ポツダム旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 ローマからベルリンへのLCCが遅れ<br />ホテルに着いたのが午前さまになってしまいました。<br />僅かな睡眠を取り早朝から行動開始。<br />ベルリンからポツダムにやって来ました。<br />思いのほか見所がいっぱいあり、嬉しい悲鳴(⌒-⌒; )<br />と、言いますのもこの日は、ベルリンに戻ってからも<br />Sonyセンターやカイザーヴィルヘルム記念教会<br />そしてピアノコンサートと予定が詰まっていました。<br /><br /> 先ずは、<br />「サンスーシ宮殿」「サンスーシ公園」「中国茶館」などを<br />歩き回りフリードリヒ大王を訪ね「絵画館」では、カラヴァッジョの<br />生絵を観て、もう満足というほどでしたが、<br />せっかくここまでやって来たのだから精神が優先。<br /><br />※今回の旅行記はここから始まります。<br /><br />ポツダム去りがたし状態が続きバスとトラムそしてまた<br />バスと乗り継いで<br />木立の中の細~い1本道をバスに揺られて皇帝ヴェルヘルム2世が<br />皇太子とその妻の為に建てた「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ<br />向かいました。<br />そこは、後にポツダム会談の会場となり更に有名になりました。<br />そこからまたまた、バスとトラムと乗り継いで向かったのは、<br />ベルリンよりも先に建てられた「ブランディンブルク門」<br />のある通りに行ってみました。<br />「ブランディンブルク門」というよりは、そこはまるで小さな<br />パリのシャンゼリゼ通り、ポツダムのブランディンブルク門は<br />パリの凱旋門の小型版のよう。そこから伸びる通りの両脇には<br />カフェが立ち並びとてもいい雰囲気。<br />そればかり、オランダ地区の可愛い赤い煉瓦の家が続く通り<br />ほんとうにポツダムは見どころがいっぱいでした。<br />

深い森の中のポツダム会議場からブランデンブルク門前に広がる小さなシャンゼリゼへ〈ポツダム・後編〉

85いいね!

2023/07/17 - 2023/07/18

6位(同エリア215件中)

2

54

あの街から

あの街からさん

 ローマからベルリンへのLCCが遅れ
ホテルに着いたのが午前さまになってしまいました。
僅かな睡眠を取り早朝から行動開始。
ベルリンからポツダムにやって来ました。
思いのほか見所がいっぱいあり、嬉しい悲鳴(⌒-⌒; )
と、言いますのもこの日は、ベルリンに戻ってからも
Sonyセンターやカイザーヴィルヘルム記念教会
そしてピアノコンサートと予定が詰まっていました。

 先ずは、
「サンスーシ宮殿」「サンスーシ公園」「中国茶館」などを
歩き回りフリードリヒ大王を訪ね「絵画館」では、カラヴァッジョの
生絵を観て、もう満足というほどでしたが、
せっかくここまでやって来たのだから精神が優先。

※今回の旅行記はここから始まります。

ポツダム去りがたし状態が続きバスとトラムそしてまた
バスと乗り継いで
木立の中の細~い1本道をバスに揺られて皇帝ヴェルヘルム2世が
皇太子とその妻の為に建てた「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ
向かいました。
そこは、後にポツダム会談の会場となり更に有名になりました。
そこからまたまた、バスとトラムと乗り継いで向かったのは、
ベルリンよりも先に建てられた「ブランディンブルク門」
のある通りに行ってみました。
「ブランディンブルク門」というよりは、そこはまるで小さな
パリのシャンゼリゼ通り、ポツダムのブランディンブルク門は
パリの凱旋門の小型版のよう。そこから伸びる通りの両脇には
カフェが立ち並びとてもいい雰囲気。
そればかり、オランダ地区の可愛い赤い煉瓦の家が続く通り
ほんとうにポツダムは見どころがいっぱいでした。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.0
交通
4.5
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 「サンスーシ公園」内になっているのかなぁ<br />「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かうバス停を<br />探していたらポツダム大学の生協があったので<br />入ってみました。小さな建物で20畳ほどの<br />ワンフロア。チラッと見てみました。<br />大学のネイム入りの物が並んでました。

