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コートールド美術館は、ロンドン滞在の最後の日でした。<br />この日は、朝一から『テートブリテン美術館』で開催中だった<br />企画展「ダンテ・ガブリエル・ロセッティ展』を鑑賞して午後<br />『コートールド美術館』ということになりました。<br />当初の予定では、この後『ザ・シャード(The Shard)』の<br />69階展望室からロンドンの夜景を眺めてロンドン滞在の〆。<br />とする予定をしてHPから予約を入れておいたのですが、パリ<br />滞在中にメールが届き、都合によりこの期間前後1週間閉鎖<br />とのことでキャンセルとなってしまいました。<br />楽しみにしていたので残念でしだが(⌒-⌒; )仕方がありません。<br />後ろの予定が抜けたので、ゆっくりできたのかな。<br />とも思います。<br /><br />この旅行記では、コートールド美術館のなりたち。<br />コートールド美術館の主たる展示作品である印象派、後期<br />印象派、特に今回はマネとスーラにピンスポットを当ててみました。<br />

『定番・コートールド美術館、スポットライト!マネ&スーラ』~ ヨーロッパ2023夏〈ロンドン5日目・後編〉

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2023/07/04 - 2023/07/04

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2

71

あの街から

あの街からさん

コートールド美術館は、ロンドン滞在の最後の日でした。
この日は、朝一から『テートブリテン美術館』で開催中だった
企画展「ダンテ・ガブリエル・ロセッティ展』を鑑賞して午後
『コートールド美術館』ということになりました。
当初の予定では、この後『ザ・シャード(The Shard)』の
69階展望室からロンドンの夜景を眺めてロンドン滞在の〆。
とする予定をしてHPから予約を入れておいたのですが、パリ
滞在中にメールが届き、都合によりこの期間前後1週間閉鎖
とのことでキャンセルとなってしまいました。
楽しみにしていたので残念でしだが(⌒-⌒; )仕方がありません。
後ろの予定が抜けたので、ゆっくりできたのかな。
とも思います。

この旅行記では、コートールド美術館のなりたち。
コートールド美術館の主たる展示作品である印象派、後期
印象派、特に今回はマネとスーラにピンスポットを当ててみました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • コートールド美術館は、テムズ川沿いに建つロンドン最古の<br />オフィスビル群サマセットハウスの一角に1989年コート<br />ールド美術研究所と共に移転してきました。<br /><br />この旅で、これまで観てきたルーブルやナショナルギャラリー<br />と比べて、鑑賞するにはちょうど良い広さのコートールド美術館。<br />『フォーリー=ベルジェールのバー』へは真っ先にむかいました。 <br />なにしろ、<br />館長のエルンスト・ヴェーゲリン・ヴァン・クラーベルゲン氏は<br />『マネの最晩年の作品であり、彼のキャリアの集大成でもあり<br />「近代生活のモナリザ」と呼んでも過言ではありません。』と<br />まで言っているコートールド美術館を代表する作品のひとつですから。<br />今回の旅行記では、オルセー美術館(2023.6)で鑑賞した際の<br />マネの作品にも併せて登場してもらい〈マネ&amp;スーラ〉にスポットを<br />当ててみました。

    コートールド美術館は、テムズ川沿いに建つロンドン最古の
    オフィスビル群サマセットハウスの一角に1989年コート
    ールド美術研究所と共に移転してきました。

    この旅で、これまで観てきたルーブルやナショナルギャラリー
    と比べて、鑑賞するにはちょうど良い広さのコートールド美術館。
    『フォーリー=ベルジェールのバー』へは真っ先にむかいました。 
    なにしろ、
    館長のエルンスト・ヴェーゲリン・ヴァン・クラーベルゲン氏は
    『マネの最晩年の作品であり、彼のキャリアの集大成でもあり
    「近代生活のモナリザ」と呼んでも過言ではありません。』と
    まで言っているコートールド美術館を代表する作品のひとつですから。
    今回の旅行記では、オルセー美術館(2023.6)で鑑賞した際の
    マネの作品にも併せて登場してもらい〈マネ&スーラ〉にスポットを
    当ててみました。

    コートールド美術館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 美術館の創設者であるサミュエル・コートールドは、<br />イギリスの実業家であり卓越した審美眼を持つコレ<br />クターだった。<br />コートールド家は古くはフランスで海上輸送業を営んで<br />おり17世紀末の宗教戦争をきっかけにイギリスに亡命<br />して銀細工を手がけるようになった。<br />18世紀末には絹織物業に転身。<br />20世紀初頭になると人工のシルク(レーヨン)の製造に<br />参入し、巨万の富を築きあげた。<br />1921年父親から会長の座を引き継いだのが、<br />サミュエル・コートールドだった。<br /><br />ロンドンの高級住宅街メリルボーン地区には、コートールドが<br />集めた絵画を収めるために、1925年に購入した邸宅がある。<br />この館はコートールドがしばしばお客を招いたことから<br />名士の社交場と呼ばれていた。当時の写真を見るとリビングの<br />壁にはドガの「浴後、体を拭く女」や暖炉のわきにはスーラの<br />「化粧する女」が飾られていたのがわかる。<br />このようにして、この館のあちらこちらに収集した作品が飾ら<br />れていた。<br /><br />コートールドの絵画の収集について、この様な逸話が残されて<br />います。<br />孫アダム・バトラーさんは『祖父は美術商に作品を邸宅まで<br />持って来させ、そのまま2、3ヶ月、部屋に置いたままにし、<br />その間に館中の壁にかけては購入するかどうかよく吟味して<br />いました。「作品が自分に話しかけてくるまでは、心を開いて<br />ジッと待っていなければならない」と言うのです。祖父は<br />何年も前に購入した作品でも、自宅で向き合い話しをします。<br />すると、今まで見えなかったものが見えてくるのだと申してお<br />りました』と。

    美術館の創設者であるサミュエル・コートールドは、
    イギリスの実業家であり卓越した審美眼を持つコレ
    クターだった。
    コートールド家は古くはフランスで海上輸送業を営んで
    おり17世紀末の宗教戦争をきっかけにイギリスに亡命
    して銀細工を手がけるようになった。
    18世紀末には絹織物業に転身。
    20世紀初頭になると人工のシルク(レーヨン)の製造に
    参入し、巨万の富を築きあげた。
    1921年父親から会長の座を引き継いだのが、
    サミュエル・コートールドだった。

    ロンドンの高級住宅街メリルボーン地区には、コートールドが
    集めた絵画を収めるために、1925年に購入した邸宅がある。
    この館はコートールドがしばしばお客を招いたことから
    名士の社交場と呼ばれていた。当時の写真を見るとリビングの
    壁にはドガの「浴後、体を拭く女」や暖炉のわきにはスーラの
    「化粧する女」が飾られていたのがわかる。
    このようにして、この館のあちらこちらに収集した作品が飾ら
    れていた。

    コートールドの絵画の収集について、この様な逸話が残されて
    います。
    孫アダム・バトラーさんは『祖父は美術商に作品を邸宅まで
    持って来させ、そのまま2、3ヶ月、部屋に置いたままにし、
    その間に館中の壁にかけては購入するかどうかよく吟味して
    いました。「作品が自分に話しかけてくるまでは、心を開いて
    ジッと待っていなければならない」と言うのです。祖父は
    何年も前に購入した作品でも、自宅で向き合い話しをします。
    すると、今まで見えなかったものが見えてくるのだと申してお
    りました』と。

  • 当時のイギリスの美術品収集の国家予算は王立美術院(ロイ<br />ヤルアカデミー)が管理していたが、保守的で国外の近代絵画<br />には興味を示さず印象派や後期印象派の作品も知られていない<br />現状をコートールドは憂いていた。<br />そこで、コートールドは、国のコレクションにも印象派絵画を<br />加えたいと、5万5千ポンドをナショナルギャラリーに寄付し<br />コートールド基金を設立した。<br />この基金によってゴッホの「ひまわり」スーラの「アニエール<br />の水浴」といった傑作を購入。<br />このこともあって印象派を認めていなかった保守的なイギリス<br />美術界に徐々に変化をもたらし始めたが、コートールド美術館<br />館長のエルンスト・ヴェーゲリン氏によれば<br />「1920年代のイギリスでは印象派と後期印象派に対してまだ<br />抵抗を持っていました。ドガやゴーガン、モネなどは、しだいに<br />受け入れられはじめましたが、セザンヌに関しては話しが違いま<br />した。よく言っても単なる下手な画家、悪く言えば詐欺だと、そ<br />んな風に多くの人が思っていました。」と話している。<br />コートールドは、さらに国が美術品を購入する際に予算不足で<br />購入できない時には多額の寄付も行っていた。<br />

    当時のイギリスの美術品収集の国家予算は王立美術院(ロイ
    ヤルアカデミー)が管理していたが、保守的で国外の近代絵画
    には興味を示さず印象派や後期印象派の作品も知られていない
    現状をコートールドは憂いていた。
    そこで、コートールドは、国のコレクションにも印象派絵画を
    加えたいと、5万5千ポンドをナショナルギャラリーに寄付し
    コートールド基金を設立した。
    この基金によってゴッホの「ひまわり」スーラの「アニエール
    の水浴」といった傑作を購入。
    このこともあって印象派を認めていなかった保守的なイギリス
    美術界に徐々に変化をもたらし始めたが、コートールド美術館
    館長のエルンスト・ヴェーゲリン氏によれば
    「1920年代のイギリスでは印象派と後期印象派に対してまだ
    抵抗を持っていました。ドガやゴーガン、モネなどは、しだいに
    受け入れられはじめましたが、セザンヌに関しては話しが違いま
    した。よく言っても単なる下手な画家、悪く言えば詐欺だと、そ
    んな風に多くの人が思っていました。」と話している。
    コートールドは、さらに国が美術品を購入する際に予算不足で
    購入できない時には多額の寄付も行っていた。

  • この頃、コートールドだけでなく、日本の松方幸次郎など世界<br />的に名高い収集家がいて、優れた美術品収集の競争が起きてい<br />た時代だった。コートールドは、将来イギリスの国家的なコレ<br />クションに入れるべき作品を購入した。目指したのは、何から<br />何まで買い漁っていたようなコレクションを行っていたのでは<br />なく、彼なりの明確な基準を持ったコレクターなのだった。<br /><br />1929年になると、ウォール街での株価大暴落の影響をもろ <br />に受け会社は業績を落としさらに妻エリザベスの死も重なり、<br />コートールドの絵画購入は途絶えがちとなった。<br /> しかし、不況の中で新たな試みに着手した。<br />1932年ロンドン大学に美術研究所が創設されると、彼の貴重<br />なコレクションの一部を寄贈し、印象派の名画を飾っていた自宅<br />を開放して美術館を含むコートールド美術研究所を開設。<br />一般に公開するための展示施設として、コートールド美術館は<br />誕生した。<br />こうして、コートールドの願いは結実した。<br />

