2023/07/04 - 2023/07/04
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あの街からさん
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティこの長い名前と作品の特徴は
旅行記「国立西洋美術館~常設展は素晴らしい」編で
取り上げた際に、少しだけググったりしたことで記憶に残っていた。
それ以上にもそれ以下にもならず旅に出た。
ロンドン4日目は、朝一でワーナー・ブラザースの
『ハリーポッターのスタジオ』へ行き、午後は「テートブリテン美術館」
へ直行し閉館近く迄楽しんだ。
その夜は、ウエストエンドの舞台(19:00開演)のスケジュールが入っていた
こともあり、テートブリテンを出て地下鉄「Pimlico駅」へと向かった。
そこで、出会ってしまった。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
地下鉄「Pimlico駅」の階段を降りていくと
タイルの壁に大きな見たことのある壁画が
描かれているのが目に飛び込んできた。 -
そういえばテートブリテンの館内に大きなポスターが
貼ってあったことを思い出した。
予め、テートに行ったらアレとコレは観よう。と、
たぶんに懸命に(⌒-⌒; )なっていてポスターは流し見をして
次回以降の展示会案内それとも会員への
入会勧誘のポスターかなとスルーしていた。 -
壁一面のタイル画の側には、2種のポスター。
なんだ見たことがあるなぁ。
階段を降りながら、テートブリテンの沢山の作品の中
からここにこうして掲げてあるということは、
何かなと
今度はマジマジと見てみた。そうだったのか
企画展「D・G・ロセッティ」を開催中ではないか。 -
こんな機会滅多にないぞ。明日はロンドン滞在最終日。
パリ、ロンドン、ナポリと5連泊の最終日はフリーにしておいた。
そうして、見逃した場所やもう一度観たいところに当てていた。
明日はフリーの日だけれど、〈ナショナルギャラリー〉へ
もう一度行こう。それから、平日は入場料が安い(⌒-⌒; )
「コートールド美術館」へと行こうぼんやりと決めていた。
そこで、相方さんにそれとなく聞いてみた。
「明日、もう一度テートに来ようと思うけど」
「えっ、テートってもしかしたらテートモダン」
「いや、テートブリテン」「何か見落とした」
「いや何て言ったらいいか。
予定にはなかったけれど〈企画展〉を観ようと思ってさ」
「じゃ、ナショナルギャラリーかコートールドのどちらかは
カットになるよね。それでも良いなら。ただ一つ条件があるわ。
ナショナルギャラリーは初日に入ったけど、
コートールドは楽しみにしていたのでカットしないで」
と言うことになり、
翌日(ロンドン滞在5日目)
朝一番で再び『テートブリテン美術館』へやって来たのでした。
企画展 1人 22ポンド(4,000円程)テート ブリテン 博物館・美術館・ギャラリー
-
相方さんは、「ロセッティは、企画展を観るほどは
興味がわかないから、常設展を観ているわ。
見落としもあるかもしれないし。ゆっくり観ているわ
せっかくだから、じっくりと観てきていいわよ。」と言ってもらえ
私ひとり観に行くことになった。(⌒-⌒; ) -
ここから
『ラファエル以前派兄弟団/P・R・B 物語』
西洋美術の[時代区分]の中では、
西洋文明の先祖メソポタミア・エジプトから始まるとすると、
ラファエル前派は〈世紀末芸術〉に括られる。
19世紀当時、西洋美術の中心は
16世紀以降のルネサンス美術の完成者である
ラファエルを規範にした古典主義だった。
ヨーロッパ各地の美術アカデミーでは、
18世紀以前の巨匠たちのスタイルを忠実に
踏襲することが基本となっていた。
なかでも、
盛期ルネサンスを代表する1人ラファエル(英語標記)は、
その比類なき優美で端正な表現で当時の画家たちの
究極の理想とされた。
後にラファエル以前派兄弟団のメンバーとなる
ミレイやロセッティなど
ロイヤルアカデミー付属美術学校に通っていた。
当時の美術学校は設立後間もないナショナルギャラリー
内にあった。収蔵作品は教材でもあった。
美術学校には
ラファエルの「キリストの変容」の複製画などが掲げられ