    「サンスーシ公園」内になっているのかなぁ
    「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かうバス停を
    探していたらポツダム大学の生協があったので
    入ってみました。小さな建物で20畳ほどの
    ワンフロア。チラッと見てみました。
    大学のネイム入りの物が並んでました。

  • ポツダム大学の生協近くのバス停(12:00)からバスに乗り<br />プラザエンハウから(12:16)トラムに乗り換え<br /><br />※乗り物は、ベルリンで購入した1日券でトラム・バスに乗車可能。

    ポツダム大学の生協近くのバス停(12:00)からバスに乗り
    プラザエンハウから(12:16)トラムに乗り換え

    ※乗り物は、ベルリンで購入した1日券でトラム・バスに乗車可能。

    路面電車 (ポツダム) 鉄道系(地下鉄・モノレールなど)

  • トラム(12:25)を下車。<br />トラム駅の目の前にケバブと飲み物の販売所があり<br />丁度昼時で近くのサラリーマン風の人たちが並んでいて<br />ケバブを買いここでランチとしました。<br /><br />イスタンブールへ行った時にも食べる機会が<br />なかったケバブをまさか、ポツダムで食べることが<br />できるとは、旅とは不思議なものですね。

    トラム(12:25)を下車。
    トラム駅の目の前にケバブと飲み物の販売所があり
    丁度昼時で近くのサラリーマン風の人たちが並んでいて
    ケバブを買いここでランチとしました。

    イスタンブールへ行った時にも食べる機会が
    なかったケバブをまさか、ポツダムで食べることが
    できるとは、旅とは不思議なものですね。

  • ケバブの販売所にはイートインスペースもありましたが<br />私たちの前に並んでいるサラリーマン風の皆さんは<br />隣の公園へケバブと飲み物を持って行き緑の木陰で<br />食べているようでした。<br />それもいいなぁ。とその風景を眺めながら初めて食べる<br />ケバブは、肉も野菜もたっぷりで美味しくいただきました。<br /><br />トラム駅の道路の向かい側に在るバス停から<br />ポツダム会談の会場となった<br />「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かいました。

    ケバブの販売所にはイートインスペースもありましたが
    私たちの前に並んでいるサラリーマン風の皆さんは
    隣の公園へケバブと飲み物を持って行き緑の木陰で
    食べているようでした。
    それもいいなぁ。とその風景を眺めながら初めて食べる
    ケバブは、肉も野菜もたっぷりで美味しくいただきました。

    トラム駅の道路の向かい側に在るバス停から
    ポツダム会談の会場となった
    「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かいました。

  • 木立の中の細~い1本道をバスに揺られて<br />ポツダム会談の会場となった<br />「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かいました。<br /><br />深い緑が茂る森の中にその宮殿はありました。<br />1917年 <br />ヴィルヘルム2世が跡継ぎの皇太子夫妻のために<br />建てた宮殿でイギリスのカントリーハウス風の建物でした。<br />それは皇太子の希望を受け入れた父王の息子皇太子への<br />愛の結晶の1つでもありました。<br /><br />皇太子<br />ヴィルヘルム・フォン・プロセイン(1882年~1951年)<br />は、ドイツ最後の皇太子となった。<br /><br />

    イチオシ

    木立の中の細~い1本道をバスに揺られて
    ポツダム会談の会場となった
    「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へ向かいました。

    深い緑が茂る森の中にその宮殿はありました。
    1917年 
    ヴィルヘルム2世が跡継ぎの皇太子夫妻のために
    建てた宮殿でイギリスのカントリーハウス風の建物でした。
    それは皇太子の希望を受け入れた父王の息子皇太子への
    愛の結晶の1つでもありました。