    この頃、コートールドだけでなく、日本の松方幸次郎など世界
    的に名高い収集家がいて、優れた美術品収集の競争が起きてい
    た時代だった。コートールドは、将来イギリスの国家的なコレ
    クションに入れるべき作品を購入した。目指したのは、何から
    何まで買い漁っていたようなコレクションを行っていたのでは
    なく、彼なりの明確な基準を持ったコレクターなのだった。

    1929年になると、ウォール街での株価大暴落の影響をもろ 
    に受け会社は業績を落としさらに妻エリザベスの死も重なり、
    コートールドの絵画購入は途絶えがちとなった。
     しかし、不況の中で新たな試みに着手した。
    1932年ロンドン大学に美術研究所が創設されると、彼の貴重
    なコレクションの一部を寄贈し、印象派の名画を飾っていた自宅
    を開放して美術館を含むコートールド美術研究所を開設。
    一般に公開するための展示施設として、コートールド美術館は
    誕生した。
    こうして、コートールドの願いは結実した。

  • 【スポットライト マネ】<br />マネは1832年パリで生を受けた。父は法務省の高級官僚で、<br />母はストックホルム駐在の外交官。という裕福な家庭で、2人の<br />弟と共に育った。父は長男のマネに対して当然のように法律家の<br />道を継ぐよう望んでいた。一方、母方の叔父フルニエ大尉は芸術<br />家タイプの人物でマネにデッサンの手ほどきをしたり、マネ三兄<br />弟やマネの中学校の友人で後に美術大臣に就任するプールストを<br />連れ、ルーブル美術館に連れて行ったりしていた。<br /><br />コレージュ(前期中等科)の歴史の授業で、<br />画家の批評を読んだ時、<br />「僕たちは、時代に即していなければならない。<br />流行など気にせず見たままを描かなければならないんだ」<br />と発言したことを、後日プールストの逸話として残されている。<br />中学の頃からすでに絵画に対する骨格ができていた。<br /><br />両親の意向を受け、水兵になる。と父に宣言し海軍兵学校の<br />入試を受け落ちてしまう。<br />1848年12月実習船で船員としてリオデジャネイロへ航海<br />した。後にマネは、この航海を「この旅行でたくさんのもの<br />を得た。連日、昼間の上甲板で水平線をジッと見つめ空の位置<br />を確定する方法を見つけたり、夜の航跡の中に光と影の働きを<br />見た」と、この旅でマネは絵画に対する自己確立をまたひとつ<br />掴んでいた。<br />しかし、この旅でもう一つ、この後、彼の人生を左右する大き<br />な出来事を経験していた。後に発覚することになる梅毒に侵さ<br />れていたことをこの頃はまだ知る由もなかった。<br />1849年6月パリに戻ると、海軍兵学校の入試を再度受ける<br />が、またも落ちてしまった。しかし、母と叔父のとりなしもあ<br />り、マネの父は、芸術家の道を進むことを許した。<br />マネ18歳で、クチュールのアトリエに入り画家への道を本格<br />的に歩き出した。<br /><br />画像『横たわるベルト・モリゾ』1873年<br />       本来なら「オルセー美術館」に登場予定の<br />       作品でしたが、この機をかりて併せて載せてみました。<br />     「オルセー美術館」で、2023.6に写した画像です。

    【スポットライト マネ】
    マネは1832年パリで生を受けた。父は法務省の高級官僚で、
    母はストックホルム駐在の外交官。という裕福な家庭で、2人の
    弟と共に育った。父は長男のマネに対して当然のように法律家の
    道を継ぐよう望んでいた。一方、母方の叔父フルニエ大尉は芸術
    家タイプの人物でマネにデッサンの手ほどきをしたり、マネ三兄
    弟やマネの中学校の友人で後に美術大臣に就任するプールストを
    連れ、ルーブル美術館に連れて行ったりしていた。

    コレージュ(前期中等科)の歴史の授業で、
    画家の批評を読んだ時、
    「僕たちは、時代に即していなければならない。
    流行など気にせず見たままを描かなければならないんだ」
    と発言したことを、後日プールストの逸話として残されている。
    中学の頃からすでに絵画に対する骨格ができていた。

    両親の意向を受け、水兵になる。と父に宣言し海軍兵学校の
    入試を受け落ちてしまう。
    1848年12月実習船で船員としてリオデジャネイロへ航海
    した。後にマネは、この航海を「この旅行でたくさんのもの
    を得た。連日、昼間の上甲板で水平線をジッと見つめ空の位置
    を確定する方法を見つけたり、夜の航跡の中に光と影の働きを
    見た」と、この旅でマネは絵画に対する自己確立をまたひとつ
    掴んでいた。
    しかし、この旅でもう一つ、この後、彼の人生を左右する大き
    な出来事を経験していた。後に発覚することになる梅毒に侵さ
    れていたことをこの頃はまだ知る由もなかった。
    1849年6月パリに戻ると、海軍兵学校の入試を再度受ける
    が、またも落ちてしまった。しかし、母と叔父のとりなしもあ
    り、マネの父は、芸術家の道を進むことを許した。
    マネ18歳で、クチュールのアトリエに入り画家への道を本格
    的に歩き出した。

    画像『横たわるベルト・モリゾ』1873年
    本来なら「オルセー美術館」に登場予定の
    作品でしたが、この機をかりて併せて載せてみました。
    「オルセー美術館」で、2023.6に写した画像です。

  • その頃、友人プルーストと共にドラクロワの元を訪れ模写の<br />許可を取付けたり、2歳年上で弟のピアノ教師シュザンヌ・<br />レーンホフと恋に落ちた。<br />1851月1月  シュザンヌはレオンを出産。厳格なマネの <br />父には秘密にし、シュザンヌの弟として戸籍届けが出された。<br />レオンの父親はマネだとも一説にはマネの父という説もあり<br />定かではない。<br />マネがシュザンヌと正式に結婚をしたのは、父の死後のことと<br />なった。<br />1852年 アムスデルダム国立美術館を訪れる。<br />1853年    フィレンツェからドイツまで足を運んで<br />      各地の美術館を観て回った。<br /><br />厳格な父であったが、その実、愛人を囲う偽善者でもあった。<br />この父に対して愛と憎しみを感じていたマネは派手な女性<br />関係を、あえて隠そうとはしなかったり、サロン(アカデミ<br />ー)への出展にこだわり、入選して父に喜んでもらいたい。<br />と同時に父を見返してたい。との思いを抱いていたという。<br /><br />ルーブル美術館に通い詰めたりしながらも、20代の半ばまで<br />古典の素養に縛られていた。<br />1859年サロンに初めて出展するも落選。<br />しかし、この頃親交のあった詩人で<br />美術評論家としても名を成していた<br />ボードレールからは評価された。<br />ボードレールとの会いがマネの画風に少なからず影響を与えた。<br />そして、マネは、伝統的な絵画を否定した作風で<br />「草上の昼食」「オランピア」など作品を次々と発表してゆく。<br /><br />画像『画家 マルスラン・デブータンの肖像』<br />1875年<br /><br />ここに描かれているモデルの画家デブータンこそ<br />若い頃のモネをアトリエから連れ出して、自然を<br />その場で描くことを教えた。<br /><br />オルセー美術館(2023.6)撮影<br />サンパウロ美術館から、貸し出されて展示か。<br />

    その頃、友人プルーストと共にドラクロワの元を訪れ模写の
    許可を取付けたり、2歳年上で弟のピアノ教師シュザンヌ・
    レーンホフと恋に落ちた。
    1851月1月 シュザンヌはレオンを出産。厳格なマネの 
    父には秘密にし、シュザンヌの弟として戸籍届けが出された。
    レオンの父親はマネだとも一説にはマネの父という説もあり
    定かではない。
    マネがシュザンヌと正式に結婚をしたのは、父の死後のことと
    なった。
    1852年 アムスデルダム国立美術館を訪れる。
    1853年 フィレンツェからドイツまで足を運んで
          各地の美術館を観て回った。

    厳格な父であったが、その実、愛人を囲う偽善者でもあった。
    この父に対して愛と憎しみを感じていたマネは派手な女性
    関係を、あえて隠そうとはしなかったり、サロン(アカデミ
    ー)への出展にこだわり、入選して父に喜んでもらいたい。
    と同時に父を見返してたい。との思いを抱いていたという。

    ルーブル美術館に通い詰めたりしながらも、20代の半ばまで
    古典の素養に縛られていた。
    1859年サロンに初めて出展するも落選。
    しかし、この頃親交のあった詩人で
    美術評論家としても名を成していた
    ボードレールからは評価された。
    ボードレールとの会いがマネの画風に少なからず影響を与えた。
    そして、マネは、伝統的な絵画を否定した作風で
    「草上の昼食」「オランピア」など作品を次々と発表してゆく。

    画像『画家 マルスラン・デブータンの肖像』
    1875年

    ここに描かれているモデルの画家デブータンこそ
    若い頃のモネをアトリエから連れ出して、自然を
    その場で描くことを教えた。

    オルセー美術館(2023.6)撮影
    サンパウロ美術館から、貸し出されて展示か。

  • 印象派の始まりというと「第一回印象派展〈1874年〉」<br />という事だが、マネは、それ以前10年程前から印象派的<br />手法で油彩画を描いていた。<br />1862年「扇をもつ女」では、大胆な〈切り取りの構図〉<br />や〈筆触〉による表現に表れているのだが、サロンに出展し<br />た際には、「中心がない。色彩が暴力的。これはただのスケ<br />ッチだ」など散々だった。<br />そしてマネはベラスケスなどから学んで伝統的なグラデーシ<br />ョンによる明暗ではなく、筆触の目立つ描き方を用い立体感<br />を出したり、時には過去の名画の構図を採り入れるなど革新<br />性とも言える志向で伝統的なアカデミズムとも向き合っていた。<br /><br />そんなマネの元には、マネを慕うドガ、ルノワール、シスレー、<br />モネ、セザンヌ、ピサロなど多くの若手がアトリエ近くのカフ<br />ェに集まっては日夜熱い芸術論で盛り上がっていた。<br />友人であり同志でもあった彼らより、10歳ほど年上で親分<br />肌だったマネは、裕福な家庭だったこともあり、まだ貧困の中<br />にあった若手の画家たちの援助の手を差し伸べていた。<br />そして中でも、極貧だったモネの面倒をよくみていた。<br /><br />マネの描くこれまでの作品を観てきた彼らから「印象派展」へ<br />作品を出展するようの熱心な誘いがあったが、ひたすら拒み<br />続けあくまでもサロンの評価にこだわっていた。<br />と、言うのも、先にマネの生い立ちで触れているが、厳格な<br />父親は、サロン(アカデミー)しか認めておらず、自作が<br />そのサロンで認められることは、すなわち父に自分の存在と <br />父の推す法律家の道を拒み画家の道へと進んだマネの画力を<br />認めさせたかった。と思われる。<br /><br />画像『パティニョールのアトリエ』  1870年<br />アンリ・ファンタン=ラトゥール<br />オルセー美術館(2023.6)撮影<br />

