上野・御徒町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
昨年の夏 数日間を東京の2つのホテルで過ごすことにしました。<br />一ヶ所目が湾岸エリアにオープンしてまだ2週間の新しいHotel。<br />ラビスタ東京ベイ。<br />2カ所目がLiveで何度も訪れている東京ドームですがこれまで<br />東京ドームホテルへ宿泊したことがなかったのでこの機会にと。<br />それぞれに2泊ずつ。本を持ち込んでひたすら読書をしようと<br />出かけたのですが、朝食を食べながら窓の外を眺めるとい~い天気で<br />やっぱり日中は、どこかしらに出かけてしまいました。(⌒▽⌒)  <br />ここぞと出かけたのが山種美術館と国立西洋美術館でした。<br /><br />国立西洋美術館は2020年10月19日~2022年4月8日<br />およそ1年半の改修工事を経て<br />2022年4月8日リニューアルオープンしました。<br /><br />リニューアルオープンから3ヶ月経過した頃でしたが<br />コロナ禍で日時指定予約券でいつもの展覧会の混雑もなく<br />ゆったりと鑑賞することができました。<br /><br />旅行日 <2022.7.27>のものです。<br />リニューアルオープン3カ月後、落ち着いた国立西洋美術館へ 。

松方コレクション『クロード・モネ〈睡蓮、柳の反映〉』のたどった路は~ 西洋美術に魅せられて④

95いいね!

2023/05/13 - 2023/05/13

218位(同エリア4581件中)

0

46

あの街から

あの街からさん

昨年の夏 数日間を東京の2つのホテルで過ごすことにしました。
一ヶ所目が湾岸エリアにオープンしてまだ2週間の新しいHotel。
ラビスタ東京ベイ。
2カ所目がLiveで何度も訪れている東京ドームですがこれまで
東京ドームホテルへ宿泊したことがなかったのでこの機会にと。
それぞれに2泊ずつ。本を持ち込んでひたすら読書をしようと
出かけたのですが、朝食を食べながら窓の外を眺めるとい~い天気で
やっぱり日中は、どこかしらに出かけてしまいました。(⌒▽⌒)
ここぞと出かけたのが山種美術館と国立西洋美術館でした。

国立西洋美術館は2020年10月19日~2022年4月8日
およそ1年半の改修工事を経て
2022年4月8日リニューアルオープンしました。

リニューアルオープンから3ヶ月経過した頃でしたが
コロナ禍で日時指定予約券でいつもの展覧会の混雑もなく
ゆったりと鑑賞することができました。

旅行日 <2022.7.27>のものです。
リニューアルオープン3カ月後、落ち着いた国立西洋美術館へ 。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 朝食を食べながら窓の外を眺めると<br />い~い天気。やっぱり日中は、どこかしらに出かけてしまい<br />ました。(⌒▽⌒)  そのいの一番が山種美術館と国立西洋美術館<br />でした。

    朝食を食べながら窓の外を眺めると
    い~い天気。やっぱり日中は、どこかしらに出かけてしまい
    ました。(⌒▽⌒) そのいの一番が山種美術館と国立西洋美術館
    でした。

  • 上野の森は散策にはもってこいのところですね。<br />この日は、さすがに散策するには暑いかな。と思いましたが<br />どうしてどうして<br />気持ちいいくらいでした。(⌒▽⌒)

    上野の森は散策にはもってこいのところですね。
    この日は、さすがに散策するには暑いかな。と思いましたが
    どうしてどうして
    気持ちいいくらいでした。(⌒▽⌒)

  • 『国立西洋美術館』は<br />2016年「ル・コルビュジエの建築作品 <br />~ 近代建築運動への顕著な貢献 ~」<br />の一部として世界遺産に登録されましたが、<br />世界文化遺産に登録された際に<br />過去の何度かの改修工事によって<br />ル・コルビュジエの意図する普遍的価値が<br />減じていると指摘を受け、そこで、今回のリニューアル工事に<br />おいては空調や防水設備とともに、元々のル・コルビュジエの<br />意図していた空間に戻そうと<br />今回のリニューアル工事が行われました。<br />

    『国立西洋美術館』は
    2016年「ル・コルビュジエの建築作品
    ~ 近代建築運動への顕著な貢献 ~」
    の一部として世界遺産に登録されましたが、
    世界文化遺産に登録された際に
    過去の何度かの改修工事によって
    ル・コルビュジエの意図する普遍的価値が
    減じていると指摘を受け、そこで、今回のリニューアル工事に
    おいては空調や防水設備とともに、元々のル・コルビュジエの
    意図していた空間に戻そうと
    今回のリニューアル工事が行われました。

    国立西洋美術館 美術館・博物館

  • 国立西洋美術館の本館はフランス人の建築家ル・コルビュジエの<br />設計によって1959年(昭和34年)に竣工。<br />監理にはル・コルビュジエの弟子であった日本人建築家の<br />板倉準三・前川國男・吉阪隆三があたりました。<br /><br />建築家ル・コルビュジエとは、<br />モダニズム建築の巨匠と言われており<br />よりシンプルに無駄を省き、そして洗練させたスタイルは<br />1925年のパリで開催されたアールデコ博と言われた<br />パリ万国博覧会で装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を展示して<br />アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放ち<br />衝撃的に迎えられました。<br />その後次々と建築された作品は現在まで登録済みの世界遺産が<br />23作品にのぼっています。

    国立西洋美術館の本館はフランス人の建築家ル・コルビュジエの
    設計によって1959年(昭和34年)に竣工。
    監理にはル・コルビュジエの弟子であった日本人建築家の
    板倉準三・前川國男・吉阪隆三があたりました。

