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仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。<br />この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。<br />そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうですが、ここから前を眺めるとそこはもう喜多院、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。

川越市 『川越大師 喜多院』

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2023/09/25 - 2023/09/25

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kimi shinさん

仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。
この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。
そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうですが、ここから前を眺めるとそこはもう喜多院、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。

旅行の満足度
2.5
観光
2.5
交通
2.5
同行者
家族旅行
交通手段
新幹線 JRローカル 徒歩

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  • 小さな池ですが比較的綺麗な水を湛え小島を取り囲んでいます。<br />小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。<br />大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。<br />また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているようです。

    小さな池ですが比較的綺麗な水を湛え小島を取り囲んでいます。
    小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。
    大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。
    また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているようです。

  • この葵庭園では、平成15年から毎年6月末に蛍の鑑賞会が催されるという。<br />源氏か平家なのか記されていませんが、餌となるカワニナ(貝)が自生しているのだろう。<br />この庭園が蛍の自生地となる事を目指し環境維持活動が行われているようです。

    この葵庭園では、平成15年から毎年6月末に蛍の鑑賞会が催されるという。
    源氏か平家なのか記されていませんが、餌となるカワニナ(貝)が自生しているのだろう。
    この庭園が蛍の自生地となる事を目指し環境維持活動が行われているようです。

  • ここから左を見上げると、そこには方形で瓦葺の建物が見えてきます。<br />隣接する喜多院の慈眼堂で、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。

    ここから左を見上げると、そこには方形で瓦葺の建物が見えてきます。
    隣接する喜多院の慈眼堂で、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。

  • 葵庭園から緩やかな坂を上れば喜多院境内。<br />右手に鐘楼門が現れます。

    葵庭園から緩やかな坂を上れば喜多院境内。
    右手に鐘楼門が現れます。

  • 入母屋瓦葺で袴腰が施された二層の門で、扉と上層は朱塗りで、上層中央の火頭窓と左右の間に施された彫に視線が行く。

    入母屋瓦葺で袴腰が施された二層の門で、扉と上層は朱塗りで、上層中央の火頭窓と左右の間に施された彫に視線が行く。

  • 鐘楼門 附銅鐘(国指定重要文化財 建造物)解説は以下。<br />「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。<br />上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。<br />鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。<br />下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。<br />上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。<br />中備はありません。<br />正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。<br />上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。<br />寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」<br />花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。<br /><br />いきなり裏側、正面から山門を目指しがてら鐘楼門をひと回り。

    鐘楼門 附銅鐘(国指定重要文化財 建造物)解説は以下。
    「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。
    上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。
    鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。
    下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。
    上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。
    中備はありません。
    正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。
    上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。
    寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」
    花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。

    いきなり裏側、正面から山門を目指しがてら鐘楼門をひと回り。

  • 裏側左の間の花鳥の彫物。

    裏側左の間の花鳥の彫物。

  • 同じく右の間の彫物、鶏は鷹か?花は何だろう梅かなぁ。

    同じく右の間の彫物、鶏は鷹か?花は何だろう梅かなぁ。

  • 鐘楼門妻側。

    鐘楼門妻側。

  • 鐘楼門正面。<br />手前の透塀は右手で途切れていますが、往古は山門まで連なっていたのでは。

    鐘楼門正面。
    手前の透塀は右手で途切れていますが、往古は山門まで連なっていたのでは。

  • 左の間の雲龍。

    左の間の雲龍。

  • 右の間の龍。

    右の間の龍。

  • 寛永十五年(1638)の大火では、鐘楼門は焼け残ったとも云われ、造営時期は定かではないようですが、全体的に脱色はありますが大きな傷みは見られず、現在まで幾度か保存修理が行われているようです。

    寛永十五年(1638)の大火では、鐘楼門は焼け残ったとも云われ、造営時期は定かではないようですが、全体的に脱色はありますが大きな傷みは見られず、現在まで幾度か保存修理が行われているようです。

  • 鐘楼門前から道路沿いを右手の山門に向かいます。<br />川越大師 喜多院の山門。<br />寺号標の右手に白山権現と江戸時代喜多院の復興に努めた天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。<br /><br />川越大師 喜多院の創建と歴史。<br />「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。<br />伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。<br />その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。<br />正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。<br />慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。<br />寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。<br />そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。<br />家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。<br />その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」

    鐘楼門前から道路沿いを右手の山門に向かいます。
    川越大師 喜多院の山門。
    寺号標の右手に白山権現と江戸時代喜多院の復興に努めた天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。

    川越大師 喜多院の創建と歴史。
    「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。
    伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
    その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
    正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
    慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
    寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。
    そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
    家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。
    その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」