    印象派の始まりというと「第一回印象派展〈1874年〉」
    という事だが、マネは、それ以前10年程前から印象派的
    手法で油彩画を描いていた。
    1862年「扇をもつ女」では、大胆な〈切り取りの構図〉
    や〈筆触〉による表現に表れているのだが、サロンに出展し
    た際には、「中心がない。色彩が暴力的。これはただのスケ
    ッチだ」など散々だった。
    そしてマネはベラスケスなどから学んで伝統的なグラデーシ
    ョンによる明暗ではなく、筆触の目立つ描き方を用い立体感
    を出したり、時には過去の名画の構図を採り入れるなど革新
    性とも言える志向で伝統的なアカデミズムとも向き合っていた。

    そんなマネの元には、マネを慕うドガ、ルノワール、シスレー、
    モネ、セザンヌ、ピサロなど多くの若手がアトリエ近くのカフ
    ェに集まっては日夜熱い芸術論で盛り上がっていた。
    友人であり同志でもあった彼らより、10歳ほど年上で親分
    肌だったマネは、裕福な家庭だったこともあり、まだ貧困の中
    にあった若手の画家たちの援助の手を差し伸べていた。
    そして中でも、極貧だったモネの面倒をよくみていた。

    マネの描くこれまでの作品を観てきた彼らから「印象派展」へ
    作品を出展するようの熱心な誘いがあったが、ひたすら拒み
    続けあくまでもサロンの評価にこだわっていた。
    と、言うのも、先にマネの生い立ちで触れているが、厳格な
    父親は、サロン(アカデミー)しか認めておらず、自作が
    そのサロンで認められることは、すなわち父に自分の存在と 
    父の推す法律家の道を拒み画家の道へと進んだマネの画力を
    認めさせたかった。と思われる。

    画像『パティニョールのアトリエ』  1870年
    アンリ・ファンタン=ラトゥール
    オルセー美術館(2023.6)撮影

  • それでは、父親のこだわった「サロン」と「印象派展」の<br />二つの作品展を比較してみよう。<br />「第一回印象派展」1874年4.15~5.15 (30日間)<br />   30名の画家が、165作品を展示<br />   来場者数3,500人<br />「サロン」〈大規模公募展〉1874年5.1~6.9(40日間)<br />              参加画家数は不明 展示作品数 3,657作品を展示<br />   来場者数50万人<br />このように、単純比較だが、作品展の規模をみると、今まさに<br />帆をあげたばかりの「印象派」を保守的な父親は認めえなかった<br />のだった。<br /><br />印象派とは距離を置いていたマネだか、その手法は印象派の先駆<br />者とも言われている所以だ。その作品は、、印象派の手法である<br />「ありのまま描く」「色彩で表現する」「光の移ろいを描く」を<br />使って描かれている。そんなマネだが、印象派の父の存在にもか<br />かわらず、生涯、印象派展には出展することがなかったため印象<br />派には括ることはできない。<br /><br />この後も、マネは、数々の名画を描き続けてゆきます。<br />個別の作品については作品の画像でピンスポットを当ててみます。<br />また、この機に、本来なら「オルセー美術館」に登場予定の一部<br />作品を、併せて載せてみました。<br />これらは、「オルセー美術館」で、2023.6に写した画像です。<br /><br />画像『シャボン玉を吹く少年』  1867年<br />2023.6  オルセー美術館で撮影<br />グルベンキアン美術館から貸し出されて展示か。

    それでは、父親のこだわった「サロン」と「印象派展」の
    二つの作品展を比較してみよう。
    「第一回印象派展」1874年4.15~5.15 (30日間)
       30名の画家が、165作品を展示
       来場者数3,500人
    「サロン」〈大規模公募展〉1874年5.1~6.9(40日間)
    参加画家数は不明 展示作品数 3,657作品を展示
       来場者数50万人
    このように、単純比較だが、作品展の規模をみると、今まさに
    帆をあげたばかりの「印象派」を保守的な父親は認めえなかった
    のだった。

    印象派とは距離を置いていたマネだか、その手法は印象派の先駆
    者とも言われている所以だ。その作品は、、印象派の手法である
    「ありのまま描く」「色彩で表現する」「光の移ろいを描く」を
    使って描かれている。そんなマネだが、印象派の父の存在にもか
    かわらず、生涯、印象派展には出展することがなかったため印象
    派には括ることはできない。

    この後も、マネは、数々の名画を描き続けてゆきます。
    個別の作品については作品の画像でピンスポットを当ててみます。
    また、この機に、本来なら「オルセー美術館」に登場予定の一部
    作品を、併せて載せてみました。
    これらは、「オルセー美術館」で、2023.6に写した画像です。

    画像『シャボン玉を吹く少年』  1867年
    2023.6 オルセー美術館で撮影
    グルベンキアン美術館から貸し出されて展示か。

  • そして、時は流れ<br />51歳の時、運動失調症による壊疽で左足を膝下から切断し治療<br />を行っていたが、11日後死亡したとされる。<br />これは、若き日ブラジルへの航海時にかかった梅毒によるものと、<br />伝えられているが、マネの作品のファンとしては、なんとも口惜<br />い。<br />晩年になっても何かしら革新的な手法を取り入れた作品作りをし<br />〈あの街から〉お気に入りの画家の一人です。<br />もっともっと新作を描いて観せてもらいたかった。<br /><br />画像『剣を持つ少年』 1867年<br />オルセー美術館 2023.6撮影<br />『シャボン玉を吹く少年』と同様に<br />モデルは、マネの息子とも言われている<br />レオン<br />〈メトロポリタン美術館から貸し出されて展示か〉

    そして、時は流れ
    51歳の時、運動失調症による壊疽で左足を膝下から切断し治療
    を行っていたが、11日後死亡したとされる。
    これは、若き日ブラジルへの航海時にかかった梅毒によるものと、
    伝えられているが、マネの作品のファンとしては、なんとも口惜
    い。
    晩年になっても何かしら革新的な手法を取り入れた作品作りをし
    〈あの街から〉お気に入りの画家の一人です。
    もっともっと新作を描いて観せてもらいたかった。

    画像『剣を持つ少年』 1867年
    オルセー美術館 2023.6撮影
    『シャボン玉を吹く少年』と同様に
    モデルは、マネの息子とも言われている
    レオン
    〈メトロポリタン美術館から貸し出されて展示か〉

  • ~  ~  ~<br />マネは、数々の名画を描き続けてゆきます。<br />この後 個別の作品については作品の画像ごと<br />ピンスポットを当て進みます。<br /><br />『フォーリー=ベルジェールのバー』<br /> 1882年<br /> エドゥワール・マネ<br /><br />マネがこの作品を描いたのは、マネの死の前年のことであり<br />この頃ステッキがないと歩けない程体調を崩し療養と制作を<br />繰り返す日々だった。しかし、彼は痛む足を引きずりながら<br />通い、構想を練り、ついに、彼のキャリアの集大成ともいえ<br />る本作品を完成させた。<br /><br />パリ9区のミュージックホール「フォーリー=ベルジェール」<br />では、楽団と歌手、奇術やアクロバットやオペレッタまで毎夜<br />繰り広げられていた。この舞台には、チャップリンやジャン・<br />ギャバンなども出演したという。当時の一般的な労働者の日給<br />が平均3フランだったこの頃、3階自由席の料金が2フランと<br />いい、安酒場とは一線をかくした人気の劇場は、労働者から新<br />興ブルジョワまで集まる巨大な社交場。<br />バーカウンターの中から虚な視線を送る女性バーテンダー。<br />その後ろにある大きな鏡にはホールで楽しむ人たちが映り出さ<br />れている。しかし、そこに描かれているバーテンダーと帽子を<br />被った男性やカウンターに置いてあるボトルなどの位置などが<br />不自然な描き方になっている。<br />1882年出展した当時、批評家から女性の表情について、<br />「悲しそうだ」「退屈している」「すねている」そうかと言えば<br />「明るく生き生きとしている」など、様々な論評が出た。<br /><br />写真や映像がない時代目の前の世界を残す方法は絵画しかなかった。<br />その為、絵画には正確な空間描写が必要とされていた。<br />しかし、19世紀中頃にカメラが実用化されるとこの新しい技術が<br />絵画を写実から解放した。<br />マネは、現実に忠実に描くことにこだわらず、新しい表現にチャ<br />レンジした。この作品でも、彼はわざと鏡に映る男女の姿をずら<br />して描くことで安定した構図とし女性バーテンダーの存在を際立<br />たせることに成功した。

    イチオシ

    ~  ~  ~
    マネは、数々の名画を描き続けてゆきます。
    この後 個別の作品については作品の画像ごと
    ピンスポットを当て進みます。

    『フォーリー=ベルジェールのバー』
     1882年
     エドゥワール・マネ

    マネがこの作品を描いたのは、マネの死の前年のことであり
    この頃ステッキがないと歩けない程体調を崩し療養と制作を
    繰り返す日々だった。しかし、彼は痛む足を引きずりながら
    通い、構想を練り、ついに、彼のキャリアの集大成ともいえ
    る本作品を完成させた。

    パリ9区のミュージックホール「フォーリー=ベルジェール」
    では、楽団と歌手、奇術やアクロバットやオペレッタまで毎夜
    繰り広げられていた。この舞台には、チャップリンやジャン・
    ギャバンなども出演したという。当時の一般的な労働者の日給
    が平均3フランだったこの頃、3階自由席の料金が2フランと
    いい、安酒場とは一線をかくした人気の劇場は、労働者から新
    興ブルジョワまで集まる巨大な社交場。
    バーカウンターの中から虚な視線を送る女性バーテンダー。
    その後ろにある大きな鏡にはホールで楽しむ人たちが映り出さ
    れている。しかし、そこに描かれているバーテンダーと帽子を
    被った男性やカウンターに置いてあるボトルなどの位置などが
    不自然な描き方になっている。
    1882年出展した当時、批評家から女性の表情について、
    「悲しそうだ」「退屈している」「すねている」そうかと言えば
    「明るく生き生きとしている」など、様々な論評が出た。

    写真や映像がない時代目の前の世界を残す方法は絵画しかなかった。
    その為、絵画には正確な空間描写が必要とされていた。
    しかし、19世紀中頃にカメラが実用化されるとこの新しい技術が
    絵画を写実から解放した。
    マネは、現実に忠実に描くことにこだわらず、新しい表現にチャ
    レンジした。この作品でも、彼はわざと鏡に映る男女の姿をずら
    して描くことで安定した構図とし女性バーテンダーの存在を際立
    たせることに成功した。

  • 『草上の昼食』<br /> 1863年 <br /> エドゥアール・マネ<br /><br />この作品が出展年のサロンへの出展作品がかなりの数に登り<br />落選した作品の中から選りすぐった作品の<br />〈落選展〉を開催されることとなった。<br />時に、フランスでは2度の大きな革命が起こった後で、ナポ<br />レオン3世が帝政に戻した。このことから世の中は、相当保<br />守回帰を呈していた。<br />そんな頃、マネは、ラファエロの版画を元に古典的な構図で<br />描いた作品だが、女性を裸婦として描きスキャンダルとなっ<br />た。それまで、ヌードは宗教画と神話画でのみ描く。という<br />暗黙のルール破ったのだ。そればかりか、当時高級娼婦を連<br />れてのピクニックすることは、風俗に反すると各方面から厳<br />しい糾弾を受けた。