これが理想とみなされていた。
画像は、『キリストの変容』ラファエル〈1483~1520〉
ヴァチカン美術館蔵・2023.7撮影 -
ミレイ、ロセッティ、ハントの3人の画家は、
そのような伝統的なその表現方法に行き詰まりを感じていた。
そんなある日のこと、画家ミレイが持っていたピサの壁画の
版画集を見て、当時失われていた純粋で真摯な絵画のあり方
を見出した。
1848年12月彼らは友人を誘い大英博物館に程近いミレイの
アトリエに画家5人、彫刻家1人、書記役1人の7人で集まった。
そのいずれもが20歳前後の青年たちだった。
彼らはラファエル以前の時代に立ち返り、
芸術により自由な表現を求めようとして、
ラファエル以前派兄弟団/P・R・B 秘密結社を結成した。
その団体の名には、アカデミーが美の規範とする
ラファエルではなくそれよりも以前の初期ルネサンスへ
立ち返ることを主張する意味が込められていた。 -
ラファエル以前派兄弟団の面々が影響を受けた作品
画像『アルノルフィーニ夫妻の肖像』 ヤン・ファン・エイク
1434年
ナショナルギャラリーで撮影
(ナショナルギャラリーで1842月購入作品) -
『ラファエル以前派兄弟団/P・R・B 物語』は続きます。
P・R・Bは、Pre-Raphaelite Brotherhoodの
頭文字を取った略称で当初は秘密裏に使用をしていた。
その中心メンバーとなったのが
ジョン・エヴァレット・ミレイ、
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
ウィリアム・ホフマン・ハント だった。
画像『ファニー・コーンフォース、
フェアロザムンド」 1861年 紙に色チョーク
-
ミレイは、幼い頃から画才に恵まれその才能を伸ばそうとした
母親に連れられ、ロイヤルアカデミーの会長に会いに行き、
そのアドバイスによって一家はロンドンに移り住んだ。
そして、ヘンリー・サスの画塾に通いチャンスを待ち
やがて、史上最年少の11歳でロイヤルアカデミー附属美術学校に
入学を許された天才児だった。 -
ミレイとは違い苦労人のハントは、12歳の時父親に画家に
なりたいと打ち明けるも猛反対され、事務職の勤めをしながら
独学で画家を目指す。
けれどロイヤルアカデミー附属美術学校への入試を2度失敗。
16歳のある日、大英博物館で模写をしている時に2歳年下の
ミレイと出会った。チャレンジし続けハントは
無事ロイヤルアカデミー附属美術学校に入学することができた。
ハントとミレイは学友として友情を深めてゆくことになる。
画像『リエンツィ』
1848年~49年 1886年
ウィリアム・ホフマン・ハント
個人蔵<企画展出品作> -
一方、ロセッティは、父がイタリアの詩人・ダンテの研究者
だったことから、ロセッティに「ダンテ」と名付けた。
ロセッティは早くから詩才を発揮するが、やがて画家を目指す
ようになる。こうしてヘンリーの画塾に通い始めたロセッティ
は、ハントと同じ年にロイヤルアカデミー附属美術学校の学生と
なった。
美術学校で、ウォルター・デヴィレルとも出会った。
デヴィレルは、ラファエル前派の多くの画家たちのモデルを
務めたエリザベス・シダルをモデルにして作品を最初に描いた
画家であった。シダルは後にロセッティと結婚した。
デヴィレルは、ロセッティの推薦もあったが、ラファエル前派
に加入は許可されなかった。
ということは、ラファエル以前派兄弟団/P・R・Bは、
志しを一にする仲間がわっと集まってできたものではなく
中心メンバーは求める資格・基準のようなしばりを設けて
いたのだろうか。 -
設立趣旨には次のように記載されたものが残されている。
1.表現すべき真正な着想を持つこと
2.着想を表現する方法を会得するため自然を注意深く観察
すること
3.因習的なものや自己顕示的なもの、学んだだけのものを
排し、過去の芸術で率直で分かりやすく真摯で真心が
あるものには共感すること
4.何より重要なのは優れた作品を創ること
若者らしい理想を掲げと固い結束で結成された。 -
やがて広がりをみせたメンバーたち。
ロセッティには、姉のマリア、妹のクリスティーナ
弟のウィリアム・マイケルがいた。
