面石(兜石)
    反対側から見ると、どことなく「熊のプーさん」を彷彿とさせます。
    「猿面石」と呼ばれるようになったのは近年のことだそうですから、歴史的には「兜石」とする方が真実味がありそうです。所詮、パレイドリア現象でしかないのですから…。
    視覚による錯覚で、抽象的な形状や模様から脳がその意味を読み取って具体的な形象や対象として認知してしまう現象をパレイドリアと言います。特に、目や口、鼻の位置関係があれば人や動物と認識してしまうのです。

  • ゴリラ石<br />パレイドリア現象にあやかって新たな「猿面石」を見つけました。しかし猿というよりは、デフォルメされた「ゴリラ顔」に近いものです。<br />どの石か判りますか?<br /><br />水戸黄門編纂『大日本史』は「内宮と外宮が表記されたのは平安時代中期の朱雀天皇の代」と記しています。その内宮と外宮が険悪な関係であった時代がありました。<br />記録に残る最古のトラブルは鎌倉時代の1296(永仁4)年の事件です。石河御厨からの年貢が滞ったため外宮が訴訟を起こした際、その書類に外宮を「豊受皇大神宮」と「皇」を加えたため、内宮が非難した事件です。「皇大神宮」という名を誇りにしてきた内宮としては看過できなかったようです。<br />また、南北朝動乱にも神宮の神職は深く関わっていました。北朝は足利尊氏が光明天皇を擁して成った皇室、一方の南朝は奈良吉野を拠点とする後醍醐天皇を中心とした皇室であり、内宮は北朝方へ、外宮は南朝方へ与したようです。

    ゴリラ石
    パレイドリア現象にあやかって新たな「猿面石」を見つけました。しかし猿というよりは、デフォルメされた「ゴリラ顔」に近いものです。
    どの石か判りますか?

    水戸黄門編纂『大日本史』は「内宮と外宮が表記されたのは平安時代中期の朱雀天皇の代」と記しています。その内宮と外宮が険悪な関係であった時代がありました。
    記録に残る最古のトラブルは鎌倉時代の1296(永仁4)年の事件です。石河御厨からの年貢が滞ったため外宮が訴訟を起こした際、その書類に外宮を「豊受皇大神宮」と「皇」を加えたため、内宮が非難した事件です。「皇大神宮」という名を誇りにしてきた内宮としては看過できなかったようです。
    また、南北朝動乱にも神宮の神職は深く関わっていました。北朝は足利尊氏が光明天皇を擁して成った皇室、一方の南朝は奈良吉野を拠点とする後醍醐天皇を中心とした皇室であり、内宮は北朝方へ、外宮は南朝方へ与したようです。

  • ゴリラ石<br />1449(宝徳元)年、大名 武田氏の参宮に当たり、殺傷沙汰となりました。その発端は物部氏の祖始 火明命(ほあかりのみこと)系である外宮の度会氏と持統天皇や藤原不比等とも関係の深い内宮の荒木田氏の対立が根底にあったようです。<br />そして1486年には両宮間で宗教抗争が勃発。内宮が外宮を追い詰め、外宮は自らの正殿に火を放ち内宮に応戦。外宮の大将は自刀して壮絶な死を遂げました。その3年後、今度は外宮が内宮を攻撃し、聖域内で刃傷沙汰に至り、内宮の御柱も傷付けられたと記録されています。

    ゴリラ石
    1449(宝徳元)年、大名 武田氏の参宮に当たり、殺傷沙汰となりました。その発端は物部氏の祖始 火明命(ほあかりのみこと)系である外宮の度会氏と持統天皇や藤原不比等とも関係の深い内宮の荒木田氏の対立が根底にあったようです。
    そして1486年には両宮間で宗教抗争が勃発。内宮が外宮を追い詰め、外宮は自らの正殿に火を放ち内宮に応戦。外宮の大将は自刀して壮絶な死を遂げました。その3年後、今度は外宮が内宮を攻撃し、聖域内で刃傷沙汰に至り、内宮の御柱も傷付けられたと記録されています。

  • 石積み<br />明治政府が1871(明治4)年に「内宮の方が上位」と通達後は、現在のように「豊受大明神は天照大御神に食事を供する役目を果たす神で、内宮の方が外宮より上位」との認識が定着。しかし現在でも、「外宮を先に参る」常識は不変です。これには、明治天皇や昭和天皇が「外宮を先に参拝した」という歴史的事実も影響しているようです。鳥居の榊の位置が外宮の方が若干高いのも、隠された競争心の顕われのひとつと窺えます。

    石積み
    明治政府が1871(明治4)年に「内宮の方が上位」と通達後は、現在のように「豊受大明神は天照大御神に食事を供する役目を果たす神で、内宮の方が外宮より上位」との認識が定着。しかし現在でも、「外宮を先に参る」常識は不変です。これには、明治天皇や昭和天皇が「外宮を先に参拝した」という歴史的事実も影響しているようです。鳥居の榊の位置が外宮の方が若干高いのも、隠された競争心の顕われのひとつと窺えます。

