2023/09/25 - 2023/09/25
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2023/09/25・26
新幹線と在来線を利用し武藏國一之宮二社を参拝してきました。
今回は一日目の目的地川越と宿泊先の大宮まで。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 2.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 2.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 徒歩
-
2023/09/25・26
新幹線と在来線を利用し武藏國一之宮二社を参拝してきました。
初日は川越市内を散策し、近隣の神社を巡る。
名古屋を7時の新幹線で出発、一路川越まで電車で移動。
現地では半袖では肌寒いかと長袖と天候の急変を想定し折り畳み傘まで持ってきたが意外に天気は良さそう。
白くない冨士にはそそられないが、ふもとっぱらへキャンプに行く計画もあり、車窓から冨士を眺められるなんてのは我家にしてはとても珍しい、ふもとっぱら行くなら見えて欲しいなぁ。 -
新幹線と在来線を乗り継いで川越駅到着はほゞ10時。
この日は主に小江戸と称される川越の街を食べ歩き、時の鐘や利き酒、最寄りの神社を訪ねる全行程徒歩の一日。 -
今回、埼玉で見かけたマンホール。
まといの頭に「川」「越」と入っとものは駅周辺、右上の蔵造りの町並みに時の鐘は川越熊野神社、左上は氷川女体神社に向かう途中で見かけたもの。
川越は小江戸と称され、川越街道や水運によりサツマイモなどの産物を江戸に出荷し賑わいますが、寛永15年(1638)に大火に見舞われ、城下町や川越城を焼失しますが、当時の藩主松平信綱により川越は再興されていきます。
明治26年(1893)、川越は再び大火に見舞われ、市街地の大部分を焼き尽くす甚大な被害を受けました、そうした大火から学んで出来たのが蔵造りの町並みです。
まずは駅から仙波東照宮方向を目指し歩き始める。 -
駅から北東に約20分程写真の星野山中院の山門前に到着。
ここでかみさんに立ち止まってもらい、境内を窺ってみた。
中院の解説によれば以下のように記されていた。
「所在地 川越市小仙波町五丁目
中院は、かつて星野山無量寿寺仏地院と称し、天長七年(830)に、慈覚大師によって創立された。
当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永十年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたもの。
境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。
太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著わした太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。
また、加藤みきは、文久三年(1863)に松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母に伴われて上京し、以後大正十二年(1923)に再び川越に戻り、昭和十年(1935)五月に七十三歳の生涯を閉じた。
墓石に蓮月不柴乃墓と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。」 -
中院赤門。
山門から少し先にある名のとおりの赤い門。
右の柱には小さく「天台宗中院」の札が架けられている。 -
その門の傍らの掲示板を見ていたかみさんが突然大笑い。
上の言葉が彼女の笑いのツボにはまったようで、読んで見ると自分も自然に笑みがこぼれる。
18才と81才は語呂合わせかもしれないが、まさに書かれている通り。
先に進むか、後から追うかの違いにすぎない。
少子高齢化の日本にあって、高齢者に対する風潮や振舞いはやがて自分に戻ってくる。
まだ〃81才には及ばないが、横断歩道の信号が青で渡り切れそうもないお年寄りと出逢えば、無言で付き添う様に渡る事を心がけている、意思と行動が伴わなくなり若い衆も同じように皆衰えていく。 -
中院は正式名を星野山無量寿寺中院と号し、伝承では創建は天長7年(830)、開山は円仁、開基は淳和天皇とされ、本尊は阿弥陀如来。
以前は仙波東照宮の地に鎮座していたようですが、寛永15年(1638)の大火で焼失、跡地に東照宮を建立するにともない、少し南のこの地に再建されたようです。
中院
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5-15-1 -
仙波東照宮。
赤門から北に徒歩2~3分程の場所に鎮座する仙波東照宮。
最近のかみさんは各地の一ノ宮巡りで東照宮をコースに入れてくれ、今回のコースも蔵造りの町並に向かう道中で盛り込んでくれた。
仙波東照宮の解説は以下。
「徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した。
元和三年(1617) 三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が 寛永十年(1633)一月この地に創建した。
その後寛永十五年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。
当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、 日光・久能山東照宮とともに三大東照宮といわれている。
社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門) 瑞垣・本殿からなっている。
本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。
なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。」 -
随神門。
「重要文化財建造物
東照宮随身門・石鳥居
境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形鋼板葺である。