    イチオシ

    『草上の昼食』
     1863年 
     エドゥアール・マネ

    この作品が出展年のサロンへの出展作品がかなりの数に登り
    落選した作品の中から選りすぐった作品の
    〈落選展〉を開催されることとなった。
    時に、フランスでは2度の大きな革命が起こった後で、ナポ
    レオン3世が帝政に戻した。このことから世の中は、相当保
    守回帰を呈していた。
    そんな頃、マネは、ラファエロの版画を元に古典的な構図で
    描いた作品だが、女性を裸婦として描きスキャンダルとなっ
    た。それまで、ヌードは宗教画と神話画でのみ描く。という
    暗黙のルール破ったのだ。そればかりか、当時高級娼婦を連
    れてのピクニックすることは、風俗に反すると各方面から厳
    しい糾弾を受けた。

  • しかし、このことで、主題に対するタブーを取り除かれて、<br />自由な主題を描く姿勢は、印象派の画家たちに大きな衝撃と<br />その後彼らの描く作品に大きな影響を与えた。<br />そして、マネと印象派は古典的な宗教画や歴史画から離れて<br />ゆき、急速に流行していた都市生活の戸外でのレジャーや<br />カフェ、オペラ座などをテーマに選んだ。<br />生粋のパリジャンのマネは都会のセンスと自然への羨望眼を<br />併せ持ちこれら、テーマは〈もってこい〉といった心境だっ<br />たと、思われる。<br /><br />※ラファエロの版画とは〈パリスの審判〉1517年~20年<br /> 

    しかし、このことで、主題に対するタブーを取り除かれて、
    自由な主題を描く姿勢は、印象派の画家たちに大きな衝撃と
    その後彼らの描く作品に大きな影響を与えた。
    そして、マネと印象派は古典的な宗教画や歴史画から離れて
    ゆき、急速に流行していた都市生活の戸外でのレジャーや
    カフェ、オペラ座などをテーマに選んだ。
    生粋のパリジャンのマネは都会のセンスと自然への羨望眼を
    併せ持ちこれら、テーマは〈もってこい〉といった心境だっ
    たと、思われる。

    ※ラファエロの版画とは〈パリスの審判〉1517年~20年
     

  • 『オランピア』 1863年<br />オルセー美術館 <br />2023.6  撮影<br /><br />「草上の昼食」の2年後、1865年のサロンで入選した<br />作品で、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の<br />構図を元にしてヌードを描いたもの。<br />ティツィアーノに描かれている奥行き感はない。また侍女<br />が黒人になっているが、この頃、植民地となった北アフリカ<br />から大勢の黒人が家政婦としてパリで雇われていた。<br />侍女は花束を持っているが、それは客から贈られたもの。<br />裸婦は当時パリでもてはやされた高級娼婦だからである。<br />こちらを強い眼差しで見ている裸婦はむしろ挑戦的で<br />官能性はあまり感じられない。<br />贈られた花へ向けて、「花束なンか」とでも<br />言っているかのように、見向こうともしていない。<br />高収入の娼婦は上流階級が自慢する黒人の家政婦を<br />はべらせて「どう」と言っているようだ。<br />この裸婦の平面的な肉体表現。西洋画の伝統では、肉体の凹凸<br />を強調するために陰影をつけるが、マネは、伝統とは正反対の<br />描き方をしている。これは当時の日本美術の影響がうかがえる。<br />他にも、明瞭な色彩や背景の単純化など、次々に新しい手法を<br />取り入れ、こうした手法は、印象派だけでなく、20世紀の<br />画家たちに受け継がれていった。<br /><br />

    『オランピア』 1863年
    オルセー美術館 
    2023.6 撮影

    「草上の昼食」の2年後、1865年のサロンで入選した
    作品で、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の
    構図を元にしてヌードを描いたもの。
    ティツィアーノに描かれている奥行き感はない。また侍女
    が黒人になっているが、この頃、植民地となった北アフリカ
    から大勢の黒人が家政婦としてパリで雇われていた。
    侍女は花束を持っているが、それは客から贈られたもの。
    裸婦は当時パリでもてはやされた高級娼婦だからである。
    こちらを強い眼差しで見ている裸婦はむしろ挑戦的で
    官能性はあまり感じられない。
    贈られた花へ向けて、「花束なンか」とでも
    言っているかのように、見向こうともしていない。
    高収入の娼婦は上流階級が自慢する黒人の家政婦を
    はべらせて「どう」と言っているようだ。
    この裸婦の平面的な肉体表現。西洋画の伝統では、肉体の凹凸
    を強調するために陰影をつけるが、マネは、伝統とは正反対の
    描き方をしている。これは当時の日本美術の影響がうかがえる。
    他にも、明瞭な色彩や背景の単純化など、次々に新しい手法を
    取り入れ、こうした手法は、印象派だけでなく、20世紀の
    画家たちに受け継がれていった。

  • 『バルコニー』 1868年~69年<br />オルセー美術館<br />2023.6   撮影<br /><br />『バルコニー』(1868年-69年頃)<br />               オルセー美術館展示作品<br /><br />前二作「草上の昼食」「オランピア」から5年後のパリ。<br />ナポレオン3世による、新パリが誕生し市内には高級アパ<br />ルドマンが次々と建設されていた。産業革命を経て新しい<br />富裕層がアーバンライフを享受していた。<br />そんなアパルトマンのバルコニーでの夕方のひと時を描い<br />ている。<br />3人の男女が屋外を見ている。しかし、視線が交わること<br />はない。2人の女性のファッションに目をやると手に持っ<br />ている日傘と扇。バルコニーの鮮やかな緑。このように<br />都市生活の憂愁や倦怠感を描いた作品は<br />20世紀になると、アメリカのエドワード・ホッパーらが<br />多く描いているが、19世紀中頃この様を見事に表現した<br />マネの先見性をみることができる。<br /><br />また、この作品では、ゴヤの「バルコニーのマハたち」の<br />構図を念頭に置いたものと、いわれている。

    イチオシ

    『バルコニー』 1868年~69年
    オルセー美術館
    2023.6 撮影

    『バルコニー』(1868年-69年頃)
                   オルセー美術館展示作品

    前二作「草上の昼食」「オランピア」から5年後のパリ。
    ナポレオン3世による、新パリが誕生し市内には高級アパ
    ルドマンが次々と建設されていた。産業革命を経て新しい
    富裕層がアーバンライフを享受していた。
    そんなアパルトマンのバルコニーでの夕方のひと時を描い
    ている。
    3人の男女が屋外を見ている。しかし、視線が交わること
    はない。2人の女性のファッションに目をやると手に持っ
    ている日傘と扇。バルコニーの鮮やかな緑。このように
    都市生活の憂愁や倦怠感を描いた作品は
    20世紀になると、アメリカのエドワード・ホッパーらが
    多く描いているが、19世紀中頃この様を見事に表現した
    マネの先見性をみることができる。

    また、この作品では、ゴヤの「バルコニーのマハたち」の
    構図を念頭に置いたものと、いわれている。

  • 『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』<br />     (1872年)     <br /> オルセー美術館  2023.6撮影<br /><br />「バルコニー」からさらに3年後発表した<br />ベルト・モリゾの肖像画です。<br />マネは、彼女の美貌を愛していて、<br />この頃彼女をモデルとした作品を何枚も描いている。<br />ベルト・モリゾがマネの弟ウジェーヌと結婚した<br />丁度その頃の作品。<br />〈黒〉の使い方が際立っていて、これぞマネ!<br />と思える作品で、黒一色の中にモリゾの桜色の肌が輝いている。<br />背景は、印象派の命ともとれる同系色の筆触。<br />マネの絵画がここにあり。<br />と観ていると思わず微笑んでしまう。<br /><br />  <br />

    『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』
         (1872年)     
     オルセー美術館  2023.6撮影

    「バルコニー」からさらに3年後発表した
    ベルト・モリゾの肖像画です。
    マネは、彼女の美貌を愛していて、
    この頃彼女をモデルとした作品を何枚も描いている。
    ベルト・モリゾがマネの弟ウジェーヌと結婚した
    丁度その頃の作品。
    〈黒〉の使い方が際立っていて、これぞマネ!
    と思える作品で、黒一色の中にモリゾの桜色の肌が輝いている。
    背景は、印象派の命ともとれる同系色の筆触。
    マネの絵画がここにあり。
    と観ていると思わず微笑んでしまう。


  • 『アルジャントゥイユのセーヌ河岸』<br /> 1874年<br /> エドウアール・マネ<br /><br />19世紀後半余暇を楽しむ時間を得たパリの中産階級の人々は<br />休みになると大都市パリを離れ、自然の多く残る郊外の町へと<br />出かけて行った。作品の舞台となったアルジャントゥイユもそ<br />うした町のひとつでセーヌ川での舟遊びや岸辺の散策を楽しみ<br />に訪れる人々でにぎわった。<br /><br />若い頃から親交のあったマネとモネだが、1874年の夏<br />マネが描いたモネの妻カミーユと息子ジャンが描かれている。<br />印象派には参加しなかったマネだがこの作品では、モネ<br />の影響もあり印象派の光や色合いなどの表現が見らる。

    イチオシ

    『アルジャントゥイユのセーヌ河岸』
     1874年
     エドウアール・マネ

    19世紀後半余暇を楽しむ時間を得たパリの中産階級の人々は
    休みになると大都市パリを離れ、自然の多く残る郊外の町へと
    出かけて行った。作品の舞台となったアルジャントゥイユもそ
    うした町のひとつでセーヌ川での舟遊びや岸辺の散策を楽しみ
    に訪れる人々でにぎわった。

    若い頃から親交のあったマネとモネだが、1874年の夏
    マネが描いたモネの妻カミーユと息子ジャンが描かれている。
    印象派には参加しなかったマネだがこの作品では、モネ
    の影響もあり印象派の光や色合いなどの表現が見らる。

  • 次に登場しますのは<br />『桟敷席』  1874年 <br /> ピエール=オーギュスト・ルノワール<br /><br />第一回印象派展の出展作品で、酷評も受けたが<br />ルノワールが注目されることになった作品である。<br />この作品がなければ出世作といわれている<br />「シャルパンティエ夫人と子どもたち」<br />〈1878年〉を描くことはなかったと思われる。<br />ルノワールは、こうした美しい肖像画を描くだけの人気画家<br />として終わってしまうことを恐れ、後に同様の絵のオファー<br />に対して『又、「桟敷席」のような絵を描けというのか』と<br />言って苛立つこともあったという。<br />それ程「桟敷席」の絵は評判が高かったのだ。<br /><br />印象派は、〈黒〉という色を嫌ったにもかかわらず、記念すべ<br />し印象派の第一回展でルノワールは、あえて〈黒〉を用いて成<br />功した。おそらくは、〈黒〉の効果的な使い方は、[マネ]に<br />学んだものだろうと思われる。<br />