  • 山門(重要文化財建造物)<br />山門の解説は以下。<br />「山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。<br />棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。<br />昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」<br /><br />寛永9年(1632)の棟札が残り、第二十七世天海が建立したシックな佇まいの切妻瓦葺の四脚門で、門右手の緩やかな曲線を持ったむくり屋根の番所と連なっています。

    山門(重要文化財建造物)
    山門の解説は以下。
    「山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。
    棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。
    昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」

    寛永9年(1632)の棟札が残り、第二十七世天海が建立したシックな佇まいの切妻瓦葺の四脚門で、門右手の緩やかな曲線を持ったむくり屋根の番所と連なっています。

  • 番所(県指定建造物)。<br />目的はその字が示す通り。<br />天保12年(1841)の喜多院境内図では、番所の位置は山門より境内後方に描かれており、山門に接するような現在の配置は、その後の改修によりこの形になったようです。

    番所(県指定建造物)。
    目的はその字が示す通り。
    天保12年(1841)の喜多院境内図では、番所の位置は山門より境内後方に描かれており、山門に接するような現在の配置は、その後の改修によりこの形になったようです。

  • 山門、番所の解説。

    山門、番所の解説。

  • 喜多院境内マップ。<br />広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、山門、鐘楼門などの伽藍が建ち、他にも太子堂、五百羅漢像などがあり、全てを巡るとかなり時間を要する。

    喜多院境内マップ。
    広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、山門、鐘楼門などの伽藍が建ち、他にも太子堂、五百羅漢像などがあり、全てを巡るとかなり時間を要する。

  • 参道を進んだ右側の六角形の建物が聖徳太子を祀った太子堂で、左側の白い石柱は木遣塚。

    参道を進んだ右側の六角形の建物が聖徳太子を祀った太子堂で、左側の白い石柱は木遣塚。

  • 太子堂の創建は、弘化4年(1847)に末寺の混合院境内に創建されたと伝わり、明治以後混合院廃寺にともない日枝神社に移築、明治42年に喜多院多宝塔建立地に移築さたが、昭和47年現在の場所に六角太子堂として再興されたもの。

    太子堂の創建は、弘化4年(1847)に末寺の混合院境内に創建されたと伝わり、明治以後混合院廃寺にともない日枝神社に移築、明治42年に喜多院多宝塔建立地に移築さたが、昭和47年現在の場所に六角太子堂として再興されたもの。

  • 太子堂後方は市指定史跡五百羅漢。<br />喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢(栃木県徳蔵寺、神奈川県建長寺)の一つに数えられ、天明2年(1782)から文政8年(1825)の長きにわたり建立されたものと云います。<br />写真の中央の釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩含め538体が鎮座しています。<br />有料拝観になりますが、人生そのものを思わせる様々な表情の羅漢像が見られます。

    太子堂後方は市指定史跡五百羅漢。
    喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢(栃木県徳蔵寺、神奈川県建長寺)の一つに数えられ、天明2年(1782)から文政8年(1825)の長きにわたり建立されたものと云います。
    写真の中央の釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩含め538体が鎮座しています。
    有料拝観になりますが、人生そのものを思わせる様々な表情の羅漢像が見られます。

  • 慈恵堂<br />「県指定有形文化財<br />慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。<br />大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。<br />桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。<br />現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。<br />川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。<br />昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。<br />天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。<br />なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。<br />潮音殿<br />喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。<br />お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。<br />それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。<br />これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。<br />また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。<br />それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。<br />喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。」<br /><br />尚、上にある正安2年(1300)に造られた銅鐘について三芳野名勝図会には「背仙波下之深田之内より引き上げられ、鳩井郷(現鳩ケ谷)の筥崎八幡宮の鐘也とある。」

    慈恵堂
    「県指定有形文化財
    慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。
    大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
    桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。
    現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。
    川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。
    昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。
    天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。
    なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。
    潮音殿
    喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。
    お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。
    それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。
    これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。
    また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。
    それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。
    喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。」

    尚、上にある正安2年(1300)に造られた銅鐘について三芳野名勝図会には「背仙波下之深田之内より引き上げられ、鳩井郷(現鳩ケ谷)の筥崎八幡宮の鐘也とある。」

  • 慈恵堂の額と紐のない鰐口。

    慈恵堂の額と紐のない鰐口。

  • 慈恵堂から多宝塔と手前の手水舎の眺め。

    慈恵堂から多宝塔と手前の手水舎の眺め。

  • 手水舎龍口。

    手水舎龍口。

  • 鉢に立てられた剣に2頭の龍が絡み合いながら清水を注ぐ姿のもの。

    鉢に立てられた剣に2頭の龍が絡み合いながら清水を注ぐ姿のもの。

  • 慈眼堂。<br />境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。

    慈眼堂。
    境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。

  • 「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。<br />そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。<br />一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。<br />宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。」