  • 火除橋<br />外宮の神職を務めてきたのは伊勢国造の系統 度会氏です。一方、内宮の神職を務めてきたのは中臣系 荒木田氏です。外宮は内宮をライバル視してきましたが、その理由は「外宮は、内宮創健の約5百年後に祀られ、また内宮の天照大御神に奉仕する御饌津神の立場であり一段低い立場」にあったからです。<br />鎌倉時代には、度会氏は現状に納得できずに『神道五部書』を根拠に外宮の地位を高める運動を起こしました。「豊受大御神は天照大御神よりも前に誕生した天之御中主神であり、内宮より優れる」と説く伊勢神道を唱えたのです。今は末法の時代ゆえ、人の機根が衰えて神への崇敬の心が失われており、仏が神に代わって民衆を救済していると説きました。天照大御神は胎藏界の、豊受大御神は金剛界の大日如来の本地と説き、外宮の地位向上のため豊受大御神を天之御中主神と同体視したのです。つまり天照大御神より上位の神とし、天照大御神以前から宇宙の中心におられる皇室の祖先神と説いたのです。<br />平安時代末期に西行が伊勢神宮を訪れた際、<br />「榊葉に 心をかけん 木綿四手て 思へば神も 仏なりけり」と詠みました。<br />木綿のシデを榊の葉にかけ、伊勢神宮を参拝した時に「お伊勢さんも元を正せば、大日如来様なのだなあ」という、鎌倉時代の伊勢神道を先取りするかのような歌であり、言い得て妙です。

    火除橋
    外宮の神職を務めてきたのは伊勢国造の系統 度会氏です。一方、内宮の神職を務めてきたのは中臣系 荒木田氏です。外宮は内宮をライバル視してきましたが、その理由は「外宮は、内宮創健の約5百年後に祀られ、また内宮の天照大御神に奉仕する御饌津神の立場であり一段低い立場」にあったからです。
    鎌倉時代には、度会氏は現状に納得できずに『神道五部書』を根拠に外宮の地位を高める運動を起こしました。「豊受大御神は天照大御神よりも前に誕生した天之御中主神であり、内宮より優れる」と説く伊勢神道を唱えたのです。今は末法の時代ゆえ、人の機根が衰えて神への崇敬の心が失われており、仏が神に代わって民衆を救済していると説きました。天照大御神は胎藏界の、豊受大御神は金剛界の大日如来の本地と説き、外宮の地位向上のため豊受大御神を天之御中主神と同体視したのです。つまり天照大御神より上位の神とし、天照大御神以前から宇宙の中心におられる皇室の祖先神と説いたのです。
    平安時代末期に西行が伊勢神宮を訪れた際、
    「榊葉に 心をかけん 木綿四手て 思へば神も 仏なりけり」と詠みました。
    木綿のシデを榊の葉にかけ、伊勢神宮を参拝した時に「お伊勢さんも元を正せば、大日如来様なのだなあ」という、鎌倉時代の伊勢神道を先取りするかのような歌であり、言い得て妙です。

  • 裏参道入口<br />伊勢神宮には二元論的な世界観が存在します。つまり「内と外」、「陰と陽」です。<br />例えば内宮と外宮とでは、千木の削り方や鰹木の数が異なります。内宮の千木の内削ぎは「陰(女性)」を表すのに対し、外宮の外削ぎは「陽(男性)」を表します。更に、内宮の鰹木の数は10本であり、偶数は「陰数」で女性を表し、外宮の「9本」の奇数は「陽数」で男性を表します。内宮と外宮の祭神は共に女神のはずですが、外宮は千木も鰹木も「陽」であるのは謎めいています。<br />これには有力説として2説あります。最初の説は、豊受大御神は実は土地神(男神)であるとの説です。土地の神が天照大御神に従ったため、様々なものを天照大御神に献上したと解釈されます。<br />もう一つは、外宮の祭神は実は天之御中主神だとの説です。これは参拝順序が外宮が先の理由として述べました。天之御中主神は、高皇産霊尊と神産巣日神と共に造化三神と称され、天照大御神に先立つ神です。鎌倉時代~南北朝時代にかけ、外宮の神職 度会氏は「祭神は天之御中主」との説を採用しました。この考え方から生まれたのが伊勢神道(度会神道)です。

    裏参道入口
    伊勢神宮には二元論的な世界観が存在します。つまり「内と外」、「陰と陽」です。
    例えば内宮と外宮とでは、千木の削り方や鰹木の数が異なります。内宮の千木の内削ぎは「陰(女性)」を表すのに対し、外宮の外削ぎは「陽(男性)」を表します。更に、内宮の鰹木の数は10本であり、偶数は「陰数」で女性を表し、外宮の「9本」の奇数は「陽数」で男性を表します。内宮と外宮の祭神は共に女神のはずですが、外宮は千木も鰹木も「陽」であるのは謎めいています。
    これには有力説として2説あります。最初の説は、豊受大御神は実は土地神(男神)であるとの説です。土地の神が天照大御神に従ったため、様々なものを天照大御神に献上したと解釈されます。
    もう一つは、外宮の祭神は実は天之御中主神だとの説です。これは参拝順序が外宮が先の理由として述べました。天之御中主神は、高皇産霊尊と神産巣日神と共に造化三神と称され、天照大御神に先立つ神です。鎌倉時代~南北朝時代にかけ、外宮の神職 度会氏は「祭神は天之御中主」との説を採用しました。この考え方から生まれたのが伊勢神道(度会神道)です。

  • 夕暮れ時の大燈籠です。<br />通常、18時には火除橋が締め切られ、渡れなくなります。<br />今回のようにじっくりと見て回るには1時間ほどかかります。<br />外宮から内宮までは三重交通バスかCANバス利用が便利です。所要時間は20分程です。おはらい町やおかげ横丁に寄るなら、神宮会館前で降車すると便利です。<br /><br />この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑧伊勢神宮 内宮(皇大神宮)前編でお届けします。

    夕暮れ時の大燈籠です。
    通常、18時には火除橋が締め切られ、渡れなくなります。
    今回のようにじっくりと見て回るには1時間ほどかかります。
    外宮から内宮までは三重交通バスかCANバス利用が便利です。所要時間は20分程です。おはらい町やおかげ横丁に寄るなら、神宮会館前で降車すると便利です。

    この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑧伊勢神宮 内宮(皇大神宮)前編でお届けします。

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