    建築家ル・コルビュジエとは、
    モダニズム建築の巨匠と言われており
    よりシンプルに無駄を省き、そして洗練させたスタイルは
    1925年のパリで開催されたアールデコ博と言われた
    パリ万国博覧会で装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を展示して
    アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放ち
    衝撃的に迎えられました。
    その後次々と建築された作品は現在まで登録済みの世界遺産が
    23作品にのぼっています。

  • 設計委員会のメンバーに、ル・コルビュジエが名を連ねている<br />ニューヨークの国際連合は本部ビルの建設にでは<br />コンペを実施せず世界各国の著名な建築家を集めて<br />共同チームを結成し加盟国の推薦により設計委員会が選定された。<br /><br />※ 画像はニューヨーク旅のもの。

    設計委員会のメンバーに、ル・コルビュジエが名を連ねている
    ニューヨークの国際連合は本部ビルの建設にでは
    コンペを実施せず世界各国の著名な建築家を集めて
    共同チームを結成し加盟国の推薦により設計委員会が選定された。

    ※ 画像はニューヨーク旅のもの。

  • 国立西洋美術館リニューアルオープン記念として、<br />ドイツのフォルクヴァング美術館の協力を得<br />自然と人の対話(ダイアローグ)から生まれた近代の芸術の展開をたどる<br />展覧会が開催された。<br />             会期2022.6.4~9.11

    国立西洋美術館リニューアルオープン記念として、
    ドイツのフォルクヴァング美術館の協力を得
    自然と人の対話(ダイアローグ)から生まれた近代の芸術の展開をたどる
    展覧会が開催された。
                 会期2022.6.4~9.11

  • 言葉や文字以上に絵画は見る人の心を揺さぶる。<br />しかし<br />日本の貧しい画学生には優れた西洋画に触れる機会がない。<br />そこで松方幸次郎は川崎造船所社長として隆盛を誇った<br />第1次世界大戦期にロンドンやパリに長期間滞在し、<br />1910年代中頃からの絵画・彫刻・浮世絵等の美術品の<br />収集に取り組み日本にも本格的な西洋美術館の創設をと<br />みんなで共に楽しめる『共楽美術館』を建設しょうと奮闘した。<br />当初、「松方美術館」という案も出ていたが、当の松方は<br />「ケチくせえ」と一蹴したという逸話も残されており<br />「おいは、日本と日本人の為にやるんじゃ」と言い放ち<br />夢はここから動き出したのでした。<br /><br />フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図」<br /><br />

    言葉や文字以上に絵画は見る人の心を揺さぶる。
    しかし
    日本の貧しい画学生には優れた西洋画に触れる機会がない。
    そこで松方幸次郎は川崎造船所社長として隆盛を誇った
    第1次世界大戦期にロンドンやパリに長期間滞在し、
    1910年代中頃からの絵画・彫刻・浮世絵等の美術品の
    収集に取り組み日本にも本格的な西洋美術館の創設をと
    みんなで共に楽しめる『共楽美術館』を建設しょうと奮闘した。
    当初、「松方美術館」という案も出ていたが、当の松方は
    「ケチくせえ」と一蹴したという逸話も残されており
    「おいは、日本と日本人の為にやるんじゃ」と言い放ち
    夢はここから動き出したのでした。

    フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図」

  • クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》 1916年 <br /><br />画面の上半分(金色に見えている部分)が大きく損傷を受けているのです。<br />松方がモネのアトリエで購入した作品の一つとして知られていましたが<br />長らく行方がわからなかった作品でした。<br /><br />戦後、フランス政府が摂取した松方コレクションの<br />作品リストには「破損作品」と記されていることから<br />おそらく、第二次世界大戦の<br />疎開の際に損傷したものとおもわれ日本へ返還された<br />松方コレクションの作品レストから抜け落ち<br />やがて関係者の間でもその存在が忘れられていました。<br />それには訳がありました。<br />戦後、フランス政府に戦時押収物とみなされた多くの松方<br />コレクションの絵画作品の保管庫になった近代美術館<br />(現在のパレ・ド・トーキョー)に移送され1977年<br />迄保管されていました。その中で最も大型で損傷していた<br />モネの〈睡蓮 柳の反映〉とカミーユ・ロッシュの〈装飾<br />パネル〉は例外で近代美術館の通称(鉄のカーテン)と呼ば<br />れていた収蔵庫に保管されることとなりました。<br />急展開をみせたのは<br />1975年パリの近代美術館からポンピドゥー・センターに<br />所蔵作品が移送された際、あの近代美術館の(鉄のカーテン)<br />の収蔵庫の奥でカンヴァスの断片が発見された。当時、モネの<br />作品はルーブル美術館の所蔵範囲に含まれる画家だったことから、<br />ルーブル美術館に運び込まれた。破損が著しくかって国有財産局が<br />摂取リストから削除した作品だった。<br />ルーブル美術館では、「諸国の回廊」と呼ばれた細長い空き部屋に<br />保管された。<br />※この空間は、現在〈モナリザ〉が展示されている窓のない展示室<br />を取り囲んでいる。という。次回、ルーブルを訪れた時にはこの空間<br />を見てきたいと思います。<br />1977年1月2作品が同じ場所にあることが確認されだか、この空間<br />を明け渡す決定もなされた。木枠から外され修復家によって細い筒の上に<br />巻かれ保管されることに。その後、度重なるルーブル美術館の改装工事に<br />より、その保管場所を変えることに。それまでとオランジェリー美術館<br />に設置された〈睡蓮〉の残部だと誤認されていたが2016年、ルーブル<br />の絵画部主任学芸員などによって調査が始まった。先ず古い所在カードを<br />調べることにした。壊れた木枠に「松方4.24×2.00m」と記録されていた。<br />巻かれた状態のカンヴァス残部のカードには、「モネ 睡蓮(断片)」<br />所蔵番号なしと記載されていて、その他に所蔵箇所を何度も移動された<br />ことも書き留められていました。その出処が特定されるに至り、この<br />発見の知らせを受けた国立西洋美術館は、ルーブル美術館及びオルセー<br />美術館の同意のもと2017年12月ついに日本へ戻す解決策を見いだす<br />こととなりました。<br />その後、17年11月 松方幸次郎氏御遺族より<br />寄贈(旧松方コレクション)。<br />大きく上半分が欠損しており修復作業をおよそ1年間かけて実施し、<br />先ごろの「松方コレクション展」で初披露されました。<br /><br /><br />