弟は、当時税務官史で唯一の芸術家でなかったが
メンバーとなり書記を務め
後には美術評論家となった。
また、妹のクリスティーナと一時期婚約していた
画家のジェームズ・コリンソンと
彫刻家のトーマス・ウルナーには、ロセッティが声をかけ
ハントが推薦したのが
フレデリック・ジョージ・スティーヴンスで
彼も後に美術評論家となった。 -
ラファエル前派の画家たちは、堅苦しい技法よりも
人間的な感性を重視した作品を描いた。
主に聖書や神話、文学作品に主題をとったが、
その中でも〈ファム・ファタル〉と呼ばれ、運命的な
恋愛の相手そして同時に男を破滅させる魔性の女性像を
頻繁に取り上げた。
それは、聖書では人類に原罪をもたらしたエヴァや
洗礼者ヨハネの首を褒美にしたサロメ。
神話では、世界に災いをもたらしたパンドラなどであらわされる。
このテーマは、この後私が、訪れた美術館でよく見かけるようになった。 -
これらの女性たちは、
当時好まれた「死」や「エロス」と言った
背徳的な雰囲気を持って描かれた。
そのことで、人々が
自然と世界の終焉を想像する世界末期独特の
世界感を感じとることができた。
結成から1年半ほどは、P.R.Bと記した3人の作品は
概ね好評だった。
機関紙を発行したり、ハントとロセッティは、
フランス、ベルギーへ旅をして見聞を広めた。 -
1849年3月ロセッティ『聖母マリアの少女時代』
を自由美術展に
5月なるとロイヤルアカデミー展に
ハント『リエンツィ』とミレイが『イザベラ』を
P.R.Bの署名をして出品した。
当初は好評だったが、やがてP.R.B.は
ラファエル以前派兄弟団の略だと知れわたると
盛期ルネサンス以前の未開な芸術への退行する奴らだ。
と非難の声が巻き起こる。
画像『聖母マリアの少女時代』
1848年~49年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
1850年
ロセッティが国民美術協会展に出品した
「エッケ・アンキラ・ドミニ(ラテン語)
後に〈受胎告知〉」が各紙で酷評され
さらに、ミレイが「両親の家のキリスト」を公開すると当時
高まっていた反カトリックの宗教感情を逆撫でしたのか
その非難の声はピークに達した。
この騒ぎが、ヴィクトリア女王の耳にも入り、
1日だけウィンザー城において特別観覧がおこなわれたという。
画像「エッケ・アンキラ・ドミニ 後に〈受胎告知〉」
1849~50年 テートブリテン美術館
D・G・ロセッティ
国民美術協会展に出品作品。 -
ミレイが1851年ロイヤルアカデミー展に出品した
『マリアーナ』
シェクスピアの「尺には尺を」に取材した
テニスンの詩を題材にしたもの。
透視図法と明暗法の無視、形態の美しさの欠落
として美術評論家たちから非難を浴びた。
こうして非難の嵐は吹き荒れ、P.R.Bはまさに風前の灯となった。
この難局に手を差し伸べたのが、美術評論家のラスキンである。
ラスキンは「経験さえ積めば過去300年間で最も高貴な流派
となるだろう」と一面識もない彼らのために2度にわたって
タイムズ紙にメッセージを送り世論を動かし彼らの危機を救った。
これ以前、ハントはラスキンの「近代画家論」を読んで感激した。
〈自然に忠実に〉〈良型論的な象徴〉といったラファエル前派の
画法は、ハントによってラスキンの書から学んだものだったのだ。
画像『マリアーナ』
1850~51年
ジョン・エヴァレット・ミレイ
テートブリテン美術館 -
ロセッティの妹クリスティーナと婚約していたコリンソンは
宗教上の諍いもあって婚約を解消し、1850年、P.R.B
退団を申し出去ってゆく。
1852年になると、ウルナーが経済的な理由からゴールド
ラッシュに沸くオーストラリアへ旅立つ。
ロセッティと師弟関係にあったブラウンもインド移住を考え
妻をモデルに〈英国を去る日〉を描いたのだった。
1854年になると、ハントも歴史的科学的正確さを備えた
聖書の主題を描くためエジプトやパレスチナへ旅立つ。
この後、ウルナーもハントも結局は2年程で帰国。 -
この間、ラスキンの元へミレイたちから礼状が届き
1851年6月ラスキンは妻のエフィーを連れ
ミレイのアトリエを訪ねた。
以来、ミレイと交流が始まった。
1852年、ミレイはラスキンの妻エフィーをモデルとした