    皇太子
    ヴィルヘルム・フォン・プロセイン(1882年~1951年)
    は、ドイツ最後の皇太子となった。

  • 「ツェツィーリエンホーフ宮殿」<br />皇太子妃ツェツィーリエから命名<br />1918年ドイツは第一次世界大戦に敗れて<br />ヴィルヘルム2世とともに皇太子はオランダに亡命<br />皇太子妃ツェツィーリエは子供たちとこの宮殿に残った。<br />そんなことで、御夫妻ではこの館に住んだ期間は<br />短期間でした。<br />

    「ツェツィーリエンホーフ宮殿」
    皇太子妃ツェツィーリエから命名
    1918年ドイツは第一次世界大戦に敗れて
    ヴィルヘルム2世とともに皇太子はオランダに亡命
    皇太子妃ツェツィーリエは子供たちとこの宮殿に残った。
    そんなことで、御夫妻ではこの館に住んだ期間は
    短期間でした。

  • 第一次世界大戦後、<br />1918年にホーエンツォレルン王朝一族は退位。<br />財産は没収されたが元皇太子一家は<br />ツェツィーリエン宮殿に孫の世代までの<br />終世居住権を獲得していました。<br /><br />第2次世界大戦時、皇太子はヒトラーを支持し、<br />ナチスの政権誕生後はナチス党の宣伝活動も<br />しばしば行っていました。<br />しかし<br />第二次大戦末期の頃、近づくソ連軍を前に、<br />夫人は一切の家具や陶器類も放置したままで<br />子供たちを連れて<br />1945年2月1日に宮殿を後にしました。<br /><br />1945年4月27日に宮殿はソ連軍に接収された。<br />皇太子は1951年心臓発作で死去しました。<br />

    第一次世界大戦後、
    1918年にホーエンツォレルン王朝一族は退位。
    財産は没収されたが元皇太子一家は
    ツェツィーリエン宮殿に孫の世代までの
    終世居住権を獲得していました。

    第2次世界大戦時、皇太子はヒトラーを支持し、
    ナチスの政権誕生後はナチス党の宣伝活動も
    しばしば行っていました。
    しかし
    第二次大戦末期の頃、近づくソ連軍を前に、
    夫人は一切の家具や陶器類も放置したままで
    子供たちを連れて
    1945年2月1日に宮殿を後にしました。

    1945年4月27日に宮殿はソ連軍に接収された。
    皇太子は1951年心臓発作で死去しました。

  • 第二次世界大戦は、<br />1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により勃発<br />ポーランドと同盟関係にあった仏英の対独宣戦布告<br />によってヨーロッパ戦争として始まりました。<br />やがてソ連も参戦、ポーランド侵攻やバルト三国への<br />領土侵略への野心を示し軍隊を駐留。<br />さらに日独伊三国同盟が結ばれ、アジアでも戦火は広がり、<br />世界大戦へと進んで行くこととなりました。<br /><br />1945年5月8日、ドイツ軍無条件降伏。

    第二次世界大戦は、
    1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により勃発
    ポーランドと同盟関係にあった仏英の対独宣戦布告
    によってヨーロッパ戦争として始まりました。
    やがてソ連も参戦、ポーランド侵攻やバルト三国への
    領土侵略への野心を示し軍隊を駐留。
    さらに日独伊三国同盟が結ばれ、アジアでも戦火は広がり、
    世界大戦へと進んで行くこととなりました。

    1945年5月8日、ドイツ軍無条件降伏。

  • 1945年7月17日から8月2日にかけて<br />会談が行われ会談時の館がほぼそのままの状態<br />で公開されています。<br /><br />

    1945年7月17日から8月2日にかけて
    会談が行われ会談時の館がほぼそのままの状態
    で公開されています。

  • 「ポツダム宣言」のため各国代表等による議論を<br />戦わせた会議場。<br /><br />思ったほどの広さはありませんでしたが<br />そこが、木立の中に佇むカントリーハウス風の館。<br />事務的な会議場とは違い雰囲気がありました。<br /><br />大きな丸テーブルはモスクワから運ばれたそうな。

