2023/10/25 - 2023/10/25
74位(同エリア379件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記251冊
- クチコミ253件
- Q&A回答18件
- 307,532アクセス
- フォロワー77人
この旅行記のスケジュール
2023/10/25
-
満福寺
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
寄り道続きます。
重忠の菩提寺満福寺と誕生の地といわれる畠山館跡(重忠公史跡公園)です。
一書に曰く、
寄り道が長引いております。
寄り道って、面白いんですよねえ。
私たちは、ホントーに、埼玉だとか畠山重忠だとかに興味がありませんでした。
どーせ、東京のベッドタウンでしょ。関東の芋侍でしょてな感じ。
埼玉って、東京の通勤、通学圏内ですもの。
そして、埼玉県人って、謙虚というか卑屈?というか、ご本人が「埼玉って、麦畑ばっかりで、なんにもないのよ~」とか言っちゃうし。
そしたら、麦畑は麦畑でも、小麦ではなくて、ビール麦だそうですよ。
そうなの?!
うどん粉麦よりビール麦の方が高級だとは、言いませんが、なんか生活感が薄れて、素敵になるような。
By妻
投稿日:2024/02/16
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
目印は熊谷駅。
-
畠山重忠が寿永年間(1182-1184)に畠山氏の菩提寺として再興したお寺だそうです。
菩提寺ではありますが、重忠のお墓はここではありません。
一書に曰く、
事ほどさように、なんにも知らない我々は、万福寺に行けば畠山重忠のお墓があると思って、花と線香をもって、いさんで向かいました。
が、空振り。
菩提寺だそうですが、お墓はない。
菩提寺なのに、お墓がない?
よくわからん。
私は、九州生まれの東京育ちですが、菩提寺というのは、お墓があってこそのものではないでしょうか。
埼玉ルールなのでしょうか。
万福寺を、ぐるぐる回りまして、探しました。
どなたか!どなたか!
聞きたいのですが、だーれもいない。
ぽついけではないはずなのに。
見まわすと、お寺の周囲は、家はあるのですが、空が広い。家々もゆったりと散在して広々。
さすが、武蔵の国。馬を駆使した関東武者のくに。
この景色は、奈良、明日香とは全然違います。
広々 ひろびろ ひろびろ~
いい気持ちです。
By妻 -
こういうのがあったので、ここにお墓があると勘違いしました。
お墓はこの後行く畠山重忠公史跡公園にあります。
しかしその史跡公園の説明板には、
★「新編武蔵国風土記稿」では満福寺にあった2基が「畠山次郎重忠墓」とされているところから、「新編武蔵国風土記稿」の成立以降、満福寺内の五輪塔が移動して(明治17年頃とされています)6基が集まり、「畠山重忠墓」として顕彰され始めたのではないかという説があります。ただし、6基のうちどの2点が移動したものかは不明です。★
つまりこのお寺にはもともと重忠のお墓があった可能性はあるわけです。
「新編武蔵国風土記稿」のどこにこの記述があるのか、残念ながら見つけられませんでした。見つけたら追記します。 -
立派なお寺です。
-
♪
-
あるだろうなと思っていましたが、
-
やっぱりあった。お寺の掲示板です。
-
深谷市長と畠山重忠、じゃなかった中川大志くんの対談記事です。
「深谷出身の武士畠山重忠を語る」
中川くん、人気あります。政治利用ともいう。 -
「畠山重忠公史跡公園」にやって来ました。
石碑には「畠山重忠公墓並館跡」重忠史跡公園、駐車場、トイレあり。 by しにあの旅人さん畠山重忠史跡公園 名所・史跡
-
満福寺のすぐ近く。道なり600mくらいです。
目立つのはこの銅像、鵯越えの逆落としのとき、愛馬をかばって馬を背負い、歩いて坂を下ったという「源平盛衰記」をもとにしています。
ただし歴史学者によると、重忠はこのとき義経軍には参加していなくて、平家の正面、生田の森攻撃軍にいたという説もあります。
まあ、ともかく、気は優しくて力持ちの武将だったということです。
一書に曰く、
史跡公園にやってきました。
なるほど。
記念公園があるのねえ。
で、待望の馬しょってる重忠さんいましたよ。
馬は、サラブレッドみたいです。
こりゃあ重たいわ。
アントニオ猪木、篠原信一なみでないと。
ウルフ・アーロンでは、どうかな?
