2023/11/01 - 2023/11/01
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坂の上田村麻呂のお墓といわれる場所、醍醐天皇の外祖母である宮道列子のお墓、中臣遺跡や中臣神社、明智光秀の胴塚に立ち寄ります。
その後は乃木神社へ。
乃木希典・静子夫人を主祭神とする乃木神社と伏見桃山時代の遺構も残る神社、御香水神社に行きました。
乃木神社には幼少の頃に住んだ家が再現されており、また日露戦争の際に使っていた家が移築され、部屋も見学できます。
資料館には貴重な資料や遺品が展示されていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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岩屋寺を訪れた後に、近くの、坂上田村麻呂のお墓に行きました。
公園にも名前がついています。 -
この公園を通り抜けた先にあります。
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鎖があり、これ以上は中に入れません。
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説明板があります。
奈良時代の武将、坂上田村麻呂は征夷大将軍として知られていますが、
亡くなってからも、平安京を守ってほしいという嵯峨天皇の希望で、
甲冑、剣、弓矢を持った戦いの姿で立ったまま、平安京の東を向いて埋葬されたそうです。
「平安京の守護神」として崇められ、また武神、軍神としても多くの人々に信仰された人物です。
清水寺も創建したのは坂上田村麻呂。仏教にも篤く信仰した人だったようです。 -
非情事態が起こるとお墓が大きな音がして、警告するという伝承や反逆者を追討するときには、お墓にて加護を祈る、、ということもあったようです。
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坂上田村麻呂のお墓はあちこちにあるようですが、こちらのお墓もそのひとつ。
ここは、出土品に甲冑がないことなどから、この一帯を治めていた中臣氏のお墓とも考えられるそうです。中臣氏の群集墳のひとつ。このあたりには中臣遺蹟があり旧石器時代から平安時代までの遺跡が点在しています。
現在、坂上田村麻呂のお墓はここより西の方の山麓にある西野山古墳が有力と考えられているようです。出土した副葬品の数々の中には国宝のものもあります。 -
次に近くの、宮道列子のお墓へ。
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こんもりとした高台、整備されています。
宮道列子は平安時代の人、右大臣の藤原高遠の正室です。
娘の胤子は宇多天皇の女御になり、その子は後に後醍醐天皇です。 -
嫁いだ藤原高藤と列子は身分の差がありました。
紫式部はその子孫にあたるといわれています。 -
このあたりは、中臣遺跡と呼ばれる一帯です。
旧石器時代から平安時代までの遺跡が多く点在しています。
この辺りは中臣鎌足の陶原館があった可能性があるとか。 -
広場のような公園になっていました。
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小さな神社も近くにあります。
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中臣神社です。
中臣氏の本拠地であったところ。
醍醐天皇のころ、10世紀の創建だそうです。 -
そして、これも近くの明智光秀の塚、胴塚へ。
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交通量の多い道路のそばにあります。
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説明板があります。
このあたりに明智藪とよばれる竹やぶがあり、そこで重傷を負った明智光秀が竹槍で刺され重傷を負い、家来の介錯でこのあたりで亡くなっています。
首は家来が持ち去り、胴はこのあたりに葬られたといわれています。 -
乃木神社に来ました。
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こちらの神社は乃木希典・静子夫妻を主祭神として祀っている神社です。
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由緒が細かく記されていました。
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境内はとても広いようです。
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説明板があります。
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日露戦争後の水師営の会見の際の写真もありました。
陸軍大将だった乃木希典は、敵将のステッセルに対して礼を尽くしたといわれています。
真ん中の左から二番目が乃木希典、その右となりがステッセル中将。 -
徳富蘇峰の豪快な筆の碑。
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学習院時代の胸像。
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まず、記念館へ。
建物は第三軍司令部として旅順包囲線の指揮を取り、一年間住まいとしたところ。
現在の中国東北部の柳樹房にあった建物です。
こちらの神社の創立のときに、買い取り、解体してこちらに運んできたそうです。外回りと乃木希典の寝室は当時のままだそうです。 -
こちらがその寝室だったところ。
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約1年住まいとしたそうです。
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乃木家の家訓など。
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古い絵葉書?