八脚門とは三間×二間の門で、門柱四本 の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。
以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」 の額が掲げられていた。
記録によるとこの勅額は寛永十年(1633) 十二 月二十四日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。
石鳥居は寛永十五年(1638) 九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛 永十五年九月十七日堀田加賀守従四位 下藤原正盛」の銘文が刻まれており、 様式は明神鳥居である。」
随神門の左右の間には随神の姿はありません。 -
解説にある石鳥居の先から石段を上ると東照宮の社殿に至ります。
-
残念ながら平日は拝観できず、玉垣の周囲から窺うのみとなります。
寛永10年(1633)に建立されたが、寛永15年(1638)の「寛永の大火」で焼失、寛永17年(1640)に再建されたもの。
日光東照宮、久能山東照宮に次ぐ日本三大東照宮の一つに数えられるとされますが、ここについては諸説あるようです。
寛永の大火で仙波東照宮は喜多院と共に焼失、3代将軍徳川家光により速やかに再建されたところからみても、かなり重きを置いて見られていた事には違いない。
仙波東照宮
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-21-1 -
仙波東照宮境内から北に続く小路があり、葵庭園を経て喜多院境内に続く。
上は葵庭園の厳島神社。 -
喜多院境内から一旦山門に向かい喜多院を参拝。
川越大師 喜多院 創建と歴史
「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。
伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。
そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。
その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」
正面の山門についての解説は以下。
「国指定重要文化財
山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。
棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。
昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」 -
鐘楼門。
山門前を左に進んだところに建てられている、解説は以下。
「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。
また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。
下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。
上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。
中備はありません。
正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。
上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。
寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」
花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。 -
喜多院境内マップ。
広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、五百羅漢像などがあり全てを巡るとかなり時間を要する。 -
多宝塔と手前の手水舎。
「県指定有形文化財
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」 -
慈恵堂
「県指定有形文化財
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。
大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。
川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。
昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。
天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。
なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、 年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。
潮音殿
喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。
お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。
それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。
これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。
また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。
それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。
喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。 -
喜多院廻廊から紅葉山庭園内の曼殊沙華。
-
慈眼堂。
境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。