あまり深く考えるひとは、こういうことしないんじゃないかなぁ。
あれ?重忠さん。賢い人だったはず、、、
By妻 -
このときお天気がよかったのはありがたかったですが、どの角度から撮っても青空がバックに入りました。補正もきかない逆光です。いっそのことこういうのが雰囲気出ているかも。
近くに里山でもあれば背景にしてなんとかなるのですが、だだっ広い北関東の平原です。どうにもならない。
ここの番地は深谷市畠山、重忠はここ畠山庄で生まれました。
こういう真っ平らなところで生まれると、重忠のような陰日向のない人物が育つのかと、なんとなく納得。 -
公園の一角、重忠墓の覆屋。
-
♪
-
覆屋の中には、重忠の墓といわれる1号五輪塔を中心に、
-
左から2号塔、3号塔、4号塔
-
右から6号塔、5号塔、
-
全体の配置と年代。
現場の解説によれば、重忠主従の墓といわれているそうです。 -
覆屋の正面右格子に掲げられている解説です。ざっと見たところネット上に書き起こされてはいないようです。
貴重な情報ですので、後続の縦の旅トラベラー、歴史を尋ねる旅行者のために書き起こします。
私は先達トラベラーの案内板の書き起こしで、おおいに助かったことがあります。ささやかな恩返しの引き継ぎ。
★
埼玉県指定史跡「畠山重忠墓」
畠山館跡には現在6基の五輪塔が残されています。昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設の際に五輪塔の配置が変更され、現在のような姿になっています。
五輪塔それぞれの造立時期については、昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設に伴う発掘調査に結果により、大まかな時期が分かっています。
6基の五輪塔については、もともと現在の「畠山重忠墓」のある場所に4基、残り2基は後に満福寺から移されたものと推測されています。
また、江戸時代(文化・文政期)に編纂された「新編武蔵国風土記稿」では満福寺にあった2基が「畠山次郎重忠墓」とされているところから、「新編武蔵国風土記稿」の成立以降、満福寺内の五輪塔が移動して(明治17年頃とされています)6基が集まり、「畠山重忠墓」として顕彰され始めたのではないかという説があります。ただし、6基のうちどの2点が移動したものかは不明です。
なお昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設に伴う発掘調査の結果、墓所の造営は鎌倉時代に始まっており、墓所及び館跡は、室町時代中期以降まで存続していたとみられることが分かっています。
★ -
嵐山史跡の博物館に展示されていた、重忠の墓といわれる五輪塔の複製。
↓その解説。五輪の塔とは -
・・・だそうです。これ以上きかないで下さい。
-
重忠墓覆屋の左、摩耗して下半分は読めない石碑がありました。
摩耗していなくても読めません。梵字です。
鎌倉時代の人はこういうのがさらっと読めたんだ。 -
♪
-
「板石塔婆」(いたいしとうば)というのだそうです。
書き起こしておきます。数字は算用数字に変換。
★
深谷市指定文化財
板石塔婆
(昭和39年8月31日指定)
主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
記年銘は嘉元2年申辰(1304年)卯月(4月)9日
周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
嘉元元年は畠山重忠が武蔵国二俣川(現横浜市内)で討死した元久二年(1205年)から百年目にあたり、百回忌供養のために建立されたものと伝えられる。
深谷市教育委員会
★
重忠死後100年、百回忌のために建立されました。
嘉元(かげん)年間というと、末期ではありますがまだ鎌倉幕府、つまり重忠謀殺の張本人北条氏がにらみをきかしていました。この時代に、北条氏への嫌がらせみたいに、重忠の百回忌を営むというのですから、早くから重忠の評判は高かったのが想像できます。
覆屋の解説にも「墓所の造営は鎌倉時代に始まっており、墓所及び館跡は、室町時代中期以降まで存続していたとみられることが分かっています。」とあるので、重忠伝説はリアルタイムで成立して、その後数百年はこの地で生き続けたことが分かります。
「武蔵武士と源氏」によれば、重忠に関する伝説、伝承は全国に200以上あるといわれているそうです。
埼玉ジモティで重忠を知らない人はいない。
風土のDNAに刻み込まれた記憶というべきか。 -
ブランコなどもあり、公園になっています。
子供達にその記憶が受け継がれていくのでしょう。
一書に曰く、
お墓です。
仏教の輪廻転生から言うと、重忠さんは、もうとっくに、生まれ変わっているはずですから、この墓石に祈っても、無駄?
あの世が、あるのか、ないのか。
成仏するとか、できないとか、どういうことでしょう。
重忠さんは、成仏したのか、しないのか。
間違いなく、成仏したでしょう。
あれだけ、生前大活躍して、100パーセント生命燃やして生きたのだから。
そりゃあ、最後は負けましたけど、みんなみんな負けたんだから。
千葉氏も比企氏もみんな負けたんだから。
今となっては、北条だって滅びたんだし。
何もかも過ぎてしまいました。
盛者必衰、諸行無常・・・
という感じが、全くない。あっけらかんとした墓石でした。
とにかく広い。
というか、すこーんと乾いて、あっけらかんとした土地でした。
気分晴れ晴れでした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2024/04/20 16:45:10
- 逆光の重忠像、お馬さんといっしょに。。。
- とても素敵です!
なまじきちんと写っているより、こういったぼんやり感は、出雲大社を逆光で撮った時と同じものを感じます。
でも。。。このお馬さん、このエピソードを像にしてしまう埼玉県民、やっぱり「飛んで埼玉」なんですねぇ(^_^;)
漱石の墓の立派さに触れておられましたが、津和野の鴎外のお墓は地味ですよ。
「石見の人森林太郎として死せんと欲す」という言葉と一致するようでした。
でも三鷹禅林寺の方に、太宰と向かい合ったところにあるのが、鴎外自身が眠っているのかな?