    イチオシ

    「ポツダム宣言」のため各国代表等による議論を
    戦わせた会議場。

    思ったほどの広さはありませんでしたが
    そこが、木立の中に佇むカントリーハウス風の館。
    事務的な会議場とは違い雰囲気がありました。

    大きな丸テーブルはモスクワから運ばれたそうな。

  • 15人が座った大きな丸テーブル。<br />米・英・ソは肘掛けのついた特製の椅子という<br />ことからも、この会議での各国の立ち位置を伺い<br />知ることができます。<br />その横には外務大臣、通訳、顧問などが着席。<br />後方にはその他随行員の椅子も設置されていました。<br />

    15人が座った大きな丸テーブル。
    米・英・ソは肘掛けのついた特製の椅子という
    ことからも、この会議での各国の立ち位置を伺い
    知ることができます。
    その横には外務大臣、通訳、顧問などが着席。
    後方にはその他随行員の椅子も設置されていました。

  • ヴィルヘルム皇太子御夫妻の居間も<br />会議場となったのですね。<br /><br />

    ヴィルヘルム皇太子御夫妻の居間も
    会議場となったのですね。

  • カントリーハウス風の館でとても雰囲気の<br />いい建物でした。<br />まさか、後年 <br />戦争終結の為の会議場になるとは・・・

    カントリーハウス風の館でとても雰囲気の
    いい建物でした。
    まさか、後年 
    戦争終結の為の会議場になるとは・・・

  • 第2次世界大戦の戦後処理を各国首脳等が一同に<br />介して行われたポツダム会議。<br />実権はビックスリーと呼ばれた<br />トルーマン<米>・チャーチル<英><br />スターリン<ソ>が握っていました。<br /><br />会議の中で3者はドイツの分割案をも討議し<br />合意したと伝えられています。

    第2次世界大戦の戦後処理を各国首脳等が一同に
    介して行われたポツダム会議。
    実権はビックスリーと呼ばれた
    トルーマン<米>・チャーチル<英>
    スターリン<ソ>が握っていました。

    会議の中で3者はドイツの分割案をも討議し
    合意したと伝えられています。

  • 1945年7月17日から8月2日にかけて<br />行われた会議の前後のこと<br />アメリカでは、ルーズヴェルトが1945年4月に死去<br />を受けトルーマンが副大統領より大統領に昇格会議に参加。<br />会議中には、半ば公然と秘密裏に行われていた<br />オッペンハイマー等による「マンハッタン計画」で<br />原子爆弾の実験成功の知らせがトルーマンのもとへ<br />届いた。<br />

    1945年7月17日から8月2日にかけて
    行われた会議の前後のこと
    アメリカでは、ルーズヴェルトが1945年4月に死去
    を受けトルーマンが副大統領より大統領に昇格会議に参加。
    会議中には、半ば公然と秘密裏に行われていた
    オッペンハイマー等による「マンハッタン計画」で
    原子爆弾の実験成功の知らせがトルーマンのもとへ
    届いた。

  • 一方、英国においては<br />1945年7月5日の総選挙で<br />チャーチル率いる<br />保守党が211議席<br />アトリー率いる労働党が393議席と<br />チャーチルは敗北しアトリーが新首相に就任。<br />この為、大戦終結の重大な会議の途中での<br />首脳の交代劇となりチャーチルとアトリーが新首相が<br />ポツダム会議の代表も交代。<br /><br />対独戦争で最初から最後までイギリスを率いてきた<br />チャーチルがポツダム会議の議定書にサインできない<br />事態になっていた。<br />

    一方、英国においては
    1945年7月5日の総選挙で
    チャーチル率いる
    保守党が211議席
    アトリー率いる労働党が393議席と
    チャーチルは敗北しアトリーが新首相に就任。
    この為、大戦終結の重大な会議の途中での
    首脳の交代劇となりチャーチルとアトリーが新首相が
    ポツダム会議の代表も交代。