    イチオシ

    クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》 1916年 

    画面の上半分(金色に見えている部分)が大きく損傷を受けているのです。
    松方がモネのアトリエで購入した作品の一つとして知られていましたが
    長らく行方がわからなかった作品でした。

    戦後、フランス政府が摂取した松方コレクションの
    作品リストには「破損作品」と記されていることから
    おそらく、第二次世界大戦の
    疎開の際に損傷したものとおもわれ日本へ返還された
    松方コレクションの作品レストから抜け落ち
    やがて関係者の間でもその存在が忘れられていました。
    それには訳がありました。
    戦後、フランス政府に戦時押収物とみなされた多くの松方
    コレクションの絵画作品の保管庫になった近代美術館
    (現在のパレ・ド・トーキョー)に移送され1977年
    迄保管されていました。その中で最も大型で損傷していた
    モネの〈睡蓮 柳の反映〉とカミーユ・ロッシュの〈装飾
    パネル〉は例外で近代美術館の通称(鉄のカーテン)と呼ば
    れていた収蔵庫に保管されることとなりました。
    急展開をみせたのは
    1975年パリの近代美術館からポンピドゥー・センターに
    所蔵作品が移送された際、あの近代美術館の(鉄のカーテン)
    の収蔵庫の奥でカンヴァスの断片が発見された。当時、モネの
    作品はルーブル美術館の所蔵範囲に含まれる画家だったことから、
    ルーブル美術館に運び込まれた。破損が著しくかって国有財産局が
    摂取リストから削除した作品だった。
    ルーブル美術館では、「諸国の回廊」と呼ばれた細長い空き部屋に
    保管された。
    ※この空間は、現在〈モナリザ〉が展示されている窓のない展示室
    を取り囲んでいる。という。次回、ルーブルを訪れた時にはこの空間
    を見てきたいと思います。
    1977年1月2作品が同じ場所にあることが確認されだか、この空間
    を明け渡す決定もなされた。木枠から外され修復家によって細い筒の上に
    巻かれ保管されることに。その後、度重なるルーブル美術館の改装工事に
    より、その保管場所を変えることに。それまでとオランジェリー美術館
    に設置された〈睡蓮〉の残部だと誤認されていたが2016年、ルーブル
    の絵画部主任学芸員などによって調査が始まった。先ず古い所在カードを
    調べることにした。壊れた木枠に「松方4.24×2.00m」と記録されていた。
    巻かれた状態のカンヴァス残部のカードには、「モネ 睡蓮(断片)」
    所蔵番号なしと記載されていて、その他に所蔵箇所を何度も移動された
    ことも書き留められていました。その出処が特定されるに至り、この
    発見の知らせを受けた国立西洋美術館は、ルーブル美術館及びオルセー
    美術館の同意のもと2017年12月ついに日本へ戻す解決策を見いだす
    こととなりました。
    その後、17年11月 松方幸次郎氏御遺族より
    寄贈(旧松方コレクション)。
    大きく上半分が欠損しており修復作業をおよそ1年間かけて実施し、
    先ごろの「松方コレクション展」で初披露されました。


  • クロード・モネ<br />〈波立つプールヴィルの海〉 1897年<br /><br />モネが生涯を通して好んだモチーフの1つ。<br />故郷ノルマンディの空と海。<br />この作品では、印象派の筆触から離れて<br />薄塗り自由奔放な曲線の交差に白色を厚塗り<br />を重ねてダイナミックに描かれていました。

    クロード・モネ
    〈波立つプールヴィルの海〉 1897年

    モネが生涯を通して好んだモチーフの1つ。
    故郷ノルマンディの空と海。
    この作品では、印象派の筆触から離れて
    薄塗り自由奔放な曲線の交差に白色を厚塗り
    を重ねてダイナミックに描かれていました。

  • クロード・モネ<br />〈雪のアルジャントゥイユ〉  1875年<br /><br />夏の舟遊びとは対照的な冬景色。<br />寒々しい冬の街は<br />パリから鉄道でほど近い距離にあったセーヌ河沿いの町<br />アルジャントゥイユは、日曜ともなればボート遊びの行楽客が<br />集う典型的なパリの近郊都市であった。<br />モネは、妻カミーユ、生まれたばかりの長男ジャンと共に<br />1871年から78年までこの地に滞在し創作活動に勤しんだ<br />この7年間にわたるこのアルジャントゥイユ時代は<br />印象主義者モネにとっての様式の完成期ともいえる。<br />

    イチオシ

    クロード・モネ
    〈雪のアルジャントゥイユ〉  1875年

    夏の舟遊びとは対照的な冬景色。
    寒々しい冬の街は
    パリから鉄道でほど近い距離にあったセーヌ河沿いの町
    アルジャントゥイユは、日曜ともなればボート遊びの行楽客が
    集う典型的なパリの近郊都市であった。
    モネは、妻カミーユ、生まれたばかりの長男ジャンと共に
    1871年から78年までこの地に滞在し創作活動に勤しんだ
    この7年間にわたるこのアルジャントゥイユ時代は
    印象主義者モネにとっての様式の完成期ともいえる。

  • クロード・モネ<br />〈舟遊び〉 1887年<br /><br />最初の妻カミーユを亡くしたモネは、<br />1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することに <br />なるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、<br />心機一転ジヴェルニーへ移り住みます。<br />モネは、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で<br />舟遊びを楽しむ家族の情景を繰り返し描きます。<br />舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。<br />