    次に登場しますのは
    『桟敷席』  1874年 
     ピエール=オーギュスト・ルノワール

    第一回印象派展の出展作品で、酷評も受けたが
    ルノワールが注目されることになった作品である。
    この作品がなければ出世作といわれている
    「シャルパンティエ夫人と子どもたち」
    〈1878年〉を描くことはなかったと思われる。
    ルノワールは、こうした美しい肖像画を描くだけの人気画家
    として終わってしまうことを恐れ、後に同様の絵のオファー
    に対して『又、「桟敷席」のような絵を描けというのか』と
    言って苛立つこともあったという。
    それ程「桟敷席」の絵は評判が高かったのだ。

    印象派は、〈黒〉という色を嫌ったにもかかわらず、記念すべ
    し印象派の第一回展でルノワールは、あえて〈黒〉を用いて成
    功した。おそらくは、〈黒〉の効果的な使い方は、[マネ]に
    学んだものだろうと思われる。

  • 『春、シャトゥー』<br /> 1873年頃<br /> ピエール=オーギュスト・ルノワール<br /><br /> ルノワールは、弱冠23歳でサロンの入選を果たす。<br />印象主義だった時期は、せいぜい10年程<br />彼は78年の生涯だったので、人生のほんの一時期だった。<br /><br />この作品は、先に登場したアルジャントゥイユの町と同様に<br />パリから西へ14km程にある町で週末にはパリから訪れる<br />人々でにぎわう町のひとつだ。シャトー付近ではセーヌ川に<br />ボート遊びを楽しむ人々がたくさん訪れていた。<br />穏やかなこの地の様子を気に入ったルノワールは1870年代<br />の中頃からよく通って、郊外の自然とそれを楽しむ人々を描い<br />ていた。<br />中洲があり2つに分かれて川巾が狭くなっていて一見するとよく<br />見かける岸辺の風景に見えるが、その構成は入念で、野原の左右 <br />に配置された2本の木々が導線となって野原へと目を向けさせ奥<br />の茂み、さらにはセーヌ川へと視線を誘導する。陽光が射す野原<br />は緑のグラデーションが美しい。

    『春、シャトゥー』
     1873年頃
     ピエール=オーギュスト・ルノワール

     ルノワールは、弱冠23歳でサロンの入選を果たす。
    印象主義だった時期は、せいぜい10年程
    彼は78年の生涯だったので、人生のほんの一時期だった。

    この作品は、先に登場したアルジャントゥイユの町と同様に
    パリから西へ14km程にある町で週末にはパリから訪れる
    人々でにぎわう町のひとつだ。シャトー付近ではセーヌ川に
    ボート遊びを楽しむ人々がたくさん訪れていた。
    穏やかなこの地の様子を気に入ったルノワールは1870年代
    の中頃からよく通って、郊外の自然とそれを楽しむ人々を描い
    ていた。
    中洲があり2つに分かれて川巾が狭くなっていて一見するとよく
    見かける岸辺の風景に見えるが、その構成は入念で、野原の左右 
    に配置された2本の木々が導線となって野原へと目を向けさせ奥
    の茂み、さらにはセーヌ川へと視線を誘導する。陽光が射す野原
    は緑のグラデーションが美しい。

  • 『花瓶』<br /> 1881年-82<br /> クロード・モネ<br /><br />花瓶とそこに活けられた花を描いた静物画である。<br />彼は、1878年から1882年にかけて静物画を描き続けた。<br />この頃、ヴェトゥイユに移住し破産したパトロンのオシュデ夫妻<br />と6人の子供を引き取り、妻と2人の子どもと12人の大家族と<br />共に暮らしていた。<br />2人目の子供を出産後、病弱な妻はオシュデの妻アリスの看病を<br />受けるも、翌年死去。モネは、精神的にも経済的にもつらい時期<br />であった。<br />そのような時期、風景画より静物画の方が売却しやすく、高値<br />で売れたこともあり生活を支える術だったと思われる。<br />

    『花瓶』
     1881年-82
     クロード・モネ

    花瓶とそこに活けられた花を描いた静物画である。
    彼は、1878年から1882年にかけて静物画を描き続けた。
    この頃、ヴェトゥイユに移住し破産したパトロンのオシュデ夫妻
    と6人の子供を引き取り、妻と2人の子どもと12人の大家族と
    共に暮らしていた。
    2人目の子供を出産後、病弱な妻はオシュデの妻アリスの看病を
    受けるも、翌年死去。モネは、精神的にも経済的にもつらい時期
    であった。
    そのような時期、風景画より静物画の方が売却しやすく、高値
    で売れたこともあり生活を支える術だったと思われる。

  • 『アンティーブ』<br /> 1888年<br /> クロード・モネ<br /><br />1888年に南仏コートダジュールのアンティーブ滞在。<br />その風景画を描き30点程の作品を描いた。<br />その中の1点である。<br />主題的なモチーフとして中央にある1本の木の存在が近景<br />と中景そして遠景を強く印象つける役割りを果たしている。<br />これは、葛飾北斎の〈冨嶽三十六景 駿州江尻〉などで描<br />いた遠近法に通じるとされ、この画法を自在に使いこなせた<br />モネがいかに浮世絵に造詣が深かったのかを表している。<br /> この頃になると既にジベルニーに居を構え作品は画商<br />デュラン=デュエルを通して作品が、アメリカでも売買され<br />経済的な余裕を持てる様になっており制作のため欧州各地を<br />旅することもあった。<br /><br /> <br />

    『アンティーブ』
     1888年
     クロード・モネ

    1888年に南仏コートダジュールのアンティーブ滞在。
    その風景画を描き30点程の作品を描いた。
    その中の1点である。
    主題的なモチーフとして中央にある1本の木の存在が近景
    と中景そして遠景を強く印象つける役割りを果たしている。
    これは、葛飾北斎の〈冨嶽三十六景 駿州江尻〉などで描
    いた遠近法に通じるとされ、この画法を自在に使いこなせた
    モネがいかに浮世絵に造詣が深かったのかを表している。
     この頃になると既にジベルニーに居を構え作品は画商
    デュラン=デュエルを通して作品が、アメリカでも売買され
    経済的な余裕を持てる様になっており制作のため欧州各地を
    旅することもあった。

     

  • 『舞台上の二人の踊り子』<br /> 1874年<br /> エドガー・ドガ<br /><br />踊り子に魅力されたドガは、あらゆる場面の踊り子を描いた。<br />そして、バレーに関わる多くの作品を残している。<br />この作品もその中の一枚である。<br />この場面は、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の<br />幕間に上演される〈薔薇の踊り〉を舞っている2人の踊り子<br />が描かれている。<br /><br />ドガは、貴族の血を引く富豪の家に生まれ一生食べるに困らな<br />い人生だった。その一方で内向的で人付き合いが苦手という性<br />格で、ものを斜めに見るような人であったといわれている。<br />もちろん印象派の中心人物の一人であり8回中7回も印象派展に<br />出展している。第一回から実行委員として積極的に参画していた。<br />彼は、その出身といい、尊敬するアングルとの関係からみても<br />古典的な方向へ行ってもおかしくなかったが、印象派に加わった<br />のは若い頃ルーブル美術館で、マネと出会い意気投合したからだ<br />った。<br />アメリカ人で優れた印象派の画家だったメアリー・カサットと<br />噂があったが、結婚までには至らずじまい。<br />生涯人付き合いは苦手だった。<br /><br />

    『舞台上の二人の踊り子』
     1874年
     エドガー・ドガ

    踊り子に魅力されたドガは、あらゆる場面の踊り子を描いた。
    そして、バレーに関わる多くの作品を残している。
    この作品もその中の一枚である。
    この場面は、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の
    幕間に上演される〈薔薇の踊り〉を舞っている2人の踊り子
    が描かれている。

    ドガは、貴族の血を引く富豪の家に生まれ一生食べるに困らな
    い人生だった。その一方で内向的で人付き合いが苦手という性
    格で、ものを斜めに見るような人であったといわれている。
    もちろん印象派の中心人物の一人であり8回中7回も印象派展に
    出展している。第一回から実行委員として積極的に参画していた。
    彼は、その出身といい、尊敬するアングルとの関係からみても
    古典的な方向へ行ってもおかしくなかったが、印象派に加わった
    のは若い頃ルーブル美術館で、マネと出会い意気投合したからだ
    った。
    アメリカ人で優れた印象派の画家だったメアリー・カサットと
    噂があったが、結婚までには至らずじまい。
    生涯人付き合いは苦手だった。

  • 『ジャス・ド・ブッファンの高い木々』<br /> 1883年頃<br /> ポール・セザンヌ<br /><br />マルセイユの北に位置するエクサン=プロヴァンスに<br />ジャス・ド・ブッファンはある。<br />銀行家として成功したセザンヌの父親がその地に別荘を持って<br />いたことから、セザンヌはこの地で多くの風景画を描いている。<br />

    『ジャス・ド・ブッファンの高い木々』
     1883年頃
     ポール・セザンヌ

    マルセイユの北に位置するエクサン=プロヴァンスに
    ジャス・ド・ブッファンはある。
    銀行家として成功したセザンヌの父親がその地に別荘を持って
    いたことから、セザンヌはこの地で多くの風景画を描いている。

  • 『大きな松のあるサント=ヴィクトワール山』<br /> 1887年頃<br /> ポール・セザンヌ<br /><br />サント・ヴィクトワール山は、プロバンスの東にそびえる山で<br />紀元前102年北方からの侵略者に古代ローマが勝利したこと<br />にちなみサント・ヴィクトワール〈聖なる勝利〉と名づけられた。<br /><br />セザンヌがこの地を象徴する山を30点以上の油彩画のほか<br />素描や水彩画にも繰り返し描いた。<br />

    『大きな松のあるサント=ヴィクトワール山』
     1887年頃
     ポール・セザンヌ

    サント・ヴィクトワール山は、プロバンスの東にそびえる山で
    紀元前102年北方からの侵略者に古代ローマが勝利したこと
    にちなみサント・ヴィクトワール〈聖なる勝利〉と名づけられた。

    セザンヌがこの地を象徴する山を30点以上の油彩画のほか
    素描や水彩画にも繰り返し描いた。

  • 『鉢植えの花と果物』<br /> 1888年=90<br /> ポール・セザンヌ<br /><br />この作品は、コートールド邸の客間に飾られていた。写真が残さ<br />れている。<br />セザンヌは花を描いた作品をあまり残していないが、「花を描く<br />ことをあきらめた。直ぐに萎れてしまう。果物は、より信頼でき<br />る」と話している。<br />

    『鉢植えの花と果物』
     1888年=90
     ポール・セザンヌ

    この作品は、コートールド邸の客間に飾られていた。写真が残さ
    れている。
    セザンヌは花を描いた作品をあまり残していないが、「花を描く
    ことをあきらめた。直ぐに萎れてしまう。果物は、より信頼でき
    る」と話している。