    対独戦争で最初から最後までイギリスを率いてきた
    チャーチルがポツダム会議の議定書にサインできない
    事態になっていた。

  • 各国の執務室

    各国の執務室

  • 2階の皇太子夫妻の部屋へ続く階段は<br />樫の木彫りのバロック様式。

    2階の皇太子夫妻の部屋へ続く階段は
    樫の木彫りのバロック様式。

  • 重厚感がありました。<br /><br />1990年 宮殿の建物および庭園は<br />「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の<br />1つとしてユネスコ世界文化遺産に登録された。<br />

    重厚感がありました。

    1990年 宮殿の建物および庭園は
    「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の
    1つとしてユネスコ世界文化遺産に登録された。

  • 緑いっぱいの花壇の中央に植え込まれた赤い星型の<ゼラニウム><br />会議の為にやって来るトルーマン<米>・チャーチル<英><br />・スターリン<ソ>のために植えたとされ<br />ポツダム会談はソ連主導で動かすぞというスターリンの強い意志を<br />各国に占めそうとポツダム会談の週数間前に植え込まれたという。

    緑いっぱいの花壇の中央に植え込まれた赤い星型の<ゼラニウム>
    会議の為にやって来るトルーマン<米>・チャーチル<英>
    ・スターリン<ソ>のために植えたとされ
    ポツダム会談はソ連主導で動かすぞというスターリンの強い意志を
    各国に占めそうとポツダム会談の週数間前に植え込まれたという。

  • 太平洋戦争終結7月26日 日本に対しポツダム宣言発表。<br />これに対して日本政府はポツダム宣言を無視。<br />アメリカは8月6日広島・8月9日長崎に原子爆弾を投下。<br /><br />1945年9月2日、東京湾戦艦ミズーリ号での降伏調印式。

    太平洋戦争終結7月26日 日本に対しポツダム宣言発表。
    これに対して日本政府はポツダム宣言を無視。
    アメリカは8月6日広島・8月9日長崎に原子爆弾を投下。

    1945年9月2日、東京湾戦艦ミズーリ号での降伏調印式。

  • 歴史の重い事実から逃れるようにやって来た<br />ここは、<br />ラスベガスかはたまたディズニーランド<br />ではもちろんありません。<br /><br /><ナウエン門>1755年に建てられた<br />英国ゴシック・リヴァイヴァル建築様式<br />の影響を受けたといいます。<br />