    クロード・モネ
    〈舟遊び〉 1887年

    最初の妻カミーユを亡くしたモネは、
    1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することに 
    なるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、
    心機一転ジヴェルニーへ移り住みます。
    モネは、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で
    舟遊びを楽しむ家族の情景を繰り返し描きます。
    舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。

  • クロード・モネ<br />〈陽を浴びるポプラ並木〉1891年<br /><br />光との戯れの情景を何よりも深く追求したモネは、<br />同一のモティーフを朝、白昼、夕方時刻を変えて、<br />刻々と変化してゆく光の効果の下に<br />描いた「連作」をいくつも残している。<br />「積みわら」、「ルーアン大聖堂」そして晩年の<br />「睡蓮」などが挙げられる。<br /><br />連作となった「ポプラ並木」は、ジヴェルニーの家の近く、<br />エプト川の岸に生えるポプラ並木に魅了され、<br />彼は所有する小さなボートから眺め描いた。<br />

    クロード・モネ
    〈陽を浴びるポプラ並木〉1891年

    光との戯れの情景を何よりも深く追求したモネは、
    同一のモティーフを朝、白昼、夕方時刻を変えて、
    刻々と変化してゆく光の効果の下に
    描いた「連作」をいくつも残している。
    「積みわら」、「ルーアン大聖堂」そして晩年の
    「睡蓮」などが挙げられる。

    連作となった「ポプラ並木」は、ジヴェルニーの家の近く、
    エプト川の岸に生えるポプラ並木に魅了され、
    彼は所有する小さなボートから眺め描いた。

  • クロード・モネ<br />〈睡蓮〉1916年<br /><br />松方幸次郎は、1921年少なくとも<br />2度にわたって前述のモネの家(アトリエ)を<br />訪れ多数の作品を購入する。<br />その中に〈睡蓮〉の関連作品が2点含まれていた。<br /><br />この連作を制作する過程で大量の絵が描かれたが<br />未完の構想をアトリエの外へ出すことを嫌った<br />モネは、売りに出さないばかりか、気に入らない<br />ものは破棄してしまっていた。とも。<br /><br />この作品が、そのうちの1作である。<br />このように〈睡蓮〉をアトリエの外に出すことを<br />良しとしないモネを口説き落とし<br />作品を買い付けたのは<br />推測するに松方幸次郎の絵に対する<br />リスペクトや情熱がモネの心を動かしたのだろうと思いました。<br />

    クロード・モネ
    〈睡蓮〉1916年

    松方幸次郎は、1921年少なくとも
    2度にわたって前述のモネの家(アトリエ)を
    訪れ多数の作品を購入する。
    その中に〈睡蓮〉の関連作品が2点含まれていた。

    この連作を制作する過程で大量の絵が描かれたが
    未完の構想をアトリエの外へ出すことを嫌った
    モネは、売りに出さないばかりか、気に入らない
    ものは破棄してしまっていた。とも。

    この作品が、そのうちの1作である。
    このように〈睡蓮〉をアトリエの外に出すことを
    良しとしないモネを口説き落とし
    作品を買い付けたのは
    推測するに松方幸次郎の絵に対する
    リスペクトや情熱がモネの心を動かしたのだろうと思いました。

  • クロード・モネ<br />〈セーヌ川の朝〉 1898年<br /><br />シリーズ「セーヌ河の朝」は<br />パリ北西80km程の地点にある農村<ジヴェルニー>に住んでいた<br />1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起き<br />(午前3時半に家を出て制作現場へ向かった。との証言もある。)<br />自宅近郊のセーヌ川とエプト川の合流地点まで小舟で乗り付け<br />その夜明け前からの光景を描き連作を残した。<br />

    クロード・モネ
    〈セーヌ川の朝〉 1898年

    シリーズ「セーヌ河の朝」は
    パリ北西80km程の地点にある農村<ジヴェルニー>に住んでいた
    1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起き
    (午前3時半に家を出て制作現場へ向かった。との証言もある。)
    自宅近郊のセーヌ川とエプト川の合流地点まで小舟で乗り付け
    その夜明け前からの光景を描き連作を残した。

  • クロード・モネ<br />〈黄色いアイリス〉1914年~17年頃<br /><br />花瓶に生けられたゴッホの「アイリス」を<br />メトロポリタン美術館で一目観て以来<br />アイリスのを花屋さんの店先に出ると<br />買ってきてしまいます。笑<br /><br />モネのアイリスは、庭園にぐ~んと<br />光を目指してのびのびと描かれています。<br />アイリス もうそれだけで気に入りに。笑<br />

    クロード・モネ
    〈黄色いアイリス〉1914年~17年頃

    花瓶に生けられたゴッホの「アイリス」を
    メトロポリタン美術館で一目観て以来
    アイリスのを花屋さんの店先に出ると
    買ってきてしまいます。笑

    モネのアイリスは、庭園にぐ~んと
    光を目指してのびのびと描かれています。
    アイリス もうそれだけで気に入りに。笑

  • ジャン=バディスト=カミーユ・コロー<br />〈ナポリ浜の思い出〉 1870~72年<br /><br />この作品を<br />『目に映る風景を若い日への郷愁という<br />心のフィルターを通して描いた結果<br />画面には詩情が満ちている』と<br />とある解説者が言いあてていて<br />コローの穏やかで明るい作風がよく現れているなぁ。<br />と、大きな作品を目にしました。<br />

    ジャン=バディスト=カミーユ・コロー
    〈ナポリ浜の思い出〉 1870~72年

    この作品を
    『目に映る風景を若い日への郷愁という
    心のフィルターを通して描いた結果
    画面には詩情が満ちている』と
    とある解説者が言いあてていて
    コローの穏やかで明るい作風がよく現れているなぁ。
    と、大きな作品を目にしました。