  • 『パイプをくわえた男』<br />1892年-96<br /> ポール・セザンヌ<br /><br />プロヴァンスのジャス・ド・ブッファンにあるセザンヌ家の<br />別荘で働く男性はパイプをくわえ肩を落としやや前かがみに<br />描かれている。<br />

    『パイプをくわえた男』
    1892年-96
     ポール・セザンヌ

    プロヴァンスのジャス・ド・ブッファンにあるセザンヌ家の
    別荘で働く男性はパイプをくわえ肩を落としやや前かがみに
    描かれている。

  • 『カード遊びをする人々』<br /> 1892年=96<br /> ポール・セザンヌ<br /><br />「パイプをくわえた男」と同時期に描かれた作品。<br />西洋絵画では、<br />キリスト教の知識がないと描けない宗教画や<br />神話の教養が必要とされる。<br />歴史画が最上位とされた。<br />セザンヌが描いたこの作品は、<br />風俗画というジャンルに属し下位と考えられた。<br /><br />本作品の「カード遊びをする人々」は、セザンヌが「古い習慣<br />を破ることなく年を重ねてきた人々の容貌が何にもまして描き<br />たかった」と話しているように、教訓やメッセージは何もない。<br />

    『カード遊びをする人々』
     1892年=96
     ポール・セザンヌ

    「パイプをくわえた男」と同時期に描かれた作品。
    西洋絵画では、
    キリスト教の知識がないと描けない宗教画や
    神話の教養が必要とされる。
    歴史画が最上位とされた。
    セザンヌが描いたこの作品は、
    風俗画というジャンルに属し下位と考えられた。

    本作品の「カード遊びをする人々」は、セザンヌが「古い習慣
    を破ることなく年を重ねてきた人々の容貌が何にもまして描き
    たかった」と話しているように、教訓やメッセージは何もない。

  • 『干草』<br /> 1889年<br /> ポール・ゴーガン<br />フランス・ブルターニュ地方に滞在していた頃の作品。<br />ゴーガンによれば、これは浮世絵からの影響であり<br />奥行きのない平面的な画面には、全方位から光が射して<br />いるかのようで、影が描かれていない。<br /><br />

    『干草』
     1889年
     ポール・ゴーガン
    フランス・ブルターニュ地方に滞在していた頃の作品。
    ゴーガンによれば、これは浮世絵からの影響であり
    奥行きのない平面的な画面には、全方位から光が射して
    いるかのようで、影が描かれていない。

  • 『テ・レリオア』<br /> 1897年<br /> ポール・ゴーガン<br /><br />1888年、南仏にいたゴッホに誘われて共同生活を送るも<br />2ヶ月で破綻し、未開に息づく野生と生命力を描こうとタヒチ<br />へ旅立った。<br /><br />この先のゴーガンの生涯は、<br />旅行記<br />松方コレクション『クロード・モネ〈睡蓮、柳の反映〉』の<br />たどった路は~ 西洋美術に魅せられて④を<br />ご覧いただければ、と思います。<br />https://4travel.jp/travelogue/11818276<br /><br />壁面の絵と思索にふける2人の女性。この作品についてゴーガ<br />ンがこんなふうに書いている。<br />「このカンバスの中の全ては夢です。それは、子供のそれとも<br />母親の或いは道にいる馬に乗った人の夢でしようか。それとも<br />画家の夢なのでしようか。」と。<br />

    『テ・レリオア』
     1897年
     ポール・ゴーガン

    1888年、南仏にいたゴッホに誘われて共同生活を送るも
    2ヶ月で破綻し、未開に息づく野生と生命力を描こうとタヒチ
    へ旅立った。

    この先のゴーガンの生涯は、
    旅行記
    松方コレクション『クロード・モネ〈睡蓮、柳の反映〉』の
    たどった路は~ 西洋美術に魅せられて④を
    ご覧いただければ、と思います。
    https://4travel.jp/travelogue/11818276

    壁面の絵と思索にふける2人の女性。この作品についてゴーガ
    ンがこんなふうに書いている。
    「このカンバスの中の全ては夢です。それは、子供のそれとも
    母親の或いは道にいる馬に乗った人の夢でしようか。それとも
    画家の夢なのでしようか。」と。

  • ミュージアムショップもこじんまりとして<br />良い雰囲気でした。<br />

    ミュージアムショップもこじんまりとして
    良い雰囲気でした。

  • 定番の絵葉書・カレンダー・ポスター<br />が並んでいます。♪

    定番の絵葉書・カレンダー・ポスター
    が並んでいます。♪

  • しばしの休憩タイムとしても

    しばしの休憩タイムとしても

  • ミュージアムショップの散策も<br />楽しみの一つです。

    ミュージアムショップの散策も
    楽しみの一つです。

  • そろそろ絵画鑑賞を再開します。

    そろそろ絵画鑑賞を再開します。

  • 〈スーラをピン・スポット!で〉<br />スーラは、1859年パリの裕福な中産階級の家に生まれた。<br />1878年国立美術学校に入学。巨匠たちの絵画を研究する<br />などしたが翌年には、兵役のため退学。1年の兵役を終える<br />と、その手法から「点描主義」あるいは「分割主義」と呼ば<br />れた作品制作を始めた。<br />1883年  サロンに素描1点が入選。<br />この年から初めての大作「アニエールの水浴」(ナショナル・<br />ギャラリー)制作に着手。翌年サロンで落選。<br />1886年 には、彼の代表作ともいわれる<br />「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を最後の<br />印象派展に出展。<br /><br />しかし、スーラは、1891年風邪をこじらせ髄膜炎を患い<br />31歳の若さで世を去ってしまう。<br /><br />スーラは夭逝したこともあり制作期間はおよそ10年と短い。<br />それゆえに作品は、素描を除くとわずか数10点しか残され<br />ていない。また、点描画は、一作を仕上げる時間の長さも関<br />係していると思われる。<br /><br />『アニエールの水浴』<br />ジョルジュ・スーラ<br />ナショナル・ギャラリー 2023.6撮影

    〈スーラをピン・スポット!で〉
    スーラは、1859年パリの裕福な中産階級の家に生まれた。
    1878年国立美術学校に入学。巨匠たちの絵画を研究する
    などしたが翌年には、兵役のため退学。1年の兵役を終える
    と、その手法から「点描主義」あるいは「分割主義」と呼ば
    れた作品制作を始めた。
    1883年 サロンに素描1点が入選。
    この年から初めての大作「アニエールの水浴」(ナショナル・
    ギャラリー)制作に着手。翌年サロンで落選。
    1886年 には、彼の代表作ともいわれる
    「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を最後の
    印象派展に出展。

    しかし、スーラは、1891年風邪をこじらせ髄膜炎を患い
    31歳の若さで世を去ってしまう。

    スーラは夭逝したこともあり制作期間はおよそ10年と短い。
    それゆえに作品は、素描を除くとわずか数10点しか残され
    ていない。また、点描画は、一作を仕上げる時間の長さも関
    係していると思われる。

    『アニエールの水浴』
    ジョルジュ・スーラ
    ナショナル・ギャラリー 2023.6撮影

  • スーラが点描画を描くようになったと考えられているのは<br />画家は、油彩で描く時パレットの上で絵の具を混ぜて望む色<br />を作りそれをキャンバスに塗っていく。<br />そこでスーラは考えた。そうすると時間が経つにつれ色彩の<br />鮮明さを失われる。小さな単色の点を並列すればもっとみず<br />みずしい色彩が得られるのではないか。たとえば、緑色なら<br />青と黄色の点にし、紫色なら赤と青の点を並べるのだ。<br />一定の距離をおいてそれらを見ると見る人の網膜の中で混合<br />され、より鮮やかな色彩が生まれるというのだ。<br /><br />19世紀のイギリスは「科学の時代」とも呼ばれ科学者たち<br />が活躍していたが、スーラは、その中の一人シャルル・ブラン<br />の「デッサン諸芸術の文法」等に傾倒し、影響を受け「下降線は<br />悲しみを、上昇線は陽気さを、水平線は穏やかさを」表現する<br />ものと自らの手法に加えた。<br /><br />1891年に開催されたアンデパンダン展〈無審査の展覧会〉<br />に制作途中の『サーカス』が出展された。<br />作品は、完成しないまま今日至ることに。<br /><br />スーラは、作品を描く際学問的に考えすぎたきらいも感じるが、<br />「クロンクトン」と呼んでいた素描の使い方など、<br />常に新しい作風を模索していた画家で、<br />〈あの街から〉は、どの点描画を観ても<br />優しさに包まれるような、そんな雰囲気を味わいながら<br />スーラの作品の前に立っていました。<br />〈あの街から〉の気に入りの画家のひとりです。<br /><br />スーラの点描手法は、彼の夭逝後盟友ポール・シニャックによ<br />って引き継がれ優れた作品を残した。他にも、アンリ・クロス<br />ベルギーの画家ヴンァン・デ・ヴェルデやレイセル・ベルへ等<br />後継者が現れた。<br />しかし、盟友ポールは、後年点描というより、ゴッホに近い大<br />きな点で描くようになった。その後、点描主義は間もなく消滅<br />したが、マティスやドローネーに影響を残した。<br /><br />『サーカス』<br />1891年<br />ジョルジュ・スーラ<br />2023.6  オルセー美術館で撮影

    スーラが点描画を描くようになったと考えられているのは
    画家は、油彩で描く時パレットの上で絵の具を混ぜて望む色
    を作りそれをキャンバスに塗っていく。
    そこでスーラは考えた。そうすると時間が経つにつれ色彩の
    鮮明さを失われる。小さな単色の点を並列すればもっとみず
    みずしい色彩が得られるのではないか。たとえば、緑色なら
    青と黄色の点にし、紫色なら赤と青の点を並べるのだ。
    一定の距離をおいてそれらを見ると見る人の網膜の中で混合
    され、より鮮やかな色彩が生まれるというのだ。

    19世紀のイギリスは「科学の時代」とも呼ばれ科学者たち
    が活躍していたが、スーラは、その中の一人シャルル・ブラン
    の「デッサン諸芸術の文法」等に傾倒し、影響を受け「下降線は
    悲しみを、上昇線は陽気さを、水平線は穏やかさを」表現する
    ものと自らの手法に加えた。

    1891年に開催されたアンデパンダン展〈無審査の展覧会〉
    に制作途中の『サーカス』が出展された。
    作品は、完成しないまま今日至ることに。

    スーラは、作品を描く際学問的に考えすぎたきらいも感じるが、
    「クロンクトン」と呼んでいた素描の使い方など、
    常に新しい作風を模索していた画家で、
    〈あの街から〉は、どの点描画を観ても
    優しさに包まれるような、そんな雰囲気を味わいながら
    スーラの作品の前に立っていました。
    〈あの街から〉の気に入りの画家のひとりです。

    スーラの点描手法は、彼の夭逝後盟友ポール・シニャックによ
    って引き継がれ優れた作品を残した。他にも、アンリ・クロス
    ベルギーの画家ヴンァン・デ・ヴェルデやレイセル・ベルへ等
    後継者が現れた。
    しかし、盟友ポールは、後年点描というより、ゴッホに近い大
    きな点で描くようになった。その後、点描主義は間もなく消滅
    したが、マティスやドローネーに影響を残した。