「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。
そして 三年後の正保二年(1645)には 徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。
一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。
宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。 -
山門右手の天海大僧正像(右)と白山権現。
天長7年(830)、慈覚大師円仁が喜多院創建時に天台宗修験道の霊場白山から白山の神仏の分霊をお祀りしたのがはじまりという。
川越大師 喜多院
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1 -
日枝神社。
山門前の道路の向かいに鎮座し、こちらも喜多院創建時に天台宗の大本山比叡山の麓に鎮座する日吉大社の分霊を祀ったもの。
「日枝神社本殿は、喜多院山門の前方にあります。
山王一実神道の関係から喜多院の草創時代から境内に祀られ、近江日枝神社を勧請したものといわれます。
本殿は、三間社流れ造り、銅版葺、朱漆塗り。
室町末期から江戸初期の朱塗りの華やかな様式をよく残しています。
神輿形厨子に安置される僧形の木像は、大山咋神を表しています。
なお、現在の赤坂日枝神社は、文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当たってここから江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。」 -
喜多院山門から北東方向へ徒歩10分程にある蕎麦屋「十限無JUGEMU」。
-
十限無。
こちらで十割蕎麦と韃靼蕎麦、蕎麦の実が添えられた蕎麦豆腐を頂く。
写真は十割蕎麦大盛、十割とは思えぬ細さで、腰もありのど越しの良い美味しい蕎麦だった。
蕎麦湯が入れられた南部鉄の急須は見た目以上の重さがあり、指の筋トレにいいかも。
蕎麦はもちろん、サイドメニューも美味しいお店でした。
所在地 / 埼玉県川越市久保町6-6
さて次はここから北へ15分程歩き川越氷川神社に参拝。 -
歩いていくと最初に石の神明鳥居が現れるが、その右手に朱の大きな鳥居が聳えておりそちらから境内に向かう。
大鳥居は朱塗りの明神鳥居で、高さは15㍍の木製鳥居。
木製鳥居では国内唯一の規模を持つそうです。 -
扁額の文字は勝海舟の筆によるものです。
-
氷川神社境内マップ。
社地は新河岸川の右岸の杜に鎮座し、広い社地の半分が社殿、残りは会館が占めており、当日七五三の御祈祷に訪れた家族連れと大陸系の観光客が多かった。
「川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。
室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。
江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。
また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。
川越氷川神社には五柱の神々がおまつりされています。
主祭神は素盞鳴尊、ほかに、脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様。
さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある奇稲田姫命、そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神様としても知られる大己貴命の五柱の神様です。」
7月から9月にかけて縁結び風鈴の廻廊が行われ、川越の夏の風物詩として知られますが、参拝時は既にその時期を過ぎており、江戸風鈴が吊るされた廻廊は見られませんでした -
氷川神社拝殿。
「欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から勧請されたと伝えられ、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、歴代の城主をはじめ城下の人々の厚い信仰を得てきました。
嘉永3年(1850年)に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。
川越まつりは、同神社の神幸祭が起源とされています。 -
氷川神社本殿。
「江戸後期に川越城主松平斉典公の寄進と氏子の寄付によって建立されました。
ご本殿には木の良さを生かした江戸彫とよばれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されており、名工嶋村源蔵・飯田岩次郎が7年の歳月をかけて彫りあげたものです。
これらの彫刻はそれぞれ川越氷川祭で繰り出される山車に乗る人形をモチーフにしています。
江戸時代の名工の技が静かに息づくご本殿は県の重要文化財に指定されており、大森貝塚を発見したことでも有名なE.モースも本殿の彫刻を見てその緻密さに驚いたといいます。
また、モースは当社のお札をアメリカに持ち帰り、保存しました。」
全周を透塀に囲われ細部を見る事は難しいですが、「強度大丈夫か?」と思いたくなる程彫りこまれている。 -
拝殿左の八坂神社。
「八坂神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命をおまつりする摂社です。
毎年7月には例祭・八坂祭が行われ、お神輿が街中を巡行します。
八坂祭では神前にキュウリを2本お供えして1本を持ち帰ります。
このキュウリを食べると夏負けしないといわれています。
京都の八坂神社の神様で、かつては牛頭天王とよばれ、疫病退散のご神徳があります。」
この社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となった事を契機に明暦2年(1656)川越城内の三芳野神社の外宮として移築、明治5年(1872)に氷川神社境内に移築されたもの。」
氷川神社
所在地 / 川越市宮下町2丁目11番地5