『除隊』や『ジョン・ラスキンの肖像』を描いたり
ラスキンから絵についていろいろと手解きを受けたり
ラスキン夫妻との親交を深めていった。 -
1852年 ロイヤル・アカデミー展に出品された
「オフィーリア」は、
綿密な自然観察、豊かな文学的想像力、
愛と死をめぐる心理描写など、
ラファエル前派がそれまでに追求した
全ての要素が綴れ織になった作品と
高い評価を受け
P.R.Bにようやく明るい兆しが見えたように思えた。
が
この頃、ラファエル前派の崩壊は既に始まっていた。
画像『オフィーリア』
1851年~52年
ジョン・エヴァレット・ミレー
テートブリテン美術館
(後にロセッティの妻となるエリザベス・シダルがモデル) -
1853年11月スコットランドから帰ったミレイは
ロイヤルアカデミーの準会員に選出される。
反アカデミーを掲げて結団したラファエル以前派兄弟団の
中心人物がこれを受諾したのだ。
ロセッティは、
妹へ「今や、円卓の騎士は霧と消え去った」
と手紙をしたためた。
崇高な理想と固い結束で結成された
ラファエル以前派兄弟団/P・R・Bだったが、
意外にも解散の時は早くに訪れたのだった。
こうして
それぞれ独自の道へと進んでゆくことになった。 -
~ジョン・エヴァレット・ミレイその後の物語~
1853年 ミレイ兄弟は、結婚5年目を迎えたラスキン夫妻が
夏の休暇を過ごしていたスコットランドに招待された。
一行は、4ヵ月ほど北部のハイラ ンド地方を旅した。
ラスキン夫妻の旅行に同行したミレイ兄弟はラスキンとは
対極の若者で、エフィーと彼らは小川に入ったり、
釣りをしたり、時に写生をしたり読書をしたりしながら
ジョークを飛ばしあい、ほがらかに会話するうち
本来の自分を取り戻していく気がし、
ラスキンとの鬱々とした暮らしから解放されていった。
ミレイの兄が一足先にロンドンへ帰る と、エフィーとミレイの
距離は瞬く間 に縮まってゆき、長い休暇が終 わりを告げる頃
2人は許されぬ恋に落ちていった。
一方、ラスキンは彼らの輪 には加わらずに、
雲や小川の流れを眺 めながら思索に耽ったり、
本の執筆や 講演会の準備に没頭したりと充実した
時間を過ごし、2人の関係 の進展にはまったく気づかなかった。
翌54年、エフィーはラスキンとの結婚は実質の無いもので
あったとする婚姻無効の訴訟を起こした。
けれど当時は妻が夫を捨てるような事は極めて稀でエフィーの
行動は、非難の対象となった。
一方、ミレイもラスキンの同調者から声高に糾弾され、
常日頃ミレイの才能に嫉妬していたロイヤル・アカデミー
のメンバーからのいやがらせも激化した。
約3ヵ月の攻防の末、7月15日、エフィーは裁判所から
[婚姻無効」宣言を勝ち取った。
画像「家臣に番号を付ける男爵」 1850年
「A Baron Numbering his Vassals」
ジョン・エヴァレット・ミレー
テートブリテン美術館 -
そして1年後の1855年7月3日、故郷スコットランドの
パースにある実家にて、ミレイとエフィーは近親者のみで
ひっそりと結婚式を挙げ新婚生活をスタートさせた。
2人が恋に落ちてから2年が経ち、ミレイは26歳、
エフィーは27歳となっていた。
ミレイを寵愛していたヴィクトリア女王は
エフィーとの謁見を拒否し
以後ミレイに肖像画を描かせる事はなかった。 -
翌年(1856年)
第一子が誕生。以降8人の子供に恵まれた。
この頃、ミレイは『落ち葉』など特定の主題のない作品を
制作するが、画商やコレクターなどの評価は以前の作品と
比べると決して高いものではなかった。
そして、決定的な危機が訪れたのは、
翌57年、ロイヤル・アカデミー展で
「浅瀬を渡るイザンブラス卿」を発表するや否や
馬が騎士に比べて大きすぎると不評を買ったばかりか
中傷の的にもなってしまった。
離婚後もミレイを擁護し続けたラスキンまでもが、
手のひらを返したように「単に失敗ではなく、破局である」と
手厳しくミレイを非難した。
結婚後8人の子供を養わなければならなかったミレイは
「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに
丸1日費やすわけにはいかない 」と考え、