とにかく津和野の鴎外のお墓は良かったです!
重忠公のお墓は覆屋に覆われているのですね。
いろんな説があるようですが、まぁ、この辺りがそうなんだということで宜しいかと。
埼玉の空も広く、すこーんとしているようですが、それは栃木も一緒です。
広島の義姉が初めて栃木に来た時、平地がたくさんあって広いわねぇとさかんに言っておりましたが、その時は意味が分かりませんでした( ̄▽ ̄)
後に西の方に旅するようになって、その意味がよくわかってきました。
山の中腹の猫の額のような平地に、家々がひしめいているのを見て、兼好法師のように「かくてもあられけるよ}なんて、思ってしまいました。
北関東および埼玉(北関東といっしょにされるのは、埼玉県民には屈辱のようですが)は、空が広く平地がたくさんあるんですよ。
千葉も太平洋寄りの辺りは、そんな感じがしますけれど。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2024/04/22 11:56:01
- Re: 逆光の重忠像、お馬さんといっしょに。。。
- そうでした。出雲大社も逆光になるのでした。本殿背後はどこに回っても上半分以上に青空が入って、逆光ぽくなったのを覚えています。補正しようとしましたが、こんどは塀の屋根が緑ぽくなっちゃうし、苦労しました。
たしかに無理しないでシルエットにしてしまう方が、出雲大社は素敵でしたね。
重忠のお墓は厳密にははっきりしないようです。おっしゃるとおりで、故郷畠山郷のどこかでかまわないと思います。地元の方がここだと言って、大事にするならそれでいいかと。
関東は広いです。群馬、栃木、埼玉と駆け回りましたが、広さを実感します。
広島もやまがちなのですか。甲府の親戚が「甲府はどっちに行ってもすぐ山」と言っていましたが、確かに関東は違います。。
源平の昔、こういう真っ平らなところを関東武士達は馬で駆け巡っていたわけで、西国の平家の公達には勝ち目はなかっただろうなと、つくづく思いました。
埼玉県人も北関東とひとくくりにされるのを好まないのですか。群馬は長野と一緒になりたがると前日光さんからおうかがいしました。
栃木はいかがですか。
埼玉といっても秩父などの山地と平地ではずいぶん景色が違います。
秩父独立運動などがありそうな感じです。
私たちが住んでいる千葉九十九里平野は真っ平らです。でも1500年前は現在の九十九里浜から上総、下総の丘陵まで2~3mの浅い海でした。当時の海岸線は玉浦といいました。
茂原の橘樹(たちばな)神社は現在海から10kmも離れていますが、ここに乙橘姫の櫛が流れ着いたという伝説があります。内房で遭難した乙橘姫の櫛がなんで外房にというのはおいといて、かつてこの神社は古代玉浦の浜辺近かったわけで、納得できます。
-
- pedaruさん 2024/04/02 07:02:46
- 郷土の誇り
- しにあの旅人さん おはようございます。
畠山重忠の墓は立派な覆屋で守られているのですね。守るべきものは郷土のほこり、歴史上の有名人。それに引き換え、源頼朝の墓はすこし粗末に扱われておりませんか?これが鎌倉幕府の最高権力者の墓とは。
でもある意味では好ましいですね。夏目漱石の墓なども立派ですが、私はすこしがっかりしたりしています。漱石のせいではなく残された人の行為ですから何とも言えません。漱石は望んでいたのでしょうか?
だいぶ前に私も墓を買いましたが、質素な墓です。私の場合、小さな墓は経済的な理由だけですが(笑)。
話は重忠に戻りますが、坂をご主人の背中に背負われて下りる、馬は怖かったでしょうね、「歩きにくいよー」複雑な馬の気持ちが伝わってきます。重忠って、かなり天然な人だったのですね。この像を見ると笑えます。深谷市の皆さん、ごめんなさい。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2024/04/02 16:41:10
- Re: 郷土の誇り
- 頼朝のお墓をウエブで見ました。覆屋がないのですね。確実に頼朝お墓ではあるようですが、日本の政治システムを作り替えた人物の墓にしては、確かに寂しい感じがします。
天武・持統コンビ、家康と同じレベルだと思うのですが、頼朝以外は立派な古墳や東照宮です。
直系の子孫が途絶えちゃったからですかね。
でもそれは本人のせいですよね。
漱石のお墓は立派です。でもこれは本人の希望ではないという感じです。悪妻で名高い鏡子夫人が漱石のお墓にこだわったとも思えないし。
室生犀星も死後自分のお墓や文学碑が観光目的で建てられることを予想して、お墓みたいな文学碑を軽井沢に自分で生前に作っちゃいました。
重忠に背負われた馬の顔、私は「迷惑! 過保護馬だと思われるじゃないか」と解釈したのですが、怖がっている説もありえますね。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
深谷・寄居(埼玉) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ ヤマトタケル空白の旅路-雁坂路
4
24