    『サーカス』
    1891年
    ジョルジュ・スーラ
    2023.6 オルセー美術館で撮影

  • 『釣り人』<br /> 1884年頃<br /> ジョルジュ・スーラ<br /><br />スーラは、この地を気に入り海辺の風景を制作していた。<br />目の前の風景の観察に基づいているが抽象的といえるほど<br />簡略化されて描かれている。<br />スーラの短い画家業における様式の展開をうかがい知る<br />ことができる。<br />

    『釣り人』
     1884年頃
     ジョルジュ・スーラ

    スーラは、この地を気に入り海辺の風景を制作していた。
    目の前の風景の観察に基づいているが抽象的といえるほど
    簡略化されて描かれている。
    スーラの短い画家業における様式の展開をうかがい知る
    ことができる。

  • 『クールブヴォワの橋』<br /> 1886年-87 <br /> ジョルジュ・スーラ<br /><br />描かれているのは、セーヌ川の中洲であるグランド・ジャット<br />島からの眺めで橋の向こうにクールブヴォワの工場地帯を望む。<br />スーラが自ら編み出した点描技法を画面いっぱいに用いた最初<br />の作品とされる。<br />

    『クールブヴォワの橋』
     1886年-87 
     ジョルジュ・スーラ

    描かれているのは、セーヌ川の中洲であるグランド・ジャット
    島からの眺めで橋の向こうにクールブヴォワの工場地帯を望む。
    スーラが自ら編み出した点描技法を画面いっぱいに用いた最初
    の作品とされる。

  • 『化粧する女』<br /> 1889年-90 <br /> ジョルジュ・スーラ<br /><br />〈化粧する女〉のモデルは、同棲していた恋人マドレーヌ・<br />クノブロックだが、スーラが彼女と知り合ったのは30歳の<br />時だから2人の生活は僅か2年であった。<br />その間にマドレーヌは、男の子を産みスーラが死んだ時には<br />2人目の子供を身ごもっていた。最初の子供はスーラの死後<br />間もなく亡くなった。そしてマドレーヌはその後姿を消した。<br />この作品は、日本の明治時代頃の風俗画の影響を受けていそ<br />うな、雰囲気を持った作品だ。<br />そして、この作品は恋人の肖像画とみるよりもスーラがこの<br />時期に取り組み始めた風俗をテーマとするデコラティブな様<br />式化の一環とみなされている。<br />

    イチオシ

    『化粧する女』
     1889年-90 
     ジョルジュ・スーラ

    〈化粧する女〉のモデルは、同棲していた恋人マドレーヌ・
    クノブロックだが、スーラが彼女と知り合ったのは30歳の
    時だから2人の生活は僅か2年であった。
    その間にマドレーヌは、男の子を産みスーラが死んだ時には
    2人目の子供を身ごもっていた。最初の子供はスーラの死後
    間もなく亡くなった。そしてマドレーヌはその後姿を消した。
    この作品は、日本の明治時代頃の風俗画の影響を受けていそ
    うな、雰囲気を持った作品だ。
    そして、この作品は恋人の肖像画とみるよりもスーラがこの
    時期に取り組み始めた風俗をテーマとするデコラティブな様
    式化の一環とみなされている。

  • 『グラヴリーヌの海辺』<br /> 1890年<br /> ジョルジュ・スーラ<br /><br />スーラは、「クロンクトン」と呼んでいた素描を鉛筆やペン<br />そして油彩で無数に残しているが、大作を制作する時には、<br />数十枚余のクロンクトンを描いた。<br />そして、スーラは様々な表現の実験を行っているが、<br />この作品では、絵の具に混ぜた砂の粒から、<br />クロクトンが現地のスケッチで使われていたことがわかる。<br />

    『グラヴリーヌの海辺』
     1890年
     ジョルジュ・スーラ

    スーラは、「クロンクトン」と呼んでいた素描を鉛筆やペン
    そして油彩で無数に残しているが、大作を制作する時には、
    数十枚余のクロンクトンを描いた。
    そして、スーラは様々な表現の実験を行っているが、
    この作品では、絵の具に混ぜた砂の粒から、
    クロクトンが現地のスケッチで使われていたことがわかる。

  • 『Study for a  Le Chahut』<br /> 1889年<br /> ジョルジュ・スーラ<br /><br />スーラが熱を入れて学習していたシャルル・アンリの<br />「線の理論」によると、<br />唇、ヒゲ、足、肩ひも、靴のリボンなどが上昇している<br />ことで、〈陽気さを表し〉いるとの見方もある。<br />

    イチオシ

    『Study for a Le Chahut』
     1889年
     ジョルジュ・スーラ

    スーラが熱を入れて学習していたシャルル・アンリの
    「線の理論」によると、
    唇、ヒゲ、足、肩ひも、靴のリボンなどが上昇している
    ことで、〈陽気さを表し〉いるとの見方もある。

  • 『自画像(耳に包帯をしたもの)』<br /> 1889年<br /> フィンセント・ファン・ゴッホ<br /><br />痩せて髭も薄く、焦点の定まりきらぬ青い目が哀しげだ。<br />ゴッホの背景にはイーゼルと浮世絵がかかっている。<br />狂気が去って再び絵画に向う気構えと愛する日本の絵が<br />その日のゴッホを物語っている。<br />間近に立って観ていると、<br />なンだかゴッホの眼に吸い込まれそうになる。<br />理解すべきは、この時点でゴッホはその身体も精神的にも<br />病んでいたということだ。<br /><br />耳切り事件の翌日1888年12月24日市立病院に入院。<br />肖像画も描いたレイ医師の治療を受けた。<br />度々発作を起こすが、これも有名は肖像画のある郵便配達人の<br />ルーラン夫妻が見舞ったり身辺の世話をしてくれていた。<br />夫妻の絵の背景に描かれている花などはゴッホの感謝と好意の<br />象徴なのだろう。2週間後の1月7日に退院し家で制作もする<br />が幻覚や幻聴に悩まされ家と病院を行き来していた。<br />事件を知った弟のテオは直ぐ駆けつけた。<br />2月17日に退院するが近所の人々はゴッホを危険人物とみて<br />いた。<br />2月26日テオが依頼したサル医師に請願書を提出し再入院と<br />なる。そして、5月8日にゴッホは自らの意志でサンポールに<br />あるサンレミ精神病院に入院するのである。<br /><br />

    『自画像(耳に包帯をしたもの)』
     1889年
     フィンセント・ファン・ゴッホ

    痩せて髭も薄く、焦点の定まりきらぬ青い目が哀しげだ。
    ゴッホの背景にはイーゼルと浮世絵がかかっている。
    狂気が去って再び絵画に向う気構えと愛する日本の絵が
    その日のゴッホを物語っている。
    間近に立って観ていると、
    なンだかゴッホの眼に吸い込まれそうになる。
    理解すべきは、この時点でゴッホはその身体も精神的にも
    病んでいたということだ。

    耳切り事件の翌日1888年12月24日市立病院に入院。
    肖像画も描いたレイ医師の治療を受けた。
    度々発作を起こすが、これも有名は肖像画のある郵便配達人の
    ルーラン夫妻が見舞ったり身辺の世話をしてくれていた。
    夫妻の絵の背景に描かれている花などはゴッホの感謝と好意の
    象徴なのだろう。2週間後の1月7日に退院し家で制作もする
    が幻覚や幻聴に悩まされ家と病院を行き来していた。
    事件を知った弟のテオは直ぐ駆けつけた。
    2月17日に退院するが近所の人々はゴッホを危険人物とみて
    いた。
    2月26日テオが依頼したサル医師に請願書を提出し再入院と
    なる。そして、5月8日にゴッホは自らの意志でサンポールに
    あるサンレミ精神病院に入院するのである。

  • 『花咲く桃の木々』<br /> 1889年<br /> フィンセント・ファン・ゴッホ<br /><br />1888年2月ゴッホは、パリから南仏アルルへと移り住んだ。<br />ジャポニズムの流行していたパリで安価なプリントはいくらで<br />も手に入ったし、高価な浮世絵も蒐集していた。<br />数多くの浮世絵版画にふれ日本美術に熱中した。<br /><br />ゴッホは、まばゆい光の降りそそぐ南仏に日本を夢みていた。<br />2年間の滞在中ゴッホは、数多くの風景画を手がけている。<br />この作品に描いた平野の右奥には雪をいただく山が見える。<br />日本の風景を象徴する富士山の姿を重ねているかのようだ。<br />「目の前に広がっている葦の垣根に囲まれた果樹園では、<br />小さな桃の木々が花ざかりだ」<br />そしてゴッホは、「この地の全ては小さく、庭や畑、立ち<br />並ぶ木々、山々でさえまるで日本の風景画のようだ。だから<br />私はこのモティーフに心惹かれたのだ」と。<br />

    『花咲く桃の木々』
     1889年
     フィンセント・ファン・ゴッホ

    1888年2月ゴッホは、パリから南仏アルルへと移り住んだ。
    ジャポニズムの流行していたパリで安価なプリントはいくらで
    も手に入ったし、高価な浮世絵も蒐集していた。
    数多くの浮世絵版画にふれ日本美術に熱中した。

    ゴッホは、まばゆい光の降りそそぐ南仏に日本を夢みていた。
    2年間の滞在中ゴッホは、数多くの風景画を手がけている。
    この作品に描いた平野の右奥には雪をいただく山が見える。
    日本の風景を象徴する富士山の姿を重ねているかのようだ。
    「目の前に広がっている葦の垣根に囲まれた果樹園では、
    小さな桃の木々が花ざかりだ」
    そしてゴッホは、「この地の全ては小さく、庭や畑、立ち
    並ぶ木々、山々でさえまるで日本の風景画のようだ。だから
    私はこのモティーフに心惹かれたのだ」と。

  • 『裸婦』<br /> 1916年頃 <br /> アメデオ・モディリニアーニ<br /><br />彼の描いた作品は、〈モディリニアー二〉とわかる特徴的な<br />様式である。彼はその生涯で4枚の風景画を描いたそうだが<br />あとの作品は、とにかく人間しか描かない。それも肖像画と<br />ヌードである。22歳でパリに出てきて、先ずモンマルトル<br />に住んだ。3歳年上のピカソやユトリロらと親交をあたため<br />刺激を受けるも同時にアル中といわれたユトリロとの出会い<br />により、モディリニアーニがヴェネツィアの学生時代に覚え<br />たとされる酒と麻薬に再び溺れることとなった。<br />やがて彼は、結核から髄膜炎を併発し病院に運ばれるも意識<br />が戻らぬまま死去。35歳の短い生涯だった。<br /><br />アーモンド型として有名な特徴的な〈眼〉には<br />なんともしれない「哀しみ」を感じてしまう。<br />愛すべき画家モディリニアーニです。<br /><br /><br /> モネ・ルノワール・ドガ・ゴッホ、<br /> モディリニアーニなどを<br /> この先に予定している旅行記で<br /> スポットライトを当ててみたいと思っています。