    「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。
    そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。
    一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。
    宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。」

  • 斜め左から見る慈眼堂と歴代住職の墓基。

    斜め左から見る慈眼堂と歴代住職の墓基。

  • 慈眼堂内に安置されている天海僧正の木像。

    慈眼堂内に安置されている天海僧正の木像。

  • 慈眼堂や歴代住職の墓基が建つ小高い盛り上がりは古墳で、仙波古墳群の一つ慈眼堂古墳と呼ばれる前方後円墳。<br />現在見る姿からは前方後円墳の面影は感じられず、若干高い墓基側が後円部なんだろうか、それとも慈眼堂側が後円部なのか定かではない。<br />どちらにせよ、喜多院の長い歴史と伽藍の移り変わりにより、古墳の姿も変わっていったのだろう。

    慈眼堂や歴代住職の墓基が建つ小高い盛り上がりは古墳で、仙波古墳群の一つ慈眼堂古墳と呼ばれる前方後円墳。
    現在見る姿からは前方後円墳の面影は感じられず、若干高い墓基側が後円部なんだろうか、それとも慈眼堂側が後円部なのか定かではない。
    どちらにせよ、喜多院の長い歴史と伽藍の移り変わりにより、古墳の姿も変わっていったのだろう。

  • 「県指定有形文化財<br />多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。<br />その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。<br />ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。<br />総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。<br />江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」

    「県指定有形文化財
    多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。
    その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
    ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
    総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。
    江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」

  • 多宝塔解説から抜粋。<br />「この多宝塔は元々山門前の現在白山権現とその先の日枝神社の間に建てられていた。<br />道路新設に伴い慈恵堂脇に移築され、復元のため解体され現在地に移築、昭和50年に完成したもの。」

    多宝塔解説から抜粋。
    「この多宝塔は元々山門前の現在白山権現とその先の日枝神社の間に建てられていた。
    道路新設に伴い慈恵堂脇に移築され、復元のため解体され現在地に移築、昭和50年に完成したもの。」

  • 多宝塔下層から相輪を見上げる。<br />慈恵堂脇に一旦は建てられながら復元を迫られるほどの塔とは、どんな姿をしていたのか気になる。<br />復元を終えた塔は朱も鮮やかで青い空を背景に浮き立っていた。

    多宝塔下層から相輪を見上げる。
    慈恵堂脇に一旦は建てられながら復元を迫られるほどの塔とは、どんな姿をしていたのか気になる。
    復元を終えた塔は朱も鮮やかで青い空を背景に浮き立っていた。

  • 慈恵堂右手の覆屋は大黒堂、小江戸川越七福神の大黒天が祀られていました。

    慈恵堂右手の覆屋は大黒堂、小江戸川越七福神の大黒天が祀られていました。

  • 大黒堂脇の客殿・書院・庫裏の解説。

    大黒堂脇の客殿・書院・庫裏の解説。

  • 慈恵堂側面の眺め。<br />右に廻廊が付けられ客殿・書院・庫裏に繋がっています、これらは川越大火で焼失した伽藍を復旧する為、徳川家光が江戸城から移築したもので、いずれも国指定重要文化財のもの、拝観券が必要です。

    慈恵堂側面の眺め。
    右に廻廊が付けられ客殿・書院・庫裏に繋がっています、これらは川越大火で焼失した伽藍を復旧する為、徳川家光が江戸城から移築したもので、いずれも国指定重要文化財のもの、拝観券が必要です。

  • 使者の間から紅葉庭園内の鮮やな曼殊沙華が印象に残った。<br /><br />川越大師 喜多院<br />宗派 / 天台宗<br />創建 / (伝)天長7年(830)<br />山号 / 星野山<br />開山 / (伝)円仁<br />勅願 / 淳和天皇<br />本尊 / 慈恵大師、阿弥陀如来<br />所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1<br />仙波東照宮から北へ / 徒歩1分程

    使者の間から紅葉庭園内の鮮やな曼殊沙華が印象に残った。

    川越大師 喜多院
    宗派 / 天台宗
    創建 / (伝)天長7年(830)
    山号 / 星野山
    開山 / (伝)円仁
    勅願 / 淳和天皇
    本尊 / 慈恵大師、阿弥陀如来
    所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1
    仙波東照宮から北へ / 徒歩1分程

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