これ以後ラファエル前派の厳格な理想から徐々に遠のいていった。 -
そんな暮らしの中でも、エフィーは
画家を支えるしっかり者の良き妻として
ミレイを助け、ミレイもまた、
エフィーや子供たちをモデルに多くの絵を残し
幸せな家庭を築いていた。
やがてミレイの絵は精密な自然描写から、
温かみのある画風へと変化していく。
子供をテーマにした作品が増え、また肖像画家としても活躍した。
1860年
『ブラック・ブランズウィッカー
(黒い制服を着たドイツのブラウンシュヴァイク騎兵)』は、
当時の人に訴えかけるようなロマンチックな主題と
衣装のひだの美しさで好評を博し、
ミレイは失いかけた名声を取り戻した。
以後は一貫して大衆の好みを意識した作品を描き続けた。
その功績が認められ、芸術家として初の準男爵位を賜り、
1896年には栄誉の頂点であるロイヤル・アカデミー会長
に選出される。
ミレイはヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」と
いう伝言を受け取る。
ミレイが妻の謁見の許可を願うと女王は聞き入れ謁見が赦された。
その年の8月 67歳の生涯を閉じた。 -
~ダンテ・ゲイブルエル・ロセッティその後の物語~
1859年、ロセッティはそれまでのおよそ10年間の
水彩画の時代を卒業して、再び油彩画に取り掛かった。
ボーガース・クラブに出品した「ボッカ・パチアータ」は
ポッカチオ作「デカメロン」の中の「接吻された唇は幸運
を失わず月のように常に新しくなる」という言葉をタイトル
にしている。モデルのファニー・コーンフォースの豊かな
髪の色に共鳴し装飾的な役割りを醸している。
この作品は、これまでのロセッティの作品に特徴的であった
文学の1場面を描くことから新たに主題の意味・内容や
道徳的な教えより、雰囲気や感覚を喜ばせようとすることを
第一とする新しい方向性を示している。
画像『ボッカ・バチアータ』1859年
D・G・ロセッティ
ボストン美術館〈企画展出品〉 -
1860年、ロセッティはルーブル美術館でベロネーゼの
「カナの婚礼」を観てヴェネツィア派の絵画へ関心を
抱いた。新しい方向性は、16世紀のヴェネツィア派の
絵画での人物表現を学んだことで更に如実となっていった。
画像・「カナの婚礼」
1562年~1563年
ベロネーゼ
ルーブル美術館(2023.6)で撮影
因みに、この作品は、ルーブル美術館で
一番大きな作品とされている。 -
大きな比率で人物を配し、肌の質感や髪の流れ、衣服の
ひだの表現を主眼とし官能的な女性の魅力を引き出すことが
ロセッティが1860年代へと向かう課題であった。
60年代の油彩画では、滑らかな筆使いで色の艶や多彩な
色調からなり全体にも統一感をもたらしている。
鑑賞者の様々な感覚を刺激して女性の美しさと魅力を
引き出そうとするロセッティは、それに相応しいモチーフ
を探し求めた。
ロセッティには、楽器を聴いたり扱う趣味がなかったが
楽器の持つ不思議な魅力に魅了され古い楽器や東洋の
楽器を蒐集し、女性とともに描いた。
画面の中の楽器の音色に耳を傾ける彼女たちは、
楽器と一体にとなって観るものの琴線に訴えかけてくる。
後出画像〈ラ・ギルランダータ〉
〈ヴェロニカ・ヴェロネーゼ〉参照 -
1860年代の半ばに入るとそれ迄の小型の作品から
ひと回り大きな〈最愛の人〉〈モンナ・ヴァンナ〉
(後画像あり)作品に取り掛かかった。
それが、1870~80年代に描いたほぼ等身大の
大型作品につながっていくことになる。
これらの作品では、女性が観るものの目の前に接近して
きそうな迫力があり、その華やいだ色彩で描かれた
豊富で流れるような髪、衣服のひだなど、
企画展で私が間近で鑑賞した時に、これでもかと
感覚に迫ってくるように感じた作品だった。
画像『最愛の人(花嫁)』素描
D・G・ロセッティ -
1870年代はロセッティにとって失意の時代となった。
それは、詩人として意欲を持って出版した詩集に対して
「詩の肉体派」と名付け官能的な表現を激しくバッシング
する批評家に衝撃を受けたロセッティは
1872年神経衰弱に陥った。 -
かって、モデルに抜擢したモリス夫人のジェインが
モリスと共にロンドンへ引っ越してくると
ロセッティはジェインを
モデルとした絵を集中して描き始めた。