    『裸婦』
     1916年頃 
     アメデオ・モディリニアーニ

    彼の描いた作品は、〈モディリニアー二〉とわかる特徴的な
    様式である。彼はその生涯で4枚の風景画を描いたそうだが
    あとの作品は、とにかく人間しか描かない。それも肖像画と
    ヌードである。22歳でパリに出てきて、先ずモンマルトル
    に住んだ。3歳年上のピカソやユトリロらと親交をあたため
    刺激を受けるも同時にアル中といわれたユトリロとの出会い
    により、モディリニアーニがヴェネツィアの学生時代に覚え
    たとされる酒と麻薬に再び溺れることとなった。
    やがて彼は、結核から髄膜炎を併発し病院に運ばれるも意識
    が戻らぬまま死去。35歳の短い生涯だった。

    アーモンド型として有名な特徴的な〈眼〉には
    なんともしれない「哀しみ」を感じてしまう。
    愛すべき画家モディリニアーニです。


     モネ・ルノワール・ドガ・ゴッホ、
     モディリニアーニなどを
     この先に予定している旅行記で
     スポットライトを当ててみたいと思っています。

  • 『アダムとイブ』<br /><br /> クラナッハ

    『アダムとイブ』

     クラナッハ

  • 横に説明の但し書きが掲出されていました。<br />

    横に説明の但し書きが掲出されていました。

  • ピーテル、ブリューゲルを模写した宗教行列 <br />1920年代にフランドルのルネサンス期の画家<br />ピーテル、ブリューゲルが再発見されたことにより<br />偽物の市場が隆盛になった。<br />聖人の彫像を運ぶ男性たちと一階の窓から見守る人々を<br />描いたこの構図はブリューゲルの作品「村の祭り」<br />(現在は失われているが後の複製で知られている。)<br />の一部分を模写したものである。<br />技術分析の結果、木製パネルに描かれた絵は、<br />16世紀のものであると判明した。<br />鍛造業者は、以前の塗装を削り落として古いサポートを<br />再利用することがよくあった。<br />しかし、贋作を描いた人が使用した顔料の多くは<br />19世紀になってから入手可能になったものであり<br />欺瞞が明らかになった。<br />※概ね、このようなことだろうと意訳を

    ピーテル、ブリューゲルを模写した宗教行列 
    1920年代にフランドルのルネサンス期の画家
    ピーテル、ブリューゲルが再発見されたことにより
    偽物の市場が隆盛になった。
    聖人の彫像を運ぶ男性たちと一階の窓から見守る人々を
    描いたこの構図はブリューゲルの作品「村の祭り」
    (現在は失われているが後の複製で知られている。)
    の一部分を模写したものである。
    技術分析の結果、木製パネルに描かれた絵は、
    16世紀のものであると判明した。
    鍛造業者は、以前の塗装を削り落として古いサポートを
    再利用することがよくあった。
    しかし、贋作を描いた人が使用した顔料の多くは
    19世紀になってから入手可能になったものであり
    欺瞞が明らかになった。
    ※概ね、このようなことだろうと意訳を

  • 『ブリューゲルとその家族の肖像画』<br /> 制作年・不明<br /> ピーテル・パウル・ルーベンス<br /><br />ブリューゲルと親しかったルーベンスが描いた<br />友人ブリューゲルの家族の肖像画<br />共同制作の作品も何点かある。<br />左上の一家の父親,ヤン・ブリューゲル(次男)。<br />

    イチオシ

    『ブリューゲルとその家族の肖像画』
     制作年・不明
     ピーテル・パウル・ルーベンス

    ブリューゲルと親しかったルーベンスが描いた
    友人ブリューゲルの家族の肖像画
    共同制作の作品も何点かある。
    左上の一家の父親,ヤン・ブリューゲル(次男)。

  • 2回目またこの展示室へやって来て<br />小休憩。

    2回目またこの展示室へやって来て
    小休憩。

  • 『男の肖像』<br /> 1430年代<br /> ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

    『男の肖像』
     1430年代
     ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

  • 『聖三位一体』<br /> 1491年ー93<br /> サンドロ・ボッティチェッリ

    『聖三位一体』
     1491年ー93
     サンドロ・ボッティチェッリ

  • 『聖ペテロ巡教者の暗殺』<br /> 1509年頃<br /> ジョバンニ・ベリーニ

    『聖ペテロ巡教者の暗殺』
     1509年頃
     ジョバンニ・ベリーニ

  • 『風景の中のヴィーナス』<br /> 1520年<br /> ヤコポ・パルマ・イル・ヴェッキオ<br />

    『風景の中のヴィーナス』
     1520年
     ヤコポ・パルマ・イル・ヴェッキオ

  • 『創造、誘惑と秋、1513』<br /> 1513年<br /> マリオット・アルベルティネリ<br />

    『創造、誘惑と秋、1513』
     1513年
     マリオット・アルベルティネリ

  • 『アベルを殺すカイン』<br /> 1608年-9<br /> ピーテル・パウル・ルーベンス<br />

    『アベルを殺すカイン』
     1608年-9
     ピーテル・パウル・ルーベンス

  • 『モーセと青銅の蛇』<br /> 1635年-40<br /> ピーテル・パウル・ルーベンス<br />

    『モーセと青銅の蛇』
     1635年-40
     ピーテル・パウル・ルーベンス

  • 『十字架降架(キリスト降下)』<br /> 1611年-14 <br /> ピーテル・パウル・ルーベンス<br /><br />右は、抱神者シメオン(神を抱き上げた聖人)が<br />キリストを聖母マリアから受け取って抱き上げている<br />場面が描かれています。<br /><br /><br />左は、キリストを身ごもった聖母マリアが<br />洗礼者ヨハネを身ごもった親類のエリザベトを訪問している<br />場面が描かれています。<br />

    『十字架降架(キリスト降下)』
     1611年-14 
     ピーテル・パウル・ルーベンス

    右は、抱神者シメオン(神を抱き上げた聖人)が
    キリストを聖母マリアから受け取って抱き上げている
    場面が描かれています。


    左は、キリストを身ごもった聖母マリアが
    洗礼者ヨハネを身ごもった親類のエリザベトを訪問している
    場面が描かれています。

  • 『悲しみの人としてのキリスト』<br />  1622年-25<br /> アンソニー・ヴァン・ダイク<br />

    『悲しみの人としてのキリスト』
    1622年-25
     アンソニー・ヴァン・ダイク

  • 『チャールズとジョン・シーリー船長の肖像』<br /> 1773年<br /> ティリー・ケトル

    『チャールズとジョン・シーリー船長の肖像』
     1773年
     ティリー・ケトル

  • 『マーガレット・ゲインズボローの肖像』<br /> 1778年<br /> トーマス・ゲインズ・ボロー

    『マーガレット・ゲインズボローの肖像』
     1778年
     トーマス・ゲインズ・ボロー

  • 『ロードシップ・レーン駅、ダリッジ』<br /> 1871年 <br /> カミーユ・ピサロ<br /><br />普仏戦争を避け、一家でロンドンに疎開したピサロ。<br />郊外の穏やかな田舎町の駅を発つ蒸気機関車<br />ターナーの作品<br />「雨、蒸気、速度ーグレート・ウェスタン鉄道」<br />から着想したといわれています。<br />印象派による最初の鉄道絵画とされる。<br />

    『ロードシップ・レーン駅、ダリッジ』
     1871年 
     カミーユ・ピサロ

    普仏戦争を避け、一家でロンドンに疎開したピサロ。
    郊外の穏やかな田舎町の駅を発つ蒸気機関車
    ターナーの作品
    「雨、蒸気、速度ーグレート・ウェスタン鉄道」
    から着想したといわれています。
    印象派による最初の鉄道絵画とされる。

  • 『ドーヴィル』<br /> 1893年 <br /> ウジェーヌ・ブーダン

    『ドーヴィル』
     1893年 
     ウジェーヌ・ブーダン

  • 『ニーナ・ハムネットの肖像』<br /> 1917年<br /> ロジャー・フライ

    『ニーナ・ハムネットの肖像』
     1917年
     ロジャー・フライ

  • 『サンノアの通り』<br />1912年<br />モーリス・ユトリロ

    『サンノアの通り』
    1912年
    モーリス・ユトリロ

  • 「そろそろ時間よ」<br />と、合図が送られて<br />

    「そろそろ時間よ」
    と、合図が送られて

  • これも

    これも

  • あれも

    あれも

  • と、急ぎ通り過ぎ

    と、急ぎ通り過ぎ

  • 最後にもう一度<br />マネの『フォリー・ベルジェールのバー』<br />の前に立ちしばし、観てこようと思います。

    最後にもう一度
    マネの『フォリー・ベルジェールのバー』
    の前に立ちしばし、観てこようと思います。

  • ほんと 楽しい時間は<br />あっという間に過ぎてゆきます。<br /><br />同じ時間(⌒▽⌒)なのだろうか<br />と感じます。

    ほんと 楽しい時間は
    あっという間に過ぎてゆきます。

    同じ時間(⌒▽⌒)なのだろうか
    と感じます。

  • さぁ、そろそろコートールド美術館を<br />去る時間が迫ってきました。

    さぁ、そろそろコートールド美術館を
    去る時間が迫ってきました。

  • 光り射し込む螺旋階段を<br />ゆっくりゆっくりと降りて<br />コートールド美術館にさよならします。

    光り射し込む螺旋階段を
    ゆっくりゆっくりと降りて
    コートールド美術館にさよならします。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • kawausoimokoさん 2023/11/05 13:05:33
    いつもありがとうございます。
    あの街から 様

    いつも、イーモノを見せて・読ませていただき、ありがとうございますm(_ _)m
    特に、今回のマネの深堀りでは、あの街からさんのお気に入りのご様子がダイレクトに伝わって来ました。
    更に、印象派についても、要領良くまとめられており、博識なあの街からさんならではの面白い内容でした。
    私は、印象派についてあまり知識がないので、今後、少しずつ親しんでゆきたいと思っています。
    今後も、旅行記を楽しみにしております。
    kawausoimoko 拝

    あの街から

    あの街からさん からの返信 2023/11/05 20:27:39
    Re: こちらこそ(⌒▽⌒)
    こんばんは、
    11月になったとは思えない暖かな日が続いている
    日本です。
    kawausoimokoさんは、今時分はドイツなのでしょか? 私がベルリンに滞在したのが7月の中旬ですから、kawausoimokoさんの旅行記がアップされているのを
    先程 見、流石早業と驚きました。 
    ベルリンを歩いていたのは、
    ついこの前なのに、もう遥か以前のことのような
    不思議な感じで楽しませていただきました。

    さて、私の方は、
    まだ(⌒-⌒; )ロンドンから動けない状態ですが
    お付き合い頂きありがとうございます。

    あまりに、たくさんの作品を鑑賞予定にして
    旅に出たので、
    画家のことを少しでも掘り下げてみてから
    作品の前に立てたら気持ちの入り方も違ってくる
    のだろう。と思いました。
    忘備録にと、
    あの時の旅はこんな風だった。と残しておければと。

            あの街から

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