  • エドゥアール・マネ<br />〈ブラウン氏の肖像〉 1879年頃<br /><br />ルネサンス以来のアカデミックな肖像画法<br />によれば、人物にもっともハイライトが<br />当たるのですが、明暗のグラデーションが<br />ほとんどなく、背景にも奥行きがあまり<br />感じられません。<br />戸外では強い光が身体一面に当たり陰影を<br />なくして、周りの空間も奥行きよりも<br />強い光と影のコントラストを強調した<br />マネが見た実際の見え方に従って忠実に描いた<br />革新的な作品です。

    エドゥアール・マネ
    〈ブラウン氏の肖像〉 1879年頃

    ルネサンス以来のアカデミックな肖像画法
    によれば、人物にもっともハイライトが
    当たるのですが、明暗のグラデーションが
    ほとんどなく、背景にも奥行きがあまり
    感じられません。
    戸外では強い光が身体一面に当たり陰影を
    なくして、周りの空間も奥行きよりも
    強い光と影のコントラストを強調した
    マネが見た実際の見え方に従って忠実に描いた
    革新的な作品です。

  • マックス・リーバーマン<br />〈ラーレンの通学路〉 1898年<br /><br />ドイツの画家マックス・リーバーマンは、ベルリン分離派の創設者です。<br />1899年に設立された分離派の理念は、旧来の伝統的な芸術からの<br />脱却・分離を目指すもので、リーバーマンは、19世紀末に台頭した<br />印象派に傾倒し、ドイツ印象派の画家として名声を得ました。<br />ドイツの画家でありながら40年間にわたって、<br />夏の期間オランダで過ごしたリーバーマン。<br />ラーレン地方の森の中の寄宿舎は、まるでクラシカルな名画のワンシーンのよう。<br />木漏れ日がとても美しい描写で印象派の表現を観ることができます。<br /><br />

    マックス・リーバーマン
    〈ラーレンの通学路〉 1898年

    ドイツの画家マックス・リーバーマンは、ベルリン分離派の創設者です。
    1899年に設立された分離派の理念は、旧来の伝統的な芸術からの
    脱却・分離を目指すもので、リーバーマンは、19世紀末に台頭した
    印象派に傾倒し、ドイツ印象派の画家として名声を得ました。
    ドイツの画家でありながら40年間にわたって、
    夏の期間オランダで過ごしたリーバーマン。
    ラーレン地方の森の中の寄宿舎は、まるでクラシカルな名画のワンシーンのよう。
    木漏れ日がとても美しい描写で印象派の表現を観ることができます。

  • カール・グスタフ・カールス<br />〈高き山々〉<br /> (カースパー・ダーヴィト・フリードリヒ<br />  にもとづく模写) 1824年頃<br /><br />荘厳な山の風景 山好きにはたまらない作品。

    カール・グスタフ・カールス
    〈高き山々〉
     (カースパー・ダーヴィト・フリードリヒ
      にもとづく模写) 1824年頃

    荘厳な山の風景 山好きにはたまらない作品。

  • ギュスターヴ・クールベ<br />〈波〉 1870年<br /><br />画家が個人の内面やものの見方を作品に反映させる<br />ことをしだした丁度その頃、フランスでは、大きな<br />社会変革期を迎えていて、貴族社会からブルジョワへと<br />権力が移行。それに伴い絵画の主題はわかりやすいもの<br />が好まれるようになります。それが、ありのままを描く<br />という写実主義が生まれました。都市化も進み自然から<br />隔離されるようになった人々が、田園風景に憧れ風景画の<br />需要が高まります。そして、時代を牽引するジャンルと<br />なってゆきます。<br />自らの感覚に絶対の重きを置く画家が、風景に対しても<br />その眼差しを向けるようになります。<br />この波に乗った(⌒-⌒; )形なのか クールベの〈波〉。<br /><br />フランスの山岳地帯に育ったクールベにとって、長いこと未知の世界であった海。<br />彼は1860年代後半からこの雄大なモチーフに本格的に取り組むようになります。 <br />1869年の夏、ノルマンディー地方の小さな町、エトルタに滞在したクールベは<br />「目に見えるものしか描かない」と豪語リアリズムを掲げた<br />クールベは写実に徹しています。<br />変わりゆく空の下で荒れ狂う嵐と穏やかな波、<br />そして白亜の断崖と薄明かりが、<br />クールベの新たな主題となりました。

    ギュスターヴ・クールベ
    〈波〉 1870年

    画家が個人の内面やものの見方を作品に反映させる
    ことをしだした丁度その頃、フランスでは、大きな
    社会変革期を迎えていて、貴族社会からブルジョワへと
    権力が移行。それに伴い絵画の主題はわかりやすいもの
    が好まれるようになります。それが、ありのままを描く
    という写実主義が生まれました。都市化も進み自然から
    隔離されるようになった人々が、田園風景に憧れ風景画の
    需要が高まります。そして、時代を牽引するジャンルと
    なってゆきます。
    自らの感覚に絶対の重きを置く画家が、風景に対しても
    その眼差しを向けるようになります。
    この波に乗った(⌒-⌒; )形なのか クールベの〈波〉。

    フランスの山岳地帯に育ったクールベにとって、長いこと未知の世界であった海。
    彼は1860年代後半からこの雄大なモチーフに本格的に取り組むようになります。
    1869年の夏、ノルマンディー地方の小さな町、エトルタに滞在したクールベは
    「目に見えるものしか描かない」と豪語リアリズムを掲げた
    クールベは写実に徹しています。
    変わりゆく空の下で荒れ狂う嵐と穏やかな波、
    そして白亜の断崖と薄明かりが、
    クールベの新たな主題となりました。