さて次はかみさん待望の蔵造りの町並みと食べ歩きに向かいます。
社頭南を走る県道51号線を西に向かい、突き当りを左折し徒歩15分前後の移動時間。 -
かみさん待望の焼き芋ブリュレ。
蕎麦大盛が収まるおやじの胃袋は、次を摂り込む余裕はなく、ここはかみさんに任せ、小江戸ビールを頂く。 -
6種あるCOEDOBEERの紫のボトルのRuriを一杯。
爽やかな喉越しのピルスナービールで、暑い日の一杯に丁度いい。
COEDO HACHI
所在地 / 埼玉県川越市元町2-1-6 -
蔵造りの町並み。
人や車でとても混雑するエリア、随分消しゴムで消したがそれも限度があるようです。 -
時の鐘。
マンホールデザインにも採用される川越のシンボル的存在。
ここを目指す観光客は後を絶たずこれ以上カメラを下に向けられない。
寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に川越城主酒井忠勝が、多賀町(いまの幸町)のこの場所に建てたものが最初といわれ、創建された江戸時代初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。
現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建された3層構造で、高さ約16メートルあると云う。
現在は機械仕掛けで6時・12時・15時・18時の4回自動で鐘が鳴らされるそうです。
所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1
更に南下し仲町交差点で左に入り、大正ロマン通りを南下する。 -
時の鐘から10分程で川越熊野神社社頭に到着。
参道左には石の散りばめられた足踏み健康ロードなる参道があります。
素足で境内まで歩ければ健康になるのだろうが、自分には罰ゲームに見え、歩くのはやめた。 -
川越熊野神社境内マップ。
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天正18年(1590)創建とされる神社で、名が示す通り熊野大神をお祀りする神社。
境内には白蛇神社や銭洗弁財天、加祐稲荷神社などの境内社がある。
川越熊野神社
所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1
ここまでの徒歩ルート / 川越駅から約5㌔
帰り際、足踏み健康ロードを果敢に挑戦する人を見かけたが、やはり帰りも見送って社頭に戻り南下を続ける。 -
川越熊野神社から5分程南下すると写真の新富町1丁目の家光の山車蔵が見えてくるので、そこで左奥に進み利き酒処昭和蔵へ。
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店舗入口。
こちらで地元の酒を品定め。 -
店内ではこうした地酒がディスプレイされ、500円で5枚のコインと交換し飲み比べる事ができます。
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色々飲み比べて見た中で一番口にあったのがコイン3枚の川端酒造「桝川大吟醸」。
フルーティーな香りで飲みやすいお酒だった。
利き酒処昭和蔵
所在地 / 埼玉県川越市新富町1-10-1 -
利き酒処昭和蔵から八幡通りを川越駅方向に10分程南下すると新富町2丁目の山車蔵が見えてきます。
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川越最後の参拝地川越八幡宮は山車蔵の左に社頭を構えます。
社殿はこの参道を進んで左側に鎮座します。 -
境内左側で龍と花手水が迎えてくれた。
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川越天満宮は誉田別命を主祭神とする神社で、創建は古く長元3年(1030)に遡り、はじまりは甲斐守源頼信が平忠常の乱平定の祈願をここで行い、戦勝に感謝し創祀し創建されたと云う。
境内には民部稲荷神社、川越三峯神社、菅原神社、稲荷神社等の境内社が祀られています。
参拝当日は境内整備のため一部工事中でぐるりと見て廻る事が出来なかった。
川越八幡宮
所在地 / 埼玉県川越市南通町19-3
さて初日川越の訪問地はこれで全てコンプリート、ここから一路川越駅に戻り、大宮に移動します。 -
昭和蔵から川越八幡宮経由川越駅 / 徒歩約20分
ここから川越線で大宮駅まで約20分程電車移動。 -
川越線で大宮駅まで移動約20分
大宮駅到着、ここから今夜の宿パレスホテル大宮までは西へ徒歩5分程。 -
夏のような暑さでしたが陽が陰るのだけは早くなってきた。
日没が迫ると一日が終わった気分となり随分そんした気になってくる。 -
16:45ホテル到着。
まずはチェックインし一休みした後地元の居酒屋へ繰り出す。 -
一軒目は駅の東の「いづみや本店」へ。
所謂大衆酒場でお世辞にも綺麗な店内とは言えない。
価格はリーズナブルでハムカツなど懐かしい肴を摘まんで飲める肩の凝らない店。
なかなか女性一人では入りにくい雰囲気ですが、常連さんは気さくな人ばかりです。
生中のジョッキの大きさには驚いた。
いづみや本店
所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区大門町1-43-43 -
二軒目はいずみやから一筋南の「なごみ」へ。
こちらは金額毎のチケットを買い求め、カウンターに金額表示され並んだ肴をチケットと交換するシステム。所謂飯屋的な雰囲気が漂うお店。
こちらは女性でも入りやすい雰囲気かな。
なごみ
所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区大門町1-72-66豊栄ビル1F
生中一杯300円とありながら、食べれないお通しが出てきて+500円なんてのはあっちこっちで溢れているが、何れの店も明朗会計なので分かり易くていい。 -
たらふく飲んでホテルに戻る、気持ちは銭湯を探して徘徊したいが、結構足に来ている。
こうした場合大方すぐに寝落ちしてしまうが、今回もまた横になってTVを付けた瞬間意識はなくなる。
明日は大宮を起点に一之宮を巡っていきます。
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