このところの官能的な金褐色の髪のモデルに変わって、
黒髪で哀愁を帯びたジェインは
ロセッティにとって新しい理想的な像となった。
しかしジェインは
友人の妻であり2人の娘の母決して手の届かない存在であったが
ビクトリア時代の当時、流行した華奢で色白という美人の概念
から大きく隔たりのあるジェインだったが、哀愁の漂う謎めいた
女性像はその頃のロセッティの理想像であった
ジェインをモデルに描いた作品は
〈アスタルテ・シリアーカ〉〈白日夢〉
〈プロセルピナ〉〈ムネモシュネ〉など
制作は細々と続けていくが
心身ともに健康を害し隠遁生活のようだったという。
画像『ローザ・トリプレックス』 1874年
D・G・ロセッティ -
エリザベス・シダル
シダルは、ロンドンのレスタースクエアーの繁華街の
帽子屋で売り子として働いていた。
ある日赤毛のモデルを探していた画家ウォルター・デビェレルは
その姿を見て一目惚れ。
しかし、ヴィクトリア朝時代のロンドンでは
絵のモデルは卑しい職業と見なされていたことから、
モデルの依頼は簡単にはゆかず
家族の承認を得ようとデビェレルは自分の母親を同伴し
当時貧困街だった東部サザークにあるシダルの実家に赴き
シダルの母親の承認を得た。
デビェレルは『ラファエル以前派兄弟団/P・R・B 』
を結成したミレイやロセッティの友人でもあったことから
彼らにシダルを紹介し、P・R・B たちの作品のモデルにも
なってゆく。
ミレイの「オフィーリア」でモデルを務め評判になってゆく。
ロセッティに見そめられ婚約をしていたが、
やがてロセッティは自分以外の画家のモデルを務めることを嫌った。
ロセッティは交際はすれど結婚をしょうともせず
彼の一方的な婚約破棄は複数回に及びやがてシダルは
健康を害し薬の副作用から摂食障害やうつ病となり
病床に伏せるようになる。病状が深刻になってから
ようやくシダルの愛に目覚めたロセッティが
長い婚約期間に終止符をうちシダルと結婚したのは
1860年であった。
しかし、1862年2月 シダルは当時家庭薬だった
アヘンチンキを過剰摂取した32歳の生涯を終えた。
ロセッティは自責の念に囚われ亡き妻へと
『Beata Beatrix』(ベアタ・ベアトリクス)を描き上げた。
画像『エリザベス・シダル』
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
『ジェーン・モリス』
ジェーン・モリスはロセッティのお気に入りのミューズになった。
二人の関係は1865年に始まり、ジェインの結婚・引越し等もあって、
その時々で親密さの程度は変化したものの
彼らはお互いに深い愛情で結ばれていて
1882年のロセッティの死まで続いていたと考えられている。
ロセッティはジェーンからインスピレーションを得て詩を書き、
絵画では、彼の後期の最高傑作のいくつかを描いた。 -
1882年4月 ダンテ・ゲイブルエル・ロセッティは
53歳の生涯を閉じた。
1882年ロセッティの死後、彼の作品がロイヤルアカデミー
などにおいて初めてまとめて公開された。
ロセッティ亡き後も多くの画家や詩人に影響を残した。 -
会場は、それぞれのコーナーごと壁の色、照明など
ロセッティの作品展示会場として約束されたような雰囲気に。 -
『パリサイ人シモンの家の戸口に立つマグダラのマリア』
D・G・ロセッティ 1858年
フィッツウィリアム美術館 -
「レディ・クレア」
1854年~57年
エリザベス・エリナー・シダル
テートブリテン美術館 -
クリスティーナ・ロセッティ
詩人 ロセッティの妹
この時代ロイヤルアカデミー美術学校への入学が許されなかった
こともあってか、ラファエル前派に賛同一員となった。
ロセッティの「受胎告知」を始めとして
ラファエル前派の画家たちのモデルにもなった。
『クリスティーナ・ロセッティ』
1866年 個人蔵 色チョーク
D・G・ロセッティ -
「ダンテ・ゲイブルエル・ロセッティの詩集」
1873年 -
企画展会場には、こんな風にして詩集や原稿、挿絵などを展示。
-
企画展会場には、こんな風にして詩集や原稿、挿絵などを展示。
-
企画展会場には、こんな風にして詩集や原稿、挿絵などを展示。
-
これは、ロセッティと頭髪?
-
『見つかって』1854年~55年 1859年~81年
デラウェア美術館〈企画展出品〉
D・G・ロセッティ -
『パオロとフランチェスカ・ダ・リミニ』1855年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館
(自然主義的で華やかな色彩、繊細に描く中世趣味の影響を受けた作品) -
『アーサー王の墓』 1855年
D・G・ロセッティ
大英博物館 〈企画展出品〉
(自然主義的で華やかな色彩、繊細に描く中世の彩飾写本の影響を受けた作品) -
『青い小部屋』1856年~57年
D・G・ロセッティ
テイトブリテン美術館
(自然主義的で華やかな色彩、繊細に描く中世の彩飾写本の影響を受けた作品) -
『七塔の歌』1857年
テイトブリテン美術館
D・G・ロセッティ
(自然主義的で華やかな色彩、繊細に描く中世の彩飾写本の影響を受けた作品) -
『ナザレのマリア』1857年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
『聖カタリナ』
1857年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
『ルクレツィア ボルジア』
1860~1861年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
-
『ダンテの愛』1860年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
『ルネ王のハネムーンのキャビネット』 1861~62年
デザイン<ジョン・ポーラド・セドン> オーク材
ヴィクトリア&アルバート博物館〈企画展出品〉
1861年 モリスがバーン=ジョーンズ、
ロセッティ、ブラウンを誘い
装飾美術のデザイン製造販売を手掛ける
「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立した。 -
『オーレリア(ファツィオの恋人)』1863~73年
テートブリテン美術館
D・G・ロセッティ -
『ガラハット卿とボールス卿パーシヴァル卿がいかに聖杯を手に入れ、
パーシヴァル卿の姉妹が途上で亡くなったか』
1864年
D・G・ロセッティ テートブリテン美術館 -
『Beata Beatrix』(ベアタ・ベアトリクス)
1864~1870年 テートブリテン美術館
ダンテ・アリギエーリの1294年の
詩「新生」のベアトリーチェ・ポルティナリが亡くなった瞬間を
描いています。この他 シカゴ美術研究所蔵他多数あるそう。
D・G・ロセッティ -
『Joan of Ark』(ジャンヌ・ダルク)
1864年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
13世紀のフランスで作られた同名の物語
「薔薇物語」 -
『薔薇物語』 1864年
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館 -
『魔性のヴィーナス』 Venus Verticordia
1864年~68年
D・G・ロセッティ
ラッセル・コーツ美術館〈企画展出品〉 -
『最愛の人(花嫁)』
1865~66年
テートブリテン美術館
D・G・ロセッティ -
『シビラ・パルミフェラ』 1865~70年
レディ・リーヴァー・アート・ギヤラリー
〈企画展出品〉
D・G・ロセッティ -
『モンナ・ヴァンナ』 1866年
テートブリテン美術館
D・G・ロセッティ -
『レディ・リリス』 1866~68 1872~73加筆
デラウェア美術館〈企画展出品〉
D・G・ロセッティ -
『ヴェロニカ・ヴェロネーゼ』
1872年
D・G・ロセッティ
デラウェア美術館〈企画展出品〉 -
『ラ・ギルランダータ』1873年
ギルドホール美術館〈企画展出品〉
D・G・ロセッティ -
『プロセルピナ』1874年
テートブリテン美術館
D・G・ロセッティ -
『サンクリリアス』Sancta Lilias
1874年 未完
D・G・ロセッティ
テートブリテン美術館
『祝福されし乙女』の未完形とのこと -
『祝福されし乙女』 1875~81年
D・G・ロセッティ
リバプール美術館〈企画展出品〉
(別バージョンが、ハーバード大学・美術館蔵
フォッグ美術館蔵・等)
詩人としてのロセッティの代表作とも言える作品で、
最初に描いたのは、1847年、
ロセッティ19歳でしたが
彼は死する年までに詩と絵画両方の作品に
何度も手を加え描き続けました。
同名の詩は
先に天国に逝った乙女が、地上に残してきた
恋人と再会する日を天上でひたすら待つというところから始まって
やがて天上で再会した2人が不滅の愛の喜びに浸り
永遠に1つになることに思いを馳せ・・・と
ロセッティの詩はまさにP・R・Bの旗揚げに
掲げた理念と同じく崇高な詩が長文で続くのです。 -
『白日夢』1880年
ヴィクトリア&アルバート博物館〈企画展出品〉
D・G・ロセッティ -
『ムネモシュネ』1881年
D・G・ロセッティ
デラウェア美術館〈企画展出品〉 -
ロセッティの絵画には、どれも物語があり
どの絵も伝えたいと思いましたが、
今回は、ラファエル前派の物語をメインにしたため、
これ以上文字だけ増えたら(⌒-⌒; )
と、ロセッティの絵画は、このくらいで抑えてみました。
テーマの物語や画家にまつわる話しを読んでみると
絵を観るのが今まで以上に楽しさが沸き
テートブリテン美術館やナショナルギャラリーに
今すぐにでも飛んで行ってまた絵に会いたいなあ。
そんな気持ちになっています。 -
また
企画展に入る前と出てきてからの感想が
まるで違うという不思議な体験をしました。
これまで、ロセッティの絵は、
艶めかしくって気が飛んで(⌒-⌒; )しまいそうで
部屋に飾って観る絵ではないなぁ。とか思い
上野の美術館で出会って以来スルーしていました。
テートブリテン美術館で
等身大の晩年の作品を観、絵の持つ迫力
とでもいうのかパワーに圧倒されました。
帰ってきてラファエル前派の周りの
物語を読むきっかけができ
企画展を観て良かったとしみじみ思いました。 -
テートブリテン美術館
館内
この空間にいろいろのポスターが掲出されています。 -
約束のミュージアムショップ
-
ロセッティの本も山積みされて販売されていました。
-
ロセッティのグッズも
-
ロセッティの本もいろいろ種類も豊富にありました。
-
もちろん、絵葉書も♪
-
最後は、ラファエル前派の影響を受けた画家たちの
中から、私が好きになった作品を並べて
今回の「ダンテ・ゲイブルエル・ロセッティ企画展と
ラファエル前派の画家たち」の旅行記の〆といたします。
『シャロットの乙女』1888年
ジョン・ウイリアムス・ウォーターハウス
テートブリテン美術館 -
『月と眠り』1894年
シメオン・ソロモン
テートブリテン美術館 -
『イカロス哀悼』
1898年
ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー
テートブリテン美術館
太陽に近づき過ぎて墜落死したイカロスを、
ニンフたちが悼んでいる。
イカロスの日焼けした浅黒い肌とニンフたちの
白い肌とコントラストをなしている。
発表後直ぐに国家に買い上げられ、
1900年のパリ万博で金賞を獲得した。 -
『お気に入りの習慣』1909年
アルマ=ダデマ
テートブリテン美術館
美術館の空気感を味わいながら
気に入りの絵の前に立つ
幸せな旅を続けたいと思います。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- kawausoimokoさん 2023/09/03 13:53:02
- 良いものを見せていただき、ありがとうございます。
- 初めまして、
あの街からさんの旅行記をいつも感心しながら、楽しませていただいています。
今回は特に、ヤン・ファン・エイク好きの私には非常に嬉しい内容で、ラファエロ前派の解説も勉強になり、お便りしてしまいました。
"テーマの物語や画家にまつわる話しを読んでみると絵を観るのが今まで以上に楽しさが沸きテートブリテン美術館やナショナルギャラリーに今すぐにでも飛んで行ってまた絵に会いたいなあ。そんな気持ちになっています。"という記述には全くもって同感です。
更に、”テートブリテン美術館で等身大の晩年の作品を観、絵の持つ迫力とでもいうのかパワーに圧倒されました。帰ってきてラファエル前派の周りの物語を読むきっかけができ企画展を観て良かったとしみじみ思いました。”という記述に、おおいに頷きます。
あの街からさんの旅行記をこれからも、楽しみしております。
kawausoimoko 拝
- あの街からさん からの返信 2023/09/03 17:02:41
- RE: 良いものを見せていただき、ありがとうございます。
- kwauso imokoさん こんにちは(⌒▽⌒)
kwausoimokoさんのように、なかなかゆったりとした
スケジュールで回れなくって、ついついスケジュールを
詰めて過ごしてしまいがちです。(⌒-⌒; )
貴重なロンドンの滞在時間に、何の予備知識もなくD.G.R
の企画展に入って、どうかな。と思いながら会場入りした
のですが、常設展とはまた違う展示室のより大人な雰囲気に
のまれながら観ていると、最後はロセッティの晩年の作品の
迫力に圧倒され出てきました。
旅行記で振り返りながら見返したら、あの日の感触が蘇って
また直ぐにでもテートブリテン美術館やナショナルギャラリー
にと叶わぬ思い(⌒-⌒; )を抱いてしまいました。
kwausoimokoさんのロンドン美術館巡り私もドンピシャで
楽しませてもらっています。
せっかくなのでリクエストをしちゃいます♪
もっと沢山見たいなあ。と
ありがとうございます。
あの街から
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