  • ギュスターヴ・クールベ<br />〈波〉 1870年<br /><br />こちらの&lt;波&gt;は、青空がのぞいていて色彩のコントラストが際立っています。<br />相対する天候もあって2作品の色彩やコントラストにも相違があり<br />写実にこだわりつつも、そこにはクールベの感性が感じられます。<br /><br />

    ギュスターヴ・クールベ
    〈波〉 1870年

    こちらの<波>は、青空がのぞいていて色彩のコントラストが際立っています。
    相対する天候もあって2作品の色彩やコントラストにも相違があり
    写実にこだわりつつも、そこにはクールベの感性が感じられます。

  • テオドール・シャセリオー<br />〈アクタイオンに驚くディアナ〉 1840<br /><br />女神達は水浴びをする光景をのぞき見た狩人のアクタイオンは罰として<br />鹿に変身させられ、なおかつ猟犬に襲われている図とのことですが<br />よく見てみると画面左奥には、黒い大きな木の後方に鹿頭の人間らしき怪物が<br />犬どもと戯れている光景が描かれています。<br />青い衣服を取ろうとしている女性の姿や、<br />赤い衣服で裸体を隠そうとしている女性が<br />女神達が鹿頭の方を向いてるのですね。<br />

    テオドール・シャセリオー
    〈アクタイオンに驚くディアナ〉 1840

    女神達は水浴びをする光景をのぞき見た狩人のアクタイオンは罰として
    鹿に変身させられ、なおかつ猟犬に襲われている図とのことですが
    よく見てみると画面左奥には、黒い大きな木の後方に鹿頭の人間らしき怪物が
    犬どもと戯れている光景が描かれています。
    青い衣服を取ろうとしている女性の姿や、
    赤い衣服で裸体を隠そうとしている女性が
    女神達が鹿頭の方を向いてるのですね。

  • ポール・ランソン<br />〈ジキタリス〉 1899年<br /><br />ランソンは、装飾的な画面を得意としました。<br />タイトルのジギタリスとは、前方右手に伸びる<br />釣鐘状のたくさんの薄紫の花をつけた植物で<br />掛け軸にも似た縦長の画面に描かれたこの作品は、<br />いわゆる当時の日本趣味(ジャポニスム)を反映していますが、<br />同時に、装飾性・平面性など、画面の二次元的特性を重視した<br />ナビ派の造形手法に基づいています。<br /><br /><br />

    ポール・ランソン
    〈ジキタリス〉 1899年

    ランソンは、装飾的な画面を得意としました。
    タイトルのジギタリスとは、前方右手に伸びる
    釣鐘状のたくさんの薄紫の花をつけた植物で
    掛け軸にも似た縦長の画面に描かれたこの作品は、
    いわゆる当時の日本趣味(ジャポニスム)を反映していますが、
    同時に、装飾性・平面性など、画面の二次元的特性を重視した
    ナビ派の造形手法に基づいています。


  • ポール・ゴーガン<br />〈海辺に立つブルターニュの少女たち> 1889年<br /><br />ゴーガンは目には見えない心象風景を描こうとしました。<br />この絵の子供たちに「野生」を感じたといっています。<br />ブルターニュ地方はフランスの中でも近代化が遅れ、<br />古い習慣が残っていて、ゴーガンの心の中にあった野生のイメージを<br />子供たちに重ね合わせました。<br />色彩や線も素朴で荒らしくすることで野生を表現したといいます。<br /><br />

    ポール・ゴーガン
    〈海辺に立つブルターニュの少女たち> 1889年

    ゴーガンは目には見えない心象風景を描こうとしました。
    この絵の子供たちに「野生」を感じたといっています。
    ブルターニュ地方はフランスの中でも近代化が遅れ、
    古い習慣が残っていて、ゴーガンの心の中にあった野生のイメージを
    子供たちに重ね合わせました。
    色彩や線も素朴で荒らしくすることで野生を表現したといいます。

  • ポール・ゴーガン<br />〈扇を持っ娘〉  1902年<br /><br /><ポール・ゴーガンの生涯><br />ゴーガンは、幼少期に一家でペルーに渡り、<br />1871年にパリに戻ると<br />パリ証券取引所で株の仲買人としての仕事を始めた。<br />その後11年間にわたり実業家として成功していた。<br />1873年、<br />デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚。<br />5人の子供が授かった。<br />この頃から、余暇に絵を描くようになり<br />1879年には3万フランの年収を得るとともに、<br />絵画取引でも同程度の収入を得ていた。<br />彼が暮らしていたパリ9区には、<br />印象派の画家たちが集まるカフェも多く<br />画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりして<br />暮らしていた。<br /><br />1882年パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮。<br />ゴーギャンの収入は急減し、その後の2年間、徐々に絵画を<br />本業とすることを考えるようになった。<br />1884年家族とともに生活費の安いルアーンに移り、<br />生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、<br />その年のうちに、妻メットはコペンハーゲンへ戻っていった。<br />ゴーガンも後を追ってコペンハーゲンで暮らし始め<br />外交販売をしたが言葉の壁にも阻まれ失敗。<br />妻メットが、フランス語の授業を<br />持って家計を 支える状態であった。<br />ゴーギャンは妻の求めを受けて<br />1885年6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。<br />画家として生計を立てようと思ったが<br />現実は厳しく、困窮して雑多な雇われ仕事をしながら<br />絵を描く生活が始まった。<br /><br />1886年ブルターニュ地方のポン=タヴァンに移り、<br />最初は生活費が安いという理由で移ったのだったが<br />若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。<br />その中の1人シャルル・ラヴァルとは<br />後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる。<br /><br />イギリスのイラストレーターのコールデコットが<br />ブルターニュを描いた作品が、ブルターニュで暮らしていた<br />画家たちの想像力を刺激し<br />ゴーギャンもまた、ブルターニュの少女のスケッチで、<br />意識的にコールデコットの作品を模倣している。<br />その結果、コールデコットの素朴さを取り入れることで、<br />初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている。<br />ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が<br />余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。<br /><br />1887年ゴーガンは、友人となったラヴァルと、<br />パナマ(カリブ海の島マルティニーク)へおよそ半年滞在した。<br />フランスに戻り<br />パナマで描いた作品を絵具商が展示しているのを観た<br />ゴッホ兄弟は感銘を受けゴーギャンと親しくなり、<br />手紙で芸術論を戦わせる等交流を深めていった。<br />1888年10月23日アルルに到着。<br />ゴッホと共同生活を始めた。<br />9週間ゴッホと暮らしたが2人の芸術観は<br />まったく噛み合わず、関係は間もなく悪化、<br />ゴーギャンはアルルを後にした。<br /><br />1891年タヒチに渡り、<br />文明からかけ離れた環境から多くの<br />インスピレーションを受けた。<br />一度フランスへ戻るも、<br />1895年9月再びタヒチへ向かいその後<br />6年間のほとんどを画家コミュニティで暮らした。<br />徐々に絵の売上げも増加し、<br />友人や支持者の支援もあって生活の基盤は安定した。<br /><br />その暮らしの中でゴーガンは<br />健康を害し何度も入退院をくりかえしていた。<br />それは、フランス滞在時、<br />酔ったうえ喧嘩をして足首を砕く大怪我をし、<br />この時の骨折も完治せずにいて<br />その治療に用いられたヒ素が余計に<br />健康回復を遠ざけていた。<br />また、ゴーガンは湿疹も訴えていたが、<br />現在医学では、これは梅毒の<br />進行を示すものと推測さる。<br /><br />やがて、フランス領であるタヒチには満足せず、<br />より原始的な環境を求めて、<br />1901年タヒチの北東に位置する<br />ヒバ・オア島に渡り暮らし始めたが<br />そこでの壮絶な暮らしは<br />ゴーガンの絵を愛するファンの皆様には<br />知らせずにおきたいと割愛する(⌒-⌒; )ことにしました。<br />1903年 死は、5月8日の朝、突然訪れた。<br />