    歴史の重い事実から逃れるようにやって来た
    ここは、
    ラスベガスかはたまたディズニーランド
    ではもちろんありません。

    <ナウエン門>1755年に建てられた
    英国ゴシック・リヴァイヴァル建築様式
    の影響を受けたといいます。

  • バスとトラムを乗り継いでやって来ました。<br />この歴史的城壁<ナウエン門>の前を最新のトラムが<br />スルスルと走る姿も素敵でした。

    イチオシ

    バスとトラムを乗り継いでやって来ました。
    この歴史的城壁<ナウエン門>の前を最新のトラムが
    スルスルと走る姿も素敵でした。

  • 森の中の小さな街ポツダムの街を<br />静かに滑るように走るトラム<br />乗り心地も最高で乗り物好きにはたまらない時間でした。

    森の中の小さな街ポツダムの街を
    静かに滑るように走るトラム
    乗り心地も最高で乗り物好きにはたまらない時間でした。

  • 城壁を潜るとそこもまた<br />赤煉瓦の雰囲気のある通りが<br />「オランダ人街」に入ったようです。

    城壁を潜るとそこもまた
    赤煉瓦の雰囲気のある通りが
    「オランダ人街」に入ったようです。

  • 可愛いカフェや土産物屋が<br />並んでいて

    可愛いカフェや土産物屋が
    並んでいて

  • クリスマスオーナメントの店や絵葉書や<br />各種カードの店など<br />歩くのが楽しい通りでした。

    クリスマスオーナメントの店や絵葉書や
    各種カードの店など
    歩くのが楽しい通りでした。

  • 小さな広場には<br />もちろん、パラソルを開いた<br />カフェがあり

    小さな広場には
    もちろん、パラソルを開いた
    カフェがあり

  • 真夏にクリスマスオーナメントを<br />見るのも心ワクワク。

    真夏にクリスマスオーナメントを
    見るのも心ワクワク。

  • 「店の工房で作られた手作りなのよ」<br />と女将さんは話してくれました。<br />英語でね。

    「店の工房で作られた手作りなのよ」
    と女将さんは話してくれました。
    英語でね。

  • 振り返って城門を見ると<br />旅空の下を感じ<br />また、ワクワク(⌒▽⌒)

    イチオシ

    振り返って城門を見ると
    旅空の下を感じ
    また、ワクワク(⌒▽⌒)

  • これを見て思い出しました。<br /><あの街から>が4Tを始めた頃に遡ります(⌒-⌒; )<br />当時4Tには、<写真を上手く写したい人>とか<br /><街歩きで見つけたポスターが好きな人>とか<br /><JALが好きな人>集まれ!とかいうサークルのような<br />ものがありました。<br />その中の1つに<ドイツが好きな人集まれ<br />(ハッキリとした名前は忘れてしまいました・汗)><br />がありました。そのメンバーに名前を連ねた人たちは<br />いずれも、ドイツのことに関して<br />どこかしら長けている人たちが多く、<br />時に近寄りがたいオーラもありましたが<br />時折訪ねるのが好きでした。<br /><br />その中のお一人に旅行記のタイトル<扉>の<br />画像は『紋章』で飾られた4T大先輩が<br />いらして詳しい蘊蓄も楽しく拝見していました。<br /><br />お元気かなぁ 懐かしい思い出です。<br /><br /><br /><br />

    これを見て思い出しました。
    <あの街から>が4Tを始めた頃に遡ります(⌒-⌒; )
    当時4Tには、<写真を上手く写したい人>とか
    <街歩きで見つけたポスターが好きな人>とか
    <JALが好きな人>集まれ!とかいうサークルのような
    ものがありました。
    その中の1つに<ドイツが好きな人集まれ
    (ハッキリとした名前は忘れてしまいました・汗)>
    がありました。そのメンバーに名前を連ねた人たちは
    いずれも、ドイツのことに関して
    どこかしら長けている人たちが多く、
    時に近寄りがたいオーラもありましたが
    時折訪ねるのが好きでした。

    その中のお一人に旅行記のタイトル<扉>の
    画像は『紋章』で飾られた4T大先輩が
    いらして詳しい蘊蓄も楽しく拝見していました。

    お元気かなぁ 懐かしい思い出です。



  • 自転車を踏んでの<br />サマーバカンス!<br />いいですね(*´∀`)♪

    自転車を踏んでの
    サマーバカンス!
    いいですね(*´∀`)♪

  • 世界大戦で戦火に遭い再建されたのか<br />新しい家々が立ち並ぶ<br />大通りの両側には<br />個人商店 カフェが立ち並び<br />静かでもあり、にぎやかでもある<br />気持ちの良い通りでした。

    世界大戦で戦火に遭い再建されたのか
    新しい家々が立ち並ぶ
    大通りの両側には
    個人商店 カフェが立ち並び
    静かでもあり、にぎやかでもある
    気持ちの良い通りでした。

  • 世界大戦で戦火に遭い再建されたのか<br />新しい家々が立ち並ぶ<br />大通りの両側には<br />個人商店 カフェが立ち並び<br />静かでもあり、にぎやかでもある<br />気持ちの良い通りでした。

    世界大戦で戦火に遭い再建されたのか
    新しい家々が立ち並ぶ
    大通りの両側には
    個人商店 カフェが立ち並び
    静かでもあり、にぎやかでもある
    気持ちの良い通りでした。

  • オランダ地区<br />ヤン・バウマン・ハウス街<br /><br />ポツダムの見どころは宮殿だけと思われがちですが、<br />町歩きが楽しめるスポットもあります。<br />そのひとつが、かつての町の中心であった<br />アルター・マルクト広場と新庭園のあいだに<br />位置するオランダ街。<br /><br />軍人王と言われたフリードリヒ、ヴィルヘルム1世は<br />実学を重視した。<br />たとえば、1717年一般的就学義務令を発し<br />5歳から12歳の子供に対して義務教育を課した。<br />けれど、農村部では財政的な苦しさからくる<br />無理解故に冬季のみ実施しかも数年のみの就学と<br />いう状況もあったにせよ、当時としては画期的な<br />ことだった。<br />軍人王は、皇太子時代1704年~1705年に<br />アムステルダムとデン・ハーグに留学した。<br />彼は祖父・大選帝侯〈フリードリヒ1世〉と同じく簡素で<br />実用本意のオランダ文化を愛好した。<br /><br />その現れが、オランダ人街区である。<br />街区は、1733年~42年にオランダの建築家<br />ヤン・ボウマンの指導で整備された。もともと<br />オランダ人の手工業者を集めて住まわせる計画だった<br />が、充分な人集めができず街区にはフランス人や<br />ドイツ人の商人や軍人なども入居した。

    イチオシ

    オランダ地区
    ヤン・バウマン・ハウス街

    ポツダムの見どころは宮殿だけと思われがちですが、
    町歩きが楽しめるスポットもあります。
    そのひとつが、かつての町の中心であった
    アルター・マルクト広場と新庭園のあいだに
    位置するオランダ街。

    軍人王と言われたフリードリヒ、ヴィルヘルム1世は
    実学を重視した。
    たとえば、1717年一般的就学義務令を発し
    5歳から12歳の子供に対して義務教育を課した。
    けれど、農村部では財政的な苦しさからくる
    無理解故に冬季のみ実施しかも数年のみの就学と
    いう状況もあったにせよ、当時としては画期的な
    ことだった。
    軍人王は、皇太子時代1704年~1705年に
    アムステルダムとデン・ハーグに留学した。
    彼は祖父・大選帝侯〈フリードリヒ1世〉と同じく簡素で
    実用本意のオランダ文化を愛好した。

    その現れが、オランダ人街区である。
    街区は、1733年~42年にオランダの建築家
    ヤン・ボウマンの指導で整備された。もともと
    オランダ人の手工業者を集めて住まわせる計画だった
    が、充分な人集めができず街区にはフランス人や
    ドイツ人の商人や軍人なども入居した。

  • プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、<br />文化を愛し、オランダの経済や建築を手本にしようと考えた。<br /><br />オランダから職人を誘致しようと18世紀にこの地区を整備した。<br />ところが、期待したほどは、多くのオランダ人は来なかったが<br />オランダ風の街並みはそのまま残り、<br />現在も130以上のオランダ風の赤レンガ造りの建物が並んでいる。

    プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、
    文化を愛し、オランダの経済や建築を手本にしようと考えた。

    オランダから職人を誘致しようと18世紀にこの地区を整備した。
    ところが、期待したほどは、多くのオランダ人は来なかったが
    オランダ風の街並みはそのまま残り、
    現在も130以上のオランダ風の赤レンガ造りの建物が並んでいる。

  • おしゃれなカフェやレストラン、雑貨ショップが点在し、<br />町並みを眺めながら歩くだけでも楽しいオランダ街。<br /><br />

    おしゃれなカフェやレストラン、雑貨ショップが点在し、
    町並みを眺めながら歩くだけでも楽しいオランダ街。

  • 「聖ピーター・ポール教会」<br /><br />

    「聖ピーター・ポール教会」

  • ドイツに入って<br />落ち着いた雰囲気にホッとしたことを<br />覚えていますが<br />中でも、ポッダムは、程々の街<都会>なのに<br />落ち着いていて癒されました。<br />