乃木夫妻の写真などが。 -
旅順の様子の画。
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肖像画。
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乃木将軍の物語。
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部屋一面に。
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中国からきた家。
神社の創立者 村野山人の乃木希典への想いが伝わります。 -
乃木希典が幼少期に過ごした山口長府の家が再現されていました。
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家を再現。
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乃木希典の子供の頃。
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乃木希典の父母と乃木希典。
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説明板によりますと、
父親が閑門蟄居となって、山口の長府の家で暮らしていましたが、
乃木希典は幼少期より、おとなしく、優しい子供だったようで、縫物が得意だったようです。
それを不甲斐ないと思った父親が厳しく育てるようにしたとか。
意外でした。
もともと、強く男の子らしい子供だと思いましたが。。。 -
大きな梅の樹。
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長府の家にあった苗を植えたものだそうです。
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拝殿へ。
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湧水の勝水。
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内苑を特別拝観します。
料金を入れる箱があります。
たしか、おとなひとり100円でした。。 -
乃木夫妻の像があります。
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乃木希典作の漢詩がありました。
金州城の下の作。
南山の戦跡を弔い、山上の墓標に向けて弔辞を供えた後に読んだ詩だそうです。南山の戦跡は長男の乃木勝典が戦死した場所です。
HPを参照にしています。
以下も同じく。 -
美しい十三の塔。
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更に庭園をめぐるように道があります。
紅葉も始まって。 -
可愛いお地蔵さん。
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明治、大正、昭和前期の日本人の多くが知っている漢詩だそうです。
203高地の攻防の難しさ、困難も必ず克服できるという意味のようですが日露戦争の勝敗を決する戦いで、多くの尊い命が失われてしまったことをおもい、誰もがこの山を観て、仰ぎ祈る。。。
この戦いでは次男の保典も戦死しています。 -
勝った戦いではありましたが、多くの兵士の命が失われ、また次男も亡くなっている、、
多くの兵士を失ったことへの申し訳なさが強く感じられる詩のようにも感じました。
乃木希典は、次男が戦死したとき、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。よく死んでくれた。」と言ったそうですが、
どんな複雑な心境にあったのでしょう。
自分の子どもの死は決して簡単なものではなかったはず。。
静子夫人の落胆、悲しみ、苦しみもいかばかりのものであったか、、と。 -
可愛い亀。
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石像がにこやか。
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樹々の中を歩いていきます。
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凱旋の詩。
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日露講和条約の成立、帰国の心境をうたった詩。
激しい戦闘でなくなった多くの兵士たち、、その親にもどうやって詫びたらよいかという意味だそうですが、
多くの犠牲者を出した戦争を指揮した自分を責める気持ちが伝わってきます。
勝っても、心からは喜べない辛さ。。
やはり、乃木希典は幼いころから、繊細で優しい子供であったそうですから、その根本にはこんなやさしい気持ち、傷つきやすい心があったのではなにでしょうか。 -
美しい本殿があり、
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山城えびす神社。
もとは静魂福七社。
創建にあたり、乃木夫妻と御子息の二人の四柱として本殿に祀りたいとの意向があったようですが、認められず、
本殿の西隣に静子夫人を祀る社殿を建て、静魂神社が建てられました。
そのご、本殿に静子夫人も乃木希典とともに祀られることになり、
こちらのお社は山城えびす神社に。 -
可愛い獅子がいました。
注意書きも可愛いです。 -
宝物館へ行きます。
こちらも箱には見学料を入れるシステム。
創建と同時に建てられた蔵だそうです。 -
入口。
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乃木夫妻。
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乃木希典が着ていた衣類。
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ステッキ?
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生活調度品など、数多く展示されていました。
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展示されているものは、
乃木夫妻が亡くなったあとに、親族、知人に形見分けされた遺品が寄贈されたものだそうです。 -
こちらは、長男の帽子だったもの。
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写真も数多くありました。
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明治天皇画。
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少佐のころの乃木希典。
若いです。 -
書も。
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1階2階に展示されています。
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遺言書もありました。
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203高地占領後の乃木希典と、東郷連合艦隊司令長官との写真。
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203高地占領後の写真。
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乃木希典と関わりのあった人々?
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