    ポール・ゴーガン
    〈扇を持っ娘〉  1902年

    <ポール・ゴーガンの生涯>
    ゴーガンは、幼少期に一家でペルーに渡り、
    1871年にパリに戻ると
    パリ証券取引所で株の仲買人としての仕事を始めた。
    その後11年間にわたり実業家として成功していた。
    1873年、
    デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚。
    5人の子供が授かった。
    この頃から、余暇に絵を描くようになり
    1879年には3万フランの年収を得るとともに、
    絵画取引でも同程度の収入を得ていた。
    彼が暮らしていたパリ9区には、
    印象派の画家たちが集まるカフェも多く
    画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりして
    暮らしていた。

    1882年パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮。
    ゴーギャンの収入は急減し、その後の2年間、徐々に絵画を
    本業とすることを考えるようになった。
    1884年家族とともに生活費の安いルアーンに移り、
    生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、
    その年のうちに、妻メットはコペンハーゲンへ戻っていった。
    ゴーガンも後を追ってコペンハーゲンで暮らし始め
    外交販売をしたが言葉の壁にも阻まれ失敗。
    妻メットが、フランス語の授業を
    持って家計を 支える状態であった。
    ゴーギャンは妻の求めを受けて
    1885年6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。
    画家として生計を立てようと思ったが
    現実は厳しく、困窮して雑多な雇われ仕事をしながら
    絵を描く生活が始まった。

    1886年ブルターニュ地方のポン=タヴァンに移り、
    最初は生活費が安いという理由で移ったのだったが
    若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。
    その中の1人シャルル・ラヴァルとは
    後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる。

    イギリスのイラストレーターのコールデコットが
    ブルターニュを描いた作品が、ブルターニュで暮らしていた
    画家たちの想像力を刺激し
    ゴーギャンもまた、ブルターニュの少女のスケッチで、
    意識的にコールデコットの作品を模倣している。
    その結果、コールデコットの素朴さを取り入れることで、
    初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている。
    ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が
    余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。

    1887年ゴーガンは、友人となったラヴァルと、
    パナマ(カリブ海の島マルティニーク)へおよそ半年滞在した。
    フランスに戻り
    パナマで描いた作品を絵具商が展示しているのを観た
    ゴッホ兄弟は感銘を受けゴーギャンと親しくなり、
    手紙で芸術論を戦わせる等交流を深めていった。
    1888年10月23日アルルに到着。
    ゴッホと共同生活を始めた。
    9週間ゴッホと暮らしたが2人の芸術観は
    まったく噛み合わず、関係は間もなく悪化、
    ゴーギャンはアルルを後にした。

    1891年タヒチに渡り、
    文明からかけ離れた環境から多くの
    インスピレーションを受けた。
    一度フランスへ戻るも、
    1895年9月再びタヒチへ向かいその後
    6年間のほとんどを画家コミュニティで暮らした。
    徐々に絵の売上げも増加し、
    友人や支持者の支援もあって生活の基盤は安定した。

    その暮らしの中でゴーガンは
    健康を害し何度も入退院をくりかえしていた。
    それは、フランス滞在時、
    酔ったうえ喧嘩をして足首を砕く大怪我をし、
    この時の骨折も完治せずにいて
    その治療に用いられたヒ素が余計に
    健康回復を遠ざけていた。
    また、ゴーガンは湿疹も訴えていたが、
    現在医学では、これは梅毒の
    進行を示すものと推測さる。

    やがて、フランス領であるタヒチには満足せず、
    より原始的な環境を求めて、
    1901年タヒチの北東に位置する
    ヒバ・オア島に渡り暮らし始めたが
    そこでの壮絶な暮らしは
    ゴーガンの絵を愛するファンの皆様には
    知らせずにおきたいと割愛する(⌒-⌒; )ことにしました。
    1903年 死は、5月8日の朝、突然訪れた。