    ドイツに入って
    落ち着いた雰囲気にホッとしたことを
    覚えていますが
    中でも、ポッダムは、程々の街<都会>なのに
    落ち着いていて癒されました。

  • 「ブランデンブルク門」<br />フリードリヒ大王がオーストリアとの戦いに勝ち<br />1771年に建てられた。<br />ベルリンの「ブランデンブルク門」より20年前のことでした。<br />

    イチオシ

    「ブランデンブルク門」
    フリードリヒ大王がオーストリアとの戦いに勝ち
    1771年に建てられた。
    ベルリンの「ブランデンブルク門」より20年前のことでした。

  • 「ブランデンブルク門」から真っ直ぐに伸びる<br />ブランデンブルク通りはまるで小さなパリの<br />シャンゼリゼ通り。<br />パワソルを開いたカフェが連なりそれでいて<br />落ち着いたとてもいい雰囲気の通りでした。

    「ブランデンブルク門」から真っ直ぐに伸びる
    ブランデンブルク通りはまるで小さなパリの
    シャンゼリゼ通り。
    パワソルを開いたカフェが連なりそれでいて
    落ち着いたとてもいい雰囲気の通りでした。

  • 「ブランデンブルク門」から真っ直ぐに伸びる<br />ブランデンブルク通りはまるで小さなパリの<br />シャンゼリゼ通り。<br />パワソルを開いたカフェが連なりそれでいて<br />落ち着いたとてもいい雰囲気の通りでした。

    「ブランデンブルク門」から真っ直ぐに伸びる
    ブランデンブルク通りはまるで小さなパリの
    シャンゼリゼ通り。
    パワソルを開いたカフェが連なりそれでいて
    落ち着いたとてもいい雰囲気の通りでした。

  • 散歩にはいい日和ですね。<br />楽しんでください。(*´∀`)♪

    散歩にはいい日和ですね。
    楽しんでください。(*´∀`)♪

  • おやおや<br />どこかで見たことのある<br />あれは、間違いなくミッキー!だぁ。<br /><br />けど、ちょっとだけ顔つきが違うなぁ。<br />

    おやおや
    どこかで見たことのある
    あれは、間違いなくミッキー!だぁ。

    けど、ちょっとだけ顔つきが違うなぁ。

  • いい雰囲気なので<br />ゆっくりゆっくりと散策しました。<br />

    いい雰囲気なので
    ゆっくりゆっくりと散策しました。

  • いい雰囲気なので<br />ゆっくりゆっくりと散策しました。

    いい雰囲気なので
    ゆっくりゆっくりと散策しました。

  • 「ブランデンブルク門」には<br />ギリシャ神話の英雄たちが刻まれています。

    「ブランデンブルク門」には
    ギリシャ神話の英雄たちが刻まれています。

  • ぐるりと回って戻って来ました。

    ぐるりと回って戻って来ました。

  • もう一度ふり仰ぎ<br />そろそろ駅に向かう時間が近いてきました。<br />

    もう一度ふり仰ぎ
    そろそろ駅に向かう時間が近いてきました。

  • トラムに乗って駅へ向かいます。

    トラムに乗って駅へ向かいます。

  • ポツダム中央駅のホームに出て来ました。

    ポツダム中央駅のホームに出て来ました。

    ポツダム中央駅

  • トラム・電車(Sバーン)に乗る楽しさ<br />も味わうことができました。<br />

    トラム・電車(Sバーン)に乗る楽しさ
    も味わうことができました。

  • そして、あっという間にベルリン中央駅に到着しました。<br />大きなガラスから陽が燦々と降り注ぐ開放的な<br />ベルリン中央駅大好きです。♪♪

    そして、あっという間にベルリン中央駅に到着しました。
    大きなガラスから陽が燦々と降り注ぐ開放的な
    ベルリン中央駅大好きです。♪♪

    ベルリン中央駅

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