  • ポール・セザンヌ<br />〈ポントワーズの橋と堰〉 1881年<br /><br />セザンヌの物語は<br />またの機会にしましょう。

    ポール・セザンヌ
    〈ポントワーズの橋と堰〉 1881年

    セザンヌの物語は
    またの機会にしましょう。

  • ポール・シャック<br />〈ポン・デ・ザール〉1912年~13年

    ポール・シャック
    〈ポン・デ・ザール〉1912年~13年

  • クスティアン・ロールフス<br />〈森の中〉 1901年

    クスティアン・ロールフス
    〈森の中〉 1901年

  • テオ・ファン・レイセルベル<br />〈ブローニュ=シュル=メールの月光〉1900年

    イチオシ

    テオ・ファン・レイセルベル
    〈ブローニュ=シュル=メールの月光〉1900年

  • アクセリ・ガッレン=カッレラ<br />〈ケイテレ湖〉1906年

    アクセリ・ガッレン=カッレラ
    〈ケイテレ湖〉1906年

  • ジャン=フランソワ・ミレー<br />〈春(ダニエルとクロエ)〉 1865年

    ジャン=フランソワ・ミレー
    〈春(ダニエルとクロエ)〉 1865年

  • ムンク<br />〈眼鏡をかけた自画像〉 1922年

    ムンク
    〈眼鏡をかけた自画像〉 1922年

  • ムンクの素描<br />  1908年~1909年

    ムンクの素描
      1908年~1909年

  • ムンクの素描<br />  1908年~1909年

    ムンクの素描
      1908年~1909年

  • ジョヴァン・セガンティーニ<br />〈羊の剪毛〉<br /><br />村人たちの季節のルーティンも<br />この作品の前に立つと<br />村人たちの幸せな日常が<br />目の前に広がってゆき<br />こちらも幸せな気持ちになる<br />理屈抜きで今回の企画展で<br />1番好きな作品となりました。

    イチオシ

    ジョヴァン・セガンティーニ
    〈羊の剪毛〉

    村人たちの季節のルーティンも
    この作品の前に立つと
    村人たちの幸せな日常が
    目の前に広がってゆき
    こちらも幸せな気持ちになる
    理屈抜きで今回の企画展で
    1番好きな作品となりました。

  • カミーユ・ピサロ<br />〈収穫〉 1882年

    イチオシ

    カミーユ・ピサロ
    〈収穫〉 1882年

  • 最後は、愛を込めて、あえてフルネームで書かずに<br />”ゴッホ”の作品としましょう。<br /><br />今回の企画展のポスターにも使われておりました。<br />ゴッホが晩年に取り組んだ風景画の代表作<br /><刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑> 1889年<br />ドイツより初来日している点も見どころの1つでした。<br /><br /><br /> 

    最後は、愛を込めて、あえてフルネームで書かずに
    ”ゴッホ”の作品としましょう。

    今回の企画展のポスターにも使われておりました。
    ゴッホが晩年に取り組んだ風景画の代表作
    <刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑> 1889年
    ドイツより初来日している点も見どころの1つでした。


     

  • ゴッホ<br />〈バラ〉1889年

    ゴッホ
    〈バラ〉1889年

  • 会期中には〈講演会〉も開かれ<br />毎回、先着500名 無料で行われた。<br /><br />「20世紀美術における「自然」」 <br />   田中正之(国立西洋美術館長)     <br /><br />「自然と人のダイアローグ」<br />陳岡めぐみ(国立西洋美術館主任研究員)<br /><br />「ドイツ・ロマン主義の風景画と自然」<br />仲間裕子(立命館大学名誉教授/ハーバード大学客員研究員)<br /><br />私は残念ながら日程が合わず聴けずじまいでした。

    会期中には〈講演会〉も開かれ
    毎回、先着500名 無料で行われた。

    「20世紀美術における「自然」」 
       田中正之(国立西洋美術館長)     

    「自然と人のダイアローグ」
    陳岡めぐみ(国立西洋美術館主任研究員)

    「ドイツ・ロマン主義の風景画と自然」
    仲間裕子(立命館大学名誉教授/ハーバード大学客員研究員)

    私は残念ながら日程が合わず聴けずじまいでした。

  • かって、美術館や劇場のポスターを買ってきては<br />廊下やトイレに貼っては楽しんでいたなぁ。

    かって、美術館や劇場のポスターを買ってきては
    廊下やトイレに貼っては楽しんでいたなぁ。

  • ポスターを見るのも楽しいもの。

    ポスターを見るのも楽しいもの。

  • 美術館のミュージアムショップも<br />楽しみな時間です。<br /><br />

    美術館のミュージアムショップも
    楽しみな時間です。

  • 美術館や博物館の催し物を<br />見るのも心躍るものです。

    美術館や博物館の催し物を
    見るのも心躍るものです。

  • 上野の森はいつも気持ちの良い散策路。<br />音楽や美術そして動物園と人々を惹きつけるところですね。

    上野の森はいつも気持ちの良い散策路。
    音楽や美術そして動物園と人々を惹きつけるところですね。

  • 上野の森 <br />いつも心豊かにしてくれるところです。

    上野の森 
    いつも心豊かにしてくれるところです。

  • クロード・モネ〈睡蓮 柳の反映〉<br />が日本に迎入れられた逸話 いかがでしたか。<br /><br />この作品を松方幸次郎が買い受けた際のエピソード(⌒▽⌒)が<br />微笑ましく今回の〆に いま一度(⌒▽⌒)<br />

    クロード・モネ〈睡蓮 柳の反映〉
    が日本に迎入れられた逸話 いかがでしたか。

    この作品を松方幸次郎が買い受けた際のエピソード(⌒▽⌒)が
    微笑ましく今回の〆に いま一度(⌒▽⌒)

95いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP